総一郎と茜_9月

初出スレ:初代645〜

属性:男子高校生と女性教師



 化学部一年生の長峰一葉は、確かに可愛いと思う。
 目が大きくて声が高くて小動物のようだし、セミロングの髪は柔らかくて細い猫っ毛で、どんな原理か毛先がくるんとカールしていて、思わず触ってみたくもなる。
 制服のスカートも潔く短くしているが、そこから伸びた足はとても健康的だし、何より小さな身体に大きな胸、というアンバランスな感じが素晴らしい。
 元気で素直で明るくて、怒ったり落ち込んだり、笑ったり喜んだり忙しい。茜とはまったく正反対だ。
 たとえば何てことない実験でも、「すっごーい!」と誰よりも喜んで結果を眺める。
 そんな彼女に、茜も目を細めて嬉しそうにする。
 張り合いが出てよかったですね、と話したこともある。茜はそうだなと頷いた。
 彼女の高い声で、「浅尾先輩」と笑顔で屈託なく呼ばれると少しだけうきうきする。
 長峰はとても懐いてくれていた。次期部長は、二年生をすっとばしてあたしが、と張り切っている。
 妹がもう一人出来たみたいだ、と総一郎は思っていた。

 だから必要以上に距離をつめすぎていたと、気がつくのがとても遅れた。
 



 進路指導が長引いて、部活動への参加が大幅に遅くなり、廊下を小走りに急いでいた浅尾総一郎の耳に、大声が実験室から聞こえてきた。
「うるせー、このアンドロイド!」
 実験室の扉5歩手前にいた総一郎は、慌ててドアに走り寄ってがらりと開けた。
 3つの影が、はっとして一斉にこちらを振り返る。
 夕焼けに染まる実験室には、変な空気が流れていた。
「…………朝倉?」
 声の主はおそらく朝倉だ。
 総一郎に呼ばれた彼は、行儀悪く舌打ちをして俯いた。

 少々の沈黙を破ったのは、長峰の高い声だった。
「……あんた、茜ちゃんに何てこと言うのよ! 謝んなさいよ!」
「ホントのことじゃんか、何でも判ったような顔して。先生がそんなに偉いのかよ!」
「なに子供みたいなこと言ってんのよ、意味わかんない!」
「どうせオレは子供だよ、悪いかっ」
「次は逆切れ!? あんたホントにサイテー!!」
「長峰、」
 抑揚のない茜の声が二人を制した。
 興奮した猫のようにいからせた長峰の肩をそっと抱いて、まぁまぁ、というように落ち着かせる。
「茜ちゃん」
「朝倉。私の無神経な発言が君を傷つけたのなら謝ろう、すまなかった。だから君も長峰に謝るべきだ」
「……オレ、ホントのことしか言ってねーし」
「………………そうか。朝倉、頭を冷やすように。今日は解散。
 明日また今日の続きを作る。ちゃんと来なさい」
 展開についていけない総一郎を置いて、事態は収束を向かえた。
 
 朝倉は子供みたいな膨れっ面を隠そうともせず、机上の鞄をひったくって総一郎の脇を無言ですり抜けていく。

 長峰の肩を抱いていた茜が、彼女の顔を覗き込んでそっと頭を撫でた。
 ああ、あれは反則だ。
 長峰が女の子じゃなかったら、ヤキモチで自分がどうなってしまうか判らない。
「長峰は優しいな。自分のことだけに傷ついていていいのに」
「朝倉のバカなんて気にしてないもん」
「そうか。大丈夫、君は可愛い。自信を持っていい。朝倉は過渡期なんだ」
「カトキってなに?」
「思春期ってことだ。そのうち、今日のことを恥ずかしく思う日が来る」
 状況の説明を求めたかったが、口を挟める雰囲気ではなかった。
 口を情けなく開けて、ぼんやりと二人を見つめる。
「明日、朝倉と顔を合わせたら、できるだけ普通に接してやってくれ。君が嫌じゃなかったら」
「もちろん、大丈夫」
 そうか、と柔らかく頷いて、もう一度、長峰の細い髪をくしゃりと撫でた。


