あらゆる架空国家が併存するモザイク世界

 夜。欧州最大の都市であるロンドンのど真ん中でありながら、アルターズゲートの敷地は嘘の様に静まり返っている。外の世界の喧騒は広く深い学園の森に遮られ、生徒達の寝起きする学寮には届いてこないのである。
 一日の予定を全て消化した私は、いつもの様に夕食を共にしてアランと別れ、セント・マーガレット寮に戻ってきた。
「ただいまー」
「あ!お帰りなさいアリス様!」
 私が扉を開けるとベッドからふわふわとした赤毛のリスの様な少女ーエヴァが立ち上がって、温かく私を迎えてくれた。膨らんだ頬は微かに赤みを帯びていて、細められた目も相まって大変に愛らしく見える。
「今日は委員会ですか?」
「そうね。生徒会の代表委員会が長引いちゃって」
「まあ、お疲れ様です」
「学祭実行委員と部活連が揉めたのよ。規定がどうの予算がどうのって。本物の議会さながらの言い争いは頭が痛くなるわ」
「アリス様は何をなさってたんですか?」
「監査委員長が出る幕じゃないから黙ってたわ。貴族院に出席する時とおんなじ」
 ブレザーを脱いで紐ネクタイを外し、楽な格好になると私は大きく伸びをして固まった筋肉をほぐした。丸一年休学した留年生であったとしても、家格の都合で委員長のお鉢が回ってくることがある。アルターズゲートはそういう学校だった。
「ちなみにこの学校の生徒会ってどんなお仕事をするんですか?」
「あら興味があるの?やってみるのも悪くはないけど、あの金髪女が級長にいるわよ」
「げっ、それは嫌です…」
 金髪女、とはドーヴァー公爵家のご令嬢エリザベス・スタッフォードさんのことだ。食堂でのあの一件以来エヴァは酷く彼女に怯える様になり、その名前を聞いただけで顔を曇らせる様になってしまった。
「あの人も実家の力で級長になったんですか?」
「そうかも知れないけど、選挙になったとしてもエリザベスが勝ったでしょうね。ウォールランドの生徒にとって、彼女は神様みたいな人だから」
「そんなに偉いんですか?ドーヴァー公爵って」
「偉いも何も、王家の建国の功臣筆頭よ。セルディック家の初代国王アルフレッド二世、彼に最初に使えた騎士こそがドーヴァー公ジョゼフ・スタッフォード閣下なんだから」
「ひええ」
 無論友達であるエヴァに絡んだり、何かにつけてハイランド貴族に敵意を向けるエリザベスのことを私がよく思う道理は無い。が、それでも私は彼女のことを嫌い切れなかった。良い意味でも悪い意味でも一族の名誉や誇りを大切にし、祖先達の被った屈辱を晴らすべく意気を燃やしている。
 少なくとも領地と財産に満足して、無気力に何もしなくなったリトルホーン侯爵より余程貴族然としてはいまいかとさえ思えてしまう。
「ちなみにドーヴァー公スタッフォード家は、リトルホーン侯エリクソン家より貴族としての歴史は余程長いわよ。私の先祖が伯爵に叙されて家門を開いたのは1399年、一方スタッフォード家の先祖がスタッフォード男爵になったのは1251年。百四十年の開きは貴族の家では途轍もなく大きいの」
「な、なるほど…?」
「それに、本来の序列から言えばハイランド貴族はウォールランド貴族よりもずっと下で、私なんか逆立ちしたって勝てっこないもの。時代が時代なら私は彼女の靴磨きよ」
「じゃあ、アリス様はなんでそんなに堂々として居られるんです?貴族のしきたりなんか関係ない、っていう風にさえ……」
「簡単な話よエヴァ」
 私はニッコリと笑った。不敵で皮肉げな表情を浮かべたつもりで、息を呑む彼女に告げる。
「ハイランド人は自分を負かした相手にしか頭を下げないの。序列も伝統も権威も、力の裏付けが無いのに何になるっていうのかしら?」
「ひっ」
 真っ青な顔で震える彼女の顔を見て、私はほんの少し「やりすぎてしまったか」と思った。そしてすぐに表情を作り直して、
「冗談よ冗談。まあでも、良い機会だからこの国の貴族について詳しく教えてあげるわ。お風呂に入りながらゆっくりと、ね?」
「……はい」

 エヴァを連れて寮の大浴場に入った私は、手早く体を流して早速浴槽に体を沈めた。一日中頑張った後のこの時間はまさしく至福、この為だけに外が暗くなるまで頑張っていると言っても決して過言ではない。
