――あるところに、一頭の子竜がいました。
――子竜は独りきりでしたが、とても幸せでした。

「うわ・・・、雨凄いな・・・。」
レイがそう言うと、サラが気の無い様子で「んー」と返事をした。
先刻から降りだした雨は止むこともなく、次第に窓を叩く力を強めていく。
レイは額と鼻の頭を窓から離し、後ろで足を組む竜人の方を向いた。
「・・・つらぬきとめぬ何とやら?」
「は?」
同居人の人間の言葉に、サラが本から顔を上げる。
「それ秋の歌でしょ?しかも露の話だし・・・。」
読んでいた本を栞も挟まずに閉じ、首を回しながら視線を泳がせて言う。
「露と雨は歌の世界では別物よ。・・・必ずしも、同じものではないとは言わないけど。」
ふーん、と聞き流すレイ。
「なんか飲む?」
サラが立ち上がって言った。

レイが彼女と出会ったのは大体2年前だ。
ある冬の日に、レイがサラの鞄を置き引きしようとしたのが始まり。
ただならぬ様子で鞄を引っ掴んだ人間の雄の手首を、サラが咄嗟に捕まえた。
そのときにはレイはまだ生身で、サラは寄居局(きいきょく)に在籍していた。
サラが機転を利かせ、共に局から出てきたと言って、自らが受けようとしていた証人保護プログラムにねじ込んでくれた上、長期間の栄養失調と過労で使い物にならなくなっていたレイの体(そのときはもう、まともに真っ直ぐ歩けないほどだった)を全て、人工物に換装するだけの資金まで用意してくれた。
金には困ってなかったとは言っていたが、咄嗟に目の前に現れたぼろきれの様な人間相手にそこまで出来る者はそうは居ない。

「ありがと。」
熱いコーヒーが芳香を漂わせながら目の前に現れる。
レイがサラに対して感謝の言葉を口にするときは、レイ自身の中で何か特別な感情が動く。
コーヒー1つにしてもそれは変わらず、彼がその言葉を口にするたびに何か、満たされた何かを感じることが出来た。
「ねえ、」
サラがコーヒーを離したばかりの口を開く。
「ん?」
「寝る前にコーヒー飲んでも寝られるのって、若いうちだけなんだってね。カフェイン含まれてるから。」
「んじゃ、とりあえず今夜のうちには死なないな。」
2つの笑い声が、窓から漏れた。

――Someday in the rain.

この街の夜は暗い。
埃っぽく、光が入り込みにくい下層部は、特にそれが顕著だ。
ましてや今夜のように豪雨にでも見舞われた日には、朧に霞んだ街灯と、住人が居る家のかすかな明かりが遠くに浮かぶのみ。
のしかかるような空と建物が路地の上を覆い、青白い光の筋となった雨粒が隙間に吸い込まれる。
住人が寝静まったアパートのベランダに這い上がるまでは、暗視ゴーグルが必要だった。
アニバは自らのマズルに合わせて特注させたゴーグルを外し、裸眼を赤外線モードに切り替える。
一瞬、細い雄の竜人の体が窓に映る。
可視光方向にその波長をシフトさせた人型の赤外線が、彼の目に映った。

サラは目を開ける。
レイと違って生身の体だが、機械に頼らない己の勘と、ベランダの雨音のかすかな変化を頼りに、アドレナリンを搾り出す。
伊達に竜人はやっていないし、伊達に寄居局に居たわけでもない。
サラが在籍していたのは寄居局でもかなり深い位置、研究のほぼ全てを管轄できる位置にいた。
だから証人保護プログラムなんて物の対象になったわけだが。
これは間違いなく倹眼(けげん)の仕事だ。
あの時、レイと一緒にカフェテリアのテーブルを挟んで会話した竜人の女を思い出す。
名前は・・・そう、コーデリアだ。
本人はコーデルと呼んで欲しいと言っていたが。
今日は金曜、シフトに変更が無ければ、この近くの警察局本部にいるはずだ。
窓の外の金属音が、サラを2年前から引き戻す。
首に非常時のための「形見」のペンダントを付け、下着の下に入れる。
安全装置を確認したキャリコのマシンガンを、ずしりとホルスターに突っ込む。
かなりまずい状況ではあったが、焦りは無かった。
心残りがあるとすれば、レイに直接真実を伝える機会が永久に失われるであろうことか。
もう、彼女は死を覚悟していた。
「・・・レイ・・・、・・・起きて。」

目を開ける。
意識が脳に染み渡る。
レイの体の中で数少ない生身の部分。
無論その外側は、しっかりとタングステンのコーティングが施されてはいるが。
サラの顔が目の前にある。
いつもの顔。
少し安心する。
窓の外で聞こえた金属音。
サラと2人でベッドの下に入る。
まだ、頭の中は平静だった。
サラは時々、こんなことをするからだ。
そのあとで彼女は笑いながら、これでいざって時に死ななくて済むわね、と言う。
今日は、それが無かった。

アニバが引き金を引く寸前、超人的な速さで獲物がベッドの下に入り込む。
流石だ。
わざわざ俺が出てきた甲斐があったな、と思った。
人差し指を絞り込む。
直後、アサルトライフルの機構が作動し、1発目の弾丸が銃口から射出された。
何の変哲も無い普通の窓ガラスはいとも簡単に砕け、弾丸はベッドに向かう。
2発目が射出されるのと同時に、1発目の7.62mm弾がクッションを抉った。

サラは今日は笑わなかった。
変わりにベッドの上で火花が散る。
綿が弾け、ガラスが大きな音を立てて砕けた。
ベッドの下に敷かれた鉄板は、多少凹みはしたものの、甲高い音と共に降り注ぐ銃弾には耐え切った。
一旦銃撃が止む。
サラはベランダに立つ見知らぬ竜人の脚部に向かって、何の躊躇も無く、約10発の9mmをぶち込んだ。
竜人の脛部が文字通り砕け、中の金属骨格が露出する。
機械だ。
あの竜人、俺と同じだ、と、レイは思った。
くお、と呻きながら、無機質な体液をほとばしらせ、竜人がベランダに倒れこんだ。
サラが先陣を切ってベッドから出る。
レイも続く。
倒れて呻く竜人の脇を通り過ぎる際、彼が落とした華奢なアサルトライフルをベランダの隅に蹴飛ばす。
柵を乗り越える前に、レイがサラに追いつく。
レイはサラの細くて筋肉質な体を抱き抱え、ベランダから飛んだ。
落下しながら己の落下速度を測る。
限界まで加速してから、壁に這わせてある非常用梯子の段を掴んだ。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン・・・
耳障りな金属音を刻みながら、梯子が2本の鉄棒と化す。
剥げた塗装に浮いた錆が見えた。
破壊されていく足場が重力加速度を少しずつ緩和する。
爪の先から火花を散らせながら、安アパートの脇を掠める。
埃臭いアスファルトに足跡を掘りながら着地。
有機素材のサーボが一瞬の過負荷に幽かな悲鳴を上げる。
サラの体をしっかりと抱いたまま、アパートの壁に身を寄せた。
「走って。」
ダイブの興奮冷めやらぬうちに、サラが静かに言う。
「次は、私が後ろ。」
「待ってよ。」
レイが口を挟む。
「あれって特高警察でしょ?何で逃げてんの?」
「今は、言えない。」
ががががががががががががががが
上から銃弾が打ち込まれ、アスファルトが砕ける。
砕けたアスファルトと水しぶきが、2人の体に降り注いだ。
「早く、走って。」
レイは一瞬考え、気迫に気圧される様に走り出す。
「とりあえず警察局の建物まで。」
100mほど離れた建物を指定したサラに向かって、心の中で頷きながら走る。
後ろで銃声が止む。
先ほどの衝撃で破れた靴の裂け目から雨水が入る。
豪雨で煮える水溜りを蹴散らしながら、ずぶ濡れのサラが後に続く。
たどり着く。
中から明かりが漏れる、クソ平和な玄関には、あろう事か鍵が掛かっていた。

アニバは無線を切り、左足を引きずりながらベランダの柵を越えた。
両手と片足を使って地面に着地する。
衝撃緩和のために力を入れすぎたためか、着地と同時に腕の表皮が破れた。
大破した梯子の一部をもぎ取り杖にして、獲物を追う。
眉間に皺が寄った顔を、汚らしい雨が流れる。
さっきの無線で呼んだ武器は1分以内には確実に到着する。
だが、最低でも30秒は掛かるだろう。
警察局本部の前で、獲物がインターフォンを押していた。
武器はベランダに置いてきた。
向こうが何かやらかそうとしているのであれば、先に仕掛けなくてはいけない。
30秒稼がなくてはならない。
アニバは、自分の右足を確認した。
金属製の骨格は、アスファルトに傷を付けながら引きずられている。
力は、入る。
アニバは地面に向かって何発が銃を乱射し、尖った頚骨を砕けたアスファルトの下の地面に突き刺した。

「だから、コーデルを早く出して!」
最近ご無沙汰だった声が内線から漏れ聞こえた。
コーデルはコードレスの子機を取ると、呆れ顔のオペレーターに目配せをして上着を羽織り、1階に向かった。
「変わったわよ・・・。」
階段を下りながら1階のロビーに出る。
「今、貴方たちが見えてるから、もう少し・・・ん?」
玄関の外に見知った2人組を確認し、急ぎ足になった。
その後ろにいる竜人が、地面に向かって銃弾を発射していた。
直後、骨が露出した片足をアスファルトに突き立て、手に持った金属の槍を――
コーデルは走り出し、緊急無線に向かって声を張り上げた。

レイが後ろを振り返ったとき、まず目に入ったのはさっきの竜人だった。
10m程はなれたところで、前のめりにこちらに倒れこもうとしている。
次の瞬間、レイの視界からその竜人の姿は消えた。
インターホンに向かって声を張り上げていたサラの腹が破裂した。
と同時に、レイの体が壁に叩きつけられる。
金属製の錆びた棒が、レイの腹部から生え、サラの体を貫通していた。
噴出すほどではないが、鮮血が彼女の体から溢れ出し、豪雨に混じって足元に流れる。
口から血を吐きながら、彼女の生身の体は悲鳴を上げていた。
レイは棒を掴み、サラに近づく。
口をしきりに動かす。
発声はおろか、呼吸すらままならない。
少しでもサラに近づこうともがくレイの目が、信じられないほど穏やかなサラのそれと重なった。
彼女は、もう完全に覚悟していたし、これからどうなるかも、ある程度予測は付いていた。
これから始まる騒動の顛末は、全てこれが紡いでくれる。
サラは両手を使って、胸からペンダントを取り出した。
鎖を千切る。
力を入れたのがいけなかったのか、傷口からの出血が激しくなる。
サラは痛みは感じなかった。
雨に体温を奪われていく四肢と、反対に物凄い熱を持つ傷口の2つが、彼女の感覚の全てだった。
レイはサラの体を抱きしめた。
何も感じない。
声も出ない。
2人とも。
アニバの両腕を破壊するほどの勢いで投擲されたそれは、2人の肺を綺麗に抉って鳩尾から飛び出していた。
千切った鎖が辺りに散乱する。
サラはレイのポケットに、シンプルな長方形のペンダントトップを滑り込ませ、レイの体を抱いた。
下半身の感覚が一切無い。
体に刺さっているはずの金属ももはや、なんともいえない違和感を主張するのみで、痛みは感じなかった。
サラはレイの耳に、胃袋に残った最後の吐息で言葉を紡いだ。

アスファルトにしこたま打ち付けた鼻先から鼻血を垂らしながら、追いついた仲間に肩を借りて立ち上がる。
アニバが車に乗り込むと直ぐに、ジャガーの横っ腹にサブマシンガンが打ち込まれた。
死にぞこないの人間がこちらに発砲している。
後部座席に積んであるライトマシンガンを出すように指示すると、アニバはシートを倒し、目を閉じた。

レイの手の中のマシンガンは、給弾不良を起こすことなくヘリカルマガジン内の弾を撃ちつくした。
例の竜人は車の中に避難し、車の防弾ガラスには傷1つ付いていなかった。
散らばった薬莢がペンダントのチェーンと混じりあい、水溜りが湯気を上げる。
車の窓が開く。
細長い銃の口が顔を出す。
レイは口を開けた。
出ない声を張り上げる。
サラの体を庇うように、体温が下がった恒温爬虫類の体を両手で覆おうとする。
涙と雨と血液が、レイの作り物の顔を汚す。
ライトマシンガンが火を噴く。
毎分600発とも900発とも言われるその連射性能は、あっという間に与えられた餌を食い尽くす。
止めろと叫ぶレイの両手と辛うじて息が有るサラの全身に、50インチのライフル弾が突き刺さる。
レイの足がもげる。
知ったことか。
サラの体を懸命に抱いた。
腹の金属棒が無ければ、こいつの前に回りこむのに。
盾になってやれるのに。
自分の両手と共に破壊されていく大切な存在を、目の前で失いながら何も出来ないふがいなさ。
止めろ、止めろ、止めろ、止めろ、止めろ。
頼むから止めてくれ。
これ以上サラの体を傷つけないでくれ。
サラの喉をフルメタルジャケットの金属の塊が突き破る。
破損した頚動脈から弱々しく鮮血が迸る。
不意に、銃撃が止む。
力が入らない両腕の、殆ど原形をとどめない爪を、サラの残った衣服に引っ掛けて、腹部に刺さった鉄棒に支えられながら、レイはサイレンを聞いた。
コーデリアが無線に向かって叫んでから、ようやく2分が経過していた。
高級車が急発進する。
大破した両腕で必死に竜人を抱いた姿勢のまま、レイは初めて、他人のために泣いた。
心身の激痛が一気に巨大な情報の塊となって脳を襲う。
雨は、しばらくは降り止みそうに無かった。


