隣で食べてもいい?」
  その声を小波は背後から聞いた。振り向くと、そこには七島麻美の姿があった。彼女はピンク色の弁当箱を抱えている。小波は食べ終わったパンの袋をビニール袋に片付けた。そしてベンチにできたスペースを指差した。
 「ここ、座っていいぞ」
 「ありがとう」
  えへへ、と笑いながら麻美は座った、鼻歌を歌いながら包みを広げ、弁当箱のふたを開けた。小波は弁当の中身を覗いた。箱が二つあり、主食と副食が分かれている二重のタイプだ。一つ目の箱に海苔の乗った白米、二つ目の箱にレタスやプチトマトなどの野菜と卵焼きが入っている。彼女の弁当は、男子のものと違って色とりどりだった。
 「麻美の弁当、何だか女の子らしいな」
 「失礼だなあ。自分の彼女に対してそんなこと言う?」麻美は小波を睨みつけた。
 「冗談だよ。本気にするな」
  麻美はふうーっと溜息をつくと、やがて元の表情に戻した。それから小波のごみが入ったビニール袋の中を見た。キーマカレーパンとチョコチップメロンパンの袋が入っていた。どれも小波が校内の購買で買ったものだった。
 「あんまり良いものを食べてないみたいだね」
 「うん、まあ」
  小波は言葉を濁した。コーヒー牛乳のパックにストローを挿した。
 「親が共働きで朝早くから出かけちゃうんだよ。それに俺は朝に強いわけじゃないしな。だから弁当が作られないんだ」
 「でも野球選手でしょ? ちゃんとしたものを食べなきゃ駄目だよ。筋肉つかなくてホームラン打てないよ。はい」
  麻美は弁当の中のウインナーに箸をさし、小波に差し出した。小波は彼女に手の平を向けて遠慮した。お腹がいっぱいでもう何も入りきらなかった。彼女は口先を尖らせると、仕方なくウインナーを口に入れた。
 「それにしても、やっぱり寒いよね」
 「流石にカーディガンとスカートだけだとな」
  小波は麻美の格好を見て苦笑した。女子の制服は男子のものに比べて肌の露出の度合いが高い。
 「そうだね。この時期はちょっと辛いかな、って思うよ」
  麻美は食べ終えた弁当を膝元に置いた。そして両手で口を覆うとドームを作った。ふうーっと息を吹きかける。隙間から漏れた白い息が空気と混じり、やがて溶けていった。
  中庭では二人を除いて、他の人の姿は見えなかった。十二月の下旬に差しかかり、冬の寒さは一層厳しくなっていた。誰も好んで外に出ようとはしないだろうと小波は思った。
 「こういうときって、体があったまるものとか食べたいよね?」
 「そうだな」
  小波はコーヒー牛乳を最後の一滴まで飲み干し、空いたパックをビニール袋の中へ入れた。
 「この時期は温かくておいしいものがいっぱいあるよな。鍋とかいくらでも食べられる気がする」
 「だったら」
  よいしょ、と麻美は立ち上がり、小波の前に移動した。上から見下ろすような格好だ。
 「私の家に来ない?」
 「麻美の家に?」小波は首をかしげた。
 「そう、私の家」と麻美は言った。
 「親は昨日からどこかへ旅行しに出かけてるし、うるさく言う人はいないよ?」
 「それはいいとして、行ってどうするんだよ」
 「体があったまるものを食べたいんだよね?」
  麻美は胸の辺りで両方の人差し指を合わせて押し合った。本当に伝えたいことを伝えられないときに見せる彼女の癖だった。
 「大方」と小波は言った。
 「手料理でも振舞おうってことか?」
  この発言は冗談のつもりだった。日常生活における麻美の不器用さを把握している。いくつかの選択肢が頭の中を過ぎったが、一番低い可能性のものを選んだのだった。
  しかしその選択肢は意外にも正解だった。それは麻美が左右に目を泳がせた後、恥ずかしそうに頷いたからだ。小波は言葉を発する代わりに唇を濡らした。純粋に驚愕したのだった。
 「料理ぐらい作れるよ。だって今日のお弁当も手作りだよ」
 「意外だな。付き合い始めてから五ヶ月経って、新たな一面を見つけたよ」
 「それで急だけど……土曜日はどうかな?」
 「本当に急だな。明日じゃないか」
  小波は頭の中で検討した。午前中は野球部の練習があるが、午後は何も予定を入れていなかった。自主トレーニングなどを行わなければ暇になる。麻美の申し出を断るような理由は無い。
 「多分だけど大丈夫だと思う」
 「じゃあ、明日ね」
  そこで切りが良くチャイムが鳴った。小波は麻美と取りとめのない話をしながら教室へ戻った。


  麻美と出会ったのは高校に入学してから間もない頃だった。土砂降りの雨が降った午後のことだ。小波は校内に設けられているトレーニングルームを訪れた。雨などの理由でグラウンドが使えない場合はウェイトトレーニングを行うようにコーチに言われている。そのため自由になれる日はほとんどない。
  あらかじめトレーニングの内容は決められていた。そのとき小波はベンチプレスを行っていた。ベンチに仰向けに寝てバーベルを持ちあげるといった方法だ。今より良い成績をあげるためには上半身の筋肉を鍛える必要がある、と打撃コーチに言われていたのだった。
 「百キロのバーベルを持ち上げるなんて凄いよ」