 広い浴槽は私達二人が入っても尚余裕があり、ぐぐっと思い切り足を伸ばすこともできてしまう。
「ふぅ、やっぱりここのお風呂が最高ね。実家のもまあ嫌いじゃないけど、洗練の度合いが段違いよ」
「はえぇ……やっぱりお風呂はいいですねぇ」
 思わず蕩けそうになる体の形を必死で保たせながら、私は中断された話の内容を必死に思い出して組み立てた。
「それで、そうだ。あなたに貴族のことを教えてあげるって言ってたっけ」
「は、はい。そうですアリス様」
「ええと……まず何から話したものかしら。そうだ、この国の貴族に幾つか種類があるってのはわかるわよね?」
「ウォールランド貴族、ハイランド貴族、クヴィネッズ貴族、エリン貴族…この四つですか?」
「まあそんなところね。一応連合王国貴族っていう五種類目の括りがあるけど、これは一旦省かせてもらうわ…で、何でわざわざこんな括りがあるかはわかる?」
「元々アゼルスタンが、四つの違う国だったから…でしたっけ」
「正解。百年戦争で崩壊したウォールランドを、セルディック家のアルフレッド二世が統一して、ついでに余勢を駆って他の国を同君連合の形で傘下に置いたのがアゼルスタンの起源なのよ」
 元来アゼルスタンを構成する四つの地域は、それぞれ全く別の君主を戴く独立国だった。しかし、征服王と渾名されるアルフレッド二世が十六世紀末から十七世紀初頭にかけて統一事業を完成させ、自らの息子であるジェームズ二世を四つの王冠を持つ国王として即位させたのである。
「ただ、事実上一つの国になったとはいえ、依然として国内は四つの国に分かれていて、これらの国はそれぞれが独自の政府と独自の貴族制を保持していたわ。流石にこの状況じゃ、戦争の時も不便極まりないと思ったハイランド出身の国王ジェームズ四世が統一を推し進めて、内戦の末に合同を達成し連合王国を建国した……ってのはさておいて。とにかく、そういう時代の名残として貴族の種類がまだ幾つも残っているのよ。そして、その頂点に立つのがウォールランド貴族ってわけね」
「でも、アリス様は他の貴族の方々よりずっと強い力を持ってるじゃないですか。それでも、あんな人たちに勝てないんですか?」
「勝てる勝てないの話じゃないのよ。こればっかりは伝統ってやつで、私たちもそれで少なからずご飯を食べてる以上文句は言えないのよ」
 リトルホーン侯爵家は年代的に言えば最後に創設されたハイランド貴族の一つだが、統一王ジェームズ四世の即位に功績があった為特別に「筆頭侯爵」の地位を認められている。その権威によって地域社会の尊敬を受けている立場の私には、ウォールランド貴族を頂点とする伝統的な貴族のヒエラルキーに文句を言う資格などない。
「さて、ここまでは前提知識なんだけど、このウォールランド貴族というのは、地位が高い割に『領地がとても少ない』の。極論言ってしまえば、これが私やあなたが彼らの憎悪嫉妬を買ってる理由よ」
 私はお湯をすくって軽く顔にかけると、不思議そうにこちらを見つめるエヴァに向けて話を続ける。
「ドーヴァー公を始めとした、幾つかの名門貴族が百年戦争で所領を失ったことはもう話したわね?」
「ええ、まあ」
「でも残念ながらこんな目に遭ったのは彼らだけじゃなくて、実はその後も沢山のウォールランド貴族が領地を失って零落していったの。なんでかわかるかしら」
「えっとそれは……あっ、もしかしてあの内戦のせいで!」
「そう。ドーヴァーを失ったウォールランドは一時的に崩壊し、セルディック朝が成立するまで苛烈な内戦が続いていたの。そのせいで彼らの多くは領主としては没落し、国王に直属する宮廷貴族にシフトせざるを得なくなったわ」
 結局のところ最後まで強大な領主貴族が残ったハイランドなどとは対照的だ。尤も、その結果としてハイランドは絶対王政を確立したウォールランドに併呑されてしまったので、決して相手のことを笑うことはできない。
「命である領地を失い、一国一城の誇りも奪われ、貧窮に苦しむ彼らに残っていたのは…国王への忠誠と復讐によって失ったものを取り戻す、という狂信的な思いだけだった。だから今も彼らはドーヴァーを取り返そうと心を燃やしてるし、今でも莫大な財産と領地を持つ、かつての宿敵ハイランド貴族への憎悪を滾らせてるの。まあ、後半は殆ど嫉妬みたいなものだけどね」