 茜のクールさは、人見知りと照れと緊張から来ているらしいと、この一年生二人を見ていて知った。
 ちゃんと活動に参加している朝倉も長峰も、きちんと名前を覚えられた。
 独り占めをしていたはずのあの柔らかな笑顔を、最近はこの二人に、特に長峰にはよく見せているし、ああやって目をしっかり合わせて話もする。
 授業とはずいぶん違うその様子が嬉しくて、彼らは部活動に熱心に参加しているに違いない。
 いまや化学部の活動部員の参加動機は、全員が茜だ。

 特に、長峰には、自分の居場所をまるまる取って変わられた気すらする。
 二人で楽しそうに話していると、男子二人はそこに絶対に入っていけない。
 今まで、部活動において唯一の信頼を置かれていたのに。
 一学期の半ばごろまでは、長峰の名前がどうしても出てこない茜が助けを求めるように総一郎を見上げたりしていたのに、今はもうそんな役得は一つもない。

 もちろん茜は平等だ。平等に話しかけるし、順番に実験役も記録係も任命するし、掃除も片付けも全員で取り組む。
 平等じゃ嫌なのは、総一郎の我がままだ。よく知っている。
 秘密の家庭教師や、携帯電話のメール、休日のデートで、ようやく自分を保っていられる。
 
「じゃあ解散。部長、せっかく来たのに悪かったな」
「いえ、別に。あの、何があったんですか?」
「ん、まぁ、大したことじゃない。朝倉の名誉の為にヒミツだ」
 茜はずいぶん朝倉に甘い。
 穿った目線だろうか。
 アンドロイド、などと言われて、なんとも思ってないのだろうか。
「鍵を取りに行ってくる。二人とも帰っていい」
「あ、はい」
「うん。判った」
「お疲れ、気をつけて」
 軽く片手を挙げて、茜はさっさと実験室を出て行ってしまう。
 その淡々とした様子を見て、朝倉のアンドロイド発言はもしかして的を射ているのかなとふと思った。

「あのさ、長峰。結局なんだったの?」
 鞄をごそごそと整理している長峰に、声をかける。
「茜ちゃんがヒミツって言いました」
「そうだけど、気になるじゃん」
「うーーーん。朝倉は、茜ちゃんが大好きねってハナシかな」
「朝倉が?」
 そう、と長峰が頷いた。柔らかそうな毛先がふわりと揺れた。

 朝倉が、センセイを?
 それはどういう意味の好き、なのか。
 まさか恋ではあるまいな。
 10以上も年上の教師に恋するバカなんて、自分だけだと思っていた。

「先輩も、ですよね?」
 長峰の大きな瞳がこちらをじっと見ていた。
 まるで観察を、するように。
「……俺?」
「そう」
 心の準備が出来ていなくて動揺した。準備が出来ていてもきっと動揺しただろう。
 何せ嘘や隠しごとには自信がない。
「そりゃセンセイは美人でカッコイイとは思う。長峰もそうだろ」
「うん、そう。でも、先輩のはもうちょっと不毛な感じ」
「なんで?」
「なんとなく」
 女の第六感、てやつか? 
 そういえば妹にもお兄ちゃん彼女できたでしょって言われた。結構早い段階で。
 本当に女は恐ろしい。
「でもダメだよ、全然ダメ。茜ちゃんが先輩を相手にするとは思えない」
 ちょっとホっとした。
 相手にされている、とは知られていないらしい。
「そんなの、」
「だから、…………あたしに、しませんか?」

