深い森の中に隠れるようにしてひっそりと佇む、閑静な小村。
ここは遥かな昔からこの地方に点在する、古い部族達の集落の1つ。
彼らは決してお互いの部族の人間を敵視し合うようなことはなく、寧ろ少ない物資を物々交換したり情報を共有することで少しずつ繁栄を遂げてきたのだ。
だがそんな彼らには、強大極まりない2つの敵がいた。
その1つがつい最近になって建国され、徐々にその領土の拡大を始めたある1つの国である。
サルナークと呼ばれるその国はまだ人々の団結も弱く国としての勢力もそれ程大きなものではなかったのだが、森に住む少数の部族達を"蛮族"という名で蔑んでは領土の拡大のために武力の行使を微塵も惜しまない国だった。
殊に最近は遠征の兵の中に空を飛ぶドラゴンを組み入れた竜騎士達が猛威を奮い、各地で大勢の部族達が抵抗も空しく次々と打ち滅ぼされているという。
そして彼らにとってのもう1つの脅威が・・・予てから村の近隣の森に棲んでいたある凶暴な野生のドラゴンだった。
これはそんな激動の時代に生きた、ある少女とドラゴンの物語である。

「またドラゴンが襲ってきたぞー!」
「急げ!女と子供達を森に避難させるんだ!」
深夜の平和な静寂を切り裂いて辺りに響き渡る、大勢の男達の怒声。
見張りからこれで5度目となるドラゴン襲撃の知らせが届けられると、静かだったはずの村中が突如として重い緊迫感に包まれていた。
これまでにドラゴンの手に掛かって命を落とした人々の数は十数人にも上り、不運にもこの村はサルナーク軍の到来を待たずして既に壊滅の1歩手前まで追い込まれていたのだ。
そして今夜、ある少女とその両親が村の喧噪にも気付かずに深い眠りへと落ちていた。

「ん・・・うん・・・?」
何か外が騒がしいような気がする。
薄っすらと耳に届いてくる音と言えば、大勢の人達が何かを叫ぶような声と大きな生き物の足音。
そう言えば今日は・・・大変!
「お父さん!お母さん!起きて!早く早く!」
「ど、どうかしたのか・・・?」
まだ夢の世界から抜け出せていないのか、父が寝惚けた声を漏らしてくる。
「ドラゴンが来たんだよ!早く逃げないと!」
「な、何だって!?」
「大変!すぐに着替えるのよ。さあ早く!」

やがてドタバタと慌しい時間を挟んでようやく家の外に出てみると、既にほとんどの人達が逃げ出した後らしい寂しげな村の様子が目に飛び込んできた。
村の到る所で焚かれていたはずの篝火は全て消されていて、人気のない質素な家々だけがポツンと静寂の中に取り残されている。
だがあまりにも静かなその様子に思わずホッと胸を撫で下ろし掛けたその時、突然森の中から巨大な黒い影が飛び出してきていた。
「グオアアアアァーー!」
「ひっ・・・!」
親子3人で凶暴なドラゴンの前に身を晒してしまい、私は恐ろしさのあまりその場に立ち竦んでしまっていた。
ドラゴンの瞳の無い真っ白な双眸が漆黒の体に妖しく映え、何とも言えない危険な輝きを孕んでいる。

「早く、早く逃げるのよ!」
そんな私の背中を、両親がまるで叩くかのように激しく摩った。
だが何とか私の足が動くようになった次の瞬間、今度は何故か両親の方がピタリと動きを止める。
「う・・・な、何だ・・・?体が・・・」
「に、逃げて・・・早く・・・逃げなさい・・・!」
どうやっても動かぬ両親の体を訝る間も無く、私は徐々に肉迫してくるドラゴンの恐ろしさに打ち負けて彼らをその場に置き去りにしたまま真っ暗な闇に覆われた森の中へと駆け出していった。
「う、うわああああっ!」
「きゃあああああっ!!」
ややあって背後から聞こえてきた父と母の断末魔が、私の胸に深々と突き刺さる。
両親を失った悲しみに私の目には何時の間にか大粒の涙が溢れ出したものの、それでも私は曇った視界のまま足場の悪い森の中を走り続けた。

