創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

関連ネタ

wikipedia: キリスト教の正戦

キリスト教の見方

正戦のキリスト教理論は、アウグスティヌスの頃に始まる[19]。正戦理論は、いくつかの修正を加えて、戦争が正当化できるかの規準として今日でもキリスト教徒によって使われている。戦争は良くないかもしれないが、戦争は必要で正しいかもしれない。占領軍に侵略された国の場合、正義の回復には戦争が唯一の方法かもしれない[20]。
聖アウグスティヌス

聖アウグスティヌスは、個人はただちに暴力に訴えるべきではないが、神は正当な理由で政府に剣を与えたと主張した(ローマ人への手紙13章4節に基づく)。"Contra Faustum Manichaeum"(マニ教徒ファウストゥス論駁)22巻69–76節で、アウグスティヌスは、政府の一部としてのクリスチャンは、政府によって強制されたときに平和を守り、邪悪を罰することを恥じる必要はないと主張している。アウグスティヌスは、これは個人的で哲学的な立場であると主張した。「What is here required is not a bodily action, but an inward disposition. The sacred seat of virtue is the heart.(ここで要求されているのは、身体的な行動ではなく、内面的な気質である。美徳の神聖な座は心ある。」[21]
支配者は、あなたを助けるために、神から遣わされているのです。しかし、何か悪いことをしていれば、支配者はあなたを罰するでしょうから、当然、恐れなければなりません。そのためにこそ、彼は神から遣わされているのです。 (ローマ人への手紙13章4節)


それでもなお、アウグスティヌスは、暴力によってのみ止められる重大な悪に直面した平和は罪であると主張した。特に合法的な権力によって承認された場合、自分自身または他人の防御が必要になる可能性がある:
They who have waged war in obedience to the divine command, or in conformity with His laws, have represented in their persons the public justice or the wisdom of government, and in this capacity have put to death wicked men; such persons have by no means violated the commandment, "Thou shalt not kill."[22]

神の命令に従って、あるいは神の法に従って戦争を行った彼らは、彼らの人に公の正義または政府の知恵を代表し、この立場で邪悪な人々を殺した。そのような人々は決して「あなたは殺してはならない」という掟に違反したことにはならない。[「神の国」21章]

戦争が正しいものであるために必要な条件を打ち破ることはないが、それでもアウグスティヌスは彼の作品「神の国」の中でまさにそのフレーズそのものを生み出した:
But, say they, the wise man will wage Just Wars. As if he would not all the rather lament the necessity of just wars, if he remembers that he is a man; for if they were not just he would not wage them, and would therefore be delivered from all wars.[22]

しかし、彼らが言うには、賢者は正戦を行うだろう。まるで彼が正戦の必要性を嘆くのではなく、彼が人間であることを覚えていて、戦争が正しくなかったら、彼は戦争を遂行しなかっただろう、そしてそれ故にすべての戦争から救われただろう。[「神の国」7章]

J. Mark Mattoxは、次のように書いている:
In terms of the traditional notion of jus ad bellum (justice of war, that is, the circumstances in which wars can be justly fought), war is a coping mechanism for righteous sovereigns who would ensure that their violent international encounters are minimal, a reflection of the Divine Will to the greatest extent possible, and always justified. In terms of the traditional notion of jus in bello (justice in war, or the moral considerations which ought to constrain the use of violence in war), war is a coping mechanism for righteous combatants who, by divine edict, have no choice but to subject themselves to their political masters and seek to ensure that they execute their war-fighting duty as justly as possible.[23]

"Jus ad bellum"(戦争のための法)(戦争の正義、つまり、戦争が正当に戦うことができる状況)の伝統的概念に関して、戦争は、暴力的な国家間遭遇を最小限に抑え、可能な限り神の意志を反映し、常に正当化されることを保証する、正義の主権者のための対処メカニズムである。
"Jus in bello"(戦争における法)(戦争における正義、または戦争における暴力の使用を制限すべき道徳的配慮)の伝統的概念に関して、戦争は、神の命令によって、彼ら自身を彼らの政治的指導者に服従させ、彼らが自らの戦争、すなわち戦いの義務を可能な限り正しく遂行することを確実にすることを求める選択の余地がない、正義の戦士のための対処メカニズムである。

聖トマス・アクィナス (Thomas Aquinas)