 一瞬何を言われたか判らなかった。

 長峰は怖いぐらい真剣な表情で総一郎を見つめている。
 冗談だろ、なんて、冗談でも言える雰囲気じゃなかった。
 急に腕を取られた。長峰は手が冷たくない、と少し驚いた。
 とっさに引く前に、胸に抱きこまれて身動きが取れなくなる。

「長峰」
「はい?」
「当たってるんだけど」
「当ててるんです」
 最近の若者は、と年寄りみたいに思った。
 自分は、先日うっかり茜を押し倒して殴られたというのに。
「おっきいでしょ?」
「おっきいな」
 一瞬触れた茜の……3倍ぐらいか。
 こんなこと口が裂けても言えないが。
「おっきいの、好き、ですか?」
「まぁね。でも離れてほしいな」
「どうして?」
「どうしてって……どきどきしちゃうから」
「どきどきして欲しいの。先輩……あたし、どうですか?」
 どうと言われても。
 質問の意味が判らなくて、困惑する。
 長峰が、上目でこちらを見上げている。

「先輩」
「………………あー……」
「ずっと、好きだったんです。気付いて、もらえなかったけれど」
 それは部活の間中茜に見とれていたせいだろう。悪いことをした。
 気づいていたら、気安く頭を撫でたり軽口を叩いたり、メールを交換したりはしなかった。
 長峰のメールは、朝倉からのメールと同類ではなかった。
 今になって知った。必要以上に距離をつめすぎていたと。

「つ、付き合って、欲しい、です」
 非常に困った。
 こういう空気は苦手だった。
 こう、甘酸っぱい感じが。いかにも青春って空気が。
 去年、うっかりクラスメイトに愛を告白されたときも恥ずかしいほど動揺して、裏返った声で「好きな人がいる」と言うのが精一杯だった。

 長峰は確かに可愛い。
 可愛いし、話していて楽しいし、年もぴったりだし、理想的で健全なお付き合いができそうな予感がする。
 この大きなバストも青少年には魅力的だ。

 でも長峰は妹だ。妹とは恋愛できない。
 そうじゃなくても、総一郎には、茜しかいない。
 好きなのは、キスしたいのは、触りたいのは、一緒にいたいのは、ドSでヘンタイで天邪鬼な愛しのセンセイだけだ。

「だ、ダメですか?」
 長峰が、泣きそうな顔でこっちを見ていた。
「……ダメっていうか、」
「返事! 今じゃなくていいんです。考えておいてください」
 考えたって答えは一つだ。
 答え方を考えろってことか? できたら、長峰には嫌われたくない。

 とっさに言い返せないでいるうちに、長峰はじゃあと言って出て行ってしまった。
 厄介ごとを後回しにすると、ろくな展開にならないと、知っていたはずなのに、どうにも対処できなかった自分が歯がゆかった。

 甘酸っぱすぎる余韻にどきどきしながら実験室を出ると、ちょうど鍵を手に茜が戻ってきたところだった。
 やあ、気をつけて、とだけ言うと、彼のほうをちらりとも見ず実験室へと入っていってしまった。
 その空気に一瞬あれ、とは思ったが、後ろめたさのほうが上回っていた。
 なにせ自分は、長峰の迫力あるバストにときめいていたところだったのだ。


 翌日の化学部は、一見日常を取り戻したかに見えた。
 けれど確かにそれぞれが何か思惑を抱えていて、口数が少なくて妙な雰囲気だ。
 朝倉は実験室にやってきたもののまだ拗ねたような態度を取るし、長峰はさすが平素と変わりなく振舞うものの、時折何かを訴えるような目で総一郎を見つめる。
 そして茜は、普段の数倍クールだった。

 メールもあまり返事をくれないし、休日の家庭教師も文化祭前で忙しいからと断られた。
 何か怒っているのか、と聞きたくても、長峰にちゃんと返事をしていない自分がそれを言ってはいけないような気がした。
 
