あらゆる架空国家が併存するモザイク世界

 新たに年の明けた一月。正月の日の出が照らすパルパドの街は、新年を祝う人々の賑わいに満ちる。
 庶民達は相変わらず身も凍る様な寒さの中を、一刻も早い春の到来を願って寺へと詣で、その帰り道に甘酒や餅を調達して家族と分け合う。下町に軒を連ねる町屋からは、絶える事なく炊事の煙が空へとたなびいていて、まるで祭りの時に川へと白旗を流す様な、風情ある光景である。
 一方貴族や士族達はといえば、直ぐに車を出して王城に参上し、至聖王と相国に対し年始の祝いを申し上げ、その後すぐに行われる春の除目において自分がより良い官職に任ぜられる様願い出るのだ。
 この様に各々が願いと希望を持って街に繰り出し、大路では無数の思惑と足取りが交錯する。その熱気たるや、街全体から湯気が立ちそうなほどで、これを見て人々は春の近きを知るのである…。
(『鳳国三百六十五日』 リンブルク皇国外交団副使 雁尾忠隆の回想録より)

 正月十五日の相国邸。その奥では、相国ドルジ・シンチュラの一人娘、アルナ郡主が主催する祝いの宴が開かれていた。主賓は彼女の第一の付き人であるカンリ・テンスン、そして二人の他幾人かのごく親しい友人を招いただけの、ささやかで温かな宴席であった。
「叙任おめでとうカンリ。これでお前も立派な大人になったな」
「ありがとうございます、アルナ様」
 カンリは今年十九歳になる。彼はこの日の前日に開かれた除目において、正式に従六品の羽林府参軍に任命され、一人前の士族の仲間入りを果たした。羽林参軍の職は士族が望みうる武官の最高職の一つであり、十代での任命は異数の出世というべきであった。
 しかし、その出世に疑問を持つ者は、少なくともこの場には一人もいない。何しろ、彼が今まで十年の長きに渡ってアルナとシンチュラ家に奉職し、忠誠を尽くしてきたのをよく知っているからだ。
「これからはカンリ殿とお呼びしなくてはなるまいな。近衛士官の栄職、しっかりと務められよ」
「もうお姉ちゃん、これからはカンリさんじゃなくて『慎士月』さんって呼ばなきゃ」
 そう言って彼の出世を寿ぐのは、リンブルク皇国の外交団に所属する武官、ヒルダ・マクロアイゼン中佐と、その妹の書記官セレナだ。二人は昨年の夏頃に着任して半年ほどになるが、驚く程の短時間でゲルクの暮らしに馴染んだ。最初高地特有の頭痛に悩まされていた二人だったが、体が環境に慣れていくに従って、風景の美しさや古い時代ならではの風情を楽しむ余裕が生まれた様で、今ではアルナが開く雪見の宴や法会にも盛んに顔を出していた。
「いえいえ、これからもどうか気安くカンリと読んでください。漢風の名前は公文書で使うだけで、皆日常では呼びませんから」
「む、それは私が考えてやったその名前を気にいらんということか?」
 アルナは軽く頬を膨らませた。ゲルクの支配層は、ゲルク語の本名とは別に漢人風の名前を名乗ることをある種の特権としていたが、今回カンリが許された名前は彼女が考えて与えたものだった。
「いえいえ、とても感謝しています、アルナ様」
「シンチュラ家の『真』にちなんでの『慎』、アルナの名前『陽輝』に付き従う『士月』。うん、とてもいい名前だね」
 そう言って笑うのは、相国ドルジの三番目の息子で、アルナと最も年の近い異母兄「虎牙大将」である。彼は顔つきは優美、立ち居振る舞いは洗練瀟洒の呼び声高い貴公子であり、『光大将殿』のあだ名で呼ばれていた。
「カンリ、アルナの側にこれからもよく仕えていてくれよ。この子は君のことが大好きだからね」
「兄様!勝手なことは言わないでください!」
「いや、事実だろうアルナ殿。側から見てもそれは分かる」
「いつもいちゃついてるしねー」
「まあまあ皆さんそのくらいで…。勿論です大将様、これからも引き続きお側に仕え、影に日向にお支え申し上げます」
「うん、宜しく頼んだよ。…ところで、今夜君は外出すると聞いているけれど」
「あ、はい。同輩の皆が私のために宴席を設けてくれると言っていました。最年少の士族筆頭職就任を祝いたい、と」
