「ハァ・・・ハァ・・・」
山裾に広がる小さな町の中を、輝くような黄色い毛を靡かせた小柄なドラゴンが懸命に走っていた。
「いたぞ!あっちだ!」
武器を持った数人の男達が、あちらこちらで怒号を上げる。

私はほんの少し、ほんの少しの家畜を奪って逃げるだけのつもりだったのだ。
ここ数年の異常気象のせいで、すでに私の住む山の食料は枯渇していた。
空腹に喘ぎながら人間の街へ忍び込み、放し飼いにされていた鶏を襲ったまではよかった。
そこを運悪く人間に見つからなければ、こんなことにはならなかったというのに・・・
必死で建物の角を曲がりながら殺気立つ人間の気配から離れようとしているうちに、私はいつしか町の奥深くへと迷い込んでしまっていた。
「こっちに逃げたぞ」
「あそこの道は塞いだか?」
周囲から聞こえる私を探す者達の声。もし捕まれば、まず生きてはいられぬだろう。
私は建物の陰で震えながら、彼らに見つからぬことを祈った。
だが、追っ手の手は確実にすぐそこまで迫っている。
「し、しかたない・・・人間がいないことを祈るまでだ」
私はそう呟くと、手近にあった人間の家屋へ飛び込んだ。
バンッ
「わぁっ!」
戸を開けて中に入った瞬間、人間の叫び声が聞こえる。
しまった、人間がいたのか・・・私もこれまでだな・・・

突然家の中に飛び込んできた闖入者に驚き、僕は大声を上げた。
慌てて音のした方を振り向くと、見なれない黄色の体毛に覆われたドラゴンが立っている。
「声が聞こえたぞ!?」
「こっちだ!」
それに続いて、なにやらがやがやと辺りが騒がしくなった。
追われてるのか?このドラゴン・・・
ドラゴンの目を覗くと、そこには落胆と絶望の暗い光が宿っていた。
「早く!隠れて!」
僕は咄嗟に、ドラゴンだけに聞こえるように声を潜めて叫んだ。
その声に反応し、ドラゴンがサッと近くの家具の陰に身を隠す。
その直後、殺気立った男達が家の戸をバンと蹴り開けた。
「な、何だい、あんたら?」
わざと驚いたふりをしてとぼける。
「この家にドラゴンが逃げ込まなかったか?黄色い奴だ」
「まさか。そんなのが入ってきたら大声出してるよ」
「だがさっき声が聞こえたぞ?わぁってな」
僕はなるべくドラゴンの隠れている家具のほうを見ないようにしながら、冷静に答えた。
「ああ、さっきカップを落としちゃったんだ。熱いコーヒーの入ったやつでさ。幸い火傷はしなくて済んだけど」
「・・・本当か?」
怪訝そうな面持ちで、先頭の男が聞き返してくる。
「本当だよ。後始末が大変なんだから後にしてくれないか?ドラゴンを見かけたら知らせるからさ」
「・・・よし、すぐに知らせろよ。俺の家畜を襲いやがった奴だからな。生かしちゃおけねぇ」
男はそういうと、後に続いた数人の連中を従えて家を出て行った。
外から、捜索を続ける指示がくぐもった声で聞こえてくる。
辺りが完全に静かになると、僕はドラゴンの隠れている方を振り返った。
その家具の陰から、様子を窺うべくドラゴンが恐る恐る首を覗かせていた。

「なぜ、私を匿ったのだ?」
安全なのを確認したのか、ドラゴンは家具の陰から出てくると僕にそう聞いた。
「なぜって・・・その、綺麗だったからさ」
「綺麗だと?」
家に飛び込んできたドラゴンを一目見たとき、僕はその姿態の美しさに見とれていたのだ。
スラリと伸びたドラゴンの首から体にかけて艶やかに光を弾く黄色の体毛がそよそよと揺れ、顔はまるで馬のそれのように細長い角錐の形をしていた。
ドラゴンらしい気品さが体中に満ち溢れている。
僕には、それがとても家畜を襲うような生物には見えなかった。
「お前は私が怖くはないのか?」
「家畜を襲ったって聞いたけど・・・逃げてきたってことは人間を襲ったりはしてないんだろ?」
「人間を襲ってどうなるというのだ。私は生きるために少しばかりその・・・食料をだな・・・」
告白するのが憚られるのか、ドラゴンが俯く。
「そ、そんなことはどうでもよい。世話になった」
ばつが悪そうに、ドラゴンはそっと僕に背中を向けると家を出て行こうとした。
「あ、ま、待ちなよ。今出て行ったら危ないよ」
「しかしいつまでもここにいるわけには・・・お前にも危険が及ぶかも知れぬのだぞ?」
首だけをこちらに振り向け、ドラゴンが呟く。
「いいよそんなの。町中逃げ回って疲れてるんだろ?あっちの部屋にベッドがあるから、そこで休むといいよ」
「ベッド・・・」
ドラゴンはしばし何か考え事をしていたが、やがてのそのそとベッドのある部屋へ入って行った。