目を開ける。
極めて短い周期で明滅する蛍光灯。
――頭が痛い。
妙に熱っぽい。
軽い脱水症状だ。
手足の感覚がおかしい。
一晩、体の下に敷いていたような痺れを感じる。
一応、動くが、力が入らない。
蛍光灯と眼球の間に左掌を突っ込む。
この天井には、見覚えがあった。
確か、警察局の病棟。
前に、サラに連れられて、体を取替えに来たはずだ。
煤けたコンクリートの壁と、埃の溜まった床。
レイが入る前に、大まかには掃除されたようだが、長期間放置された汚れは壁や床に深く浸透し、暗い染みとなって光を吸収していた。
左手を下ろす。
無意識にそれを目で追う。
ベッドの左側のガラステーブルの上に蓋付きのコップ。
その脇に、見覚えのあるペンダントトップ。
手に取る。
いつか見た食器のように細かく彫られた彫刻の溝に泥と血液が入り混じった汚れが付着していた。
不思議と、悲しみは無かった。
ため息をついて起き上がり、コップの蓋を取って水に口を付ける。
少し甘いような、塩辛いような、妙に喉越しが悪い味がした。
扉が軽く叩かれる。
ああ、モニターされてたか、と思った。

――THE GAUNA

「・・・何て言ったら良いか・・・。」
病室の隅にあった丸椅子をベッド脇まで移動させ、そこに遠慮がちに腰掛けた雌の竜人は、手帳を使って無言の自己紹介を済ませると、開口一番、そう言った。
「・・・本当に、・・・ごめんなさい。」
彼女の名前は、手帳を見なくても知っている。
サラと初めて会った日、安っぽいカフェテリアのテーブルの向こうに、年配の偉そうな人間と一緒に座っていた刑事だ。
手帳には階級が警部補となっていたから、この2年の間に昇進したのだろう。
指摘するほどのことでもないが。
確か、彼女の体も作り物だったはずだ。
レイも、前に「換装」するときには世話になった。
「・・・気の毒なこと、させたわ・・・。」
コーデルはそこまで続けた後、黙りこくった。
空調が動作を強める。
ドアが開いて外気が流れ込み、中の人数が増えたため気温が変化したのだろう。
低い唸りが大きくなり、天井に掛かった蜘蛛の空き家が揺れる。
レイはもう一度ベッドの脇のコップを掴み、残っていた透明な液体を喉に流し込んだ。

経口補水塩独特の嫌な後味。
中身の入っていないコップを持ったまま、ベッドの上に手を投げ出す。
相変わらず力も入らず、痺れが残る手足がレイを苛つかせた。
申し訳程度に掃除された病室も、清潔なシーツも、丸椅子に座る竜人も、黄色っぽい光を放つ蛍光灯も、全てが。
「・・・もう、いいですよ。」
レイは今にも爆発しそうな気分で、そう言った。
これが自分の声かと思うような、ひび割れた声が出た。
空調が唸る。
カーテンが揺れ、金具がぶつかって音を立てる。
コーデルはスツールに座ったまま、動けずにいた。
・・・同情はする。
心からだ。
だが、レイがそれを望んでいるとは思えない。
彼の手の中に、コーデルが昨日拾い上げたペンダントトップが包まれていた。
土砂降りの埃臭い雨の中、汚い水溜りに流れ込んだ血液と泥にまみれた、小さな金属。
凄まじい力で投擲された鉄棒に抉られた警察署の壁には、夥しい量の銃弾が突き刺さっていた。
未だに鼻の奥に残っている埃と泥と硝煙と血液の臭気。
「もう、いいです。」
レイがもう一度同じ台詞を吐く。
金属を握る左手に、心なしか力が込められる。
「・・・レイ・・・、あの・・・、」
コーデルは言葉にならない胸中を喉につかえさせながら、レイの手に自分の手を伸ばす。
言葉を紡ぐのを諦め、手を重ねようとする。
手が触れる寸前、レイの手が布団の下にもぐりこんだ。
コーデルは溜息をつき、後悔しながら自らの手を自分の傍らに戻す。
「・・・レイ・・・、」
「・・・・・・出て行ってもらえますか。」
コーデルが言い終わるよりも早く、レイは彼女を拒絶する。
ベッドに体を沈めなおし、コーデルに背を向ける。
コーデルが重々と立ち上がり、ドアに向かっていく気配を感じた。
ドアを開く。
「私には、サラの死にも、貴方に対しても責任がある、と思う。」
ドアに手をかけたままで、コーデルも振り返らずに、細くつぶやく。
「こんな事言う資格無いかもしれない。でも、貴方が泣きたくなったら、言って。」
レイの背後でドアが閉まった。
レイが長く吐き出した息は、途中から震え始めていた。

部屋を出たコーデルは、もう一度手近なベンチに腰を下ろした。
壁を殴りつけたい衝動に駆られる。
抗わなければ壁に大穴が空くが。
室内に比べると幾分冷たい空気が、特殊加工の人工肺に流れ込み、湿らされて排出された。

警察局の者の大半は生身ではない。
無論、活動する際に有る程度有利な要素として働くことはあるが、ネットワークに属さないスタンドアローンな生身の肉体は、有事の際の武器となりうる。
絶対に外部からのクラックを受けないためだ。
そもそもネットワークに接触することが不可能なのだ。
反対に、特高警察に属しているとされている者の中に、生身の者はいない。
背景には、それぞれの機関のバックが関わってくる。
警察局が人民寄りの正規司法機関であるのに対し、特高警察、特別高等警察は軍部寄りの諜報機関だ。

――それにしても何故特高警察が・・・。
コーデルは早くも思考に没頭しかけていた。
それが一番楽な逃避行動であることは承知だ。
人のそれよりも広い眉間にしわを寄せ、同じ疑問を繰り返す。
――何故奴らが?
特高警察は、歴史上にも極まれには登場する。
・・・政府、特に内務庁絡みの「掃除役」として。
未解決失踪事件を改めて洗ってみれば、その行為の傾向は特に顕著に現れる。
その被害者の中で、潜在的高機能保持者――つまり、頭が良い奴――が圧倒的多数を占めるのだ。
ここで注目すべきは、殺害ではなく「失踪」である点であり、高機能ではなく「潜在的」である事だろう。
「潜在的に」知能指数が高く、つまりは身体に何らかの改造を施しており、人間竜人の別は問わず、死体を残さず「失踪」する。
今回はそれが当てはまらない。
サラは確かに「高機能保持者」だ。
しかし、生身の彼女に「潜在的」と付ける意義はない。
彼女はその能力を十分素質として発揮していたし、そもそも彼女は殺害されている。
――つまり、
「今回の件の目的はサラではない・・・?」
彼女の話では、レイも寄居局の行為に何らかの形で関わっている。
詳しいことは彼女の意向で伏せられているようだが。
しかし、レイが狙いだったとする。
彼は保護された時点では完全に生身だ。
特高警察に狙われる条件など満たしていない。
彼の換装は彼とサラの意志によるものだし、それがあったため、国がその費用の一切を負担したのだ。
彼らがそれを言い出さなければ、レイが未だに生身であった可能性は充分ある。
そもそも拉致が目的であったなら、何故その時にそうしなかったのか。
・・・いや、拉致なんて単語を使ってはいけない。
まだ完全に憶測の域だ。
それを意識しておかなくては。

「・・・疲れてるわね・・・。」
膝に肘をつき、手のひらに額を載せる。
昨日から一睡もしていない。
あの後すぐにレイの手術に付き添い、その後局にとんぼ返りして捜査本部設置の事務処理。
眠らぬうちに朝食を摂り、2人1組で行動開始、気づいたらもうすぐ昼になろうとしている。
「全く、生身の人間って何でこう私らの事過大評価するのかしら。」
隣から手渡されたアイスコーヒーを口に含む。
自販機特有の匂い。
「私らだって疲労しない訳じゃ無いっての。・・・ん?」
手の中の紙コップに視線を落とす。
「・・・疲れてますね、相変わらず。」
隣を見ると、無精髭の若い人間が、やはり疲れた笑顔で頭を掻いていた。
「あぁ、ジュール、聞いてたの。」
入局当時から比較的親しかった後輩、とでも言うべきか。
正確には、入局時期が異なるため語弊があるのだろうが。
約10年の間に、可愛い後輩がそれなりに有能な部下に化けていた。
部下と言うよりも使いっぱしりに近い扱いだが、ジュールはそれでも構わないと見える。
コーデルは手元のコーヒーを示し、礼を言った。
「いえいえ・・・、こちらこそ、辛いこと押しつけてすいませんね・・・。」
「眠いのはいつもだし、彼のことは当然よ。私にも責任あるし。」
ジュールの言葉に皮肉混じりで答える。
「じゃあ、ちょっとは目の覚める話、しましょうか。」
ジュールが鞄を目の前まで持ち上げる。
「お昼、奢りますから一緒にどうですか?」
コーデルの目の前でその鞄を揺らした。
「・・・話の内容によっちゃ、私が奢るわ。」
コーデルも立ち上がった。

院内食堂は、院内という割には開放的な雰囲気で、高い天井に天窓が開けられた造りになっている。
早朝から利用可能なので、普段は他の食堂が開いていない時間にしか来ないのだ。
朝ではないとはいえ、まだ11時を回ったばかりの店内には、それほど人は多くない。
気の早い老人達が、窓際に固まって呆けたような話をしながらもしゃもしゃと何かを咀嚼していた。
「じゃ、2人分、金額覚えといて下さい。」
ジュールが食券を買いながら笑った。
カウンターから返された片割れの紙片を手に、窓から一番遠い席に腰掛ける。
「で、話ってのは?場合によっちゃ顔でも洗ってくるけど。」
「特高警察って名前は知ってますよね?」
ジュールはコーデルに返事はせず、小声で切り出した。
「・・・ええ、それが?」
コーデルも自身の言葉の続きよりも、食いつくことを選ぶ。
「じゃあ、検眼って名称は?」
ジュールはまるで隠されていたおもちゃを見つけた子供のような顔でコーデルに応える。
「・・・知らないわ。聞いた事ない。」
コーデルはもはや眠気を感じてはいなかった。
「特高警察の別名、と言うと聞こえは良いですよね。」
コーデルはジュールの言葉を聞きながらお冷やのグラスを傾ける。
「でも、違うんです。どちらかと言うと、特高警察、と言う名称の方が実体を捉えていません。」
「・・・それで?」
コーデルが続きを促す。
「で、その検眼、寄居局と繋がってるんです。とまぁ、これだけだったら過去にも囁かれていた事ですよね。」
特高警察と寄居局はともに、内務庁の直属機関だ。
そこまでなら頷ける。
「ところがね、先輩。」
ジュールはそう続けて、鞄の資料を取り出し、コーデルに渡した。
「・・・収支報告書?」
一瞬斜めに目を通したコーデルは、率直な心中を述べた。
それは、特高警察名義の4年前の年度の収支報告書だった。
「はい。次にこれ、入手に苦労しましたが、寄居局の収支報告、これのマーキングしてあるところです。」
特高警察のそれよりも長いリスト。
その所々に、蛍光ペンでマーキングが施されていた。
「・・・ん?」
見覚えのある項目。
特高警察のリストに目を戻す。
「・・・同じ日に同じ物買ってるわね。」
コーデルの指摘は正しかった。
寄居局のリストのマーキングされた項目と、特高警察の項目は、10割符合していた。
寄居局の収支報告書が非公開になるはずである。
「それだけじゃありませんよ。」
ジュールは鞄から、更に数枚の紙切れを取り出す。
「・・・なにこれ、寄居局のリスト、他の局のリストの寄せ集めじゃない。」
「でも、特高警察局以外の局の実在は、確認できていません。」
「・・・つまり、寄居局以外はダミーって事?」
「はい。」
「何でそんな見え透いた事・・・まさか、」
寄居局の業務内容や実体から、視線を逸らすため・・・?
そしてもう1つ。
「それだけ買ったら、予算幾ら要るんでしょうね、先輩?」
寄居局のその年度の予算は、他局のおよそ3倍に匹敵していた。
「・・・今のカツ丼と、今日の夕飯、奢るわ。」
「・・・助かります。」
もぎられた食券とカツ丼が交換された。


1時間後、コーデルは再び病室の前に立った。
・・・扉が重い。
いや、体か。
ジュールには寄居局のことを聞いて来るように言われているのだが・・・。
「普通の会話だって出来やしないのに、・・・。」
コーデルはそこまで呟いてから次の言葉を飲み込んだ。
出来る出来ないではなく、やれ、の世界だ。
たとえ人間の後輩の「頼み」であってもそれは変わらない。
ここまで来てこのような思考をしなければいけないあたり、まだ彼女は至らないのだろう。
キャリアコースに沿うように敷かれたレールの上を、脇目も振らずに全力疾走。
それが彼女の生き方であったし、たとえ行き先が揺ぎ無いものになっていても、レールが突然無くなっても、そのポリシーは貫き通す自信もある。
が、それゆえ彼女は幼かった。
生まれてこの方、恋愛なんてものは経験したことは無かったし、そもそもこの竜人は、そこまで思考を回す余裕がある生き方をしてこなかった。
彼女が、自分の後輩の自分に対する感情にここまで鈍感で居られたのもそのところが大きいかもしれない。
コーデルはそんなこと知る由も無いようだが。
「・・・顔洗ってこよう・・・。」
昼食前に覚醒させたはずの脳が、早くもSOSを発信していた。

