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reijikakuriyo 2017年04月29日(土) 15:41:16履歴
このページは、式姫の元ネタを集めて纏めるページです。
情報充実させられるといいですね。
越後(えちご)(新潟県)の猟師弥三郎の母。墓を暴いて死体を食う老婆。ある夜怪物となって弥三郎を襲い、腕を切り落とされるとそれをもって逃げ、弥彦(やひこ)山で200年生き続けた。
後に悔い改めて神になり、弥彦村の宝光院に妙多羅(みょうたら)天女像として祀られたという。
沖永良部島では夜鳴く猫をこう呼んで恐れる。子供を脅かすときにも使われた。
若狭(わかさ)小浜の空印(くういん)寺を中心に、植樹伝説や椿をもって諸国を巡歴した話が各地に分布する。宝徳元年(1449)若狭から京都にあらわれたという記事が「康富記」「臥雲日件録」にみえる。
羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもある。
四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える。
ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたものである。 その起源は夜叉同様、アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、
南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた。『ラーマーヤナ』ではクヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。
概ねバラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多い。
仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになる。十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。
図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる。
中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった。10世紀の延暦寺の僧、源信著『往生要集』はその凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている。
羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラクシャーサ、ラークシャサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。
また羅刹女といえば法華経の陀羅尼品に説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに孔雀経では72の羅刹女の名前が列記されている。
兎は壱岐島から稻羽(いなば)の地へ渡ろうと思っていたが、渡る手段が無かった。そこでワニザメを欺いて稻羽まで渡ろうとした。
地に下りようとした際に兎がワニザメを騙したことを口にしてしまい、最後のワニザメに毛皮を剥がれてしまう。
毛皮を剥がれて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられ、予言を授けたという。
この兎は八上比売(やかみひめ)という神の使いとされている。
ムジナが妙に短い着物を着たおかっぱ頭の小僧に化け、人気のない夜道や山道に出没し「水飲め、茶を飲め」と声をかけるという。
鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」によると、老いたツバキの木に精霊が宿り、怪木と化して人をたぶらかすとある。こうしたツバキの怪は文化時代から文政時代にかけての怪談流行時において広く知られており、民間伝承が多く残されている。
京の一条堀川に住んだ陰陽師。「六韜」(りくとう)という兵法の大家でもあり、文武の達人とされる。源義経がその娘と通じて伝家の兵書「六韜」を盗み学んだという伝説で有名。また剣術においても、京八流の祖として、また剣術の神として崇められている。
鞍馬天狗は牛若丸に剣術を教えたとされ、鬼一法眼と同一視されることがある。
また、鞍馬寺境内には鬼一法眼を祀る鬼一法眼社がある。
式姫Projectでは鞍馬が孔明(自己申告)ということになっているが、両者の関連は特に無い。
また、愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。藤原頼長の日記『台記』にも愛宕山の天狗信仰に関する記載がみられる。
若宮を太郎坊大権現と称してカグツチをイザナミの第五皇子であるとしその化身が愛宕太郎坊であるとされた。
安元の大火は崇徳上皇の怨霊の仕業ともされる。この崇徳上皇は白峯神宮に白峯大権現祀られており、『雨月物語』の「白峯」においても怨霊として描かれている。
伝説によると役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
人に災いを為していた前鬼・後鬼という夫婦の鬼を捕縛し従えたとされる。
一般的には、鳥頭人身の二臂と四臂があり、龍や蛇を踏みつけている姿の像容もある。 鳥頭人身有翼で、篳篥や横笛を吹く姿もある。
仏教において、毒蛇は雨風を起こす悪龍とされ、煩悩の象徴といわれる為、龍(毒蛇)を常食としている迦楼羅天は、毒蛇から人を守り、龍蛇を喰らうように衆生の煩悩(三毒)を喰らう霊鳥として信仰されている。
密教では、迦楼羅を本尊とした修法で降魔、病除、延命、防蛇毒に効果があるとする。また、祈雨、止風雨の利益(りやく)があるとされる。
保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、
「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。
崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。
ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。
『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。
『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという。安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。
後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については、
『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。
精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。
寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。
また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。
怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれている。
「白峰」は『雨月物語』の内容の一つ。
諸国を巡る西行の道行文から、「白峯」は始まる。西行は、崇徳院が成仏せずに怨霊となっていることを諌めた。ここから西行と院の論争が始まる。
西行は『日本書紀』「仁徳紀」にある大鷦鷯の王、菟道稚郎子の皇位相譲の話を例に出して王道の観点から、院は易姓革命論から、それぞれ論をぶつけあう。次に、西行は、易姓革命を唱えた『孟子』が日本に伝わらなかったこと、
『詩経』「小雅」の一篇「兄弟牆(うち)に鬩(せめ)ぐとも外の侮りを禦(ふせ)げよ」という一節を説き、ついに院の、私怨がゆえである、との本音を引き出すことに成功する。院は、「経沈め」の一件の後、保元の乱で敵方に回った者たちを深く恨み、
平治の乱がおこるように操ったのだ、という。そして、大風がおき、ここで初めて院の、異形の姿が顕わになる。また、配下の天狗、相模がやってくる。そして、院は、平氏の滅亡を予言する。西行は、院の浅ましい姿を嘆き、一首の歌を詠む。
「よしや君昔の玉の床(とこ)とてもかからんのちは何にかはせん」。すると、院の顔が穏やかになったように見え、段々と姿が薄くなり、そして消えていった。いつのまにか月が傾き、朝が近くなっている。西行は金剛経一巻を供養し、山を下りた。
その後、西行は、このできごとを誰にも話すことはなかった。世の中は、院の予言通りに進んでいった。院の墓は整えられ、御霊として崇め奉られるようになった。
崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で歿した。その後天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)の前に、上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立された。
幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御した。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4年(1868年)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建した。
光輝く竹の中から生まれ、竹取の翁とその妻の嫗(おうな)に育てられ三か月ほどで妙齢になったという。
この世のものとは思えない美しさから数々の男に求婚されたが、手に入れるのが困難な珍しい宝を持って来ることが出来れば結婚をするという難題を課した。
結局、かぐや姫の出した難題をこなした者は誰一人としていなかった。
そんなかぐや姫の様子は帝にまで伝わり、帝はかぐや姫に会いたがった。しかし、かぐや姫はこれを拒絶し、帝は一旦は思いとどまったものの、
やはり会いたくなり、翁を呼び出して「姫を差し出せば官位をやる」と告げる。喜ぶ翁の取りなしにもかかわらずかぐや姫は「帝がお召しになって仰られたとしても、畏れ多いとも思いません」と言い姿を見せようともしない。
帝は「多くの人を殺してきた心であるよ」と言ったが、なおこの女の心積もりに負けてなるものかと諦めない。かぐや姫は「無理にお仕えさせようとなさるならば消え失せてしまうつもりです」と翁に言った。
翁がこの事を帝に伝えると、帝は狩りに行幸するふりをして会うことを提案する。翁もそれに賛同した。
帝が狩りに行くついでに不意をつき、かぐや姫の家に入ると、光に満ちて清らかに坐っている人を見た。帝は初めて見たかぐや姫を類なく美しく思い、神輿を寄せて連れて行こうとしたが、姫は一瞬のうちに姿(実体)を影(光)と化した。
本当に地上の人間ではないと帝は思ったが、より一層すばらしい女だと思う気持ちが抑えがたい。帝は、魂をその場に留め置いている心地でかぐや姫を残して帰った。
日頃仕えている女官たちを見ると、かぐや姫の近くに寄っていられる人さえない。他の人より清く美しいと思っていた人は、あのかぐや姫に比べると人並でもない。
かぐや姫ばかりが心にかかって、ただ一人で過ごしている。かぐや姫のもとにだけ、手紙を書いて文通している。
帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。 八月の満月が近づくにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、
翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五日に帰らねばならない。ほんの少しの間ということであの国からやって来たが、この様にこの国で長い年月を経てしまった。それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げる」という。
それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送ることとなった。 その十五日には、各役所に命じ勅使として中将高野大国を指名し、六衛府を合せて二千人を竹取の家に派遣する。
家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせた。 嫗は、塗籠の内でかぐや姫を抱きかかえている。翁も、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいる。
かぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。
このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう」という。
翁は迎えを、長い爪で眼を掴み潰そう、髪の毛を取って引き落とし、尻を引き出して役人たちに見せて恥をかかせてやろうと腹を立てている。 かぐや姫は「大声でおっしゃいますな。屋根の上にいる者どもが聞くと、大層よろしくない。
お爺さま、お婆さまのこれまでのご愛情をわきまえもしないでお別れしようとすることが、残念でございます。両親に対するお世話を、僅かも致さずに、帰っていく道中も安らかにはなりますまい。
あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのです。もの思いもありません。そのような所へ行くことも、嬉しいとも存じません」と言った。
そして子の刻(真夜中頃)、家の周りが昼の明るさよりも光った。大空から人が雲に乗って降りて来て、地面から五尺くらい上った所に立ち並んでいる。
内外の人々の心は、得体が知れない存在に襲われるようで、戦い合おうという気もなかった。何とか心を奮って弓矢を構えようとしても、手に力も無くなって萎えてしまった。
気丈な者が堪えて射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでいき、ただ茫然とお互い見つめ合っている。 王と思われる人が「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しかった造麻呂も、何か酔ったような心地になって、うつ伏せにひれ伏している。
王は「お前、幼き者よ。少しばかり翁が善行を作ったから助けにと、僅かばかりの間ということで姫を下したところ、長い年月の間に多くの黄金を賜って、お前は生まれ変わったように金持ちになったのだ。
かぐや姫は罪を御作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。罪の期限は過ぎた。早くお出し申しあげよ」と翁に言うが、翁は従わない。
屋根の上に飛ぶ車を近づけて「さあ、かぐや姫。穢れた所(地上)にどうして長く居られるのでしょうか」と言うと、締め切っていた戸や格子が即座に開いていく。嫗が抱きかかえて座っていたかぐや姫は、外に出てしまう。
かぐや姫は、せめて天に上っていくのだけでもお見送りくださいと言うが翁は泣き伏してしまう。「御心が乱れてしまっている」と見かねたかぐや姫は「この先、恋しい折々に、取り出してご覧ください」と手紙を書き置いた。
天人の中の者に持たせた箱があり、それには天の羽衣が、また別の箱には不死の薬が入っている。 一人の天人が姫に「穢い所の物を召し上がっていたのでご気分が悪いことでしょう」と言い薬を持って寄ったのでかぐや姫は僅かに嘗め、
天の羽衣を着せようとしていた天人を制し、帝への手紙と歌を書いた。
その歌には、
いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる
と詠んだ。その手紙に、薬を添えて頭中将へ渡させた。 中将が受け取ると天人がさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫のこれまで翁を痛ましい、愛しいと思っていたことも消えてしまった。
この羽衣を着た人は物思いがなくなってしまうのだったから、かぐや姫は車に乗って昇ってしまった。
帝は手紙を読みひどく深く悲しみ、何も食べず詩歌管弦もしなかった。 大臣や上達部を呼び「どの山が天に近いか」と尋ねると、
ある人が駿河の国にあるという山だと言うのを聞き「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と詠み、かぐや姫からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、
つきの岩笠という人を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。
その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて、不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「ふじの山」と名づけた。 その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。
天照大神(アマテラス)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻。オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。
ニニギノミコトの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。
神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。
オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。
コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」
と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である。
橿原神宮や貴船神社などに祀られている。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。
巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。
女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。
だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年して、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。
「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
次の瞬間、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
初め紫の君、後に光源氏の妻となって紫の上と呼ばれる。「紫」の名は古今集の雑歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」にちなみ、源氏の「永遠の女性」である藤壺の縁者(紫のゆかり)であることを婉曲に表す。
また「上」の呼称が示すように、源氏の正妻格として源氏にも周囲にも扱われるが、正式な結婚披露をした北の方ではない。
「源氏物語」について語る時、幼少時の紫の上を若紫と呼ぶ事がある。
大山祇神(おおやまつみ)の娘で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉。
コノハナノサクヤビメとともに天孫瓊々杵尊(ににぎ)の元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返された。
オオヤマツミはそれを怒り、イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、
コノハナノサクヤビメを差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからであることを教え、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。
