『ピッチャー、替わりまして――』 
だんだんだんだんだん。場内アナウンスと共に鳴り響く重低音。歓声と悲鳴がスタジアムを席巻する。 
開幕戦、九回裏、一点差。こんな燃える場面は、何度も経験できるものじゃない。 
「せんぱーい、頑張ってくださーい!」 
バックネット裏、特等席から愛する人のエールが飛ぶ。躊躇のかけらもない応援に脱力するも、らしいと言えば彼女らしい。 
マウンドには、去年さんざお世話になった相手チームの守護神が登っていた。 
――借りを返さないとな。 
固まる体をほぐそうと、息を吸って、止めて、吐く。 
さわわ。 
一陣の春風が背後から吹き抜けると、深呼吸に春の味が混じり、改めて実感した。 

長かった冬は、ようやく開けたのだ。 



12月25日。夜。ミルキー通り。 
身を切る冷たい風が街を通り抜ける。 
灰色の雲は空を覆い、冬特有の陰鬱とした空気を生み出していた。 
しかし、そんな枯れ模様など意に介せぬと、街を行き交う人々の表情は幸せに満ち溢れていて、嫌でも今日が特別な日なのだと思い知らされる。 
寒い。 
もちろん身体もだが、それ以上に心が荒んでいた。 

俺にだって。女友達の一人ぐらい居るんだ。 

大見得を切って寮を飛び出した手前、おいそれと帰るわけにもいかない。 
女友達の一人ぐらい。いるには、いる。 
しかも、単にともだち、と一言では済ませたくないぐらいには親しい人が。 
とある先輩のお見舞いに行った病院で出会い、再会した時は、財布を落とし泣きべそをかいて探していた。 
そのあともう一度、このミルキー通りで偶然見つけて。三回の偶然を乗り越え、正式に仲良くなった人が。 
一軍に昇格して迎えたプロ二年目、文字通り命懸けで野球に取り組んだ一年の、数少ない華やかなひとときは、いつもその人と共にあった。 
ボーリングでこてんぱんにしたときの、やけくそ気味の笑顔。お返しとばかりに、ビリヤードで俺を叩きのめしたときの、得意気な笑顔。 
ミルキー通りでのショッピング。茶色の髪によく似合う若葉の髪留めを贈ったときの、ぱぁっと輝いた笑顔。 
そして、ここから少し遠い、老舗の遊園地で乗った観覧車のてっぺんで浮かべていた、寂しげな笑み。 
まるでうぶな高校生のように、どこまでも清い付き合いだった。 
しっかりと手は繋ぎ、しかしその距離を縮めようとはせず。 
決して満足してた訳じゃない。 
俺はもっともっと彼女に近付きたかったし、ともだちの一歩先へと到達したかった。望みだってゼロじゃないどころかそれなりにあると思っている。 
偶然を積み重ねていくうちに、一年前とは比べ物にならないほど、俺たちは仲良くなった。 
今では、出会えばどちらともなく手を取り街中のカップルの一員になり、彼女が時々球場まで応援に来てくれることもある。俺が彼女に熱っぽい視線を送る頻度もずいぶん増え、そしてそれは、向こうも同じようだった。 
正直言って、端から見れば既に立派な恋仲なのかもしれない。ふと、そんなことを思ってみたりもするのだが―― 
「はぁ……」 
いくつか、首をもたげる大きな弊害があるのだ。俺は、彼女の連絡先を知らない。 
彼女はいつも、春風のように不意に現れて、去っていく。 
出会う度に次こそは、と意気込み、そして毎回タイミングを逸していた。 
次第に膨らむ不安。 
もしかしたら、彼女は意図的に避けているのじゃないか、と。事実、俺が話題をその方向に持っていこうとすると、持ち前の強引さで会話をねじ曲げられている気がした。 
今日だって、出来ることなら二人一緒に過ごしたかった。 
誘いさえかけられれば、きっと受けてくれるだろう。流石にそのくらいの自信はある。だが、俺には出来ない。彼女を誘うことなどできやしない。 
そして何より、彼女は時たま寂しげに笑うのだ。どこか遠くを見つめて、淡く、弱々しく、不安げに。 
この微妙なもどかしさが、俺の悩みの種だった。 
彼女を掴みきれない。 
この一点が、どうしてももう一歩踏み出せず、ただ思慕の情を募らせるにとどまる理由であり。 
つまり、俺は片思い真っ最中なのだ。 


ぴゅう。 
また風が吹いた。 
吹き抜けと化した、遮るものが何もない俺の中身は、寒さをモロに受ける。 
(……仕方ない。帰るか) 
非情な冷風に急かされて、希望に背を向け、負け犬が傷を舐め合う球団寮へと戻ろうとした時だった。 
「あれ?どうしたんですか?こんなところで」 
知った声に、背後から呼び止められた。今、一番聴きたい声だった。 
「もしかして、暇だったりしちゃいます?」 
驚きと、それを上回る喜びに胸を膨らましながら、ゆっくり振り向く。 
積み重ねてきた偶然が、また一つ高くなった。 
俺の唯一の女『友達』にして、俺の胸を悩ます張本人。倉見春香さんその人が、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべ、赤茶色の髪をふわふわ揺らして佇んでいた。 
「えぇ、まあ。見ての通り独りですね」 
「じゃあ行きましょう!ほら、東先輩もいますから!」 
差し出された小さな手。どこに、とも何しに、ともわからない手だが、俺は迷わない。ぐっと握ると、彼女は一段と輝く笑顔を俺に振り撒いて、俺を聖夜の灯りへと引っ張っていった。 
今年の聖夜は、ひと味違うらしい。 




「よかったんですかね、俺なんかが居ちゃって」 
「まぁ、構わないんじゃないかな」 
「まだ来てない人もいますしねぇ」 
倉見さんに連れられてやって来たのは、集合場所らしいナマーズパーク前。 
どうも話を聞くと、東さんたちの高校同窓会兼忘年会らしい。ピリリリリ。電子音が鳴った。 
「あっ、先輩からです。ちょっと失礼しますね」 
そそくさと倉見さんは会話の輪を抜け、携帯電話を耳に当てる。 
「あ!湯田先輩、遅いですよ!……え?……はい。それは大丈夫です。もう、決めましたから。ですから、その、……手伝って、下さい。はい。ありがとうございます。じゃあ、待ってますね」 
……何を決めたのだろう。何を手伝うのだろう。お店か何かの予約だろうか。それに何より、湯田……さん?その名前には、聞き覚えがあった。 
「あと来るのは二人なんだけど、そういえば君は湯田くんが苦手だったな」 
「え、湯田くん、ってやっぱりあのホッパーズの湯田さんですか?」 
「ああ、そうだよ」 
湯田浩一。 
ポジションは投手。コーナーに変化球を投げ込むサウスポー。ストレートはそれなりだが、甲子園全試合を一人で投げたスタミナは健在で、回跨ぎも可能、ピンチに強く、コントロールも良い……はずなのだが、何故か四球も多く、何より被弾率が高い。 
ノーアウトから四球、ヒット、三振、セカンドゲッツーで四者凡退など日常茶飯事。 
時には同点に追い付かれたあと延長を一人で投げ抜き勝ち星を得るなど、その投球スタイルはかつて防波堤、時には土嚢と呼ばれた伝説の劇場王を彷彿とさせるのか、コアなファンが多く、親愛を込めて『湯ダコ』『四凡王』、 
炎上時には『裏切り者』(ユダだけに)などと呼ばれているらしい。 
今シーズンは6勝2敗31セーブの防御率2.83。 
最多セーブのタイトルホルダーだ。 
クローザーにしては多い勝ち星はいずれも芦沼の後を継いであげたものであり、うち5回は芦沼の勝ちを泥棒したものだが、それでも険悪な話を聞かないのは、湯田さんの人徳なのだろうか。 
ちなみに俺は今シーズン、幾度となく劇場の終幕を飾らされてきた。 
去年の最終戦、九回ツーアウト6点差から四死球を挟み6連続安打を浴び、1点差まで詰め寄られた挙げ句結局踏ん張り、両チームのファンの胃をこれでもかと痛め付けた、『最後の晩餐』と名高い大劇場のラストバッターも俺だった。 
対戦成績は25ー2、打率にしてなんと一割を切っている。 



「……くん、おーい」 
「はっ、すいません東さん」 
「大丈夫かい?何だか考え込んでたみたいだけど」 
「あ、はい。ちょっと……」 
野球は頭が良くないとできないスポーツだ。 
加えて、キャッチャーというポジションから、俺は相手選手の特徴や、果ては敵チームの采配までを徹底的に叩き込んでいる。 
例えば、あのピッチャーはワンポイントでフォアボールを出して帰っていくとか、あのチームは中継ぎをマシンガンのように連発してくるとか、そういうことだ。 
ただ、ちょっと詰め込んだ量が多すぎたのか、一度自分の世界に入るとついつい没頭してしまう。 
……改めないとな。 
ぼりぼり頭をかいて東さんに向き直ると、もう東さんは俺を見ていなかった。 
「おや、来たみたいだな」 
視線を追うと、暗がりから二人の男が並んで歩いてきていた。仲良く談笑しているうちの一人は、中肉中背にメガネと、今季何度も煮え湯を飲まされた湯田さんだったが、もう一人の姿を俺はにわかには信じられなかった。 
――まさか。 
――いや、間違いない。あの人は…… 
「もう、先輩!遅いですよ!」倉見さんがとてとて駆け寄る。 
――先輩。もう一人はこの人だったのか。 
緊張に汗が吹き出してきた。震える足を必死で抑える。 
「ん?あんたは確かナマーズの、何でこんなところに……」 
「あ、わたしが呼びました。お友達なんですよ」 
「あぁ、なるほど、お友達でやんすか……よろしくでやんす」 
湯田さんがなめつけるように俺を見て、手を差し出す。半ば上の空でその手を握ると、湯田さんは倉見さんを連れて少し遠くへ行ってしまった。 
何やら二人で話し込んでいる。すると、入れ替わりに、湯田さんよりもひとまわり大きな手が視界に入ってきた。 
「初めまして。東さんに話は聞いてたよ。若くていいキャッチャーがいるって。よろしく」 
感動に、卒倒しかけた。 
甲子園優勝捕手として鳴り物入りで入団し、高卒一年目からスタメンマスクをかぶり新人王を獲得、その後も活躍を続け、今年は首位打者と打点の二冠、キャッチャーとしては驚異的な成績を残し続ける偉大な選手が、俺の、俺の憧れがっ…… 
「よ、よろろしきしくししおねびゃ」 
「あ、噛みましたね今」 
「おいおい、緊張し過ぎだろ」 
「そうでやんす!基本フレンドリーなやつだから気楽にするがいいでやんす!」 
そんなこんなでてんやわんやしながらも、お店へと向かう道中、俺はなんとか会話することができた。 
ああ、俺幸せだ。 


「だから、オイラは決してノーコンじゃなくて、一発を避けようとコーナーを丁寧につくが故の四球なんでやんす!」 
「それってチキン……」 
「うるさいでやんす後輩!さんざんカモられてきたやつには言われたくないでやんす!」 
「う」 
「あはは、湯田君が苦手なのか。確かに打ちにくいとこはあるよね。よし、その辺も踏まえながら同じキャッチャーとしてちょっとアドバイスをしてもいいかな?」 
「ご、後生だからやめるでやんす……」 
「もももちろんです!ああありりががとうございまぶゃ」 
「あ、舌噛みましたね。痛そうです」 
「まだ緊張してたのか」 
「……大丈夫でやんすか、後輩」 
「でも、確かに湯田くんはもう少し下半身をがっしりさせた方がいいかもしれないな。そしたら自然に球威もコントロールも増すだろうし」 
「あはは、スチールさんだって『Oh、ミスターユダナラバットフラナクテイイナ』とか言ってますもんね」 
「お、上手いねモノマネ」 
「……ぶん殴っていいでやんすか、後輩」 
「えー、でも湯田先輩が誰かを殴るなんて想像できませんよ」 
「俺は高校時代いきなし殴られたことあるけどね、湯田くんに」 
「本当かい?ちょっと興味深いな。話してみてくれないか?」 
「……あれは、幸福者への鉄槌でやんす。悪かったと思ってるでやんすよ」 
どんちゃんどんちゃん。 
通りを離れた所にある居酒屋の一角で、お酒を交わしながら野球トークに盛り上がっていた。予想に反して予約をとっていなかったみたいだが、すんなり入ることができて、料理も美味しい、いわゆる穴場的お店だった。 
湯田さんも大先輩も本当に人当たりが良くて、やや部外者の俺にもどんどん話しかけてくれていた。 
男所帯だが倉見さんも慣れた調子で、高校時代の思い出話らしきものに花を咲かせていた。 
中でも、とりわけ大先輩と喋る倉見さんは独特の雰囲気を醸し出していて、どこかぎこちない倉見さんの表情が、俺に一抹の不安を抱かせる。 
……まさか。 
「よし、じゃあまずはリードについてからいこうかな。とはいってもこれは俺の持論だから、あくまで参考程度だけど」 
だが、そんな俺の不安は、対面の明朗な声に霧散した。 
――今日の今日まで雲の上だった、偉大な先輩からの金言だ。すぅ、はあ。三度目の正直、落ち着いて―― 
「はい、是非お願いしみゃ……」 
口の中に鉄の味が広がった。人間、運命には逆らえないらしい。 