  小波がバーベルを降ろしきった瞬間、彼に声をかけた女子がいた。黄色の「4」が中心に入った青いユニフォームに白い短パンといった格好をしていた。
 「初めて見たよ。こんなに重いのを持ち上げる人なんて」
  彼女は小波に感動した様子で拍手していた。
 「ちょっと筋肉がある奴なら持ち上げられるぞ。更に十キロ増したら、その数は減るだろうけどな」
 「私も挑戦してみようかなあ」
 「やめておいた方がいいぞ。無茶をすれば体を壊す羽目になる」
 「そうなの?」
 「軽いところから始めて徐々に負荷をかけていくのが理想だ」
 「筋肉をつけないと駄目だ、ってコーチに言われたんだけど、何キロぐらいから始めた方がいいのかなあ」
 「そうだなあ、女子だったら――」
  その日は彼女にトレーニング器具の扱い方と負荷の増やし方を教えた。それから彼女と雑談を交えながらトレーニングを行った。話題が尽きることはなかった。彼女は一つの話を発展させるのが得意だった。そのおかげで単調で飽きやすいウェイトトレーニングを楽しいひと時に変えることができたのだった。気が付けばトレーニングは下校時刻まで続いていた。
 「今日はありがとう。いい勉強になったんだよ」
  トレーニングを終えて彼女は言った。バッグから制汗スプレーを取り出し、首に向けてノズルを押す。レモンの香りがした。
 「俺も楽しかったよ。また機会があったらやろう」と小波は言った。
 「そうだね。そのときも手伝って欲しいな」
 「手が空いてたらな。じゃあ、俺は帰るよ」
 「うん。バイバイ――の前にちょっと待って」
  別れ際に彼女は言った。「名前を言うのを忘れていたんだよ。私はあさみ、一年B組の七島麻美。女子バスケットボール部に所属しているよ!」


  午前中の練習は普段より軽めにしておいた。もっとも三年生の小波はすでに引退している。そのため練習には参加しなくてもよかった。
  しかし「まだまだ実力不足の後輩達を引っ張ってくれないか」と顧問に頼まれた。実際に小波が引退してから野球部は練習試合を含めて一勝も挙げていない。だらしない後輩達に喝を入れるため、小波は顧問からコーチの仕事を引き受けた。
  麻美の家に着いたのは午後七時頃だった。小波の家から最寄り駅まで十五分、電車から彼女の家まで三十分の合計四十五分だ。八時頃になると電話で伝えておいたが、案外早く着いた。
  麻美の住む町は土地の高低差が激しく、坂道が多かった。小波の太ももから下の筋肉は疲労によって張っていた。ジャケットの中に二枚着込んでいるが、中はぐっしょりだった。もし平らな道だけで構成されていたら、どれだけ楽だったのだろう。小波は彼女が体力面において、他の女子より頭ひとつ抜けている理由を理解した気がした。
  アウターのジップをおろして涼しい風を取り入れる。小波は息を整えている間に麻美の家を観察した。立派な大きさを一軒家だった。十分に体の熱を放出させた後、小波はインターホンを鳴らした。
 「小波君?」麻美の声がした。
 「いま出ていくから待ってて」
  それから二十秒も経たないうちに、麻美は家から出てきた。彼女は小豆色のジャージと灰色のスウェットという格好をしていた。首にはバスタオルを垂れ下げており、髪の毛は湿り気を帯びているように見える。彼女は先程まで風呂に入っていたのだろうと小波は思った。
 「坂道大変だったでしょ?」
 「なんてことはなかったよ」
 「嘘ばっかり。汗でびっしょりしてるよ」と麻美は言った。
 「そんなことはどうでもいいよね。入って入って」
 「お邪魔します」
  小波は家の中に入り、靴を脱いだ。玄関は広かった。入って左に茶色の靴棚があり、その上に何足ものバスケットシューズが置いてあった。ぼろぼろになったものや新品同様のものがあった。それらのシューズを彼女はまだ履いているのだろうかと疑問を抱く。同時にやるせない気持ちになった。
 「ああ、それ」と麻美は言った。小波の視線を辿ったのだった。
 「何度も捨てようと思った。だけど捨て切れなかったんだよ」
 「そうなのか」
 「うん」
  わずかな沈黙が生まれた。麻美はジャージの裾を引っ張ったり戻したりした。
 「まあ」明るい口調を取り戻して麻美は言った。
 「早くあがってくださいな。一日の時間は限られてるんだからね」
 「そうだな。そうさせてもらうよ」
 「私の部屋に行ってて。二階に上がって一番奥にある部屋だよ。くれぐれも他の部屋を覗いたりしちゃ駄目だからね」
 「分かった」
  麻美は、小波が靴を脱ぎ終わるのを待ってから別の部屋に入った。小波は玄関の右手にある階段をのぼった。そこから奥に進むと、平仮名で「あさみ」と書かれたダンボールが吊るしてあるドアがあった。ネームプレートぐらいまともなものを使えばいいのに、と小波は思った。
  ドアを開けた。部屋の中は明かりが点いていなかった。壁に手を這わせるとスイッチを探した。
  ようやく探り当てるとスイッチを切り替えた。部屋の中は明かりで満たされ、中がどうなっているか見ることができた。