「そうかい。なら、私から引き出物代わりにこれを上げるよ」
 大将は懐からずっしりと重たい袋を取り出した。中を開けてみると、なんとそこには鮮やかな山吹色の金貨が二十両程入っていた。
「大将様、これは…」
「宴の場では一番位の高い者が他の者の分まで奢らされるのが習慣だからね。何、ご祝儀だと思って貰っておいてくれ。余ったらアルナに何かお菓子でも買ってやってくれたらいい」
「ありがとうございます…!」
「兄様、私をいつまでも子供扱いしないでください。もうお菓子などで喜ぶ年ではありませぬ」
「本当かな?じゃあ、この前買ってきた飴はもういらないのだね」
「そんな…兄様の意地悪!」
「ははは、欲しいなら欲しいとそう言わないといけないよ、アルナ。お菓子でも、他のものでもね」
 大将の振る舞いは垢抜けていて、とてもカンリの一歳年下とは思われない。その身に纒う雰囲気には、年に似合わない老成した深み、渋みがあり、執着から解脱した高僧の趣さえある。
「(この様な方でも恋に夢中になることがあったりするのだろうか)」
 戯れ合う兄妹の姿を見て、カンリはそう考えた。彼にとっても大将は不思議で底の知れない人物であり、優しさと誠実さの中にこちらをはっきりと見通す目が浮かんでいる様に感じられた。いつでもにこにこと笑っているが、それだけの人ではない。そう確信してはいるものの、相変わらずこの人の奥底に触れた、見たことは一度もないのである。
「皆様、相国様が朝廷からお戻りになりました」
「何、お父様が?」
「楽しんでおる様だな」
 戸口からぬっと姿を現したのは、この家は無論、王国全土でも最高の権力を恣にする相国、ドルジ・シンチュラであった。身長実に六尺以上、見事な美髯が特徴的な彼には、政治権力の修羅場を無数に勝ち抜いてきたことに由来する気迫があり、眼前にするだけで気の弱い人間は身震いしてしまう。
「お父様、お帰りなさいませ」
「相国様に拝謁致します」
「いや、よいよい。宴席の場で、左様に堅苦しい礼儀を尽くすのは野暮だ。皆面を上げよ」
「はい」
「アルナ、今年でお前は十六になるな。いよいよ女としても成人だ。そのこと、よく心得よ」
「はい、お父様」
「カンリ。叙任おめでとう、遅くはなったが、これからもアルナの側についてやってくれ」
「身命を賭してお仕え申し上げます」
 ドルジは笑った。彼は政局の場においては、残酷なまでに冷徹な男で、敵に容赦や情けをかけることは殆どなかったが、一人娘のアルナには溺愛に等しい愛情を注ぎ、またその側に仕えるカンリも義理の息子の様に扱っていた。
「この二週間の間、儀礼と政務が続いて、家族と顔を合わす時間も無かった。が、今日で除目は終わりだ。明日には改めて、シンチュラ家としての新年の祝いをしよう」
「はい、お父様」
「ではな」
 ドルジが去っていくと、ピンと張り詰めていた空気が再び弛緩する。そして、誰からともなくまた他愛の無いおしゃべりが始まり、それはヒルダとセレナが大使館に戻るまで、絶え間なく続いたのだった。

 ヒルダとセレナが大使館に戻ってから、それほど時間が経ったわけでもない夜。今度はカンリが屋敷を出て行った。先に話していた通り、彼の叙任を祝う宴席を設ける為、友人達が迎えに来たからだ。
「じゃあ言って参ります」
「ああ、楽しんでこい。今日は外泊も許してやるぞ」
「助かります。みんなで飲むと日を跨いでしまいますから」
 アルナは平穏に彼を見送り、自分は久しぶりに一人で摂ることになった夕食に向かっていた。全てが平穏に収まる、何事もなく一日が終わろうとしていたその時、彼女の給仕をしていた婢女のドゥルマの一声で泰平は崩れた。
「郡主様、カンリ様を行かせてよかったのですか?」
「どういう意味だ?」
「いえ、カンリ様をお誘いに来た御三方の話を聞いていたら、ちょっと聴こえを憚る言葉が出てきまして」
「言ってみよ」
「今回の宴席は妓楼で設けるつもりだと仰っていました。えと、その…カンリ様に男の喜びというものを教えてやろう…と」