「日本書紀」には、妊娠したコノハナノサクヤビメをイワナガヒメが呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。
また「古事記」においてオオヤマツミの娘で、スサノオの子の八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)と結婚する、木花知流比売(このはなちるひめ)はイワナガヒメの別名であるとする説もある。
ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』、シェリダン・レ・ファニュの『カーミラ』など、多くの創作において登場してきた。
生と死を超えた者、または生と死の狭間に存在する者、不死者の王とされる。バンパイヤ、ヴァンパイア、ヴァンピールなどとも書かれる。
一般に吸血鬼は、一度死んだ人間がなんらかの理由により不死者として蘇ったものと考えられている。現代の吸血鬼・ヴァンパイアのイメージは、ヨーロッパにルーツがある伝承のイメージが強い。
多くの吸血鬼は人間の生き血を啜り、血を吸われた人も吸血鬼になるとされている。
その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。
キリスト教の七つの大罪では嫉妬を司る。
ファラクがいる場所は、大地を支える魚バハムートのいる海よりもはるか下方の空間で、人知が及ばない世界であるともいうが、その果てにある死の国ということになろうか。あるいはその象徴といえるだろう。
別の伝説では6つの冥府は、バハムートも上方、大地の山頂の天使の頭上にあるともいう。
主神オーディンの命を受けて、天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇士(エインヘリャル)を選びとってを天上の宮殿ヴァルハラへと迎え入れる役割を持っていた。
この勇士達は、ラグナロクでの戦いに備えて、世の終わりまで武事に励むという。ヴァルハラにおいて、彼らをもてなすのもワルキューレの務めの一つである。
ヴァルキリーはワルキューレの英語読み。
中国の本草書『本草綱目』によれば、猴(こう。サルのこと)より大きいものとあり、『抱朴子』によれば、800年生きた獼猴(みこう。アカゲザルのこと)が「猨」となり、さらに500年生きて玃猿になるとある。
『本草綱目』では「玃」「猳玃」「玃父」の名で記載されている。玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある。
『捜神記』『博物志』には「玃猿」「猳国」「馬化」の名で、以下のようにある。蜀の西南の山中には棲むもので、サルに似ており、身長は7尺(約1.6メートル)ほどで、人間のように歩く。
山中の林の中に潜み、人間が通りかかると、男女の匂いを嗅ぎ分けて女をさらい、自分の妻として子供を産ませる。子供を産まない女は山を降りることを許されず、10年も経つと姿形や心までが彼らと同化し、人里に帰る気持ちも失せてしまう。
子を産んだ女は玃猿により子供とともに人里へ帰されるが、里へ降りた後に子供を育てない女は死んでしまうため、女はそれを恐れて子供を育てる。こうして玃猿と人間の女の間に生まれた子供は、姿は人間に近く、育つと常人とまったく変わりなくなる。
本来なら姓は父のものを名乗るところだが、父である玃猿の姓がわからないため、仮の姓として皆が「楊」を名乗る。蜀の西南地方に多い「楊」の姓の者は皆、玃猿の子孫なのだという。
このような玃猿の特徴は、中国の未確認動物である野人と一致しているとの指摘もある。
南宋時代の小説集『夷堅志』には「渡頭の妖」と題し、以下のような話がある。ある谷川の岸に、夜になると男が現れ、川を渡ろうとする者を背負って向こう岸に渡していた。
人が理由を尋ねても、これは自分の発願であり理由はないと、殊勝に返事をしていた。黄敦立という胆勇な男が彼を怪しみ、同じように川を渡してもらった3日後、お礼に自分がその男を渡そうと言い。
拒む男を無理に抱えて川を渡り、大石に投げつけた。悲鳴を上げたその男を松明の明かりで照らすと、男の姿は玃猿に変わっていた。玃猿を殺して焼くと、その臭気は数里にまで届いたという。
托塔天王(毘沙門天)の三男である事から哪吒太子(なたたいし)、あるいは哪吒三太子(なたさんたいし)とも呼ばれる。
信仰対象としては太子爺(たいしや)、太子元帥(たいしげんすい)、羅車太子(らしゃたいし)、中壇元帥(ちゅうだんげんすい)などとも呼ばれ、いくつもの尊称がある。
蓮の花や葉の形の衣服を身に着け、乾坤圏(円環状の投擲武器)や混天綾(魔力を秘めた布)、火尖鎗(火を放つ槍)などの武器を持ち、
風火二輪(二個の車輪の形をした乗り物。火と風を放ちながら空を飛ぶ)に乗って戦う姿は『封神演義』『西遊記』などの民間説話や小説などでなじみ深く、道教寺院でもこのような姿で表される。
伝承によれば、リリスが魔王サタンとの間に儲けた子供の悪魔達に名づけられた名前である。新生児を襲ったり、睡眠中の男性を誘惑し、夢精させるとも云われる。女性淫魔であるサキュバスと関連付けられることも多い。
人類の祖先とする見方もある。
情報充実させられるといいですね。
小烏丸(こがらすまる)とは、平家一門(伊勢平氏)の家宝であり、刀工「天国」(あまくに)作と伝えられる日本刀。
奈良時代末期から平安時代中期の間に作られたと推定される鋒両刃造。斬るよりも刺す事に適した形状となっている。
桓武天皇の時代、大神宮(伊勢神宮)より遣わされた八尺余りある大鴉によってもたらされたと伝えられ、「小烏丸」の名はその大鴉の羽から出てきたとの伝承に由来する。
後に平貞盛が平将門、藤原純友らの反乱を鎮圧する際に天皇より拝領し、以後平家一門の重宝となる。
平家が滅びた壇ノ浦の戦いの後、行方不明になったとされたが、その後江戸時代の天明5年(1785年)になり、平氏一門の流れを汲む伊勢氏で保管されていることが判明し、伊勢家より刀身及び刀装と伝来を示す「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」の文書が幕府に提出された。
この「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀」は伊勢家より徳川将軍家に献上されたものの、将軍家はそのまま伊勢家に預け、明治維新後に伊勢家より対馬国の宗氏に買い取られた後、明治15年(1882年)に宗家当主の宗重正伯爵より明治天皇に献上された。
奈良時代末期から平安時代中期の間に作られたと推定される鋒両刃造。斬るよりも刺す事に適した形状となっている。
桓武天皇の時代、大神宮(伊勢神宮)より遣わされた八尺余りある大鴉によってもたらされたと伝えられ、「小烏丸」の名はその大鴉の羽から出てきたとの伝承に由来する。
後に平貞盛が平将門、藤原純友らの反乱を鎮圧する際に天皇より拝領し、以後平家一門の重宝となる。
平家が滅びた壇ノ浦の戦いの後、行方不明になったとされたが、その後江戸時代の天明5年(1785年)になり、平氏一門の流れを汲む伊勢氏で保管されていることが判明し、伊勢家より刀身及び刀装と伝来を示す「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」の文書が幕府に提出された。
この「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀」は伊勢家より徳川将軍家に献上されたものの、将軍家はそのまま伊勢家に預け、明治維新後に伊勢家より対馬国の宗氏に買い取られた後、明治15年(1882年)に宗家当主の宗重正伯爵より明治天皇に献上された。
蜥蜴丸
蜥蜴丸(とかげまる)は愛知県に伝わる妖刀。刀身を見た者に不幸があるとされる。
また、蜥蜴が近づいただけで切れたという伝承もある。
また、蜥蜴が近づいただけで切れたという伝承もある。
子狐丸
子狐丸(こぎつねまる)は、平安時代の三条宗近作と言い伝えられている日本刀。
九条家が秘蔵していたとされるが、現在の所在は不明。
朝廷から刀を作るよう命ぜられたが満足のいく刀を打てずに困っていた宗近を助ける為、彼の氏神である稲荷明神が童子に化けて宗近と共に作ったと伝えられている。
九条家が秘蔵していたとされるが、現在の所在は不明。
朝廷から刀を作るよう命ぜられたが満足のいく刀を打てずに困っていた宗近を助ける為、彼の氏神である稲荷明神が童子に化けて宗近と共に作ったと伝えられている。
座敷童子
座敷童子(ざしきわらし)は主に東北地方に伝わる精霊的な存在。悪戯好きで見たものに幸福が訪れる、家に富をもたらすという伝承がある。
座敷童子のいる家は栄え、座敷童子が去った家は衰退するという。
座敷童子のいる家は栄え、座敷童子が去った家は衰退するという。
髭切
髭切(ひげきり)は源家重代の刀として伝えられる日本刀。髭切とされる刀は各地にあり、有名なものは北野天満宮所蔵の重要文化財鬼切安綱や多田神社所蔵の鬼切丸など。
「平家物語」剣巻では、平安時代に源満仲の命により「筑前国三笠郡の出山というところに住む異朝(唐国)の鉄細工」が八幡大菩薩の加護を得て膝丸と揃いで作った二尺七寸の太刀とされているが、文献により諸説ある。
罪人を試し切りした際、髭まで切れたというのがこの名の由来であるとされる。
この刀はその後次々と名を変えており、源頼光の代には配下の渡辺綱に貸した際に一条戻橋で鬼(正体は宇治の橋姫ともいわれる)の腕を斬り、名を鬼丸(剣巻では鬼切でなく鬼丸とされる)と改めた。
源頼基、源頼義、源義家を経て源為義の代には夜に獅子の鳴くような声で吠えたので獅子ノ子と名を改めた。
後に源為義が揃いの一組であった吠丸(膝丸)を娘婿である熊野別当教真に婿引き出として譲った為、吠丸の代刀として獅子ノ子そっくりに作らせた小烏が当初は獅子の子より2分ほど長かった。
しかしあるとき2振を抜いて障子に寄り掛けていると人も触れないのに刀が倒れ同じ長さになっており、不審に思った為義が調べてみると小烏の茎が2分ほど切られていた。
それを獅子の子の仕業と考え名を友切と改めた。
「平家物語」剣巻では、平安時代に源満仲の命により「筑前国三笠郡の出山というところに住む異朝(唐国)の鉄細工」が八幡大菩薩の加護を得て膝丸と揃いで作った二尺七寸の太刀とされているが、文献により諸説ある。
罪人を試し切りした際、髭まで切れたというのがこの名の由来であるとされる。
この刀はその後次々と名を変えており、源頼光の代には配下の渡辺綱に貸した際に一条戻橋で鬼(正体は宇治の橋姫ともいわれる)の腕を斬り、名を鬼丸(剣巻では鬼切でなく鬼丸とされる)と改めた。
源頼基、源頼義、源義家を経て源為義の代には夜に獅子の鳴くような声で吠えたので獅子ノ子と名を改めた。
後に源為義が揃いの一組であった吠丸(膝丸)を娘婿である熊野別当教真に婿引き出として譲った為、吠丸の代刀として獅子ノ子そっくりに作らせた小烏が当初は獅子の子より2分ほど長かった。
しかしあるとき2振を抜いて障子に寄り掛けていると人も触れないのに刀が倒れ同じ長さになっており、不審に思った為義が調べてみると小烏の茎が2分ほど切られていた。
それを獅子の子の仕業と考え名を友切と改めた。
童子切
童子切(どうじぎり、どうじきり)は、平安時代の伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀(太刀)。童子切安綱(どうじぎりやすつな、どうじきりやすつな)とも呼ばれる。
天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている。日本の国宝に指定されている。
清和源氏の嫡流である源頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついた。
享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には「名物 童子切」として由来と共に記載されている。
酒呑童子の征伐に用いられた他にも、松平光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、
浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている。
天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている。日本の国宝に指定されている。
清和源氏の嫡流である源頼光が丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で切り落としたという伝承から「童子切」の名がついた。
享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には「名物 童子切」として由来と共に記載されている。
酒呑童子の征伐に用いられた他にも、松平光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、
浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている。
あめのうずめ
アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する神。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
天羽々切
日本神話において素戔嗚尊がヤマタノオロチ討伐の際に用いたとされる刀剣。「布都斯魂剣」(ふつしみたまのつるぎ)とも言う。別名「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)。
高天原を追放され、出雲国に降り立った素戔嗚尊は、ヤマタノオロチが酒に酔って寝てしまった隙に、この剣で斬り刻んだと伝えられる。
ヤマタノオロチの尾を斬ったときに剣の刃が欠けたので、尾を裂いてみると剣が出てきた。これは不思議なものだと思い、天照御大神にこの大刀を献上した。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であり、後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされる。
また、この剣でオロチを斬ったことから、この剣を「天羽々斬」と呼ばれた(「羽々」とは大蛇の意)。
現在では天羽々切とされる鉄刀が、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)とともに石上神宮の本殿内陣に奉安され祭られている。
高天原を追放され、出雲国に降り立った素戔嗚尊は、ヤマタノオロチが酒に酔って寝てしまった隙に、この剣で斬り刻んだと伝えられる。
ヤマタノオロチの尾を斬ったときに剣の刃が欠けたので、尾を裂いてみると剣が出てきた。これは不思議なものだと思い、天照御大神にこの大刀を献上した。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であり、後の草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされる。
また、この剣でオロチを斬ったことから、この剣を「天羽々斬」と呼ばれた(「羽々」とは大蛇の意)。
現在では天羽々切とされる鉄刀が、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)とともに石上神宮の本殿内陣に奉安され祭られている。
膝丸
膝丸(ひざまる)は髭切とともに源氏重代の太刀として伝えられている日本刀。源義経や曽我兄弟の仇討ちと縁が深い。 膝丸とされる刀は現在各地にあり、有名なものは大覚寺所蔵の重要文化財薄緑(刃長2尺7寸:約81cm)や箱根神社所蔵の薄緑丸などがある。
罪人を試し切りした際、膝まで切れたというのがこの名の由来であるとされる。
この刀はその後次々と名を変えており、源頼光の代、源頼光が己を熱病に苦しめた山蜘蛛(土蜘蛛と同一視される)を切り名を蜘蛛切と改めた。源頼基、源頼義、源義家を経て源為義の代には夜に蛇の泣くような声で吠えたので吠丸と名を改めた。
その後、為義の娘婿である熊野別当教真に引出物として譲られたが、教真は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え熊野権現に奉納した。後に子息の熊野別当湛増から源義経に吠丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改めた。
その名は熊野の春の山に由来する。平家を討ち滅ぼした後に義経と源頼朝が仲違いし、義経は腰越状を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を箱根権現に奉納した。だが薄緑を手放した事は義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになった。
罪人を試し切りした際、膝まで切れたというのがこの名の由来であるとされる。
この刀はその後次々と名を変えており、源頼光の代、源頼光が己を熱病に苦しめた山蜘蛛(土蜘蛛と同一視される)を切り名を蜘蛛切と改めた。源頼基、源頼義、源義家を経て源為義の代には夜に蛇の泣くような声で吠えたので吠丸と名を改めた。
その後、為義の娘婿である熊野別当教真に引出物として譲られたが、教真は「源氏重代の刀を自分が持つべきではない」と考え熊野権現に奉納した。後に子息の熊野別当湛増から源義経に吠丸が贈られ、それを大層喜んだ義経は刀の名を薄緑と改めた。
その名は熊野の春の山に由来する。平家を討ち滅ぼした後に義経と源頼朝が仲違いし、義経は腰越状を書くも許されず兄との関係修復を祈願して薄緑を箱根権現に奉納した。だが薄緑を手放した事は義経の命運を決定付け、奥州で討たれることになった。
三日月
三日月宗近(みかづきむねちか)は、平安時代に作られたとされる日本刀(太刀)である。
平安時代の刀工・三条宗近の作で、刀身に鎬と反りのある形式の日本刀としてはもっとも古いものの一つである。「天下五剣」の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。
「三日月」の号の由来は、刀身に三日月形の打除け(うちのけ、刃文の一種)が数多くみられることによるものとされる。
豊臣秀吉の正室高台院が所持し、その後、寛永元年(1624年)に遺品として徳川秀忠に贈られ、以来徳川将軍家の所蔵となった。
1933年1月23日付で重要文化財(当時の旧国宝)に指定。1951年6月9日付で文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 太平洋戦争後に徳川家から金貸しを経て、他の個人所蔵家に渡る。
1992年(平成4年)に当時の所蔵者から東京国立博物館に寄贈され、以後、同館の所蔵となっている。
平安時代の刀工・三条宗近の作で、刀身に鎬と反りのある形式の日本刀としてはもっとも古いものの一つである。「天下五剣」の中でも最も美しいとも評され、「名物中の名物」とも呼び慣わされた。
「三日月」の号の由来は、刀身に三日月形の打除け(うちのけ、刃文の一種)が数多くみられることによるものとされる。
豊臣秀吉の正室高台院が所持し、その後、寛永元年(1624年)に遺品として徳川秀忠に贈られ、以来徳川将軍家の所蔵となった。
1933年1月23日付で重要文化財(当時の旧国宝)に指定。1951年6月9日付で文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 太平洋戦争後に徳川家から金貸しを経て、他の個人所蔵家に渡る。
1992年(平成4年)に当時の所蔵者から東京国立博物館に寄贈され、以後、同館の所蔵となっている。
火之迦具土
日本神話における火の神。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。
伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた神の一柱で、火の神であったために、出産時に伊邪那美の陰部に火傷ができ、これがもとで伊邪那美は死んでしまう。
その後、怒った伊邪那岐に十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
その際、カグツチの血と死体から新たな神が生まれたという。
伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた神の一柱で、火の神であったために、出産時に伊邪那美の陰部に火傷ができ、これがもとで伊邪那美は死んでしまう。
