若菜、オレは童貞を捨てるぞ!」

その晩、若菜が一人で暮らしているアパートを訪れたオレは、
決然としてそう言った。

オレと自分のカップに紅茶を注いでいた若菜は手を止めて、
きょとんとした顔で俺を見た。

「それは、わたしとってこと? 翔馬?」

「もちろんだ。オレとじゃイヤなのか?」

「全然、イヤじゃないわよ。
 ――だけど翔馬、童貞ってどういう物で、
 どうやれば捨てられるか、知ってるの?」

「知ってるとも。ちゃんと参考資料で調べた。
 ――そう、今のオレは、もう子供の作り方も、
 それが“セックス”と呼ばれる行為であることも、
 ちゃんと、知っている。
 オレがいつまでも昔のままのオレだと思ったら、
 大間違いだ」

「でも、今までそんな事全然興味なかったのに」

「オレは、間違っていた」
スキンヘッドに剃り上げた頭を振りながら、俺は答えた。

「オレは今まで、野球選手は野球のことだけを考えてればいい、
 それ以外の思考はすべて雑念、と思っていた。

 ――でも、それだけでは、結局野球選手としては不完全なんだ。
 オレはナマーズのチームメイトたちから、
 今までのオレが、いかに未熟だったかを思い知らされた。

 男が恋愛とセックスからどれだけの物が得られるかについて、
 チームメイトの具田は、一晩かけてオレに語ってくれたよ。
 弾道とか、絶倫とか、緊縛とか、その辺の説明はよく分からなかったが……
 とにかく、オレは野球のためならどんな事でもやってみるつもりだ。
 オレの野球ために協力してくれ、若菜!」

「もちろん協力するわよ」若菜はにっこりと笑った。
「翔馬は童貞でもなんでも捨てて、
 これからもどんどん強くならなくっちゃね。

 あ、でも待って。
 翔馬、コンドーム持ってる?」

「“コンドーム”……? 何だ、それは?」

若菜の説明によると、“コンドーム”とは“セックス”の際に
男性の陰茎に付けておくゴムの袋らしい。
そんな物は、オレの買った資料には載ってなかった。

「なんで、そんな物を?」

「これを付けておけば、赤ちゃんができなくてすむの」

「そうか……世の中には便利な物があるんだな。
 で、どこで売ってるんだ?」

「ええっと、薬局じゃないかしら。
 でも、この時間じゃ開いてないよね」

なんてことだ……オレの計画は第一歩目からつまずいてしまった。

頭を抱え込んでしまったオレに、若菜が元気付けるように声を掛けた。
「あ、でもコンドームならコンビニにも置いてあるはずよ」

「若菜は、何でも知ってるな……よし、そのまま待ってろ!
 すぐに買ってくる!」

「待って、翔馬」

部屋から飛び出そうとしたオレの腕を、若菜が後からぐいとつかんだ。

「どうせなら、一緒に買いに行こうよ。
 翔馬、この辺のコンビニの場所とかよく知らないでしょ?

 ――それに翔馬ひとりじゃ、コンドームと間違えて
 指サックとか買ってきそうで、不安なんだもの」

          *           *

「コンドームを、ください!」

つかつかとレジに歩み寄ったオレは、コンビニの店員にそう言った。
店員が一瞬固まり、店内にいた他の客が一斉にこちらを振り返った。
理由は分からないが、周囲の視線がやけに痛かった。
そんな視線の中で、若菜がポンとオレの肩を叩いた。

「翔馬、コンドームならこっちにあるよ?」

そしてオレの手を引っ張って、絆創膏や消毒薬、ガーゼ等の
商品が並べている場所まで連れて行った。
なるほど、薬局で売っている物なら、そういう場所にあるのも当然だろう。