 ドゥルマは最後まで言葉を続けることが出来なかった。「妓楼」という単語を聞いた瞬間に、灼熱したアルナの怒りがひっくり返された膳の形で現れたからである。
「き、きき、貴様っ…!」
 ガシャン、と派手な音を立てて箱膳をひっくり返したアルナはそのまま立ち上がり、白皙の頬を赤く染めて、余りの激しい怒りに身震いを繰り返す。幸運なことに、熱い汁物や茶が既に空だったので、火傷をする被害者は出ずに済んだ。
「郡主様、も、申し訳ございません!」
「言えドゥルマ!何処だ、カンリの馬鹿は何処の妓楼に行った!?」
「え、えと、確か南町の……楼というところで」
 彼女は自分の主人がこんな剣幕で捲し立てる姿を見たことが無かった。彼女が仕えていた主人は、時に子供っぽい面が覗くものの、概ね下々には優しく、常に明るく振る舞う好人物だったはずだ。
 しかし、今はどうか。顔を赤くし、目を怒らせ、物にあたって自分を怒鳴りつけている。そのことに混乱をきたしたドゥルマは、ついカンリ達が向かった場所を事細かに伝えてしまった。
「よし、結構。誰か、直ぐに早駕籠の支度をしろ!」
「早駕籠ってまさか!ダメですよ郡主様!」
「ええい止めるな、私は行くぞ!」
 足音も荒く部屋を飛び出し、男物の着物の裾を揺らめかせてアルナは玄関先まで行こうとする。すると、目の前にぬっと人影が現れて彼女を留めた。
「何処へ行くんだい、アルナ」
「あ、兄様…」
 虎牙大将は緩やかな笑みを浮かべながらも廊下の真ん中に陣取り、腰に提げた飾太刀でアルナの行手を塞いだ。
「こんな時間に、妹が勝手に何処かに行こうとするのを兄としては見過ごせないよ」
「そ、それは…」
「…もしかして、カンリのところへ行くつもりかい?」
「……!」
 大将は目を細め、鋭い針を差し込む様な舌鋒でアルナに問うた。
「お前は自分が何をしようとしているか、それが何をもたらすか分かっているかい?」
「…はい」
「仮にも妓楼は悪所だ。建前の上では良民は近づくことさえ罷りならない場所だ。そこに、婚礼前の姫君が行ったと知れたなら、それは大きな問題になる。分かるね?」
「勿論です」
「それだけじゃない。よしんばそこに行ったとして、お前は何をする気だい?よもや乱入をして、カンリの晴れの場をぶち壊しにする気じゃないだろうね。いかに主人とはいえ、お前にそんなことをする権利があると思うかい?」
「そ、れは…」
「それを押してまでやるというのなら、並々のことではできないよ。少なくとも僕は、単なる悋気嫉妬の類いで、大切な家人の晴れを潰させることは許せないね」
 兄の言は妹の心を強く抉る様に傷つけた。彼女は今まで、自分の抱く怒りの正当性に微塵も疑いを持っていなかったが、今それが不当極まるものであること、カンリの幸福や権利を完全に踏み躙るものであることを冷静に指摘され、それに対し全く反論できないことを悟ったからである。
「う、ううぅ…」
 しかし、アルナはすごすごと部屋に戻りはしなかった。兄の言は正しい。自分はあまりにも幼い、自分の中に湧き起こる衝動だけで、大切な側仕えの、一生に一度の舞台を壊そうとしている。そんなことは主人として、絶対にしてはならない。
「でも、嫌だ…!」
 してはならない、そう理屈では分かっていながらも、心の奥底に燃え立つ火は消えてくれなかった。言葉にできない、体の中で荒れ狂う情動の嵐を、たった一度の息遣いで外に表す。すると、
「アルナ、僕は言ったろう。『欲しいものは、欲しいと言わなくては伝わらないぞ』と」
「…欲しい、もの」
 私の欲しいもの。水の様に形を持たない感情に、明確な輪郭が浮かび上がる。私の欲しいもの、それは…。
「私の欲しいものは、欲しい、ものは…」
「欲しいものは?」
「カンリ…」
 最後の言葉は、告白というよりも、むしろ持て余す気持ちへの困惑の色が滲んでいた。どうしてカンリなんだろう、いや、そもそも「欲しい」とはどういうことなんだろう。その名前を、正体を知るには、まだアルナは幼すぎたのかも知れない。
「…よく言えたね、アルナ」
「…兄様」
「分かった、協力しようじゃないか。いじらしい妹に付き合ってやるのも、兄の務めだとも」