  ドア側の壁に勉強机があり、向かい側の壁に小さい窓とピンク色のベッドがある。そして左の壁に本棚とクローゼットがあり、右の壁にテレビと押入れがある。部屋の中心にはガラス製の丸く透明なテーブルが置かれていた。全体的にピンク色を基調とした構成になっていた。ピンクは彼女の好きな色なのだろう。
  ジャケットを折りたたみ適当な場所に置いた。小波はベッドに腰掛ける。こうして女の子の部屋に入るのは初めての経験だった。小波は落ち着くことができず、辺りを見回した。そのとき本棚の中に飾ってあるトロフィーが目に入った。小波は近寄ってそれを手に取った。プレートには「優勝」の文字と大会名が書かれてあった。麻美が中学時代に獲得したものだった。
  あれだけバスケットに夢中だったのに――と小波は思った。彼女に起こった出来事は何かの加減が間違っていた。壁の一点を見つめていると自分が拳を握り締めていることに気付いた。殴りつけたい衝動に駆られたのだ。そのとき足音が聞こえた。小波は急いでトロフィーを元の場所に戻した。
 「ねえ、開けてー」ドア越しに麻美の声が聞こえた。小波はドアを開けた。麻美は両手で黄色の鍋を掴んでいた。コンソメのにおいがした。
 「それは何なんだ?」と小波は訊いた。先程まで感じていた苛立ちは消え失せていた。
 「ふふーん」と麻美は言った。一瞬小波の背筋にひどい悪寒が走った。
 「気持ち悪いな。早く言えよ」
 「ひどいなあ」と麻美は言った。
 「美味しいものが入っているんだよ。でももう少し待ってて」
  麻美は真ん中のテーブルに鍋を置くと、「食器を取ってくるね」と階段を下りていった。小波は鍋のふたを持ち上げる。中に立ち込められていた湯気を逃がした。スープの底に何かが沈んでいた。ロールキャベツだった。
 「まだ開けちゃ駄目だよっ」と麻美は言った。彼女は戻ってくるのが早かった。
 「どうしてだ?」と小波は訊いた。鍋のふたを閉める。
 「蒸らしてたんだよ。キャベツがどんどん柔らかくなって味に深みが出るんだよ」
 「俺は今すぐにでも食べたいなあ」
 「しようがないなあ」と麻美は言った。
 「本当はもう少し時間をかけたいんだけどね。――じゃあ、あと三分だけ待ってね。それからよそってあげるよ」


  麻美が本当に料理を作れたとは、と小波は思った。ロールキャベツの一切れを口に入れる。
  ロールキャベツは少し塩気が強かったが許容範囲だった。むしろ練習後の疲れた体にはちょうど良かった。汗を出しきった体は塩分を欲していたからだ。麻美のロールキャベツは十分に食べられるものだった。
 「美味しいでしょ」と麻美が訊いた。小波はおかわりを頼んだ。そうすることで問いに対する答えを示した。麻美は差し出された皿に二個のロールキャベツをよそった。小波はすでに三個のロールキャベツを平らげていた。
 「慌てなくて良いよ。まだあるから」
 「麻美は食べないのか?」と小波が訊いた。
  麻美は舌を出した。「じつはね、ロールキャベツの研究を重ねていたら、もう入りきらなくなっちゃったんだよ」
 「ようするに」と小波は言った。
 「失敗に失敗を重ねた、というわけか」
 「うう、はっきり言わないでよお」と麻美は言った。
 「この料理は奥が深いんだよ。簡単って言われているけどね」
 「でも意外なんだよな」と小波はもらした。ロールキャベツを半分にナイフでカットし、それをかじった。
 「麻美が料理できたなんて信じられない」
 「失礼だなあ」 麻美は口先を尖らせた。
 「私だってこれぐらいならいくらでも作れるよ。女の子にとって料理は必須なんだからね」
 「でも」と小波は言った。
 「本当に嬉しいよ。俺のために手料理を振舞ってくれてさ」
  男にとって料理する女は魅力以外のなにものでもない。小波は麻美を高く評価していた。
  小波は最後の一切れを口に収めた。ゆっくり咀嚼して胃に流し込む。ナイフとフォークを皿に置くと、箱からティッシュを二枚抜いた。口についた汁を拭く。それから小波はご馳走様でしたと言った。それからありがとうと付け加えた。麻美は「お粗末様でした」と笑いながら言った。
  階段を何回も往復して麻美は食器を片付けた。彼女がふたたび戻ってくるまでの間に、小波はテーブル全体を濡れた台布巾で拭いた。
  食事を済ました後、取り立ててすることがなかった。さて、どうしようかと小波が考えていると、「テレビでもつけてみようよ」と麻美が提案した。小波はテレビの主電源を押した。リモコンで一通りチャンネルを変える。一部のチャンネルを除けばどの番組もバラエティ色が強かった。おそらく土曜日のゴールデンタイムに入ったからだた。小波達は集中的に見る番組を一つ決めた。若手芸人達がネタを披露し、それを審査員の芸能人達が三段階で評価するというものだ。番組がコマーシャルをやっているときは違う番組を見た。
  番組のエンドロールが流れた後、小波はテレビの電源を消した。それから番組の感想を言い合った。麻美はネタの一つ一つに厳しく批判した。批判の対象はショートコント漫才を行った芸人に対してだった。逆にしゃべくり漫才を行った芸人は彼女に好印象を残していた。「やっぱり正統派はいいよね。ネタがつまらなくても直球勝負って気がするから」