ガッ・・・バシィッ
「きゃあっ!」
だが次の瞬間地面から突き出ていた岩に躓き、走ってきた勢いもそのままに前につんのめってしまう。
そして眼前に一瞬細い木の枝が見えたかと思うと、それが瞬く間に私の視界を奪っていた。
「う・・・うぁ・・・目が・・・ああぁ・・・」
傷付いた目から溢れ出す熱い血と激しい痛みが、私の頭の中を黒々とした絶望で塗り潰していく。
瞼は開けているはずなのに一条の月明かりすら見えないという恐ろしい事実に、私は湿った地面に突っ伏したままひたすらに血の涙を流して泣き続けていた。

縄張りを荒された腹いせに2人の人間を手に掛けて住み処に戻ると、ワシは洞窟の近くに誰もいないことを確認してからそっと地面の上に蹲った。
近頃は村を襲っても何処ぞに潜んだ見張りのお陰ですぐに人間達に逃げられてしまっていたのだ。
だが今夜は不運にも逃げ遅れたと見える人間達を腹に収めたお陰で、少しはゆっくりと寝られることだろう。
そして静かに目を瞑ると、ワシは全身の力を抜きながら来たるべき代償に身を委ねる準備を整えていた。
「グ・・・ウゥ・・・」
やがてもう少しで眠りに落ちそうになった次の瞬間、全身に甘い痺れが襲ってくる。
とは言うものの、ビリビリと痙攣するようなその感覚にもワシはもう慣れていた。
"眼"の力を行使した反動なのだが、今夜使ったのはたった2人の獲物の体を少々麻痺させる程度の弱い力だ。
恐らくはものの1時間もすれば、元通り動けるようになることだろう。
ワシは胸の内でそう決め込むと、相変わらず動かぬ体にも構わずにそのまま深い眠りへと落ちていった。

「う・・・うぅ・・・」
突然目に走ったズキンという鋭い痛みで、私は意識を取り戻していた。
ここは・・・まだ森の中なのだろうか?
だが相変わらず怪我をした両目からは光が失われたままで、時間を置いても視力が回復するような気配はない。
一瞬にして両親と目を失ってしまったという耐え難い悲しみに、私はまた泣き出しそうになるのをグッと堪えていた。
たとえどんなに泣き喚いたところで、目が痛む以外に何が起こるわけでもない。
今はそれよりも、どうやって無事に村に帰るかを考えることの方が重要だったのだ。
村の誰かに見つけてもらえればそれに越したことはないのだが、この様子ではそれも望み薄といったところだろう。
それでも、自分から動かなければ何も状況が変わらないことは明白だ。
私は今にも挫けそうになるのを必死で我慢しながら立ち上がると、慎重に手探りで森の中を歩き始めていた。

「おい・・・流石にあのドラゴンをこれ以上のさばらせておくのはまずいんじゃないか?」
「そうだとも・・・昨日も、8歳の少女とその両親が逃げ遅れてドラゴンの犠牲になったそうじゃないか」
「わかっている。だが、皆も知っているだろう?あのドラゴンに睨み付けられると、体が動かなくなるんだぞ」
村の長を囲んで数人の男達がそんなドラゴン退治の相談をしていると、やがて別の男が随分と慌てた様子で森の中から走ってきていた。
「おい!見つけたぞ!いたんだ、あいつが!」
「お、落ち着けって・・・一体何を見つけたって言うんだ?」
息切れする程必死で走ってきたせいか、ぶつ切りになった男の言葉を聞いてその場にいた全員が彼を落ち着かせようと声を掛ける。
「あのドラゴンの水飲み場だよ。ここから南へ行ったところに、小さい泉があったんだ。そこであいつが・・・」
「水を飲んでいたのか?」
「あ、ああ・・・あそこで待ち伏せして一斉に襲い掛かれば、いくらあのドラゴンだって・・・」