 居心地の悪い妙な空気は、翌週の文化祭まで続くことになる。
 普段は顔も見せない幽霊部員たちが、義務感たっぷりとても面倒くさそうに参加するこの期間は、果たして救いだったのかそうじゃなかったのか。




 去年もこうして二人で、ちょっと暑い実験室にぼんやりと座ったな、と思い出した。
 こっちを見て欲しくて、面倒な掲示物一生懸命作ったし、もしかして二人っきりになれるかもと店番を買って出た。
 案の定だった。
 茜はどうだったか知らないが、ものすごくどきどきして幸せな二日間だった。
 ……思い起こせば甘酸っぱい。

 だけど今年は重苦しい。
 せっかく二人っきりなのに、会話もない。
 今も、話しかけようと口を開く前に、席を立って準備室へと消えてしまった。

 戻ってきた彼女が、総一郎の前にコーヒーのマグカップを置いてくれた。
 茜も自分のうさぎ柄のマグを片手に、総一郎から遠く離れた教壇付近のいすに座り、足を組んで教科書を捲り始めた。
 まだ暑いのにホットとは、と思ったが、おとなしく礼を言って、冷めるまで待ってから口をつけた。
「……あまっ」
 極限に甘かった。フルーツ牛乳にさらにガムシロップを溶かしたかと思うぐらい甘かった。
 コーヒー色をしているのに、ちっともコーヒーの苦みが感じられない。
 ちょっと格好をつけて飲み始めたブラックコーヒーはすでに口に馴染んでいるというのに、いったいどういう仕打ちだ。
「センセイ、甘いです」
「唐突に溶解実験をしたくなった。100ccのコーヒーに何gの砂糖が溶けるか」
「……何gでしたか」
「6g入りスティックシュガー10本」
 60g。砂糖過多で死んでしまう。
 そうか、それでマグカップ半分なのか。せめてものの優しさか。なんて見当違いな優しさだ。

 耐えられない、こんな空気は耐えられない。
 だめもとで、声をかけてみる。
「…………センセイ」
 なんだ、と小さく聞こえた。
 どうやら返事はしてもらえるらしい。

「文化祭も、もうすぐ終わりですね」
「ああ」
「俺、引退ですけど」
「そうだな」
「……寂しい?」
「別に」
「………………………………」
 嫌だな、ほんとうに何を怒っているんだろう。
 思い当たるフシは長峰しかない。
 あの時、自分より先に実験室を出て行った長峰は、茜とすれ違ったはずだ。
 そのときに、もしや。

「俺が引退しちゃったら、化学部どうなるんでしょうね」
「長峰が来なくなるかもしれない」
 そこで長峰ですか。
 長峰から何か聞いたのか。だったらはっきり言えばいいのに。
 だいたい好きになられたのは自分の責任じゃない。

 茜だって、朝倉を甘やかしているくせに。
 長峰の名前は覚えられなかったくせに、朝倉は一度も間違えたことがないのはどうしてなんだ。
「……そしたら朝倉と二人っきりですね」
「そうだな」
「次は朝倉に、暖めてもらうんですか?」
「君がそうしろと言うのなら」
 言うわけない。口が裂けても言わない。

 苛立って席を立つ。
 大またで近づいて、茜の前に立った。彼女はやはりちらりともこちらを見ない。

「長峰に何か聞いたんですか」
「なにも?」
「じゃあ何を怒ってるんですか?」
「怒る? 私が?」
「怒ってるでしょ。こんな地味に嫌がらせするぐらいなら、ハッキリ言えばいいじゃん。
 なんで長峰をちゃんと振らないのかって」
「君と長峰の問題だ。私が干渉する権利はない」
「……センセイって、そういうとこホント冷たいですよね。俺が、長峰に誘惑されてもいいんだ?」