  それから様々な話題を取りとめなく話し合った。やがて互いに持っていたものを全て出し尽くす。小波は時計を見た。すでに十一時を過ぎていた。
  不意に沈黙が生まれた。先程とは異なった空気の流れを小波は感じとることができた。おそらく麻美もそれは同じだった。麻美はベッドに腰掛けていた彼の正面に移動した。それから麻美は背を向け、自分の体重を彼に預けるように彼女は座った。麻美の甘え方の一つだ。
  小波は麻美の両側から腕を回し、彼女の腹部に両手を重ね合わせた。それから静かに顎を彼女の肩に乗せた。
 「あのさ」と麻美が言った。
 「冬が終われば春が来るよね」
 「それがどうしたんだ」と小波は訊いた。
  麻美は一度小さな角度で後ろを振り向いた、そして小波を一瞥すると天井を見つめた。
 「春になれば」と麻美は小さな声で言った。
 「離れ離れになっちゃうんだね」
 「――」
  小波は抱きしめている腕に力を入れた。


  弱小と称されていた高校の野球部を甲子園優勝に導いたキャプテンとして、小波は注目の的だった。試合成績は誰もが目を見張るものだった。そのため多くのプロ野球チームからスカウトを受けた。球団関係者に食事会に連れていってもらうことが増えた。そこで話される内容はいつも同じだ。どのようなプレイヤーになりたいのか、そして小波にとって肝心な契約金についてだった。取り立てて貧しくはないが、できることなら両親を楽にさせてやりたかったのだ。麻美にそのことを話した。彼女は笑いながらジョークを言った。「どんどん契約金を吊り上げちゃいなよ。『僕の条件を飲んでくれないのなら断らせて頂くだけです。おたく以外の他のところからもスカウトが殺到していますからね』ってさ」
  小波がプロ野球選手の道を希望する一方で、麻美は私立の医学部を目指していた。もともと麻美は勉強ができる訳ではない。しかし目標が定まると最大限の実力を発揮するタイプで、高校三年の春に受験勉強を始めてから偏差値はかなり上がっていた。
 「私と同じような不幸を他の人に遭わせたくないんだよ」
  医学部を志望することを決意したとき、麻美はそう言っていた。不幸というのは、彼女がバスケットボール部を辞めざるをえなかったことと関係していた。
  高校一年の夏のとき、麻美は右手首を負傷した。変形を伴う複雑骨折だった。もはや自然回復する可能性は見込めず、手術が不可欠だった。手術が成功した後も、手首の感覚を取り戻すリハビリを行う必要もあった。どちらにせよ回復するまで長期決戦だった。
  手術が行われた後、彼女は右手首をギプスで固定し、自己治癒力を高める薬を服用し続けた。新年が明けるまでにギプスは外れたが、次は半年間のリハビリが待っていた。想像を絶するほどの痛みに毎日耐えなきゃならないんだって、と彼女は言っていた。
  麻美のリハビリ生活は順調だった。過酷なリハビリを耐え抜くことができたのは、ふたたびバスケをやりたい思いをバネにしたからだった。その結果に彼女の右手は若干ぎこちないが、以前とほぼ同じ動きができるようになった。
  しかし本当の地獄が麻美を待ち構えていた。リハビリ最終日のことだ。リハビリを終えて麻美が診察室に戻ったとき、彼女の担当医はこう言った。
 「貴方の右の手首はとても脆い状態にある。握力は著しく低下しているが、ペンや包丁を扱うには問題ないでしょう。しかし残念ですが、スポーツをするのは避けてください。万が一に接触が起こって右手首に負荷がかければ――」彼は一瞬間をおいた。黒縁の眼鏡の位置を直し、麻美に非情な言葉を浴びせた。
 「二度と満足に動かなくなる可能性があります」
  それから麻美がふたたびバスケットボールを手に取ることはなくなった。

  学校生活において麻美の様子は明らかにおかしかった。いつもの溌剌とした彼女の面影はない。まるで人間を動作を維持するための動力炉を何かの拍子で落としてしまったようだった。
 「七島のやつ、バスケができなくなったんだって」
  その知らせを小波はユウキから聞いた。ユウキとは幼馴染の雨崎優輝のことだ。彼とは保育園からずっと一緒で、小波と同じく野球部に所属している。家同士も近く、いわゆる腐れ縁だった。
 「前まで元気が良かったのにな。さっき話しかけたんだ」とユウキは言った。
 「だけどギクシャクして間が持たなかったよ」
  ユウキは麻美と少なからず交流があった。そのため麻美の変貌ぶりに彼は残念そうな様子だった。
  麻美の気持ちを小波は深く共感できた。治らないだろうと言われる程の怪我を負った経験が小波にもあったからだった。ただ彼女と異なる点は怪我が無事に治ったことだ。
  その事実は二人の間に溝を生じさせた。小波が麻美に話しかけてみたときのことだ。彼女はヒステリックを起こした。
 「ねえ、教えてよ」と麻美は言った。
 「なんで小波君の怪我は治ったの? なんで私の怪我は治らないの?」
  口を休めることなく不平を並べた。むしろ叩きつけるように叫ぶという表現が似合っていた。
 「ひどいよ。こんなことってあるの? ずるいよ! ずるいんだよ! どうして小波君だけなの? どうして――」
  麻美は涙を流していた。小波は何も言うことができなかった。