それを聞くと、俺は顎に手を当てて少し考え込んでいた。
確かにドラゴンの待つ洞窟の中へと攻め込んでいくよりも、外で待ち伏せできるのならこれ程有利なことはない。
だがいずれにしてもドラゴンにあの金縛りの能力がある以上、幾許かの犠牲が出ることは覚悟する必要がある。
「よし・・・それじゃあ明日、早朝から湖を張るとしよう。動ける男達は全員集めるんだ。失敗はできないぞ」
失敗すればこの村が危ない・・・村を束ねる長としては当然のようにそんな不安が脳裏に過ったものの、このままドラゴンのいいように村を荒されるのをこれ以上指を咥えて見ている見ているわけにもいかないだろう。
そして俺は村人達の士気を少しでも盛り上げるように大きく号令を掛けると、ドラゴンと戦うための準備を整えようと自分の家へと引き返していた。

ザク・・・ザク・・・
次の日の朝、大勢の武器を持った男達がドラゴンと戦うために森の中を静かに進んでいた。
先頭を行くのは昨日ドラゴンの水飲み場を見つけたというあの男で、そのすぐ後ろに村の長がついている。
ある意味で、これは村の存亡を懸けた戦いになることだろう。
もしドラゴンを討つことができなければ、男達のいない小村などものの一晩で滅ぼされてしまうに違いない。
だが長はそんな不安を微塵も表には出すまいと、必死で戦いに赴く険しい表情を保ち続けていた。

「着いたぞ。ここだ・・・」
やがて森の中を歩くこと数十分、深い木々に囲まれた小さな泉が不意に我々の前にその姿を現した。
そして地面から湧き出す水に湿った地面へと目を凝らして見ると、男の言う通りあのドラゴンのものと見える大きな足跡が幾つも辺りに残されている。
「確かにドラゴンの水飲み場のようだ。よし、奴が何時やってきてもいいように、慎重に身を隠すとしよう」
俺がそう言うと、後に従っていた大勢の男達が一斉に頷いていた。
幸い、鬱蒼と立ち並ぶ無数の大木のお陰で隠れ場所には事欠かずに済みそうだ。
だが一応慎重を期して木の上に数人の見張りを立てると、俺も他の皆と同じように木の陰へと身を潜める。

ドス・・・ドス・・・
それから1時間程も待った頃だろうか・・・?
なかなかやってくる気配のない獲物を今か今かと待ち構えていると、ようやく樹上の見張りからドラゴンの接近が全員に伝えられる。
「来たぞ・・・慌てるなよ」
「ああ、わかってる」
そして小声で他の男達と呼吸を合わせると、俺はいよいよ視界に入ってきた巨大な黒竜を密かに睨み付けた。

おかしい・・・何処からかはわからぬが、まるで大勢の誰かに見られているかのような気配がある。
ワシは水を飲むためにやってきた泉の水面をじっと見つめたまま、しばらく周囲の状況に意識を振り向けていた。
気配の正体が鳥や獣の類ではないことはすぐにわかる。
何故ならその奇妙な視線の1つ1つが、このワシに対しての激しい殺意に満ち満ちていたからだ。
恐らくは先日襲った村の人間達が、ワシへの復讐を企てて待ち伏せていたのだろう。
しかも、どうやら何時の間にか人間達に周囲をすっかりと取り囲まれてしまっているらしい。
フン・・・人間の分際でワシに戦いを挑もうとは面白い・・・ここは寧ろ、その誘いに乗ってやろうではないか。
ワシは周囲に気取られぬように小さく息を吐くと、そっと水を飲む振りをして澄んだ水面に鼻先を近付けていた。