夢のようなひとときだった。 
憧れの人たちと共に過ごせたクリスマス、叶うことならいつまでも続いて欲しい夜だった。 
だが、現実は厳しい。店先を出ると、暖かな空気は凍てつく冷風に吹き飛ばされてしまい、宴の終焉を冷酷に告げられてしまった。 
わかっている。わかっているのだ。年端もいかぬ子供じゃあるまいし、時間はどうしようもないのだということぐらい。 
会計を終えた先輩たちが、倉見さんを連れて出てきた。 
それでも、やっぱり寂しい。 
先輩たちもそうだが、何より倉見さんに次いつ会えるのだろうか。 
「ふぅ。楽しかったけどあっという間だったね」 
「……全くでやんすねぇ。じゃあ、東さん、今年一年の締めとして音頭をお願いするでやんす」 
「おいおい、いきなりだな」 
湯田さんの無茶な振りに、東さんが咳払いする。 
自ずと静まり返る場に、よく通る声が響いた。 
「……今年は二人のタイトル獲得と、それから」 
東さんは俺の方を見て、にっこり笑う。 
「レギュラー奪取もだね。おめでとう。だが、決して満足することなく常に上を目指して欲しい。勿論俺も、来年は今年の分まで頑張るつもりだ」 
「怪我も治りましたしね!応援してますよ、東先輩!」 
「ありがとう、春香ちゃん。じゃあ、みんな……、一年間、お疲れさま。来年も更なる飛躍を目指そう」 
すらすら言葉を紡ぎ、東さんは祝宴を締めくくった。 
不測の事態にもそつなく対応する辺り、東さんは万能人だとつくづく思う。 
「ふっふっふ、東さん、ありがとうでやんす。しかぁし、まだまだ夜は長いのでやんす!オイラの最多セーブ獲得を祝って二次会でやんす!オイラの奢りでいいからいくのでやんすよ!」 少し酔っているのか、湯田さんが大先輩の腕をわしづかみにしている。 
二次会と聞いて俺のテンションも再興しかけたのだが、即座に鎮火されてしまった。 
「……気持ちはわかるでやんすが、大人として二十歳になったばかりのぺーぺーをあんまり遅くまでつれ回すわけにはいかないでやんす。それより」 
湯田さんが、倉見さんに首をしゃくる。 
「春香ちゃんを送っていってあげて欲しいでやんす。いくらクリスマスでも、もう遅いでやんすからね」 
「そうだな。よろしく頼むよ」 
「は、はい!わかりました。任せてください」 
棚から落ちてきたぼた餅に内心ガッツポーズ、散々打ち取られてきた恨みも忘れて、湯田さんに惜しみ無い賛辞を送った。 
倉見さんと。無邪気に手を振る想い人と、この聖夜の下共に過ごす時間が、ちょっぴり伸びた。小さくなる背中に、今一度感謝を送る。 
はたして念が通じたのか、湯田さんはもう一度だけこっちを振り向いて、消えた。 
浮わついた心地で倉見さんの方を振り向くと、上目遣いで俺を見つめていた。 
いつもの笑顔で、何かを待ち望むように。俺も微笑んで、右手を差し出す。 
今日、彼女からの招待を受け取った手。ならば、彼女を無事に送り届けるのもこの手の役目だろう。 
ぎゅっ。 
数時間前にも感じた、小さな手のぬくもり。 
ほんの数秒、こっそり幸せに浸り、そして。 
「行きますか」 
「……はい」 




駅までお願いします。 
倉見さんはそう言った。ここから駅までなら二十分。できるだけゆっくり歩こうと思った。 
「もうすぐ」 
おもむろに、倉見さんが口を開いた。 
「もうすぐ今年も終わっちゃいますね」 
「はい。早いものです」 
吐く息は白く、話すたびにもやが混じりあう。 
そんなささいな交わりすら嬉しくて、俺はさらに歩を緩めた。 
「けっこう遊びに行きましたよね、今年」 
「ええ。こないだの遊園地は楽しかったです」 
ほのかな街灯が、ほんのり赤い倉見さんの頬を照らす。 
二人きりなどもう慣れっこの筈なのに、クリスマスの魔力なのか、不必要なほどどぎまぎしてしまう。 
結んだ手の距離も、心なしかいつもより短い。 
「……本当に、楽しかった、ですか?わたしと一緒で」 
並んでいた小さな肩が、少し後ろになった。ペースダウンした彼女の歩幅に合わせて、もっとゆっくり歩く。 
クリスマスの喧騒から離れた裏路地。アスファルトに、靴音がよく響いた。 
「もちろんですよ。今日だって、幸せな時間は、残酷なほどあっという間でした」 
「そう、ですか……。まったくですよね。時間は、先回りも、後戻りも、できなくって、どうしようもなくって、……残酷、です」 
靴音が、どんどん遅くなっていく。何処かに引き摺られていくような声色。何かタブーを踏んでしまったのだろうかと思い、慌てて言葉を継ぎ足した。 
「でも、短くても濃密でしたよ。今日は最高のクリスマスでした。湯田さんは面白い人でしたし、憧れの先輩とも話せましたし……それに、何より倉見さんと一緒に過ごせましたから」 
慌てたが、取り繕った言葉じゃない、偽らざる気持ちだった。 
足はもう止まってしまっている。 
倉見さんの返事はなかった。妙な照れ臭さを誤魔化そうとして、再び歩き出す。しかし、繋いだ腕はまっすぐに延びて、俺の足取りも急停止した。 
倉見さんは立ち止まったままだった。ほのかに頬を染め、じっと空を見つめている。 
キラリ。その目尻が、一瞬光った気がした。 
――涙? 


「あ、雪」 
倉見さんが、空を眺めたまま、ポツリと言った。 
ふわふわふわ。暗白色の曇が落とした無数の白い綿毛が、いつの間にか、ホタルのように暗闇を飛び回っていた。 
ひとつ、倉見さんの顔に落ちて、ホロリと溶けた。 
残された雫は、倉見さんの目尻に宝石のように輝いている。 
さっきの光はこれだったのだろうか。 
「ホワイトクリスマスですね……」 
「あ、そう言えば……」 
ほよほよと、またひとつ、倉見さんの小さな鼻の上に落ちた。俺が小さく笑うと、倉見さんも少し恥ずかしそうに、クスリとした。 
まるで恋人同士のような雰囲気に気恥ずかしくなって、思わずうつむいてしまう。 
……恋人のような、か。 
一体いつまで、俺たちはこのままなのだろう。 
俺は、倉見さんが大好きだ。倉見さんだって、俺のことを好いてくれている、とは思う。 
少なくとも、お互い友達以上には意識しあっているはずだ。そろそろ一歩踏み出すべきではないのか。幾度となくそう思ったこともある。 
だが。俺はやはり看過できない。 
倉見さんに時折訪れる影を。俺はこの人をどこか理解しきれていないのではないか、そんな疑問を。 
現に、今日だって、大先輩の前で―― 
「……あの」 
はっと我に帰る。 
倉見さんが、妙にこわばった面持ちで俺を呼んでいた。 
「は、はい……行きましょうか、駅」 
「違うんです!」 
突如張り上げられた、およそ倉見さんらしからぬ悲鳴。 
「ど、どうしました?」 
「あの、あのっ、今日ですね……」 
「はい」 
「今日、これから……」 
「これから?」 
「そのっ、お時間はありますか!?」 
形のいい眉をきゅっとすぼめて、ままよ、と言わんばかりに倉見さんは叫んだ。 
唇を噛みしめ、立ち上らせた烈帛の気合いに若干気圧されながらも、俺は倉見さんの意図を図りかねて、一つ尋ねる。 
「……どうして、って聞いていいですか?」 
「お話し、したいんです」 
「俺と、こんな時間に?」 
「はい」 
即答だった。 
倉見さんをもう一度眺める。 
固い決意を浮かべた顔に、俺は天を仰いだ。 
突き刺さる冷気が、停止しかけた頭を冷やしていく。 
倉見さんは、頭のいい人だ。少しそそっかしいところもあるけれど、その利発さは、この一年の付き合いの随所に表れていた。 
だから、倉見さんが何の思慮も無しに、俺を誘ったとは思えない。今日はクリスマスであり、もう夜は遅く、何より俺は男で、倉見さんは女性なのだ。 
それを踏まえてのお話しならば、よっぽどのことなのだろう。或いは、全てが俺の自意識過剰で、実は俺を完全に人畜無害なお友達としてしか見ていないか、だ。 
長い息を吐き出す。 
後者だったら寂しいなぁ、なんて思いながら、夜に消える吐息を見送る。 
「……わかりました。でも」 
ちらっと腕時計に目を向けると、針は、十一時を少し回っていた。 
「場所が問題ですね。……ウチの寮とか来ちゃいます?」 
口調は冗談染みているが、ぶつけた言葉は真剣そのものだ。 
結んでいた手を解き、再び差し出した。覚悟には、覚悟で返す。 
間髪いれずに、右手を強く握られた。 
「はい、お願いします」 
揺るぎない言葉に、俺は微笑んだ。ほっとしたのか、倉見さんも固かった表情を崩し、俺を魅了するいつもの笑顔をくれた。 
そして、一緒に歩き出す。駅とは逆の、住み慣れた球団寮へと。 
ぴゅうう。 
またしても風が吹いた。が、今度は寒くなかった。どうやら、今年の聖夜はもうしばらく続くらしい。 



カラァン。 
グラスの氷が、透き通った音をたてる。 
寮の自室に、俺と倉見さんは向き合って座っていた。 
手持ちぶさたに、氷を入れたスポーツドリンクをちびちび飲む。倉見さんは一言も話さない。 
初めは男の部屋など物珍しかったのか、おどおどと目で部屋を眺めていたが、いざ雰囲気が整うと、縮こまってしまった。 
俯いて、何かに怯えたように、ただ小さな肩を震わせて。 
「寒いですか?」 
「……あ、いえ、違うんです。……ごめんなさい、わたし」 
「大丈夫ですよ」 
「え?」 
「焦らなくても、大丈夫です。気付いてないと思いますけど、倉見さん、今とっても恐い顔してます」 
「……、迷惑かけちゃってますから」 
「そんな心配しないで下さい。……この一年。大して長い付き合いじゃないかもしれませんけど、それでも俺は、いろんな倉見さんと一緒にいたつもりでした。でも」 
夜道のやりとりを思い出す。 
歪んだ表情。夜を切り裂いた、悲壮な叫び。全てが、俺の知る倉見さんとは真逆だった。 
「俺とお話ししたいと言ってくれたときの、歯を食い縛って、今にも泣きそうだった倉見さんを、俺は見たことがなかった。正直、驚きましたよ」 
少し苦笑いする。倉見さんは頭をあげて、不安げに俺の胸当たりを見つめていた。 
「……だけど、違うんですよね。驚くことなんて何もなかった。だって、俺は知らなかったんですから」 
そうだ。結局俺は―― 
「俺は、倉見さんのふんわりぽかぽかした笑顔を知っています。いつぞやホラーな映画を見に行った時の、びくびく怯えた倉見さんを知っています。 
だけど、今日の今日まで、あんなに辛そうな倉見さんは知らなかった」 
――俺は、この人の笑顔の外を全然知らないままだ。 
「一番知らなくちゃいけないことを、俺は全く知らなかったんです。 
倉見さんに言われるまで、俺はそんなことにも気付いていなかった。なのに、俺はこの一年、倉見さんとそれなりに近くなった気でいました。 
……迷惑なんかじゃありません。むしろ、俺からお願いします。教えて下さい、倉見さん。あなたのお話しを、もし俺でいいのなら。 
俺は、あなたのことをもっと知りたい。もっともっと、あなたに詳しくなりたい。全部聞き遂げます。 
たとえどんなお話しでも、俺は今日この夜をあなたに捧げます。ですから……、教えて下さい。俺のまだ知らない倉見さんを」 
少し、強引だったかもしれない。だけどもう逃したくなかった。この一年の正体不明の違和感を解消する糸口を、ようやく掴みかけている。 
ここで離してしまえば、俺は永遠に倉見さんに近付けない。 
夜も遅いというのに俺との会話を望んだからには、たとえ俺のことをどう思っていようと、逃してはいけない、相応に重要なお話しに違いないのだ。 



「あの……」 
控えめな声。視線がゆっくりと下がっていく。 
まさか、糸口は掴む前に引っ込んでしまったのか、そう思って慌てて目を追いかけると、 
「わ!す、すいません、つい」 
いつの間にか、俺は倉見さんの手をひしと握っていた。 
それも両手で、がっしりと。 
頬がひりひりする。見れば、倉見さんも同じようで、真っ赤になっていた。 
「いきなり手なんて握らないで下さいよ!不意打ちです!反則です!照れるじゃないですかちくしょー!」 
叫ぶと同時に、ぶんと握りこぶしが振り上げられる。 
今年何度か目にした、倉見さん独特の感情表現。肉体言語と言うべきか。 
とにかく、火照った顔は愛嬌たっぷりだ。 
……かわいい。本当に、かわいい。こんな場面でも魅了されてしまうほど、この人はかわいい。 
「どうかしました?ぼーっとして」 
「……、いえ、何でもナイデス」 
まさか見とれてました、とは言えない。それよりもだ。 
「踏ん切り、ついたみたいですね」 
弛緩した空気にほだされたのか、ひと噴火してすっきりしたのか。らしくなくまごついていたさっきまでとは顔付きが違う。 
「……はい」 
やんわりと笑う倉見さん。 
「まず、ありがとうございました」 
「何がです?」 
「わたしのお話しを聞きたい、って言ってくれて。わたしの背中を押してくれて。 
ようやく決められそうです。……二年前と一緒。結局わたしは一人じゃ何も出来ませんでしたから」 
二年前。引っ掛かる言葉だったが、今は気にしていられない。 
「そんなことないです。そもそも、倉見さんが俺を引き留めなければ、俺はそのまま駅に送ってましたよ。誰がなんと言おうと、今の状況は倉見さんが掴みとったんです。負い目なんかいらないですよ。胸張っちゃってください」 
認めてもらわなくてはいけなかった。倉見さんの振り絞った勇気を、倉見さん自身に。 
俺は、申し出をあっさり断ることもできた。と言うか、なにせ時間が時間だ。普通なら断っていた。 
倉見さんだって、怖れただろう。断られたらどうしよう、と歩を躊躇っただろう。だけど、倉見さんは止まらなかった。確かに一歩、足を踏み出した。 
それは、紛れもない倉見さんの勲章だ。 
「……そうですか。わたし、頑張ったんでしょうか?」 
「その通りです。倉見さんは、今夜、すっごく頑張ったんですよ」 
「えへへ。そう言って貰えると、少し気が楽になりました。 
……えっと、じゃあ、もう少し頑張りますから」 
「はい。大丈夫ですよ」 
「……お願いします」 
カランカラン。 
倉見さんが、グラスを手に取って、少し口づけた。 
小さく喉を揺らして。そして。 
「……昔、好きな人がいました。ずっと、好きでした」 




