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World War III (Der Dritte Weltkrieg)は1998年に、ZDF(ドイツ語版)及びThe Learning Channel(英語版)によって制作放映された、「危機の始まりから、最終的な核の応酬までの、長い道のり」をテーマとするドキュドラマである。これは、各国政府の実際のコンティンジェンシープランに基づくもので、制作者たちは東西両側の軍事専門家の助言を受け、機密解除されたNATO及びワルシャワ条約機構の戦争計画を参照している。
架空の人物
現実の政治指導者(報道映像)
World War 3 (ZDF) 進行
World War III (Der Dritte Weltkrieg)は1998年に、ZDF(ドイツ語版)及びThe Learning Channel(英語版)によって制作放映された、「危機の始まりから、最終的な核の応酬までの、長い道のり」をテーマとするドキュドラマである。これは、各国政府の実際のコンティンジェンシープランに基づくもので、制作者たちは東西両側の軍事専門家の助言を受け、機密解除されたNATO及びワルシャワ条約機構の戦争計画を参照している。
タイトル | World War III (Der Dritte Weltkrieg) |
監督 | Robert Stone |
プロデューサー | Ulrich Lenze |
脚本 | Ingo Helm, Robert Stone |
音楽 | John Kusiak, Caleb Sampson |
配給 | ZDF |
放映 | 1998年10月 |
放映時間 | 94分 |
言語 | ドイツ語, 英語, ロシア語, フランス語 |
架空の人物
俳優 | 役名 | 役割 |
Boris Sichkin | General Vladimir Soshkin | ソビエト連邦共産党書記長 |
Boris Leskin | Yuri Rubanov | ソビエト外相 |
Christopher Wynkoop | Martin Jacobs | 米国安全保障担当補佐官 |
Sigrid Braun-Umbach | Franziska Bruckner | 西ベルリンの医師 |
Gunter Walch | Gen. Karl Frohm | 西ドイツ軍将軍 |
Klaus Schleif | Col. Wolfgang Heckler | 東ドイツ軍大佐 |
Oliver Hohlfeld | Markus Lehmann | 東ドイツ市民 |
Daniel Schorr | 本人 | ワシントンDC報道 |
John Ydstie | 本人 | ニーダーザクセン州報道 |
現実の政治指導者(報道映像)
人物 | 地位 |
Mikhail Gorbachev | ソビエト連邦書記長 |
Erich Honecker | 東ドイツ議長 |
George H. W. Bush | アメリカ大統領 |
James Baker | アメリカ国務長官 |
Bob Dole | カンザス州選出アメリカ上院議員 |
Phil Gramm | テキサス州選出アメリカ上院議員 |
Helmut Kohl | 西ドイツ首相 |
François Mitterrand | フランス大統領 |
Margaret Thatcher | 英国首相 |
プラハの春(チェコスロバキア侵攻):架空のキャラクターであるソーシキン将軍は1968年の侵攻に参加し、彼の指揮下での残虐性が悪名をとどろかせ、LIFEの表紙を飾った。
スタニスラフ・ペトロフが、米ソ緊張が高まる1983年にソビエトのレーダーのコンピュータが誤動作した際に、核戦争の開始を阻止した。
1987年のブラックマンデー:New York Post("CRASH")とDaily News("PANIC")の表紙イメージを使って、将来への不安からウォール街での暴落を描写。