「今だ!かかれぇ!」
次の瞬間、森中に響き渡るかのような怒号とともに木の陰から大勢の人間達が飛び掛かってくる。
だが思っていたよりも人数が多かったことに驚いてしまい、ワシは眼前に飛び出してきた2人の男達を睨み付けて動きを止めたまま爪を振り上げるのも忘れてその場に立ち尽くしていた。
ドッ!ドスッ!
「ウッ・・・グゥ・・・!」
その数瞬後、一斉に投げ付けられた無数の刃物の内の幾つかが鱗に護られていない脇腹や足の内側に突き刺さる。
そして突如として全身に走った鋭い傷の痛みに我を取り戻すと、ワシは先程から"眼"の力に掛かって身動きが取れずにいた眼前の2人の男達を力一杯引き裂いてやった。

ズバッ!ザグッ!
「ぐああぁっ!」
「ぎゃあっ!」
2つの濁った断末魔が周囲に響き渡り、その無残な光景を見ていた人間達の中に僅かばかりの動揺が走る。
とは言え、敵はまだ大勢残っていた。
1度に2人の人間を足止めすることしかできぬだけに、一斉に掛られたら流石に身を護ることは難しいだろう。
そして次々と白刃を振り翳して襲ってくる人間達を再び呪縛に捕らえると、ワシはクルリと踵を返して森の中へと逃げ出していた。
ただでさえ不覚にも手傷を負ってしまったというのに、こんな白昼からあれ程大勢の人間達を相手にしていたのでは流石に身がもたぬというものだ。
刃の刺さった傷口からはドクドクと鮮血が滴り続けているものの、ワシを手負いと思って勇ましく後を追ってくる人間達の気配が絶える様子はない。
何処かに身を隠そうにも、流れ落ちる血がワシの居場所を彼らに教えてしまうことだろう。

「ハァ・・・ハァ・・・」
だがしばらく人間達の追走を振り切ろうと森の中を走っていると、やがて全身が痺れるようなあの感覚が体を蝕み始めていた。
普段なら睡魔に打ち負ける深夜になってから呪縛の反動が出るはずなのだが、どうやら激しい出血を抱えて走り回ったお陰で体力を消耗してしまったのが裏目に出たらしい。
出血の方は大分収まってきたようだが、完全に体が動かなくなってしまう前に何処かに身を隠さなくては身動きの取れぬワシなど人間達のよい嬲り者にされてしまうことだろう。
「むぅ・・・仕方ない・・・取り敢えずは、あの岩陰に身を潜めるとしよう」
そして逃げ道からは少し外れたところにあった大きな岩に目を留めると、ワシは地面に血痕を残さぬようにそっとその陰へと身を滑り込ませていた。

「う・・・ぅ・・・ここ・・・何処なの・・・?」
朝を告げる小鳥たちの鳴き声で目が覚めてから、もうどのくらいの時間が経ったのだろうか・・・?
私は何も見えない真っ暗な闇の中に迷い込んだまま、もう丸1日以上も深い森を彷徨い続けていた。
何処からか騒がしい人々の声が聞こえるような気がするが、もしかしたら村が近いのかも知れない。
疲労と空腹と目の痛みが限界を迎え、ただただ荒い息だけが口から漏れていく。
お父さん・・・お母さん・・・誰か助けて・・・!
今にもそんな叫び声を上げてしまいそうになるのを、支えのない気力だけで押さえ付け続ける。
だがやがて前に突き出した両手に固い岩の感触が触れると、私はその場にトサッと腰を下ろしていた。
何だか不思議な岩だ。ゴツゴツしているように見えて、表面は奇妙な滑らかさを保っている。
しかもさして陽光を浴びているわけでもないのに、ほんのりと暖かいような気さえするのだ。
その感触が意外にも気持ち良くて、私は何時しかスリスリとその岩に頬を擦り付けていた。

