冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ブックレット

これをあなたたちの子孫に語り伝えよ(2009)


1998年、ホロコースト否定論の国内への広まりにカウンターすべくスウェーデン政府は、ホロコースト概説ブックレット制作し、希望する中高生を持つ家庭に対して無償配布を開始した。そして、2009年にスウェーデンとナチス及びユダヤ人差別に関する記述を加えた改訂版を発行した。

以下はその一部の、英語版からの翻訳である。



スウェーデンとホロコースト

1930年代初頭、スウェーデンは他国同様、欧州中央部に位置するナチス独裁政権に対抗しなければならなかった。スウェーデン及び政府機関は「新ドイツ」とその侵略的、反民主的、反ユダヤ的政策にどう対応したのか?考えらえる答えが幾つもあった。それらはさまざまな要因の影響を受け、時間とともに変化した。第一次世界大戦は歴史的なターニングポイントだった。

スウェーデンは軍事的に中立であるにもかかわらず、戦争と無縁ではいられなかった。1918年11月に、その終わりを告げるまで、スウェーデンは別の国だった。議会制民主主義の概念は最初は不信と抵抗に遭遇したが、1917年に、民主主義はそれを「打破し」、踏みとどまった。1921年に、女性に参政権が与えられ、新たに政権についた社会民主党はスウェーデンの政治を恒久的に変えていった。

戦後の平和条約は、中欧および東欧で、形式的には民主主義国家を新たに多く誕生した。民主主義は一歩前進したが、民族性に基づくナショナリズムも前進した。歴史的に、欧州は民族的、文化的、宗教的グループのモザイクで構成されていた。

第一次世界大戦後、マイノリティグループに対する新たに出現した国民国家の政策は論争の的となった。スウェーデンには、他国と同様に、国が繁栄するためには民族的および「人種的に」均質でなければならないという幅広い概念が存在していた。健康を維持するために、国は「人種混合」から国民を保護しなければならなかった。



スウェーデン外務省が発行した「外国人入国申請」の書式は、「宗教」と「人種」の記入を求めていた。1943年9月、ドイツはユダヤ人をイタリアからアウシュビッツへの移送を開始した。右図は1943年10月に、北イタリアのユダヤ人迫害から逃れてスウェーデンに入国しようとした47歳の無国籍ユダヤ人女性が記入したものである。スウェーデンの身元保証人の一人はSigfrid Siwertzで、スウェーデンアカデミーの著作家で会員だった。



1912年のストックホルムオリンピックのポスター。「新しい人間」という多くの欧州人が共有する、身体的かつ遺伝的な理想像をとりあげていた。スポーツと人種差別とナショナリズムの重要性の高まりが、そのような考えに影響した。同様に白人筋肉を取り上げるのがナチプロパガンダの特徴だった。


スウェーデンのユダヤ人

何世紀にもわたり、スウェーデンは異なるマイノリティグループを受け入れてきた。最初のユダヤ人信徒団は、1770年代に国王グスタフ3世の勅許をた後に、組織された。ユダヤ人の権利と義務は特別法によって規制された。1789年のフランス革命で、フランス全土でのユダヤ人解放が始まったが、スウェーデンのユダヤ人が完全な市民権を認められたのは1870年のことだた。

その時以来、多くのユダヤ人は経済的にも社会的にもスウェーデン社会に統合され、法的差別は撤廃された。しかしながら、反ユダヤの風潮は残り、「スウェーデン的なるもの」と比較対照されて「ユダヤ的なるもの」としてネガティブに描写された。これらの風潮は文学や風刺画や映画にも広がった。中欧及び東欧からのユダヤ人移民への強い抵抗感もあった。特に、多くの事業家たちは潜在的競争相手として、脅威を感じていた。

「ユダヤ人問題は貿易と産業だけの問題ではない。人種と文化の問題でもある。ユダヤ民族は欧州人の堕落である」(スウェーデンの商人で国会議員 Pehr Emanuel Lithander, 1912)