 「あのときのこと、覚えてる?」と麻美が言った。
 「うん」と小波は言った。彼女が言っているのは右手首を負傷したときのことだった。
 「バスケは私のアイデンティティだった。それがなくなって、私は本当に駄目になってたんだよ。大好きなバスケができないって言われたとき、まるで体の重要な部分が欠け落ちていくような錯覚に陥ったんだ。それからしばらく無気力状態のまま日々を送ってた。目の前の景色がひどく歪んで、何もかもが汚く見えた。真剣に死ぬことも考えたんだよ。『こんな辛い気持ちから開放されるなら』って。そんなとき、小波君が励まそうとしてくれた」
  小波は黙って聞いていた。麻美は続けた。
 「でも私にはそれが蔑まされている以外に思えなかった。小波君と私は確かに同じ境遇の中にいた。でも小波君はそこから這い上がることに成功し、私はどうすることもできずにそのまま取り残された。敗北っていう現実を突きつけられているように思えた。だから小波君に対して憎悪を抱いたよ。小波君の顔を見たりね、声を聞いたりするとね、苛立つ気持ちが生まれたんだよ。それでね、とうとうその気持ちを抑えきれなくなって――」
  甲子園で優勝してくる――麻美にそう言ったときのことを小波は思い出した。何気なく言ったつもりだった。小波は彼女が元気なエールを送ってくれることを期待したが、彼女の口から出た言葉は小波の予想と大きく離れていた。
 「負けちゃえばいいんだよ」と麻美は言った。
 「私は小波君にこう言ったんだよね。そして私の中に溜まっていた負の感情が溢れだしたんだよ。ふたからこぼれ落ちるようにどろどろとね。本当は応援の言葉を言いたかった。でも口から出るのは逆さまの言葉ばかり。『え? 私は何を言ってるの? 馬鹿。やめて』って頭の中で叫んでたよ。だけど一度出た毒は全部なくなるまで流れるのを止められなかった。そのとき私は心と体はバランスがとれてないことに気付いたんだよ。それから私は自分の部屋に閉じこもって。小波君は知ってるよね? ちょっとの間だったけど私が不登校だった時期のこと」
  小波は頷いた。彼女が小波に堰を切ったように言葉を浴びせた翌日から彼女は学校を休み続けた。ふたたび彼女が姿を見せたのは一週間が経ってからだった。
 「誰にも会わずにいたら、少し気分が落ち着いたんだよ。それで心に余裕ができたから私は考えた。どうして私は小波君を恨んでいるんだろう、って。それで――これは当然の結論だったんだけど――小波君は悪いことをしていない。本気で心配してくれる良い人なんだ、って気付いたんだよ。でも私は小波君に悪口を言ってしまったことを思い出した。どうしてあんなことを言ったんだろう、って思った。私は自己嫌悪に陥ったよ。取り返しのつかないことをして、胸の中が不安でいっぱいになって、息が苦しくなったよ。どうにかして謝らなきゃ、でもそのことを考えると胸がさらに苦しくなって。行動に移さなきゃいけないのに体は重くて。やがて食事が喉を通らなくなって。食べてもすぐに吐いちゃったりして。圧し掛かるプレッシャーに負けて、最後に私は泣きだしちゃったんだよ。でもね――」麻美は続けた。
 「もう出てこないほど涙を出し切った後、今度は温かな気持ちが生まれてきた。その正体はすぐに分かったよ。『好き』の気持ちだった。ああ、私は小波君のことが大好きなんだ、って気付いたんだよ。でも小波君は私のことを嫌いになったと思った。そのもどかしさから私は悲しくなって。それからまた涙がぽろぽろこぼれてきちゃったんだよ」
  麻美は小波に預ける体重を増やした。それから彼の右手の甲に触れた。
 「久しぶりに学校に行ったときは怖かった。小波君に会って話しかけることが怖かった。だって以前のように和気藹々の関係に戻れることはないと思ってたから――でも、まさか小波君に呼び出されて告白されるとは思わなかったんだよ。嘘だと思った。私が予想していたのと全然違うことが現実に起こったんだもん。嬉しすぎて頭の中は真っ白になっちゃって。しばらくの間は私が私でないような感覚で、夢を見ているようだった」
 「夢なんかじゃないだろ」と小波は言った。
 「そうだね。夢なんかじゃないよね」と麻美は笑った。
 「俺は麻美のことを一番だと思ってる」
 「信用ならないなあ」麻美はそっぽ向いた。
 「男は必ず一回は浮気するって言うし」
 「誰がそんなことを言ったんだ」
 「ゆらり」
  ゆらりというのは唯一無二の麻美の親友のことだ。気を遣わなくていいし、話していて楽しいよ、と麻美は言っていた。ゆらりは麻美と対称的で、大人しく口数が少ないという印象を小波は抱いていた。
 「それに」と麻美が言った。
 「私は自信がないから」
 「自信?」
 「小波君はうちの学校では有名人だからね。ほら、練習試合もできなかった環境から甲子園優勝まで導いたでしょ。そんな肩書きを持つ人を皆が無視するわけがないよ。それにルックスや人当たりも良いから、後輩の女の子達が小波君に挨拶したりするよね。そういう光景を見てると胸がざわつくんだ。私なんかが隣に居ていいのかな。小波君にはもっと相応しい子がいて、いつか私を置いて、その子の元へ行っちゃうんじゃないかな。そんなことばかり考えちゃうんだよ」