同時刻、寄居局地下主要実験棟、総管制室
キールは煙草が好きではない。
ここに勤め始めた直後は、閉塞的な地下空間の中で飛び回る副流煙が我慢できなくなりそうになった。
現在、寄居局を総括する立場になってもそれは変化しない。
キールが出世すると同時に、寄居局の設備も大掛かりになってきた。
今まで外部一般発電所からの供給に頼ってきた電力を、水素電池を用いた自家発電に切り替えたことなどはその際たるものだろう。
そして、キールにとっては喜ばしいことに、一定よりも下のフロアでの喫煙は、発電施設の存在により認められなくなった。
キールはデスク脇のボールペンを手に取る。
最近は研究が軌道に乗ってきたためか、暇なことが多い。
先日までは暴走騒ぎも日常茶飯事だったのだが。
彼は手に取ったボールペンを、近くのメモ用紙に突き立てた。
押さえた指の隙間からペンが飛び出す。
・・・・・・穴。
物の中を反対側まで突き抜けて出来た空間。
初期のデジタル記憶媒体の中に、紙に空けた穴の羅列がある。
金属加工工場等で実用化され始めたばかりの全自動数値制御工作機械。
そのプログラムの記憶・記述媒体は、紙で出来たリボンだった。
現在でも、基本的な構造は変わっていない。
電圧のhighとlow。
数字の1と0。
磁気の方向。
光の反射の強弱。
そして、電子の有無。
人間の脳の完全な人工物化は、現在の技術では困難とされている。
しかし、脳に存在する「経験」や「感情」、「個性」と言った、個人固有の神経細胞のホルモン分泌反応等は反射的なものであり、その反発係数とそれを処理・記憶させるのに足る領域さえ用意できれば完全にデータ化することは可能となる。
光学ディスクの中に、人間の「魂」を封入することが出来るようになるわけだ。
それは完全にデータであるから、単純に考えて何らかのハードウェアとOSさえ与えてやれば、「魂」を持った存在となる。
「経験」や「個性」は、記憶に依るところがほぼ全てを占めているため、「記憶領域(海馬)拡張」の技術を応用すれば、それを生身の脳に再インストールすることが「理論上」可能、と言える。
無論、それこそ机上の空論であり、仮に技術があったとしても、実際に行おうとすれば国家レベルの権力と後ろ盾が必要になってくるのだろうが。
そして、人工物の扱いに手馴れた脳。
キールは紙を貫通したままのペンを机に置き、デスクから立ち上がる。
強化ガラスの向こう、部屋の下には、巨大な、それはそれは巨大な、暗い、深い縦穴。
その中心に柱のように管制塔が建てられている。
そして、最下層には、
「・・・そろそろ、動き始める時期か・・・。」
キールはそれだけ呟き、思い体を上げて部屋から出た。

――hoLe

排水口に流れ込んでいく水を最後まで見送ってから、コーデルは三度(みたび)病室に向かった。
一般用化粧室の脇で入院患者と思しきグループが競馬談義に花を咲かせていた。
マーキングされた新聞が不快だ。
どうしても、これからレイに寄居局のことについて質問するような気分にはなれなかった。
足と瞼が重々しく地面に向かって引っ張られる。
周りの空気と頭の中に、もやが掛かったような気分だ。
不意に、コーデルはこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
学生時代から使っているワンルームマンションにでも逃げ帰ってしまいたい。
服を着替えることもせず、汚い体で、いつものベッドで泥のように眠りたい。
「・・・・・・ふー・・・。」
息をつき、つかの間の逃避から舞い戻る。
人間のそれよりも長い首を回すと、骨が砕けるような音がした気がした。
無論、機械の体はそのような音を立てることはないが。
コーデルはそろそろ充血し始めたであろう、乾いた瞼を閉じた。
そのまま肩に力を込め、扉を開けた。

――数十分前。
コーデルが出て行ってもレイはドアに背を向けたまま、プラスチック製のコップがリノリウムの床を転がる音を聞いた。
コーデルが出て行った直後に壁に叩きつけたそれは、それ自体の軽い質量と、まだ戻りきらないレイの体のせいで破損することも無く、ベッド近くまで戻ってきた。
「畜生・・・。」
レイは声に出して呟く。
単なる悪態とは違う。
それは、自分を置いていってしまったサラに対してであり、思うように動かない体に対してでもあり、世界中の全ての事象に毒づきたい気分だった。
彼はあまり物に当たるようなことはしない。
それどころか、どちらかと言うと穏やかと言える部類の性格であり、感情を押さえつけて安定を図る類の人格の持ち主だ。
だから、今の心理状態は彼にとっては他人がそうである以上に異常であり、彼自身、それに苛まれる事による精神的疲労はかなりのものがあった。
そして、それを少しでも平常に戻そうとする彼の精神は、箍(たが)を外したい涙腺との間に激しい摩擦を生み、レイを混乱させた。
膝を抱え、肩を縮める。
呼吸が速い。
胸の中で何か得体の知れない不快な塊が肥大化して行くのを感じる。
それが人工物の肺を圧迫し、呼吸に支障が出ているような気がする。
それを押さえつける。
胸の上で両腕を交差させ、懸命に力を入れる。
呻く。
押し寄せる何かを飲み込む。
さっきの経口保水塩などとは比べ物にならないような喉越しの悪さ。
アレもひどかったけれど。
「・・・っ!・・・・・・。」
目を覚ました。
目を覚ますまで、自分が眠っていたことに気づかなかった。
乱れたままの呼吸で、脳を眠りの奥から引きずり出す。
肩を上下に動かすと、それに体が引っ張られるような気がした。
ひどく汗をかいており、シーツが湿って皺だらけになっていた。
先ほどのコップはまだベッドの下に転がっており、空調の送風口では蜘蛛の巣が揺れていた。
喉が渇いた。
あの食塩水ではない、何か別の、まともな飲み物が欲しい。
相変わらず胸中は何かで埋め尽くされて破裂しそうだったし、頭は熱を持ってぼんやりしている。
何でもいいから、・・・インスタントコーヒー以外なら何でもいいからとにかく何か飲みたい。
ベッドに体を起こし、両足を床に下ろす。
裸足で地面を踏むと、膝下辺りまでは感覚が戻っていることに気づいた。
テーブルに手を突き、腰と腹に力を込める。
中途半端な体勢ではあるが、何とか両手を離す。
一歩歩く。
なんとなく勘が戻ってくる。
二歩目。
さっきよりはしっかりと。
三歩目。
膝に力を入れなおす。
四歩目を出そうとしたとき、扉が突然開く。
さっきの刑事だ、・・・もう刑事ではないが。
コーデルの肩には力が入っていた上、当然ベッドの上で眠っていると思っていたレイと目が合って、コーデルは一瞬面食らった。
レイは一瞬で体のバランスを失い、膝から力が抜ける。
コーデルは一瞬で元の世界に戻ってきて、咄嗟にレイの体を抱えに行く。
「あ・・・」
思わず漏れた声が、衣擦れの音にかき消される。
一瞬、時間が止まった。
「・・・・・・・・・何やってるの。」
レイの腕を掴んだまま、コーデルが口を開いた。。
レイがコーデルの腕を振りほどこうともがく。
コーデルとしてはこんな状況は日常茶飯事だ。
そう簡単には離さない。
そのまま腕を引っ張って床を引きずり、ベッドに叩きつけるように突き飛ばした。
光沢のある床を無骨なパイプベッドが滑り、甲高い音が響いて尾を引き、消えた。
レイはベッドに背中を預けたまま、天井を見上げて震える声で息をする。
「・・・サラ・・・、嫌だよ・・・。」
天井を見上げた。
レイの腕が、コーデルから開放された。
そのまま床に転がる。
ベッドに背中を預けたまま、両手を投げ出したレイは、
「ちょっとヤダ・・・、泣かないでよ・・・。」
コーデルが目線を落とそうとしゃがみこんだ。
レイは投げ出していた足を抱える。
「もう独りは嫌だ・・・、もう・・・、嫌・・・。」
彼の言葉は途中で途切れる。
コーデルがレイを抱きしめた。
「・・・なんでこうなったか、見当も付かないわけではない・・・のね?」
レイが小さく頷く。
「・・・大丈夫・・・、大丈夫だから・・・。」
コーデルの手が、レイの頭に触れた。
「さっき言ったこと、覚えてる?」
レイの中で、何かが外れた。

しゃくり上げ続けるレイの声も少しずつ小さくなり、やがて小さな寝息へと変化していく。
さて、と声を漏らしながら、レイの体をベッドに横たえる。
コーデルはレイの頭を撫で、溜息をついた。
安心しきった様子のレイの寝顔。
マズルに手を当て、目を閉じる。
一瞬の暗闇が心地よい。
目を開けると、―恐らく自分よりも何倍も―疲労し、磨り減ったであろう精神の形を保つための外殻が、久々の安心を貪っていた。
それも、じきに取り上げないといけなくなる。
意図せずだろうが、この子の作った敵はあまりにも巨大だ。
果たして、
「私はどうしたいのかしらね・・・。」
助けたいのか、・・・ただ単に、終わらせたいのか。
皮肉交じりの台詞を吐く。
「・・・ホント、汚い真似だわ。」

昨夜の事件から、およそ15時間が経過しようとしていた。


朝起きるのが遅くなった。
前までは日が昇る頃に起床するような生活をしていたはずなのだが。
コーデルの帰宅を待ってからの就寝を習慣付けたせいで、睡眠時間が不規則になったことが原因だろう。
レイは今まででは考えられない時間の朝食を摂りながら、サラの遺品となってしまったペンダントを揺らす。
サラはもう出掛けたのだろう、狭い部屋にはレイ以外の住人の姿はみとめられない。
トースターから指先で引っ張り出した食パンを、さっき洗ったばかりの湿った皿に投げ出す。
ヤカンの笛が遠慮がちな声で鳴いた。

――N00K

1週間と3日前。
「好きなところ選んで。」
コーデルがレイのベッドの上に間取りと写真を広げた。
家賃こそ高いが魅力的、と言えるような賃貸住宅の物件を集めて持ってきたようだ。
「えーと、どれでもいいの?」
「ええ、全部警察局の委託業者が管理してる所だから、問題無いわ。」
新しい隠れ家を用意したからそっちに行く、と言う連絡を受けたのが30分前。
部屋のドアが開いたのが10分前だ。
「お金とかどこから出てるのさ?」
「その心配はしなくていい。こっちはこの件に関しては上も血眼だからな。」
コーデルと一緒にやってきた人間、―確かジュールとか―が口を挟んだ。
「何しろ君らの件には、保護段階から最高峰の労力を割いてるからね。」
妙に色の薄い瞳孔が、一瞬小さくなってすぐに元に戻る。
「それが破られたんだ。相手は特高警察とはいえ、保護すべき証人の命を奪われてる。」
レイは、はあ・・・と曖昧な返事をして、手元の資料に目を戻した。
「意地でも貴方は守りたいから、ここまで手の込んだことまでさせて、最終決定を私たちの範疇外から下させてるわけよ。」
コーデルがレイの隣、ベッドの端に腰を下ろして、肩の脇からレイの頭と資料の間にマズルを突っ込む。
「範疇外?」
「局の方のデータには、もう全て仕舞ってある。全部貴方の住居としてね。」
「・・・は?」
「因みに、全て建設当初から局が所有してる部屋だから、少なくとも契約関係の情報で貴方のことが外部に知られることは無いわ。」
コーデルが書類の隅に記載されている番号を指差した。
書類はレイの膝の上に広げられていたから、レイの腕とコーデルの腕が触れる。
一瞬のことだけど。
「で、これがID。物件と新しい戸籍はセットになってるから、気に入ったところを貴方が選べば自動的に、新しい戸籍も決定するってわけ。・・・まあ、戸籍によってはちょっと年齢が前後するけど、貴方の場合あまり気にする必要も無いでしょう。」
・・・ああ、これが警察局の本気ね。
「・・・じゃあ、これで。」
レイはコーデルの手に押さえられた山の中から、一番番号の若いIDの振られたものを探して指差した。
なかなか広いし、確か近くに飲食街があったはずだ。
家賃を払う必要が無いのなら、まあ、一番気に入ったところで問題ないんだろうな。
全部局が用意したところだし。
「ジュール、これ。」
コーデルがその書類のIDの二次元コード部分のみを破り、ジュールに手渡す。
ジュールはそれを財布の内ポケットに突っ込み、コーデルは残りの書類を全て白い封筒に戻す。
「あ、待って。」
出て行こうとしたジュールが、コーデルに呼び止められて歩みを止める。
「これ、上からの許可は取ってあるけど、所長の耳には入れないで。あいつ、どうせ分かったところで何も権限与えられないから癇癪起こすわよ。」
「・・・了解です。」
ジュールが片手の甲を見せてから扉から出た。
部屋には、レイとコーデルと書類の入った封筒が残された。
「後で封筒ごと纏めてシュレッダー入れとくから、心配しないで。」
封筒をアタッシュケースに突っ込むと鍵を掛け、代わりにそこからキーホルダーとチェーンの付いたどこかの家の鍵を・・・・・・
「・・・なんでどこを選ぶか分かってたんだよ。」
「あら、貴方が選んだところに住まわせるなんて言ってないけど?」