 そう言って、大将は被っていた暖帽をアルナの頭に被せると、家臣に命じて一振りの太刀を用意させた。
「今からお前は虎牙府の新人少将だ。名前はそうだな…まあ、白梅の少将とでも呼ぶことにしよう。貴族の子弟が身分を隠して妓楼に行くことはよくあることだからね」
「はい」
「さあ行こうか、詳しい場所はお前が案内するんだよ」
「分かりました!」

 凡そ一時間ほど牛車を歩かせた頃。アルナと大将は孔雀大路をずっと南に進み、雑然とした下町との境目にあたる斎大路で西側に転じた。そこからさらに三十分程車を走らせていくと、便宜上賎民の集落として、官許の妓楼が集められた色街がある。
 例え厳冬の夜であったとしても、提灯は煌々と輝いて人々を誘っている。その中を静々と牛車は進み、やがてある店の前で停まった。
「…車を止めろ。兄様、確かここです」
「ん…なんだ、この妓楼なら馴染みだよ」
「え、兄様もそんなところに行くことがあるのですか?」
「そりゃあね。私ももう立派な青年だから」
 意外なことに、カンリが連れ込まれた妓楼は大将がよく通う馴染みの店であった。兄が馴染みであるならば、身分の高い人々が出入りすることも多く、それ相応の礼儀も弁えていよう、とアルナは安心した。
「…ちなみにね少将。ここの妓女は基本的に春をひさぐことは無いと思っていいよ。君が思う様な妓楼はもっと下町の方にあるんだ。ここはもっと昔気質の、それこそ機知と教養に富んだ美人達の城さ」
「…そうなのですか?」
「うん。まあ、絶無とは言わないけれど、流石に彼に渡したお金でそんなものは買えないのじゃないかなぁ…」
「…べべ、別に私はそんなことを心配してなど…!」
「まあまあ…ひとまず、馴染みとなれば話が早い。ちょっと楼主さんとお話しして、うまくカンリ達の部屋の隣に滑り込めるようにしようか」
 大将はこともなげにそう言って上がり込むと、自分の名前を告げて楼主に来てもらう様に頼んだ。
「これはこれは大将様!この度はまた突然のご登楼にございまするな!」
「今日は友人を連れてきたんだ。尤も、些か聞こえを憚る立場の方でいらっしゃるから…白梅の少将とでも、お呼びしてくれ」
「ええ、はい、心得てございます」
「よろしく」
 楼主は気がついただろうか。私の風貌は決して異人然としたものではなく、あくまでゲルク人の特徴からは外れていないはずだ。だが、この両の目に光る琥珀色の瞳だけはあまり市中では見かけないだろう。果たしてどうだろうか。
「……ではお二人とも、お部屋にご案内しますが、ご希望はありますか?」
「賑やかなところがいいな。何人か威勢のいい奴らが団体で入った部屋の隣にしてもらおうか」
「は…はあ、わかりました。おうい、お二人を二階の梅の間の隣にご案内して差し上げて!」
 どうやらここは切り抜けられたらしい。いや、もしかしたら気取られたかもしれないが、兎に角今止められなかっただけでも良しとしよう。
 その様に考えながら、アルナは階段を登っていった。
 ところで、このパルパドの街には二階建て以上の建物というのは殆ど無い。皆平屋か、ともすれば下の方に穴を掘って立てる、つまりは半地下の家であり、この国では建築を上の方に重ねていくという発想は、険阻な山の上に建てられるゾンの他には余り見られない。何しろ、冬ともなればこの国は平然と水が凍りつくほどの寒さが毎日続く。それを乗り切る為には暖房が必要不可欠だが、二階以上となると、オンドルの様な地下暖房が使えない為に、余計に暖房費が嵩むことになってしまう。
 だが、そうした環境下における数少ない例外の一つが妓楼である。というのも、妓楼には当然妓女達が馴染みの客と逢引したり、はたまた自分を買った相手と共寝する部屋が必要になるからだ。ただでさえ城壁の中の狭い区画に、さらに大量の部屋を備えるには、多少の不便を承知で上に建て増ししていくしかない。(なお、都の建物は通常シンチュラ家の様な大貴族に配慮しての高さ制限の不文律もあったが、賎民集落とされる色街にはその統制は無い)