1920年代と1930年代のスウェーデンの人種理論

20世紀前半における、「人種」の概念と、各国は国家及び民族の「純粋性」を維持保存する必要があるという考えが、西側世界できわめて影響力があった。スウェーデンでは、部分的には、1922年の国立人種生物学研究所の設立によって、これらの考えが実現された。研究所は、幅広い政治スペクトラムから支持された。Herman Lundborgのもとで実施された研究は、ドイツの有力な「人種研究者たち」の研究と密接に関連していた。彼らはスウェーデンの研究所と長期に密接な関係を持ち、連携していた。

スウェーデン社会の有力なグループが、後にナチスドイツで最もラディカルな政治的表現に見られる考えと提案と親和性があった。「生きるに値しない生命」を絶滅させるという考えは、1920年代のドイツで公表された。1922年、スウェーデン議会の死刑についての審議で、有力な社会民主党員で著名なジャーナリストArthur Engbergは「社会は、白痴や手の施しようがない肉体奇形など、社会に重荷になり、他者や自分たち自身への呪いとなる絶望的な者たちの生命を絶滅すべきだろう」と述べた。

いわゆる優生学が提唱する可能性への関心はさらに大きくなっていた。1934年と1941年に、「精神障害者」や「放浪者」やアルコール依存症や「淫らな女性」を社会あるいは遺伝的基盤から、不妊にすることを可能にする法律を可決した。



「基本的に、我々の能力と強さは、国民の人種的資質にある。国家間の絶え間ない競争闘争において、国民の人種的資質を守ることは最も重要である。国の強さと繁栄と文化はそれにかかっている。したがって、異人種間混交は優れた人々にとって最大の危険の1つである。」1930〜1944年に使われた「兵士のためのハンドブック」からの引用

この女性は、1922年にStockholms Dagblad紙が主催した「純粋スウェーデン人種」コンテスト優勝者である。あまりに参加者が少なく、「一方的になりすぎる」ため、最も「人種的に純粋なスウェーデン男性」は表彰されたことはない。審査員の一人は国立人種生物学研究所のHerman Lundborgだった。同様のコンテストは、複数の主要紙が主催した。



1932年のストックホルムのヒュートリエットでのナチ決起集会。1930年代と1940年代初頭、ナチ支持の周回やデモはスウェーデン全土でよく見られることだった。最初は参加者が多かったが、次第に参加者は減少していった。


ナチの誘惑

戦間期、多くの欧州人たちが民主主義の効用を疑い、ヒトラーとナチスのメッセージに魅力を感じていた。しかし、スウェーデンでは、社会民主党のPer Albin Hansson首相や有力な政治家たちは、影響力のあるファシストや権威主義の影響から、スウェーデンの政治シーンを守ろうとした。有力なナチあるいはファシスト運動はスウェーデンに足掛かり得られなかった。社会民主党と農民同盟の間の1933年5月の合意などの手段により、ナチの影響は排除されていた。1939年に戦争が始まると、スウェーデン政治にナチの直接的影響はほとんど見られなかった。

それでも幾万人ものスウェーデン人がナチ政策に惹きつけられていた。民族的「純粋」国民国家を創るというナチの目的は、多くの人々の琴線に触れた。同時に、スウェーデン社会では、1930年代のスウェーデンへの移民に対する恐怖は増大した。学術界や医師や軍将校や聖職者など社会的エリートの多くには、相当のヒトラーの「新ドイツ」を賛美が見られた。戦中、いくつかの新聞がナチに同調し、ドイツ側についた。長年にわたり、AftonbladetやHelsingborgs DagbladやNorrbottens-KurirenやÖstgötaの記者たちの記事は、ナチスドイツへの支持を表明し同時に連合軍やナチスドイツに反対して連合軍を指示したスウェーデン人たちを非難した。