 「嫉妬してくれるなんて嬉しいよ」と小波は言った。
 「する方は大変なんだよ。愛情表現してくれないと不安になるんだから」
 「愛情表現というのは」と小波は行った。
 「こういう風に?」
  小波は麻美の頬にキスをした。ほとんど不意打ちに近かった。彼女は一瞬目を見開いたが、すぐに冷静な態度を取り繕った。
 「まだ五十点だよ」
 「どうすれば百点になるんだ?」と小波は訊いた。麻美は一つ咳払いをした。
 「もっと愛情を所望します」
  小波は体を横にずらし、手を使って麻美の顔の向きを調整した。すでに心構えはできていたのだろう。彼女はすでに目を閉じていた。小波は唇にキスをした。
 「どうかな?」
 「七十点だよ」
 「弱ったな」と小波は言った。頭を掻く仕草をする。
 「これ以上、愛情を示す方法なんてあるのかなあ」
  わざと分からない振りをする。我ながら白々しい演技だった。
 「教えてくれないかな」
 「自分で考えてよ」
 「さっぱり分からないな」
 「ヒントはないからね」
 「今日の深夜は冷える、って天気予報で言ってたなあ」小波はまるで見えない誰かを呼ぶように言った。
 「終電がなくなる前に帰ろうかなあ」
  小波は麻美の体から腕を解いた。勿論冗談のつもりだった。しかし麻美は彼の両腕をがっちり掴まえた。麻美は演技だと見破っていても、彼が帰ってしまうことには堪えられなかった。
 「離してくれないか?」
 「い、嫌だよっ」麻美は頭を左右に振った。
 「分かったよ」と小波は言った。
 「帰らないよ。その代わり百点になる方法を教えてくれないか?」
  小波は麻美にカウンターを浴びせることができた。「だから、その――」と彼女は言いかけると、そこで口を閉ざした。
 「黙ってちゃ、分からないんだけど?」
 「――ずるいよ」と麻美は言った。
 「小波君はずるいよ。そういうことを女の子に言わせようとするなんて」
 「ずるいって何が?」と小波はとぼけた。麻美は振り向くと、彼を睨んだ。彼は意地悪だと麻美は思った。
 「うう、そっちの番なのにい」
 「番ってなんだよ」
  麻美は泣きそうな声だったので、苛めすぎてしまったかもしれないと小波は反省した。
 「ごめんな」
  小波はジャージのジップに手をかけた。麻美は何も言わず、また抵抗しなかった。それが行為を行うことに対する了承の意だった。
  明かりを消す前に、小波は麻美の横顔をうかがった。彼女は目を閉じて緊張している様子だった。色白の彼女の頬や耳は、すっかり赤く染まっていた。


  小波は積極的に麻美の唇を求めた。息が続くかぎりくっつき、我慢できなくなったら離れる。それを何度も繰り返した。小波は舌を入れる。おそらく彼女の方は慣れていないのか、ぎこちない動きだった。初々しく受動的な動きだが、それがかえって官能的だった。
  ジャージの下に麻美は長袖のシャツを着ていた。キスをしながら小波はシャツの中に手を忍び込ませた。ブラジャーのホックを外すためだ。初めてのセックスのときは扱いの難しさに手間取ったが、数を重ねるごとに簡単に外せるようになった。抜き取ったブラジャーは床に放り投げた。
  麻美の耳たぶを噛みながら小波は乳首を愛撫した。彼女は胸を揉まれることを苦手としていた。あまり胸が大きくないから、というのが彼女が抱いているコンプレックスだった。そのため小波は胸より乳首を愛撫することの方が多かった。それに乳首は彼女の性感帯の一つだった。様々な触り方をする度に、麻美は甘い声をあげた。
  麻美は身に纏っている衣類を全て脱いだ。それからベッドの上で仰向けになった。小波は麻美の膣に触れた。濡れ具合を確かめたのだ。挿入するにはまだ十分ではなかったと小波は判断した。麻美の両足をつかみ、左右に開く。
  麻美は膣の入り口を手で覆った。恥ずかしさからくる抵抗だった。しかし所詮は形だけだということを小波は知っていた。その証拠に彼女の手をどかすとき、強い力は必要なかったからだ。
  小波は膣の下の端に舌を触れさせた。そのまま上に向かってゆっくり舐める。彼女の呼吸が一瞬浅くなった。それとともに彼女は下半身を震わせた。
  指をいれるよりクンニリングスをする方が麻美の身体は悦んだ。それをされるのが好きだ、ということを彼女の口から聞いたわけではない。ただ小波が様々なテクニックを前戯で試した結果、彼女の膣を濡らすにはそれが一番だった。
  小波は膣の周りを吸い付き、手を伸ばして乳首を転がした。その調子で少しずつ愛撫に変化を持たせていった。
  膣から口を離し、今度は指をいれた。先程と比べて麻美は膣の中はぐしょぐしょに濡れていた。挿入するには十分だった。小波は用意していた避妊具を取り付けた。全ての準備が整ったのだった。
  小波は自分のペニスを麻美の膣に入り口にあてがった。そして外れないように気を付けながら静かに入った。全部が中に収まると、彼女の締め付けが始まった。麻美の中は熱かった。
  ふと小波は麻美と初めてセックスしたときのことを思い出した。互いが初めての相手で、不思議な心持ちだったことを覚えている。