その後、怒った伊邪那岐に十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
その際、カグツチの血と死体から新たな神が生まれたという。
狛犬
獅子や犬に似た霊獣。
狛犬は高麗犬の意味で、獅子とともに一対になって置かれているとする説もあり、その起源も名称が示すように渡来の信仰に基づくもので、邪気を祓う意味があるといわれている。
神社に置かれることが一般的だが、寺院でも稀に置かれることがある。
狛犬は高麗犬の意味で、獅子とともに一対になって置かれているとする説もあり、その起源も名称が示すように渡来の信仰に基づくもので、邪気を祓う意味があるといわれている。
神社に置かれることが一般的だが、寺院でも稀に置かれることがある。
シーサー
シーサーは、沖縄県などでみられる伝説の獣の像。
家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されるケースが多いとされる。
始まりは『球陽』によれば1689年のことで、当時火事が頻発して難儀していた人々が風水師に助言を求めたところ、その風水師は八重瀬岳の影響によるものといい、これを防ぐには獅子の像をつくりその山に向けて設置するようにと助言した。
住民がその言に従ってシーサーを設置したところ火事は発生しなくなったというものである。
家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持ち、屋根の上に設置されるケースが多いとされる。
始まりは『球陽』によれば1689年のことで、当時火事が頻発して難儀していた人々が風水師に助言を求めたところ、その風水師は八重瀬岳の影響によるものといい、これを防ぐには獅子の像をつくりその山に向けて設置するようにと助言した。
住民がその言に従ってシーサーを設置したところ火事は発生しなくなったというものである。
猫又
猫又、猫股(ねこまた)は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの2種類がある。
江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている。1737年(元文2年)刊行の「百怪図巻」などでは、人間女性の身なりをしなた猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、
江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている、もしくは一種の皮肉などと解釈されている
江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている。1737年(元文2年)刊行の「百怪図巻」などでは、人間女性の身なりをしなた猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、
江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている、もしくは一種の皮肉などと解釈されている
仙狸
中国に伝わる猫の妖怪。歳を経た山猫が神通力を得て妖怪化したもので、
美男美女に化けては人間の精気を吸うと云われている。
一説によれば日本の妖怪である猫又の起源とされることもある
名前の"狸"は山猫の意味。
美男美女に化けては人間の精気を吸うと云われている。
一説によれば日本の妖怪である猫又の起源とされることもある
名前の"狸"は山猫の意味。
九尾
九尾の狐とは、中国神話の生物。9本の尻尾をもつ妖狐。つまり、狐の妖怪である。九尾の妖狐、九尾狐(きゅうびこ)、単純に九尾、または複数の尾をもつ狐の総称として尾裂狐(オサキ)とも呼ばれる。稲荷神との習合があり、それによって同一視もされる。
万単位の年月を生きた古狐が化生したものだともいわれ、妖狐の最終形態の存在であるとされる。
狐を魔物、あるいは憑き物として語った伝承は日本だけでなく、古くから世界各地に残されている。九尾の狐もそうした狐にまつわる昔話のひとつであり、物語の多くでは悪しき霊的存在として登場する。
中国の各王朝の史書では、九尾の狐はしばしば瑞獣としてその姿を見せる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であると語られ、その場合は平安な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴として描かれる。
また一方では、殷の帝辛(紂王)を誘惑して国を滅亡させた妲己や、南天竺耶竭陀国(古代インド西域)の王子・班足太子の妃になった華陽夫人、御伽草子『玉藻の草紙』に登場する玉藻前を例とするように九尾の狐は絶世の美女へ化身するという話も多い。
万単位の年月を生きた古狐が化生したものだともいわれ、妖狐の最終形態の存在であるとされる。
狐を魔物、あるいは憑き物として語った伝承は日本だけでなく、古くから世界各地に残されている。九尾の狐もそうした狐にまつわる昔話のひとつであり、物語の多くでは悪しき霊的存在として登場する。
中国の各王朝の史書では、九尾の狐はしばしば瑞獣としてその姿を見せる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であると語られ、その場合は平安な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴として描かれる。
また一方では、殷の帝辛(紂王)を誘惑して国を滅亡させた妲己や、南天竺耶竭陀国(古代インド西域)の王子・班足太子の妃になった華陽夫人、御伽草子『玉藻の草紙』に登場する玉藻前を例とするように九尾の狐は絶世の美女へ化身するという話も多い。
空狐
空狐(くうこ)とは、妖狐の位において二番目に当たる。天狐・空狐・気狐・野狐の順。
天狐が1000歳、空狐が3000歳とされるように妖力においては空狐が最上位とされる。
曲亭馬琴らによる文政時代の奇談集『兎園小説』によれば、3000年以上生きた狐のことであり、通力自在の大神狐とされている。
安政時代の随筆『宮川舎漫筆』には、空狐が人間に憑いたという話がある。それによれば、犬に噛み殺されて魂のみとなっていた空狐が、久しく住んでいた上方から江戸へ向かう途中に一休みのため、長崎源次郎という者の家に仕える小侍に憑き、しばらく体を借りていた。
それから数日間、空狐が源次郎に語ったところによれば、空狐はさまざまな術を使いこなすものの、人間に害を与える野狐と異なり、
あくまで正直者や、愚鈍で生活に窮している者を助けるために術を使うのだといい、実際にその空狐は自分の憑いている小侍の疳の病を治療した。
さらに源平、壇ノ浦、関ヶ原などの合戦の物語を語り、周囲の人々を楽しませて評判を呼んだ後、5日後に小侍から離れて行った。
この空狐は去り際に源次郎への礼として書き物をしたためており、空狐の説明によればこれは「白川唯一神道之極意、唯授一人之伝」というもので、書中の「人一行」は社(やしろ)の形を指し、「天日」が狐の名だという。
この話は源次郎の家に同居していた親類の長崎半七郎の実見談として、半七郎の息子の長崎文理が「狐ものがたり」と題して、『宮川舎漫筆』に収めている。
天狐が1000歳、空狐が3000歳とされるように妖力においては空狐が最上位とされる。
曲亭馬琴らによる文政時代の奇談集『兎園小説』によれば、3000年以上生きた狐のことであり、通力自在の大神狐とされている。
安政時代の随筆『宮川舎漫筆』には、空狐が人間に憑いたという話がある。それによれば、犬に噛み殺されて魂のみとなっていた空狐が、久しく住んでいた上方から江戸へ向かう途中に一休みのため、長崎源次郎という者の家に仕える小侍に憑き、しばらく体を借りていた。
それから数日間、空狐が源次郎に語ったところによれば、空狐はさまざまな術を使いこなすものの、人間に害を与える野狐と異なり、
あくまで正直者や、愚鈍で生活に窮している者を助けるために術を使うのだといい、実際にその空狐は自分の憑いている小侍の疳の病を治療した。
さらに源平、壇ノ浦、関ヶ原などの合戦の物語を語り、周囲の人々を楽しませて評判を呼んだ後、5日後に小侍から離れて行った。
この空狐は去り際に源次郎への礼として書き物をしたためており、空狐の説明によればこれは「白川唯一神道之極意、唯授一人之伝」というもので、書中の「人一行」は社(やしろ)の形を指し、「天日」が狐の名だという。
この話は源次郎の家に同居していた親類の長崎半七郎の実見談として、半七郎の息子の長崎文理が「狐ものがたり」と題して、『宮川舎漫筆』に収めている。
やさふろひめ
- 弥三郎婆
越後(えちご)(新潟県)の猟師弥三郎の母。墓を暴いて死体を食う老婆。ある夜怪物となって弥三郎を襲い、腕を切り落とされるとそれをもって逃げ、弥彦(やひこ)山で200年生き続けた。
後に悔い改めて神になり、弥彦村の宝光院に妙多羅(みょうたら)天女像として祀られたという。
くらかけみや
- 鞍掛け猫
沖永良部島では夜鳴く猫をこう呼んで恐れる。子供を脅かすときにも使われた。
葛の葉
葛の葉(くずのは)は、伝説上のキツネの名前。葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。
稲荷大明神(宇迦之御魂神 )の第一の神使であり、安倍晴明の母である。
伝説の内容は伝承によって多少異なるが、おおむね以下のとおりである。
村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。
摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。
そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける。
童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。全ては稲荷大明神(宇迦之御魂神)の仰せである事を告白し、さらに次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。
恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。
保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信太の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り別れる。
なおこの水晶の玉と黄金の箱は、稲荷大明神(宇迦之御魂神)から葛の葉が童子丸に授ける様に仰せを受けて預かっていた。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。
しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。
稲荷大明神(宇迦之御魂神 )の第一の神使であり、安倍晴明の母である。
伝説の内容は伝承によって多少異なるが、おおむね以下のとおりである。
村上天皇の時代、河内国のひと石川悪右衛門は妻の病気をなおすため、兄の蘆屋道満の占いによって、和泉国和泉郡の信太の森(現在の大阪府和泉市)に行き、野狐の生き肝を得ようとする。
摂津国東生郡の安倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名が信太の森を訪れた際、狩人に追われていた白狐を助けてやるが、その際にけがをしてしまう。
そこに葛の葉という女性がやってきて、保名を介抱して家まで送りとどける。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける。
童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が保名に助けられた白狐であることが知れてしまう。全ては稲荷大明神(宇迦之御魂神)の仰せである事を告白し、さらに次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。
恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。
保名は書き置きから、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知り、童子丸とともに信太の森に行き、姿をあらわした葛の葉から水晶の玉と黄金の箱を受け取り別れる。
なおこの水晶の玉と黄金の箱は、稲荷大明神(宇迦之御魂神)から葛の葉が童子丸に授ける様に仰せを受けて預かっていた。数年後、童子丸は晴明と改名し、天文道を修め、母親の遺宝の力で天皇の病気を治し、陰陽頭に任ぜられる。
しかし、蘆屋道満に讒奏され、占いの力くらべをすることになり、結局これを負かして、道満に殺された父の保名を生き返らせ、朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ、晴明は天文博士となった。
おさき
オサキは、日本に伝わるキツネの憑き物。「オサキギツネ」ともいう。「尾先」と表記されることもある。「尾裂」「御先狐」「尾崎狐」などとの表記もある。
関東地方の一部の山村で行われる俗信であり、埼玉県、東京都奥多摩地方、群馬県、栃木県、茨城県、長野県などの地方に伝わっている。
多摩を除く東京には伝承が見られないが、これはオサキが戸田川を渡れないため、または関東八州のキツネの親分である王子稲荷神社があるためにオサキが江戸に入ることができないためという。
もと那須野で滅んだ九尾の狐の金毛が飛んで霊となったものであり、九尾の狐が殺生石に化けた後、源翁心昭が祟りを鎮めるために殺生石を割った際、その破片の一つが上野国(現・群馬県)に飛来し、オサキになったとの伝説もある。
名称については、九尾の狐の尾から生まれたために「尾先」だといい、曲亭馬琴らによる奇談集『兎園小説』によれば、尾が二股に裂けているために「尾裂」だとあり、神の眷属を意味するミサキが語源との説もある。
オサキの外観は土地や文献によってまったく違った特徴が語られている。曲亭馬琴著『曲亭雑記』ではキツネより小さいイタチに似た獣だとあり、群馬県甘楽郡南牧村付近ではイタチとネズミ、またはフクロウとネズミの雑種のようなもの、
ハツカネズミよりやや大きいものなどといい、色は斑色、橙色、茶と灰の混合色などと様々にいわれ、頭から尾まで黒い一本線がある、尾が裂けているともいい、同郡下仁田町では耳が人間の耳に似て鼻の先端だけが白い、四角い口をしているなど、様々な説がある。
身のこなしが早いために神出鬼没で、常に群れをなすという。
オサキを持つ家をオサキモチ、オサキ屋、オサキ使いなどという。常には姿を見せず、金銀、米穀その他なんであれ心のままに他に持ち運ぶという。
オサキモチを世間は避け、縁組することはなく、オサキモチどうしで縁組するという。オサキの家から嫁を迎え入れた家もオサキモチになるといわれたためであり、婚姻関係で社会的緊張の生まれる原因の一つとなることが多かった。
江戸時代の『梅翁随筆』によれば、家筋についたオサキはどんな手段を用いても家から離すことができないとある。
家ではなく個人に憑く場合もあり、憑かれた者は狐憑き同様、発熱、異常な興奮状態、精神異常、大食、奇行といった症状が現れる。また群馬県多野郡上野村ではオコジョを山オサキと呼び、よく人の後をついて走るものだが、いじめると祟りがあるという。
同じく群馬県の別の村では、オサキは山オサキと里オサキに大別され、山オサキは人には憑かないが、里オサキの方は人に憑くという。
稲荷神の眷属という式姫Projectの設定から、こちらをモチーフにしていると思われる。
狐が1000年生きると天狐になれる。千里の先の事を見通す。尾の数は四尾。下に存在する、野狐、気狐のように悪さをすることはない。さらに生きて、3000歳を超えると空狐となる。
江戸時代には狐の最上位とされ、江戸末期の随筆『善庵随筆』や『北窓瑣談』では天狐・空狐・気狐・野狐の順とされた。
また、『日本書紀』で舒明天皇9年(637年)の大流星のことを「天狗」と書いて「あまつきつね」と読んでいることから、『善庵随筆』には天狐を天狗と同一のものとする説も述べられている。
空狐よりも位が上とされる理由は、空狐は稲荷を引退して隠居しているからとされている。
関東地方の一部の山村で行われる俗信であり、埼玉県、東京都奥多摩地方、群馬県、栃木県、茨城県、長野県などの地方に伝わっている。
多摩を除く東京には伝承が見られないが、これはオサキが戸田川を渡れないため、または関東八州のキツネの親分である王子稲荷神社があるためにオサキが江戸に入ることができないためという。
もと那須野で滅んだ九尾の狐の金毛が飛んで霊となったものであり、九尾の狐が殺生石に化けた後、源翁心昭が祟りを鎮めるために殺生石を割った際、その破片の一つが上野国(現・群馬県)に飛来し、オサキになったとの伝説もある。
名称については、九尾の狐の尾から生まれたために「尾先」だといい、曲亭馬琴らによる奇談集『兎園小説』によれば、尾が二股に裂けているために「尾裂」だとあり、神の眷属を意味するミサキが語源との説もある。
オサキの外観は土地や文献によってまったく違った特徴が語られている。曲亭馬琴著『曲亭雑記』ではキツネより小さいイタチに似た獣だとあり、群馬県甘楽郡南牧村付近ではイタチとネズミ、またはフクロウとネズミの雑種のようなもの、
ハツカネズミよりやや大きいものなどといい、色は斑色、橙色、茶と灰の混合色などと様々にいわれ、頭から尾まで黒い一本線がある、尾が裂けているともいい、同郡下仁田町では耳が人間の耳に似て鼻の先端だけが白い、四角い口をしているなど、様々な説がある。
身のこなしが早いために神出鬼没で、常に群れをなすという。
オサキを持つ家をオサキモチ、オサキ屋、オサキ使いなどという。常には姿を見せず、金銀、米穀その他なんであれ心のままに他に持ち運ぶという。
オサキモチを世間は避け、縁組することはなく、オサキモチどうしで縁組するという。オサキの家から嫁を迎え入れた家もオサキモチになるといわれたためであり、婚姻関係で社会的緊張の生まれる原因の一つとなることが多かった。
江戸時代の『梅翁随筆』によれば、家筋についたオサキはどんな手段を用いても家から離すことができないとある。
家ではなく個人に憑く場合もあり、憑かれた者は狐憑き同様、発熱、異常な興奮状態、精神異常、大食、奇行といった症状が現れる。また群馬県多野郡上野村ではオコジョを山オサキと呼び、よく人の後をついて走るものだが、いじめると祟りがあるという。
同じく群馬県の別の村では、オサキは山オサキと里オサキに大別され、山オサキは人には憑かないが、里オサキの方は人に憑くという。
- 御先稲荷(おさきとうが)
稲荷神の眷属という式姫Projectの設定から、こちらをモチーフにしていると思われる。
- 天狐
狐が1000年生きると天狐になれる。千里の先の事を見通す。尾の数は四尾。下に存在する、野狐、気狐のように悪さをすることはない。さらに生きて、3000歳を超えると空狐となる。
江戸時代には狐の最上位とされ、江戸末期の随筆『善庵随筆』や『北窓瑣談』では天狐・空狐・気狐・野狐の順とされた。
また、『日本書紀』で舒明天皇9年(637年)の大流星のことを「天狗」と書いて「あまつきつね」と読んでいることから、『善庵随筆』には天狐を天狗と同一のものとする説も述べられている。
空狐よりも位が上とされる理由は、空狐は稲荷を引退して隠居しているからとされている。
人魚
人魚(にんぎょ)は、水中に生息すると考えられた伝説上の生き物。
鎌倉時代の『古今著聞集』などでは、日本の人魚はヒト状の顔を持つ魚とされていたが、江戸時代後期にはヨーロッパ同様、ヒトの上半身と魚の下半身を持つ姿と伝えられるようになる。
日本各地に伝わる人魚伝説は恐ろしいものとされることが多い。江戸時代の越中国(現・富山県)では、角を持った全長11メートルの人魚を人々が450丁もの銃で撃退としたといわれる。
若狭国(現・福井県南部)でも漁師が岩の上に寝ていた人魚を殺した後、その村では海鳴りや大地震が頻発し、人魚の祟りと恐れられたという。
このように人魚が恐れられたのは、中国の『山海経』に登場する、赤子のような声と脚を持つ人魚の影響を受けたためといわれる。
一方では吉兆との説もあり、寿命長久や火難避けとしても崇められたこともある。
高野山の麓の西光寺(和歌山県橋本市)には全長約50センチメートルの人魚のミイラがあり、不老長寿や無病息災を願う人々の信仰の対象となっていたといわれ、現在でも橋本市の有形民俗文化財に指定されている。
博多津に人魚が出現した際に国家長久の瑞兆と占われ、人魚を龍宮寺(福岡県福岡市博多区)に埋葬された。