ヤカンの火を止める。
余韻を残しながら、音が消える。
レイは一人、六畳一間の一室で溜息をついた。
「で、同居か。」
確かに、ここは局の管轄外だし、コーデルの話が本当なら、彼女が入局する前に彼女の名前で契約した場所だ。
それに、彼女が今現在住んでいる場所だし、「2人が暮らすのは少々非現実的」だ。
ああ、全くもってそのとおりだ。
コーデルと共用の布団を畳み、部屋の隅に押しやる。
連絡用の無線機の周波数を今日の値に合わせ、電源が切れていることを確認する。
ヤカンを片手に、一人分のドリップコーヒーをカップに落とす。
PCの電源を入れ、湯気の立つコーヒーが冷めてPCが立ち上がるのを待つ。
両手をもてあますうちに、先ほど脇に追いやったはずのペンダントトップに手が伸びた。
一人暮らしのテーブルの隅に溜まった埃がトップと一緒に手の中に納まる。
後で掃除のひとつでもしておこう、と思った。
埃をシャツの裾で拭う。
ひときわ大きな綿埃をつまんでゴミ箱に突っ込もうとすると、綿が解けてトップに巻きついた。
指先でつまんでそれを・・・
「・・・ん?」
埃が一部、トップの表面の金属を突き抜けていた。
それは表面のコーティングの下に一旦潜った後、反対側の面から顔を出す、長くて細い弦のようだ。
「何だこれ。」
そして、そのコーティングには、細く、一直線に割れ目が出現していた。
レイは左手でトップを持ち、右手でその割れ目よりも先をつまみ、引いた。
ぽん、と小気味良い音を立て、外れたキャップの中から、見慣れたコネクタが出現していた。
「・・・これって・・・、」
その形状は紛れも無く、USBメモリそのものであった。
一瞬後、レイの手は無意識に無線機に伸びていた。

「とりあえず、ノートは完全にスタンドアローンになってるから、心置きなくぶっ壊せるわよ。」
出勤45分後に局からとんぼ返りしてきたコーデルは、片手に微妙にレトロなノートPCを抱えていた。
「いまどきコア2つって・・・。」
「とりあえずデータのヘッダ確認だけならこれでも充分でしょ?」
貸して、と言ってレイの手からメモリを受け取る。
「ほら出た。」
中のデータが参照され、名称とディレクトリが表示される。
「ぱっと見は普通の、一般的なUSBメモリだね・・・。」
レイが独り言のように言葉を零す。
「まあ、外側(がわた)の装飾以外はね・・・。何これ・・・。」
「何か、食器みたいだよね。ほら、フランス料理で、魚介類食べるときに使う奴。」
ああ、そうか、と言いながら、コーデルが中のデータを確認する。
「容量も一般的に市販されているものとほぼ同じ・・・、でも・・・、変ね・・・。」
「何で?」
「明らかに、入ってるものが少なすぎる。多分隠しファイルだと思うけど、パスワードが掛かってるみたいね。心当たりある?」
コーデルの問いかけに、レイは無言で首を振って応える。
「しかも・・・、」
コーデルが続ける。
「唯一、プロテクトが無くて見えてるファイルが動画ファイルなのよね・・・。」
「とりあえず、それから確認してみる?」
レイが口を挟む。
「・・・あれ?」
「どうしたの?」
「いや、珍しい形式だなと思って。」
レイが動画ファイルの拡張子を指差す。
コーデルもそれを覗き込み、14.5インチのモニタが途端に狭苦しくなった。
「ホントだ・・・。aviなんて、最近見ない形式ね。」
「それこそ、このマシンが現役の頃には普通に使われてたっぽいけど・・・。」
レイの手がレトロノートモニタの額縁を叩く。
「詳しいのね・・・、私は職業柄知ってるんだろうけど、貴方の年で見たことある人、そうは居ないわよ。」
「ああ、写真とか好きでさ、動画やら画像やらの形式は大抵押さえてる。」
そういえば、露の写真も撮りに行きたかった、と、一瞬あの夜のことがレイの頭を過(よ)ぎる。
「・・・容量、20MB(メガ)無いわね・・・、こんな軽いファイル見たの久しぶり・・・。」
「とりあえず、再生してみて。スキャンは出来てるでしょ?」
うん、とコーデルが頷き、パッドをタップした。

――暗い画面。
ブロックノイズやらトラッキングノイズが酷い。
画面を引っ掻いたような傷が途切れ途切れに現れては消える。
おまけに肝心の映像は暗い。
ただでさえ見づらい逆光の環境の下、カメラ付近の照明を殆どつけていないようだ。
せめて後ろを向け、と、レイは思った。
「まず――、」
画面の中の竜人―サラだ、声とシルエットで確信できる―が声を発した。
音声の割れも酷い。
ファイルの情報を確認すると、音声のビットレートは16kbpsだった。
そりゃ割れるわ。
「これが再生されているってことは、貴方に多大な迷惑をかけた後、ってことになる。」
どこかで聞いたような、ありがちな台詞。
サラは淡々と、静かに言葉を紡いでいく。
「ごめんなさい。出来れば、貴方は巻き込みたくなかったんだけど・・・。」
ブロックノイズよりも、画面上を流れる傷が気になる。
「とにかく、」
画面の中のサラが声の調子を変える。
「これがひょっとしたら、貴方が私を見る最後の機会になるかもしれないわ。・・・酷い画質で悪いわね。」
表情は読み取れないが、彼女が今、とても大切なことを言っている気がした。
「まあ、長い目で見れば、きっとこの方が安全よ。」
そりゃ、デジタルに落としちまえば問題なく・・・、ん・・・?
「さて、と。」
待てよ・・・?
「とりあえずこれで、もう本当にお別れになっちゃうかもね。」
何でだ・・・?
「食器は渡したはずよね、これを見てるって事は。」
何で ト ラ ッ キ ン グ ノ イ ズ なんだ?
「後は、分かるわね?」
分からない、待って。
「・・・これ以上は言えないわね、保存場所考えても。」
待てって・・・。
「じゃ。・・・頑張ってね。・・・そろそろ、『貴方』が起きるわ・・・。」
サラは席を立ち、始まったときと同じように、唐突に、映像は終わった。

「・・・待って・・・。」
レイの口から漏れた声を、コーデルは聞き逃さなかったようだが、その事実を口まで素通りさせるほど、器の浅い存在でもないようだ。
「・・・気になることは2つね・・・。」
レイの声を聞き流し、コーデルは今現在の問題に対峙する。
「1つは、・・・分かる?」
「ノイズ・・・?」
「そう。デジタルデバイスで録画・保存を行ったのなら、ブロックノイズはあっても、トラッキングノイズはありえない・・・。」
「ってことは・・・、」
「マスターテープがある・・・、しかも、恐らくVHSでね。ブロックノイズは、aviへのエンコード時に発生した・・・。」
「・・・2つめはそれ?」
レイの問いかけに、コーデルが床に置いたノートPCから顔を上げ、反対側の壁にもたれてレイの顔を見た。
・・・少なくとも喜ばしいことが起こった時の顔ではない。
「VHSが保存してあるとすれば、恐らく貴方たちの行動範囲内、そして、多分そこはもう、特高警察が押さえてる・・・。」
「・・・マズいよね。」
「・・・凄く、ね。」
悪いけど、これ、置いてく、と言いながら、コーデルが上着を羽織る。
レイはPC周辺を眺めて一瞬げんなりしてから、コーデルを見送った。

そろそろ梅雨も開けようとする。
玄関を開けると、今年の降り収めとばかりに土砂降りの雨が降り注いでいた。
ノートPCを持ち込むのに使ったバッグを頭に載せ、コーデルは車に乗り込んだ。

同時刻、コーデルのそれよりも若干ランクでは勝るアパート
20日前まで、レイとサラが住んでいた場所。
埃っぽい棚の奥から、ケースにも入れられず、埃にまみれたVHSテープが発見された。
発見したのは、この部屋の窓ガラスを粉砕したのと同一人物だったようだ。
湿気と埃による劣化でノイズが酷いが、視聴は可能なそのビデオテープが特高警察局に回収されたことが警察局の知るところになるのは、それから13時間後のことである。


3日後。
相変わらず雨は止まない。
まだ夕方だと言うのに、空は暗く、低く、日の光は青白い。
レイは相変わらずのコーヒーを口に運びながら、もう幾度となく再生した動画を再度クリックした。
コーデルは今日も朝から出掛けており、暗い部屋には彼一人だった。
2日前――、つまり特高にVHSを盗られた翌日、コーデルは自分が居ないときに部屋の電気を使うことを一切禁止した。
湯はコーデルが出かける前に魔法瓶に入れ、それを使用することにしたし、PCはモバイル仕様の物を充電して使えといわれた。
少しは時間稼ぎになるだろう、との事だが。
外の雨はひどい降りようだが、正直レイにはあまり関係が無い。
ここ数日間引きこもっていたせいで、比喩ではなく、金属製の骨格が錆び付きそうだ。
背もたれに思い切り体を押し付けるようにしてモニタから距離をとり、手に持ったコーヒーカップの縁を軽く噛む。
鼻息でカップの中の湯気が押し流され、視界の端に流れ、消えた。
「・・・もう3日か・・・。」
特高警察に件のVHSテープを掠め取られてから今日で3日。
幸いと言うべきか、この件に関しての音沙汰は一切無い。
特高警察にしては妙に遅いな・・・、と言う思考が一瞬レイの頭を掠める。
普通に考えるなら、VHSのほうを彼らが入手したところで、何も有益な情報を得られなかった、となるべきだろう。
しかし、あのムービーはもう俺たちが見たし・・・。
「・・・さて、どうしたものか・・・。」
映像じゃないのか・・・?
何かこのファイルに偽装して隠してあって、PCを利用しないと見れないようになってるとか・・・。
レイはとりあえず、ファイルをそのまま解析ソフトに放り込み、ファイル情報を参照する。
「・・・あれ・・・?」
瞬間的に、情報に違和感を覚える。
確かこの動画、滅茶苦茶画質悪かったよな・・・。
再生が終わったムービーファイルのシークバーのスライダをドラッグし、最初まで引き戻す。
高速で映像が逆再生され、一瞬で最初のフレームに戻る。
もう一度、終端まで進める。
「・・・・・・。」
マウスを引きずったまま、左右に振る。
スライダが高速で行き来し、かなりの速度でフレームが流れる。
もう一度。
ノイズが高速に現れては消える。
もう一度。
引っ掻いたようなノイズが、画面の上から下に、伸び縮みしながら落下する。
もう一度。
それは規則的な動きで、まるでノイズよりも手前にある何かが、ノイズを隠しているようだった。

――Noise...

陰鬱な空を見上げられる位置にデスクを移されない内はまだ安泰だろう。
・・・精神的にも、職業上も。
とはいえ、この時期の雨はあまり良い気分ではない。
湿度と不快感に密接な関係があるのは知っての通りだが、このオフィスの環境はそれに拍車をかけていた。
雑多に積み重ねられた発熱するPCと発熱しないPC、その配線には幾重にも溜まった埃がまとわりつき、それに湿気を伴って気分どころか通信・動作の効率まで低下させ、ストレスの堆積を助長させる。
雨の中を出歩くのは嫌いだが、オフィスの外には出て行きたい。
自分の矛盾した感情を嘲笑する気力も起きない。
夕方はいつもこうだ。
とりあえず適当に外に出て、軽く何か食べてこようか。
そんなことが頭を過ぎり始めたとき、コーデルのデスクの電話が鳴った。
信じられないことに、自宅からだった。

