冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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放射線による死と原子力委員会の欺瞞


ユタ州政府のユタ州史のページに、ネバダ実験場の核実験の被害と訴訟の歴史についての記載がある。それによれば、「ネバダ核実験場に近い、ユタ州セントジョージでは、人々は、核実験を日常の出来事として経験しており、何も気にするようなものではない」と1955年の核実験解説動画が語っている頃、ユタ州の住民は連邦政府との絶望的な法廷闘争を始めていた。
この偏執的魔女狩りからの降下物が、ユタ州南西部の人々の上に、死の放射性毒物を降らせ、公僕たちは、誠実で罪なき人々の生命より、国家安全保障をはるかに優先する倒錯した解釈を重んじた。第2次世界大戦に続き、米国は太平洋のビキニ環礁とエニウェトク島で、原爆を爆発させた。しかし、1950年12月、トルーマン大統領は、原子力委員会が米国本土で核実験を行うことを許可した。原子力委員会はネバダ実験場を、その場に選定した。砂漠にとりかこまれた数百平方マイルの土地を連邦政府がそこに所有していたからだ。そして、ひとりの官僚の侮蔑的言葉にあった「利用頻度の低いセグメントの住民」であるモルモン教徒たちが、 St. GeorgeとCedar Cityとその他犠牲となった南ユタの街のいたからだ。1951年から1958年までの7年間に、原子力委員会は、ネバダ実験場での地上核実験により、爆心から最短3.9マイルに駐留する兵士たちと、ネバダ州南東部とアリゾナ州北西部とユタ州南部の住民たちを、死の放射線で狙った。1963年8月に、米国がソビエト連邦と部分的核実験禁止条約を批准した後は、原子力委員会は地下核実験を継続した。その多くが地表へと突き抜け、ユタ州民を放射性デブリで包み込んだ。

これらの核実験の死の毒物が、ユタ州南西部の住民たちの頭上に降り注いだという証拠が積みあがると、原子力委員会の当局者たちは、職員たちに危険性に関して嘘をつくように、仕向けた。1953年春に地上モニタリングプログラムを確立した原子力委員会は、Upshot-Knotholeという一連の核実験を実施した。これらの核実験の一つである、Dirty Harryと呼ばれた核実験では、核爆発による放射性の雲がSt Georgeの上空に2時間以上、とどまった。放射性降下物は、保守的な原子力委員会の基準に照らしても、安全とは言えないレベルに到達した。しかし、国家安全保障を盾にして、不道徳な隠蔽工作が正当され、原子力委員会は職員に対して、住民及び報道機関に対して、あいまいな声明を発表させた。人間や動物が病気になったり、死に始めると、原子力委員会の当局者たちは、国防上の利害を理由として、職員たちに沈黙を強いた。この指示に従い、原子力委員会の当局者たちは、St Georgeのモニタリングステーションのデータを改竄し、放射線が人々に影響を与えるようなレベルにないように見せかけた。

ユタ州の人々は、さまざまな形で核実験に反応した。しかしながら、米国に対する愛と共産主義者の侵略への恐怖から、大半の人々は核実験を支持した。同時に、彼らは、白血病や癌や遺伝的突然変異への恐怖に青ざめた。マッカシー旋風と偏執的なムードの中で、原子力委員会は、微調整されたハープを奏でるミュージシャンにように、ユタ州民の愛国心に訴えかけた。一方で、原子力委員会は、放射線による大量死を示すような情報を抑え込んだ。自らを正当化した原子力委員会は、映画や、学校訪問や、有力な市民への説明会や、記者会見や、プレスリリースを通して、気持ちの良くなる、愛国的な、広報キャンペーンを実施した。

プラトンの「国家」にまで遡れる、政府政策についての記述で是認され、ジョージ・オーウェルの「1984年」で子細に暴かれた、でっち上げのテクニックを使って、原子力委員会の当局者たちは、放射線被ばくによる白血病や癌の増加を示すような医学研究を抑圧した。そして、原子力委員会は、嘘をつくことを拒否した科学者たちを解雇した。それとともに、原子力委員会はたばこ産業と同様に、連邦政府の金や、個人的な忠誠心や、愛国心によって動機づけられた科学者たち、すなわち御用学者たちを雇って、原爆の放射性降下物と白血病や癌との関連性を示す研究に対して、否定的な見解を述べさせた。