「都には 見上げたものが 二つあり 仏と城に 人の秘事」
 とは、王城に寺の五重塔などを除けば、人が見上げる様な建物は妓楼の他にない、という意味合いの歌であり、他にも、
「大門を 抜けて目抜きの 中之町 吾も韓信 皆も韓信」
 これは下世話な歌の一つで、頭上で行われている情事の下を通り抜けるのは、さながら股を潜った故事のある中華の英雄さながらのことだ、と笑い飛ばすものである。この様に、二階建て、ともすれば三階建ての妓楼は、ある種都の名物であった。閑話休題(それはさておいて)。
 二人は思惑の通り、カンリ達の宴が開かれている部屋のすぐ隣に案内された。大将は、あれこれと心配するアルナに微笑んで、
「大丈夫、まだ引けまで余裕があるから。彼らの感じからすると、引けまで飲み食いを楽しんだ後で、泊まりで気に入った子と…って感じに見えるよ」
「…兄様はなんでもお見通しなんですね」
「ようこそいらっしゃいました、ご両人様。大将様のご友人は初めてのご登楼でございますね」
 部屋に入って外套などを脱ぐと、見計らった様に遣り手婆がぬっと姿を表す。
「ああ、そうだよ。だけど、この場での礼儀作法はあらかた教え込んでるから心配は要らない」
「はい。では、今日はどの娘に致しますか?」
「誰でもいいから、静かな娘を付けて欲しいな。何分今日は二人の差し飲み、隣の喧騒を肴にしつつやるつもりだから」
「はいはい」
「それから酒と料理だけどね、彼はあまり飲み慣れていないから甘口の酒ーそうだね、御井酒か何かを軽く温めて出してやってくれ。料理は適当に体の温まる汁物が欲しいな」
「畏まりました」
「あぁ、それと。いつも世話になっているから…」
 最後に大将は袖口から小分けにした懐紙の包みを取り出し、密かに遣り手婆の袖口に滑り込ませた。
「おや、まあ。これはありがとうございます」
「(なるほど、これが心付けというやつか)」
 こうした場所では、何よりも先ず物をよく知っている遣り手婆の協力がなくてはことが運ばない。妓女を呼んで派手にやっているところに急にすました顔の婆が入ってきて、ちょいちょいと女を連れて行ってしまうこともよくあった。そうした事を避けたり、或いは自分の思う通りにならない娘を付けさせる為、妓楼においては先ず婆に幾らか祝儀を渡すことが作法の一つとして確立されていたわけである。
 大将の渡した懐紙の中には豆板銀の形で銀貨概ね三十匁程が入っている。これは職人の日給一月から半月程に相当する大金であり、普通の家庭からすればそうほいほいと出せる額ではない。それだけの額が心付けに消える、それが妓楼であった。
「さて、少将。ようやくここまできたけれど、どうする?」
「…先ずは隣の部屋の声を聞こうと思います」
「壁に耳を当てればそれなりにはっきり聞こえるよ」
 遣り手婆が去った後、アルナは先ず隣の部屋の様子を伺うために、壁に耳を当てて声を聞こうとした。既に隣からは華やかな楽器や謡の声が聞こえてきて、それに伴って男数名の派手な笑い声も響いていたが、細かい話の内容まではよく聞き取れない。そこで彼女がピッタリと壁に耳をつけてみると、
「いやあ今日はめでたい、それ、もっと祝儀をやるから派手にやっとくれ!此奴がまだ十代の癖に、一葛の職を手に入れた褒美だ!はあっはっは!」
「チッ、気に入りませんね、大将。奴らやたらと騒ぎ回っていて、礼儀も何もありませんよ」
「なあに、人がより集まれば騒いで大尽遊びもしたくなるもの。カンリの声は聞こえるかい?」
「うーん…聞こえません。むしろ、もっと盛り上がれ、と絡まれている様な…」
「ならいいんだ。彼はよく作法というか、振る舞い方をわかっているみたいだね」
「むむむ…」
 カンリが悪所で羽目を外す事なく、いつもの通り思慮深く居てくれるのは嬉しい。だが、それでは彼の思うところが全くわからない。自分の側にいては言えないこともあるだろうし、或いは私に隠していることもたくさんあるはずだ。アルナはそう思いつつ、さらに隣の声を聞き取ろうと努力した。
「…ところでカンリ、お前もっと女の子に絡みに行けよ。お前の披露目だぜ」