1989年に、中国政府近くの天安門広場で起きた民主化運動。数週間のデモのあと、軍が実力で抵抗を排除した。これをソーシキンの言う「中国式解決策」だと思われる。この映画は、天安門時間の4か月後という設定である。実際の歴史では、ホーネッカーが(ポーランド及びハンガリーの鎮圧にゴルバチョフを引き込もうと交渉していた時点で)公然と、国内の不満に同様の対処をしたいと述べていた。さらに、10月半ばに、ホーネッカーは文書でライピチヒに対して命令を下したが、その実行は、ほぼ阻止された。
ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一の報道映像が流用された。ドイツ再統一の報道映像は、映画の西ベルリン解放後の祝祭のシーンに使われ、それが11月の虐殺後に起きたことを示唆した。
1991年のミハイル・ゴルバチョフに対するソビエトのクーデターの試みに対する、米国当局と「西ドイツ」ヘルムート・コール首相の討議がこの映画で使われた。クーデターは1990年の後に起きたので、実際にはコールは統一ドイツの首相として、声明を読み上げている。
1990〜1991年の湾岸戦争についての、米国当局の討議の報道映像が使われた。多国籍軍によるイラク攻撃のFLIR報道映像が、ワルシャワ条約機構軍司令部への攻撃シーンに流用された。オペレーション砂漠の嵐における、バグダッドへの多国籍軍による攻撃の報道映像が、ソビエト及び東ドイツ軍によるハンブルク空襲の描写に流用された。
1982年のフォークランド紛争のときの、サンカリオス及びブラフコーブへの攻撃が、海戦の描写に流用された。
1992〜1995年のボスニア戦争の航空機カメラの映像が、NATO軍によるレグニツァ空襲の描写に流用された。
ベトナム戦争で、ケサンで、北ベトナム軍の砲撃を受けるアメリカ海兵隊の報道映像が、ソビエト及び東ドイツによる、西ドイツのラムスタイン空軍基地への攻撃の描写に流用された。
第1次チェチェン戦争における、グロズヌイのロシア軍部隊の様子が、西ドイツから東ドイツへ撤退するソビエト軍の描写に流用された。チェチェン反乱勢力によるロシア軍部隊に対する戦闘が、東ドイツ政府の崩壊と、ソーシキン体制に対するソビエト連邦内部での抵抗の描写に流用された。
アフガン戦争での、ソビエト軍部隊の報道映像が、ソビエト軍のポーランドへの撤退の描写に流用された。
[ wikipedia: World Wa III (film) ]
World War 3 (ZDF) 進行
1989/09 | 東ドイツは混乱状態。多くの市民が共産党政権に不満で、西側指向の改革を求めた。彼らは西ドイツとの統一を求めた。 |
1989/10/07 | これらの改革を支持するミハイル・ゴルバチョフが東ベルリン訪問、帰国のフライトの間に、強硬派共産党指導部がクーデターを起こし、ゴルバチョフを解任し、ウラジーミル・ソーシキン将軍(架空の人物)を新たなソ連指導者の座につけた。ゴルバチョフをその後は不明。 |
1989/10下旬 | ソーシキンと強硬派はグラスノスチとペレストロイカの高まりに激しく抵抗。東ドイツ及び東欧諸国(クーデター時に共産党が平和的に権力を移行したポーランドを含む)の暴動を、中国方式の軍による取り締まりを実施。東ドイツの取り締まりでは、デモ参加者のみならず、エゴン・クレンツやギュンター・シャボウスキーのような多くの穏健派も姿を消した。取り締まりは、人々の共産主義への反対を高めた。 |
1989/11下旬 | ライプチヒのデモが赤軍により武力鎮圧され、多くの死者が出た。2日後に、ブランデンブルク門でのデモは、東ドイツ軍により、ベルリンの壁を越えようとした東ドイツ市民やこれを撮影していた西がカメラマンが殺されたことで、鎮圧された。さらに、壁の西側の西ベルリンへも発砲。東ドイツ政府は、国際的非難に対して、外国人報道関係者の国外退去を命令。 |
1989/12下旬 | 西側同盟は西ベルリンへ兵力を空輸。ソーシキン将軍の取り締まりに強く反対する、東ドイツ駐留ソ連軍のドミトリ・レオノフ将軍と秘密裡に会談すべく、米国ジェームズ・ベイカー国務長官が西ベルリンを訪問。レオノフ将軍は自動車爆弾の爆発で死亡。西ドイツのネオナチ団体が犯行声明。西ドイツのテレビ局のインタビューで、ソーシキンは西ベルリンを間接的に恫喝。米軍大佐が西ドイツにある戦術核兵器を警戒態勢においた。これに対して、ソーシキンはソ連潜水艦隊の大規模動員と、アラスカ空軍基地へ向けたの爆撃機領空侵犯により、さらに恫喝した。 |