「パスワードなんだけどさ・・・、・・・解けたかもしれない・・・。」
電話口からコーデルの疲れたようなあきれたような声が零れ落ちるのは意にも介さず、間の抜けたような声でレイは報告する。
「・・・まあ、とりあえず聞きましょうか・・・。色々と言いたいことはあるけど・・・。」
警察局内の電話回線は、原則、署内への連絡、と言う部分以上は特定されない設計になっている。
つまり、彼女がここに居たことを寄居局に証明されない限り、居ないはずの彼女の自宅から彼女のデスクに電話があったことは察知されないようにはなっているが・・・。
コーデルの今の行動自体、この署内ではオフレコなのであって・・・。
・・・まあ、いい。
「OK、じゃあ、とりあえずこっちから。」
コーデルの不機嫌そうな皮肉は意にも介さず、レイが続ける。
「まず、例の動画ファイル、aviの1分半の動画にしてはやたらと大きくなかった?」
「確か、20メガ弱だったわね・・・、アレで大きすぎるってのも凄い話だけど・・・。」
「で、気になってさっき見てみたんだけど、そしたら音声は確かにビットレート滅茶苦茶低いけど、映像が、さ。」
「?」
「・・・まさかの1Mbps超え。」
「・・・・・・先に聞くわ。」
コーデルが腕を組み、電話をコード付きの物に持ち替える。
「いくらなんでもあの糞みたいな画質にこのビットレートは極端に行き過ぎだろ?で、思ったんだけど、俺たちが一番最初にあの動画がマスターじゃないと判断した理由は何だった?」
「・・・トラッキングノイズね・・・。」
「そう。」
レイは見えるはずの無い相手に向かって人差し指を差していた。
「VHSに入っている映像なら、ブロックノイズとトラッキングノイズが両方入っていてもなんら不思議じゃない。でも、それがデジタルの動画ファイルなら、トラッキングノイズに意味があっても不思議じゃないだろ?」
「・・・・・・待って、今、寄居局の方のデータベース見てる。」
今回の件で、前から抱えていた事件がサブマリン的に大きくなったコーデルは、警察局の上層部からそれなりの権限を与えられており、その中に寄居局のデータベースへのアクセス権も含まれている。
もっとも、それを含めて今回の『保護』も全て、公式には公開される事は無い事項なのだが。
「・・・あった。」
例のVHSテープの含まれるレコードを発見する。
「どこにあったって?」
「待って・・・、発見時における特記事項・・・、家具と壁の隙間に保護部品無しで放置されていたため劣化が激しく、復元待ち・・・。」
「やっぱり。」
レイが心底うれしそうな声で言う。
コーデルの方もそれにつられて機嫌が直りそうになった。
「つまり、そっちのテープはこっちのファイルよりもノイズが酷いんだよ。・・・完全に復元されるまで、元々乗っていたノイズがどれだか判別できない程度にはね。」
「ってことは、ノイズに何かの情報が記載されてるって事?」
「それもちょっと考えたよ。」
コーデルは、受話器の向こうで頭を掻きながら言葉を考えるレイを一瞬想像する。
「あのノイズ、高速で再生すると分かるんだけど、決まったところで決まった途切れ方してるんだよ。そりゃあ、ドット単位に正確に。」
レイは頭を掻きながら続ける。
「サラが『長い目で見て』とか何とか言ってただろ?」
「ムービーの中で?」
確かに、言っていた様な気がする。
微妙に引っかかってはいたが、特に気にはしなかった。
「アレ、多分長時間露光だよ。」
「・・・?」
「ほら、カメラの。まあ、最近はあんまりやる人居ないけど、昔のCCD不使用の、フィルムにレンズから直接焼きこむタイプのカメラの場合はさ、シャッターを押しっぱなしにして長時間置いとくと、車のライトが帯みたいに写るんだよ。」
「・・・で?」
「だから、それでムービーを撮るの。ノイズって白いだろ?アレが途切れてる部分は白く写らない。」
「・・・決まったところでノイズが途切れてるのはそのためで、画面が妙に暗かったのも・・・。」
「とりあえず、どっかから三脚とアナログ式のカメラ持ってきてくれない?」
「・・・分かった。すぐ行く。」
当座の眠気は覚めた。

「で、このパスで間違いなく開いたんだけれども・・・。」
レイが当惑したような表情を浮かべた。
「まず引っかかるのは、このパスワードの文字列ね。」
「"Hermit crab"・・・。」
訳、ヤドカリ。
中国語では、寄居蟹。
この騒動の発端が、寄居局で、
「更に気になるのが、」
コーデルはアクセスできるようになった下位ディレクトリへと進む。
「この資料・・・。」
「・・・見覚えある?」
「無いわね・・・。と言うか、聞きなれない語句が多すぎて・・・。」
と言いつつ、ファイルを全てPDAにコピーする。
孫コピー・子コピーを禁止したところで、それを破るのには大して手間は掛からないため、特にプロテクトはかけなかったようだ。
無論、アクセス自体が出来ないとコピーのしようが無い様にはなっていたが。
USBを抜き取り、久々に蓋をする。
継ぎ目が分からない程ぴったりと、その蓋は納まった。
「・・・どこか、御飯買って来ましょうか。」
コーデルがレイに言った。
先程の連絡に関しては、移動中にジュールに安全を確認させた。
少なくとも、署外からは傍受された痕跡は無い。
・・・気休めにしかならないが。
そしてもう1つ。
とりあえず、今のところは何とか寄居局よりも優位に居る。
ごく僅かな差とはいえ、それは精神的な余裕を生んだ。
近くの屋台で味の濃そうな揚げ物を大量に購入し、店から立ち去ろうとすると、店の隅に置かれたTVが目に入った。
先々週のサラの件から、明日でちょうど2週間になるらしい。
『特高警察局』が、異例の捜査会見を開くとか何とか・・・。
その極秘資料は今、コーデルの掌中にある。
それだけでも妙に高揚した気分に襲われた。
雨の中に取って返し、車に乗り込み、脂っこい袋をレイに届けると、コーデルは付近に車を停め、PDAの中身を流し読みしにかかった。
日が沈んだと言うのに雨足は一向に弱まる気配を見せず、フロントガラスの向こうの世界はあっという間にぼやけ、流れて、消えた。

キールは珍しく動揺していた。
警察局側の先を越したと踏んでいたVHSの発見。
それが何の成果も残さなかったことを筆頭に、隠蔽と収集に本腰を入れ始めた警察局の底力を甘く見ていたのか、本命の目標の手掛かりを未だに掴めずにいること、それに伴うゴーナの不調と、近頃は意図的なものを感じさせるような問題が山積みになっている。

――そうだ。
本命はあの女の竜人ではない。
正直なところ、彼女の存在はあの人間(のような存在)を繋ぎとめておくための針と糸の結び目のようなものだ。
寄居局がここに建設された当初から、彼らはひたすらあの人間の少年を追い続けてきた。
その理由を説明するためには、かなり深いところまで潜らねばならない。

そもそも寄居局は建設当時、3つの局が併合された「総合自衛・情報機関」であった。
現在こそ地価に向かって3つのハイブが伸びてこそいるものの、建設当時は現在主要実験棟と呼ばれている棟のみである。
その名残は現在も確認できるものが多く、その1つに俗に「セフィロト」と呼ばれるネットワーク構造が上げられるだろう。
主要実験棟を通るひときわ太い主幹ケーブルを中心に、それを幹として伸びる木の枝のように、同一階層の端末と機器が接続されている。
枝分かれする部分全てには、ソフト的・ハード的に防壁が仕込まれており、下層部に行くにしたがって壁は厚く、強固になっていく。
その際下層部、メイン運用されているコンピュータに「棲んでいた」制御プログラムこそが、ゴーナの前進だ。
元々は何の変哲も無い制御ソフトであったが、寄居局が掲げた一大プロジェクトの一環として、「人格移植」を行うことにより、その存在は一気に特異なものへと変貌した。
因みにこのプロジェクトは政府公認でこそあれ、倫理的な問題から極秘扱いとされている。
現在メインとして運用されているシステムソフトウェアはまだ以前のバージョンのものであるため、ゴーナの存在自体が実験的なものであるといって良い。
話を先に進めるには、まずはゴーナと言う「生命体」について、語らねばならないのだろう。

ゴーナとはヤドカリを意味し、人を食らうと言う、竜の姿を持った神速の巨大な化け物の名前でもある。
彼女の構成要素を挙げれば、それは容易く理解されるであろう。
「彼女」には、大勢の人間の「魂」が使用されている。
特に、キールの様に「作り物」の比率が高く、更に人格・知能が優れている者が選ばれることが多い。
これだけ聞けば、気付いた者もいるであろう。
寄居局――表の名を、特別高等警察――が主導して行ってきたと囁かれている「潜在的高機能保持者失踪事件群」。
結論から言うと、噂は正しい。
それが、ゴーナの重要な構成要素なのだから。
「魂」は肉体よりも機械の方が遊離しやすい。
また、肉体から魂を抜き取ったとしても、その記憶の完全な消去・フォーマットは確実に不可能だ。
作り物ならば、それが非常に容易い。
確実に人格と記憶、優れた精神反射を拝借し、記録は一切残らない。
完璧なはずだった。
しかし、ゴーナはあまりに不安定なのだ。
それぞれの「魂」はそれぞれの精神的反射係数を保持し続けようとし、それぞれが気に入った方向に変化し続けようとする。
その統括を行うのに適した人物を用意する必要があった。
サラは良く働いたと思う。
ただ、彼女は、目標に入れ込みすぎたようだ。
彼女が目標にどの程度の情報を流しているかは局の知りうるところではないし、それは大して問題ではない。
彼女を失ったことも、それほど大きな問題ではないだろう。
もうすでに、彼女の仕事は済んでいる。
彼を用意し、監視し、成長させて体を作り変えさせた。
それだけで十分だ。
確かに、これまでにVHSを筆頭とした妨害工作が無かったわけではない。
しかし、それらはすべて想定の範囲内と言えるだろう。
今、我々が二の足を踏んでいるのは、警察局の気合の入れ方のせいなのだろう。
そうなれば、もはやあの手段に訴えると言う手を取るのも悪くは無いだろう。
キールは司令室の電話機の受話器を取り上げた。

――.txt

一通りのファイルに目を通した。
未だに信じられない。
自分が、そんなわけの分からない計画の要にされているなんて。
サラがレイのことを証人保護プログラムに押し込んだのも、あそこで出会ったのも、全て必然。
ウィンドウの一番下、比較的シンプルなテキストファイルを最後に、ファイルのリストは終わっていた。
「Read Me at Last.txt」
最後に読んで。
今が最後なのだろうか。
開く。


これが読まれるかどうか不確かだって事は、結構気楽に文章が書けるって事ね。
まず、ごめんなさい。
これだけは何度言っても足りないわね。
寄居局にいる頃から、私たちはあなたのことをずっとマークしていた。
全てゴーナのプロジェクトのため。
貴方がこの先、何事も無く生き延びられるとは思っていない。
でも、ここで真実を知ることなら出来る。
少なくとも何も分からないで追い詰められるよりは、まだ有利に立ち回れることを祈ってる。

このメモリが貴方の手に渡ったということは、私はこれで本当に貴方の前から消えてしまうってことになる。
こんな無責任なことは言いたくないけれど、でも、どうしても伝えておきたい。
私はあなたのことが、心底好きだった。
それは、異性としてだとか、年下としてだとかとはもっと違う次元の問題。
本当はしっかり最後まで面倒を見てあげたかったんだけど、残念だわ。

それから、もう1つ。
ゴーナは形式上、私の子供みたいなものなのよ。
もしも、どうしても彼女に組み込まれなければいけなくなったとしても、心配しないで。
彼女、寂しがりやだから、うまく立ち回れば生き残れるかも知れないわ。

それじゃ、頑張って。


メモリの内部に格納されていたデータの価値は、想像以上だった。
レイにとっては、正直、あまり心地の良い物ではなかったが・・・。
全て読むのに丸一昼夜掛かり、その間にコーデルは自宅に戻り、データ関係を全て警察局に引き渡してきたようだ。
正直、サラの遺品のペンダントをこんなに早く手放すのはあまり気が進まなかったが・・・。
さら、か。
あそこでサラに拾われたのも、それ以前に全て計画されていたことなのだろう。
自分がここにいること自体、全て計画の範囲内・・・?
突拍子も無いことだが、今のレイにはそれが突拍子も無いとは到底思えない。
「・・・読み終わった?」
コーデルがレイの肩に首筋を乗せるように画面を覗き込む。
レイは無言で頷き、自分に関する記述を読み返す。
サラのことは、確かに好きだった。
彼女はどうなのだろう。
局に対して危険と分かっている造反行為を働き、それでもレイの情報は寄居局に流していたのだろうか。
そうすることによって、これまで生き延びてきたのかもしれない。
あの夜、彼女は殺されると言うことすら、分かっていたのだろうか。
この2年間、彼女はどんな思いで過ごしてきたのだろう。
「・・・少なくとも・・・。」
コーデルがレイの肩に手を置いて言う。
「・・・彼女、貴方のために殺される覚悟でずっと過ごしてきたのね。」
・・・レイが、彼女に出会う前から。
「それは、並大抵の精神じゃ出来ない行動だと思う。」
レイがここにいる理由は、ゴーナとか言う訳の分からない生命体のため・・・?
「でも、そう思われるような存在が、そう思われるような存在としてそこにいるって事も、凄く素晴しいと思う。」
・・・・・・。
コーデルの腕が、レイの体を優しく抱いた。
「私にもその気持ち、分かった気がするわ・・・。」
レイの両腕がコーデルの肩を掴み、応える。
衣擦れの音が人工の鼓膜を震わせるほど強く、二人の距離が接近する。
「・・・・・・それとも、これが欺瞞かしらね。」
コーデルが呟いたその言葉は、震える空気に押し流され、誰にも届くことなく、消えた。

翌日。
「ここを出るわ。」
べらぼうに早く帰宅したコーデルは、玄関を開けるなり濡れた上着をレイに手渡し、空のバッグを部屋に投げ入れて言った。
「準備して、急ぐわよ。」
レイはアパートの外にジュールが立っていることと、相変わらずひどい雨が降っていることを確認した。

「レイ・イル=モストロ(仮称)」に対し、身元不明女性殺害容疑がかけられて特別指名手配がかけられていることをコーデルが知ったのは、彼女が署に出向いた直後だった。
何でも、今まで秘密裏に行われていた捜査から、公開捜査への切り替えに踏み切ったらしい。
それを発表したのは紛れも無く特高警察――寄居局だったわけだが。
コーデルが驚いたのは言うまでも無いが、その直後に来た感情は焦りよりもむしろ不甲斐なさだった。
過去だけでなく、現在の寄居局の動きにももっと気を配るべきだったのだ。
連中曰く、確かな証拠を入手し、容疑者の断定まで漕ぎ着けたとか何とか・・・。
レイを避難させなくては。
コーデルは押し潰されそうになりながらも、勤めて平静を装って、局本部に端末を接続した。