「む・・・う・・・?」
"眼"を使った反動のせいで動けぬまま眠りに落ちようとしていたワシの傍に、突然人間の気配が寄り添ってくる。
しまった・・・やはり見つかってしまったか・・・どうやら、ワシの命もこれまでらしい。
だが何時まで経っても起きる気配のない喧噪を待っていたワシの腕に、不意にその人間が頬を擦り付けてくる。
そしてほとんど動かせぬ首を恨みながら何とかそちらに視線を動かすと、両目を怪我して失明しているらしい小さな少女が気持ち良さそうにワシの体を摩っていた。
数日間森の中を彷徨ったと見えるボロボロの服を着たその彼女は、恐らくは硬い鱗の感触のせいでワシのことを岩か何かと勘違いしているのだろう。
とは言えもしこの少女にワシの正体を感付かれれば、あの殺気に逸った人間達にワシの居場所が知られてしまうのは避けられそうにない。
4人の人間を相手に力を使ってしまった上にこの体力の消耗具合からすると、恐らく数時間はここで足止めを食うことになるはずだ。
それまで、この少女にワシの正体を隠し続けることができるのだろうか・・・?

温もりを求めてかワシの体の上を這い回る少女を相手にそれが途方もなく不可能に近いことは容易に想像できたものの、そうかといってこの少女を"眼"の呪縛にかけたところでワシへの反動が増すだけだった。
そしていよいよ、手探りで動く少女がワシの顔の方へと近付いてくる。
いくら目が見えぬとは言っても、角や顎に触れられればそれが岩などでないことはすぐに気が付くはずだ。
「・・・え・・・?」
やがて口の端から飛び出していた牙の先に可愛らしい指先が微かに触れた途端少女が何処か恐れを含んだ小さな声を漏らすと、ワシは潔く観念して固く目を閉じた。

心地よい手触りの岩の表面が突然帯びた奇妙な刺々しさに、私は岩を摩る手を思わずピタリと止めていた。
これは・・・この微かに濡れている尖った物は・・・もしかして何かの牙ではないのだろうか・・・?
だが片手で握っても手に余るほどのそれがもし牙だとすれば、凄まじい巨体の持ち主であることは間違いない。
「グルゥ・・・」
「ひっ・・・」
そして次の瞬間聞こえた重々しい唸り声に、思わず息の詰まるような悲鳴を上げてその場に尻餅をついてしまう。
まさか私が今まで触れていたのは岩などではなく・・・ドラゴン・・・?
「あ・・・あ・・・」
眠っていたドラゴンを起こしてしまったという事実に、私は真っ暗な闇の中で周囲の音に聞き耳を立てていた。

「そう怯えずとも、お前には何もせぬ・・・ワシは今、怪我で動けぬのだ・・・だから、静かにしてくれぬか?」
ドクンドクンと胸を打つ心臓の鼓動が、ドラゴンの声を聞いて更に激しく跳ね上がる。
だが取り敢えず襲われることだけはなさそうだという微かな希望に、私は大声で叫び声を上げるのだけはどうにか堪えることができたらしかった。
とそこへ、大勢の人間達が何やらガヤガヤと騒ぎながら近付いてくる気配が届いてくる。
「血痕は見えなくなったが、まだ遠くには行っていないはずだ。手分けして探そう」
「ああ!あの野郎、見つけたらただじゃおかねぇぞ!」
「今日こそ引導を渡してやれ!」
あれは・・・村の男達の声だ。
怪我をしたドラゴンを探しているということは、恐らく彼らは村の復讐のためにこのドラゴンを襲ったのだろう。
だとすれば今私の目の前にいるのは・・・お父さんとお母さんの仇だということになる。