トマス・アクィナスの正戦論は、後の世代の思想家に永続的な影響を及ぼし、正戦に関する中世ヨーロッパの新たなコンセンサスの一部となった[24]。13世紀、アクィナスは平和と戦争について詳細に考察した。アクィナスはドミニコ会士で、平和と戦争に関する聖書の教えを、アリストテレス、プラトン、聖アウグスティヌス、および西洋の規範の一部となっている他の哲学者の概念と組み合わせて考えた。戦争に関するアクィナスの見解は、イタリアの僧侶Gratian(グラティアヌス)が聖書の一節をまとめて編集した本「Decretum Gratiani(グラティアヌス教令集)」に大きく影響した。12世紀に出版された後、"Decretum Gratiani"は、教皇イノセント4世とドミニコ会士であるペナフォートのレイモンドからの解説とともに再出版された。アクィナスの正戦論に対する他の重要な影響は、HalesのAlexanderとSegusioのHenryだった[25]。

"Summa Theologica"(神学大全)で、アクィナスは戦争を行うことは必ずしも罪ではないと主張し、正戦の基準を設定した。Aquinasによれば、次の3つの要件を満たす必要がある:
  • 第1に、戦争は正当な主権者の命令に基づいて行われなければならない。
第2に、攻撃者が犯したいくつかの悪のために、戦争は正当な理由で行われる必要がある。
  • 第3に、戦士は正しい意図を持っていなければならない。すなわち、善の推進と悪の回避である[26]。

アクィナスは、正戦は攻撃的である可能性があり、戦争を回避するために不正を容認すべきではないという結論に達した。それでもなお、アクィナスは、暴力は最後の手段としてのみ行使しなければならないと主張した。戦場では、暴力は必要な範囲でのみ正当化された。兵士は残虐行為を避ける必要があり、正戦は正しい戦士の行動によって制限されていた。アクィナスは、道徳的行為の善意が戦争中の罪のない者の殺害を含む否定的な結果を正当化することができるのは正義の追求だけであると主張した[27]。

サラマンカ学派(School of Salamanca) [出典なし]

サラマンカ学派は、自然法と正戦のトマス主義理解を拡張した。学派は、戦争は人類が苦しむ最悪の悪の一つであると述べた。学派の支持者たちは、戦争は最後の手段であり、それが必要な場合にのみ、さらに大きな悪を防ぐのに必要な場合のみ、遂行すべきであると論じた。強者側にとっても、開戦前の外交的解決は常に望ましい。正戦の例は以下の通り:
  • 自衛戦争で、合理的に成功可能性がある場合
  • 攻撃しようとしている暴君に対する予防戦争
  • 有罪の敵を懲罰する戦争

戦争は、単にその本来の動機に基づいて合法または非合法と判断されるわけではなう。一連の追加要件を厳守する必要がある:
  • 反応は悪に見合ったものである必要がある。 厳密に必要以上の暴力の使用は不当な戦争である。
  • 統治機関が開戦を宣言するが、彼らの決定は、開戦の十分な理由ではない。人々が戦争に反対するなら、それは非合法である。 人々は、不当な戦争を行っている、またはこれから行う政府を解任する権利を持っている。
  • 戦争が始まっても、行動には倫理的限界がある。たとえば、無辜の者を攻撃したり、捕虜を殺してはならない。
  • 戦争を始める前に、対話と交渉のためのすべてのオプションを利用することが義務付けられる。 戦争は最後の手段としてのみ正当である。

この教義の拡大主義的な戦争の下では、略奪戦争、異端者や異教徒の強制改宗戦争、そして栄光のための戦争はすべて本質的に不正である。

第1次世界大戦

第1次世界大戦の初期に、ドイツの神学者グループは、ドイツ政府の行動を正当化しようとするマニフェストを発表した。 英国政府の要請により、カンタベリー大司教Randall Davidsonは、過去に異議を唱えた者を含む他の多くの宗教指導者と協力して、ドイツ人の主張に対する反論を書いた。ドイツとイギリスの両方の神学者は、正戦理論に基づいており、各グループは、それが自分たちの側で行われた戦争に適用されたことを証明しようとしていた[28]。

現代カトリック教義

1992年のカトリック教会のカテキズムに見られるカトリック教会の正戦教義は、段落2309にあり「軍事力による合法的な防衛」のための4つの厳格な条件を上げている[29] [30]。
  • 持続的で重大な脅威が確実に差し迫っていること
  • いかなる平和的解決手段も有効ではないこと
  • 成功する可能性に根拠があること
  • 現代の破壊兵器の威力を考慮して、より大きな災厄をもたらさないこと

"The Compendium of the Social Doctrine of the Church"(教会の社会教説綱要)は正戦教義について段落500-501で述べている[31]:

If this responsibility justifies the possession of sufficient means to exercise this right to defense, States still have the obligation to do everything possible "to ensure that the conditions of peace exist, not only within their own territory but throughout the world". It is important to remember that "it is one thing to wage a war of self-defense; it is quite another to seek to impose domination on another nation. The possession of war potential does not justify the use of force for political or military objectives. Nor does the mere fact that war has unfortunately broken out mean that all is fair between the warring parties".