「荷物まとめたら、私が後から持ってく。」
大して多くも無いレイの私物を小さいバッグに無理に押し込みながら、コーデルがレイの背中を押した。
レイが予想以上に冷静で、コーデルは表面以上に憔悴していた。
レイはつばの広めの帽子を被り、さっきまでコーデルが来ていたジャケットを羽織って、ジュールと一緒にコーデルの車に乗り込む。
ある程度離れたところから見れば、外出中に一旦自宅に戻り、忘れ物を回収でもしたように映るのだろう。
なるべく自然に、助手席のドアを閉める。
ジュールが運転席に再度乗り込み、旧式のマッスルカーのエンジンをふかす。
レイたちの乗ったマスタングが発進すると同時に、後ろから来たポンコツの軽自動車がそのスペースに滑り込んだ。
「後は、彼女に任せておけば良い。」
ジュールがハンドルを握りながら言った。
冷房は入っていないようだが、雨が入らない程度に微妙に開けた窓から外気がかすかに流れ込んできて、腐って落ちそうになっていたレイの脳に流れ込む。
電源が入りっぱなしになっているラジオから、延々とジャズが流れ出る。
時折慣性と水滴でアンテナが揺れるのにあわせて、微細なノイズが曲を侵食した。
「・・・ジャズ、好きかい?」
車が赤信号で止まり、ジュールが口を開いた。
「ええ・・・、嫌いでは無いですよ。」
レイは窓のふちに頬杖を着いた格好で、外の町並みを眺めながら答えた。
「・・・俺はジャズが好きでね・・・、こうやって人の生活の間を流しながら、いつも聞いてる。」
ジュールがハンドルから手を離し、指の骨を鳴らしながら続ける。
「ジャズには決まった譜面が無いからね、演奏してる人の精神状態がそのまま聞こえてくるんだ。・・・でもそれは一過性のもので、俺たちとは遠い世界のものだろ?」
信号が変わる。
車が動き出し、雑踏が水滴と共に後ろに流れて、消える。
「・・・まるで車から他人の生活の一部を切り取って眺めてるような気分だ。・・・それが心地良いのさ。」
「・・・よく分からないです・・・。」
ああ、変な趣味だろ、と言って、ジュールは笑った。
レイはもう一度窓の外に視線を返す。
数瞬、車のエンジンと路面の砂利、サスペンションの軋みとジャズが車内を埋め尽くす。
「・・・この車。」
「ん?」
今度はレイが口を開いた。
「コーデルのですか?」
「ああ、彼女のだ。・・・もっとも、数年前に警察が押収した物だが。」
「・・・88年製ですよね。もうクラシックと言うよりビンテージだ。」
「詳しいんだな・・・。彼女は競売で入手しただけだが、君が褒めていたと言ったら喜ぶかな。」
「・・・どうでしょう・・・。・・・まだ、そんな話するような余裕ありますかね・・・。」
ジュールが右にウィンカーを出す。
左ハンドルの車が、左側通行の片側3車線道路で右折するのは相当大変な様で、ハンドルのエンブレムが回転を止めるまで、車内が再び静かになった。
「・・・さて、着いたぞ。」
ジュールがワイパーを遅くしながら言った。
高架の下を抜け、町の外れの高層ホテルの玄関につける。
「鍵は連動してないから、そっちで開けてくれよ。」
笑いながらジュールがそう言って、
「・・・それにしても、君は大変だな・・・。よく頑張ってる。」
レイが外に出て、ドアを閉める直前に、車内の端末を触りながら言った。
「・・・有難うございます・・・。」
レイが一言言ってドアが閉まる。
「・・・・・・まあ、これでお互い、少しは楽になるさ。」
ジュールは閉め切られた車の中で、自分の端末から寄居局にメッセージが送信されたのを確認しながら零した。
窓の外では、レイが先回りしていた少数の警察局員にガードされながらホテルに入っていった。

レイがホテルに到着して、遅めの昼食を取り終わった頃、コーデルから連絡があった。
ボディガードとして一晩泊まる、とレイに告げて、後数分で着く、と言った。
その言葉通り、コーデルは数分後に到着し、ここら辺は頼むわ、と、外に向かって言った後、レイに一言ことわってシャワーを浴びに風呂場に直行した。
コーデルがドアを目一杯開けた際、レイの目に初めて、外を物々しく警備する警察局員たちの姿が映った。
人間竜人入り混じった制服姿の警官たち。
その中の1人が、コーデルが開放していったドアを閉める。
レイに一瞥をくれると、無線機で口を隠して何事か呟き始める。
ドアがゆっくりと閉まり、その機構は正確に機能し、オートロックのドアは自然に閉ざされた。
「・・・・・・。」
レイは改めて自分の置かれた状況を認識させられる。
と同時に、今まで妙に落ち着いていた自分に少し、疑問を持つ。
コーデルが尾を怒らせたように入っていった脱衣場を見やる。
完全には閉まっていないドアの隙間から、丸められた彼女の衣服が覗いていた。
急に心細さが、レイの心に染み出し始める。
それは、恐怖とは全く違った感情で。
そう、敢えてこの感情を表現するのに言葉を使うとしたら、

大理石で統一された白一色のバスルーム。
コーデルは全裸のままで、湯気が立ち上るシャワーを排水口に素通りさせる。
熱い湯で濡らした全身から汗が噴き出し、雫となってマズルから流れ落ちる。
コーデルは壁に手を付き、目を閉じる。
拳を壁に打ち付けると、彼女の体から水滴が飛び散って、壁を濡らす。
「・・・・・・。」
寄居局がレイに対して血眼になっているのは今に始まったことではない。
だが、
「私に・・・、どうしろって言うの・・・?」
関わったのはコーデルの責任ではない。
あえてその所在を追及するのであれば、寄居局かサラであろう。
だが何であれ、今の彼女にはレイを守るだけの責任を負う義務が有る。
それに、
「レイ・・・、私・・・、」
彼と別れたくなかった。
最初、彼の存在は、保護対象の片割れ以外の何者でもなかった。
彼の精神的なケアが、真相に近づくための近道でしかなかった。
彼に気に入られる必要こそあれ、彼を気に入る必要なんて無かった。
でも、今はそうではなかったのだ。
コーデルの腰から、力が抜ける。
大理石の床に、ぺたりと音を立てながらへたり込む。
両手で顔を覆う。
流れる湯が、彼女の尾によってせき止められ、排水口までの道筋を変えた。
「私・・・、わたし・・・、
「コーデル?大丈夫?」
顔を上げると、脱衣場に立つレイの姿が、擦りガラス越しに確認できた。
「コーデル!?倒れてなんかいないよね?」
外よりも照明が薄暗い所為で、レイには中の様子が見えないのだろう。
コーデルを案じる声が、ガラスの向こうから聞こえてくる。
何で?
何で貴方はそんなに・・・、平静なの?
何でそんなに・・・、強くなったの?
たった一晩で・・・。
「・・・大丈夫・・・、・・・大丈夫よ。」
震える声でそれだけ搾り出すと、コーデルは立ち上がった。
蛇口を捻り、湯を止める。
レイが外にいるのは承知で、コーデルはドアに手をかけた。

「ねえ、」
「ん。」
下着姿のままで火照った体をベッドに埋めていたコーデルは、不意に自分に声をかけたレイに対して返事とも溜息ともつかない発声で答えた。
「俺たち、これからどうなるの?」
冷蔵庫のモーター音が聞こえる。
さっきまでコーデルが使っていた風呂場で、水滴が床に落ちて割れる。
「・・・ごめんなさい・・・。」
コーデルの声は、彼女が思っている以上に弱々しく、口から流れ落ちた。
空調設備が室内の湿度、あるいは温度の変化を読み取り、控えめに稼動し始めた。
部屋の中の空気が循環し、カーテンが微かに揺れる。
コーデルは長い時間を掛けて肺に入れた空気を、ゆっくりと吐き出した。
震える吐息が、硬質な風に攫われ、拡散する。
「最近溜息ばっかりだね。」
――は、
レイに指摘され、コーデルは短く哂う。
それは彼女自身へ向けたものなのか、これからの運命に向けられた嘲笑なのか。
もはやコーデルとってはどうでも良かった。
レイがこの台詞を言い終えるとほぼ同時に、風呂上がりで極端に軽装のコーデルの腕に抱きついた。
「・・・ごめん・・・、頑張ってくれてるのにね・・・。」
俺のために・・・。
最後の一言は口には出すまい。
口に出すと泣いてしまう気がする。
今の状況はすこぶる悪い。
それは分かっている。
寄居局相手に丸1日逃亡できるかどうか。
それすらも定かではないし、本格的に令状を用意している寄居局と、証人保護プログラムの延長としてレイを保護している警察局では、競ることすら出来ないであろう。
無論、ある程度の保険はかけてあるようだが。
明日の朝、寄居局の連中に叩き起こされる事だって充分ありうる。
・・・完全に負け戦だ。
しかも白旗は持ち合わせていない。
・・・レイはそこまでは理解しているし、恐らくそれが今自分が置かれている状況の全てだろう。
それでもコーデルたちはそれを悟られまいと振舞うのだ。
だからきっと大丈夫。
そうやってレイに嘘をつく。
いや、嘘をついているのは自分自身か。
コーデルが空いているほうの腕をレイの体に回す。
抱きしめる。
2人は約50時間ぶりのその感触を、ひたすらと、静かに、貪る。
コーデルの吐息で、レイの前髪が揺れる。
空気の流れが変わったことに気付き、レイが目を開ける。
「ん――、」
身構える時間も、状況を理解する時間も与えられない。
気付いたときには、彼女の作り物の舌が、レイの作り物の口内に進入していた。
繊細でしなやかな有機繊維で出来た味覚器官が、お互いの内部で絡み合う。
コーデルがその長いマズルを利用して、レイの口を、顔を咥える様に、激しく、彼を貪る。
長く深い口付けは、始まったときとは対照的に、ゆっくりと、余韻を残して過ぎていった。
コーデルの耳がひくひくと動き、彼女が恐らく唯一身に着けている装飾品である小さなピアスが小さく光る。
「・・・大丈夫・・・、大丈夫よ・・・。」
コーデルは、ここ最近毎日のように繰り返している言葉をまた口にする。
レイには、頷くことしか出来なかった。

――Revered foolish god

身構える時間も、状況を理解する時間も与えられない。
ただ、続け様に発射された金属片が刺さった見慣れた竜人の体の一部が、レイのすぐ脇で破裂した。
直後、コーデルの凄まじい絶叫と共に、夥しい量の液体が一部欠損した彼女の足から流れ出し、見るからに高級そうなホテルの絨毯を汚した。
当のレイはと言えば、激しく混乱しながら汚れる床と崩れ落ちる自分の保護者、銃の引き金を引いた人物を眺めていた。

2分前。
若干遅めにベッドから起き上がり、朝食を済ませたレイとコーデルは、ガードが自らの存在を主張するためにドアをノックする音を聞いた。
覗き穴を覗く。
昨日と同じ柄の、縒れたシャツと緩んだネクタイのジュールが立っていた。
「悪いな。」
彼はドアの向こうで言った。
「もう、起きてるだろ?・・・ちょっと入るぞ。」
コーデルがドアを開けた。
ジュールの後ろには、レイが前に住んでいたアパートに7.62ミリの鉛弾の雨を降らせた竜人が立っていた。
問答無用で米帝産のアサルトライフルをコーデルに向け、ジュールはレイの肩に手を置いた。
その時点で、レイの頭の中は完全に真っ白になっていた。
「この展開は予想してただろうが、この面子は想定外だっただろ。」
驚いたか?、と、口の端を吊り上げながら、いつもの口調でジュールが言った。
コーデルが何か言っている様だったが、レイの耳にはそれすらも遠い世界の出来事に感じられた。
コーデルが咄嗟に銃を出したらしく、もみ合いになりかける。
アニバはコーデルの手から金属塊を殴り飛ばし、銃身で彼女の胴体を突く。
「通じないのか。大人しくしてろ。」
高圧的な態度で、相変わらず表情を変えずにアニバが声を発する。
雌雄の身体を持った竜人が、一瞬、対照的な姿勢で対峙する。
「・・・レイの・・・、彼の身柄はこっちが確保済みよ・・・。・・今回は、警察局の手柄だわね・・・。」
最後の手段だ。
今までの行為を全て「護送」であるとでっち上げよう。
弁護士なんて幾らでも用意できる。
レイのこれからや、寄居局の隠蔽工作を恐れて最後まで使えない手段ではあるが、一度警察局でレイを捕縛してしまえば寄居局が手出しすることは出来なくなる。
後で彼を無罪にすれば良い。
寄居局が幾ら彼を執拗に追っているとしても、こうすれば、
「分からん奴だな・・・、我々が欲しいのはこいつの身柄じゃない。」
相変わらず銃や目線や口を動かさず、アニバが続ける。
「ただ、ちょっとこいつの魂と人格が欲しいだけさ、分かってるだろ。」
アニバのM16が火を噴いた。

ようやく集結し始めた警察局のボディーガードが面食らった顔や落胆の表情を浮かべる中、堂々と、正面玄関からホテルの外に出る。
コーデルは恐らくじきに発見されるだろうから、心配は要らない。
現実感が無いままで、レイはただ促されるがままに歩く。
「君は世間的にも追われるべきものだ。警察局の連中が俺たちから君を奪うなんて事は出来んさ。」
ホテルの前に停められた、レストアされたばかりなのであろう、・・・・・・・・・あの夜のジャガー。
フラッシュバックする光景。
水溜りの中に流れる、サラとコーデルの2人分の鮮血。
奥歯をかみ締める。
ドアが開く。
「それにしても、ジャガーとマスタングか・・・。これでマスタングのオーナーが俺とくっついてくれたら、小説そのままだったのにな・・・。」
ジュールがレイを車内に押し込んだ後自分も乗り込みながら言った。
「君、読んだかい・・・、あのトマス・ハリスの、」
「申し訳ないですが俺・・・、映画派ですよ。」
もう抗ってやる。
最後まで、どうなっても生き残ってやる。
「そうか、そいつは残念だ。」
首にスタンガンが当てられる。
レイは、その声を漏らさない事をもって、抵抗を開始した。