鎌倉時代の『古今著聞集』などでは、日本の人魚はヒト状の顔を持つ魚とされていたが、江戸時代後期にはヨーロッパ同様、ヒトの上半身と魚の下半身を持つ姿と伝えられるようになる。
日本各地に伝わる人魚伝説は恐ろしいものとされることが多い。江戸時代の越中国(現・富山県)では、角を持った全長11メートルの人魚を人々が450丁もの銃で撃退としたといわれる。
若狭国(現・福井県南部)でも漁師が岩の上に寝ていた人魚を殺した後、その村では海鳴りや大地震が頻発し、人魚の祟りと恐れられたという。
このように人魚が恐れられたのは、中国の『山海経』に登場する、赤子のような声と脚を持つ人魚の影響を受けたためといわれる。
一方では吉兆との説もあり、寿命長久や火難避けとしても崇められたこともある。
高野山の麓の西光寺(和歌山県橋本市)には全長約50センチメートルの人魚のミイラがあり、不老長寿や無病息災を願う人々の信仰の対象となっていたといわれ、現在でも橋本市の有形民俗文化財に指定されている。
博多津に人魚が出現した際に国家長久の瑞兆と占われ、人魚を龍宮寺(福岡県福岡市博多区)に埋葬された。
濡女子
濡女子(ぬれおなご)は、四国や九州に伝わる妖怪。
忽那諸島の怒和島や二神島では、海から現れ、名前の通り髪が濡れているという。愛媛県宇和地方では海から現れるとはいわれていないが、髪が洗いざらしで濡れているという。
同じく愛媛の大洲市菅田町では、びしょ濡れの全身に木の葉を纏っていたという。長崎県の壱岐島では海や沼から全身ずぶ濡れの姿で現れ、対馬南部では雨の降る夜に濡れた姿で現れるという。
人を見ると笑いかけてきて、人が笑い返すと一生付きまとう。愛媛の鬼北町や三間町(現・宇和島市)では、「やかましい」と言うと消えてしまうともいう。
忽那諸島の怒和島や二神島では、海から現れ、名前の通り髪が濡れているという。愛媛県宇和地方では海から現れるとはいわれていないが、髪が洗いざらしで濡れているという。
同じく愛媛の大洲市菅田町では、びしょ濡れの全身に木の葉を纏っていたという。長崎県の壱岐島では海や沼から全身ずぶ濡れの姿で現れ、対馬南部では雨の降る夜に濡れた姿で現れるという。
人を見ると笑いかけてきて、人が笑い返すと一生付きまとう。愛媛の鬼北町や三間町(現・宇和島市)では、「やかましい」と言うと消えてしまうともいう。
八百比丘尼
- 八百比丘尼伝説
若狭(わかさ)小浜の空印(くういん)寺を中心に、植樹伝説や椿をもって諸国を巡歴した話が各地に分布する。宝徳元年(1449)若狭から京都にあらわれたという記事が「康富記」「臥雲日件録」にみえる。
安長姫
- 蟹淵
武御雷
日本神話における雷の神。また、剣の神ともされる。
伊邪那岐がカグツチの首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱。
アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。
出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十束剣を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。
大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。
伊邪那岐がカグツチの首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱。
アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。
出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十束剣を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。
大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。
伊邪那岐
悪鬼
悪鬼は、人間世界に悪をばらまく鬼たちの総称。
古来より日本では、さまざまな悪は悪鬼によって世にばらまかれるものとされていた。中でも病気、特に流行病は悪鬼の仕業とされ、大規模な流行病が発生すると、人々は悪鬼の退散を祈った。
古来より日本では、さまざまな悪は悪鬼によって世にばらまかれるものとされていた。中でも病気、特に流行病は悪鬼の仕業とされ、大規模な流行病が発生すると、人々は悪鬼の退散を祈った。
邪鬼
たたりをする神。または四天王像に踏まれている鬼。仏法を犯す邪神として懲らしめられ、苦悶の表情をみせる。
羅刹
- 羅刹天
羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもある。
四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える。
ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたものである。 その起源は夜叉同様、アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、
南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた。『ラーマーヤナ』ではクヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。
概ねバラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多い。
仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになる。十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。
図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる。
中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった。10世紀の延暦寺の僧、源信著『往生要集』はその凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている。
羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラクシャーサ、ラークシャサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。
また羅刹女といえば法華経の陀羅尼品に説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに孔雀経では72の羅刹女の名前が列記されている。
茨木童子
平安時代に大江山を拠点に京都を荒らし回ったとされる鬼の一人。酒呑童子の最も重要な家来とされる。
山伏の姿になった一行はさまざまな人々の助けを得ながら、一晩の宿を求める振りをして酒呑童子の本拠にはいることに成功した。その晩は酒宴が盛り上がり、深夜、酔って動かなくなった酒呑童子の一味の鬼たちを頼光らは残らず退治した。
ただし、茨木童子のみは渡辺綱と戦っていたところ、酒呑童子の討たれるのを見てこれはかなわないと退却し、唯一逃げるのに成功したという。
綱は、切り取った鬼の腕を源頼光に見せた。頼光が陰陽師(安倍晴明だとする話もある)に相談したところ、「必ず鬼が腕を取り返しにやって来るから、七日の間家に閉じこもり物忌みをし、その間は誰も家の中に入れないように」と言われた。
それから数日間、茨木童子はあらゆる手を用いて綱の屋敷へ侵入しようとするが、綱の唱える仁王経や護符の力で入ることができなかった。
ついに七日目の晩になって、摂津の国から綱の伯母・真柴(伯母ではなく養母が来るという話もある)が綱の屋敷にやってきた。
綱は事情を話し決して伯母を屋敷に入れなかったが、年老いた伯母は「幼いころ大切に育てた報いがこの仕打ちか」と嘆き悲しんだので綱は仕方なく言いつけを破って伯母を屋敷に入れる。
伯母は、綱が切り取ったと言う鬼の腕を見たいと言い、封印された唐櫃から出されてきた腕を手にとってじっくり見ていると、突然、伯母は鬼の姿になった。この伯母は実は茨木童子の化けた姿であった。そして腕を持ったまま飛び上がり、破風を破って空の彼方に消えたという。
- 大江山の鬼退治
山伏の姿になった一行はさまざまな人々の助けを得ながら、一晩の宿を求める振りをして酒呑童子の本拠にはいることに成功した。その晩は酒宴が盛り上がり、深夜、酔って動かなくなった酒呑童子の一味の鬼たちを頼光らは残らず退治した。
ただし、茨木童子のみは渡辺綱と戦っていたところ、酒呑童子の討たれるのを見てこれはかなわないと退却し、唯一逃げるのに成功したという。
- 渡辺綱と茨木童子
綱は、切り取った鬼の腕を源頼光に見せた。頼光が陰陽師(安倍晴明だとする話もある)に相談したところ、「必ず鬼が腕を取り返しにやって来るから、七日の間家に閉じこもり物忌みをし、その間は誰も家の中に入れないように」と言われた。
それから数日間、茨木童子はあらゆる手を用いて綱の屋敷へ侵入しようとするが、綱の唱える仁王経や護符の力で入ることができなかった。
ついに七日目の晩になって、摂津の国から綱の伯母・真柴(伯母ではなく養母が来るという話もある)が綱の屋敷にやってきた。
綱は事情を話し決して伯母を屋敷に入れなかったが、年老いた伯母は「幼いころ大切に育てた報いがこの仕打ちか」と嘆き悲しんだので綱は仕方なく言いつけを破って伯母を屋敷に入れる。
伯母は、綱が切り取ったと言う鬼の腕を見たいと言い、封印された唐櫃から出されてきた腕を手にとってじっくり見ていると、突然、伯母は鬼の姿になった。この伯母は実は茨木童子の化けた姿であった。そして腕を持ったまま飛び上がり、破風を破って空の彼方に消えたという。
閻魔
閻魔(えんま)は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、冥界の主。冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。日本の仏教においては地蔵菩薩の化身とみなされ同一視されている。
インド神話の冥府の神・ヤマが中国を経て日本に伝わったもの。
「ヴェーダ」によればこの世で一番最初に死んだ人間であるとも、太陽神ヴィヴァスヴァットの息子として生まれながらも、冥界へ続く「祖霊の道」を見つけ定命の業を背負ってしまったが故に冥界の支配者となったとも言われる。
元は祖霊の楽園・ピトリスを支配し、俗世のカルマから解き放たれた魂を導く存在だったが、後に俗世でダルマ(法)が失われ混迷の時代が訪れると死者の魂が増え、それらの質を問う必要性に問われたが為に自ら冥府の支配者になった、と伝えられる。
閻魔の法廷には、浄玻璃鏡という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。
インド神話の冥府の神・ヤマが中国を経て日本に伝わったもの。
「ヴェーダ」によればこの世で一番最初に死んだ人間であるとも、太陽神ヴィヴァスヴァットの息子として生まれながらも、冥界へ続く「祖霊の道」を見つけ定命の業を背負ってしまったが故に冥界の支配者となったとも言われる。
元は祖霊の楽園・ピトリスを支配し、俗世のカルマから解き放たれた魂を導く存在だったが、後に俗世でダルマ(法)が失われ混迷の時代が訪れると死者の魂が増え、それらの質を問う必要性に問われたが為に自ら冥府の支配者になった、と伝えられる。
閻魔の法廷には、浄玻璃鏡という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。
天邪鬼
悪鬼神もしくは小鬼、また日本の妖怪の一種とされる。「河伯」、「海若」とも書く。
仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、
同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった。
日本古来の天邪鬼は、記紀にある天稚彦や天探女に由来する。
江戸時代の百科事典である『和漢三才図会』では『先代旧事本紀』からの引用として、素戔嗚が吐き出した体内の猛気が天逆毎という女神になったとあり、これが天邪鬼や天狗の祖先とされている。
いずれにせよ、あまり力のある魔物とは見なされていない場合が多い。
仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されるが、これは鬼面の鬼が中国の河伯(かはく)という水鬼に由来するものであり、
同じく中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習合され、足下の鬼類をも指して言うようになった。
日本古来の天邪鬼は、記紀にある天稚彦や天探女に由来する。
江戸時代の百科事典である『和漢三才図会』では『先代旧事本紀』からの引用として、素戔嗚が吐き出した体内の猛気が天逆毎という女神になったとあり、これが天邪鬼や天狗の祖先とされている。
いずれにせよ、あまり力のある魔物とは見なされていない場合が多い。
紅葉御前
長野県の戸隠などに伝わる「紅葉伝説」に登場する鬼女。
子宝に恵まれない夫婦が第六天魔王に祈り授かった子とされ、「呉羽」と名付けられた。
呉羽の評判が広まり親子で村から京都へと移り住んだ際、名前を「紅葉」と改めたという。
都で源経基(みなもと の つねもと)に寵愛され一子を宿すが、戸隠の地へ流される。里の者に尊崇されるいっぽう、徒党を組んで盗賊を働き、冷泉天皇の勅諚によって派遣された平維茂(たいら のこ れもち)の軍勢により、退治される。
子宝に恵まれない夫婦が第六天魔王に祈り授かった子とされ、「呉羽」と名付けられた。
呉羽の評判が広まり親子で村から京都へと移り住んだ際、名前を「紅葉」と改めたという。
都で源経基(みなもと の つねもと)に寵愛され一子を宿すが、戸隠の地へ流される。里の者に尊崇されるいっぽう、徒党を組んで盗賊を働き、冷泉天皇の勅諚によって派遣された平維茂(たいら のこ れもち)の軍勢により、退治される。
鈴鹿御前
鈴鹿御前(すずかごぜん)は、室町時代の紀行文『耕雲紀行』や御伽草子『田村の草子』などの物語に登場する伝説上の女性。立烏帽子(たてえぼし)、鈴鹿権現、鈴鹿姫ともいう。
伝承によって、女盗賊、天女、鬼女であったりとその正体や描写は様々であるが、室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂の鬼退治譚と関連している。
平安時代から盗賊が横行し、鬼の棲家として伝えられる三重・滋賀県境の鈴鹿山に棲んでいたとされる。盗賊として描かれる際には立烏帽子と呼ばれることが多い。
十二単に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しも慌てず、立烏帽子を目深に被り、鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀を抜いて投げ合わせる武勇の持ち主である。
さらに田村将軍を相手に剣を合わせても一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大通連、小通連、顕明連の三振りの宝剣を操り悪事の高丸や大嶽丸の討伐で田村将軍を導くなど、田村将軍を凌ぐ存在感を示す。
また、情と勅命との板挟みとなった田村将軍の裏切りにもその立場を思いやり、あえて犠牲になることを決意したり、娘の小りん(しょうりん)に対して細やかな愛情を見せるなど、情愛深く献身的な女性として描写されている。
立烏帽子の盗賊・武装のイメージは薄れ、烏帽子は着けず、髪に玉の簪(かんざし)を挿し、水干に緋袴という出で立ちである。
鈴鹿御前は田村将軍俊宗と契りを交わし、鈴鹿御前に言い寄る大嶽丸から大通連と小通連を騙して奪い出し、大嶽丸の討伐に力を貸す。
鈴鹿御前ではなく立烏帽子の名前で鬼として登場し、筋書きは概ね同様であるが、鈴鹿の草子に見られる登場人物の微妙な心理や葛藤は省略され、鬼神退治の活劇を主とする内容となる。
また田村利春、田村利光、田村丸利仁の三代に渡る長編ストーリーであり、全編を演じるのには数日に分けられたという。
立烏帽子は平安時代に父である第四天魔王もしくは第六天魔王の命に従って日本の鈴鹿山に渡ってきた。
討伐を命じられた田村丸利仁と立烏帽子は互角に渡り合い、立烏帽子は
「陸奥達谷窟に住む大嶽丸と夫婦の契り(この場合は単なる盟約だけ)を交わして日本を魔界にしようとしたが返事が来ない。
そんなときにに妖星が天から砕け降りた祖父利春と大蛇(龍)の化身の女人間に生まれた父利光、その利光と悪玉姫という鬼の間に生まれ観音の再来でもある田村丸に会って心が変わった。夫婦になって日本の悪魔を従わせましょう」と持ちかけた。
立烏帽子は田村丸の勇敢さと精悍な出で立ちに一目惚れし、顔の分からない大嶽丸を裏切り田村麻呂と共に歩む道を選んだ。
三年の月日が過ぎた頃、二人の間に娘の正林(しょうりん)が生まれた。
都に戻った田村丸に悪事の高丸を退治せよと命が下される。近江に棲む高丸を追い詰めるも、あと一歩の所で常陸鹿島まで逃げられる。すると立烏帽子の神通力で空を飛ぶ光輪車で二人は高丸を追いかける。十二の星を降らせ星の舞をさせて高丸を誘い出して退治した。
高丸を退治した田村丸に、今度は達谷窟の大嶽丸を退治せよと命令が下る。すると立烏帽子は大嶽丸にわざと捕らわれて、達谷窟に田村丸を招き入れる事に成功する。
二人で大嶽丸を攻めるものの、大嶽丸 を取り逃してしまう。
ようやく大嶽丸を箟峰山の岩屋に追い詰めた田村丸は必死に観音に祈った。すると岩屋の戸が開き、奥には観音の呪縛にかかった大嶽丸が鎖に繋がれていた。
田村丸と立烏帽子が騒速、大通連、小通連、顕明連の四振りの剣を投げつけると、大嶽丸の体は四つに切り裂かれた。
すべての鬼を討伐した頃、立烏帽子は「二十五年という短い天命を全うして、この世を去らなければいけません」と告げた。
嘆き悲しむ田村丸は夢か現か、天界にまで赴むき閻魔大王に彼女を返せと迫った。困った閻魔大王は近江で少し前に死んだ小松という娘を生き返らせる。
その娘は田村丸の妻となり113歳まで生き、田村丸も96歳まで生きた。それぞれ鈴鹿山の清瀧権現と田村明神になったという。
娘の正林は93歳まで生き、奥州へ飛んで正林寺の地蔵菩薩になった。
伝承によって、女盗賊、天女、鬼女であったりとその正体や描写は様々であるが、室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂の鬼退治譚と関連している。
平安時代から盗賊が横行し、鬼の棲家として伝えられる三重・滋賀県境の鈴鹿山に棲んでいたとされる。盗賊として描かれる際には立烏帽子と呼ばれることが多い。
- 『鈴鹿の草子』
十二単に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しも慌てず、立烏帽子を目深に被り、鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀を抜いて投げ合わせる武勇の持ち主である。
さらに田村将軍を相手に剣を合わせても一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大通連、小通連、顕明連の三振りの宝剣を操り悪事の高丸や大嶽丸の討伐で田村将軍を導くなど、田村将軍を凌ぐ存在感を示す。
また、情と勅命との板挟みとなった田村将軍の裏切りにもその立場を思いやり、あえて犠牲になることを決意したり、娘の小りん(しょうりん)に対して細やかな愛情を見せるなど、情愛深く献身的な女性として描写されている。
- 『田村の草子』
立烏帽子の盗賊・武装のイメージは薄れ、烏帽子は着けず、髪に玉の簪(かんざし)を挿し、水干に緋袴という出で立ちである。
鈴鹿御前は田村将軍俊宗と契りを交わし、鈴鹿御前に言い寄る大嶽丸から大通連と小通連を騙して奪い出し、大嶽丸の討伐に力を貸す。
- 『田村三代記』
鈴鹿御前ではなく立烏帽子の名前で鬼として登場し、筋書きは概ね同様であるが、鈴鹿の草子に見られる登場人物の微妙な心理や葛藤は省略され、鬼神退治の活劇を主とする内容となる。
また田村利春、田村利光、田村丸利仁の三代に渡る長編ストーリーであり、全編を演じるのには数日に分けられたという。
立烏帽子は平安時代に父である第四天魔王もしくは第六天魔王の命に従って日本の鈴鹿山に渡ってきた。
討伐を命じられた田村丸利仁と立烏帽子は互角に渡り合い、立烏帽子は
「陸奥達谷窟に住む大嶽丸と夫婦の契り(この場合は単なる盟約だけ)を交わして日本を魔界にしようとしたが返事が来ない。