スウェーデンに見られた「新ドイツ」

何世代にもわたり、スウェーデンは文化的、経済的、政治的、科学的に、ドイツと密接な関係を保ってきたので、多くのスウェーデン人が注意深くヒトラーのドイツを見守ったのは自然なことだった。急速な変化を、ある者は愕然とし、ある者は称賛し認めた。スウェーデン外交は事態の進展を注意深く見守った。1935年9月に、ベルリンのスウェーデン大使館は、ナチ学派政策をストックホルムの首相と外相に報告した。「この点で、他の多くの人と同じように、ヒトラー総統が著書「我が闘争」で作成したガイドラインを実現するため、次々と1つの領域で揺るぎない一貫性を持って努力していることが明らかになりつつある。」

ナチスドイツに対する批判の大半は、労働運動あるいはリベラルからだった。概して、右翼も懐疑的だった。最も著名な批判のひとつは、日刊Göteborgs Handelsoch Sjöfartstidningの編集長Torgny Segerstedtによるものだった。早ければ1933年2月3日には、ドイツ国首相への就任についてコメントした。「国際政治問題と国際報道機関にその仲間との取引を強いることは許されない。ヒトラーは侮辱ある。」戦争中、Segerstedtはナチズムとナチスの犯罪に対する受動性についてスウェーデンを批判し続けた。これは、ドイツの指導者だけでなく、多くのスウェーデン人をも苛立たせた。彼らは、スウェーデンの「平和と中立」を危険にさらしたとして彼を非難した。

1930年代に、多くのスウェーデン人はナチスドイツの進展を恐怖しつつ、称賛した。多様な方法で、ナチはスウェーデン世論に影響を与えるべく相当の努力をした。彼らは「人種」的楽園としての「北の夢」を醸成し、スウェーデンがその同盟国となることを求めた。さらに、多くのスウェーデン人は「ドイツの再構築努力」のプロパガンダに次第に印象付けられていった。ユダヤ人迫害は一部の人々を不快にしたとしても、ドイツが「解決」を求める「ユダヤ人問題」を抱えているという理解が広くあった。Sven HedinやFredrik Böökなどのスウェーデンアカデミーの有力会員は、「新ドイツ」を支持するようスウェーデン人たちに呼びかけた。彼らは、ヒトラーに率いられた強いドイツがスウェーデンにとって有益だと考えた。

ヒトラーの目的と手段を疑っていても、ソビエトボルシェビズムはより脅威だった。彼らは、ドイツの再軍備を「東からの脅威」に対する防護とみなした。この態度は、ナチスドイツの暗黒面を認識する能力と意志に影響した。戦争が1939年に始まると、スウェーデンの微妙な政治的・地理的位置のため、特に1940〜1942年の間、表明される批判の範囲は限定された。1939年12月に成立したスウェーデンの新連合政権は、報道の自由についての考慮と、批判を容認することでドイツを苛立たせることへの怖れの間の傾いたバランスを、長期にわたり両立させてきた。1942年3月、ノルウェーの刑務所で拷問の証言を掲載し、KG Westman法相の命令により17紙もの新聞が発禁にされた。そのような障害にもかかわらず、一部のスウェーデン人は沈黙を保つことを拒否し、ナチスドイツとナチズムについて社会に警告し続けた。




共産主義の恐怖

ロシアは「伝統的敵」であるという共通認識がスウェーデンにあった。1917年のボルシェビキ革命と、それに続く1922ねのソビエト連邦樹立は、多くの欧州人に、警報と希望を引き起こした。最初は、上記のポスターの背後にある組織、スウェーデン青年同盟(SNU)は、保守党に所属する独立青年団体だった。しかし、1934年に、それは分離された政党であるスウェーデン国民同盟に再結成された。その政党は、保守的、人種差別的、反ユダヤ的考えと、民主主義の撲滅と「協調主義」原則に従った社会の再組織への欲求を組み合わせた。第2次世界大戦中、主として社会的エリートから構成される、その政党はナチスドイツを支持した。