「いや、俺はいいんだ。みんなで楽しくやってくれよ」
「おいおい、それじゃせっかくお前を連れてきた意味がねえじゃねえか!」
「そうですわ参軍様…士族の頭に御なりあそばしたのに、そう奥手ではいけません…」
「なっ、くそっ、売女め…賎民の分際でっ…!」
「こら、そんな汚い言葉を使うもんじゃないよ」
「だって、だって兄様…いえ、大将殿…」
 兄の大将は、妹の乱暴な言葉遣いを嗜めつつも頬を緩めてしまう。これまで無数の貴公子からの求婚をすげなくあしらって、高嶺の花のさらに上に設えた蓮華座に座り込んでいたというのに、自分の思いとなると、ここまで不器用になってしまうのがいじらしかった。
「それよりもほら、もうすぐ娘さんが来るから。ゆったりと飲んで引けを待とうじゃないか」
「…はい」
 不満で頬を一杯に膨らませながらも、アルナは兄に向き合った。そして、やってきた静かな妓女の酌で甘口の燗酒をちびちびと口に含む。その間も隣の部屋からは相変わらずどんちゃん騒ぎの音が聞こえてきて、二人の耳朶を打った。
「今日は隣の部屋がとても騒がしいようだね」
「そうでございますね」
「何かお祭りかい?」
「…確か今日は、最年少で羽林の参軍になられた士族の方がお仲間共々いらっしゃったとお聞きしております」
「気前はいいかね」
「それが、参軍の方にしてはあまり御宜しくはないようで…」
「大将殿、大体皆此処ではどのくらいお金を使うものなのですか?」
「妓女の最高峰、大夫の揚代は銀九十三匁、まあ金貨にすると二両というところかな。ただ、目通しや紹介料まで諸々含めれば百五十匁くらいにはなると思うよ。少なくとも、日常的に此処に通ってある程度顔馴染みがないと、いきなり行って一番いい女を連れて来い、というのは無理な話だね」
「少将様は初めてでございますか?」
 話しかけられて、アルナは妓女の風貌を改めて見直した。見れば、顔つきはほっそりしていて、肌の色と合わせて磁器人形のような趣がある。瞳はあまり感情を湛えておらず、ただ目の前を見るだけの感覚器として用いられているように思えた。
「ん、あぁ、まあそうだな…お前は大将殿と仲がよろしいのか?」
「…時折、こうして御側にお呼び頂いております」
 彼女はほんの少し頬を染めて俯いた。なるほど、こうした奥ゆかしいところが兄の目に留まったのだろう。昔から兄は女性には事欠かない、それどころか向こうから寄って来られるような人だったから。アルナは兄の性格と合わせて、そのように考えた。
「大将殿も、恋をなさるのですか?」
「…どう思う?」
「人である以上はなさるのでしょう?」
「くくく…自分のことはわからないが、人のことは気になるんだね」
「なっ!?」
「…少将様、どなたか想われる人でも?」
「お、おらん!その様な者…」
「おや、酒が切れたな。悪いけど、また持ってきてくれるかい?」
「はい」
 二人きりに戻ると、アルナは再び壁に貼り付く様にして、漏れ聞こえる隣の声に耳を澄ませた。すると、どの様な成り行きかはわからないが、隣の会話は彼女にとって思わぬ方向に進んでいた。
「…そんなにも拒むとは、さてはお前、誰ぞ契りを交わした女でもあるのか」
「いや、これはきっと、誰ぞ想い女があるんだ。馬鹿正直に操を立てようとそう思ってるんだな?」
「…!?カンリに想い人…?」
「ほう」
「い、いや、そんな女性は一人もいないぞ!本当だ!」
「必死に否定するあたり怪しい」
「白状してしまえ!」
「(……)」
「そ、それは…おらん!た、確かに時折思い出す方は居るが、その方は恋とは違う…」
「方、そうか…さては、どこぞの貴族の姫君だな?」
「あっ!」
「(き、貴族の姫君…!?)」
「そうか貴族の姫君か。だったら確かに難しいかもしれん」
「だが、お前はシンチュラ家の縁に連なる者だ。功績を立てれば、参軍から少将、中将にだってなれる。そうなれば…待てよ、よもやお前…」
「………」
 急激に隣の部屋の空気が冷えていくのを感じ、アルナは内心身構えた。なんだ、一体何が起こっている、カンリが聞こえない様にまずいことを言ったのか?そう考えていると、