  そのとき小波は前戯の大切さを知らず、早い段階で挿入した。濡れていない膣は動きづらく、こう着状態に陥った。
  一時間が経ったところで小波の心の中で焦りが生まれた。麻美を痛みから早く開放してあげたくなったのだ。小波は自分のペニスを一気に膣の奥に進めた。それは逆に仇となった。処女を失わせたときに彼女は大きな悲鳴をあげた。そのとき小波は自分の愚かさに気付いた。もっと彼女のことを思いやってやるべきだったのだ――。射精できる様子ではなく、彼女に申し訳ない気持ちでペニスを引き抜いたのだった。
  麻美は両腕を小波の方へ伸ばした。正常位が行われる際、両腕を引っ張られることを彼女は望んでいた。小波は彼女の両腕をつかみ、彼女の中を三回往復した。簡単に外れないことを確認するためだ。このプロセスを怠ると中途半端な目に遭うことを数回経験している。
  小波は本格的に腰を動かし始めた。麻美の呼吸を聞きながら、小波は何度も往復する。結合した部分から小さな水音が鳴った。やがてそれは耳をこらさずに聞こえる程の大きな音になった。彼女の好意の証――そう考えると得られる快感が増幅した。
  小波が一番奥に進んだとき、麻美は大きな嬌声をあげた。彼女は挿入し始めたときは声を押し殺そうとし、時間が経つに連れて声は大きくなる。それから小波がさらに揺すり続けると、彼女の声はは芯のあるものから息漏れが多いものになる。最終的に息がかすれる音だけになり、何かを否定するように首を振るようになる。ここまで来れば彼女が限界に近づいていることは明らかだった。
  小波は明らかにストロークを速くした。だが楽しみはまだまだ取っておきたい。自分が先に達しないことを気を付けた。
  とうとう麻美は声を出さなくなった。もう少しだと小波は思った。もう少しで彼女は限界を迎える。小波は彼女の両腕を離し、腰をつかんだ。こうすることで一層スムーズに動けるようになるのだ。
  麻美が首を振りはじめた。それからしばらくすると、彼女の身体が大きく跳ねた。子供が泣くのを隠そうとするようなしゃくりをあげている。彼女が限界に達したのだった。小波は腰を動かすのを止めた。膣の中からゆっくりペニスを引き抜く。避妊具は彼女の体液にまみれていた。
 「大丈夫か?」と小波は訊いた。麻美は何も答えなかった。呼吸を激しく繰り返している。イっちゃうと思考が働かなくなっちゃうんだよ――彼女はそう言っていたことを、小波は思い出した。
  小波は息を整えると麻美とふたたび繋がった。両手を彼女の背中にまわし、小波は仰向けになった。騎乗位を行おうとしていた。
  小波は腰を動かし始めた。麻美はまだ意識のコントロールを取り戻せなていない状態だ。落ち着きを取り戻しつつあった彼女の呼吸は、ふたたび乱れた。バランスを崩すまいと、彼女は無意識のうちに自分の身体の支えとなるものを探し始めた。その様子を見て小波は両手を差しだした。彼女はそれを握った。
  小波は麻美の隅々を観察していた。一度突くごとに彼女の身体に振動が広がっていくのが分かる。それは彼女の狭い膣から始まり、小ぶりな胸を通り、緑髪の形の良い頭まで伝わるのだ。
  麻美は小波の手を握っていた力を弱めた。それと同時に小波のペニスを強く締め上げる。その刺激に小波は顔をしかめた。彼女に二回目の限界が訪れたのだ。小波は彼女の肋骨付近に手を添えると、ゆっくり抱き寄せた。彼女の首はうなだれていた。彼女の肌が自分の肌に触れた。
  小波は肌越しに麻美の心臓の鼓動を感じていた。心臓は激しく、力強く打っていた。また体温は上昇しており、ひどく汗をかいていた。小波は彼女の額に触れた。そして張り付いていた髪を掻きわけた。柑橘系のシャンプーのにおいがした。柑橘系は彼女の好みだった。
 「大丈夫か」とふたたび小波は尋ねた。
 「大丈夫だよ」と麻美は囁いた。小波は辛うじて聞くことができた。
  持久力のある麻美が体力を大きく消耗していることは明らかに見て取れた。回復を促そうと、小波は彼女の背中を撫でた。
 「ありがとう」と麻美は言った。それから彼女は時間をかけて息を整えていった。
 「これで何点かな?」と小波は訊いた。もう麻美は喋れると判断したのだ。彼女は鼻で笑った。
 「七十五点かな」
 「厳しい採点だな」
 「でも」と麻美は言った。
 「今日は勘弁してあげるんだよ。これからの活躍次第だね」
 「精進するよ」
  小波がそう言うと麻美は笑った。彼女につられて小波も笑った。ひとしきり笑うと沈黙が訪れた。彼女を抱いたまま、小波は暗闇の中の一点を見つめていた。
  突然、麻美は小波の腕をすり抜けるように動いた。そして四つん這いで小波の下半身がある位置に移動した。彼女は何をするのだろうと疑問に思いながら小波は見ていた。
 「小波君、射精してなかったよね」
  麻美は小波のペニスに触れた。手を上下に動かし始める。絶妙な加減だった。ペニスは射精を目指して硬くなっていった。
 「疲れてるだろ? もう少し休めよ」と小波は言った。
 「私ばかり気持ちいい思いをするのは、流石に不公平だと思うんだ」と麻美は言った。
 「小波君を気持ちよくさせたいんだよ」