その後結局、夜になるまでドラゴンが部屋から出てくることはなかった。
部屋の中を覗くと、心底安心したのかドラゴンが安らかな寝顔でベッドの上に蹲っている。
僕は寝る支度をすると、ドラゴンを起こさないようにそっと部屋に入った。
スースーと寝ているドラゴンの横のスペースに、ゆっくりと体を入れる。
柔らかいベッドが僕の体重でさらに沈み込み、ドラゴンがハッと目を覚ました。
「な、何をしておるのだ!?」
ドラゴンが慌てて飛び起き、ベッドの隅に寄って僕を見つめる。
「何って・・・僕も寝るんだよ」
「そ、それなら私は床に・・・」
「いいから・・・一緒に寝てくれ」
逃げるようにベッドを降りようとするドラゴンを強い口調で制すると、ドラゴンは迷いながらも前と同じようにベッドの上に蹲った。

フサフサのドラゴンの体はとても暖かかった。
ドラゴンは落ちつかないのかしばらく目を開けたままそわそわとしていたが、僕が眠りにつくと後を追うようにドラゴンも目を閉じた。

翌日目が覚めると、ドラゴンはすでに起きて床の上に蹲っていた。
もそもそと動き出した僕の様子に気付いたのか、ドラゴンが首を持ち上げてこちらを振り向く。
「ん・・・いつ起きたんだ?」
「つい先程だ。起こしてしまったか?」
「いや、全然・・・」
眠気目を擦りながらよく見ると、ドラゴンは朝方の寒さに少し震えているようだった。
まだ雪こそ降らないものの、季節はすでに冬に差しかかろうとしているのだ。
このドラゴンがわざわざ危険を犯してまで人間の町まで食べ物を取りにきたのは、もう山にも食べるものがなくなってしまったからなのだろう。
「寒いなら中に入れよ」
そう言ってかけていた布団を少し持ち上げてドラゴンを誘ったが、ドラゴンは顔を背けてボソボソと口を開いた。
「に、人間と寝るのはやはり気が進まぬ・・・」
「なんだ、僕が嫌いなのか?」
「い、いや、そういうわけでは・・・お前には感謝している・・・」
ドラゴンが慌ててこちらを振り向き弁明する。
「じゃあ入りなって」
「う、うむ・・・」
渋々、ドラゴンがベッドの中に潜り込んでくる。
その暖かい体から温もりを貪るように、僕はドラゴンの体に抱き付いた。
「・・・!」
それに驚き、ドラゴンが一瞬ビクッと身を縮める。
よほどあの男達に追い回されたのが恐怖だったのか、ドラゴンはまだ人間を信用しきれていないようだった。
「大丈夫、何もしないよ。暖め合おう」
「う・・・む・・・」

時間が経って少し落ち着いたのか、ドラゴンはやがて自分の方からも僕の体に触れ始めた。
僕の足にフサフサの尻尾を絡ませると、布団の中で柔らかい体毛に覆われた体を肌に擦りつけてくる。
室温の低さも相まって、ベッドの中に充満した熱気がこの上もなく気持ちよかった。
ドラゴンも緊張した体を癒すその温もりに、ウットリと目を閉じて身をまかせている。
ずっとこうしていたい気分だった。
ドラゴンもそれは同じらしく、僕の上にのしかかってはひたすら心地よさそうにスリスリと身を揺すっている。
「いたか?」
「いや、こっちにはいなかったぞ」
「じゃあやっぱり・・・」
そんな幸せな一時を邪魔するかのように、昨日の男達の声が近くから聞こえてきた。
「聞こえた?」
「ああ・・・またここに来るつもりかもしれぬぞ」
ドラゴンは急に神妙な顔になると、不安そうに辺りを見回した。
「早くどこかに隠れるんだ。また追い返してやるから」
「済まぬな・・・」
ドラゴンはベッドから降りると、近くにあったクローゼットの中に身を隠した。
小柄なドラゴンとはいえ大人には狭いクローゼットに無理矢理体を詰め込むと、窮屈そうに扉を閉める。
「動くなよ。音を立てたら見つかるぞ。そしたらお前も、多分僕も・・・お終いだ」
その言葉の意味を悟り、ドラゴンの体にピンと緊張が走る。
バン!
それに続いて、男達が扉を蹴り開ける音が辺りに響き渡った。

