冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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地下御倉=シェルターという古風な表現(1977)


「核シェルター」を「地下御倉」という古風な表現で呼んで、必要性を語っている1977年の事例があった。
[直木公彦: "核戦争 : それでも、あなたは身を守れる!", サンケイ出版, 1977/3, pp. 30-33

地下御倉 --- 地下貯蔵庫と避難所
--- 生命と財産と産業を守る ---

私の原水爆に関する考えが、友人知人や、周囲の人々にうけ人れられないので、気持のはれぬ日が続きました。ある日、何となくテレどを見ていましたら、むかし、琉球で暴風雨や津波の災害を防止するために、ある富豪が、地上高いやぐらの上に建てられた貯蔵庫内の食糧や衣料が、多くの島民の生命と因窮を救った、という話をしているのを見ました。その時、「ああ、これが高御倉だ」と直感しました。

この高御倉は、時代が下っては高い地位、または統率者、あるいは天皇という代名詞に変わったけれど、昔は地上に高い倉を作って、その中に食糧や衣料などの生活物資を貯蔵し、地上からの動物の襲撃や、高波からも防ぎ、万一の際に領民や難民の生命を救った。この高御倉は、南方民族の生きのびるための、生活防衛の知恵から産みだされた貯蔵でありました。

しかし、この昭和の時代のいまは、この高御倉を地下に入れて地下御倉として、新しく生命を復活させて、その機能を発揮させなければならない。

そして我々日本民族が生きながらえるために、この地下御倉に、人間の生活資材や、医療器具や、災害復興用の機械資材類を貯蔵しておけばよい。そして日本を何区域かに分割して、食糧物資を地下に貯蔵しておき、万一どこか一部がやられてもどこかが残る。そして、それらが一つの復興の拠点になって、次々と復活してゆく。このようないま考えると誰でもが考え付くようなことを、真剣に思いめぐらしたのでした。そして、昔、我々人類の先祖たちは、身体や食物を、穴や木の穴にかくして、おそろしい動物や、嵐や、外敵から身を守ったことを思いだしたのです。

この地下御倉の発想を山の中の哲人に、ただちに話しに行きますと、この哲人は非常に喜ばれ、「直木さん、まさにその通りですよ、それが昭和のノアの箱舟なんですよ。そして地下御倉とともに、必ずその時、地方の指導者、天皇とはいいません、指導する人物、すぐれた人、これらも選んでおくべきでしよう。昭和のノアの箱舟はたくさん必要です。その時は、とくに指導者を得ることが必要です」と、喜ばれました。私は喜んで山を降り、帰って来て周囲の人々に地下御倉について話をしました。しかし、やはり笑われるばかりでした。

「直木、やめたらいい、さわるなさわるな。そんなことしたって何にもならんよ。いま、こうやって平和じゃないか。この平和を謳歌していればいいんだよ。東京には核爆弾は落ちないよ。万が一にも一発落ちたら、東京周辺を含めて一千万人以上の人はいちころだよ。そんな時に、おまえは何を考えているんだ」と、ここでも笑われるのでした。

しかし、私はこの昭和のノアの箱舟↓地下御倉↓すなわら地下の救侖避難所や、地下貯蔵庫は、絶対に必要だと思うのでした。原水爆に対してはこの地下室を作る。あるいは山腹にトンネルを掘り、そうして、そこに衣食住に必要な物資や、機械を集め、多くの人々も避難して、生命を守ることが、将来必要になってくるのではないだろうか。

また地下工場や地下都市を作ったら、一つの大きい市民の集団が、そこに生き残れるのではないだろうか。すでにソ連や、中国は、大々的にこういうものを作っているという噂も思いだしました。しかしこれは一般の家庭や市民には、お金がかかってむりです。そうだとしたら、それぞれの場所において、時に応じ、それぞれの小さい貯蔵用と人命避難用の地下御倉を平常から準備して作っておく必要があるのではなかろうかと思ったのです。


著者の直木公彦氏は経歴からも多彩な人物のようで、設立した植村技研工業は現在も、土木設計・コンサルタント会社として続いている。
直木公彦(本名 植村厚一) 大正7年札幌に生れる。北海道帝国大学工学部卒業。朝鮮総督府技師、北海道開発局、小松製作所を経て、昭和40年植村技研工業株式会社を創設。画期的トンネル工法を完成。関連特許約350件を擁し、内外に雄飛する。平成12年4月6日昇天。 [ 直木公彦: "白隠禅師―健康法と逸話", 日本教文社, 1955 ]
生まれは1918年であり、1977年出版の本としては古風な「地下御倉」という呼称もありかもしれない。





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