そんなときにに妖星が天から砕け降りた祖父利春と大蛇(龍)の化身の女人間に生まれた父利光、その利光と悪玉姫という鬼の間に生まれ観音の再来でもある田村丸に会って心が変わった。夫婦になって日本の悪魔を従わせましょう」と持ちかけた。
立烏帽子は田村丸の勇敢さと精悍な出で立ちに一目惚れし、顔の分からない大嶽丸を裏切り田村麻呂と共に歩む道を選んだ。
三年の月日が過ぎた頃、二人の間に娘の正林(しょうりん)が生まれた。
都に戻った田村丸に悪事の高丸を退治せよと命が下される。近江に棲む高丸を追い詰めるも、あと一歩の所で常陸鹿島まで逃げられる。すると立烏帽子の神通力で空を飛ぶ光輪車で二人は高丸を追いかける。十二の星を降らせ星の舞をさせて高丸を誘い出して退治した。
高丸を退治した田村丸に、今度は達谷窟の大嶽丸を退治せよと命令が下る。すると立烏帽子は大嶽丸にわざと捕らわれて、達谷窟に田村丸を招き入れる事に成功する。
二人で大嶽丸を攻めるものの、大嶽丸 を取り逃してしまう。
ようやく大嶽丸を箟峰山の岩屋に追い詰めた田村丸は必死に観音に祈った。すると岩屋の戸が開き、奥には観音の呪縛にかかった大嶽丸が鎖に繋がれていた。
田村丸と立烏帽子が騒速、大通連、小通連、顕明連の四振りの剣を投げつけると、大嶽丸の体は四つに切り裂かれた。
すべての鬼を討伐した頃、立烏帽子は「二十五年という短い天命を全うして、この世を去らなければいけません」と告げた。
嘆き悲しむ田村丸は夢か現か、天界にまで赴むき閻魔大王に彼女を返せと迫った。困った閻魔大王は近江で少し前に死んだ小松という娘を生き返らせる。
その娘は田村丸の妻となり113歳まで生き、田村丸も96歳まで生きた。それぞれ鈴鹿山の清瀧権現と田村明神になったという。
娘の正林は93歳まで生き、奥州へ飛んで正林寺の地蔵菩薩になった。
夜摩天
夜摩天(やまてん)は、欲界における六欲天の第3の天に住む天部である。
この天には、須夜摩天(しゅやまてん)、焔天(えんてん)などと多くの別名がある。もともと夜摩天は、インドの民族神でヴェーダ聖典にも登場する。「観無量寿経」に「如夜摩天宮、有五百億微妙宝珠、以為映飾」と、
六欲天の中からヤーマ天だけが取り上げられたのは、古来の神々の上に叙事詩のヤーマ神が現れたと考えられている。また、ヤーマ天は、仏教に取り入れられた後に二途に分かれ、一方では、上界の光明世界に位置する六欲天として、
またもう一方では下界の死者の裁判官として鬼神の趣や地獄の主である閻魔王となったと考えられている。
この天には、須夜摩天(しゅやまてん)、焔天(えんてん)などと多くの別名がある。もともと夜摩天は、インドの民族神でヴェーダ聖典にも登場する。「観無量寿経」に「如夜摩天宮、有五百億微妙宝珠、以為映飾」と、
六欲天の中からヤーマ天だけが取り上げられたのは、古来の神々の上に叙事詩のヤーマ神が現れたと考えられている。また、ヤーマ天は、仏教に取り入れられた後に二途に分かれ、一方では、上界の光明世界に位置する六欲天として、
またもう一方では下界の死者の裁判官として鬼神の趣や地獄の主である閻魔王となったと考えられている。
天探女
天探女(あめのさぐめ)は、天稚彦(あめのわかひこ)に仕えるような描写で日本神話に登場する女神。
『古事記』の葦原中国平定の記述の中で天照大神が高御産巣日神と語らい、天菩比神(あめのほひのかみ)を派遣したが役目を果たさなかったので次いで天若日子(天稚彦)を派遣した。
しかし天若日子は8年の間復命しなかったため、思金神は鳴女(なきめ)という雉を送り、天若日子の真意を糺す事を天照大御神に進言した。
雉は天若日子の家の門の楓に止まり、「おまえは葦原中国に派遣され、荒ぶる神々を帰服しろと命ぜられたが、なぜ、いまだに復命しない。」と天照大御神の言葉を伝えた。
天探女はこれを聞いて、天若日子に「この鳥の鳴き声は不吉だ」と伝えた。
そこで天若日子は弓矢で鳴女を射殺したが、その矢は鳴女の胸を貫き天照大御神と高木神(高御産巣日神の別名)のもとに届いた。これを拾った高木神は、
「悪神が射た矢なら天若日子には当たらぬが、天若日子に悪い心があるなら当たる」と言挙げし、矢を投げ返すと、その矢は天若日子命の胸を貫いた(これを「還矢(かえしや)」と呼ぶ)。
『古事記』の葦原中国平定の記述の中で天照大神が高御産巣日神と語らい、天菩比神(あめのほひのかみ)を派遣したが役目を果たさなかったので次いで天若日子(天稚彦)を派遣した。
しかし天若日子は8年の間復命しなかったため、思金神は鳴女(なきめ)という雉を送り、天若日子の真意を糺す事を天照大御神に進言した。
雉は天若日子の家の門の楓に止まり、「おまえは葦原中国に派遣され、荒ぶる神々を帰服しろと命ぜられたが、なぜ、いまだに復命しない。」と天照大御神の言葉を伝えた。
天探女はこれを聞いて、天若日子に「この鳥の鳴き声は不吉だ」と伝えた。
そこで天若日子は弓矢で鳴女を射殺したが、その矢は鳴女の胸を貫き天照大御神と高木神(高御産巣日神の別名)のもとに届いた。これを拾った高木神は、
「悪神が射た矢なら天若日子には当たらぬが、天若日子に悪い心があるなら当たる」と言挙げし、矢を投げ返すと、その矢は天若日子命の胸を貫いた(これを「還矢(かえしや)」と呼ぶ)。
素戔嗚
日本神話に登場する神。三貴子の一柱で、天照と月読の弟にあたる。
三貴子のうち天照大神は天(高天原)であるが、月読尊は天、滄海原(あおのうなばら)または夜を、素戔嗚尊には夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたが、
素戔嗚はそれを断り、母神伊邪那美のいる根の国に行きたいと願い、伊邪那岐の怒りを買って追放されてしまう。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、
天照大伸は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対し、二柱は疑いをはっきり究明するために誓約(うけひ)を行う。
我の潔白が誓約によって証明されたとして高天原に滞在する素戔嗚だったが、居られることになると次々と粗暴を行い、天照大神はかしこみて天の岩戸に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された。
高天原を追放された素戔嗚は出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。
その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。
夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智(やまたのおろち)という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。
素戔嗚は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、素戔嗚は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。
そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。
八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、素戔嗚は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照大神に献上した。これが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」である。
三貴子のうち天照大神は天(高天原)であるが、月読尊は天、滄海原(あおのうなばら)または夜を、素戔嗚尊には夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたが、
素戔嗚はそれを断り、母神伊邪那美のいる根の国に行きたいと願い、伊邪那岐の怒りを買って追放されてしまう。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、
天照大伸は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対し、二柱は疑いをはっきり究明するために誓約(うけひ)を行う。
我の潔白が誓約によって証明されたとして高天原に滞在する素戔嗚だったが、居られることになると次々と粗暴を行い、天照大神はかしこみて天の岩戸に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された。
高天原を追放された素戔嗚は出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。
その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。
夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智(やまたのおろち)という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。
素戔嗚は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、素戔嗚は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。
そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。
八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、素戔嗚は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照大神に献上した。これが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」である。
白兎
- 因幡の白兎
兎は壱岐島から稻羽(いなば)の地へ渡ろうと思っていたが、渡る手段が無かった。そこでワニザメを欺いて稻羽まで渡ろうとした。
地に下りようとした際に兎がワニザメを騙したことを口にしてしまい、最後のワニザメに毛皮を剥がれてしまう。
毛皮を剥がれて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられ、予言を授けたという。
この兎は八上比売(やかみひめ)という神の使いとされている。
黒兎
飯綱
憑き物の一種である管狐の別名。
新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。
飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている
新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。
飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている
コロボックル
アイヌの伝承に登場する小人。アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解される。
アイヌが住み始める前から住んでいたとされ、フキの葉で噴いた屋根の竪穴に住んでいたという。
アイヌの人々と鹿や魚などの獲物を交換したりしていたが、あるアイヌの青年の無礼な行動に怒り北の海の彼方へ一族ごと去ってしまったという。
アイヌが住み始める前から住んでいたとされ、フキの葉で噴いた屋根の竪穴に住んでいたという。
アイヌの人々と鹿や魚などの獲物を交換したりしていたが、あるアイヌの青年の無礼な行動に怒り北の海の彼方へ一族ごと去ってしまったという。
鳳凰
日本や朝鮮など東アジア全域に伝わる霊鳥。装飾やシンボル、物語・説話・説教などで登場する。
360種の羽を持つ動物の長であり、聖天子の治める平和な世にのみ姿を現すとされる。
梧桐(アオギリ)という木にのみ巣を作り、竹の実と甘露のみを食物とした。
四神の一つとしてあげる場合は朱雀といい、単独であげる場合は鳳凰という。
360種の羽を持つ動物の長であり、聖天子の治める平和な世にのみ姿を現すとされる。
梧桐(アオギリ)という木にのみ巣を作り、竹の実と甘露のみを食物とした。
- 朱雀
四神の一つとしてあげる場合は朱雀といい、単独であげる場合は鳳凰という。
八咫烏
八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において神武東征(じんむとうせい)の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)。
一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。
八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。
近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。
咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。
なお、八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同される。
一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。
八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。
近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。
咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。
なお、八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同される。
かやのひめ
カヤノヒメ(カヤヌヒメとも)は、日本神話に登場する草の神である。 「古事記」では鹿屋野比売神、「日本書紀」では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、「古事記」では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
神産みにおいて伊邪那岐・伊邪那美の間に生まれた。「古事記」においては、山の神である大山祇神との間に、4対8柱の神を生んだ。神名の「カヤ」は萱のことである。
萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。
神産みにおいて伊邪那岐・伊邪那美の間に生まれた。「古事記」においては、山の神である大山祇神との間に、4対8柱の神を生んだ。神名の「カヤ」は萱のことである。
萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。
かぶきりひめ
- かぶきり小僧
ムジナが妙に短い着物を着たおかっぱ頭の小僧に化け、人気のない夜道や山道に出没し「水飲め、茶を飲め」と声をかけるという。
鵷鶵
鵷鶵(えんすう)は鳳凰の一種で黄色いものをさすとも、鳳凰は赤いのに鵷鶵は黄色いから別のものともいう。
「山海経」では「鳳凰とともに住む」とあるから鳳凰とは別の鳥であるが、ともに住むから習性も似ており「荘子」秋水篇には
「鵷鶵、南海を発して北海に飛ぶ。梧桐に非ざれば止まらず、練実(竹の実)に非ざれば食わず、醴泉(甘い味のする泉の水)に非ざれば飲まず」とあるのは鳳凰に類同する。
「山海経」では「鳳凰とともに住む」とあるから鳳凰とは別の鳥であるが、ともに住むから習性も似ており「荘子」秋水篇には
「鵷鶵、南海を発して北海に飛ぶ。梧桐に非ざれば止まらず、練実(竹の実)に非ざれば食わず、醴泉(甘い味のする泉の水)に非ざれば飲まず」とあるのは鳳凰に類同する。
熊野
思兼
日本神話に登場する知恵を司る神。
『古事記』では思金神、常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記する。
名前の「おもひ」は「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、「数多の人々の持つ思慮を一柱で兼ね備える神」の意である。思想や思考、知恵を神格化したものと考えられている。
「八意」(やごころ)は多くの知恵という意味であり、また立場を変えて思い考えることを意味する。高天原の知恵袋といっても良い存在である。
最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。
葦原中国平定では、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後の天孫降臨で瓊々杵尊(ニニギ)に随伴した。
『古事記』では思金神、常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記する。
名前の「おもひ」は「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、「数多の人々の持つ思慮を一柱で兼ね備える神」の意である。思想や思考、知恵を神格化したものと考えられている。
「八意」(やごころ)は多くの知恵という意味であり、また立場を変えて思い考えることを意味する。高天原の知恵袋といっても良い存在である。
最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。
葦原中国平定では、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後の天孫降臨で瓊々杵尊(ニニギ)に随伴した。
天狗
天狗は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。
一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「鼻高天狗」、鼻先が尖ったのは「烏天狗」あるいは「木の葉天狗」という。
神として信仰の対象となる程の大天狗には名が付いており、愛宕山の「太郎坊」、秋葉山の「三尺坊」、鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)、比良山の「次郎坊」の他、比叡山の「法性坊」、英彦山の「豊前坊」、
筑波山の「法印坊」、大山の「伯耆坊」、葛城山の「高間坊」、高雄山の「内供坊」、富士山の「太郎坊」、白峰山の「相模坊」などが知られる。
天狗は、一説に仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。
古事記・日本書紀などに登場し、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは、背が高く長い鼻を持つ容姿の描写から、一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られるケースも多い。
一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「鼻高天狗」、鼻先が尖ったのは「烏天狗」あるいは「木の葉天狗」という。
神として信仰の対象となる程の大天狗には名が付いており、愛宕山の「太郎坊」、秋葉山の「三尺坊」、鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)、比良山の「次郎坊」の他、比叡山の「法性坊」、英彦山の「豊前坊」、
筑波山の「法印坊」、大山の「伯耆坊」、葛城山の「高間坊」、高雄山の「内供坊」、富士山の「太郎坊」、白峰山の「相模坊」などが知られる。
天狗は、一説に仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。
古事記・日本書紀などに登場し、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは、背が高く長い鼻を持つ容姿の描写から、一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られるケースも多い。
狗賓
狗賓(ぐひん)は、天狗の一種。狼の姿をしており、犬の口を持つとされる。
著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗が修験道や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の土俗的な神に近い。