  麻美は様々な角度でペニスに触れた。握力を巧みに調整しながら硬さを確認している。やがて次のステップに移行するために体勢を整えた。彼女は自分の体液がついた避妊具をはがしていった。そして顔をペニスに近づけた。
  小波はペニスの先端に何か温かいものが触れている感覚を覚えた。覗くと、麻美が尿道を舐めていた。全体的に唾液を塗りたくった後、彼女はペニスを口に含んだ。
  麻美のフェラチオは情熱的で献身的だった。何度も小波に射精をしてしまおうかなという気にさせた。我慢しようとしても無駄だった。それに、どれだけ我慢を続けたところで結局は問題の先送りだった。
  小波は麻美の唾液と自分の精液が混じる音を聞いた。ふと腰に妙な圧迫感を感じた。それは津波のように押し寄せ、やがてペニスの先端に集中した。もう限界だ――。間もなくして小波は射精した。
  麻美は口の動きを止めたが、手の動きだけは残した。射精を促し、精液を最大限にしぼり取るためだった。
  口内射精をするのは珍しいことではなかった。最初のフェラチオから今まで、小波は麻美に口内射精を行い続けてきた。小波が希望や強制した訳ではなく、どれも彼女が選択したものだった。
  麻美はできるだけ多くの精液を吸い取った。やがて彼女は口からペニスを開放した。暗闇の中で小波はベッドの下にあるティッシュ箱から何枚かを抜き取った。彼女に精液を吐かせるためだ。ティッシュを口にあてがうが、彼女は首を振って吐くことを拒んだ。すでに精液を飲みこんでいた。
 「何も飲まなくても」と小波は言った。自分の精液を飲んでくれるのは嫌ではない。しかし申し訳ない気持ちになってしまう。
 「別に嫌いじゃないよ。小波君のだから飲めるんだよ」
  麻美は腕で口を拭った。残っていた精液を取り除くためだ。
 「そういえば」と麻美は言った。
 「あと一回だね」
 「何が?」と小波は尋ねた。
 「私は二回、小波君に気持ち良くしてもらったんだよ。だから私があと一回、小波君を気持ち良くすることができるの」
 「そんなルールは決めてないぞ」
 「私が今決めたんだよ。だから――」
  麻美はふたたび小波のペニスを口に含んだ。さらに手の動きを加える。
 「しようよ、もう一回。ね?」


  最初に小波は全身の倦怠感が渦巻いていることを感じた。起き上がろうとするが身体が重いのだ。重力の加減が滅茶苦茶になっているように思えた。どうにかして上半身を起こす。それから意識がはっきりするのを待った。
  壁にかかった時計を見ると正午を回っていた。窓から眩しい太陽の光が差し込んでいる。
  隣には麻美が眠っていた。彼女は一つ寝返りを打った。小波に背を向ける格好となる。小波は彼女の顔を覗きこんだ。彼女の口には小指一本分の隙間ができていた。その隙間から一滴の涎が口元を伝っている。小波はそれを指ですくい、指で揉み消した。
  そのとき麻美は目を覚ました。なかなか開かない目を何度も手でこすった。
 「おはよう」と小波は言った。
 「気分はどうだい」
  麻美ははにかんだ表情をした。それからシーツを鼻まで覆った。小波が覚えているかぎり、麻美は絶頂を七回迎えた。それに対して小波は三回射精した。回数を重ねるごとに余計な情報は意識外に追い出され、ただ互いの肉体を貪りつくすことしか考えられなくなった。まさに一心不乱だった。行為が終わったとき、すでに陽は昇りかけていた。
  最後のセックスで小波は麻美に膣内射精した。今日は大丈夫だから、と彼女は言っていた。しかし安全日でも妊娠する可能性はゼロにならないことを小波は知っている。万が一、彼女が妊娠してしまうという可能性も勿論考えていた。
  しかし――。小波は溜息をついた。結局は快楽に負けて射精してしまった。今になってそれが後悔に変わって心中を襲った。射精するにしても安全な場所を選ぶべきだったのだ。自分に責任があるため、彼女に対して何も言えなかった。どれも若さゆえの過ちだと思い込みたかった。
 「別に妊娠しても構わないんだよ」と麻美は言った。
 「そうなったら夫婦だもん」
 「結婚しなかったら違うだろ」と小波は言った。
 「それに責任を取りきれないよ。俺達はまだ高校生だ」
  麻美はしゅんとなって目を伏せた。小波は頭を乱暴に掻いた。なるようにしかならない。
 「まあ、これだけは言わせてくれ」
  小波は自分の顔を麻美に近づけた。突然のことに驚いた彼女は目を世話しなく泳がせた。
 「別れるつもりは毛頭ない」
  そう言って小波は麻美の額にキスをした。
 「私も」と麻美は言った。次に彼女は満面の笑みを浮かべた。
 「大好き」
  小波は麻美を抱きしめた。麻美も自分の腕を彼の首に絡めた。


 「ねえ、小波君」
  時計の針は十二時をさしていた。麻美がお腹を空かせる頃だろうと小波は思った。きっと彼女は甘い物を欲するのだ。たまには彼女に付き合い、沢山のケーキを頑張って食べてみるのもいいかもしれないと小波は考えた。
 「お腹が空いたからケーキ食べに行こうよ!」 .
 
 
     

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