あらゆる架空国家が併存するモザイク世界

ルカイヤ・ジャラールとは、万国会議〈グランド・コングレス〉の政治家、宗教家である。第16代万国会議議長を務めた。
▲社会理事会理事長であった頃のルカイヤ

人物

 奴隷から万国会議議長まで成り上がった稀代の女傑として知られ、政治家であると同時に神秘主義教団の教主として聖俗両面から強大な指導力を発揮した。非常に優秀な人物であったが次第に独裁傾向を強め、クーデタや粛正を行った末に加盟国と対立して解任、処刑された。本来の政治的な立場は放任的な市場経済を重んじる自由主義者であったが、権力掌握以後は自らを聖者化して神権政治の如き政権を作り上げ、自由とは真逆の社会を現出させた。
 若い頃の彼女を知る者によると本来の性格は、どちらかと言えば控えめで、要領は悪いがとにかく勤勉というものである。また万国会議の理事の一人だった頃の同僚らからも、生真面目で丁寧な人物として好印象を抱かれていた。これに対して一般に知られているのは万国会議議長であった時期の性格で、傲慢かつヒステリックな女性として理解されることが多い。教団の人間に対しては尊大で威厳のある態度で接していたが、最終的には支持を失い教団有力者たちからも裏切られている。

経歴

 ルカイヤの出身は明らかにされておらず、記録が辿れるのはウンマ・イスラミーヤの国王の後宮(ハレム)に幼くして入れられた奴隷であったということである。後に国王の寵愛を受けて教育を施され、15歳で当時の万国会議事務局社会理事会理事長であったワイド・ジョンソンに贈られたといわれる。万国会議はあらゆる国のあらゆる文化を尊重する考えから奴隷制度がある国から売られた奴隷の存在を認めているが、実際には世間の目が非常に厳しく、ジョンソンはルカイヤをすぐに解放身分とすると秘書として重用することになった。
 19歳の時、世界は〇〇国の金融危機に端を発する大規模な経済混乱に陥り、その対応に追われたジョンソンが過労死したことで、社会理事会は指揮者が不在となる事態に陥った。ジョンソンはワンマンで秘密主義の人物だったため、理事会の重要な業務に関する様々な情報を副理事以下の人員は把握できていなかったが、秘書として彼の業務を真横で見てきたルカイヤは多くの情報を把握しており、ジョンソンの代理人として理事会を助けた。それどころか、やがて〇〇国の経済再建事業を理事たちへの「助言」という体で主導するようになり、見事成功したことでその才覚を認められることとなる。
 翌年、正式に社会理事会に理事として迎えられたルカイヤは主に経済関係の分野で成果を出し、万国会議が統治地域で流通させている通貨アルマの新平価の決定や二重為替相場制の廃止によって慢性赤字が続いていた事務局の財政再建に貢献する。それに伴って彼女の地位も上昇していき、27歳にしてついに社会理事会の理事長に登りつめた。その一方、彼女はウンマ・イスラミーヤにいたころから触れていたイスラーム神秘主義の思想に万国会議で知った様々な思想、哲学を融合させ、ジャラーリー教団という名の神秘主義教団を作り上げて、社会的地位を活用し信者を増やしていった。
 ルカイヤはその後も順調に出世し、またジャラーリー教団も万国会議統治地域内で勢力を拡大したことで、彼女の存在感は誰も無視できないほどになった。30歳から34歳まで万国会議副議長を勤め上げたルカイヤは次代の議長最有力候補と目されていたが、短期間に強くなりすぎた彼女の力を懸念した議長や一部の理事たちは、別の人物を新議長に選出した。これに失望したルカイヤは、事務局上層や国際平和維持軍にも広がっていた教団勢力を動かしてクーデタを決行。反対派の理事らを粛清してから再選挙を強行し、第16代万国会議議長の座を手に入れた。
 こうして手に入れた万国会議議長の椅子だったが、当初から加盟各国による非難が激しく、就任から1年足らずで2度も不信任決議案が提出された。そのため時には賄賂、時には脅迫と手を変え品を変え各国代表議員に自分の地位を認めさせ、何とか約4年間にわたり立場を維持した。しかし39歳の時、清廉潔白で頑固な人物として知られる△△国代表議員の〇〇の懐柔に失敗し、彼の主導により3度目の不信任決議案が提出され、大多数の議員がこれに賛同したことで可決と辞任を迫られることになった。追い詰められたルカイヤは教団の人員を用いて議場にいた各国代表議員を拘束し、彼らを人質に各国と交渉を試みた。
 交渉は難航し、5人の犠牲者を出した後に決裂した。諸国は人質の解放を諦め、万国会議統治地域への軍事侵攻を準備し始めた。一方ルカイヤは事務局と軍の高官を教団関係者で固めると共に統治地域には戒厳令を敷き、独裁体制を築いて戦争に備えようとした。しかし万国会議高官や教団幹部たちの中には、敗戦を恐れて密かに外国側へ寝返る者が続出し、やがて離反者らの手によって逆に自由を奪われてしまう。その後に行われた裁判で粛正と人質殺害を理由に死刑となり、40歳でその生涯を閉じた。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メンバーのみ編集できます

メンバー募集!