「…お父さん、大事な話って何?」 
 「……」 

あるとても寒い冬の日。陽は既に落ち、外は冷たい風が吹き荒れている。 
 和桐製作所の社長であり、そして沙耶の父でもある文雄は沈痛な表情で押し黙っている。 

 「沙耶、…その…」 
 「いいよ、言わなくても分かってるから。…もう家には戻ってこないんでしょ?母さん。」 
 「……」 

 重い口を開け、話し始めようとするのを沙耶は遮った。 
 出鼻をくじかれた文雄は二の句が継げなくなってしまった。 
1週間前から母は家から姿を消していた。 
この場で言わずとも父が言わんとすることは明らかだった。 
もっとも、いつかこうなるのではないかという不安は前々からあった。 
ただそれを認めたくなかったのだ。 
この1年、沙耶が学校から帰ってきても母の姿はなく、 
 代わりにテーブルの上には行き先も、帰ってくる時間も書かれていない置手紙が残されているだけ… 
(もっとも、その日のうちに父の帰ってくる前には帰ってきてはいたのだが。) 
そんなことが度々あったのである。沙耶は不審に思ったが、 
そんな母を問い詰める勇気は沙耶にはなかった。 
もしそうして、母の口から絶対に聞きたくない言葉が出てきてしまったら… 
そう思うと、聞くに聞けなかったのだ。今の暮らしぶりは決して良いとはいえず、 
また、決して差し迫ったわけではないが小さくもない不安にかられてはいたが、 
それでもお父さんと母さんと一緒なら少しは安心して暮らしていける。 
その安定を、自分の手で一瞬にして壊す恐れのあるようなことはしたくない… 
ほんの少しずつだが確実に傾き始めているように見えた安定を取り戻す為に沙耶にできることといえば、 
 結局、ただ母が家にいるときは、母の前でひたすら良い子であろうとすること、それくらいしかなかった。 
そうこうしているうちに今日まで来てしまったのである。 
 今にして思えば、自分が何とか勇気を出して母と話して説得できれていれば、 
あるいはそれができなくても、このことに関して父ともっと話しておくべきだったのかもしれないのだが、 
もはや後の祭りであった。 


 「ま、しょうがないんじゃない?愛想尽かされちゃっても。毎日帰ってくるのは夜遅くで、休みの日は休みの日で 
野球に行っちゃうんだし。いつ出ていってもおかしくなかったんじゃないの?」 

 沙耶はわざとらしく冷めた言い方をした。文雄は何も言えなかった。 
 事実、工場は経営は危うく、なんとか持ちこたえているという有様だったので 
大半の社員が帰った後も工場に残ることは日常茶飯事だった上に、 
 家族で一緒に出かけたことなど数えるほどしかなかった。 

 「別に…あたしは平気だよ?母さんなんかいなくたって… 
結局、母さんにとってはあたしはその程度だった、ってことでしょ? 
それに、こんなこと、いつまでも気にしてたら、あたしたちやっていけないんでしょ? 
…なら、しょうがないよね…」 

 沙耶は力なく笑った。その言葉は父に向けられているのではなかった。 
こうなってしまったことは避けられないことで仕方の無いこと… 
そう自分に言い聞かせなければ、突きつけられた過酷な現実に押しつぶされそうだったからである。 

 「あ、心配しなくても大丈夫だよ。あたしだってご飯くらいちゃんと作れるし、洗濯だって、 
 二人分ならそこまで大変じゃないし、それに、掃除だって、休みにまとめてやればいいし… 
だから…お父さんは今まで通りで全然平気だよ?」 
 「沙耶……」 

そこまで言うと、沙耶は部屋から出て行った。 
 結局、娘とほとんど話すことができなかった文雄は一人部屋に残された。 

 「…………う、うぅ…くうぅぅ…うああああああん!!」 

 自分の部屋に戻った沙耶はベッドにうつ伏せになり、それまでこらえていた、 
 自分の無力さに対する悔しさと悲しみを一気に吐き出すように声を上げて泣いた。 
 部屋越しに聞こえてくる沙耶の泣き声を聞いて文雄は唇をかみ締めた。 

 「それで社長…沙耶ちゃんには、あの事…何て説明したんですか?」 

 若手社員も皆帰った後の工場の事務所。和桐製作所のまとめ役であり、 
 事件の真相を社長から唯一知らされている大島は、不安げに社長に訊ねた。 

 「工場と野球に熱中したワシに愛想を尽かして…ということにしておいた。」 
 「!…それって…!」 

 文雄の言葉に大島は絶句した。 
 大島に背を向けたまま、文雄は続けた。 

 「…いいんだ。沙耶がそれで肩身の狭い思いをしないのならば。 
ワシ一人が我慢して、それで丸く収まるのなら。」 
 「でもそれじゃあ沙耶ちゃんは…」 
 「…少なくとも、本当のことを知るよりはいい。 
 今の沙耶なら立派に生けていける。…ワシはそう思ってこうしたんだ。 
それに、とりあえずあの様子ならグレるようなこともなさそうだ。 
だから、これで…いいはずなんだ。」 
 「社長…」 