「結構、種類あるんだね……」若菜がコンドームの箱を幾つか取り上げて、
まじまじと見比べた。

「どれがいいんだ、若菜?」

「あたしも、こういうの買うの初めてだから。
 なんで、こんなに値段が違うのかしら……
 あ、こっちの高い方は十二個入りなんだ」

「一個あたりの値段なら、そっちの方が安いのか」

「だけど十二個入りの買って、使い心地悪かったりしたら最悪だし、
 かといって捨てたりしたら、余計もったいないし。
 ……どうする、翔馬?」

「俺は、若菜の選択を信じる!」

「じゃあ、こっちの五個入りの方にしよっか」

若菜はコンドームの箱を取り上げると、俺と一緒にレジに向かった。

「……すみません。これ、お願いします。
 あ、袋はいいです。テープだけで」

若菜はテープの貼られたコンドームの箱をぎゅっとポケットにねじ込むと、
嬉しそうにオレに腕を回した。

「じゃ、早く帰ろ♪」

相変わらず、周囲の客の視線はオレ達ふたりに集中していた。
しかしその視線に含まれる空気は、最初の時と微妙に変化していた。

          *           *

若菜がいつも使っているバスルームで、
浴室用のイスに座って体を洗いながら、
オレは童貞を捨てるためのイメージトレーニングに励んでいた。

童貞を捨てるのには、様々な危険が伴うという。
少なくとも、具田はそう言っていた。
毎年多くの者が童貞を捨てる際に失敗をやらかし、
その中には精神に深い傷を負う者さえいるという話だ。
野球選手ならば、その心の傷により、身体能力に
悪影響が及ぶこともあるという。オレがそうなっては一大事だ。

ただ、その話の最後に「なるほど、具田は首尾よく成功したんだな?
実体験に基づく秘訣があれば教えてくれ。参考にする」と尋ねたところ、
具田は急に目をそらしてしまったが……。

いずれにせよ、失敗はできないのだ。
完璧なプレイ――そう、いつもの試合のように、
完璧なプレイを行わねばならない。
そのためには精神統一とイメージトレーニングが不可欠だ。

オレが風呂からあがったら、次は若菜がシャワーを浴びるだろう。
そして、若菜がバスルームから出てきたら、服を脱がせて……
待てよ、オレは女性の下着についてまったく知らない。
もし、男性下着と全然違う構造だったら、オレはどうすれば――

――と、オレがここまで考えたところで、
バスルームのドアががちゃりと開いた。

「へへ♪ 入ってきちゃった」

若菜だった。何も着ていなかった。
手ぶらのまま、タオルすら巻いていなかった。

ドアを大きく開いた両腕の間に、二つの乳房がふくらんでいる。
そんな筈はないのに、服を着ている時よりも大きく見えた。
その眩しいくらいに白い若菜の体の中心で、
すらりと伸びた足の付け根にうっすらと生えた陰毛が、
やけに目立っていた。

初めて見る、若菜の裸だった。

何てことだ……オレが立てていた計画では、
俺が若菜の裸を初めて見るのは、ベッドの傍らで、
若菜の服を俺の手で脱がせる時の筈だったのに。

またしても、オレの立てた予定が狂ってしまった。

「あ、体洗ってる途中だった?
 じゃ、背中はあたしが流したげるね」

そう言って若菜がドアを閉めると、
バスルームの中はまた湯気に包まれた。
若菜はオレの脇にしゃがみ込んで、
スポンジとボディソープのボトルを取り上げた。

狭いバスルームなので、これだけでオレと若菜の体は
触れ合わんばかりだ……というか、実際にオレの太股には、
ボディソープを泡立てる若菜の尻が押し付けられていた。
その尻の感触は、オレがイメージトレーニングで想定していたより、
ずっと柔らかく、弾力があった。

「……翔馬の背中、おっきいなあ」
そう言いながら、全裸の若菜はオレの背中の上でスポンジを滑らせ始めた。
石鹸まみれの片手は、じかにオレの肩に置かれている。

別に、若菜に体を触られるのは、これが初めてじゃない。
星英野球部のエースとマネージャーだった頃は、
よく部室でマッサージをしてもらっていた
(もっとも、その時は二人とも服を着ていたが)。

だが、今はどうにも落ち着かない気分だった。
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