朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。

ちょうど二十六歳の時に結婚して、明後日が大晦日という凍りつくような寒い夜でした(引用者注・1942年)。家族で粟のおかゆをすすっていると、大勢の足音が近づいて家の前でぴたりと止まった。

突然、「ナオラ(出て来い)!」と、呼ぶ声がした。

その頃は、毎日のように面の若い働き手が徴用されて、日本へ連れて行かれていたので、私はその声が何であるか一瞬に事態を悟りました。

面の巡査と、面書記が五、六人土足のまま侵入して来たのです。

「文、ちょっと一緒に来い」

と、面巡査が横柄な態度でいいました。あんまり突然のことで、私はもううろうろするばかり。私にとっては今行けといわれても、残される妻と兄弟のことが心配でした。気持が動転して、後のことを打ち合わせる余裕もない。もう兄弟はおびえてしまって泣き出す始末で、女房は狂ったように取り乱した。

「私たちを置いて行かないでおくれ。これから先、兄弟の面倒は誰が見るのよ!」

と、叫んだんです。

「早う立たんか、男の癖にめそめそするな!」

巡査は大声で叫ぶと、私を家の外に突き出したんです。

同じ面の三十四人は、面事務所の広場へ集められた。そこへ妻と妹が、私の後を追うようにやって来た。結婚式の時に着た新品の絹の上下を風呂敷に包んでいた。

「早う帰るから、家のことを頼む」

布呂敷包み<ママ>をもらう時に、それだけを妻にいっただけで、私たちは迎えのトラックに積み込まれて順天へと送られた。

順天駅の旅館に泊まった時、隣の面から来た男に行先を聞いたが、九州の炭鉱というだけで、何処の炭鉱に徴用されたのか分からん

全くもって無責任なものでした。


「消された朝鮮人強制連行の記録―関釜連絡船と火床の坑夫たち」(林えいだい/明石書店、1989)p405〜407

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