「……理解できません」
 エヴァは足を抱え込んでぎゅっと体を丸めた。そして哀しげに、絞り出す様な声で私に問いかけてくる。
「そんな小さなメンツで、何百年も相手を恨み続けて、恨んだ相手の国が無くなっても、同じ国民になっても憎み合うなんて。そんなのおかしい、おかしいですよ」
「……悪く思わないで欲しいけれど、貴族というのはそういう生き物なの。庶民のあなたには分からないことがあっても仕方ないわ」
「仕方なくありません!」
 バシャン、と大きな音を立てて彼女が湯の中から立ち上がる。誰もいない大浴場の中に声が大きく反響した。
「貴族だって同じ人間です!私達とどこも違ったところが無いのに、なんでそんなおかしいことが当たり前なんですか!?」
「落ち着きなさい、エヴァ。こればっかりは仕方ないの。何故かって言えば、それこそが私達貴族の『存在理由』に他ならないんだから」
「そんざい、りゆう…?」
「貴族は戦う人、普段人々から税を納められる代わりに、有事の先は真っ先に武器を持って彼らを守るの。貴族にとって『領地』というのは、単なる土地や利益じゃない、自分達についてきてくれる民のことでもあるのよ。それを命懸けで守れない貴族なんか、豚にも劣る畜生だわ」
 こればかりは決して分かり合えないだろう。私の中にも何となくそんな確信が芽生えた。目の前の少女、貴族でも何でもない彼女にとって私達の誇りやメンツなど、確かに下らないものとしか映らないだろう。ましてや、それを理由に何百年も昔のことを恨み続けるなど狂気の沙汰に他ならない。
「(領地を奪った相手も、それを馬鹿にする者も決して許しはしない。それが、貴族が貴族たる所以なのだから)」
 エリザベスの行動原理の中で、このことだけは私にも理解できた。仮に私が同じ目に遭ったとしてー同じ様に領地を奪われて零落し、そのことを他の貴族に会うたびに知らしめられ続けるとしたらどうだろうか。
「(そうなったら、私も同じことをしてしまうでしょうね)…エヴァ。あなたにも譲れないものがある様に、貴族にも譲れないものがあるの。例えどんなに醜悪になろうとも、諦められないものがあるっていうことだけは、よく覚えておいた方がいいわ」
「でも、でも…っ」
「それに」
「……っ」
「今もあなた方の出身地を治めているのは、アゼルスタンにとって恨んでなお余りあるアンジュー家よ。あなたがもしもその国の民であると自負するのなら、良くも悪くも祖先のしたことには向き合わないといけないんじゃなくて?」

 あの後、私達は一言も言葉を交わさずに部屋まで戻った。エヴァはいつもは言ってくれるおやすみを言うこともなく、黙って歯を磨いてさっさとベッドに潜り込んでしまう。その様子を見て、私はほんの少し胸が痛んだ。
「(祖先のしたことに向き合わなきゃいけないのは、私もおんなじなのにね)」
 その家の、その身分の、その国の。人がある集団のアイデンティティを主張するのならば、その集団が過去に何を成したのか、何を誤ったのか。それに向き合って一つ一つ考える義務がある。
 少なくとも私達貴族はそうあるべきと教え込まれてきた。私達は皆単なる個人ではなく、過去と未来を繋ぐ歴史の一部として生きていく宿命を背負っている。何よりもまずは家の為、私達の個性や活躍も全ては家と国との為に……。
「エヴァ、ごめんなさいね。酷いことを言ってしまって」
「……」
 壁の方を向いて眠るエヴァの頬を撫でながら、私は呟いた。
「私、あなたが好きよ。アランと同じくらい大切な友人だと思ってる。だからつい、余計なことを言いたくなっちゃうの……あなたには何もかも分かっていて欲しい、貴族の救い難い愚かさも、私の弱さもみんなみんな……」
「……」
「でも、だからと言ってそれはあなたが不当な扱いを受けていいなんて、そんな理由には決してならないわ。だから、私とアランが絶対にあなたを守るから……それじゃ、おやすみなさい。いい夢をね」
 それだけ言って私も布団に潜る。どこまでも深い夜の底に意識が落ちていく直前、誰かの囁く声が聞こえた気がした。

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