1990/01/25 | ソーシキンはオペレーション・サンダーボルトを発動。東側部隊が西ドイツと西ベルリンの通行を遮断。ソ連空軍は東ドイツ領空を封鎖。ソーシキンはこれにより、西側の東側への影響を阻止し、ベルリンを西側から切断しようとした。NATO軍は西ドイツへの動員を開始。最悪の事態に備えて、西ドイツ市民がシェルターを準備し始める。 |
1990/02 | 米国は北大西洋を渡る軍事物資輸送を計画するが、ソ連はこれを阻止する海上封鎖を実施。ソーシキンは西欧への輸送を切断し、NATO軍備増強を抑制しようとした。国連とNATOは海上封鎖を非難し、敵対行動を宣言 |
1990/02/18 | 米国海軍がソ連海上封鎖を突破。米国輸送船がソ連軍に攻撃され、1/4近くが撃沈。米英艦隊が反撃し、海上封鎖線を解除。第3次世界大戦の始まり。 |
1990/02 | 米国はマーチン・ジェイコブズ補佐官をソ連に派遣し、ソーシキンとの対話を試みる。ソ連が東欧で力を失いつつあることをソーシキンが認識しているとして、ジェイコブズはソーシキンに対して、東欧からのソ連撤退の長期タイムテーブルを提示し、交換条件として軍備縮小を提案した。しかし、ソーシキンはこれを拒否した。 |
1990/03/12 | ソーシキンは、バルト海岸キール近くへの、フルスケールの上陸作戦を命じた。上陸はNATOの隙をつくもので、NATOは押し戻すべく北部へ戦力を急派した。 |
1990/03/13 | ワルシャワ条約機構軍はフルダギャップを進行し、伸びたNATO軍列を分断すべく、ラインへ押し出した。一方、ソ連空軍は西ドイツにあるラムスタイン空軍基地や他のNATO軍基地を攻撃した。NATO軍備に速攻で打撃を与え、強い立場で新たな外交交渉を行うことが目的だった。NATO軍はワルシャワ条約機構軍に打撃を与える能力はあったが、NATO軍は、数で圧倒され、奇襲攻撃を受けて、押し戻された。 |
1990/03/17 | 東側軍は西ドイツ領内に50マイル侵攻した。 |
1990/03/23 | 戦術核による反撃を準備しつつ、NATOは核攻撃24時間前に、通常兵器による最後の高空攻撃オペレーション・ブラッディノーズを開始した。この作戦は圧倒的に成功し、最初の攻撃でワルシャワ条約機構軍の指揮命令系統を粉砕し、ワルシャワ条約機構軍の陸軍は地上で混乱に陥り、制空権を失った。NATOは(既に航空支援戦力の20%を喪失していた)ソ連空軍に多大なる打撃を与えた。東欧領空の制空権を手に入れた。これに加えて、ポーランド地下活動が、ソ連の補給線を寸断したことで、戦争の趨勢は逆転した。数の優位を、西側の技術的優位で圧倒され、東ドイツ軍及びソ連軍はNATOの航空攻撃で崩れ落ち、西側軍は東ドイツに侵入した。 |
1990/03/27 | NATO軍は西ベルリンに到達し、これを解放した。ソ連はポーランドへの撤退し、ドイツ人は再統一に手が届くと考えた。米国指導部はソーシキンに対して、NATOには東ドイツへ侵攻する意図がないことを確信させようとした。しかし、共産圏の市民や、ソ連国内少数民族など、東側ブロック全域で、騒乱を起こし、指導者たちを打倒しようとした。ソーシキンはパラノイドに陥り、NATOはこの状況を利用して、モスクワへ侵攻するか、核先制攻撃をしていると考えるようになった。 |
1990/03/31 | 力を示すため、ソーシキンは北海沿岸への象徴的な単発核攻撃を命じた。米国は全面核攻撃警戒態勢に入り、SIOP(単一統合作戦計画)の遂行準備に入った。 |
1990/04/01 | ソ連レーダーサイトは危機障害を起こし、ソ連に対して核攻撃が行われていると信じたソーシキンは、西側に対する全面核攻撃を命じた。NATOも全面核攻撃で応じた。 |
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