カランカラン。 
場末の居酒屋には似合わない、澄んだ音を氷は持っている。 
この世の綺麗なものだけを集めて固めた、透き通る結晶。 
それは当たり前のように美しいが、残酷なほど冷たくもある。グラスを傾ける。乾いた唇に、凍てつく冷気がしみた。 
左手で握りこぶしを作り、開く。何度か繰り返すうちに、少し酒の回った頭にも鮮明に浮かんでくる、鈍い痛み。 
後にも先にも、誰かを思い切り殴ると言うのはあれっきりだろう。 
忘れもしない、高校時代の後悔のカケラ。 
――思えば、爽やかな春風のような子だった。 
沢山の人の愛情を一身に受けて育ったのだろうその子は、また自身も愛らしい笑顔を振り撒いていた。 
見る人全てを自然と幸せにできる子だった。 
そんな子は、時折一段と魅力的な顔を覗かせていたのだ。 
それが、一人の男の側に居る時だった。先輩、先輩、と呼ぶことすら心地よかったのか、周りをぴょこぴょこ跳ねながら、春を謳歌していた。 
ほとんど毎日だっただろうか、時には堂々と、時にはこっそりと、グラウンドに遊びに来ては大きな瞳を目まぐるしく動かして、ずっと一人の野球部員を見つめて。 
誰もが一目見て気付いてしまうほど明らかに、その子は恋していた。 
相手は、自分もよく知った人物。 
入部当初からバッテリーを組み、クラスも同じ、話してみると気が合い、あっという間に親友と読んで差し支えない間柄になった。 
だから。だから安心していた。正直少し妬ましかったが、そいつは真面目で友達思いで、顔もいい。美男美少女、お似合いじゃないか。 
そんなことを思いながら、いつも目の端で二人を追っていた。あの子の幸せを願い、また信じて疑わなかった。 
だが。 
とある日を境に、その子の笑顔は凍りついてしまった。 
最初は気のせいかとも思ったが、一ヶ月もしないうちに恐れは確信に変わった。 
春のうららかな陽光はぱったり消え失せ、木枯らしのように乾いた笑みを、親友の前で無理矢理張り付かせていた。 



愕然とした。 
百八十度変わってしまったあの子に、一体何が起こったのだろうか。 
あれこれ考えていると思い当たったのが、学校の文化祭だった。 
様子がおかしくなったのは、ちょうどその頃ではなかったか。二人が一緒に出し物を回っているのは知っていた。 
もしやと思って尋ねて回ると、文化祭の日に一緒に帰る二人を見た、と言う話を聞いた。 

一抹の不安を抱えながらも、後は親友に直接聞くしかなかった。 
一体、当日あの子と何かあったのか、と。 
返ってきた答えは、受け入れ難いものだった。頭が、理解を拒否した。 
爆発的に膨らんだどす黒い衝動に身を任せ、渾身の力を込めて、親友の頬をぶん殴った。 
ゴッ、と響く鈍い音。 
……元々、腕っぷしに自信などまったくなかった。 
体格も力も負けている自分など、喧嘩して勝てる見込みはまるでゼロだった。 
にわかに騒然となる教室。 
誰かの悲鳴、野次馬の足音。 
だがそんなことはどうでもよく、激情に駆られるまま二発目を繰り出そうとした瞬間、倒れた親友を見てしまった。 
その顔に浮かんでいたのは、憎悪でも恐怖でもなく。 
親友は、ぽかんと口を開けていた。 
二発目を撃つには、その顔はあまりに鈍く、そいつとの付き合いは長すぎた。 
とうに知っていた。 
そいつは、親友は、いたずらに人を傷つけるような人間ではないということぐらい。 

振り上げた拳を、力なく落として。 
しばし、呆然と立ちすくんで。 
額を、床に擦り付けた。 
何度も何度も、うわ言のように謝罪を繰り返した。 
気づいてしまっていたのだ。 
あの子の悲痛な覚悟を踏みにじり、ぶち壊す一歩手前だったことに。 
ぶつけた胸のうちを全て無かったことにされて、それでも慕う『先輩』に負い目を残すまいと、必死に笑ったであろうその子の思いを、踏みにじりかけたことを。 

親友を殴っている場合ではなかった。 
真っ先にその子の元に駆けつけて、溜め込まざるを得なかった絶望を吐き出させるべきだった。頭では解っていた。 

なのに、出来なかった。 

怖じ気づいたのだ。 
その子との繋がりはそもそも希薄、精々『先輩』の友達、程度だった。それに何より、いざ悲哀を露にされて上手く受け止めるだけの自信もさっぱりなかった。 
赤の他人が口を挟んでも、傷口を広げるだけかもしれない。 
そんな不安に負け、その子をみすみす見殺しにした。 
いずれ時が癒してくれるだろう、と無責任に信じて。 

とんだ勘違いだった。 
時間は、残酷だった。 





カラカラカラ。 
二度、グラスを傾ける。 
少し溶けた氷は、先程より軽い音を鳴らした。 
薄く笑って、目を閉じる。 


……結局、卒業してもその子は変わらなかった。 
二年前のことだ。 
久しぶりに四人で集った時も、変わらず乾いた笑みを張り付かせ、その子は親友にすがり付いていた。 
痛恨の極みだった。 
その子の心は、思い出の中に置いていかれてしまっていた。 
失意の中、時間に取り残されて、たった一つ手元に残った、儚くも華やかだった初恋への未練が、やがて心を過去に氷付けにしてしまったのだった。 
だが、その子はまだ、かろうじてひどく自嘲めいた素面を覗かせることがあった。 
見るのも痛々しい姿だったが、それは同時に唯一の光明でもあった。 
まだ、辛いと感じてくれていた。 
まだ、立ち向かってくれていた。 
まだ、心を止めてはいなかった。 
今度は迷わなかった。 
滅多に使わない携帯電話の、一度も使ったことのないアドレス。 
たった一文、短いメールを作り、町外れの喫茶店にその子を呼び出した。 
ぽつぽつと会話するうちに、長年その子を蝕み続けたしがらみがだんだんと見えていった。 
うちひしがれて、自分を誤魔化しながらも辛うじて止まってはいなかった心の歯車に、無数の過去への未練が糸のように食い込み、軋んだ音をたてていた。 
高校時代のあの時からずっと、その子はたった一人で苦しんできたのだ。明らかに限界だった。あちこち傷だらけで、今にも止まってしまいそうだった。 
もう、ほどくことはできなかった。長い時をかけ、幾重にも絡まってしまった糸は迷路のように複雑で、一つ一つたどる猶予など、その子にはもう残されてはいなかったのだ。 

だから。 

全てを切った。 

大きな刃物で、その全てを乱暴に断ち切った。 


反動で、その子は倒れた。体を、心をしこたま打ち付けて。 
よっぽど痛かったのだろう、その子は声をあげて泣いた。 
……出来ることなら、優しい言葉をかけてやりたかった。 
こんがらがってしまった過去への憧憬を一つ一つ丁寧にほどいていって、泣かせることなく元に戻してやりたかったのに。 
無力な自分には、叶えられぬことだった。 
だが、別れ際のその子は、ペコリと頭を下げて、少し恥ずかしそうに笑ってくれた。 
それはまだまだ万全には程遠かったけれど、昔を思い起こさせる、この子本来の笑顔だった。 
少しだけ救われたのを、今でも覚えている。 





そっと目を開けると、眩しい明かりが目にしみた。 
ポケットから携帯電話を取りだし、受信メールを開いていく。『お友達が出来ました!男の人です!〇><』 
『今日はボーリングに行きました!こてんぱんにされました!ちくしょー!〇><』 
『今日はショッピングでした!可愛い髪留めを買ってもらっちやいました!〇><』 
『今日は遊園地に行きました!ちょっと、昔を思い出しました……』 

可愛らしい顔文字もだが、何よりその内容に救われた。 
たった一人、取り残されても。過去に、後ろ髪を引かれても。あの子は未来に背を向けなかった。 
先の見えないトンネルの中、あの子は土俵際で踏ん張り続けて、なんとか前に倒れてくれた。荒療治を施され、思いっきり転んで、痛くて泣きじゃくって、……それでも、前に。 
一度だけ、お友達とのことを直に訊いたことがある。柔らかに笑って、わからない、でも優しい人だと言っていた。その笑顔を見て決めたのだ。 
その時の笑顔は、昔に負けず劣らず素敵なものだったから。 
この子をもう一度笑顔にさせた、顔も知らないお友達になら、すべてを託せると。 
やれるだけのことはやったはずだ。 
何とか二人きりを作り出した。もう、手助け出来ることはない。ここから先は、あのお友達に任せるしかなかった。 
「どれ、そろそろお開きにしようか」 
「そうですね、東先輩。もう遅いですし。おーい、もう帰ろうよ。俺も明日は真央ちゃんと遊びにいくし」 
真央ちゃん、か。 
何も知らない親友は上機嫌だ。 
あのぶん殴り事件の後も、友情は変わらぬまま今日まで続いている。共にヒーローと闘い、甲子園を勝ち上がり、卒業後もリーグこそ違えど同じプロの舞台で頑張っている。 
甲子園優勝バッテリーとしてオールスターで対峙した時は、柄にもなく燃えた。暇な時は一緒に飲みにも行く。友情同様、相も変わらず親友はまっすぐないいやつだ。 
ただ、酔う度に『真央ちゃん』がいかに可愛いか熱弁をふるうのは勘弁してほしい。 
おかげで今では、二人の馴れ初めから何までほとんど覚えてしまった。 
まぁ、結果的にそれがあの子の治療に役立ったと言えば役立ったのだが。 
それにしても、『真央ちゃん』とは高校一年からの付き合いだったとは。 
片手に余るほどの年月が経てども今も変わらずこれだけ熱を上げていては、当時からどれだけ溺愛していたかもはかり知れる。 
だからこそ、あの子は完膚なきまでに打ちのめされ――そして守ったのだろう。 
歯を食い縛り、失意を内に隠し、『真央ちゃん』に注がれているだろう笑顔を。 
あの子自身もさぞ欲しかっただろう親友の心からの笑顔を、決して負い目で曇らせてしまわないように。 
弱冠十五歳だった少女が身を挺して、自分の恋心をかなぐり捨てて。 
――頼む。いい加減報われてもいいだろう。 
一心不乱に祈り、グラスに残ったぬるい酒を飲み干した。 
氷は、もう溶けていた。 




お話しは、倉見さんの学生時代を巡るものだった。 
高校受験の日に、校門前で受験票を落としたこと。その時に一緒に探してくれた、優しい人、『先輩』との出会い。 
その人に惹かれて、難関私立を蹴ってまで選んだ花丸高校へ無事入学できて、飛び上がって喜んだ春のある日。 
全ての始まりが、その日だった。 
先輩との再会、買ってもらったばかりの携帯電話に初めて登録した電話番号。日々の些細な出来事でも、初めは先輩と話しているだけで楽しくて仕方がなかったそうだ。 
でも、だんだん物足りなくなっていって。 
ある日観に行った試合での、野球をしている先輩が、とてもかっこよくて。おぼろげだった恋心を、そのころはっきり自覚したらしい。 
梅雨も開けて、東さんについてく形で野球部の練習をよく観に行くようになったこと。 
あんまり先輩ばかりを見つめていたから、東さんにバレちゃって、今度どこかに連れていって貰ったらどうだ、と言われたこと。 
それで踏ん切りがついて、一生懸命台詞を考えて、噛まないように復唱して申し込んだ、初めてのデート。 
意外とすんなり先輩は了解してくれて、それからは時々遊びに行くようになった。そんなに頻繁にはいかなかったけれど、 
先輩と二人っきりなだけで幸せで幸せで、会うたびますます好きになっていって、落ち着かなくてベッドで足をばたつかせたり、もう四六時中先輩が頭から離れなくなってしまったのだと、倉見さんは語ってくれた。 
本当に、微笑ましかった。 
お話しの中の倉見さんは、今より少し幼くも、今と変わらない素敵な笑顔で春を謳歌していた。 
先輩の腕をとって、あちこちはしゃぎ回る高校一年生の倉見さんが、安易に想像できた。 
目を閉じて聞いていたら、きっと俺は笑っていただろう。これがラジオドラマなら、心暖まる傑作だったはずだ。 
だからこそ、心配だった。 
お話しの中の倉見さんとは違い、今俺のそばに居る倉見さんは、ひどく切なく、寂しげな笑みを浮かべているのだ。 
嫌でも解ってしまう。このお話しが、このまま平和に終わらないことぐらい。 
だから、俺は笑わない。笑えない。その代わりに、倉見さんをずっと見つめていた。 
一字一句聞き漏らすまいと、全意識を、倉見さんに集中させていた。 
やがて、お話しは秋を迎えた。 
心なしか、倉見さんの顔色に影が増えた。 
寂しげな笑みはさらにその色を強めて、まるで笑いながら泣いているようだった。 
間違いない。このお話しの山場が、秋にある。 
倉見さんに、こんなに似合わない笑みを浮かべさせる出来事が、俺が知らなくてはならない倉見さんが、ここにいる。 
一端、倉見さんが語りを止めてグラスに手を伸ばした。 
俺も残っていたドリンクを飲み干す。いつの間にか、氷は小さくなっていた。 
ほぼ同時にほぅっと息をついて、それがなんだか恥ずかしく、一緒に顔を赤らめて、再び、向き直った。 
「じゃあ、もうしばらく、お願いします」 
「はい。喜んで」 