「小僧、いるか!?」
昨日の男達の怒鳴り声が聞こえてくる。僕は素知らぬ顔で寝起きを装うと、欠伸をしながら粗暴な男達を迎えた。
「ふぁ・・・今度は何だい?」
「やっぱりこの家にドラゴンが逃げ込んだとしか思えねぇ。家の中を調べさせてもらうぞ」
そう言いながら、家畜を襲われたという先頭の男が僕の了承も待たずにズカズカと家の中に上がりこんできた。
「おいおい、待ってくれよ」
僕は慌てて男を引き止めようとしたが、あまり派手に抵抗すると何かを感づかれる可能性もある。
ここは危険だが少しだけ家の中を調べさせて帰ってもらうのが得策のようだ。
「手短に頼むよ。出かける用事があるんだからさ」
「フン」
男は鼻を鳴らすと、バスルームへと入って行った。後に続いた他の男たちも、鎌だの斧だの物騒なものを持ちながら次々と家の中へ雪崩れ込んでくる。
誰かが寝室へ入ろうとしたら時間切れだ。すぐにでもあの男をひっ捕まえて帰らせなければならない。
リビングからキッチン、居間、トイレとあちこちを隅から隅まで男達が嗅ぎ回っていた。

と、そのうちの1人がまだ誰も調べていない寝室のドアの方に目を向けた。
まずい、早くあの男を見つけなければ!
僕はバスルームから出てきたリーダーの男を捕まえると、顔にしわを寄せて迫った。
「おいアンタ、もういいだろ?いいかげんにしないと警察を呼ぶぞ」
目の端でチラッと寝室の方を見やると、斧を持ったその男はすでに部屋のドアを開けて中を見回していた。
早く・・・寝室にあるのはベッドとテーブル、洋服ダンスに観音開きのクローゼットだけだ。
隠れている生き物を探すとしたらクローゼットしかない。
案の定、男が真っ直ぐにクローゼットの方に向かう。
「まあ待て、もう少しいいだろ?」
僕の焦燥を知ってか知らずか、リーダーの男が踏み止まる。
「大人数で勝手に他人の家に上がりこんできてなんだよその態度は?さっさと帰ってくれ」
視界の隅に映る男が右手で斧を構えたまま、左手をクローゼットの扉にかけた。
何かが飛び出してきてもすぐに斧を振り下ろせる体勢だ。
早く・・・引き上げると言ってくれ・・・
「チッ・・・おい、引き上げるぞ!」
ついにリーダーの男がそう声を上げた。しかし、時はすでに遅かった。
斧を持った男は引き上げの合図が聞こえたものの、せっかく手をかけたクローゼットを開けずに去るつもりはなかったようだ。
ガチャッ・・・
その絶望の音に、僕はリーダーの男の目も気にせずバッと寝室の方を覗き込んだ。
リーダーの男もそれにつられて背後を振り向く。
直後に巻き起こるであろう喧騒と惨劇に、僕はギュッと目を瞑った。

斧を持った男がクローゼットの中を一瞥し、俺の方に向かってフルフルと首を振る。
「ここにはいない」
その言葉を受けて軽く頷くと、俺はがやがやと集まってきていた他の男たちを引き連れて家を出た。
そして小声でそばにいた数人の男に声をかける。
「お前達はこの家を見張ってろ」
「やっぱりここにドラゴンがいるのか?」
「わからねぇ。だが俺達があれだけ張っててあの目立つドラゴンが誰にも見つからずに逃げられるはずがねぇ」
注意深く辺りを見回すようにして視線を巡らせると、俺は更に続けた。
「奴は出かける用事があると言ってた。もし奴が家を出てこなければ、ドラゴンが中にいると見て間違いない」
「もし出てきたら?」
「その時は・・・もう1度ゆっくりと調べさせてもらうだけだ」
それを聞いた数人が了解したとばかりに頷く。
「よし、他の奴らは周りを固めるぞ」