「お前まさか、シンチュラ家のアルナ様に…」
「馬鹿!滅多なことを言うんじゃない!」
「(…!!!)」
「……ま、ま、さか、こここ、恋だなんて…」
「(だいぶ露骨だ!いや、流石に私でも分かるくらい露骨な、いや待て、そんな、カンリが…)」
 アルナの顔が熱を帯び、赤くなる。自分の名前に対してカンリが見せた思わせぶりな反応に、もどかしさと、どこか面映い嬉しさとを覚えて、彼女は軽く身をよじった。
 しかし、話はこれでは無論終わらない。
「…いや、カンリ。真面目な話だが…やめておいた方がいいぞ」
「ああ、正直、命懸けになる…」
「というか、此処でのことを仮にシンチュラ家の他の関係者に聞かれたら、大変なことになるやも…」
「………」
 熱い気持ちに冷や水をかけられ、アルナはハッと冷静になった。自分自身のことだからすぐにころっと忘れてしまうが、普通の人々にとって自分の名前は、ある種妖魔と同じくらいに恐ろしいものと言える。何しろ、それをひしと抱いて固く守っているのは、この天下に並ぶ者無い権勢を誇る男なのだから…。
「…兄様」
「…どうしたの?」
「私はやはり…邪魔な、ううん…そんなに恐ろしい、妖魔なのでしょうか…」
「……」
「良いんだよそれでも!!!」
 耳を聾さんばかりの叫び。思わずびくりと体を震わせる。声の主は、カンリだった。
「確かに俺は身分は士族、この地位も相国様の御恩によって得たものだ。だけど、それと同じ位、俺はアルナ様に、相国様に真心を込めてお仕えするんだ!だったら、その中で少しくらい、叶わぬとはいえ、想いを抱いて過ごすくらいのことは、聖者もお許し下さるはずだ!そうだろう!?」
「…なかなか大胆なことを言うじゃないか、彼」 「な、ななな…なんて、ことを…」
 アルナが此処まで感情をあらわにするカンリを見たのは久しぶりだった。酔いが背中を押したのか、その後もカンリは彼女が顔を真っ赤にして悶える様な演説を、二階中に響き渡る様な大声で捲し立て続けた。
「…はぁ、はぁ、どうだ、分かったか、俺のご主人様はな…」
「わ、分かった分かった。わかったからもう休むんだ、な?」
「よーし、わかった、なら…いい…」
 声が途切れると、どさん、と大きな音がして、直後に大きないびきが聞こえてきた。どうやら彼は眠り込んでしまった様だ。
「ほんとしょうがねえやつだな…」
「主賓がこれじゃ、俺たちだけで楽しむってわけにもいかねえし…」
「引けー、引けのお時間でございまーす」
 タイミングを見計らった様に、ちょーん、ちょーんと引けの拍子木が打たれた。これ以上留まるのであれば、追加の料金を支払って宿泊するしかない。
「で、どうすっかなこいつ」
「とりあえず俺たちの分の金は割り勘で…」
「で、どうしようかな少将」
「…行く、行きましょう大将様」
 アルナはばっと立ち上がると、兄を後ろに連れて隣の部屋に入ると、あれこれと話し合っている男達にぺこりと頭を下げた。そして、
「失礼する。そこで伸びている者は、我がシンチュラ家の家人故、私達が連れ帰らせてもらう。我が家の者が迷惑をお掛けした」
「…お詫びに此処は僕たちが持たせて頂きましょう」
「あ、あなたは…ひ、光大将様!?」
「少将殿、足の方を持って」
「はい」
「い、いえいえ!お二人がそのようなことをなさらずとも…」
「構わない。やりたくてやっているのだからな」
 そのまま二人はずっしりと重たいカンリの体を支えつつ、階下の入り口まで運び出し、先に呼んでおいた牛車の中に詰め込んだ。
「(もしかして、今日随分と大きな車を用意させてたけど、これも計算していたのかしら)」
「手間をかけたね、はい、揚代に色をつけたから、あの子にきちんと渡してやってくれ」
「大将殿、御早く!」

 再び車は静々と動き出した。眠り込んでいるカンリを起こさない様に、往路よりもずっとゆったりと。
 一方車内では、カンリは丸まる様にぐっすりと眠り込み、その寝顔をアルナは興味深そうに、あるいは少し恥ずかしそうに見つめていた。
「アルナ」