「……恋心って、不思議なものなんですね。 
好きになればなるほどどんどん膨らんでいって、その分だけ、幸せと不安が同時にやって来るんですよ。 
……あれは忘れもしません、10月の初め、東先輩が野球部を引退しちゃって、わたしもちょっと練習を見学しづらくなっちゃった頃です。 
出会って半年、わたしはもう先輩に完全に心奪われていて、ひとつ、大きな大きな心配事がありました。 
先輩は、誰か好きな人が居るのかな、って。 
あまり考えないように努めてたんですけど、いい加減限界だったんですね。 
ただの仲の良い先輩と後輩じゃ我慢できなくなって、先輩の特別になりたくて、でも、下手にフラれて今の関係が消えるのも恐くて……、堂々巡りの中、ふと行事表を見たら、文化祭が近づいていました。 
渡りに船でした。 
文化祭、先輩を誘ってみよう。誰かいい人がいれば、きっとその人と一緒のはず、そして、もし一緒に回ってくれれば、その時は……思い切って、告白しちゃおう、そう計画立てました。一度決めれば後は速かったです。 
また台詞を考えて、何度も復唱して、いつもより早く起きて鏡とにらめっこしておめかしして……。受験なんて目じゃないぐらい緊張したまま、到着するなり野球部のお店に直行して、先輩を早速誘いました。 
そしたらです。思いの外、あっけなかったんです。 
わたしが差し出した手を、先輩は迷うことなく取って、いつものように笑ってくれたんですよ。 
もう、有頂天でした。 
そんなに広い学校じゃありませんでしたけど、先輩と一緒に回るだけで夢の国のようでした。時々先輩が同級生らしき人にからかわれてて、照れながらも、満更でも無さそうだったのがまた嬉しくて嬉しくて仕方がなかったんです。 
もしかしたら、もしかするかも……。そんな淡い希望も抱きました。 
それで、二人っきりの帰り道に、夕焼けの河川敷で、尋ねたんです。 
先輩は、好きな人は居ますか?って。そしたらですね、思いの外、あっさり答えてくれました。 
ふふ、どんな答えが返ってきたと思います?」 
……出来ることなら、倉見さんが好きだと、そういう類いの言葉を答えたかった。 
だが、倉見さんは、薄く笑っている。 
まるで笑うことが唯一の救いであるかのように、悲しみも、苦しみも全て押し込んで、倉見さんは無理矢理笑っている。 
俺が知らなくてはならない、この一年の違和感の象徴とも言える、薄っぺらい笑みだった。 
そんな倉見さんを目の当たりにして、明るい言葉なんてかけられるはずもない。断腸の思いで、俺は恐らく正解だろう答えを口にした。 





「……フラれちゃった、んですか?」 
しかし、確信に近かった予想に反して、本当に意外なことに、倉見さんは首を横に振った。 
「……いいえ。それなら、まだ……。わたしの台詞が悪かったんです。 
先輩は、居るよ、って一言、当たり前のように言いました。 
そして、わたしがまだなにも言わないうちに、先輩の彼女さん……、『真央ちゃん』って言う人なんですけど……、その人のことを、たっぷり十分ぐらい、微に入り細に入り話してくれました。 
よくぞ訊いてくれた、キラキラ光らせた目はそう語ってましたよ。わたしなんかには一度も見せたことのなかった、底抜けに明るい吸い込まれる笑顔で、ちょうど一年ぐらい前に出会ったんだとか、 
掴めないけどなんだか放っておけない子なんだとか、とにかく溺愛っぷりをとことんのろけられて。 
……あらかたお話しが済んだときには、わたしは相当グロッキーで、頭の中ぐちゃぐちゃだったんですけど、先輩は、その、勿論そう思ってやったんじゃないにしても、すでにギリギリだったわたしに、とどめを……、春香ちゃんは誰かそういう人は居ないのか、 
かわいいのに、って、いつもの笑顔で、わたしの知ってた笑顔に戻って、言われちゃいました。 
あ、でもですね、わたし、その時は泣かなかったんですよ? 
いつもみたいに先輩と別れて、家に返って、鏡の前で一生懸命笑う練習してた時に、ようやく、でした」 
「……倉見さん」 
「だって、先輩はわたしのことなんかなんとも思ってなかったんですから。わたしが勝手に舞い上がってただけで、先輩に心配かけちゃいけませんでしたし、何より、これだけ思いっ切り眼中にない、って言われちゃっても、それでもわたしは先輩との関係を維持したかった。 
だから、わたしは笑う必要があったんです。 
先輩が、大好きだったんですよ」 
少し、早口になっていた。 
乾いた笑みは、あからさますぎる空元気は、あまりにも倉見さんに似合わない。 
……それだけ、思い出したくないのだろう。 
「バカみたい、ですよね。先輩には一年も前に特別な人がいたのに。もうその席には先に人が座っていたのに。 
わたしは一人勘違いして、半年間ずーっと、行き止まりをぐるぐる回ってただけですよ。 
気づいた時にはもう遅くて、先輩ばっかり追いかけてたつもりだったわたしには、何にも残りませんでした。 
それからの学校生活は、よく覚えてません。 
全部、白黒の世界でした。あんなに楽しかった毎日が嘘のように、日々をぼぅっと過ごしてました。 
ふふ、かくしてわたしは、フラれることすらできなかったのですよ。わたしの初恋は初めからバッドエンドだったのですよちくしょー!」 
叫んで、倉見さんはぶん、とこぶしを振り上げた。 
その仕草は、俺のよく知る倉見さんに似ていた。だが、俺にはわかる。この一年、倉見さんの笑顔を側で見てきた俺にはわかる。 
振り上げられたこぶしに、まるで勢いがないことを。 
張り付かせた笑みが、やけっぱちであることを。 
倉見さんは、俺に教えてくれた。 
未だ癒えぬ傷をこじ開けて、切ない過去を明かしてくれた。……辛いのだろう。苦しいのだろう。 
それはきっと、わざとらしい明るさで、早口で捲し立てることで、やけっぱちの笑みで、思い出から自分を守ってやらなければならないほどに。 
「あ、あれ?笑わないんですね」 
笑えなかった。 
「可笑しくありませんか? 
結局、わたしが一人で舞い上がってただけだったんですよ? 
終わっていた恋に半年も悩んで、始まってすらいなかった青春に心踊らせて、結局フラれちゃうことすらできなかった。 
初めからわたしはただの後輩って決まっていたのに、一人で勝手にはしゃいで、落ち込んで、でも先輩は何も知らなくて。 
そんなの滑稽じゃないですか。ほ、ほら、笑えてきませんか?」 
笑えるわけがなかった。 
「……笑いませんよ」 
笑ってはいけなかった。言葉とは裏腹に、倉見さんは見るからに不安で満ちていた。 
揺れる瞳で、上ずった声で、俺に賭けていた。 
「倉見さんが、本当は笑っていませんから」 
笑ってしまえば、倉見さんも笑わざるを得なくなる。そうすれば、倉見さんが遠くに行ってしまう。もう二度と届かない、はるか彼方へ。 



「それより、倉見さん」 
「……、はい」 
図星だったのか、倉見さんはもう笑っていなかった。 
逆に安堵する。あの嘘っぱちの笑みを取っ払わないと、倉見さんと腹を割って話すのは叶いそうになかった。 
「もう、終わっちゃうんですか?」 
「え?」 
「倉見さんのお話しですよ。もう続きはないんですか?」 
「…………、どっちだと、思います?」 
質問に、質問で返される。 
俺は迷わない。もとより答えは決めていた。 
「俺は、まだ続くと思いますよ。倉見さんのお話し」 
「……どうして、そう思うんです」 
訝しむというよりも、すがりつくような、倉見さんの声色。 
今度はすぐには返さずに、じー、と倉見さんの目を見つめる。倉見さんがくすぐったいように身震いして、次第に顔中が赤く染まっていった。 
「あ、あの?」 
若干しどろもどろになって俺をせかす。 
ふ、と頬を緩めた。答える前に、素の倉見さんをもう一度見ておきたかった。 
「倉見さんですよ。倉見さんが理由です」 
「……どういう意味ですか?」 
「倉見さんは、ここにいる。今こうして俺の目の前にいます。今を生きている限り、人のお話しは続く。俺はそう思います。……それに」 
少し逡巡したが、言葉を繋げた。 
「信じたいんですよ。俺の……、いや、俺と倉見さんの一年を。もともと、違和感は感じていました。 
どこに遊びにいっても、倉見さん、たまーにぎこちなく笑ってたじゃないですか。 
見かけは、ちょっとだけなんです。いつもの笑顔と、その笑みが違うのは。 
それに、すぐ顔を引っ込めちゃうんですよ、そっちは。だから、いまいち俺は正体を掴めないままでした。……もどかしかったですよ。 
あぁ、どうしてこの人は、時々あんなに寂しそうに笑うんだろう、って。 
今ならわかる。あの笑い方は、倉見さんの仮面だったんですね。のっぴきならない現実に迫られて生みざるを得なかった、あの作り笑いは」 
「……」 
「はたから見る分には、違いなんてわからなかったと思います。俺だって、初めは気のせいかと思った。そのぐらい、よく作られた仮面だった。… 
…でも、この一年間、俺に見せてくれていた笑顔を、思わず見とれちゃうぐらい素敵に笑っていた倉見さんを、俺はニセモノだなんて思えない。 
垣間見せていた物憂げな笑みや、さっきのやけっぱちな笑みと、俺の大切な思い出が同じなわけない。身勝手な話ですけど、自惚れかも知れませんけど、それでも俺は信じます。 
今日まで俺が見てきた倉見さんは、ホンモノだ。 
だから、倉見さんのお話しはまだ続く。過去を振り切って、今このときへと至る第二章があるはずだ。あるに違いない。あってほしい……って、ちょっと、倉見さん?」 
ぴと。組んでいた手の上に、微かに汗ばんだ小さな手のひらが重ねられた。 
ぎゅっと、軽く力が込められる。 
倉見さんが、ちょっぴり泣きそうな顔で、俺の手を握っていた。 
一方の俺も、かぁっと頬に帯熱する。不意に手を握られてしまい、胸の鼓動が跳ねあがった。 
「えへへ。不思議ですね。手って、不意に握られるとあんなに恥ずかしいのに、いざこっちから握ってみるとそうでも無いんですね」 
「いや、俺はどっちも恥ずかしいですけど」 
「あれ?そうですか?……それより」 
倉見さんが少し首をかしげた。ふぁさ、と赤茶色の髪が揺れる。手は、まだ握られたままだ。 
「凄いですねぇ。わたし、昔にそうとう頑張ったんですよ? 
先輩にばれないようにって、何回も何回も練習して、長い間これで、先輩も、わたし自身さえもずーっと誤魔化してきたのに、たった一年で見破られちゃうなんて思いませんでした」 
たった一年、か。 
「たかが一年、されど一年ですよ。……倉見さんだって、そうだったんじゃないですか?」 
少しだけ、いじわるだったのかもしれない。 
傷口をピンポイントに突っついてやると、倉見さんは怯んだらしく、重ねた手が離れた。お返しに今度はこっちから握ってやる。 
あっ。そんな呟きと共に、倉見さんの顔もまた赤くなった。 
でも、もう慣れてしまったのか、頬こそ染めてはいたが、掴まれた手を離そうとはしなかった。 
「えへへ……」 
「ははは……」 
なんだかくすぐったくて、一緒に笑う。 
覗かせた笑顔は、弱々しくも裏のない澄んだもので、願望に近かった俺の推測は確信へと姿を変えた。 
この素敵な笑顔が、バッドエンドなわけがない。 
倉見さんのお話しは、まだ終わらない。 
願わくは、第二章が再起の章でありますように―― 
「倉見さん」 
「……わかってます。続き、ですよね」 
「はい!」 