「我々は、テロと迫害から逃れようと、入国申請した外国人たちの居住を容認するほど寛容ではなかった。社会庁がこの点でリベラルすぎると非難する人々は、結局のところ、社会庁があまりにも制限的な政策を追求したと主張する人々よりも批判する理由が少ないかもしれない。」
Sigfrid Hansson社会庁、在留許可、1939年2月


スウェーデンを変えた難民

戦前にスウェーデンに難民申請し、許可され、難民収容所に収容されたユダヤ人の大半は、中欧から来た。大人たちの多くは高い教育を受け、祖国では重要な地位についていた。彼らは、事業や医療や文学や美術や音楽の分野で、スウェーデンに多くを提供できた。難民の3000人ほどが、スウェーデンへの入国を認められ、多くがスウェーデンに顕著な貢献をした。その中には、著述家で後にノーベル賞受賞するNelly Sachsや、ジャーナリストで著述家Stefan Szendeや、起業家Herbert Felixなどがいた。Felixは1938年にスウェーデンに来て、食品産業で急速な成功を成し遂げた。戦後、彼は有名ブランドFelixを創った。調味料からトマトケチャップまで彼の製品は、家庭用品として残っている。その他の難民は到着時は子供で、戦後スウェーデンに寄与した。これには、Harry ScheinやGeorg RiedelやJoachim IsraelやErwin Leiserなどがいた。


スウェーデンと、1938年の難民危機

1933年にナチが政権の座につくと、ユダヤ人たちはドイツから出国し始めた。スウェーデンなど大半の国は、少数の難民しか受け入れなかった。1938年にドイツがオーストリアは併合すると、幾万人ものユダヤ人が第3帝国を脱出しようとして、欧州の「難民危機」は悪化した。米国大統領フラクリン・ルーズベルトのアピールの結果、32か国の代表たちが、危機を討論するために10日間の会議のために、1938年7月にフランスのエヴィアンに集まった。計画不十分な会議は人道主義的災厄となった。国際連盟は、ユダヤ人の窮状に対する彼らの遺憾の意を表明すると同時に、彼らは助けることができないと述べた。スウェーデンの首席代表である外務省のGösta Engzellは、スウェーデンが支援する可能性は非常に限られており、ヨーロッパのユダヤ人の「問題」によって引き起こされた「負担」は、「欧州外の国々に拡大された場合にのみ負担できる」と説明した。 エビアンの会議に代表を派遣した大小の国々の中で、カリブ海の小さなドミニカ共和国だけが、限られた期間に10,000人のユダヤ人を受け入れると申し出た。多くのヨーロッパ系ユダヤ人にとって、会議の失敗は事実上死刑判決を意味していた。ヒトラーとナチスドイツにとって、それは宣伝ツールとしての役割を果たした。ナチスは、ユダヤ人難民への扉を開くことを拒否しながら、ドイツを「ユダヤ人政策」で批判した世界を嘲笑した。エビアン会議の大失敗は、一般的に国際連盟の最終的な終焉であると考えられている。




11月のポグロムへの反応

1938年11月のポグロムが「難民危機」を悪化させた。その大規模かつ公然たる暴力に世界は愕然とした。これに対して、幾つかの国が大使を召還したが、スウェーデンはそうしなかった。政府により多くのユダヤ人難民をスウェーデンに受け入れるように求めた人々もいたが、大衆の多くは難民制限政策を支持した。スウェーデンの小規模なユダヤ人集団は、国境を開くように政府に圧力をかけるのに失敗した。

スウェーデンのネガティブな反応は、いくつかのファクターの影響を受けていた。ナチと関連団体を除けば、スウェーデンにはイデオロギー的に動機付けられた反ユダヤ主義は存在しなかった。本当の「ユダヤ人問題」があるという大きく広がった気分とともに、ユダヤ人に対する伝統的偏見は存続していた。さらに、人種への集中は、「アーリア人」か「ユダヤ人」のどちらであるか表明することを求める公式文書や申請書類にも見られた。一般的ガイドラインは政治家たちが設定したが、実際の詳細は、社会庁とスウェーデン警察と外務省によって形作られた。その他の重要な要因は、「外国の競争者」から労働市場を守ろうちう欲求だった。開戦以来、わずか3000名のユダヤ人難民がスウェーデンへの入国を認められた。