The Charter of the United Nations intends to preserve future generations from war with a prohibition against force to resolve disputes between States. Like most philosophy, it permits legitimate defense and measures to maintain peace. In every case, the charter requires that self-defense must respect the traditional limits of necessity and proportionality.

Therefore, engaging in a preventive war without clear proof that an attack is imminent cannot fail to raise serious moral and juridical questions. International legitimacy for the use of armed force, on the basis of rigorous assessment and with well-founded motivations, can only be given by the decision of a competent body that identifies specific situations as threats to peace and authorizes an intrusion into the sphere of autonomy usually reserved to a State.

この責任がこの防衛権を行使するための十分な手段の所有を正当化する場合でも、国家は「自国の領土内だけでなく世界中に平和の条件が存在することを保証するために」可能な限りのことを行う義務がある。以下を銘記されたい。「自衛戦争を行うことは一つのことである。他国に支配を課そうとすることはまったく別のことである。戦争遂行能力を保持することは、政治的または軍事的目的のための力の行使を正当化するものではない。また、残念ながら戦争が勃発したという単なる事実は、すべてが戦争当事者間で公平であることを意味するものではない。」

国連憲章は、国家間の紛争を解決するための力の行使を禁止することで、将来の世代を戦争から守ることを意図している。ほとんどの哲学のように、それは合法的な防御と平和を維持するための措置を可能にしている。いずれの場合も、国連憲章は、自衛が伝統的な必要性と比例性の限界を尊重しなければならないことを要求している。

したがって、攻撃が差し迫っているという明確な証拠なしに予防戦争に従事することは、深刻な道徳的および司法上の問題を提起することは避けられない。厳格な評価に基づいて、十分に根拠のある動機を持って、軍隊を使用することの国際的な正当性は、特定の状況を平和への脅威として特定し、自治の領域への侵入を許可する管轄機関の決定によってのみ与えることができ、これは通常は国家である。

教皇ヨハネパウロ2世は、兵士集団への説教で以下のように述べている[32]:
Peace, as taught by Sacred Scripture and the experience of men itself, is more than just the absence of war. And the Christian is aware that on earth a human society that is completely and always peaceful is, unfortunately, an utopia and that the ideologies which present it as easily attainable only nourish vain hopes. The cause of peace will not go forward by denying the possibility and the obligation to defend it.

聖書と人間自身の経験が教えるように、平和は単に戦争がないだけのものではない。地球上で、完全かつ常に平和的な人間社会は、残念ながらユートピアであり、容易に達成できるもおんとして提示されるイデオロギーは、はかない望みを抱かせるだけであることを、キリスト教徒は知っている。平和の大義は、それを守る能力と義務を否定することで前進することはない。
ロシア正教会と正戦

"Basis of the Social Concept of the Russian Orthodox Church"(ロシア正教会の社会的概念の基盤)に基づく戦争と平和のセクションは、戦争に対するロシア正教会の態度を理解するために重要である。この文書は、容認できない攻撃的な戦争と正当化された戦争を区別する基準を提示し、正当化された戦争に参加する真の信者に勇敢な軍事行動の最高の道徳的および神聖な価値をもたらす。さらに、この文書は、ロシア正教会に適格な西方キリスト教で開発された正戦基準を考慮しているため、西方神学における正戦論は、ロシア正教会にも適用可能である[33]。

同じ文書の中で、戦争は人間の堕落以来、人類の歴史を伴ってきたと述べられている。福音書によれば、人類の歴史は戦争を伴い続けるだろう。ロシア正教会は、戦争を悪と認めながら、隣人の安全と踏みにじられた正義の回復が危機に瀕している場合、メンバーが敵対行為に参加することを禁止していない。戦争は必要だが、望ましくないと考えられている。ロシア正教会は、隣人の命と安全を守るために命を捧げた兵士たちに深い敬意を払ってきたとも言われている[34]。