大気圏内核実験につづく20年間で、憂慮すべき頻度で、国民の安全についての疑義が提示されるようになった。白血病や癌を発症するユタ州南西部の住民の比率は、正常値を上回っていることを、研究者示した。連邦議会の複数の委員会が、核実験結果についての公聴会を実施する一方で、さらなる疑義を手じしていた。

早くも1953年には、核実験で死者が出る可能性があることを示す直接的証拠が、明らかになっていた。一つの核実験後に、牧草を食べさせるために、牧畜業者たちが、核爆発の風下地域で放牧していた羊の多くが死亡した。核実験をモニタリングしていた原子力委員会の職員は、Bulloch一家に形ばかりの警告を出した。しかし、牧畜業者たちは自分たちと家畜への危険性を本当のところ理解していなかった。また、農民たちには羊を放射性降下物の通過経路から移動させるマンパワーのなかった。羊たちと牧草の上に放射性降下物が降った後、家畜たちは次第に、火傷や病変や脱毛や早死や死産や奇形などの放射性障害の症状を呈し始めた。原子力委員会の職員たちは、羊たちの死亡は栄養失調によるものだと論じて、牧畜業者たちを、真の理由から遠ざけた。

原子力委員会の隠蔽工作に納得しなかったBulloch一家は、羊の損害賠償を求めて、連邦政府を訴えた。原子力委員会は情報を秘匿したり、口供書で嘘をついて宣誓する証人を用意したりして、1956年に裁判に勝利した。この裁判の裁判長を務めたSherman Christensen判事は、1982年に法廷を悪用されたことを知り、牧畜業者たちに再提訴を認めた。それまでの年月の間に、牧畜業者たちは経営破綻したり、破産宣告を受けたりしていた。判決で、Christensen判事は、原子力委員会は法廷で「詐欺」を働いたと、義憤に燃える意見をつけて、連邦当局を非難した。しかし、第10巡回控訴裁判所がChristensenの判決を覆したため、これらすべては無に帰した。このような判決が出たのは、控訴裁判所が保守的であったことと、裁判官が以前に原子力委員会の機関の弁護人をつとめた法律事務所で働いていたことによるものだったと考えれば、説明がつく。

一方、ユタ州Scott Matheson知事と、Joseph Califano保健教育福祉長官と、ジミー・カーター大統領は、原子力委員会の活動を調査することに合意した。原子力委員会の文書調査で、幾千ページもの文書の存在が明らかにされ、その多くが原子力委員会とその後継機関であるエネルギー省によって公表を禁じられていた。Califano長官は関連文書を個人的に読み、その内容についてマンシン州知事と意見交換し、文書を交換することで合意した。同じころ、University of UtahのJoseph Lyonや原子力委員会のHarold Kappのような科学者たちの研究で、放射線被曝の危険性と、原子力委員会の邪悪さが明らかとなっていた。

核実験で被害を受けたことが明らかになった、風下住民たちは、元連邦下院議員で、アリゾナ州のモルモン教徒のパイオニアたちの子孫であり、元国務長官であるStewart Udall率いる弁護団に依頼して、原子力委員会を訴えた。Federal Tort Claims Act of 1946 (FTCA)[連邦政府不法行為賠償請求法]の基づく裁判で、Udall率いる弁護団は、その法律に一縷の望みを託した。議会は、政府職員による故意また過失によって生じた損害の補償を求めることができるFTCAを成立させていた。これは表面的には公正に見えるが、FTCAは「裁量権限内」の決定は対象外となっている。これは、議会の意味するところでは、政策決定の立場で働いた連邦職員による「可能な選択肢から行った選択」を意味している。1953年の最高裁判所判決は、「連邦職員が明らかに権限を濫用している場合であっても」連邦政府高官による政策決定によって引き起こされた被害に対する損害賠償請求は、法律の対象外であるとして、一縷の望みを断った。

風下住民たちの前に、さらに障害が立ちはだかっていた。ネバダ実験場の当局者たちの承認された計画を逸脱していることを、原告が証明できたとしても、原告は白血病や癌が他の理由ではなく、核実験によるものだと証明しなければならない。この証明は非常に困難だ。放射線被曝しなくても、癌や白血病になる人々がおり、癌は多くの場合、体内に広がるまでに長い時間を要することがある。