天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた。
狗賓は山の神の使者ともいえ、人間に山への畏怖感を与えることが第一の仕事とも考えられている。山の中で木の切り倒される音が響く怪異・天狗倒しは狗賓倒しとも呼ばれるほか、天狗笑い、天狗礫、天狗火なども狗賓の仕業といわれる。
このように、山仕事をする人々の身近な存在のはずの狗賓が怪異を起こすのは、人々が自然との共存と山の神との信頼関係を続けるようにとの一種の警告といわれているが、
あくまで警告のみであるため、狗賓が人間に直接的な危害を加える話は少なく、人間を地獄へ落とすような強い力も狗賓にはない。
度が過ぎた自然破壊などで狗賓の怒りを買うと人間たちに災いを振りかかる結果になると信じられており、そうした怒りを鎮めるために岐阜県や長野県で山の神に餅を供える狗賓餅など、日本各地で天狗・狗賓に関する祭りを見ることができる。
著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗が修験道や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の土俗的な神に近い。
天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた。
狗賓は山の神の使者ともいえ、人間に山への畏怖感を与えることが第一の仕事とも考えられている。山の中で木の切り倒される音が響く怪異・天狗倒しは狗賓倒しとも呼ばれるほか、天狗笑い、天狗礫、天狗火なども狗賓の仕業といわれる。
このように、山仕事をする人々の身近な存在のはずの狗賓が怪異を起こすのは、人々が自然との共存と山の神との信頼関係を続けるようにとの一種の警告といわれているが、
あくまで警告のみであるため、狗賓が人間に直接的な危害を加える話は少なく、人間を地獄へ落とすような強い力も狗賓にはない。
度が過ぎた自然破壊などで狗賓の怒りを買うと人間たちに災いを振りかかる結果になると信じられており、そうした怒りを鎮めるために岐阜県や長野県で山の神に餅を供える狗賓餅など、日本各地で天狗・狗賓に関する祭りを見ることができる。
烏天狗
烏天狗(からすてんぐ)は大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔をしており、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。
小天狗、青天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い。
剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。
中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったものである。
小天狗、青天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い。
剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。
中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったものである。
古椿
- 古椿の霊
鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」によると、老いたツバキの木に精霊が宿り、怪木と化して人をたぶらかすとある。こうしたツバキの怪は文化時代から文政時代にかけての怪談流行時において広く知られており、民間伝承が多く残されている。
鞍馬
- 鞍馬天狗
- 鬼一法眼
京の一条堀川に住んだ陰陽師。「六韜」(りくとう)という兵法の大家でもあり、文武の達人とされる。源義経がその娘と通じて伝家の兵書「六韜」を盗み学んだという伝説で有名。また剣術においても、京八流の祖として、また剣術の神として崇められている。
鞍馬天狗は牛若丸に剣術を教えたとされ、鬼一法眼と同一視されることがある。
また、鞍馬寺境内には鬼一法眼を祀る鬼一法眼社がある。
- 諸葛亮(孔明)
式姫Projectでは鞍馬が孔明(自己申告)ということになっているが、両者の関連は特に無い。
太郎坊
- 愛宕太郎坊天狗
- 愛宕権現
また、愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。藤原頼長の日記『台記』にも愛宕山の天狗信仰に関する記載がみられる。
若宮を太郎坊大権現と称してカグツチをイザナミの第五皇子であるとしその化身が愛宕太郎坊であるとされた。
- 安元の大火
安元の大火は崇徳上皇の怨霊の仕業ともされる。この崇徳上皇は白峯神宮に白峯大権現祀られており、『雨月物語』の「白峯」においても怨霊として描かれている。
やたのひめ
おつの
- 役小角
伝説によると役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
人に災いを為していた前鬼・後鬼という夫婦の鬼を捕縛し従えたとされる。
かるら
- 迦楼羅天
一般的には、鳥頭人身の二臂と四臂があり、龍や蛇を踏みつけている姿の像容もある。 鳥頭人身有翼で、篳篥や横笛を吹く姿もある。
仏教において、毒蛇は雨風を起こす悪龍とされ、煩悩の象徴といわれる為、龍(毒蛇)を常食としている迦楼羅天は、毒蛇から人を守り、龍蛇を喰らうように衆生の煩悩(三毒)を喰らう霊鳥として信仰されている。
密教では、迦楼羅を本尊とした修法で降魔、病除、延命、防蛇毒に効果があるとする。また、祈雨、止風雨の利益(りやく)があるとされる。
白峰
- 崇徳天皇(上皇)
保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、
「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。
崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。
ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。
『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。
『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという。安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。
後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については、
『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。
精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。
寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。
また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。
怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれている。
- 雨月物語
「白峰」は『雨月物語』の内容の一つ。
諸国を巡る西行の道行文から、「白峯」は始まる。西行は、崇徳院が成仏せずに怨霊となっていることを諌めた。ここから西行と院の論争が始まる。
西行は『日本書紀』「仁徳紀」にある大鷦鷯の王、菟道稚郎子の皇位相譲の話を例に出して王道の観点から、院は易姓革命論から、それぞれ論をぶつけあう。次に、西行は、易姓革命を唱えた『孟子』が日本に伝わらなかったこと、
『詩経』「小雅」の一篇「兄弟牆(うち)に鬩(せめ)ぐとも外の侮りを禦(ふせ)げよ」という一節を説き、ついに院の、私怨がゆえである、との本音を引き出すことに成功する。院は、「経沈め」の一件の後、保元の乱で敵方に回った者たちを深く恨み、
平治の乱がおこるように操ったのだ、という。そして、大風がおき、ここで初めて院の、異形の姿が顕わになる。また、配下の天狗、相模がやってくる。そして、院は、平氏の滅亡を予言する。西行は、院の浅ましい姿を嘆き、一首の歌を詠む。
「よしや君昔の玉の床(とこ)とてもかからんのちは何にかはせん」。すると、院の顔が穏やかになったように見え、段々と姿が薄くなり、そして消えていった。いつのまにか月が傾き、朝が近くなっている。西行は金剛経一巻を供養し、山を下りた。
その後、西行は、このできごとを誰にも話すことはなかった。世の中は、院の予言通りに進んでいった。院の墓は整えられ、御霊として崇め奉られるようになった。
- 白峰神宮
崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で歿した。その後天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)の前に、上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立された。
幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御した。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4年(1868年)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建した。
幽霊
幽霊(ゆうれい)とは死んだ者が成仏できずに姿をあらわしたもの。
古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。
だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった。
「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や戦争での戦死者のように、死んだときの姿のまま現れると言われる幽霊も多い。
幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す(成仏する)という。
古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。
だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった。
「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や戦争での戦死者のように、死んだときの姿のまま現れると言われる幽霊も多い。
幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す(成仏する)という。
祖霊
祖霊(それい・みおやのみたま)とは、先祖の霊のこと。家族または血縁集団の守護神的な性格をもつ。
たたったりすると考えられていた死霊が、じつは子孫を加護祝福するのだと高められて、祖先崇拝が生まれ、祖霊祭(先祖祭)が盛んになった。仏教の追善供養なども一種の祖霊祭である。
たたったりすると考えられていた死霊が、じつは子孫を加護祝福するのだと高められて、祖先崇拝が生まれ、祖霊祭(先祖祭)が盛んになった。仏教の追善供養なども一種の祖霊祭である。
春姫
卑弥呼
卑弥呼(ひみこ)は倭国の女王。邪馬台国に都をおいていたとされる。
本名は不明であるが、君主の地位についてからは「ヒミコ」と呼ばれ、弟が彼女の補佐として国を治めていたとされる。
卑弥呼が実在したのか、また皇室にもどのようにつながるのかは不明だが、彼女に当たるとされる人物は諸説あり、日本神話の天照大神や、日本史上の神功皇后・倭迹迹日百襲媛命など様々。
本名は不明であるが、君主の地位についてからは「ヒミコ」と呼ばれ、弟が彼女の補佐として国を治めていたとされる。
卑弥呼が実在したのか、また皇室にもどのようにつながるのかは不明だが、彼女に当たるとされる人物は諸説あり、日本神話の天照大神や、日本史上の神功皇后・倭迹迹日百襲媛命など様々。
天照
日本神話に登場する神。三貴子の一柱で、素戔嗚と月読の姉にあたる。
皇室の祖神であり、太陽を神格化した存在とされる。
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。
神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、スサノヲが機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。
高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
鍛冶師の天津麻羅(あまつまら)を探し、伊斯許理度売命(いしこりどめ)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。
玉祖命(たまのおやのみこと)に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。
天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(フトダマ))を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。
アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神(アメノタヂカラオ)が岩戸の脇に隠れて立った。
天宇受賣命(アメノウズメ)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。
アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。
鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
皇室の祖神であり、太陽を神格化した存在とされる。
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。
神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
- 岩戸隠れ
しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、スサノヲが機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。
高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
鍛冶師の天津麻羅(あまつまら)を探し、伊斯許理度売命(いしこりどめ)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。
玉祖命(たまのおやのみこと)に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。
天児屋命(あめのこやねのみこと)と太玉命(フトダマ))を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。
アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神(アメノタヂカラオ)が岩戸の脇に隠れて立った。
天宇受賣命(アメノウズメ)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。
アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。
鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
天女
天女(てんにょ)は、天部に住むとされる女性のことで、天帝などに仕えているとされる女官の総称である。人間界においては容姿端麗であることを除けば人と大きく変わるところはなく、羽衣と呼ばれる衣服で空を飛ぶとされるが、
この羽衣を奪われたばかりに空に帰れなくなり、地上の男性と婚姻する話(羽衣伝説)などが伝えられている。
この羽衣を奪われたばかりに空に帰れなくなり、地上の男性と婚姻する話(羽衣伝説)などが伝えられている。
織姫
織姫(おりひめ)は、七夕の伝説「牛郎織女」に登場する仙女。西王母の外孫娘であり、天帝の娘・七仙女と同一視されることもある。北方玄武七宿の第三宿・女宿の中の三女星(織女星、婺女星、須女星)の一柱。
織姫は「天梭」を持つ、仙界の織物(彩雲と天衣)をするのが上手だった。
織姫は「天梭」を持つ、仙界の織物(彩雲と天衣)をするのが上手だった。
吉祥天
仏教の守護神である天部の1つ。もとヒンドゥー教の女神であるラクシュミーが仏教に取り入れられたもの。功徳天、宝蔵天女ともいう。
ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。 仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする。
吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。
ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。 仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする。
吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている。
雪女
雪女(ゆきおんな)は、雪の妖怪。
雪女の起源は古く、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による「宗祇諸国物語」には、法師が越後国(現・新潟県)に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかる。
呼び方は違えど、常に「死」を表す白装束を身にまとい男に冷たい息を吹きかけて凍死させたり、男の精を吸いつくして殺すところは共通しており、広く「雪の妖怪」として怖れられていた。
雪女は「宗祇諸国物語」をもとにした小泉八雲の『怪談』「雪女」の様に、恐ろしくも美しい存在として語られることが多く、雪の性質からはかなさを連想させられる。
雪女の起源は古く、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による「宗祇諸国物語」には、法師が越後国(現・新潟県)に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかる。
呼び方は違えど、常に「死」を表す白装束を身にまとい男に冷たい息を吹きかけて凍死させたり、男の精を吸いつくして殺すところは共通しており、広く「雪の妖怪」として怖れられていた。
雪女は「宗祇諸国物語」をもとにした小泉八雲の『怪談』「雪女」の様に、恐ろしくも美しい存在として語られることが多く、雪の性質からはかなさを連想させられる。
輝夜
- かぐや姫
光輝く竹の中から生まれ、竹取の翁とその妻の嫗(おうな)に育てられ三か月ほどで妙齢になったという。
この世のものとは思えない美しさから数々の男に求婚されたが、手に入れるのが困難な珍しい宝を持って来ることが出来れば結婚をするという難題を課した。
結局、かぐや姫の出した難題をこなした者は誰一人としていなかった。
そんなかぐや姫の様子は帝にまで伝わり、帝はかぐや姫に会いたがった。しかし、かぐや姫はこれを拒絶し、帝は一旦は思いとどまったものの、
やはり会いたくなり、翁を呼び出して「姫を差し出せば官位をやる」と告げる。喜ぶ翁の取りなしにもかかわらずかぐや姫は「帝がお召しになって仰られたとしても、畏れ多いとも思いません」と言い姿を見せようともしない。
帝は「多くの人を殺してきた心であるよ」と言ったが、なおこの女の心積もりに負けてなるものかと諦めない。かぐや姫は「無理にお仕えさせようとなさるならば消え失せてしまうつもりです」と翁に言った。
翁がこの事を帝に伝えると、帝は狩りに行幸するふりをして会うことを提案する。翁もそれに賛同した。