 茜がようやくこちらを見上げた。
 いつもの無表情だ。
「勝手に誘惑されてればいい」
 自分は熱くなってイライラして、口調もつっけんどんになってきているのに茜はいつもように淡々と低く話す。
 本当に彼女が怒っているのか、自信がなくなってくる。
 浅尾などもういらない、と、考えていたらどうしよう。
 だけど不安に思う心情とは別に、口が滑る。
「センセイって実はアンドロイドなんでしょ。俺が誰とどうしようと、気にならないんだからさ」
 茶色い目が少しだけ見開かれた。
 ひどい暴言だと自覚していた。
 だけど止められなかった。

「俺にだけヤキモチやかせて自分は涼しい顔して、いつも俺のことからかって、振り回して、自分だけ淡々としてて冷静で、」
「浅尾」
 低く呼ばれて身体が硬直する。
 茜が急に立ち上がった。
 殴られる、と目を閉じたが、白い手は飛んではこず、総一郎の手首を強く握って歩き始めた。
 ぐいと引きずられるようにその後に続く。
 細い指が手首にめり込んで、骨が痛い、と思ったが振りほどけなかった。
 実験室から続きとなっている準備室のドアを開けて、投げ出すように総一郎を中に入らせた。
 茜も身を滑らすと後ろ手でドアを閉めながら、そこに座りなさいとハッキリと言った。
 
 大人しく、事務椅子に腰を下ろす。キィと間抜けなトーンで椅子が軋んだ。
 かろうじて窓は開いているようだが、遮光のために引かれたカーテンが風を遮っていてむっと熱い。
 背中を、汗がひとすじ流れていった。

 茜が一歩近づく。
 その顔に感情は何も浮かんでいない。

 目の前に立った茜に、まっすぐに顔を覗き込まれた。
 暑さのため、軽く緩めていたネクタイを掴んで、ぐい、と引いた。
「甘えるな。君の感情は君にしか判らない。結論は自分で出すしかない。
 私が『長峰に惹かれないでほしい』と言ったところで、強要や拘束は不可能だ」
 いつもより口調が緩やかだ。
 それが余計怖い。
「……間違っているか?」

 迫力に押されながら、それでも何とか首を左右に振る。
 顔が近い。
 こんな状況でも襲いたくなるから、あまり近寄らないでほしい。

「君は、思い違いをしている。私はアンドロイドではない。嫉妬も、独占欲も、性欲も、ちゃんと持っている。ただ、見せられないだけだ」

 白い指がそっと顎に触れて、かと思ったら赤いくちびるが近付いてきた。
 軽く触れた次の瞬間には、下くちびるを強く噛まれて身体が震えた。
 思わず開いたくちびるの隙間から、コーヒー味の柔らかい舌が入り込んできて総一郎の舌に絡んだ。
 驚きすぎて、ただされるがままになっていた。
 茜の舌がゆっくりと先端に触れて、軽くつつく。舌と下あごの間に入り込んで、好きに這い回る。
 強く吸われて、意識が溶けた。応えようと必死に舌を蠢かす。
 はめたままの銀のフレームが、頬に当たってちょっと痛い。
 カーテンを押し上げて、生暖かい風がふわりと室内に入り込んで火照った頬を撫でた。
「……ふ……」
 茜のくちから声が漏れて、更に驚いた。
 今、これはどういう状況?
 ここはどこだったか。

 息苦しくて長いキスは、唐突に終りを告げた。
 名残惜しそうにもう一度くちびるを食んで、茜が顔を離す。
 ほぅ、と息を吐いた茜が、睨むようにこちらを見据えて眉根を寄せる。

「くちの中が甘い」
「……溶解実験のおかげです」
「そうか」
「センセイ、あの、ここ学校ですけど」
「知ってる。我慢できなかった。二度としないから、今日だけ許してほしい」