外が静かになると、僕は高鳴る胸を押さえながら両手でクローゼットを開けた。
クローゼットの中は中央が仕切り板で仕切られていて、2つの箱を合わせたような作りになっている。
その右側で、ドラゴンがきつく目を閉じて身を縮こめていた。
「大丈夫か?」
「ああ・・・奴らはどうした?」
「もう行ったよ」
それを聞いて、ドラゴンがゆっくりとクローゼットから這い出してきた。
「なぜ、私は見つからなかったのだ・・・?」
「もしあの男が左利きだったら見つかってた。危なかったよ」
あの時、男は利き腕で斧を振り上げたまま左の扉に手をかけた。
中央に取っ手のついた観音開きの扉は反対の手では開けにくい構造になっている。
その構造が、男の利き腕が、そして中央の仕切りが偶然にも全て噛み合い、ドラゴンは見つからずに済んだのだ。
もし1つでも何かが狂っていれば、今頃この部屋の中でどんな惨劇が起こっていたことか。
「またお前に迷惑をかけてしまったな・・・」
「僕の方こそ・・・奴らがきた時に頑として追い返していれば、お前をこんな目に遭わせなくても済んだんだ」

「・・・これからどうするのだ?」
ドラゴンが不安と申し訳なさを顔に滲ませながら、細々と声を絞り出す。
「奴らが見張ってるかもしれない。出かける用事があるって言ってしまったんだ」
「では、出かけるのか?」
「すぐに戻ってくるよ。目くらましにちょっと出てくるだけだ」
だが、ドラゴンは一層不安の色を濃くさせていた。
「どうかしたのか?」
「お前が出て行けば、お前のいない間奴らはここに押し入ってくるのではないか?」
ドラゴンにそう言われ、僕はハッと息を呑んだ。
しまった・・・確かに奴らならやりかねない。だが僕が出て行かなければやはり疑われてしまうだろう。
「くそっ、僕の考えが甘かった・・・どうすればいい?」
「もし私が見つかれば、お前もただでは済むまい。だが、そうかと言って他に隠れる場所もない」
ドラゴンの言葉の真意を悟り、僕は背筋に冷たい物が走るのを感じた。
「・・・強行突破する気・・・なのか・・・?」
ドラゴンがそれに答えるかのように、僕の目をジッと覗き込む。
黒水晶のように美しいドラゴンの漆黒の瞳が、それしか方法がないことを告げていた。
「・・・・・・わかった。町を突っ切って山の中まで逃げ込むんだな?」
「とても危険だぞ?奴らは私を殺すつもりだ。その私と共に逃げるということは・・・」
「わかってる。でも、もともとお前をここに引き込んだのは僕の意思だ。一緒に逃げよう」
僕は決心を固めると、ドラゴンと共にここを逃げ出す準備を始めた。

必要最低限の食料と衣服、その他の雑貨を小さめのカバンに詰めると、僕はドラゴンに目配せした。
「どうやって出て行くんだ?」
まさかドラゴンを伴ってのこのこと玄関から出て行くわけにもいかないだろう。
「私の背に乗るのだ。それなら逸れることはなかろう?」
ドラゴンはそう言うと、玄関の前で蹲り姿勢を低くした。
その肌触りのよいフサフサの背中に跨り、ドラゴンの首に腕を回す。
「しっかり掴まっておるのだぞ」
寝そべるようにしてドラゴンの背中にピタッと体を密着させると、僕はコクンと頷いた。
それを合図に、ドラゴンが扉を開けてバッと外に飛び出す。
一瞬遅れて、僕の家を見張っていた男達から声が上がった。
「ドラゴンが出てきたぞー!」
その声が消えるか消えないかの内に、にわかに周囲がざわめき出す。
「やはり見張られておったのだな」
ドラゴンは狭い路地を避けて山へと向かう大きな道を全力で走った。
背中に乗っている僕にも、自分達を狙う殺気の群れをそこら中に感じ取ることができる。