帝が狩りに行くついでに不意をつき、かぐや姫の家に入ると、光に満ちて清らかに坐っている人を見た。帝は初めて見たかぐや姫を類なく美しく思い、神輿を寄せて連れて行こうとしたが、姫は一瞬のうちに姿(実体)を影(光)と化した。
本当に地上の人間ではないと帝は思ったが、より一層すばらしい女だと思う気持ちが抑えがたい。帝は、魂をその場に留め置いている心地でかぐや姫を残して帰った。
日頃仕えている女官たちを見ると、かぐや姫の近くに寄っていられる人さえない。他の人より清く美しいと思っていた人は、あのかぐや姫に比べると人並でもない。
かぐや姫ばかりが心にかかって、ただ一人で過ごしている。かぐや姫のもとにだけ、手紙を書いて文通している。
帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。 八月の満月が近づくにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、
翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五日に帰らねばならない。ほんの少しの間ということであの国からやって来たが、この様にこの国で長い年月を経てしまった。それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げる」という。
それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送ることとなった。 その十五日には、各役所に命じ勅使として中将高野大国を指名し、六衛府を合せて二千人を竹取の家に派遣する。
家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせた。 嫗は、塗籠の内でかぐや姫を抱きかかえている。翁も、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいる。
かぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。
このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう」という。
翁は迎えを、長い爪で眼を掴み潰そう、髪の毛を取って引き落とし、尻を引き出して役人たちに見せて恥をかかせてやろうと腹を立てている。 かぐや姫は「大声でおっしゃいますな。屋根の上にいる者どもが聞くと、大層よろしくない。
お爺さま、お婆さまのこれまでのご愛情をわきまえもしないでお別れしようとすることが、残念でございます。両親に対するお世話を、僅かも致さずに、帰っていく道中も安らかにはなりますまい。
あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのです。もの思いもありません。そのような所へ行くことも、嬉しいとも存じません」と言った。
そして子の刻(真夜中頃)、家の周りが昼の明るさよりも光った。大空から人が雲に乗って降りて来て、地面から五尺くらい上った所に立ち並んでいる。
内外の人々の心は、得体が知れない存在に襲われるようで、戦い合おうという気もなかった。何とか心を奮って弓矢を構えようとしても、手に力も無くなって萎えてしまった。
気丈な者が堪えて射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでいき、ただ茫然とお互い見つめ合っている。 王と思われる人が「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しかった造麻呂も、何か酔ったような心地になって、うつ伏せにひれ伏している。
王は「お前、幼き者よ。少しばかり翁が善行を作ったから助けにと、僅かばかりの間ということで姫を下したところ、長い年月の間に多くの黄金を賜って、お前は生まれ変わったように金持ちになったのだ。
かぐや姫は罪を御作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。罪の期限は過ぎた。早くお出し申しあげよ」と翁に言うが、翁は従わない。
屋根の上に飛ぶ車を近づけて「さあ、かぐや姫。穢れた所(地上)にどうして長く居られるのでしょうか」と言うと、締め切っていた戸や格子が即座に開いていく。嫗が抱きかかえて座っていたかぐや姫は、外に出てしまう。
かぐや姫は、せめて天に上っていくのだけでもお見送りくださいと言うが翁は泣き伏してしまう。「御心が乱れてしまっている」と見かねたかぐや姫は「この先、恋しい折々に、取り出してご覧ください」と手紙を書き置いた。
天人の中の者に持たせた箱があり、それには天の羽衣が、また別の箱には不死の薬が入っている。 一人の天人が姫に「穢い所の物を召し上がっていたのでご気分が悪いことでしょう」と言い薬を持って寄ったのでかぐや姫は僅かに嘗め、
天の羽衣を着せようとしていた天人を制し、帝への手紙と歌を書いた。
その歌には、
いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる
と詠んだ。その手紙に、薬を添えて頭中将へ渡させた。 中将が受け取ると天人がさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫のこれまで翁を痛ましい、愛しいと思っていたことも消えてしまった。
この羽衣を着た人は物思いがなくなってしまうのだったから、かぐや姫は車に乗って昇ってしまった。
帝は手紙を読みひどく深く悲しみ、何も食べず詩歌管弦もしなかった。 大臣や上達部を呼び「どの山が天に近いか」と尋ねると、
ある人が駿河の国にあるという山だと言うのを聞き「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と詠み、かぐや姫からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、
つきの岩笠という人を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。
その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて、不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「ふじの山」と名づけた。 その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。
咲耶
- コノハナサクヤビメ
天照大神(アマテラス)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻。オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。
ニニギノミコトの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。
神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。
オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。
コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」
と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である。
いすずひめ
- ヒメタタライスズヒメ
橿原神宮や貴船神社などに祀られている。
おゆき
- 小泉八雲の「雪女」
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。
巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。
女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。
だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年して、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。
「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
次の瞬間、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
紫の君
- 紫の上
初め紫の君、後に光源氏の妻となって紫の上と呼ばれる。「紫」の名は古今集の雑歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」にちなみ、源氏の「永遠の女性」である藤壺の縁者(紫のゆかり)であることを婉曲に表す。
また「上」の呼称が示すように、源氏の正妻格として源氏にも周囲にも扱われるが、正式な結婚披露をした北の方ではない。
「源氏物語」について語る時、幼少時の紫の上を若紫と呼ぶ事がある。
知流
- イワナガヒメ
大山祇神(おおやまつみ)の娘で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉。
コノハナノサクヤビメとともに天孫瓊々杵尊(ににぎ)の元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返された。
オオヤマツミはそれを怒り、イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、
コノハナノサクヤビメを差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからであることを教え、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。
「日本書紀」には、妊娠したコノハナノサクヤビメをイワナガヒメが呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。
また「古事記」においてオオヤマツミの娘で、スサノオの子の八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)と結婚する、木花知流比売(このはなちるひめ)はイワナガヒメの別名であるとする説もある。
月読
日本神話に登場する月を神格化した、夜を統べる神。一般的には男神として考えられているが、記紀には性別の記述は無い。
三貴子の一柱で、天照の弟、素戔嗚の兄にあたる。
黄泉から帰った伊邪那岐が穢れを落とすため禊を行った際、右目から生まれた神であり、夜の統治を命じられる。
『古事記』ではこれ以降一切活躍はないが、『日本書紀』では神代から人代に移行した後、再び現れる。
三貴子の一柱で、天照の弟、素戔嗚の兄にあたる。
黄泉から帰った伊邪那岐が穢れを落とすため禊を行った際、右目から生まれた神であり、夜の統治を命じられる。
『古事記』ではこれ以降一切活躍はないが、『日本書紀』では神代から人代に移行した後、再び現れる。
伊邪那美
吸血姫
- 吸血鬼
ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』、シェリダン・レ・ファニュの『カーミラ』など、多くの創作において登場してきた。
生と死を超えた者、または生と死の狭間に存在する者、不死者の王とされる。バンパイヤ、ヴァンパイア、ヴァンピールなどとも書かれる。
一般に吸血鬼は、一度死んだ人間がなんらかの理由により不死者として蘇ったものと考えられている。現代の吸血鬼・ヴァンパイアのイメージは、ヨーロッパにルーツがある伝承のイメージが強い。
多くの吸血鬼は人間の生き血を啜り、血を吸われた人も吸血鬼になるとされている。
薔薇姫
真祖
吸血鬼としての始祖。魔術等によって吸血鬼へ変化した者であり、他の吸血鬼から吸血されて吸血鬼化した者ではない。
龍神
- ドラゴン
レヴィア
- レヴィアタン
その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。
キリスト教の七つの大罪では嫉妬を司る。
ファラ
- ファラク
ファラクがいる場所は、大地を支える魚バハムートのいる海よりもはるか下方の空間で、人知が及ばない世界であるともいうが、その果てにある死の国ということになろうか。あるいはその象徴といえるだろう。
別の伝説では6つの冥府は、バハムートも上方、大地の山頂の天使の頭上にあるともいう。
戦乙女
- ワルキューレ
主神オーディンの命を受けて、天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇士(エインヘリャル)を選びとってを天上の宮殿ヴァルハラへと迎え入れる役割を持っていた。
この勇士達は、ラグナロクでの戦いに備えて、世の終わりまで武事に励むという。ヴァルハラにおいて、彼らをもてなすのもワルキューレの務めの一つである。
ヴァルキリーはワルキューレの英語読み。
戦姫
フレイ
フレイは、北欧神話の神。フレイヤの双子の兄。 神々の中で最も美しい眉目秀麗な豊穣の神として非常に崇拝された。
フレイは妖精の支配者とされ、神々から妖精の国アルフヘイムを贈られたとされている。
愛を司る女神、豊穣を司る女神、闘いを司る女神など多様な側面を持ち、その中には死者を迎える女神としての側面もある。
『古エッダ』や『ギュルヴィたぶらかし』では、戦場で死んだ勇敢な戦士を彼女が選び取り、オーディンと分け合うという記述がある。
戦死者をオーディンの元へ運ぶのはワルキューレの役割であるため、フレイヤが彼女たちのリーダーと考える研究者もいる。
フレイは妖精の支配者とされ、神々から妖精の国アルフヘイムを贈られたとされている。
- フレイヤ
愛を司る女神、豊穣を司る女神、闘いを司る女神など多様な側面を持ち、その中には死者を迎える女神としての側面もある。
『古エッダ』や『ギュルヴィたぶらかし』では、戦場で死んだ勇敢な戦士を彼女が選び取り、オーディンと分け合うという記述がある。
戦死者をオーディンの元へ運ぶのはワルキューレの役割であるため、フレイヤが彼女たちのリーダーと考える研究者もいる。
斉天大聖
斉天大聖(せいてんたいせいは、中国四大奇書の一つである、『西遊記』の主人公の神仙・孫悟空が作中で名乗った称号。天にも斉(等)しい大聖者の意。この名前で天宮で騒動を起こしている。
そのため、三蔵法師と取経の旅にでたときも、各地の土地神などから「大聖」と呼ばれることもある。
昔々、東勝神州は傲来国(ごうらいこく)の沖合にうかぶ火山島である花果山の頂に一塊の仙石があった。この石が割れて卵を産み、卵は風にさらされて一匹の石猿が孵った。
この石猿は、島に住む猿たちが、誰かが谷川の水源を見つけたら王様にするというので、勇を振るって滝壺に飛び込み、水簾洞という住み処を見つけてきたので、約束どおり猿たちに崇められ美猴王(びこうおう)と名乗ることになった。
ある時、限りある命にはかなさを感じたことから不老不死の術を求めて旅に出て、十年以上かけて西午賀洲に住む須菩提祖師(すぼだいそし)という仙人を探し出して弟子入りした。
祖師は、姓を持たぬという美猴王に孫という姓を与え、孫悟空の法名を授ける。7年後、兄弟子を差し置いて、念願の長寿の妙道を密かに教わり、さらに3年後に地煞数(ちさつすう)という七十二般の変化術を自然に悉く体得してしまった。
さらに觔斗雲(きんとうん)の法も教わって自在に空の雲に乗れるようになる。ところが、他の弟子に術を見せびらかしたことから、祖師の怒りを買い故郷に帰るように命じられた。
花果山に帰郷すると、混世魔王という化け物が水簾洞を荒らしていたので身外身の術で退治したが、これをきっかけに傲来国に出かけて大量の武器を強奪して配下の猿たちに配って守りを固めさせ、配下の猿を軍隊にまとめ上げた。
そうすると自分の武器も手に入れたくなり、海中の東海竜王敖廣の宮殿である龍宮にいき、如意金箍棒を無理矢理譲ってもらう。さらに長く居すわって残りの三海の竜王たちからも武具を要求し、金の冠、金の鎧、歩雲履の防具一式を持ってこさせた。
牛魔王を含む6大魔王の妖仙と義兄弟となり、宴席で酔いつぶれていると、幽冥界から使いが2人きて魂を連れ去り、「寿命が尽きた」という。
しかしそんなはずはないと抗弁して暴れ、閻魔帳を持ってこさせると、なるほど孫悟空の寿命342歳とあるので、自分の名を墨で塗りつぶし、ついでに仲間の猿の名前もいくつか消した。
もうお前らの厄介にはならんと冥界十王を殴って帰ってきたところで、目が覚めたが、以後、悟空以外の山猿にも不老のものがふえたという。
こうして死籍を消すに至ったことから、天界からも危険視される存在になった。天上界の主宰者、天帝は石猿を討伐しようとするが、太白の意見で思い直し、官吏として天界に召すことで懐柔することにした。
悟空は、天界の使者に喜び、弼馬温(ひつばおん)の官職に任命されたが、半月後にその身分が低いと知ってへそを曲げ、不意に脱走してしまう。地上ではすでに十数年経っていたが、帰還した美猴王を神としてかしずく猿たちに囲まれて気分がいいところに、
独角鬼王という妖怪が訪ねてきて臣下となり、さらに褒めそやして煽てたので、有頂天になった悟空は斉天大聖と自ら号するようになった。これを聞いた天帝は身の程知らずの石猿だと怒り、托塔李天王(たくとうりてんおう)を大将にする討伐軍に派遣したが、
先鋒の巨霊神と哪吒太子(なたたいし)が敗れて歯が立たないと、悟空の神通力に恐れをなして退却した。
力で抑えるのが難しいとわかると、再び太白の意見で懐柔策をとることになり、二度目は悟空の希望通りの待遇とすることにして、新官職「斉天大聖」が創設され、正式に任命された。
これは職務のない名目だけの官職であった。これでしばらくは悟空も満足していたが、天界では暇をもてあましていたので、新たに蟠桃園(ばんとうえん)の管理を任されることになる。
ところが、不老は悟空の最も好むところであり、栽培されている仙桃が熟れるのを待って食べ尽くした。そこに美しい仙女たちが桃を摘みに来て宴会が催されるというので、悟空は仙女たちの宴席に忍び込んで酒番を眠らせ、
仙酒仙肴を食べ荒らし、さらに酔ったはずみで兜率天宮に迷い込んだので、ついでに太上老君の金丹の全部を頬張って、再び天界を逃げ出した。
悟空が戻ると地上では百年経過していた。天帝は烈火のごとく怒り、天兵10万を派遣して包囲し、諸将を総動員して攻めかからせた。
悟空の側は、七十二洞の妖怪たちと独角鬼王は生け捕られたが、猿たちはすべて逃げ延び、悟空は哪吒太子と四大天王、恵岸を打ち負かした。ところが恵岸がその師である観音菩薩に苦戦を報告したところ、菩薩は天帝に顕聖二郎真君を推薦する。
二郎真君は梅山の六兄弟と共に悟空を遂に追い詰め、太上老君の投げた金剛琢(こんごうたく)で悟空が脳天を打たれてふらふらのところを捕まえた。
天帝は、悟空を斬妖台に引きだして八つ裂きの刑にするが、悟空は仙丹の力で無敵の体となっていたので刀も斧も歯が立たず、火すら効果がなかった。最終手段として太上老君の秘法八卦炉の前に差し出し押し込めて熔かそうとするも、
いぶされて目が真っ赤になって「火眼金睛(あかめ)」となったのち、勢い八卦炉から飛び出すと大暴れしてもう手が付けられない状態になった。悟空が怖ろしくなった天帝は、雷音寺の釈迦如来に助けを求めることになる。
如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、五行山に封印してしまった。
五百年後、観世音菩薩の救済によって三蔵法師の弟子となって功徳を積むことを許され、天竺までの取経の旅を助けることになる。三蔵法師からはおもに孫行者(そんぎょうじゃ)と呼ばれている。
弟子になってからも初めはかなり反抗的で、納得できない時は相手が如来だろうと菩薩だろうと平気で文句は言うし反抗的態度に出る。しかし仁義や礼儀に精通しており、その他で無礼を働くことはない。
初め三蔵法師に反発して脱走も試み、その後もいわれのない罪で破門されたりしているが、観世音菩薩や釈迦如来の導きもあり、結局はいつも三蔵法師の元に戻ってくる。旅では失敗を繰り返して学習し成長しながら、次第に行いが改まっていくが、やはり不機嫌さが残る。
三蔵との関係は師匠と弟子というよりも、無力な人間を庇う守護者のような損な役回りで、人使いの荒い三蔵には困らされることが多い。
ついに取経の旅に成功すると、多くの魔を降して三蔵法師を守り、天竺から多くの経典を持ち返ったその抜群の功績を認められ、仏の記別を受けることができた。
そのため、三蔵法師と取経の旅にでたときも、各地の土地神などから「大聖」と呼ばれることもある。
- 孫悟空
昔々、東勝神州は傲来国(ごうらいこく)の沖合にうかぶ火山島である花果山の頂に一塊の仙石があった。この石が割れて卵を産み、卵は風にさらされて一匹の石猿が孵った。