 鉄の理性が崩れるなんて、思いも寄らないこともあるんだと少し嬉しくなる。
 茜の両手が、首に回ってふわりと抱きしめられた。
 控え目な甘い香りが、肺の奥まで入り込んできた。
 だらりと垂らしていた両手の所在を決めかねて、おずおずと白衣の背中に手を回す。
 ぴくりと薄い身体が揺れて、息を深く吐いた茜がますます強く、総一郎の頭を抱き込んだ。
 意外にもアンドロイド発言を気にしている茜は、間違いなく人間だ、と改めて思う。
 こんな素敵なぬくもりを持った、生身の人間だ。

「……センセイ、もしかして、ヤキモチ?」
「まぁ……そうだ。君と長峰が並んでいると、あまりにお似合いだから……身を引こうとか、考えてみた。
 でもだめだ。長峰には渡せない」
「渡されるつもり、ありませんけど」
「ん、そうか」
「そうです」
「……そうか」
 ほっとしたように茜がつぶやく。
 これだ、とふと思った。
 欲しかったのはこれだと。
 去年の衝撃的な愛の告白から、お互いなんとなく好きあってきたけれど、思えばあれ以来ハッキリと好きだと口にしたこともされたこともなかった。
 照れが混じって、とてもとても言えなかったが、茜は何げない動作や言葉で、ちゃんと総一郎の想いを受けとってくれていた。
 だけどたまには、ハッキリと、声に出して伝えてもらいたかったのだ。
 嫉妬、という形で、自分は茜の想いを確認したかったのだ。
 
 気が付いてしまえば、子供っぽい我がままでしかない。
 茜がさっき言ったことは、1から10まで正論だ。
 急に自分が恥ずかしくなる。
「あの、さっき、暴言吐きました。取り消させてください」
「ああ、うん。私のほうこそ……すまない、八つ当たりをした」
「時々子供みたいですよね」
「衝動が抑えられなかった。盗み聞きもしたし、らしくなくて少々恥ずかしい」
 あの日、実は鍵がポケットに入っていたのに実験室を出てから気がついた、と頭上から言い訳じみた言葉が降ってくる。
 立ち聞きのほうだったのか。

「…………浅尾、長峰は可愛いな」
「まぁ可愛いですね」
「あの胸はいい。私でもうっかり揉みしだきたくなる」
「オヤジですか」
「否定はしない。あの大きさがあればパイズリも可能だ」
 パイズリ。
 何てことを言うんだ。
 長峰の、あの胸で……パ、
「今想像しただろう?」
「……してません」
「生憎、私では不可能だ」
「してほしいなんて言ってないでしょ」
「私が出来ることと言えば足コキぐらいか」
「いりません、っていうか下品です」
「下品で結構。君にも我慢を強いているが、私もかなり限界だ。知らないだろう?」
 自業自得のくせに何を言う。
 別に自分は、今すぐにここでそのボーダーラインを越えてしまってもいいのだけど、それは無理な話だし、一応納得済みなので追求はしない。
「………………知りませんでした」
「なのに君は長峰の胸を楽しんでいた。アンフェアだ」

 実験室の扉の窓から、長峰の迫力ある胸に触ってちょっと嬉しそうな顔をしていたのを見られていたのか。
 そりゃ怒るわな、と他人事のように思った。
 しかしこれは、総一郎が他人に触れたことに対してなのか、長峰の胸に触れたことに怒っているのか、微妙な発言だ。
 意外にオヤジだから確証は持てないが、たぶん前者で間違いないと思う。
 
「…………2週間か……長いな」
 苦々しげに低く呟いて、茜が身体を離した。
 2週間後にはもう総一郎の18歳の誕生日だ。
 待ちわびているのは自分だけではないらしい。
 もしかして一緒にその日を迎えられないのでは、と少々びくびくしていた総一郎はほっとため息をおとした。

「先に、戻ってくれ……あたまを冷やしてから行く」
 いつかのように、自分の事務机で苦悩を露に頭を抱えていた。
「早く戻ってきてくださいね」
「……努力する」
 年季の入ったクールビューティな茜のことだから、きっとすぐに戻ってきてくれるに違いない。