スウェーデンへのユダヤ人入国を許可することへの抵抗は、労働組合や政治団体や大学や大学生たちなど、社会の色々な場所で表明された。1938年11月、スウェーデンナチは「モーゼを門で止めろ」と呼ばれるユダヤ移民に反対する運動を始めた。これは相当の影響を及ぼした。1939年初頭にウプサラで、学生団体はBollhus会議として知られる、難民問題についてのディベートを計画した。スウェーデンへのさらなる難民の入国に対して、過半数の国民が抵抗の意志を示した。すぐにストックホルムの医学生たちとLundの学生連盟は、スウェーデンの難民支援への多数の国民と連携した同様の運動を組織した。反ユダヤ主義及びナチ集団はユダヤ系スウェーデン人とユダヤ人難民のリストを作成し始めた。同時に、多くの人々が、ナチズムに対して明確な立場を取り、ユダヤ人や他の迫害の犠牲者を助けることの道徳的および政治的緊急性を認識した。それらの一人は、既に述べたTorgny Segerstedtだった。もう一人は、歴史家、広報担当者、ヒューマニストのHugo Valentinで、彼はヒトラー時代を通じてナチス犯罪の詳細な記述を公表し続けた。

しかし、ナチズムに対して決定的な立場をとり、迫害されている人々への支持を表明したのは、これら2人だけでは決してなかった。労働運動や労働組合の代表を含む多くのリベラルや民主主義者も、ナチスドイツとスウェーデン政府により実施された難民政策に抗議して声を上げた。Sjömannenの編集者や、Trots Allt!のTure Nermanや、Eskilstuna-KurirenのJ.A. Selanderや、無政府主義新聞Arbetarenや、団体TisdagsklubbenやKämpande Demokratiの会員たちなど多くが、ナチ体制に反対した。他の著名な人物としては、経済学者のKarin KockとジャーナリストのMiaLeche-Löfgrenがいた。




「この問題の最も深刻な面は、しかしながら、労組問題であるのみならず、人種問題でもあった。これを否定するのは、ばかげたことだ。他のほとんどの欧州諸国とは対照的に、我々が国籍や人種の問題を抱えていないことは、我が国にとって大きな強みであったことを否定するのはばかげているだろう。これらは、あまり考えずに探求するような問題ではない。(...) 少数の移民であっても、誰も望みもしない摩擦を創りだす。」
1939年2月17日のBollhus会議でのArvid Fredborgの講演


Luleå港に停泊する前にドイツの船Isarに乗り込むスウェーデン当局。Isarは、軍需品と1,000人のSS兵士を運び、旅客列車でノルウェーに向かった。弾薬は商品車両で輸送された。


ナチスドイツとのスウェーデン貿易

何十年にもわたるドイツとのスウェーデンの貿易は、両国にとって相当重要だった。1993年以降、この相互依存は増大し、防衛の価値は異例の高さに到達していた。戦争が始まると、スウェーデンとドイツの間の貿易と、
スウェーデンと連合国の間の貿易の規制は、スウェーデンの中立維持のための、重要な政治的経済的要素となった。1940年4月9日にSkagerrak海峡が封鎖されると、スウェーデン外交は、すべての勢力におおよそ有益だと示される貿易合意を交渉した。1943年に戦争の様相が変わると、英国と米国は、ドイツの戦争遂行に重要な原材料と製品の輸出を中止するようにという、スウェーデンへの圧力を強めた。特に重要なものは、鉄とボールベアリングだった。西側民主国家のアピールにもかかわらず、スウェーデン政府と主要な企業はナチスドイツとの貿易中止を拒否した。ナチのユダヤ人大量殺人報告が報道されて公衆の知るところとなってから、ずっと後まで貿易は続いた。ナチスドイツとのスウェーデンの貿易が、実際に戦争とそれに伴うホロコーストを継続させたと主張する歴史家たちもいる。ようやく1944年11月、終戦の6か月前になって、ドイツ軍の必需品の輸出を中止した。