コーデルは呻き声を漏らしながら、ベット脇のテーブルに置いてある携帯に手を伸ばす。
届かないので叫び声を上げながら、両手を使ってテーブルにつかまり、何とか立ち上がる。
寄居局に連絡を取らなくては・・・。
部屋のドアが開き、局員がなだれ込んでくる。
滑らかではない足の切断面から液体が迸る。
気が遠くなる。
駆け込んできて彼女の身体を支えたガードの一人の胸倉を掴む。
「・・・警察局員への傷害容疑と、被疑者護送妨害による公務執行妨害で、寄居局への捜査令状取りなさい。・・・良いわね・・・。」
一気にそれだけ言い切ると、コーデルは意識を手放した。

数十分後、寄居局最深部、『飼育室』。
最後の餌が手に入った。
あの人間・・・、あの人間だ。
キールは完全に機械化された蟲の様な下半身を正確に駆動させ、耳障りな音を立てながら下降して来るエレベーターのランプを目で追う。
もうすぐ・・・、もうすぐ彼女は完全になるのだ。
我々の手で作り上げる、神・・・。
あと5分で結果が出る・・・。
長かった・・・、それにしても長かった・・・。
なにやら上が騒がしいが、そんなことは大した問題ではない。
世界を網羅する情報世界の、唯一の、絶対の創造神を、己の手中にするための、最後のプロセス。
今まで何度も行ってきた作業。
対象の頭蓋にいくつかの穴を開け、数本の針状の電極を刺し込むのみ。
差し込まれた電極は脳内で枝分かれし、脳と完全に癒着したポートとなる。
その時点で確実に脳は死亡。
後は「魂」を吸い出すのみだ。
さあ、来るがいい。
私もすぐに、お前の元へ行くよ、ゴーナ。
キールは自らの頭蓋に開いた接続孔に指を這わせる。
振動と共に、エレベーターが到着した。

レイが意識を取り戻したのは、彼の脳が使い物にならなくなるほんの数秒前だった。
頭部に違和感がある。
そして、妙に心地よい。
口の中に涎が溢れたので飲み込もうとしたが、舌が全く動かない。
直後、どこかで金属音が聞こえたかと思うと頭の内部が猛烈に痛くなり、脊髄を引き抜かれたような感覚と共に、
「・・・あれ?」
何も無い。
何も無い空間。
空間。
地面。
白い地面。
白い、一面の地面。
一瞬前まで何も無かった世界。
そこには一本の線が引かれ、天と地が現れていた。
いつの間にか立っているレイ。
その前はどうだったのか、分からない。
マジシャンがステッキから取り出したスカーフが、一瞬の永遠、宙を舞っているような感覚。
そのスカーフが突如質量を持ち、いつの間にか自分自身になっている。
「君も僕と混ざりに来たの?」
真上から声。
見上げる。
そこには、
「・・・竜・・・?」
そこには立派な白い竜がいた。
「君も僕と混ざりに来たの?」
その竜がもう一度同じ事を言った。
「・・・混ざりに?」
その言葉の意味するところは推察できるが、敢えて聞いてみる。
「僕の身体と同じになりに来たの?」
ああ、そうか、と、レイの腑に何かが落ちる。
サラの最後のメッセージに書いてあった事態だ。
ここは寄居局の中枢システムの中なんだ。
恐らくその、ゴーナのための領域。
「・・・違う。」
「?」
恐らく予想していなかったであろう回答に、首をかしげる仕草をする白い竜――ゴーナ、と呼べばいいのだろうか。
「俺は・・・、君と・・・、ゴーナと、話をするために来た。」

件の人間の身体の痙攣が治まり、鼻腔から赤黒いゲル状の液体が流れ出してくる。
口の端から泡を吹きながら、彼の眼球がゆっくりと裏返しになる。
キールはその様を見届けると、――――。

「・・・話?」
ゴーナは明らかに動揺していた。
「そう、話。」
レイは勤めて冷静に、噛み砕いて言葉を選びながら続ける。
「・・・君の中には・・・、今、どれくらいの人が居るの?」
ゴーナが大きな身体を小さくして、顔を下に向けて前足の親指の爪を噛み始めた。
尾が微妙にうねり、精神の不安定さを表していた。
「・・・怒る?」
「怒らないよ。」
彼女(サラ曰く、ゴーナはメスらしい。一人称は「僕」だが)は安心したような顔を一瞬見せるが、すぐに険しい顔に戻る。
それはまるで、親に怒られている子供のような顔だった。
「・・・でもみんなそうやって言うんだ・・・。みんな、僕の傍に居てくれない・・・、だから僕はみんなを離さない・・・。」
「・・・俺は・・・、そばに居るよ。」
「嘘つき。」
ゴーナが深い赤色の瞳で、全てを見透かしたようにに言う。
「みんな・・・、皆嘘つきだから僕は独りぼっちなんだ・・・。・・・でもそれで幸せなんだ・・・、誰も僕を傷つけないから。」
1本の線で分けられた天と地が崩れ始める。
「僕は・・・、時々・・・、凄く時々、・・・与えられた処理をこなしていけば、もっと時々、君みたいな人が来てくれる・・・。僕はそういう人が持ってる情報を貰うのが仕事だから、入ってきた人と一緒になる・・・。そしたら、皆居なくなる・・・。」
彼女の激情が、視覚的なカタルシスとなって目の前で展開する。
「でも・・・、きっとそれすらも僕与えられた仕事のひとつに過ぎない・・・、僕は自身を拡張することで、初めてその存在意義が発生する・・・、だから、僕はまた君と一緒になって、僕に蓄えられた情報を増やさなきゃいけない。・・・そうすれば、また君みたいに話し相手になってくれる誰かが来てくれるんだ・・・。」
彼女は泣いていた。
「ここに居たいのに・・・、僕は、・・・居たいのに・・・、・・・・・・1人は嫌だよ・・・。」
「ねえ、ゴーナ・・・、」
「嫌だっ!嫌だ嫌だ嫌だっ!」
ゴーナはついに空を破壊しつくした。
無の空間の中に、無限に続くひび割れた台地。
「・・・俺は、嫌じゃないよ。」
レイは地平線と言う名の無限に続く直線を眺めながら言った。
「ゴーナの話、もっと聞いても良い?」

「・・・時々来る処理って言うのは、どういうものなの?」
レイがゴーナの膝の上から、上に向かって尋ねる。
「分かんない。いろんな数字の書いたドアが、開いてるか閉まってるか見たり、開いてるドアを閉めたりする。」
・・・これも、サラのデータの中にあったな。
多分、ネットワーク上のポートの監視だとかの、比較的簡単な処理を行わせているのだろう。
「じゃあ、さ、そのドアをくぐったことって、ある?」
「・・・無い。」
・・・と、いう事は、だ。
全体を制御するプログラムの発展型が彼女であるなら当然、現在与えられている権限がそれだけとは到底思えない。
いずれは自立思考を伴った統括システムとして、現在のシステムからの以降も可能になっているはずだ。
レイを利用してゴーナを完全なものにすることが出来れば、そこまで行うつもりでいたことはほぼ間違いない。
「・・・ねえ、ゴーナ・・・、」
レイは彼女の腹に背中を預けながら言った。
「・・・そのドア、くぐってみたい?」

――Sincerity for you.

ホテル、例の部屋。
コーデルは、とにかく、尋常ではなく焦っていた。
ホテルの部屋は、先ほどと変わった様子は無い。
「・・・・・・んじ・・・?」
たまたま目に入ったガードに問う。
時計が目に入らないのだ。
「何時!?」
口角泡を飛ばす、を文字通り体現しながら、コーデルは再び自らの命の恩人の局員の胸倉を掴んだ。
「え・・・、だ・・・、大体、じ・・・、10時・・・、です・・。」
「正確に!!!!」
ここまで来ると意識も大分はっきりしてきて、文字盤がある程度は読み取れる。
少なくとも、まだ10時にはなっていないはずだ。
「く・・・、9時50分、3秒です!」
コーデルは新人のような顔で答える局員から目を離し、自分の足の状態を確認する。
応急的に塞がれた傷口は、大きな血管だけが直接、動脈と静脈でバイパスされており、何も流れ出してはいない。
「例の令状は!?」
ガードに無言の威圧感で肩を貸させつつ、周りに居る誰かが答えることを強制するかのごとく叫ぶ。
「取れてます!」
近くに居た竜人の局員が答えた。
「元々水面下で用意してた分、速かったですよ。」
「・・・状況は?」
「現在、第一団が寄居局の本部の方に向かってます。」
後ろから覗き込むようにして、別の人間の局員が答える。
「恐らく、後20分ほどで到着する見込みです。」
と、言うことは、恐らくあの直後には令状を見越して出発したのだろう。
「・・・そう・・・、」
一瞬、コーデルの表情が緩み、険しさが消え、肩の力が抜けた。
「・・・ありがとう・・・。」
その場に居る全員に、コーデルが言った。
「それから。もう1つ。」
先ほどとは違う凛々しさを顔に加え、続ける。
「反対するのは分かってる、でもお願い。私も、連れて行って。」
テーブルに突いた両腕と片足で辛うじて立ち上がった彼女を止める術を、その場の誰も持ち合わせていなかった。

長い・・・、長い沈黙。
ゴーナの心の葛藤が見えるようで、レイは何も言わず、彼女が口を開くのを待った。
「・・・ドアの向こうには何があるの?」
彼女が言った。
まるで手の届かない場所にあるおもちゃに必死で手を伸ばす子供のようだ。
「色々な物、色々な人。」
・・・それが禁じられていると分かっていながら。
「俺は、ドアの外に戻らなきゃいけない。」
ゴーナの手を握る。
いつの間にか、ゴーナはレイと同じ身長になっていた。
・・・彼女の中で、レイの存在が大きくなり始めたと言うことか。
「俺は、お前と一緒に、外に行きたい。」
ゴーナの尾が、ぴくん、と跳ねた。
それでも、相変わらず悲しい目をしたままだ。
「・・・無理だよ・・。」
悲劇的に、芝居がかった口調で言う。
「だって僕には、外に行く権利が無い。」
先ほどの感情的な様子とは少し違う。
「だって、アクセス権が無いもの。」
膨大な情報と語彙を持った幼子。
・・・ああ、そうか。
「・・・何言ってんだよ。」
「?」
個性的な「潜在的高能力保持者」の魂を寄せ集めた結果、それぞれの個性が持つ係数が反発しあい、一切の統率が取れなくなる。
今彼女の中にある「魂」は、幼子のような彼女自身の魂のみなのだ。
それ以外は全て、・・・膨大な情報に過ぎない。
組み合わせ次第で世界をも創造できる、その存在はつまり、
「・・・お前、神なんだろ。」
悲しそうな顔のゴーナ。
そう、彼女は神なのだ。
邪神にも良神にも、世界の創造と破壊までも行う、唯一究極の絶対神。
故に、彼女は、
「・・・・・・神になんて、なりたくないよ・・・。」
涙を目に一杯溜め、ゴーナは地面を濡らす。
「僕は・・・、もっと普通になりたい・・・、世界も、こんなに沢山の魂も情報も要らない。ただ・・・、僕は、僕でいたいだけなのに・・・。」
そう、故に彼女は孤独だった。
独りぼっちの、寂しい龍神だった。
彼女の涙が地面に零れ、純白の世界を汚した。

寄居局、地上。
「だから、令状持ってきてるでしょ!?」
「無理です!!現在いかなる理由でも、局内に立ち入ることは禁じられています!」
「だから、その理由となってる行為を止めに来たってぇのよ!!」
集結した警察局の一団と、寄居局の局員は寄居局の直上の地上で衝突した。
お互い一歩も引かない。
当然だが。
泥にまみれ、皺くちゃになった令状が、人波の中に埋もれた車の屋根の上で掲げられる。
「あんたらもこの紙切れの意味ぐらい知ってるでしょ!?いい加減にしないと、」
「貴方たちこそ公務執行妨害です、直ちにこの敷地から出なさい!」
拡声器を持った寄居局員が、奥のほうで声を張り上げている。
「ここは内務庁直属組織の所有地です!許可無き立ち入りは法に抵触する可能性が
「引っ込んでろコノヤロー!」
警察局側も拡声器を取り出したようだ。
コーデルたちがここに到着してから、間もなく10分になろうとしていた。