この石猿は、島に住む猿たちが、誰かが谷川の水源を見つけたら王様にするというので、勇を振るって滝壺に飛び込み、水簾洞という住み処を見つけてきたので、約束どおり猿たちに崇められ美猴王(びこうおう)と名乗ることになった。
ある時、限りある命にはかなさを感じたことから不老不死の術を求めて旅に出て、十年以上かけて西午賀洲に住む須菩提祖師(すぼだいそし)という仙人を探し出して弟子入りした。
祖師は、姓を持たぬという美猴王に孫という姓を与え、孫悟空の法名を授ける。7年後、兄弟子を差し置いて、念願の長寿の妙道を密かに教わり、さらに3年後に地煞数(ちさつすう)という七十二般の変化術を自然に悉く体得してしまった。
さらに觔斗雲(きんとうん)の法も教わって自在に空の雲に乗れるようになる。ところが、他の弟子に術を見せびらかしたことから、祖師の怒りを買い故郷に帰るように命じられた。
花果山に帰郷すると、混世魔王という化け物が水簾洞を荒らしていたので身外身の術で退治したが、これをきっかけに傲来国に出かけて大量の武器を強奪して配下の猿たちに配って守りを固めさせ、配下の猿を軍隊にまとめ上げた。
そうすると自分の武器も手に入れたくなり、海中の東海竜王敖廣の宮殿である龍宮にいき、如意金箍棒を無理矢理譲ってもらう。さらに長く居すわって残りの三海の竜王たちからも武具を要求し、金の冠、金の鎧、歩雲履の防具一式を持ってこさせた。
牛魔王を含む6大魔王の妖仙と義兄弟となり、宴席で酔いつぶれていると、幽冥界から使いが2人きて魂を連れ去り、「寿命が尽きた」という。
しかしそんなはずはないと抗弁して暴れ、閻魔帳を持ってこさせると、なるほど孫悟空の寿命342歳とあるので、自分の名を墨で塗りつぶし、ついでに仲間の猿の名前もいくつか消した。
もうお前らの厄介にはならんと冥界十王を殴って帰ってきたところで、目が覚めたが、以後、悟空以外の山猿にも不老のものがふえたという。
こうして死籍を消すに至ったことから、天界からも危険視される存在になった。天上界の主宰者、天帝は石猿を討伐しようとするが、太白の意見で思い直し、官吏として天界に召すことで懐柔することにした。
悟空は、天界の使者に喜び、弼馬温(ひつばおん)の官職に任命されたが、半月後にその身分が低いと知ってへそを曲げ、不意に脱走してしまう。地上ではすでに十数年経っていたが、帰還した美猴王を神としてかしずく猿たちに囲まれて気分がいいところに、
独角鬼王という妖怪が訪ねてきて臣下となり、さらに褒めそやして煽てたので、有頂天になった悟空は斉天大聖と自ら号するようになった。これを聞いた天帝は身の程知らずの石猿だと怒り、托塔李天王(たくとうりてんおう)を大将にする討伐軍に派遣したが、
先鋒の巨霊神と哪吒太子(なたたいし)が敗れて歯が立たないと、悟空の神通力に恐れをなして退却した。
力で抑えるのが難しいとわかると、再び太白の意見で懐柔策をとることになり、二度目は悟空の希望通りの待遇とすることにして、新官職「斉天大聖」が創設され、正式に任命された。
これは職務のない名目だけの官職であった。これでしばらくは悟空も満足していたが、天界では暇をもてあましていたので、新たに蟠桃園(ばんとうえん)の管理を任されることになる。
ところが、不老は悟空の最も好むところであり、栽培されている仙桃が熟れるのを待って食べ尽くした。そこに美しい仙女たちが桃を摘みに来て宴会が催されるというので、悟空は仙女たちの宴席に忍び込んで酒番を眠らせ、
仙酒仙肴を食べ荒らし、さらに酔ったはずみで兜率天宮に迷い込んだので、ついでに太上老君の金丹の全部を頬張って、再び天界を逃げ出した。
悟空が戻ると地上では百年経過していた。天帝は烈火のごとく怒り、天兵10万を派遣して包囲し、諸将を総動員して攻めかからせた。
悟空の側は、七十二洞の妖怪たちと独角鬼王は生け捕られたが、猿たちはすべて逃げ延び、悟空は哪吒太子と四大天王、恵岸を打ち負かした。ところが恵岸がその師である観音菩薩に苦戦を報告したところ、菩薩は天帝に顕聖二郎真君を推薦する。
二郎真君は梅山の六兄弟と共に悟空を遂に追い詰め、太上老君の投げた金剛琢(こんごうたく)で悟空が脳天を打たれてふらふらのところを捕まえた。
天帝は、悟空を斬妖台に引きだして八つ裂きの刑にするが、悟空は仙丹の力で無敵の体となっていたので刀も斧も歯が立たず、火すら効果がなかった。最終手段として太上老君の秘法八卦炉の前に差し出し押し込めて熔かそうとするも、
いぶされて目が真っ赤になって「火眼金睛(あかめ)」となったのち、勢い八卦炉から飛び出すと大暴れしてもう手が付けられない状態になった。悟空が怖ろしくなった天帝は、雷音寺の釈迦如来に助けを求めることになる。
如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、五行山に封印してしまった。
五百年後、観世音菩薩の救済によって三蔵法師の弟子となって功徳を積むことを許され、天竺までの取経の旅を助けることになる。三蔵法師からはおもに孫行者(そんぎょうじゃ)と呼ばれている。
弟子になってからも初めはかなり反抗的で、納得できない時は相手が如来だろうと菩薩だろうと平気で文句は言うし反抗的態度に出る。しかし仁義や礼儀に精通しており、その他で無礼を働くことはない。
初め三蔵法師に反発して脱走も試み、その後もいわれのない罪で破門されたりしているが、観世音菩薩や釈迦如来の導きもあり、結局はいつも三蔵法師の元に戻ってくる。旅では失敗を繰り返して学習し成長しながら、次第に行いが改まっていくが、やはり不機嫌さが残る。
三蔵との関係は師匠と弟子というよりも、無力な人間を庇う守護者のような損な役回りで、人使いの荒い三蔵には困らされることが多い。
ついに取経の旅に成功すると、多くの魔を降して三蔵法師を守り、天竺から多くの経典を持ち返ったその抜群の功績を認められ、仏の記別を受けることができた。
孫麗
カク
- カク猿
中国の本草書『本草綱目』によれば、猴(こう。サルのこと)より大きいものとあり、『抱朴子』によれば、800年生きた獼猴(みこう。アカゲザルのこと)が「猨」となり、さらに500年生きて玃猿になるとある。
『本草綱目』では「玃」「猳玃」「玃父」の名で記載されている。玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある。
『捜神記』『博物志』には「玃猿」「猳国」「馬化」の名で、以下のようにある。蜀の西南の山中には棲むもので、サルに似ており、身長は7尺(約1.6メートル)ほどで、人間のように歩く。
山中の林の中に潜み、人間が通りかかると、男女の匂いを嗅ぎ分けて女をさらい、自分の妻として子供を産ませる。子供を産まない女は山を降りることを許されず、10年も経つと姿形や心までが彼らと同化し、人里に帰る気持ちも失せてしまう。
子を産んだ女は玃猿により子供とともに人里へ帰されるが、里へ降りた後に子供を育てない女は死んでしまうため、女はそれを恐れて子供を育てる。こうして玃猿と人間の女の間に生まれた子供は、姿は人間に近く、育つと常人とまったく変わりなくなる。
本来なら姓は父のものを名乗るところだが、父である玃猿の姓がわからないため、仮の姓として皆が「楊」を名乗る。蜀の西南地方に多い「楊」の姓の者は皆、玃猿の子孫なのだという。
このような玃猿の特徴は、中国の未確認動物である野人と一致しているとの指摘もある。
南宋時代の小説集『夷堅志』には「渡頭の妖」と題し、以下のような話がある。ある谷川の岸に、夜になると男が現れ、川を渡ろうとする者を背負って向こう岸に渡していた。
人が理由を尋ねても、これは自分の発願であり理由はないと、殊勝に返事をしていた。黄敦立という胆勇な男が彼を怪しみ、同じように川を渡してもらった3日後、お礼に自分がその男を渡そうと言い。
拒む男を無理に抱えて川を渡り、大石に投げつけた。悲鳴を上げたその男を松明の明かりで照らすと、男の姿は玃猿に変わっていた。玃猿を殺して焼くと、その臭気は数里にまで届いたという。
- 変面
死神
生命の死を司るとされる神。
神話や宗教によって姿に大きく差差はあるが、一般的に鎌を持ち、黒いローブに身を包んだ人間の白骨の姿をしているとされることが多い。
また、脚が存在せず、常に宙に浮遊している状態のものも多く、黒い翼を生やしている姿も描かれる。
その大鎌を一度振り上げると、振り下ろされた鎌は必ず何者かの魂を獲ると言われ、死神の鎌から逃れるためには、他の者の魂を捧げなければならないとされる。
基本的に、死神は悪い存在として扱われる事が多いが、死神には『最高神に仕える農夫』という異名もあり、この場合、死神は、
「死を迎える予定の人物が魂のみの姿で現世に彷徨い続け悪霊化するのを防ぐ為、冥府へと導いていくという役目を持っている」といわれている。
またタロットの大アルカナの13番目に位置し、正位置が『別れ』『中止』『死の予兆』『全ての終わり』 、
逆位置が『新しい始まり』『転換』『再出発』『中途半端で終わるに終われない』 の意味を持つ。
神話や宗教によって姿に大きく差差はあるが、一般的に鎌を持ち、黒いローブに身を包んだ人間の白骨の姿をしているとされることが多い。
また、脚が存在せず、常に宙に浮遊している状態のものも多く、黒い翼を生やしている姿も描かれる。
その大鎌を一度振り上げると、振り下ろされた鎌は必ず何者かの魂を獲ると言われ、死神の鎌から逃れるためには、他の者の魂を捧げなければならないとされる。
基本的に、死神は悪い存在として扱われる事が多いが、死神には『最高神に仕える農夫』という異名もあり、この場合、死神は、
「死を迎える予定の人物が魂のみの姿で現世に彷徨い続け悪霊化するのを防ぐ為、冥府へと導いていくという役目を持っている」といわれている。
またタロットの大アルカナの13番目に位置し、正位置が『別れ』『中止』『死の予兆』『全ての終わり』 、
逆位置が『新しい始まり』『転換』『再出発』『中途半端で終わるに終われない』 の意味を持つ。
闇冥姫
タナトス
タナトスは ギリシア神話に登場する、死そのものを神格化した神。
ニュクス(夜)の息子でヒュプノス(眠り)の兄弟。抽象的な存在で、古くはその容姿や性格は希薄であった。
ただ、「神統記」では、鉄の心臓と青銅の心を持つ非情の神で、ヒュプノスと共に大地の遥か下方のタルタロスの領域に館を構えているという。ヒュプノスと共に背中に翼の生えた姿で描かれる。
しかしホメーロスは、タナトスとヒュプノスの兄弟が英雄サルペードーンの亡骸をトロイアからリュキアへと運ぶ物語を述べ、初めてタナトスは人格神として描かれた。
さらに後世の神話では、臨終を迎えんとする人の魂を奪い去って行く死神として描かれる様になる。人間に割り当てられた寿命が尽きるとその人間のもとへ赴き、その髪を一房切り取ってハーデースに捧げ、それからその人物の魂を連れていく。
英雄の魂はヘルメースが冥府に運び、凡人の魂はタナトスが冥界へ運ぶともされる。
ニュクス(夜)の息子でヒュプノス(眠り)の兄弟。抽象的な存在で、古くはその容姿や性格は希薄であった。
ただ、「神統記」では、鉄の心臓と青銅の心を持つ非情の神で、ヒュプノスと共に大地の遥か下方のタルタロスの領域に館を構えているという。ヒュプノスと共に背中に翼の生えた姿で描かれる。
しかしホメーロスは、タナトスとヒュプノスの兄弟が英雄サルペードーンの亡骸をトロイアからリュキアへと運ぶ物語を述べ、初めてタナトスは人格神として描かれた。
さらに後世の神話では、臨終を迎えんとする人の魂を奪い去って行く死神として描かれる様になる。人間に割り当てられた寿命が尽きるとその人間のもとへ赴き、その髪を一房切り取ってハーデースに捧げ、それからその人物の魂を連れていく。
英雄の魂はヘルメースが冥府に運び、凡人の魂はタナトスが冥界へ運ぶともされる。
獅子女
ライオンの身体と人間の顔を持った神聖な存在、あるいは怪物。また、猫のような姿をしている。
古王国時代には既に存在し、神格化したファラオと百獣の王であるライオンを重ね合わせたものと考えられている。
スフィンクスの種類には複数あり、男性も女性もいる。動物や鳥の頭部を持つものも見受けられる。
当初は子供をさらう怪物であり、また、戦いにおいての死を見守る存在であった。高い知性を持っており、謎解きやゲームを好む。
オイディプスの神話によれば、ヘーラーによってピキオン山に座し、テーバイの住人を苦しめていた。旅人を捕らえて「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎を出し、間違った者を食べていた。なお、答えずに引き返すことは可能だった。
この謎はムーサに教わったとされている。しかし、オイディプスに「人間は赤ん坊の時はハイハイで四つ足、成長して二足、老年で杖をつくから三足だ」と答えられ、岩の台座から飛び降り、海に身を投げて死んだという(アポロドロス、ヒュギヌスなど)。
- 古代エジプトにおけるスフィンクス
古王国時代には既に存在し、神格化したファラオと百獣の王であるライオンを重ね合わせたものと考えられている。
スフィンクスの種類には複数あり、男性も女性もいる。動物や鳥の頭部を持つものも見受けられる。
- 古代メソポタミアにおけるスフィンクス
- 古代ギリシャにおけるスフィンクス
当初は子供をさらう怪物であり、また、戦いにおいての死を見守る存在であった。高い知性を持っており、謎解きやゲームを好む。
オイディプスの神話によれば、ヘーラーによってピキオン山に座し、テーバイの住人を苦しめていた。旅人を捕らえて「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎を出し、間違った者を食べていた。なお、答えずに引き返すことは可能だった。
この謎はムーサに教わったとされている。しかし、オイディプスに「人間は赤ん坊の時はハイハイで四つ足、成長して二足、老年で杖をつくから三足だ」と答えられ、岩の台座から飛び降り、海に身を投げて死んだという(アポロドロス、ヒュギヌスなど)。
砂華姫
バステト
バステトはエジプト神話に登場する女神。
バステトは猫の女神として知られる。猫は古代エジプト人が初めて家畜化した動物と言われており、エジプト先王朝時代の遺跡の墓より猫の骨が発見されていることから、紀元前4000年紀後半には家畜化されていたと考えられている。
バステトは当初、猫ではなく雌ライオンの頭部を持った姿で崇拝された。しかし、紀元前1000年頃には猫の姿、あるいは猫の頭部を持つ人間の姿とされるようになった。人間の姿の場合は、しばしば手にシストラムという楽器、盾、籠を持っている。
神話上においては、通常、バステトは太陽神ラーの娘とされる。しかし、ラーの妹、あるいは妻とされることもある。後代においては、創造神プタハの妻とされた。ライオンの姿を持つ神マヘスはバステトの息子とされる。
また、アヌビスも時としてネフティスではなくバステトの息子であるとされる。
バステトはしばしば、雌ライオンの頭を持つテフヌト、あるいはセクメト・ハトホルといった他の女神と同一視される。
これによりバステトは、ラーが人間を罰するために自らの左目を女神として送り出し、女神が地上で大殺戮を行なったという「遠方の女神」や「ラーの目」といった物語群に属することとなる。また、テフヌトと同一視された関係で、アトゥムの敵であるアペプを倒すものともみなされる。
バステトは猫の女神として知られる。猫は古代エジプト人が初めて家畜化した動物と言われており、エジプト先王朝時代の遺跡の墓より猫の骨が発見されていることから、紀元前4000年紀後半には家畜化されていたと考えられている。
バステトは当初、猫ではなく雌ライオンの頭部を持った姿で崇拝された。しかし、紀元前1000年頃には猫の姿、あるいは猫の頭部を持つ人間の姿とされるようになった。人間の姿の場合は、しばしば手にシストラムという楽器、盾、籠を持っている。
神話上においては、通常、バステトは太陽神ラーの娘とされる。しかし、ラーの妹、あるいは妻とされることもある。後代においては、創造神プタハの妻とされた。ライオンの姿を持つ神マヘスはバステトの息子とされる。
また、アヌビスも時としてネフティスではなくバステトの息子であるとされる。
バステトはしばしば、雌ライオンの頭を持つテフヌト、あるいはセクメト・ハトホルといった他の女神と同一視される。
これによりバステトは、ラーが人間を罰するために自らの左目を女神として送り出し、女神が地上で大殺戮を行なったという「遠方の女神」や「ラーの目」といった物語群に属することとなる。また、テフヌトと同一視された関係で、アトゥムの敵であるアペプを倒すものともみなされる。
天仙
ナタ
- 哪吒
托塔天王(毘沙門天)の三男である事から哪吒太子(なたたいし)、あるいは哪吒三太子(なたさんたいし)とも呼ばれる。
信仰対象としては太子爺(たいしや)、太子元帥(たいしげんすい)、羅車太子(らしゃたいし)、中壇元帥(ちゅうだんげんすい)などとも呼ばれ、いくつもの尊称がある。
蓮の花や葉の形の衣服を身に着け、乾坤圏(円環状の投擲武器)や混天綾(魔力を秘めた布)、火尖鎗(火を放つ槍)などの武器を持ち、
風火二輪(二個の車輪の形をした乗り物。火と風を放ちながら空を飛ぶ)に乗って戦う姿は『封神演義』『西遊記』などの民間説話や小説などでなじみ深く、道教寺院でもこのような姿で表される。
太上老君
太上老君(たいじょうろうくん、だじょうろうくん)は、別名道徳天尊(どうとくてんそん)、混元老君(こんげんろうくん)、降生天尊(ごうせいてんそん、こうせいてんそん)、太清大帝(たいせいたいてい)とも言う道教の神。
道教の始祖とみなされる老子が神格化されたもので、道教の最高神格である三清の一。元始天尊の応身の神格とされ、あるいは、その十号の一つに数えられる。
地上では崑崙山、天上では道教における天上界の最高天のひとつ、太清境(たいせいきょう)に住するとされる。『抱朴子』の記述によれば、その姿は、口がカラスに類し、耳の長さは7寸あり、額には縦筋が3本あったとされ、神仙の風貌で描かれている。
道教の始祖とみなされる老子が神格化されたもので、道教の最高神格である三清の一。元始天尊の応身の神格とされ、あるいは、その十号の一つに数えられる。
地上では崑崙山、天上では道教における天上界の最高天のひとつ、太清境(たいせいきょう)に住するとされる。『抱朴子』の記述によれば、その姿は、口がカラスに類し、耳の長さは7寸あり、額には縦筋が3本あったとされ、神仙の風貌で描かれている。
堕天使
堕天使(だてんし)は、主なる神の被造物でありながら、高慢や嫉妬がために神に反逆し、罰せられて天界を追放された天使、自由意志をもって堕落し、神から離反した天使である。
キリスト教の教理では悪魔は堕落した天使であるとされる。
七つの大罪の一つ、怠惰(堕落)を司る悪魔としてベルフェゴールがいるが、中世ヨーロッパのグリモワールでは発明を手助けする堕天使と紹介されている。
便利な発明品を人間に与えることで堕落させるとされる。
キリスト教の教理では悪魔は堕落した天使であるとされる。
七つの大罪の一つ、怠惰(堕落)を司る悪魔としてベルフェゴールがいるが、中世ヨーロッパのグリモワールでは発明を手助けする堕天使と紹介されている。
便利な発明品を人間に与えることで堕落させるとされる。
りりむ姫
- リリン
伝承によれば、リリスが魔王サタンとの間に儲けた子供の悪魔達に名づけられた名前である。新生児を襲ったり、睡眠中の男性を誘惑し、夢精させるとも云われる。女性淫魔であるサキュバスと関連付けられることも多い。
人類の祖先とする見方もある。
アスモデウス
ユダヤ教とキリスト教の悪魔のひとつ。旧約聖書外典の「トビト記」やグリモワールの一つ「ゴエティア」などに登場する。
キリスト教の七つの大罪では色欲を司る。悪魔になる前は智天使だったとされる。
ゴエティアによるとアスモデウスはアマイモン配下の東方悪魔の首座であり、72の軍団を率いる序列32番の大いなる王とされる。
姿は牛・人・羊の頭とガチョウの足、毒蛇の尻尾を持ち、手には軍旗と槍を持って地獄の竜に跨り、口から火を噴くという。
姿を見ても恐れずに敬意を払って丁寧に応対すれば非常に喜び、指輪やガチョウの肉をくれたり、幾何学や天文学などの秘術を教えてくれるという。
キリスト教の七つの大罪では色欲を司る。悪魔になる前は智天使だったとされる。
ゴエティアによるとアスモデウスはアマイモン配下の東方悪魔の首座であり、72の軍団を率いる序列32番の大いなる王とされる。
姿は牛・人・羊の頭とガチョウの足、毒蛇の尻尾を持ち、手には軍旗と槍を持って地獄の竜に跨り、口から火を噴くという。
姿を見ても恐れずに敬意を払って丁寧に応対すれば非常に喜び、指輪やガチョウの肉をくれたり、幾何学や天文学などの秘術を教えてくれるという。
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