「ちょうど二年前です。一通のメールが、わたしに届いたのは」 
二年前。聞き覚えのある言葉だった。 
「相手の人とちょっと前に会ったばかりじゃなかったら、さぞかし驚いてたと思います。 
だって、高校生の頃に、それもまだ先輩がいた頃に交換したきりのアドレスでしたから、まさかと思って。 
――話したいことがある。空いている日を教えてほしい―― 
たった二行の短いメールでしたけど、気づけばわたしは画面を食い入るように見つめていました。 
必死さと言いますか、とにかく心のこもったメールだった気がしたんです。 
おかしいですよね。手書きならともかく、メールでそんなこと思うだなんて。 
……実は、当時は相当参ってたんですよ。 
先輩がプロ野球選手になってから何年も経って、もう昔みたいに気軽には会えなくなっちゃってたのに。 
とっくの昔に、わたしも先輩を卒業していなくちゃいけなかった筈なのに。 
あと少し、あと少しだけ夢を見ていたい。 
そうやって、長年惨めにすがり付いていたツケだったんでしょう。 
先輩との接点はどんどん減っていくけれど、一向にわたしは先輩を忘れられなかった。 
希望が、見えなかったんです。時が経つにつれて、日に日に昔の足枷が重たくなっていくのがわかって、怖くて仕方がないようになっちゃってたんです。 
藁をもつかむ思いでした。その人は、先輩とわたしの数少ない共通の知り合いでしたから、もしかしたら何かあるのかもしれない、 
そう思ってすぐにメールを返しました。 
……藁だなんて、とんでもなかったです。わたしがいまここに居るのは、その人のおかげですから」 
「誰なんです、その人は。俺も知ってる人ですか?」 
「正体はばらすな、って言われてるんですよ。……ええ、でも確かに、先輩と、それからわたしたちみんな知っていますね」 
そんな人、俺の思う限り二人しか居ない。 
なんとなく勘付いているものの、俺は、そうだと思う方ではなく、そうあって欲しい人の名を出す。 
「……東さん、ですか?」 
半ば予想通り、倉見さんは首を横に振った。ならば、残るはあと一人しかいない。 
「その人は、わたしにとある二人のお話しをしてくれました。お話しは、とろける恋物語です。 
どこまでも甘く、聞いてるこっちが恥ずかしくなっちゃうくらい濃密な、二人の愛……、 
先輩と彼女さん……『真央ちゃん』っていうらしいんですけど……、のお話しですよ。 
写真や映画なんかじゃなくて、人づてに聞いてるだけのお話しなのに、脳裏に、鮮明に浮かぶんですね。 
わたしと一緒に居た時なんかより、断然素敵に笑う先輩が。わたしにはちっともくれなかった愛情を、彼女さんに惜しみ無く注いで。 
気付いてすらくれなかった山盛りの好意を、彼女さんからたっぷり受けとって。 
二人手を繋ぎ、熱く抱き合って、揚々と恋愛街道を往く先輩が。笑うことすら出来ませんでした。 
思い出の中の先輩すら、わたしから離れていくのが耐えられなくて、耳を塞ぎかけたんですけど、その人は許してくれませんでした。 
……とっくに、バレてたんです。高校時代から、その人は先輩の親友として、密かにわたしたちのことを気にかけてくれてたんですよ。 
だから、思い出にすがりついていることも、作り出した偽の笑いも、全部わかっていたんです、その人は。 
ひとしきり終わったあと、わたし、きつくお説教されました。 
――諦めろ。決して先輩は振り向かない。いつまで自分を苦しめる。人は忘れないと生きていけないのだから―― 
一言一句、欠かさず覚えています。 
とっても優しい人なのに、見たことのない厳しい顔してました。 
……言われたこと全部、自分ではわかってたつもりだったんですよ。 
けど、いざ真っ向からお説教されてみると、本当に突き刺さりました。やっぱり、どこかで目を背けてたんでしょうね。 
しかもそのあと、謝られちゃったんですよ? 
本当は高校時代に話すべきだった、長い間ひとりぼっちで苦しませてすまなかった、って。 
……背負い込んでたもの、全部の糸を切られた感じでした。堪えましたねぇ。机に突っ伏して、どれだけ泣き叫んだか。 
でも、今なら思えます。これはどこかで必要なことだった。 
そして、本来はわたしが自分でやらなきゃいけないことだったんです。今日だって、いろいろ手伝ってもらっちゃいました」 



思うところもあるのだろう。倉見さんは、恥ずかしげに締めくくった。 
俺は、矛盾する……とまではいかなくとも、複雑な感想を抱いていた。安堵と、感謝と、それからわずかな嫉妬心。 
俺が、友達以上に倉見さんを求めているが故の、くだらない、けれど抗えないジェラシー。 
いかんせん、格好よすぎた。 
この人の口から、そんなに格好いい男の話なんぞされてしまっては、たとえ倉見さんの恩人と言えども、正直歪な感情を御しきれない。 
東先輩ならよかった。あの人なら、俺はまだすんなり納得、素直に百パーセントの感謝だけで済んだのに。 
だが、その人は東先輩ではない。今日一日を振り返ってみても、その人の行動は、明らかに俺たちのためだった。 
倉見さんが電話で、「手伝って欲しい」と言っていた人。 
待ち合わせに来るなり、値踏みするように俺を見つめて、手を差し出した人。 
その後しばらく、倉見さんとなにやら話し込んでいた。 
そもそも、俺に倉見さんを送らせたのも、その人ではないか。本来なら年長者の東さんが打つような釘を機先を制して打ち込み、 
俺たちを二人きりにした張本人は、去り際にこちらを一度だけ振り返ったではないか。 
(カッコつけすぎですよ……先輩) 
まったく、オフシーズンにまで借りを作らされるとは思ってもみなかった。 
こうなると、来年返さない手はない。 
もちろん、野球で、だが。 
……それにしても。 
夜の小道で、胸に浮かんだひとつの不安。 
結局、倉見さんにとって俺は何なのだろう。 
文字通り、ただのおともだちなのか、それとも。 
もし後者ならば、あとひとつだけ残っているはずだ。ずっと過去を綴ってきたお話しが迎える新たな展開、倉見さんが今ここにいる理由が。 
「あの」 
「……はい」 
「ありがとうございました。わたしの長い長いお話しを最後まで聞き遂げてくれて。 
……こうして誰かにお話しできる日が来るなんて、思っても見ませんでした。 
これで、一人語りは終わりです。 
本当に、心の底からのお礼を言わせてください。 
……ありがとう、ございました」 
倉見さんは、笑った。 
俺のよく知るホンモノの倉見さんだった。 
それも、まだ何かを隠している、ちょっといたずらっぽい笑顔だ。 
俺もにっこり笑う。 
わざわざ「一人」、と言ったのだから。 
ならば、あるのだろう。 
「じゃあ、残りを」 
「はい。あと少しだけ聞いてくれますか?わたしの最後のお話し、わたしも結末を知らない後日談を」 
「はい、もちろんですよ」 
「こっちのお話しは、短いです。だけど、とっても大事なんですよ。こっちをお話しすることが、今日一番の目的ですから。あ、でも前の二つがオマケってわけじゃないですよ?」 
「わかってますよ。昔話は倉見さんなりの精算ですよね。……嬉しかったですよ、話してくれて」 
「えへへ、そう言って貰えるとわたしも肩の荷が降りた気分です。……いいですか?」 
「ええ。お願いします」 
深くうなずいて、俺たちは見つめあった。 
互いの瞳に互いを映し、どちらともなく三度手を重ねて。 
もう、倉見さん一人じゃない。今度は二人で、足並み揃えて進む。 


「出会いは偶然でした。今年の春です。……どこだと思います?」 
「病院、ですよね。ナマーズパーク近くの」 
「はい。その通りです。わたしはそこで、とある男の人と出会いました。 
……実は、第一印象から特別でした。顔も年も全然違うのに、纏う雰囲気と言いますか、なんだか先輩に似てるような気がするんです。 
しかも、前々から東先輩に聞いてはいましたけど、ポジションまで同じキャッチャーだなんて」 
そうだ。出会いは三月。開幕間際にオープン戦を怪我で離脱した東さんのお見舞いに行った病院だった。てっきり東さんの付き添いかと思っていたから、邪魔者は退出しようとしたら一緒に帰ることになって面食らったものだ。 
それから、二週間後ぐらいだったか。 
「……再会した時、倉見さん泣きべそかいてましたよね」 
休みの日、ミルキー通りの人の海に揉まれながら必死に探し物をしていた倉見さんを見つけたのは。 
「あはは……、あの時は、助かりました。寒い日でしたのに、ずっと手伝って貰っちゃって。慌てふためくわたしを見て、本当に親身になって探してくれましたよね。 
あの時、なんだか妙な懐かしさを感じたんです。随分遠ざかっていたものを、忘れかけていた何かを、ふと思い出した気がしたんです。 
……よく、似てましたから」 
誰に、とは倉見さんは言わない。勿論言われなくともわかる。 
「それからも、不思議とよく会いましたよね。 
特に約束したわけでもないのに、街中でばったり出会って、そのまま行きずりで遊びに行って。 
気のせいじゃありませんでした。 
いつの間にか、休みの日はミルキー通りで次の偶然を心待ちにするようになりました。 
懐かしいはずです。 
この思いは、かつて先輩に抱いたものとそっくりでしたから」 
俺とて同じだった。一軍に昇格した今年、明らかに去年と比べフリータイムは減っていたが、たまの休みはほとんどミルキー通りで過ごしていた。 
また会えるかな。いや、また会いたい、だ。 
淡い期待を胸に、俺も次の偶然を探していた。 
「……でも、それだけ恐かったんですよ。 
わたしは結局、先輩の代替を求めてるだけなのかもしれない、そんな不安を拭うには、わたしが先輩にしがみついていた時間はあまりに長すぎました。 
……だから、わたしはしばらくテストしたんです」 
「テスト?」 
「はい。映画にカラオケ、ボーリングにビリヤード……、時々わたしが指定したデートコース、あれ全部、昔わたしが先輩に連れていってもらったとこの踏襲なんですよ。 
映画のジャンルからカラオケの歌まで、全て揃えました。……黙っていて、ごめんなさい」 
絞り出した声で、倉見さんはぎゅうと体を折った。 
言われてみれば、倉見さんのレパートリーはどれも少し古く、自分で選んだ和風ホラーには心底怯えていた。 
つい腕を組んでしまったりもしたのだが、その辺もいろいろ被っているのかもしれない。 
時折覗かせていた寂しげな笑みも、ふと重なる過去の一幕に苛まれるが故のものだったのだろう。 
にしても、謝るようなことではない。 
どころか、むしろ嬉しかった。今の俺なら、倉見さんの気持ちは痛いほどわかる。 
果たして自分が、本当に前に進んでいるのか、それとも未だに囚われのままなのか。 
答えの見えない迷路を、俺を供して進み続けてくれたのだから。 


「そんな、別に謝ることないですよ。俺は気にしませんし。それよりどうだったんです?」 
「……結果は、出ましたよ。覚えてますか?一緒に乗った観覧車を」 
「はい。ちょっと遠目の遊園地の、オープン七年だか八年だかの記念日でしたよね」 
当時は、何故近場のナマーズパークを選ばなかったのだろうと思いもした。今となれば、その理由も大体見当がつく。 
「あの遊園地は、わたしと先輩が最後に二人で過ごした所なんですよ。……とりわけ思い出の残り香の強い、ずっと避けていた場所でした」 
「ああ、だからですか」 
「え?」 
「俺が倉見さんにはっきり疑問を持ったのも、遊園地だったんです。観覧車の頂上で、倉見さん、とびきり寂しげに、どこか遠くを見てましたから」 
そう言えば、観覧車からはあの辺りが一望出来る。倉見さんたちの学校とか、高校時代の馴染みの風景も、ゴンドラのてっぺんから見えていたのかもしれない。 
それだけ余計に昔を思い出してしまったのか、あの時の倉見さんは明らかにいつもの笑顔ではなかった。 
「あー、やっぱりあそこでばれちゃってたんですね。……先輩と二人で乗った、最後の乗り物も観覧車だったんです。 
てっぺん辺りで、先輩わたしにありがとう、なんて言ってくれちゃって。もうすぐ卒業しちゃうけど、春香ちゃんが後輩で良かった、とか。 
最後まで、わたしが欲しかった言葉は一つも貰えないままでした。 
それで、つい、いろいろと思い出しちゃったんですよ。 
なんだか泣きそうになっちゃって、あわてていつもみたいに笑おうとして……、でも、ダメでした。 
先輩に負けちゃいました。出ちゃったんですね。はっきりわかるぐらい、ニセモノの方が。……ずいぶん焦りました。 
その人には、ニセモノのわたしなんて見られたことなかったはずでしたから。 
その人の前なら、わたしはいつも……。 
そこまで切羽詰まって、ようやく気づけました。一体、わたしは誰が好きなのか。 
その人と一緒だと、どうして楽になれるのか。あと少しなんです。残りは、想いを打ち明けるだけなんですよ」 
重ねた手が剥がされた。意図を察して、二人がかりで空気を作る。 
倉見さんは軽く深呼吸していた。 
俺も背筋を伸ばす。これから来る全てを、一つとして取り零さないために。 
目端で捉えたグラスの氷は、もう完全に溶けきっていた。 
ごくん、と倉見さんの喉が小さく動く。膝に置いた握りこぶしは、目に見えて震えている。 
……無理もない。何年になるのだろう。四年?五年?いや、それ以上か。 
気の遠くなるような長い間、倉見さんに深く根を下ろし、蝕み続けた過去。呪縛。そう言っても過言ではない。 
その禍根の根元といえる感情に、倉見さんは再び挑まんとしている。 
怖いに決まっている。怯えるに決まっている。 
またしても、全てが空振りだったなら……。絡み付く恐怖はたくさんあるに違いない。 
できることなら手を引っ張ってあげたい。 
俺の方から、とうに決まりきった答えを伝えて楽をさせてあげたい。だけど、それは倉見さんにとっても、もう一人にとっても本意ではないはずなのだ。 
お互い、密度こそ違えど同じ方向で悩み続けてきたこの一年。単純明快なひとつの気持ちを共にしつつも、 
ただひたすらにそれに向かって走ることのできない、複雑怪奇な人の心。 
俺だって随分翻弄されてきた。見えない未来に悩みもした。だが、倉見さんは俺の何倍もの時間、俺の何倍もの苦悩を味わってきたのだ。 
だから、あとわずかな距離を踏破するのは、倉見さんであるべきだ。 
長かったマラソンの、ゴール・テープを一番に切るのは倉見さんの権利だ。 
それに何より俺は約束した。倉見さんの話を終わりまで聞き遂げる、と。意を決したのか、倉見さんの唇が、そっと開いていく。 
最終章の、未知なるページが。まだまっさらな未来が。そっと捲られていく。 