ふと後ろを振り返ると、武器を手にした数人の男達が後を追ってきていた。
その内の1人が、大きく振りかぶって手にしていた鎌を投げつけてくる。
ヒュンヒュンという恐ろしい風切り音とともに、僕達のすぐ横を鋭い鎌が放物線を描きながら通り過ぎていった。
「くそっ・・・無茶苦茶やる奴らだ・・・」
疾走するドラゴンの背に必死でしがみつきながら、農家の男達の気性の荒さに毒づく。
「前からもきたぞ」
ドラゴンにそう言われて前を向くと、左右の路地から数人の男達が飛び出して襲い掛かってきた。
振り下ろされた巨大なフォークをヒラリとかわし、ドラゴンが道を塞ぐ男達の中へと無理矢理突っ込んでいく。

怒りに身を任せた人間達が、次々と危険な何物かをこちらに投げつけてきた。
顔をしかめながら身を伏せ、鈍く光る刃物の雨をやり過ごす。
ドスッ
何とか窮地を脱すると、私は行く手を阻む人間の1人を突き飛ばして囲みを脱出することに成功した。
後はこのまま山まで辿り着けば、恐らくあの人間達も追っては来ないだろう。
「チクショウ!」
背後で、あの執拗に私を付け狙っていた男が叫ぶ声が小さく聞こえた。

背に乗せた人間の重さに耐えながら懸命に走り切り、私はついに山の麓に辿り着くことができた。
「ここまでくればもう大丈夫だろう」
私はハァハァと荒い息をつきながら、背後の人間に話しかけた。だが、返事がない。
人間は家を出るときと同じように私の背にぴったりと体をつけたまま、ピクリとも動こうとしなかった。
「どうかしたのか?」
そう言いながら後ろを振り向こうとした時、私は脇腹に何か温かいものが流れ落ちる感触があるのに気がついた。
そちらに目をやると、真っ赤な液体がポタポタと地面に水溜りを作っている。
「血・・・?」
私は慌てて、近くにあった枯れ木の根元に乗せていた人間を降ろした。
「う・・・」
苦痛に呻いた人間の背に、小振りの斧が1つ突き刺さっていた。
その痛々しい傷口から、人間の命が少しずつ溶け出している。
「まさか・・・」
不意に胸を締めつけた予感に来た道を振り返ると、真っ赤な血の跡が遥か彼方から点々と続いていた。

「しっかりするのだ!」
僕の背中に突き刺さっていた斧を抜き取ると、その傷口をドラゴンがペロリと舐める。
傷自体はそれほど深いものではないが、ドラゴンとの長い逃避行のうちに僕はすでに大量の血を失っていた。
フラフラと視界がぼやけ、時折意識がフッとなくなりかける。
もし気を失えば、恐らくそれが僕の最期になるだろう。

「ああ・・・どうすれば・・・」
私は死に瀕している人間を前にしながら、何もできずにウロウロと歩き回った。
あの時・・・暴徒と化した男達に凶器を投げつけられたときに聞こえたドスッという鈍い音・・・
私は逃げるのに必死で、背中に乗せた人間が衝撃に震えたのに気づくことができなかった。
この程度の傷なら、すぐに手当てをすれば十分に助かったはずだ。それなのに・・・
背後に延々と続く血の跡が、私の愚かさを責め苛む。
疎らに枯れ木の生えたこんな荒野と呼んでも差し支えない場所に、私はこの傷ついた人間を連れてきてしまった。
いや、そもそもこの人間は私のせいで傷を負ったのだ。もし死なせてしまえば、私が殺したのも同然になる。
この人間は、己の身が危険になるのを承知で私の命を救ってくれたというのに・・・
「う・・・ぅ・・・」
懸命に意識を保とうとしているのか、枯れ木にもたれかかったまま人間が呻いた。
「頼む・・・死ぬな・・・私のせいで死なないでくれ・・・」
「・・・い・・・」
焦燥に駆られる私の耳に、消え入るような小さな呟きが届く。
「な、何だ?よく聞こえぬ」
ドサッと地面に倒れ込んでブルブルと震える人間の口元に、私は耳を近づけた。
もう1度、ほとんど動かぬ唇の間からか細い声が漏れてくる。
「さ、寒い・・・」
致命的な失血に、人間の体を歯の根も合わぬような寒さが襲っていた。
両手で腕を抱えるようにして、人間が虚ろな瞳でガチガチと歯を鳴らしている。
私はいらぬ刺激を与えぬようにそっとその上に覆い被さると、フサフサの体毛に覆われた体で人間を包み込んだ。
「もう私にできるのはこのくらいだ・・・許してくれ・・・」