 重苦しい空気が、その場を支配していた。 


 「わぁ、すごーい!また学年トップ!?」 
 「いいよねー沙耶は。勉強できるしー、部活でも活躍してるし。」 
 「ほんと、すごすぎるよ、沙耶。」 
 「えへへ、別に…大したことじゃないって。」 
 「またまたー、謙遜しちゃって。」 

それから中学校に上がった沙耶は人一倍勉強し、部活でも努力を怠らなかった。 
 元々飲み込みの早かった沙耶はすぐに模範的な生徒となった。 
 同じ学年で沙耶を知らない者はいなかった。 
 教師たちの間でも優秀な生徒だと評判になっていた。 
もちろん、家事洗濯や、父のために弁当作り等もこなさなければならなかったので、生活はかなり多忙だった。 
それでもそんな生活が続けられていたのは、母から捨てられたという負い目から逃れる為であった。 
こうして忙しい毎日に没頭していれば母のことを考えることもなくなるだろう。 
そんな考えが沙耶を駆り立てていたのだった。 
そんなある日の夕方のこと… 

「ふう、今日はちょっと張り切りすぎちゃったかな…」 

 部活の帰り、一休みするために沙耶は公園に寄った。 
あの日から2年。普段は周囲に明るく振舞っているが、今でもふいにどうしようもなく辛くなるときがある。 
そういう時は「ゴメン、今日はちょっと用事があるから」と言って、仲間たちから離れ、こうして一人で帰るのである。 
 自販機でジュースを買い、ベンチに座る。目の前の遊具や砂場では子どもたちが楽しそうに遊んでいた。 
しばらくジュースを飲みながら今日の授業のノートに目を通していると、やがて子ども達の母親が迎えに現れた。 
どの親子も、とても楽しそうに話していた。目を背けたいはずなのに、その光景に沙耶は釘付けになる。 
いくら時が経とうとも…どう頑張っても…結局、自分は普通の家族というものへの憧れ、執着を捨てることができない。 
そのことを沙耶は改めて思い知らされた。 

 「…あたしがうらやましい?どこが?皆の方がずっとうらやましいよ…」 

 誰もいなくなった公園で、沙耶は一人つぶやいた。 
まっすぐ家に帰らなかったことを沙耶は後悔した。 


それから更に時は経ち、中学を卒業した沙耶は地元の公立高校へと入学した。 
 同級生も、教師たちも、誰もが「沙耶ならばもっと上位校でも狙えたのに」と思ったのだが、 
 沙耶には元々そのような気はなかった。確かに自分の成績ならば皆が言うように 
 もっと上を狙えたかもしれないが、その上位校は家から遠く離れた場所にあった。 
 多忙な沙耶にとって、自宅から近いところにあることこそが高校を選ぶ上での必要条件だった。 
 高校でも沙耶は相変わらず良い意味で目立っていた。 
 中学のころは周りからチヤホヤされるのもそんなに悪い気はしなかったが、 
しかし最近になって、そんな生活にも飽き始め、 
それどころか見栄を張って生きる毎日を心苦しく感じることが多くなっていた。 
そんな毎日に変化の兆候が見られたのはつい最近のことだった。 

 「あ…あの人は…」 

いつものように製作所に父の弁当箱を取りに来ると、彼がちょうど一人でいた。 
 彼─小波は最近になって和桐製作所で働き始めた男である。 
 今時うちの工場で働きたいなんて変わった人もいるものだなと思ったものだが、 
 初めて彼に会った時から何か引っかかるものがあった。 
 今ちょうど彼は休憩時間のようで、その手には最新機種の携帯電話があった。 
なんとなく彼と話したいと思っていた沙耶は、この好機を逃さぬよう、 
 小波に歩み寄り、自分の携帯を取り出して見せた。 

 「あ、小波さん。それって、最新のやつじゃない。いいなあ〜〜。 
あたしのも同じメーカーだけど2つ前の型なんだもん。」 
 「へえ、沙耶ちゃんも持ってたんだ。」 

うまく話を始めることができた。 
さて次の話題は何にしようかと考えていたその時だった。 

 「あ、そうだ。沙耶ちゃんの電話番号、教えて。」 
 「はあ!?」 

 携帯をしまおうとする手が止まり、思わず声を上げてしまった。 
 今日は少し彼と話すだけのつもりだったのに…唐突な小波の提案に沙耶は狼狽した。 
 更に小波は平然と「沙耶ちゃんと話したいから」だと、そう言ってきた。 
まだ心が落ち着かないまま沙耶は携帯を差し出し、番号を交換した。 

 「…これでよし、と。」 
 「…あ、あの…ありがとう。それじゃあ、あたしもう帰るね。じゃ、じゃあ、また。」 
 「え?ああ、うん。じゃあ、またね。近いうちに電話するよ。」 

 沙耶は足早に工場を後にした。沙耶の様子に首をかしげながら小波は見送った。 
 沙耶の胸の高まりは家に帰ってからもしばらく収まりそうになかった。 .

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