[19] Christians and War: Augustine of Hippo and the "Just War theory" Archived 28 November 2006 at the Wayback Machine
[20] "What is a just war?". BBC. Retrieved 11 May 2020.
[21] Robert L. Holmes. "A Time For War?". ChristianityToday.com. Retrieved 25 April 2015.
[22] "City of God". Archived from the original on 25 July 2013. Retrieved 25 April 2015.
[23] Augustine: Political and Social Philosophy, §3-c "War and Peace – The Just War"
[24] Gregory M. Reichberg (2017). Thomas Aquinas on War and Peace. Cambridge University Press. p. viii. ISBN 9781107019904.
[25] Gregory M. Reichberg (2017). Thomas Aquinas on War and Peace. Cambridge University Press. p. vii. ISBN 9781107019904.
[26] Seth Lazar; Helen Frowe, eds. (2018). The Oxford Handbook of Ethics of War. Oxford University Press. p. 114. ISBN 9780199943418.
[27] Seth Lazar; Helen Frowe, eds. (2018). The Oxford Handbook of Ethics of War. Oxford University Press. p. 115. ISBN 9780199943418.
[28] Mews, Stuart. "Davidson, Randall Thomas, Baron Davidson of Lambeth (1848–1930), Archbishop of Canterbury", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2011.
[29] Catechism of the Catholic Church (2 ed.). Liberia Editrice Vaticana. 2000. ISBN 1574551108. Retrieved 25 April 2015.
[30] "Just-War Theory, Catholic Morality, And The Response To International Terrorism". Retrieved 11 May 2020.
[31] "Compendium of the Social Doctrine of the Church". Retrieved 25 April 2015.
[32] Saunders, William. "The Church's Just War Theory". Catholic Education Resource Center. Retrieved 10 May 2020.
[33] Knorre, Boris; Zygmont, Aleksei (2019). "'Militant Piety in 21st-Century Orthodox Christianity: Return to Classical Traditions or Formation of a New Theology of War?". Religions. 11: 2. doi:10.3390/rel11010002. CC-BY icon.svg Text was copied from this source, which is available under a Creative Commons Attribution 4.0 International License.
[34] "Social Concepts, Chapter VIII". Retrieved 10 May 2020.


聖戦


歴史家Edward Petersによれば、11世紀以前、キリスト教徒は「戦い自体は、懲罰的で精神的に価値のある行為と見なされる可能性がある」聖戦(bellum sacrum)の概念を発展させていなかった[31][32]。9世紀から10世紀にかけて、複数の侵略が発生し、一部の地域では自分たちを守るために独自の軍隊を編成した。これにより、11世紀に、十字軍、「聖戦」の概念、「神の敵」などの用語が徐々に出現した[31][32]。初期のキリスト教では、聖アウグスティヌスの正戦(bellum iustum)の概念は広く受け入れられたが、戦争は好ましい活動とは見なされなかった[31][33]。戦闘で敵を殺した人々の救済は、彼らが戦った原因に関係なく、共通的であった[31]。

十字軍の時代に、神の名の下に戦った十字軍の何人かは、キリストの兵士または騎士であるMilites Christiとして認められた[34]。十字軍は、11世紀の終わりから13世紀にかけて行われた、イスラム教徒の征服者に対する一連の軍事作戦だった。もともと、十字軍の目標は、イスラム教徒からのエルサレムと聖地の奪還と、イスラム教徒のセルジュクの小アジアとヨーロッパへの拡大との戦いを繰り広げ、包囲されていたキリスト教徒ビザンチン帝国への支援だった。その後、十字軍は、アルビジョア十字軍、北方十字軍などの宗教的な理由、またはアラゴン十字軍などの政治的対立のために、他の標的に対して発足した。1095年、クレルモン教会会議で、教皇ウルバヌス2世は、戦争のレベルを、bellum iustum(正戦)からbellum sacrum(聖戦)に引き上げた[35]。


[31] Peters, Edward (1998). "Introduction". The First Crusade: The Chronicle of Fulcher of Chartres and Other Source Materials (2 ed.). Philadelphia, PA: University of Pennsylvania Press. ISBN 0812216563. Archived from the original on 18 August 2021. Retrieved 10 September 2017.
[32] Levine, David. "Conflicts of Ideology in Christian and Muslim Holy War". Binghamton University. Archived from the original on 25 June 2016. Retrieved 2 June 2016.
[33] Abels, Richard. "Timeline for the Crusades and Christian Holy War". US Naval Academy. Archived from the original on 2 June 2016. Retrieved 2 June 2016.
[34] Tyerman, Christopher. The Crusades: A Very Short Introduction. Oxford University Press, London, 2004. PP. 63.
[35] "Christian Jihad: The Crusades and Killing in the Name of Christ". Cbn.com. Archived from the original on 9 July 2008. Retrieved 20 October 2014.





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