「そんな、別に謝ることないですよ。俺は気にしませんし。それよりどうだったんです?」 
「……結果は、出ましたよ。覚えてますか?一緒に乗った観覧車を」 
「はい。ちょっと遠目の遊園地の、オープン七年だか八年だかの記念日でしたよね」 
当時は、何故近場のナマーズパークを選ばなかったのだろうと思いもした。今となれば、その理由も大体見当がつく。 
「あの遊園地は、わたしと先輩が最後に二人で過ごした所なんですよ。……とりわけ思い出の残り香の強い、ずっと避けていた場所でした」 
「ああ、だからですか」 
「え?」 
「俺が倉見さんにはっきり疑問を持ったのも、遊園地だったんです。観覧車の頂上で、倉見さん、とびきり寂しげに、どこか遠くを見てましたから」 
そう言えば、観覧車からはあの辺りが一望出来る。倉見さんたちの学校とか、高校時代の馴染みの風景も、ゴンドラのてっぺんから見えていたのかもしれない。 
それだけ余計に昔を思い出してしまったのか、あの時の倉見さんは明らかにいつもの笑顔ではなかった。 
「あー、やっぱりあそこでばれちゃってたんですね。……先輩と二人で乗った、最後の乗り物も観覧車だったんです。 
てっぺん辺りで、先輩わたしにありがとう、なんて言ってくれちゃって。もうすぐ卒業しちゃうけど、春香ちゃんが後輩で良かった、とか。 
最後まで、わたしが欲しかった言葉は一つも貰えないままでした。 
それで、つい、いろいろと思い出しちゃったんですよ。 
なんだか泣きそうになっちゃって、あわてていつもみたいに笑おうとして……、でも、ダメでした。 
先輩に負けちゃいました。出ちゃったんですね。はっきりわかるぐらい、ニセモノの方が。……ずいぶん焦りました。 
その人には、ニセモノのわたしなんて見られたことなかったはずでしたから。 
その人の前なら、わたしはいつも……。 
そこまで切羽詰まって、ようやく気づけました。一体、わたしは誰が好きなのか。 
その人と一緒だと、どうして楽になれるのか。あと少しなんです。残りは、想いを打ち明けるだけなんですよ」 
重ねた手が剥がされた。意図を察して、二人がかりで空気を作る。 
倉見さんは軽く深呼吸していた。 
俺も背筋を伸ばす。これから来る全てを、一つとして取り零さないために。 
目端で捉えたグラスの氷は、もう完全に溶けきっていた。 
ごくん、と倉見さんの喉が小さく動く。膝に置いた握りこぶしは、目に見えて震えている。 
……無理もない。何年になるのだろう。四年?五年?いや、それ以上か。 
気の遠くなるような長い間、倉見さんに深く根を下ろし、蝕み続けた過去。呪縛。そう言っても過言ではない。 
その禍根の根元といえる感情に、倉見さんは再び挑まんとしている。 
怖いに決まっている。怯えるに決まっている。 
またしても、全てが空振りだったなら……。絡み付く恐怖はたくさんあるに違いない。 
できることなら手を引っ張ってあげたい。 
俺の方から、とうに決まりきった答えを伝えて楽をさせてあげたい。だけど、それは倉見さんにとっても、もう一人にとっても本意ではないはずなのだ。 
お互い、密度こそ違えど同じ方向で悩み続けてきたこの一年。単純明快なひとつの気持ちを共にしつつも、 
ただひたすらにそれに向かって走ることのできない、複雑怪奇な人の心。 
俺だって随分翻弄されてきた。見えない未来に悩みもした。だが、倉見さんは俺の何倍もの時間、俺の何倍もの苦悩を味わってきたのだ。 
だから、あとわずかな距離を踏破するのは、倉見さんであるべきだ。 
長かったマラソンの、ゴール・テープを一番に切るのは倉見さんの権利だ。 
それに何より俺は約束した。倉見さんの話を終わりまで聞き遂げる、と。意を決したのか、倉見さんの唇が、そっと開いていく。 
最終章の、未知なるページが。まだまっさらな未来が。そっと捲られていく。 





「好きな人は、いますか? 
わたしには居ます。わたしの好きな人は、とっても優しい人なんです。 
その人は、わたしの手をとってくれました。わたしの無茶なお願いも、長い長い昔話も、全部受け止めてくれました。 
……正直に言って、初めは先輩を重ねていました。きっかけも、先輩との出会いの面影に引っ張られたからです。だから、しばらくわかりませんでした。 
わたしは誰を見ているのか。結局、わたしは先輩の後ろ姿に恋しているだけなのか。 
でも、今なら。 
さっき、自惚れかもしれない、そう言ってましたよね。 
とんでもないです。むしろ、わたしがお願いしなくちゃいけないんです。 
信じてください。わたしはもう振り返りません。わたしはもう昔に囚われたりしません。 
だって、新しい憧れができましたから。 
一緒に居るだけで幸せな人との、夢見る未来ができましたから。 
信じてください。わたしが好きな人は、先輩じゃないです。 
わたしはもう、先輩の前では笑えません。心にもない作り笑いで、先輩も、自分も、何もかも誤魔化さないとやっていけなくなっちゃいました。 
だけど、その人のそばなら。自分でも気付かなかったくらい自然な笑顔でいられるんです。 
笑うことが、苦しくないんです。 
信じてください。大好きです。わたしは、その人のことが……、わたしにもう一度笑顔をくれた、今目の前のあなたのことが、大好きです!!」 





――好きな人は、居ますか? 
倉見さんは、どんな思いでこの言葉を選んだのだろう。 
数年前、自らを失意の底に叩き落とした言葉。 
生まれたばかりの初恋を無情にも断絶した言葉。 
倉見さんにとって忌むべき言葉のはずなのに、同じ局面で、同じ目的で、同じ言葉を選んだ。 
声をわななかせ、握りこぶしは震えたまま、胸のうちを俺にぶつけてくれた。 
俺は報いなければならない。全身全霊で、倉見さんの覚悟に答えなければならない。 
そのためには、言葉では足りなかった。 
また手を握る? 
いや、それでもまだ、倉見さんの覚悟には敵わない。なら、どうする。……決まっている。 
「失礼します」 
返事を待たず、手を伸ばす。 
「……あ」 
初めて抱いた倉見さんは、見たままよりずっと細く、頼りなかった。目端に映る真っ赤な頬。きっと俺も同じだろう。 
「信じますよ。今さら何を疑えと言うんですか。俺は、倉見さんを信じます」 
「……でも、こんなに長々と、先輩のことばかり話してきたんですよ?」 
「話してくれたからこそ、です。倉見さん。俺まだ答えてませんよね。倉見さんの質問に。 
……好きな人、居ますよ。俺も。出会いは偶然、再会も偶然、だけど次第に、次の偶然を探し求めてまで会いたくなった人が居ます。 
いつの間にか、たまの休みはミルキー通りで偶然を期待するようになりました。倉見さんと一緒なんです。偶然ですけど、奇遇ですよね」 
今日だって一緒だ。クリスマスといっても、何らいつもと変わらない。 
単なる巡り合わせのおかげで、俺は倉見さんと出会えたのだ。それだけに、今ここにいる倉見さんは特別だった。 
今このときは、倉見さんが初めて望んでくれた、俺との必然なのだ。 
いつ消えるかもわからない偶然をいくつも繋ぎ、正体の見えない違和感をかき分けて、ようやく知り得た倉見さんの過去。もう離さない。 
腕の中の小さな必然を、俺は優しく抱きしめる。 
「笑顔が素敵な人なんです。思わず見とれちゃうぐらい素敵に笑うんです、その人。 
恥ずかしながら、初めて見たときから虜になってしまいまして、多分、一目惚れってやつに近かったです。 
……でもですね、その笑顔には時々陰がかかるんです。 
俺の大好きなぽかぽかの笑顔とは似ても似つかない、乾いた笑みを浮かべるんですよ。 
聞くに聞けない、だけど気のせいじゃない。言いたいことも言えずに、悶々としてました。 
だから、俺は嬉しいです。倉見さんが包み隠さず話してくれたおかげで、やっと気兼ねなしに抱きしめられる。 
言いたいことも、やっと伝えられる。……虚しかったんですよね」 
「!」 


ぎゅう、と首もとがしまった。倉見さんが、俺の上着にしがみついたのだ。 
「たった一年、出会いが遅かっただけで、先輩は遠い人になってしまった。 
たった一年の差が、先輩を好きになることすら許してくれなかった。 
胸いっぱいに膨らんでいたはずの希望が全て、ある日突然シャボン玉みたいに弾けて消えてしまった。……たった一年、その一年が全てだった」 
ぎゅうぎゅう。肩のところに皺が波打つほど、強く、強く握りしめられる。 
もしかしたらそれは、口に出せない拒否反応なのかもしれない。 
倉見さんの防衛本能なのかもしれない。だけど、俺とて今さら止まれない。 
「……今日の帰り道です。時間は残酷だ、って倉見さん言ってたじゃないですか。倉見さんもたくさん振り回されちゃいましたもんね。 
あまりにも理不尽で、恨もうにも途方が無さすぎて、胸にぽっかり空いてしまった穴をどうしても埋められなかったんですもんね。 
……それほど、虚しかった。先輩と、肩を並べることすら叶わなかったことが。初めから、諦めるしかなかったことが。 
納得いかなくて、認めたくなくて、虚しかったんですよね」 
「……っ」 
嗚咽が一滴、微かにこぼれた。倉見さんが体を寄せてきて、完全に密着する肌と肌。 
肩口に乗せられていた顎が、胸へと沈んだ。柔らかな髪を愛でながら、ごめんなさい、と心中で謝る。 
俺は今一度、倉見さんの傷口に塩を塗り込むような真似をしている。 
それが倉見さんにとってどれほどの苦痛なのか、想像に難くはない。だけど、俺だって伝えたかった。 
俺なりの、お話しの解釈。何がどうなって、こんなにも長い間諦められなかったのか。 
何が原因で、こうも長々と尾を引いてしまったのか。 
数年越しの倉見さんの苦悩を理解した上で、俺は倉見さんを信じているのだと。 
そして、何より―― 
「倉見さん。俺、頑張りますから。 
今すぐ、とは言えませんけど、失くしてしまった分もお釣りが来るぐらい、倉見さんを幸せでいっぱいにしてみせます。 
だから、お願いです。 
これからも俺のそばにいてください。もっともっといろんな倉見さんを俺に教えてください。 
大好きですよ。倉見さん。俺もあなたが大好きです!」 
――俺は、あなたを愛しています、と。 


「ちくしょー……」 
くぐもった声が胸に響いた。 
倉見さんの涙声だった。 
いまいち要領を得ない言葉だったが、そもそも意味なんてないのかもしれない。 
「わたし、今日は泣かないって決めてるんですよ……、二年前のあの時、たっぷり泣きましたから……。なのに……」 
違った。意味はあった。なんともいじらしい意味が。 
「我慢なんてしないでください。おもいっきり泣いちゃってくださいよ。 
泣いちゃってる倉見さんも、俺は見てみたいです。きっと可愛いでしょうし」 
「あー、ひどい……。人がせっかく必死にこらえてるのに…………、い、意外といじわるなんですねっ、そんなこと言われたら我慢できないじゃないですかちくしょー! 
……ちくしょー、ぅう、ちくしょー……」 
後ろ手に回された腕が、背中を締め付ける。 
俺のことがちょっぴり恨めしいのか、その力は強く、小さな顔を俺の胸板に埋めてまで泣き声を押し殺しているのは、倉見さんなりの意地なのだろう。 
でも、涙までは誤魔化しきれない。 
倉見さんが、俺の胸で泣いている。 
上着が次第に湿ってくると、指通りの良い髪を撫でていると、そんな見たままの現実が形として感じられて。 
今は、それだけで十分だった。 