「そ、それじゃああなたが・・・私のお父さんとお母さんを殺したのね・・・?」
「何・・・?」
唐突に不安と恐怖から深い憎しみの様相を呈し始めた少女の表情の変化に、ワシは思わずそう聞き返してしまっていた。
つい最近手に掛けた夫婦らしき人間と言えば、先日あの村を襲った時に逃げ遅れた2人の男女くらいのものだ。
だがそう言えばあの時、傍らに小さな少女がいたような気がしないでもない。
すぐに森の中に消えていってしまったせいでよくは見えなかったが、もしやあれがこの少女だったのだろうか?
そんな淡い追憶に耽っていたワシの眼前で、少女は静かにシクシクと泣き始めていた。
「よ、よくも・・・う・・・ううぅ・・・」
傷付いたその目で涙を流せばまた痛みが走るだろうに、次々と溢れ出してくる少女の涙が止まる様子はない。
両親の死を嘆く痛ましい少女の姿を見せられて、ワシは人間を食い殺したことに初めて深い罪悪感を感じていた。

「すぐそこに、ワシを殺そうとしている人間達が大勢いる・・・ワシが憎いのなら、助けを呼びに行くがいい」
ワシがそう言うと、少女の体がピクリと反応する。
光を失った少女にとって、これはまたとない復讐の好機に違いない。
それに自ら手を貸すなど愚かしい限りなのだが、この憐れな少女には何らかの償いをせねばならぬだろう。
だが当然大声で男達を呼びに行くだろうと思っていたワシの予想に反して、少女は小さく頭を振っていた。
「お前は・・・このワシが憎くはないのか・・・?」
「憎いわ、とても・・・でもあなたを殺したって・・・お父さんやお母さんが生き返るわけじゃないもの・・・」
相変わらず咽ぶように泣き続ける少女は、それでも近くの男達には聞こえぬようにそっと声を押し殺していた。
なんということだ・・・まだ幼い娘だというのに、彼女は己の憎しみよりもワシへの慈悲を取るというのか。
その目の怪我にしても元を辿ればワシから逃げようとして負ったものであろうことは容易に想像がつくのだが、それすらも今の少女には取るに足らない些細なことでしかないのだろう。

やがてしばらく泣き続けたお陰でようやく元の落ち着きを取り戻すと、少女がそっと涙を拭いながらゆっくりとその場に立ち上がる。
「これから・・・どうするのだ・・・?」
そのワシの問いに、少女は黙って背後から聞こえてくる人間達のざわめきに耳を傾けていた。
「怪我をして動けないんでしょう・・・?だったら・・・私もあなたの傍にいるわ・・・」
「何故だ?ワシなどの傍にいたところで、一体お前にどんな意味があると・・・」
だがそう言い掛けた途端に、少女がタッと跳ねるようにワシの胸元へと飛び込んでくる。
「心細かったの・・・今が昼か夜かもわからない森の中をずっと独りぼっちで歩き回って・・・私・・・」
動かぬ体のお陰で少女の体を受け止めてやることもできずに、ワシは大きな顎に縋り付く彼女の温もりにただただ胸を痛めていた。
いくら憎らしい両親の仇だと言っても、彼女にとってワシはその永遠の闇の中で初めて見つけた話し相手なのだ。
たとえこのまま殺気に逸ったあの人間達の前へ出ていって無事に助け出されたとしても、親もなく目も見えぬこの少女にもう村での居場所など残っていないのだろう。

「しかし・・・ワシはお前の両親を無残に食い殺したのだぞ?それでも、お前はワシの傍にいて平気なのか?」
「あなたが村を襲うのは、いつも村の皆が大勢で狩りに出掛けた日・・・縄張りを侵されて怒ったんでしょう?」
それを聞いて、何とも言いようのない激しい衝撃がワシの中を突き抜けていった。
「だから私、あなたが本当は悪いドラゴンじゃないことは知ってるの・・・村の人達は、皆臆病なだけなのよ」
あの村の大人達が誰も気付いてはおらぬであろうことをこんな幼い少女に見事に言い当てられて、何も答えることができずに思わず口を噤んでしまう。
あの村に住む人間達の誰よりもワシのことを理解していた少女の大切な者達を一時の激情に任せて殺めてしまったという事実だけが、ワシの胸を一層深く抉っていた。
こうなればもう、ワシがこの少女にしてやれることはたったの1つしかない。
「そうか・・・ワシは、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだな・・・」
そしてそう言いながら、ワシは鱗に覆われた頬に顔を埋めている少女へと優しく視線を投げ掛けた。

