冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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パッケージ非常時病院(1950年代)


1950年代に制作されたこのアニメ映画は、後に民間防衛パッケージ災害病院(Civil Defense Packaged Disaster Hospitals)と改称された、民間防衛非常時病院(Civil Defense Emergency Hospitals)について解説している。これら軍の移動式陸軍外科病院またはMASHユニットに基づく200床の移動式病院だった。 民間防衛非常時病院は30日分の手術用物資を備蓄していた。

1956年6月に、連邦民間防衛局は、民間防衛非常時病院の配置についての新計画を発表した。計画の目的は、これらの200床の病院を全米の戦略地点の、非常時に病院に転換できる建物の内部あるいは近隣に保管することでだった。

この計画は、非常時に最小限の時間でで開梱して稼働させることができる最終使用場所またはその近隣に、未開封のパッケージに病院を安全かつ恒久的に保管できるように設計されていた。保管場所は、重要攻撃目標地域から15マイル(24km)以内で、支援対象地域から50マイル(80km)以内に位置する必要があった。病院の手術には少なくとも15,000平方フィート(1400平方メートル)のスペースが必要である。パッケージ病院に必要な実際の保管スペースは、1,800立方フィート(50立方メートル)ほどであった。

計画は州政府との正式合意に基づき実施されることになっていた。各州は一つあるいは複数の保管用病院を、連邦民間防衛局との合意に基づき、適切な保管・維持・保護手入れを実施することを条件に、州内に取得できた。取得及び配送費用は連邦政府が負担した。保管・手入れ・防護措置の費用は州政府が負担した。

パッケージ災害病院は民間防衛を支援し、核の応酬の際に病院が破壊された場合にも稼働可能な病院施設を提供する。

1953年に連邦民間防衛局は全米に展開できる野外病院の開発を始めた。陸軍の移動外科病院をモデルにして、民間防衛非常時病院として知られる200床の試作品が作られた。陸軍病院は民間目的に必要ではない機器を装備していたので、民間防衛非常時病院の設計は、パッケージ型災害病院として耐久性のある機器を備えた施設に改良された。もとは数日間稼働するように設計されていたパッケージ病院は、生存者の限られた移動能力と輸送能力の低下を補うために30日間、外部からの支援を受けることなく稼働できるように強化された。1953年から1957年まで、連邦民間防衛局は1800の病院を調達した。1961年に米国公衆衛生局に移管されたが、750の追加施設が調達・配備されており、計画は歩みを遅らせることはなかった。

各パッケージ災害病院セットの重量は約45,000ポンド(22.5t)で、75000立方フィート(2125立方メートル)の保管スペースが必要だった。組み上げには120人時を要した。病院は12の機能ユニットから構成された:薬局、病院用品/機器、手術用品/機器、IV溶液/用品、歯科用品、X線、病院記録/事務用品、水道、電気用品/機器、メンテナンス/ハウスキーピング用品。消耗品は、抗生物質、ストレッチャー、遠心分離機から毛布、シーツ、そして手術用手袋まで多岐にわたっていた。麻薬および外科用スクラブはパッケージから省かれた。パッケージ災害病院には斧、ハンマー、スクリュードライバー、ピック、シャベルもあった。施設のセットアップを説明するマニュアルから特殊な機器の組み立ておよび設置に至るまで、米国公衆衛生局によって発行された広範囲の参考資料も用意されていた。装置は、包括的な訓練プログラムと教科書、授業計画、講義形式及び27.5分の映画でサポートされていた。

最後のパッケージ災害病院セットは1962年に組み上げられた。計画のピーク時には2500以上の病院が全米に配置された。施設は広く分散していた。アラバマ州のような農業州でも53施設、アーカンソー州でも18施設あった。このコンセプトはカナダでも採用され、少なくとも24の同様の設備のパッケージが組み上げられた。

[ PeriscopeFilm: "THE CIVIL DEFENSE EMERGENCY HOSPITAL DURING NUCLEAR WAR 28112" ]









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