1979年8月、Salt lake Cityの風下住民たちは、Bruce Jenkins判事の連邦法廷で、米国政府を訴えた(Allen v. The United States)。裁判が軌道に乗った1982年9月には、ロナルド・レーガンが大統領に就任し、Henry Gillがエネルギー省の弁護人となって、政府の弁護を率いていた。Gillの弁護団は、原子力委員会がFTCAの定める法的裁量の範囲内で行動していたと抗弁したことは、驚くことではない。この論のラインで、ネバダ実験場の当局者たちには、核実験による地域住民に対する危険性を警告する義務はなかったと論じた。

Udall率いる原告弁護団は、これに対抗して、除外規定の対象となる、原子力委員会の上層部による政策決定ではなく、FTCAのもとで損害賠償請求が認められる、原子力委員会の現地管理者たちの業務的意思決定であると論じた。これら業務的意思決定において、原子力委員会は、放射性降下物から地域住民に対する、合理的な警告あるいは防護措置をとっていなかったと、原告弁護団は論じた。放射線被曝は癌と白血病の一つの原因であり、唯一の原因であることを証明する必要があると論じた。Gillとエネルギー省の弁護人たちは、業務的意思決定と政策決定の区別をごまかし、FTCAを基本的に無力化し、あらゆる不法行為に対する請求に対して、除外規定が適用されると論じた。

議論と証言を聴いた後、Jenkins裁判官は、1984年5月に、原告に有利な判決を下した。489ページの判決意見書で、Jenkins裁判官は「伝統的な法律の規定は...他人の生命に危害を加える可能性のある行動を避ける義務を、すべての人々に課している」ことを強調した。Jenkins裁判官は、ネバダ実験場以外の原子力委員会の施設は、業務的に、まっとうな警告を出していることを指摘した。彼らは放射性降下物の危険性を知っていたにもかかわらず、「桃橙色の塵とガスと灰の雲」の経路上の住民に対して、癌や白血病のリスクがあることを警告しなかった。むしろ、原子力委員会当局者たちは、危険性について公然と嘘をつき、そのような死の危険性のある病気の可能性を過小評価するプロパガンダを実施した。ネバダ実験場の当局者たちが除外規定の対象外であると判決する一方で、Jenkins裁判官は、放射性降下物が原告の白血病や癌を引き起こしたか否かという困難な問題に直面した。証拠を考慮して、Jenkins裁判官は、放射性降下物が原告のうち10名にがんを引き起こした可能性が高いと判決し、残り14名の請求を却下した。

Bruce Jenkins裁判官の意見を聴いた後、Udall弁護士はレーガン政権に対して、この判決を受け入れて、原子力委員会職員の過失について損害賠償に応じるように求めた。しかし、レーガン政権の弁護士は控訴した。Bulloch一家の羊の裁判が繰り返され、第10巡回控訴裁判所は、風下住民たちの正義の墓場となった。Jenkins裁判官の意見は覆して、巡回控訴裁判所は、核実験の実施方法及び、病気あるいは死亡する危険性のある、風下住民たちに警告しないという意思決定は、FTCAの除外規定の定める政策決定であると判決した。1988年に連邦最高裁が巡回控訴裁判所の判決の見直しを却下したことで、風下住民たちは法廷闘争に敗北した。

一方、風下住民たちは白血病や癌などの病気になったり、死亡したりした。まだ子供だった、St GeorgeのClaudia Boshell Petersonは、友人が白血病とメラノーマになり、癌で四肢を失ったことを悲しんだ。そして、母親として、娘のBethanyが神経芽細胞腫と白血病で治療を繰り返したのちに死亡したことに苦悶した。そして、姉として妹のCathyが6歳の子供を残して、メラノーマで死亡したことを悲しんだ。何の助けにもならない第10巡回控訴裁判所と連邦最高裁を見限り、風下住民たちは連邦議会に助けを求めた。ユタ州選出のOrrin Hatch上院議員とWayne Owens下院議員の働きにより、1990年に、連邦議会はRadiation Exposure Compensation Act[放射線被曝賠償法]を可決し、ジョージ・ブッシュ大統領は承認した。この法により、ネバダ実験場の無責任な管理者たちの犠牲となった人々に政府は謝罪し、信託基金を設立して被害の一部を賠償した。



[ Thomas G. Alexande: "Radiation Death and Deception" ]





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