「お前の目に、失われた光を戻してやろうぞ・・・それが、今のワシにできる唯一の償いだからな・・・」
「え・・・?」
不意にドラゴンの口から聞こえてきたその言葉に、私は再び泣き出しそうになっていた顔をそっと上げていた。
やがて眼前のドラゴンが何かを念じているかのような気配が伝わってくると、もう決して光を見ることはないと思っていた私の目に鮮やかな森の景色が浮かび上がってくる。
「あ・・・あぁ・・・」
そしてそれまで私が抱き付いていた巨大なドラゴンへと目を向けた瞬間、ドラゴンの顔から何やら黒い石のようなものが2つ、ポロポロと湿った土の上に転がり落ちていった。
「これ・・・は・・・どうして・・・?」
「ワシの眼には、強き願いを叶える力がある。だが何かの願いを叶えれば、必ずそれと同じ報いが生まれるのだ」

そう言ったドラゴンの眼があったであろう2つの大きな眼窩が、今や空虚な空洞と化している。
では、今ドラゴンの顔から零れ落ちたのは・・・ドラゴンの眼・・・?
「地に落ちたその石を持っていくがよい・・・きっと役に立つはずだ。だが、これだけは覚えておくのだぞ」
やがて微かに語気を強めたドラゴンの声が、私の脳裏にゆっくりと流れ込んでくる。
「決して、自然の摂理に逆らった願いを込めてはならぬ。もしその禁を破れば、必ずや悲劇に見舞われるだろう」
「で、でも、あなたは・・・?」
その私の問いに、両眼を失ったドラゴンがほんの少しだけぎこちない笑みを浮かべた。
「いずれにしても、あの人間達にワシが見つかるのは時間の問題だ。だから・・・ワシはもう消えるとしよう」
「そんな・・・」
「ワシのために、お前が泣く必要はない。力強く生きるのだ。こんなワシのことをも、想ってくれるのならな」

ワシはすぐ傍にいるであろう少女にそう語り掛けると、そっと胸の内である禁じられた滅びの言葉を念じていた。
ヴァルアス・・・
次の瞬間、"眼"の反動で縛められていた体がフッと軽くなる。
そうしてようやく自由になった身で少女の小さな体を優しく抱き締めると、ワシは徐々に崩れ落ちていく手の指先で黒く美しい宝玉に姿を変えたであろう眼を1つだけ拾い上げた。
そしてその眼を少女の手に握らせた途端に、ワシの手が白き灰となってバフッと虚空に霧散する。
「さあ・・・もう行くのだ」
「うん・・・私、もう泣かないわ・・・」
やがて可愛らしくも芯の通ったその少女の言葉を聞き届けると、ワシの意識が遥かなる蒼き天へと召されていた。

「お父さん・・・お母さん・・・」
自然の摂理に逆らった願い・・・それはきっと、命を弄ぶことなのだろう。
どんな願いも聞き届ける不思議な石を手にした今となっても、失ってしまった両親はもう戻っては来ない。
だが、私はあのドラゴンにもう2度と泣かないと約束したのだ。
悲しい思い出のあるあの村を離れて、何処か遠い所で静かに暮らすとしよう。
私はそう胸に決めると、そっと山道を歩き出していた。
その遥か後ろの方から、ドラゴンを殺そうと躍起になっている村人達が溢れ出してくる。
もうじき、彼らはあの岩陰でドラゴンの唯一の亡骸となったもう1つの"眼"を見つけることだろう。
いずれはそれが何処かで大きな災いの種となるのかも知れないが、私はもう背後を振り向くこともなく深い森の奥へと入っていった。

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