 準備室のドアを開けようとして、降りた鍵に気が付いた。
 ぷっつんしててもさすがの冷静さだ。

 ドアを開ける一瞬前に、振り返って声をかける。大事なことを言い忘れていた。

「センセイ」
「なんだ」
「どっちかっていうと、貧乳萌えですから」
「誰が」
「俺。ってかセンセイのならどっちでもいいんですけどね」

 ちょっと面食らったように茶色い瞳をぱちくりとさせた茜に、彼女がよくそうするようにひらひらと手を振って準備室を後にした。

 実験室は相変わらず無人でほっとした。


 5分と予想したが案外大きくそれを裏切って、10分後に茜は戻ってきた。
 ちゃんといつものポーカフェイスだ。

「……今日、長峰にちゃんと言うつもりだったんです」
「なんて?」
「妹にしか思えないって。とりあえず受験でいっぱいだから、困る、とか」
「長峰だったら、受験が終わるまで待つと言うだろうな」
「……その頃には違う人を好きになってないかな」
「さぁどうだろう。断る相手に期待をさせてはいけない。
 彼女の気持ちに応えられない以上、君はきちんと傷つけないといけない。
 残酷なようだが、嫌いになれたほうが楽だ」
「経験談?」
「一般論。あいにく語るほどの経験はない」
 ちょっと安心した。
 長峰の話をしているのに、自分は茜のことしか考えていない。これは本当に重症な恋の病だ。

 しかし長峰を傷つけて、彼女はどうなってしまうのだろう。
 思考を読んだかのように、茜が続ける。
「大丈夫、人はそんなに弱くない。長峰には友人も多いし、朝倉が慰め役を買って出る」
「朝倉?」
 あれ、朝倉は茜にご執心ではなかったか。
「知らなかったのか?」
「センセイに夢中で気付きませんでした」
 化学部がそんなややこしい人間関係になっていたとは。
 朝倉とも長峰とも、普通に仲良くしてきたつもりだったのに、全然知らずにいた。
 どんだけ茜に夢中だったんだ。
「部活内恋愛禁止にした方がいいのかな……」
「それは君と私が言える立場ではない」
 もう引退だからどうでもいいが、自分が吸ってきた甘い密を後輩たちに禁止するのは確かに気が引けた。


 先週のあの日に何があったのか、茜はヒミツだと言いながら教えてくれた。
 実験中にいつものようにふざけた朝倉を、いつものように長峰が高い声で怒った。
「茜ちゃんに構ってほしいからってふざけないで! やる気ないなら帰りなさい、あんた何しにきてるのよ!」
 なかなかにキツイ言葉である。
 実験などやる気はなくただ茜を見に来ている自分がその場にいたら、人知れず傷つきそうだ。
「何だよ、ブス! オマエだって一緒だろ」
 二人の夫婦漫才のような口げんかには常々傍観を決め込んでいた茜も、さすがにこれは気になって、思わず口を挟んだ。
「ブスはよくない、朝倉。言葉の暴力だ。取り消したまえ」
「ホントのことだろ! オマエみたいなブス、だれも相手にしねーよ!」
「朝倉よ、気を引きたいなら逆効果だ」
 うっかり言ってしまったらしい。
 そしてあの「アンドロイド」に繋がるわけだ。
 ヒートアップしている所へ茜の淡々とした声音は火に油だし、直球で図星を付かれた朝倉が素直になれないのもよく判る。
 長峰が自信喪失で思い余って総一郎に告白してきた経緯がよく理解できた。
 聞いてしまえば大した事件でもない。当事者には悪いが。

 長峰一葉は間違ってもブスではない。
 ぱっと輝くようなその笑顔は印象的で可愛らしい。その笑顔が見えないと心配にもなる。
 甘え上手な割にしっかりしていて、裏表がなくてまっすぐで、よく笑ってよく喋り、場の空気をとても和やかにしてくれる。
 朝倉が好きになってもおかしくはない。
 言いたいこと言い合っている二人はお似合いな気がしてくるから不思議だ。
 うっかり朝倉と長峰がうまく行けばいい、と無責任に思った。