「……ぐす、結局だめでしたねぇ」 
ぐしゅぐしゅ。真っ赤に泣き腫らした目を擦っている。 
小柄な彼女の小動物然とした仕草はなんとも可愛らしく、やはり俺の目は間違っていなかった。 
「でも倉見さん、帰り道も涙ぐんでませんでした?」 
雪、と空を見上げた時のことだ。 
今にしてみれば、あの頃から倉見さんはどこかおかしかった。 
「う、バレてましたか。あの時は、その、クリスマス一緒に過ごせて楽しかった、って言ってくれたじゃないですか!」 
「ええ、言いましたね」 
「もしかしたら、今度こそは……、そう思って、感動しかけちゃったんですよ。それより!」 
「それより?」 
大分落ち着いたのか、全部片付いてスッキリしたのか。 
だんだん俺がよく知っている、ハイテンションな倉見さんに戻りつつあった。 
どころか、いつも、の幅を針が振り切っている気がする。 
反動かな、そう思ったが。 
「キス!」 
「……へ?」 
「キスしてください!ぶちゅっと、強烈に!」 
違った。ほんのり染めた頬を見るに、照れ隠しらしかった。実感が欲しいのかもしれない。正式に恋人となった証拠が。 
「俺から、ですか?」 
「はい!ファーストですよ!大事にしてくださいね?」 
口早に言い残して、倉見さんが目を閉じた。無防備に放り出された、小さくみずみずしい唇。 
弾む胸の鼓動に急かされて、そろっと、軽く、口付けた。 
「……あれ?」 
物足りないような拍子抜けしたような反応。 
「どうしました?」 
「いや、その、……あれ?」 
わざとらしく聞いてやる。 
きょとん。そんな擬音を体現している倉見さんが、なんだかおかしかった。 
「……もっかい!」 
「へ?」 
「もういっかいお願いします!そんな、ちゅ、じゃなくてこう、ぶちゅっと!」 
だが、倉見さんは怯まない。立て直しも早い。 
闘牛のように、一直線に突き進んでくる。 
「なら、倉見さんがお手本を」 
俺は突進をかわす。 
「えぇっ!……わかりました!」 
かわした先に、さらに倉見さんは突っ込んできた。さすがに回避を諦め、ひそかに期待を膨らませて、目を閉じその時を待っていると。 
――ちゅっ。 
あっさり来て、あっさり終わった。 



「あれ?」 
「ふっふっふっ、期待を裏切られる切なさ、身に染みましたか!?」 
「……はぁ」 
「ならいいです!さあ、三度目の正直ですよ!」 
声も高らかに、再び倉見さんが目を閉じた。 
軽く深呼吸する。さっきのは確かにからかい半分だったのだが、それはそれとして実際俺の胸は緊張に波打っている。 
いかんせん、万事が初めて尽くしなのだ。 
片腕で背中を支え、もう片方を顔に添えて。 
ちゅう。 
三度、倉見さんと口を交わした。今度はそのまま離さない。唇をそっとこじ開け、おそるおそる舌を伸ばしていくと、つん、と倉見さんにぶつかった。 
互いにたどたどしくも、正直に。 
唾液を交わらせ、舌肉を擦り、粘膜をむさぼりあって。 
「ぷはぁ」 
「はぁ……はぁ……」 
息苦しさに、結合を解いた。 
強烈だった。 
初めて味わった、女性の肉体。駆け巡る悦楽も強烈なものだったが、何より。 
「…………」 
「…………」 
恥ずかしい。今しがた濃厚なキスを交わした人と向かっていることが、強烈に恥ずかしい。 
「……ふぅ」 
「しちゃいましたね、キス、ぶちゅっと」 
「……気持ちよかった、ですか?」 
「ええ。……倉見さんは?」 
「あ、わたしも、……とっても」 
それきり、会話が続かない。 
倉見さんも先の勢いはどこへやら、すっかり押し黙ってしまっている。 
沈黙を破るべきか否か、取り敢えず相手を伺おうとそぅっと様子を覗くと――おそらく同じことを考えていたのだろう――図ったようなタイミングで倉見さんと目が合ってしまった。 
瞳と瞳の間に、ぴっと引かれた一筋の糸。 
気まずくて、恥ずかしくてたまらないはずなのに、不可視の糸に結ばれた俺達は、目をどうにも反らせない。 
しばし、視線で会話を交わす。もはや言葉などまどろっこしい。 
涙の残し輝く倉見さんの瞳が、妖しく光る倉見さんの唇が、今、一番俺がしたいことを明確に教えてくれている。 
「倉見さん……」 
かろうじて残った理性を頼りに、ごくゆっくりと衣服へ手をかける。 
薄いピンクの鮮やかな、よく似合ったパーカー。 
そのチャックに手を触れたとき、ぴと、と一枚、小さな手のひらが被さった。 
「あ、あの!」 
そのまま、ぎゅっと押さえ込まれる。 
嫌悪、とまではいかなくても、倉見さんは明らかに抵抗を示していた。 
早まったか――? 
押し寄せる苦い後悔に、俺は余程渋い顔をしていたのだろう。倉見さんは慌てて首を振り、困ったふうに笑った。 
「あの、そうじゃなくて、……服は、自分で」 
めっ。 
早まる子どもを諌めるような口ぶりは、未だどこか少女の可憐な面影を残す倉見さんには珍しく、年相応の女性の風格を感じさせるものであり。 
(……そう言えば、年上だった) 
俺はすっかり手を止め、今さら過ぎる事実を、うまく働かない頭にぼんやりと刻んでいた。 





「あの、目が怖いです」 
「……すいません。でも、不可抗力です……」 
あのあと。 
さすがに恥ずかしいですからと、後ろを向かされ。 
妙に生々しい衣擦れの音に欲情させられて。 
永遠にも思えた数分を耐え、ようやく目に入れることの叶った光景はあまりにも現実離れしたものだったのだ。 
「だって、倉見さんが……」 
弁解しようにも、その後が続かない。ベッドの端には、きちんと畳まれた衣服の山。 
スカートの奥からは白い足がスラリと伸び、所在無げにぶらぶら揺れている。 
ほどよく肉付いたふくらはぎを登ると、悩ましい曲面を描く魅惑の腰つきに、幾分倒錯的な印象を持って俺を惑わす小さなおへそが絶妙なアクセントを加えていた。 
……そして、何よりも。危うげに隠された倉見さんの小ぶりなふくらみは、俺の目を奪ってやまなかった。 
なんだかんだ言ってもそこを外気に晒すのは躊躇われたのか、倉見さんは胸元を手のひらで覆っていたのだが、それはあまりに中途半端だったのだ。 
見えそうで見えない先端、焦れる男を逃さず引きずり込む胸の谷間。だがしかし、倉見さんは決して誘っているわけではないのだろう。 
柔らかそうなほっぺたは完熟の色を呈し、形の良い眉は軽く伏せられ、乙女の恥じらいを存分に見せていた。 
驚くことはない。 
これが、女性の持つ天性の魔性なのだ。 
倉見さんとて、立派な女性の一人ではないか。 
……そんな意味のない正論を、首の皮一枚繋がった理性は繰り返している。 
本当に、ナンセンスだ。 
日々の明朗快活な倉見さんから、こんなに色っぽい姿などどうして想像できようか。 
このギャップの前には、あらゆる冷静な思考は無力。 
ただただ、俺の視線は母性の象徴へと注がれていた。 
「もう!そんなに胸ばっかりじろじろ見ても、べつにぜんぜん大きくないですよ!?」 
「小ぶりなのも、俺は好きです」 
だから、反射的に本心で答えてしまった。言葉をオブラートに包む余裕が、今の俺には無い。 
「うわ、そんなにはっきりと……ええそうですよひんにゅーですよバストなのにタイニーですよちくしょー!……あ」 
「いや、貧しい、ってほど……で……は」 
ちくしょー。 
今日何度目だろうか、倉見さんは叫んだ。 
ちくしょー。 
握りこぶしを作り、腕を振り上げ、天を突きながら、愛嬌たっぷりに。 
そう。「腕」を振り上げながら。 
たった一枚の胸の囲いは、呆気なく。俺が手を下すことなく、実に呆気なく消えた。 
腕の勢いに、倉見さんの上半身が揺れる。当然、支えを失った胸部も同時に―― 
ぷるん。 
控えめな弧を描き。 
ぷるん。 
小ぶりと言えども、決して貧しくなど無い乳房が。 
ぷるん。 
肌寒いのか、はたまた緊張か、ツンと勃ち上がった桜色の乳首も露に。 
ぷるん。 
――揺れた。 
腕もそのまま、自分の胸元を見下ろし、倉見さんは固まっていた。 
一方の俺はというと。勿論、見た。 
全身の神経を研ぎ澄ませていた俺は、鍛えぬいた動体視力で一瞬の躍動を限りなく圧縮し、スローモーションではっきりと倉見さんを捉えた。 
ぱきん、と、頭の中で何かが崩れ去った。最初、それは理性だと思った。待ち望んだ宝を刺激的すぎる形で手に入れて、てっきり俺は暴走するのだと思った。 
だが、予想に反して俺は飛びかからない。 
無防備な倉見さんを組み伏せて、瑞々しい果実に喰らいつき、キスの嵐を降らせようとはしなかった。 
なぜ。 
答えは単純だった。 
崩れ去ったのは、倉見さんへのギャップだったのだ。 


「あはははは……」 
「む、何を笑ってるんです」 
我に帰った倉見さんに、刺々しく睨まれた。 
「いやぁ、俺も若造ですけど、倉見さんもなかなか大人になりきれないんだなぁ、って思うとなんだかおかしくってですね」 
「うわ、さっきから人が気にしていることをズバズバと……優しさのかたまりみたいな人だと思ってましたけど、結構いじわるなんですね!騙されたー!ちくしょー!」 
「騙されたって、人聞きの悪い……」 
「まぁそれはもういいです!それより、ほら!」 
「どうしました?」 
「……やっぱりいじわるですね。とっとと幸せにして下さい!」 
「あはは……了解です」 
まぁ、これはこれで良かったのかもしれない。 
ムードこそあったもんじゃないが、同時にやっかいな緊張も程よくほぐれてくれたのだから。 
手始めに、肩にそっと触れた。思った通りの滑らかな手触りにうっとりしつつも、気遣いは忘れない。 
「震えてますね。……やっぱり怖いですか?」 
「……はい。まぁ、少しは。……優しくしてくださいね?初めて、ですから」 
「俺も一緒ですよ。俺だって初めてです」 
「あ、そうなんですか。じゃあ……んっ」 
返事の代わりに、唇を優しく押し当てた。 
忘れかけていた刺激を呼び覚ますために。生暖かい唾液を被膜にした、ぬるぬるの舌を互いに伸ばし、俺達は一足先に抱き合った。 
「ふ、ぁ」 
「ふふ、倉見さん、喜んで下さい。今なら、大人っぽいえっちな顔してますよ」 
「な、なんですかそれはぁ、だれの、せいだと……むあぁ」 
「そりゃ、俺のせいでしょう」 
軽くあしらって本丸へと向かう。 
快楽と羞恥にぷるぷる震える、お椀型の芸術。 
触れれば壊れてしまいそうな繊細なバランスを保つ白乳を、おそるおそる揉みしだいた。 
むにゅ。むにゅ。 
手ごろな大きさのふくらみは薄く汗ばみ、しっとりと手のひらに吸い付いてくる。 
ものすごく柔らかいなにか。潤いもたっぷりに押し返してくるなにか。 
病み付きになりそうな、異次元の感覚に脳が震えた。世界中の枕研究家は、この、ため息のでる天上の感覚を目指すべきではないか、そんなわけのわからない感動を抱きすらした。 
勿論、胸だけで満足はしない。仰向けに寝かせた、目前に広がる倉見さんの真っ白な裸体に覆い被さり、舌を丹念に這わせていく。 
「ひゃぁっ!な、なんだか、こしょばくって、ふぁあっ!」 
首筋から鎖骨、つつ……となぞるように下り、ここかそこか、倉見さんの悦ぶポイントを探る。時折、ちゅうちゅう啄み、白い布地に赤い斑点を施しながら、 
下り、下り、再び二つのふくらみへと戻ってきた。 
ぷっくり膨らんだ、おっぱいの先っぽ。 
しゃぶられるためにあるその器官に、俺は迷わずしゃぶりついた。 


「ひっ!ふっ、いやっ、ふゃあ!?」 
やわやわな果実をつっつき、固めの種は優しく弾く。 
上唇と下唇ではみはみマッサージしたりもしていると、今までのどの部位よりも倉見さんの嬌声が熱っぽいことに気付いた。どうやら、ここが倉見さんの弱点らしい。 
ならば、責めるのみ。 
弱点を責めるのは、何事にも通じる鉄則だ。 
野球だって、中継ぎが穴のチーム相手なら、粘って先発を降ろさせる。 
コントロールに難がある投手なら待球作戦。 
外野の一部が穴のチームならなら、狙い打つのが当然ではないか。 
勿論、男女の交わりは相手を打ち負かすのが目的ではないのだから、倉見さんとの約束を破らない程度に、だが。 
「も、もう、どうして、んぅ、そこ、ばっかり……っ!!」 
ちょっとだけ強めに。実った果肉を吸ったり潰したり。 
倉見さんの熱い吐息がかかり、たぎる血が股間へと集まる。 
欲望の化身は、硬く、熱い。 
「ふゃ、んぁ!あのっ!わ、わたし、もう……ひぅぁ!?ああぁっ!」 
そろそろいい頃合いかもしれない。 
髪を振り乱し、全身をひくつかせて、倉見さんはすっかり肉欲の熱に犯されてしまっていた。喘ぎ声も切れ切れ、頬には涙が伝い、どうみても限界そのものだ。 
かくいう俺も、一年間片思いを続けた人の恥体を目の当たりにし、暴発の恐れなきにしもあらずといったところで、あまり余裕をかましてられなかった。 
倉見さんの頬に手を当てる。零れた涙を一筋拭い、髪をさわさわ撫でてやった。 
「大丈夫ですよ、倉見さん……安心して……んむ」 
最後に残しておいた、取って置き。 
もう一度、谷間に顔を埋め、固く腫れ上がった倉見さんの一番敏感なところに口を添えて、 
「ひぁっ!?そ、そこはっ…………ぁああああああっ!!!」 
甘く、歯を立てた。 
小柄な体のどこから絞り出したのか、倉見さんの絶叫が部屋全体に響き渡る。 
背筋を反らし、ひときわ大きく跳ねて、倉見さんの絶頂はひとまず止んだらしかった。 
「はぁ……はぁ、ほ、ほんとーに」 
「え?」 
「ほんとーに、初めてなんですか?要領とか……、いろいろ」 
「昔から器用な方なんですよ。これでも、うっかり傷つけちゃわないか戦々恐々としてるんですからね」 
「あ、覚えててくれたんですか……」 
「当たり前じゃないですか。それより」 
スカートの下、さらには中に手を差し込み、倉見さんの股部をまさぐる。 
「ひっ!?な、何するんですかいきなり!」 
「初めてにしては……すごいなぁ、と思いまして」 
ひとしきりまさぐった手を明かりにかざすと、てらてら妖しく輝いていた。 
生まれつき敏感な方なのだろう。そこは認めるとしても、いくらかぐしょ濡れが過ぎる。 
……何も俺は倉見さんを疑っている訳ではない。ただ、倉見さんとてうぶなねんねではないのだから、 
日々のルーチンワークの中に時たま挟まるイメージトレーニング(?)があるだろう。 
俺はその行為の名前と、仮想相手を倉見さんの口から直接聞きたいだけなのだ。これも結構いじわるかもしれないが。 
「ど、どういう意味ですか?」 
「そのまんまですけど、……まぁ、単刀直入に聞きますと。……倉見さん、けっこう一人でしちゃったりしてますよね」 
質問、と言うより脅迫に近いかもしれない。 
相手の否定を想定していない高圧的な態度だ。 