ゴーナの涙が、彼女の地面を汚す。
ああ、これか。
レイは思った。
これが彼女を・・・。
「・・・寂しかったんだな・・・。」
もう、ゴーナは大きな立派な竜ではない。
人間と同じくらいの体高に、不釣合いなほど長く、美しい尾を持つ、小さな雌の龍神だった。
彼女を苦しめていたのはただの孤独では無い。
それよりももっと恐ろしい、唯一神としての傷――、
「・・・うん・・・。」
その傷を・・・、涙を零しながら、ゴーナは言う。
「嫌だったら、神なんて辞めてもいい・・・。」
レイはもう、何も考えてはいなかった。
「要らない物は、捨ててしまえばいい・・・。」
ただ、浮かんだ言葉を並べていた。
「お前は・・・、もう逃げ出してもいいくらい長い時間、辛い事をずっと・・・、続けてきたんだ・・・。」
ゴーナは声を上げて泣いていた。
「お前が手に入れた中で、お前が好きな情報が、きっとその報酬なんだ・・・。」
彼女に必要だったのは、レイではない。
「それを集めれば、きっとお前の個性になる・・・。」
ただ、個の存在としての存在。
レイは泣きじゃくる小さな龍神を、まるで子供にそうするように、優しく、強く、抱きしめた。
「僕は・・・、・・・居ても、良いの?」
元々、ただの関数の集合体だったはずのゴーナは、彼女は、今は確かに、レイの腕の中に居た。
魂って・・・、生きることって単純だけど、でもきっと、素晴しいと思う。
「・・・うん・・・。」
頷いたのは、誰だったのだろうか。

同時刻、寄居局、最下層。
件の人間の身体の痙攣が治まり、鼻腔から赤黒いゲル状の液体が流れ出してくる。
口の端から泡を吹きながら、彼の眼球がゆっくりと裏返しになる。
キールはその様を見届けると、明滅するメインコンピュータのモニタに視線を投げた。
「・・・ん?」
ネットワーク障害あり。
「何ですか?」
立ち会っていた2人も異常に気付いたようだ。
ジュールはキールの脇に近寄り、モニタを覗く。
「結構、高い代償を払ってるんですよ・・・。まさか、失敗なんて事は
ぴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
長い、長いビープ音。
そして、

同時刻、寄居局、地上。
寄居局内がにわかに騒がしくなったと思うと、入り口のゲートが一気に全て開放された。
敷地内は一気にパニックになる。
警察局の塊が一気に流れ込み、寄居局内部から緊急避難してきた局員と鉢合わせたのだ。
寄居局内の全てのロックがいっせいに解除されていた。
外部からも内部からも、反対側へ抜ける手段が全て利用可能になったのだ。
細かい部分のロックも次々と解除され、電子式の職員ロッカーからは荷物が全て零れ落ち、ロックが開いたトイレの個室からは素晴しい勢いで水が流れ出した。
寄居局の内部ネットワーク内でも、それに酷似した現象が起こっており、ある一瞬(正確にはこの日、午前10時40分31秒)から寄居局は、内外からの物理的、論理的アクセスに対して完全に無防備となった。
夥しい数のアクセスが集中した寄居局の回線は、その強固さが災いし、回線がダウンすることなく膨大な情報を外部に提供した。
寄居局のドアと言うドアは、全て開放された。

同時刻、寄居局、メインシャフトエレベーター。
アニバは高速で上昇するエレベーターが停止する際の慣性を感じた。
開放されたままになった非常用スピーカーから、パニックになったセキュリティの声が聞こえる。
知ったことか。
エレベーターが停止すると、アニバは手榴弾のピンを抜き、数個まとめて屋根の上に放り投げた。
これでワイヤーを切断してしまえば、地下への足は無い。
エレベーターが下に落ちたのを確認してから、上から再度C4でも使って、地下の発電所ごと爆破してしまえばいい。
大きな天窓から差し込む陽光に、一瞬目を細める。
もう昼ごろか。
アニバがそう思考した瞬間、ブレーキが開放された状態でワイヤを切断されたエレベーターが物凄い速度で落下していった。
下を覗き込む。
天井はあっという間に見えなくなる。
さて、後はもう少し大きな爆弾を、
がしゃん。
「え・・・、」
屋上の駐車場から落下してきた乗用車が、天窓のガラスを粉砕し、上を見上げた瞬間の、サラを銃殺した竜人の全身に突き刺さった。

寄居局、最下層。
「あの野郎、1人で逃げやがったな・・・。」
ジュールは姿が見えないアニバに対して悪態をつきながら、エレベーターのボタンを押した。
キールは相変わらず、端末のモニタに表示される数字を凝視している。
「情報量が・・・膨大すぎる・・・。」
何故だ・・・、何が起こった・・・。
・・・いや、それは分かっている。
ゴーナが裏切ったのだ。
この騒ぎも、恐らく彼女の仕業。
膨大に膨れ上がり、プロセッサの機能を停止させるに至るほどの情報量は、彼女の統率を無くし、単なる意味の無い演算処理の羅列の関数と化した、かつて魂だったものの、無限に続く意味の無い思考。
「うおっ!?」
後ろで爆音が響き、ジュールの声が聞こえた。
彼は辛うじて、上から落下してきたエレベーターを避けたようだ。
キールの目には、大きく裂けたシャフトの穴から、中でワイヤーが踊りながら落下しているのが見えた。
ジュールが状況を把握しようと、裂けた穴の縁からシャフトに顔を突っ込む。
すぱん、と綺麗な音がして、ジュールの頭蓋骨の上半分が、ワイヤーのギロチンで切断された。
ジュールは何が起こったのかわからない顔で、キールの方を見る。
もはや、キールには関係が無いことだ。
穏やかな笑顔を浮かべながら、自らの頭蓋に接続端子を付きたてる。
彼の意識は、そこで完全に無くなった。
地下に・・・、神の部屋に残ったのは、必死で自らの頭部に蓋をしようとおろおろ意味の無い言葉を呟きながら歩き回るジュールと、ひたすら痙攣を繰り返すキールの下半身だけだった。

ゴーナの世界は夜明けを迎えようとしていた。
一気に空が暗くなる。
太陽が存在する証拠だ。
ゴーナを中心に、地面に草原が広がる。
風になびく枯れ草。
秋の草原。
秋の・・・、明け方の世界。
ゴーナの体から魂が飛び散る。
透明で、球の様相をしたそれはまるで露のようだった。
秋の草原をゴーナを中心に起こる風が撫で、そして、一気に無風となった。
静かに、魂の朝露が、秋の野に落ちる。
まるで紐の切れた首飾りのように。
一瞬の静寂。
身軽になったゴーナは、レイの手を握る。
風が吹き抜ける。
2人は飛んだ。
舞い上がる露が、朝日を反射する。
朝日に向かって飛ぶ。
そして光に体が満たされたとき、世界は、止まった。

全く知らない天井と、みすぼらしい蛍光灯が目に入る。
くすんだ白のそれを眺めながら、アニバは目を開けた。
「うッ・・・、」
全身が裂かれるような痛みを感じ、軽く呻く。
自らの体に降り注ぐガラス片を思い出し、もはや使い物にならないであろう自らの体から力を抜き、神経系統のリフレッシュ周期を極めて遅くする。
痛みがある程度引き、せいぜい疼く程度になった。
部屋のドアが開く。
アニバは首を動かすことはしなかった。
誰が入ってきたかなど、大体想像がつく。
「・・・分かってる。」
アニバはベッドの脇に立つ雌の竜人――コーデルに言う。
「お前らが何を聞きたいかも、俺が何を話せば満足するかも、話すべき内容も。」
「・・・・・・。」
無言の圧力を感じる。
「・・・頼む。・・・今は、1つだけにしてくれ・・・。贅沢なのは分かってるが、
「レイを返して。」
コーデルが口を開く。
強い口調ではあるが、彼女の表情が即座に汲み取れるほど、その声は震えていた。
「いえ、返してとまでは言わない。・・・ただ、どうすれば彼が帰ってくるのか、教えて。」
コーデルは泣かない。
もう零れるほどの涙は残っていない。
ホテルでの一件から、まだ24時間も経過していない。
彼女も、体力は限界だった。
一刻も早く睡眠を取らなくては、この場に倒れこんでしまいそうだ。
それでも彼女がここに居るのは、個の問いの回答を得るためだった。
数秒の、彼女にとっては長い長い思考の後、アニバがそれを示した。
「彼は、今はこの世界には存在しない。」
コーデルの膝から力が抜ける。
リノリウムの冷たい床にへたり込む。
彼女の感情の高ぶりを押さえるように、アニバが続ける。
「彼が存在するとしたら、お前たちが押収したであろう寄居局のHDDの中だ。」
小さく息をつきながら、コーデルが顔を上げた。
「・・・彼の魂は今、その中に情報としてのみ存在する。」
「それって・・・、」
「まあ、彼らなら心配ないだろ、2人とも、妙にしぶとい。」
・・・俺よりもな。
その一言を口の中に留め、アニバは続ける。
段々と、晴れやかな気分になってくる自分に気付いた。
「どうせお前らならとっくにパチってるだろ。」
「・・・?」
「HDDだ。かなりでかいからすぐに分かるさ。」
「・・・・・・分かった、探してみる。」
コーデルの顔が少し柔らかくなるのを、アニバは穏やかな気持ちで見つめていた。

――Spot

数十日後。
再開発の折、後先考えずに増改築を繰り返した市内の環状線は複雑な起伏とカーブを描きながら、朝のビル郡の光を受けて走行する。
まだ高くない朝日をバックに、その車窓に人々の日常を映し出しながら。
車内で浮いたような顔をして立つ男の体の上を、影が滑る。
雨は降っていない。
朝の埃の中を走る鈍行列車の減速が、車内のコーデルの体を押す。
コーデルは上着を羽織り、席を立った。

押収物内訳

・種別 不動産  土地・及び建造物
・種別 電子機器 メインコンピュータ



・種別 電子機器 長大規模HDD
――以上――

最近珍しくなった紙媒体での情報は、最新技術の結集された警察局特別技術研究所には似つかわしくないように思う。
因みに、地図もこの紙に記された状態で送られてきた。
・・・手書きで。

ドアが開く。
駅名と紙の上の文字を見比べ、皺だらけの紙を上着のポケットに入れる。
朝の埃臭い大気が流れ込む。
コーデルは上着を羽織りなおし、鼻にかかる前髪をはらう。
晩秋の朝は流石に寒く、一瞬、ホームに降り立つのを躊躇うものの、発射ベルに追い出された。
まだ通勤の時間帯には早く、ホームには他の人影は2〜3人しか見当たらない。
駅のすぐ前に、目指す巨大な建物が見える。
「・・・意外と早く着いたわね・・・。」
私有地を突っ切る私道をゆっくりと歩きながら、技研の巨大で無機質な建物に近付いた。

15分後。
若い男に渡された名刺には、黒く潰れたような肩書きが延々と羅列してあった。
警察局特別技術研究所。
恐らく、この町で一番、過去から遠い場所。
脳の電子回路化、魂のデジタル化を筆頭に、体の機械化、ライフラインの全自動化と、「それ系」にはめっぽう強い警察局屈指の直属研究機関。
もっとも、最近は民間の研究もかなり行っており、事実上は半委託施設となっているのだが。
名刺を眺めながら、男に促されるままに長い長い廊下を歩く。
「ここです。」
男が立ち止まり、全て同じにも見える大量のドアのうちの1つを開けると部屋の中が見えた。
「通電試験は終わってます、後は起動のみですよ。」
男が言う。
コーデルが覗き込むと巨大なHDDシステムが見えた。
「完全なスタンドアローンなので、安心してください。」
男がレバーを下げると、大量のディスクが一気に回転を始めた。

18000rpmの回転の中で、レイは目を覚ました。
正確には、覚醒をしたのは世界だ。
世界と、ゴーナと、レイが一気に活動を始めた。
上を向くと、ゴーナが世界の天井を眺めているのが見えた。
レイは彼女の膝の上に腰掛け、彼女の下から彼女の空を眺めているのだ。
「おはよう。」
彼女は言った。
ゴーナが下を向き、レイと目が合った。
少し、成長したように見えた。
肥大化しすぎたディスクからオーバーフローしたデータの一部がそうさせたのであろう。
彼女の顔からはあどけなさが消え、切れ長の目の、美しい竜になっていた。
「・・おはよう。」
レイが答えると、ゴーナがレイの体を優しく抱きしめる。
「・・・・・・そばにいてくれて、うれしかったよ。」
世界に再び、光が満ちた。

――それからしばらく後、
ここ数年間の課題であった人間の脳の完全な電子化の決定打となる画期的なOSが発表されることとなる。
類似品が同時期に複数発表されたものの、このOSの安定感は群を抜いていたと言う。
瞬く間に普及したこの次世代OSは全体シェアの8〜9割を占めるに至る。
その雛形が、かつての寄居局の統括プログラムの試作形としてのGAUNAであることを知る者はそう多くない。
そのソースコードの中に、用途不明の巨大モジュールが発見されたのは、発売の直後であったと言う。
物議を醸したこのモジュールは、動作状全く必要ないものであるにもかかわらず、削除するとシステムそれ自体の安定性に多大な影響を及ぼした。
このモジュールはかなりの長さであり、短縮・削除に成功すればコードのかなりの削減につながるのだが、発表からどれほど時間が経とうともそれに成功したものは現れなかった。
やがてこのモジュールは、システムそのもののデファクトスタンダードとして定着することになるのだが、そのからくりを知るものもまた、数えるほどしか存在しないのだ。
その両方の事実を知る、数少ない証人の中の独りとなったコーデルにとって、それは彼がここに居た証であり、そして彼女の根底に刻み込まれた魂の痕跡ですらあると、自らの脳を制御するシステムソフトウェアに思いを馳せながら、彼女は時々考えるのだ。

――子竜は抱きしめた話し相手を決して離す事無く、いつまでも独りきりで幸せに暮らすことを選びました。

――了――

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