ナチスドイツとのスウェーデンの商業関係の論争となるもう一面は、特に1930年代のナチの「アーリア化政策」だった。ドイツとの商業取引に関わるスウェーデン事業家たちは、ユダヤ人従業員の解雇を要求された。一部の企業はこれに応じたが、一部の企業は自主的にそのような解雇を扇動して、この要請の機先を制した。大半は、しかしながら、「アーリア化」の採用を拒否し、ナチイデオロギーをスウェーデンに強要するそのような試みはおおよそ失敗した。


「いつも通りのビジネス」ナチスドイツとの日々の関係

欧州は戦争に引き裂かれゆく中、何千人ものスウェーデン人たちがナチスドイツ及び大陸を訪れた。ビジネスマンや外交官や政治家や著述家や音楽家や他の芸術家や聖職者やスポーツ選手やチェス棋士や、友人や家族を訪れる普通の市民たちが絶え間なく、ナチスドイツ及び大陸を訪問し、帰国した。彼らは訪問者であり、観察者であった。彼らの多くは、1940年代のドイツのユダヤ人迫害、そして後には国外追放を知っており、これらの事実を大衆から隠蔽されることはほとんどなかった。

終戦近くまで、一部のスウェーデン人ビジネスマンたちは欧州で活動し続けた。彼らのスウェーデン国外での経験が、大陸で起きている事態について、スウェーデン国内での議論を引き起こした。そこで、彼らはしばしば生活し労働し、展開する事態を直接目撃することとなった。ユダヤ人にとって事態が劇的に悪化していたポーランドでは、ASEAやLM EricssonやSvenska Tändsticks ABに雇用されていた少数のスウェーデン人たちの間で、懸念が大きくなっていった。これらの勇敢で勇気ある人々は、この危険な任務を指導するNils BerglindやCarl HerslowやSven Norrmanとともに、ポーランドのレジスタンス活動の運搬人として行動した。彼らはドイツ警察の諜報網をすりぬけて、ポーランド「国内軍」と連合国の間を移動し、資金やメッセージを運び込んだ。1942年にゲシュタポはこれらの活動を発見し、スウェーデン人たちは逮捕された。その一部は処刑された。

彼らの生命は危機に陥ったが、スウェーデンのナチスドイツとの友好関係により最終的には解放された。この交渉に参加したスウェーデンの外交官の一人がGöran von Otterだった。1942年8月、SS将校Kurt Gersteinが、ワルシャワとベルリンの間の夜行列車内で彼に近づいてきた。Gersteinはvon Otterに、ベウジェツ絶滅収容所で見たことを告げて、何が起きているか世界に伝えるようにスウェーデン人に要請した。これはスウェーデン政府が、ユダヤ人絶滅についての新しく衝撃的な情報を入手する手段のひとつだった。


1942年9月20日、日曜日。スウェーデンでは地方及び国政選挙が行われる一方、ベルリンではスウェーデンとドイツがオリンピックスタジアムでのフットボールの国際試合を行っていた。9万人ほどの観客が、3対2のスウェーデン勝利を見た。参加者の大半は出征する兵士たちだった。2週間後、帝国元帥ヘルマン・ゲーリングはベルリンで演説し、スウェーデンの新聞は10月5日にそれを伝えた。まさにその日、ノルウェーのユダヤ人たちが、ゲシュタポ及びノルウェー警察に逮捕されていた。

ゲーリングは演説の終わりにかけて「この戦争は第2次世界大戦ではなく、偉大なる人種戦争である。問題は究極的には世界がユダヤ人に支配されるか、ドイツ人とアーリア人に支配されるかである。ユダヤ人は死と破壊の宣戦布告を行った。しかし、我々はこの戦争に勝たねばならないが故に、我々は勝利する。ドイツ国民が断固として団結している限り、我々は無敵である。」と述べた。





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