 数十分後に長峰が交代をしに戻ってきて、茜が職員室に戻る、と言っていなくなってしまった。
 ちゃんと言え、と無言のプレッシャーを感じる。期待に応えないといけなくなった。

「あのさ、長峰」
「なんですか」
 いつもの高い声が、今日は弾んでいない。
「こないだの、返事なんだけど」
「……うん、」
「言いそびれたんだけど、俺さ、彼女いるから」
「…………そうなんだ、知らなかった」
「そういうわけで」
「どんな人ですか?」
「え?」
「彼女」
「うーん、年上。家庭教師なんだ」
 ギリギリ嘘ではない。茜は教師兼家庭教師だ。
 大学生? と尋ねた長峰に、総一郎は曖昧に微笑んだ。
「年上好きなんだ。やらし」
「たまたま好きになった人が年上だっただけ」
「ふーん……年上って、優しい?」
 ちょっと返事に困った。
 茜が優しい、と思ったことは実はあんまりなかった。
 勉強に関しては間違いなくスパルタだ。
「優しいよ」
「美人?」
「うん」
「どのくらい付き合ってるの?」
「一年ぐらい」
「茜ちゃんは?」
「センセイが、なに?」
「好きなんだと思ってました」
「俺が好きなのは今の彼女」
 同一人物だけど、と意地悪く思いながら、こうやって煙に巻くやり口はセンセイにそっくりだなぁと痛感する。
 性格悪くなりそうだ。
 だけどほんとうのことはどうしても言えない。
 長峰を信用していないわけではないけど、どこから何が漏れるか判らない。
 生徒に手を出した、なんて噂が立ったら、困るのは茜だ。二度と教鞭を取れなくなるに違いない。
 総一郎が高校を卒業するまでは、誰にも知られてはならない。そのことは何度も話し合ってきた。

 ぎゅっと引き結んでいたくちびるを、かすかに震わせながら長峰がにっこりと微笑んだ。
「判った、ありがとうございます。その人とダメになったら声かけてね」
「……だめにならない、と、思うよ」
「いじわるぐらい言わせてよ」
 今にも泣きそうに笑う彼女に、長峰は可愛いよ、と声をかけたくなって何とか思いとどまった。
 いい人になど、なってはいけない。
 長峰になんと思われようと、自分が認めてほしいのは茜だけだ。
 それを間違えてはいけなかった。

 少し一人にしてもらえます、と懇願をした長峰に、素直にうなずいて実験室を出た。
 最初の角を曲がった踊り場に、白衣のポケットに両腕を突っ込んで、壁に背を預けた茜がいた。
「ちゃんと言いましたから」
 そう言った総一郎を見上げると、ちょっと寂しそうに微笑んだ。
 長峰を傷つけた罪悪感を、茜も感じているに違いない。
 彼女をただ泣かせてやることすらも、出来ないのだ。

 ありがとう、と低く呟いた声音を漏らさず聞き取った。
 茜も不安だったのだ。
 不安にさせるなと常々言われているのに、本当に己は甲斐性なしだ。

 今すぐに抱きしめたい衝動をなんとか抑えて、自分の教室へと向かった。
 茜も隣に並んで、職員室へと向かう。


 一瞬だけつないだ手は、残暑に似つかわしくなく冷たかった。
 誰かを傷つけたばかりなのに、こうして並んで歩けることが嬉しくて仕方ない。
 恋とはなんて、盲目なものなのだろう。
 他人に言えない恋愛なんて、不道徳で非常識であるはずなのにこんなにも溺れている。

 茜の冷たい手は、それを咎めているような気がした。



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2007年11月07日(水) 00:43:33 Modified by toshinosa_moe




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