霞む視界の中に、ドラゴンの落ち着きを失った顔が映った。
その顔に、先程までの凛とした威厳など影も形も残っていない。
そこにあるのは、己の無力さに打ちひしがれたただ1匹の獣の姿だった。
フワリと体を包み込んだ暖かさに、この上もない幸せを感じる。
ああ・・・ずっとこうしていたい・・・でも、もう・・・
どう抗っても止める術のない意識の消滅が、容赦なく僕に襲いかかってくる。
一陣の冷たい山風が、ヒュウっと辺りに吹き渡った。

「う・・・うう・・・うああああああ・・・」
2度と動かなくなった人間の亡骸の上に突っ伏しながら、私は泣いていた。
いくら悔やんでも、いくら己を責めても、犯してしまった間違いを取り戻すことなどできない。
「済まぬ・・・うう・・・許してくれ・・・ゆ、許してくれ・・・・・・」
止めど無く流れ落ちる涙が、ポタポタと乾いた地面を濡らす。
「私を恨むがいい・・・呪うがいい・・・頼む・・・そんな顔で逝くな・・・」
最後の最後に与えられた温もりに緩んだ穏やかな人間の顔が、更に私の心を深く深く抉った。

私は一体いつまで泣いていたのだろう。もうどのくらい時間が経ったのかすらわからなかった。
私の命に、一体何の価値があったというのか。私がしたことといえば、己の食欲を満たすために人間を怒らせ、あまつさえ命の恩人を死に追いやっただけではないか。
もはや、私に生きていく資格などない。何がドラゴンだ。誇り高い聖なる生き物だと?
これほど野蛮で愚かで滑稽なドラゴンなど・・・う・・・くく・・・・・・
悔やんでも悔やみ切れぬ切なさが、いつまで経っても拭い去ることができなかった。
もう1度・・・もう1度この人間の元気な顔が見たい。それができるのなら、私の命など投げ出してもいい。
生き返らせることなどできるはずもない。お前に会うために、私も後を追おう。
お前は私を許せないだろう?そう言ってくれ。目を開けてそう罵ってくれ。
そうしてもらえれば、私は堕ちたドラゴンとして生きていける。
なのに・・・お前のその幸せそうな微笑が、私を切り刻むのだ。
すでに冷たくなった人間の上で、私はひたすらに祈り続けた。

「待ってたよ」
「お前は・・・」
眩いばかりの光の中で、逆光に顔が隠れた人間が私を呼んでいた。
「僕はお前を恨んでなんかいないよ。お前を助けたのは僕の意思だって言ったろ?」
「では・・・許してくれるのか・・・?こんな私を・・・」
枯れることを知らぬ涙が再び目から溢れ落ちる。
人間は息を引き取った時と同じように穏やかな笑みを浮かべながら、私の方に近づいてきた。
「泣かないでくれよ・・・苦しませてしまって悪かった・・・」
「うう・・・ぐぐぐ・・・・・・」
「さあ、もうここなら誰の邪魔も入らない。ずっと一緒に過ごそう」
そう言いながら、人間が手を差し伸べてきた。その手に導かれるままに、光の扉の中へと入っていく。

「ここは・・・まさか・・・」
目も眩むような光の扉を抜けた先は、人間の家の寝室だった。
だが、ここには邪魔なテーブルも、洋服ダンスも、私の隠れたクローゼットもない。
あるのはただ、私が人間と初めて触れ合った、そして初めて幸せを感じたあのベッドだけだった。
そのベッドに人間が潜り込む。現実世界と何も変わらぬ日常の光景。
完全にベッドに寝そべると、人間は初めて私を誘ったときと同じように布団の端を少し持ち上げた。
「ほら、入りなって」
あの時と同じ人間の言葉が、今まで胸の奥につっかえていたしこりを急激に洗い落としていった。
「う、うむ・・・」
言われるままにベッドに潜り込むと、人間が私の体を優しく抱きしめた。
「あの時の続きだね」
「ああ・・・」

数週間後、穏やかな顔で眠る人間に覆い被さるようにして、空腹に衰弱した黄色いドラゴンが息絶えていた。
辺りにはしんしんと雪が降り積もり始め、不運にも命を落とした人間と不遇に命を投げ出したドラゴンの上に少しずつ白いベールを被せていく。
もはや、彼らに気付く者はだれもいない。永久の眠りの中で永遠の安息を誓った人間とドラゴンは、静かに山の片隅に葬られていくのだった。

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