「は、はい」
「…お前も分かっているだろうが、いかに二人の気持ちが通じ合っていようとも、シンチュラの恋路はあまりにも厳しい。それを忘れちゃいけないよ」
「……はい」
「この国の習慣では、身分相応、と言うことが極めて重視される。アルナ、お前に相応の人とはこの国に五人もいない」
「……」
 アルナ・シンチュラといえば、相国秘蔵の美姫であると同時に、未来の王妃、国母の筆頭候補でもある。否、むしろ「彼女が嫁いだ人物」こそが、次期国王になる、とさえ見做されていた。
「アルナ。それでも、カンリと添い遂げたいと思うかい?」
「…兄様、私は…私は、王妃にも、あるいは他の貴族の細君にも興味は有りません。無論、シンチュラ家に生まれた以上、その勤めを果たすつもりです。ですが…」
「……」
「今だけは、私が子供である今だけは、彼と一緒にいたい…」
 それが、アルナに言える最大限のわがままであった。いかに幼く、自分の感情に振り回される彼女とて、自分がカンリをどう思っているかは既に理解していた。同時に、それが自分には許され得ぬこともまた…。
「(シンチュラに生まれた以上、良くも悪くも政治の道具になることは当たり前だ。父も母も、兄も…みんなそう生きてきた。私だけが、私だけが特別扱いなんて…)」
 でも、カンリとはずっと一緒にいたい。この気持ちが恋人に向ける濁った愛なのか、家族に向ける澄み切った愛なのか、そんなことはどちらでもいい。名前なんて、後からついてくるものなんだから。
 そんな妹の気持ちを、大将は見透かしきっている。だからこそ彼は、妹にとって希望たりうる情報を自分の中に封印した。
「(…実のところ、父上はアルナの輿入れ先に、むしろカンリの方が良いとお考えだ。彼ならば、政治の権を求めることも無く、立場に縛られることも無く、アルナだけを愛してくれるだろう、と…)」
 本人達はあり得ないことと考えていたが、アルナを溺愛する父相国ドルジにとって、彼女をカンリに縁づけるのは現実的な選択肢の一つだった。
 王家であろうと、どこの貴族に嫁がせようとも、アルナが政治の道具にされることは避けられない。ならば、心が真っ直ぐで、名利を抜きにした愛を彼女に向けてくれるであろう男と結婚させた方が遥かに良かろう。仮に家格が釣り合わないとしても、それは入婿なり、名目だけの官位を与えてやれば済むことだ…。
「(だが、試練の無い愛というのは冷めてしまうもの。今しばらくは内密にしておこうか)」
 大将は小さく笑った。いじらしい妹が可愛くて仕方がない、兄の顔だった。

 「…ん、んんー?」
 翌日。カンリは差し込んでくる朝の光で目を覚ました。昨日は何をしていたっけ、そうだ妓楼まで飲みに行って…その後は…
「覚えてないなぁ」
 そうぼやきながら、ごろんと寝返りを打つ。すると、そのすぐ前には、彼に縋る様にして寝息を立てるアルナの姿があった。
「なっ…!」
「…ん…おはよう、カンリ」
 アルナは起き上がって伸びをすると、軽く頭を振って眠気を追い払った。一方、驚きですっかり目を覚ましたカンリは慌てて飛び起きると、どうしてあなたが此処に、と言う趣旨の言葉をもごもごと呟いた。
「…嫌だったのか?」
「え、いや、でも…」
「…嫌でないのならよかろう」
「ですが、相国様がなんとおっしゃるか…」
「ほーん」
 挑戦的な目つきでアルナは向きを変えて、睨め付ける様にカンリを見上げた。
「昨晩、お前がどんなことを言っていたかよく思い出してみよ。ほら」
「え…えと…す、すみません、お酒で酔っていて全く記憶がいだだだ!」
「この大馬鹿者め!」
 彼女は思い切り彼の頬をつねると、べーっと舌を出した。そして、
「まあいい、風呂にでも入れば二日酔いも抜けるだろう。ほら、早く着いてこい」
「え」
「返事は『はい』だ!」
「は、はい!」
 また別の一日が始まる。シンチュラ家の、そしてアルナの、新しい日々は今日此処から始まったのだった。

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