「い、いけませんか!わたしだって時々えっちな気分になったりしますよ!悪いですかっ!」 
「いやいや、悪いわけないです。ただ、俺、倉見さんのお相手を知りたくて」 
「お相手って……………………ああ、なるほど。そういうことですか。 
ふふん、やっぱり嫉妬しちゃいます?それとも、心配ですか?わたしのこと」 
「倉見さんのことは一滴たりとも疑ってません。俺のみっともない焼きもちですよ」 
「そうですか。……えへへ」 
「……どうして笑うんです」 
「いやぁ……両思いって、嫉妬してくれてるって、嬉しいなあ、って思いまして。……わかりました。答えますよ。 
わたしが……、えと、一人で気持ちよくなるとき、ずっとずっと、そばには先輩が居ました。それこそみっともなく、 
長年、幻の先輩にしがみついてました。でも、今は……最近は……えっと」 
「……俺、ですか?」 
「……、はぃ」 
消え入りそうな声、でも確かに聞いた。 
「倉見さん」 
溢れ出る歓喜。 
ぷいと顔を背けてしまった、俺の望んだ答えをくれた倉見さんがいとおしくて堪らない。 
「……もう、さすがに恥ずかしいいですよ」 
「……すいません。お詫びに俺も、何でも言うこと聞きますから」 
「本当ですか?」 
「ええ。約束します」 
「なら、早くください」 
「くださいって……何を」 
「しあわせですよ。早く、しあわせをわたしにください」 
なるほど……しあわせ、ねえ。この上なく嬉しい喩えじゃないか。 
「わかりました。では、剥かせていただきます」 
「剥くって、なんだかいやらしい……ひぁぅう……」 
そうして、いざ剥いてみると、ひとつわかったことがある。 
なぜ倉見さんが年上風を吹かせていたにもかかわらず、下は一枚たりとも自分から脱ごうとしなかったのか。 
もちろん恥ずかしいからなのだろうが、恥ずかしい、のレベルが知れたのだ。 
スカートの中は、それはもうめちゃくちゃだった。 
湧き出る愛液はもはや歯止めが効かないらしく、下着に半円状の黒ずみを浮かべ、内股を伝ってシーツにまでシミを作ってしまっている。 
発情の証を、止めどなく漏らし続けてしまっているのだ。いやらしくて、はしたなくて、だけどどうにもできない。 
高ぶる性欲に身を乗っ取られ、ぐしょ濡れになってしまったそこを自ら晒すというのは、考えただけでも、無理だ。 
見てるだけの俺にすら刺激的過ぎて、しばらく言葉を失ってしまった程なのだから。 
「……じゃあ、その、最後のほう、失礼します」 
「はい……」 
飛んでいきかけた気を取り戻して、最後の一枚。もっとも隠されて然るべき秘部を守るには、あまりに小さく脆い一枚。 
たっぷりの水分を含み、もはや役目を失ってしまった布を、丁重に脱がせていく。 
ぬちゃ……、粘液質な汁気を吸った布切れは意外なほど重く、その内に立ち込めていた、濃厚な香りが辺りに拡散した。 
爽やかでこそないけれど、鼻をつまむ臭いでもない。雄の本能を揺さぶりにかけるため、発情した雌が発する誘い香。 
恥毛は薄い。若草のような草丈の低い茂みが雨露を受けて艶やかに光り、ピンク色の媚肉は物欲しげにひくひくと蠢いている。 
これだけ薄いと、さぞかし舐めやすそうだったが……まあ、今日のところは遠慮しておこう。 
「んんっ!んっ!」 
代わりに指を差し込んでみると、それなりにきつそうではあったものの、丸々二本くわえこんでしまった。 
準備万端、と言うことか。 
ズボンを下ろし、俺の方も臨戦体制に入る。 
天を突く俺の怒直は苦しげに喘いでおり、若干グロテスクながらも女体の神秘を纏う倉見さんの恥部とは違って、どうみてもひたすらに醜い。 
こんなものが倉見さんをしあわせにできるのかはたはた疑問だったが、倉見さんが俺を望んでくれている以上、そこの裁量は俺が関与すべきではないのだろう。 


「いきますね、倉見さん」 
「……」 
くちゅくちゅ、くちゅくちゅ、数回入り口で慣らしてから、挿入を始めた。……やはり、これだけ濡れていてもキツいものはキツい。 
得体の知れない侵入物を拒もうと、倉見さんの膣が収縮する。 
「……ぅあ、くぅう……」 
そこを押し入っていくのだから痛くない筈がない。 
怖くない訳がないのだ。 
現に、倉見さんは苦しげに呻いている。額に鈍い汗を光らせ、顔をくしゃくしゃに歪ませてしまっているではないか。 
優しくすると言った。しあわせにすると約束した。 
それがなんだ、俺はこの人を……。 
「大丈夫、ですよ」 
膨れ上がる罪悪感に、腰の動きを止めかけていた時だった。 
「そんなに……悲しい顔、しないでください。わたしなら、だ、大丈夫、です」 
「……倉見さん」 
「もちろん、痛い、ですよ?だけど……ぅあ、この痛みは、しあわせの、証、です……。 
届くことのなかった、空振りの想いとはちがう……大好きな人と、繋がってる、正真正銘の証……。ですから、大丈夫ですから、一つだけ、お願いが……」 
「……ええ」 
「……あ」 
ぱたと投げ出された手。 
今夜の始まりを告げた手。 
小さな手のひらに勇気を握り、俺を聖夜へと引っ張った手。 
ちょっぴりあどけなさを残す手を、もう何度目だろうか、ぎゅっと握った。 
「こう、ですよね」 
「えへ、へ。嬉しいなぁ。自分の気持ちが、わかってもらえるって、……ひっく、しあわせ、なんですねぇ」 
「倉見さん、まだ泣くには早いですよ。俺たちはこれから一緒に、たっぷりしあわせになるんです。今満足しちゃうなんてもったいないですよ」 
「ぐす、本当ですね?それじゃあ、これからも、ずっと、ずっと、よろしくお願いしますよ?」 
「はい。誓って」 



『一塁側、ホッパーズ、スターディングメンバーは、一番――』 
「先輩」 
「なんでやんすか、後輩」 
「ありがとう、ございました」 
「……なんの話でやんす」 
「とぼけないでください。クリスマスのことです」 
「…………、はぁ、名前は出すな、って言ったでやんすのに」 
「格好つけすぎですよ。俺に頭ぐらい下げさせてください」 
「……何か、勘違いしてるでやんすね」 
「勘違い?」 
「そうでやんす。勘違い甚だしいでやんす。おいらは可愛い可愛い後輩のことだけを考えてたのでやんす。どこぞのかわいくもない後輩なんて知ったこっちゃないでやんす!」 
「……」 
「だいたいあんたがおいらと対等に話そうってのが間違いなのでやんす。まだ三年目の駆け出しと、去年のセーブ王。お礼なんて生意気もいいところでやんす。盗めるものは黙って盗んどけでやんす」 
「……でも」 
「何が、でも、でやんすか?口で語る前に、野球選手ならバットで語れでやんす。 
今シーズン、おいらから勝ちをもぎ取ってから、もう一度話を聞こうじゃないでやんすか。 
ま、とは言っても。大事な開幕戦、後輩はまだまだベンチでやんしょ?」 
「……いえ。ナマーズのスタメンマスクは俺です」 
「ほう…………、いいでやんす。上等でやんす。言っておくでやんすけど、こっちは可愛い可愛い後輩を盗られて、あんたのことが憎たらしくて仕方がないのでやんす。おいらの壁は、こう見えて分厚いでやんすよ」 
「わかってますよ、先輩」 
「……今年もこてんぱんにしてやるでやんす。それじゃあ失礼するでやんす、後輩」 
「ええ。先輩」 
『――九番、ピッチャー、芦沼――』 


九回裏、無死満塁。 
スコアボードに並ぶ大量の0と、たったひとつの1。 
たこ焼きに楊枝が刺さったようだ、とは、誰が言ったものだったか。 
移籍二年目の若きエースは、開幕投手の役割を立派に果たしてくれた。 
八回まで必死にしのぎ、九回表、ようやく諸星さんのソロで得た勝利投手の権利。 
しかし。完封間際の九回裏、四球と連打を浴びあえなく降板、守護神である自分にマウンドを譲ってベンチへと引っ込んだのだった。 
すいません、と。後始末をよろしくお願いします、と。あの男が、確かにそう詫びた。 
……勝たせてやりたい。防御率0のまま、ウイニング・ボールを渡してやりたいと思う。 
見渡せば、塁を埋め尽くす走者。一人でも生還を許せば、その時点で芦沼の勝ちは消える。それどころか、ホッパーズそのものの勝利も極めて怪しくなってしまう。 
『せんぱーい、がんばってくださーい!』 
鳴り物が止んだ、一瞬の静寂。その間を縫って、知った声が微かに聞こえた。 
目を凝らせば、バックネット裏、特等席に可愛い後輩が居るではないか。 
敵陣のホームグラウンドで、こともあろうにビジターチームの守護神の応援など、辺りの反応が気がかりだったが、すぐに杞憂だと気付いた。 
『せんぱーい』では、誰のことだかわかりはしない。 
それにあと少しもすれば、あの子の応援はどうせナマーズに翻ってしまうだろう。 

寂しいが、仕方のないことだ。 

打順はトップに返り一番、俊足の外国人がバットを構えている。 
内野は前進、外野フライも許せない、なら、狙うは―― 


『ストライク、バッターアウッ!』 


どわあああ、と観客席が湧いた。 
捕手からボールを受け取り、一息つく。二者連続三振。狙ったとはいえ上出来だ。 
これでツーアウト、守備体形は通常に戻った。しかし、気は抜けない。むしろここからが本番だ。 
『三番、キャッチャー……』 
クリンナップの一角を迎える。リードと肩を買われ、二年目ながらシーズン途中にスタメンマスクを被り、去年下位打線を打っていた男。 
その男が、今年は三番まで打順を上げてきた。 
プロ生活十年の観察眼は、危険信号を灯している。 
少なくとも、さんざんカモにした去年とは、体つきから何まで違う。 
自主トレ、キャンプ、死に物狂いで励んだのだろう。感心はするが、無論、打たせる気はない。 
とりわけこいつには、打たれるわけにはいかないのだ。 
……まったく、何が『お礼』だか。礼を言うのはこっちだと言うのに。 
あのクリスマスの後、一通だけメールが届いた。 
『ありがとうございました、先輩。わたし、しあわせになれそうです!〇><』 
きっかけこそ与えども、取り戻してやることは出来なかった、あの子の笑顔を。 
凍りつき、止まりかけていたあの子の心を。目の前の後輩は救ってくれた。あの子の願いを取りこぼすことなく、さながらサンタクロースのようにしあわせを送ってくれた。 
そんな男に、どうして頭を下げられなければならない。 
お礼など言わせるものか。 
自分とて、今年のキャンプはしこたま走り込んだ。 
ウェイトトレーニングもみっちりこなし、血を吐くようなキャンプを終えてみれば、制球力、球威はずいぶん向上し、紅白戦で諸星さんのバットをへし折ったりもしたものだ。 
そう簡単には打たれはしない。セーブ王の名は、伊達ではないのだから。 
改めて状況を確認する。 
二死満塁、一点リードながら打席には好打者。 
チームの命運が、まさにこの手に懸かっている。 
この上なく痺れる最終局面。全身を流れる野球好きの血が、煮えくり沸き立つのを感じる。 
おもしろい。これだからクローザーは、これだから投手は、これだから野球は――おもしろい。 

ぴゅう。春風が軽快にマウンドを駆け抜けた。 
この風は、果たしてどちらの味方なのだろうか。 
どちらにしろ、もう冬は明けた。熱い勝負の一年が始まった。それだけわかれば充分だ。 

早く救いたい。チームのピンチを颯爽と救い、ヒーローになりたい。 
投手なら誰しもが抱くだろう自己顕示欲を抑え、まずはサインに頷く。 
一球目、アウトローにまっすぐ。 
セットポジションに入る。呼吸を整え、体に染み付いた動作に移り―― 
持てる全ての感謝と気迫を、キャッチャーミットめがけ投げ込んだ。 


白球の行方は、風のみが知る。 


このページへのコメント

素晴らしい作品でした!

0
Posted by トモ 2017年02月22日(水) 01:45:46 返信

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