小さな子供に読み聞かせる童話・・・その多くは社会の縮図とも言うべきある種の風刺を含んだ創作と、遠い昔に起こった実話を語り継ぐ為にその形をより分かりやすく変えたものとに大別される。
今年で10歳になる僕がまだ鮮明な記憶の残る幼年時代に幾度と無く聞かされた童話の数々は、正にその後者に当たる典型的な物だと言っていいだろう。
だが僕が一見すると酷く現実離れしている摩訶不思議な童話を実際の出来事だと理解することが出来たのは、僕自身がその童話に隠されたエピローグの当事者となったからに他ならなかった。

僕の住んでいる町は、険しい山脈を挟んで東西に隣接した2つの大国の東側に属している。
だがこの世に複数の領土がある限り、何時の時代も領土争いという名の戦争が絶えることは無い。
しかも国境付近にある町や村は、それだけ他国からの侵略という脅威に晒される機会が多かった。
事実この町も年に数回は侵攻の為に山を越えてきた西の国の兵士達に脅かされていて、運が悪ければほとんど略奪紛いの被害を被ることもさほど珍しいことではない。
父親は2年前に村を襲ってきた兵士達によって命を落としてしまい、僕も今は小さな家で母親と2人暮らしをしている身だ。

そんな不穏な空気の絶えないこの町で生まれ育った僕がかつて聞かされてきたある童話・・・
それは今からもう100年以上も前にこの町を訪れた、ある1人の高名な導師に纏わる物語だった。
その導師の名前は幾つかある童話の中でも一切明らかにはされていないものの、彼がここらでは耳慣れない竜使いという名の職業だったという点で一致している。
童話によれば、その竜使いは巨大で獰猛な恐ろしいドラゴンを遠い所から召喚したり、或いは命を奪わぬまま彼らを長きに亘って封印したりするような術を身に付けていたらしい。
そしてその肝心な物語の部分では、かつて西の山に棲み付き町の人々を苦しめていたという凶暴な黒き巨竜を退治したという話がその導師からの伝聞という形で綴られているのだ。

「ただいま。ねぇお母さん、明日は友達と西の山に遊びに行ってもいい?」
「いいわよ。でも、向こうの国の兵士達には気を付けてね。もし少しでも危険を感じたら、すぐに逃げるのよ」
「うん、分かってるよ」
町に1つしかない小さな学校から帰ってくると、僕は台所で夕食の用意に勤しんでいたお母さんとそんな遣り取りをしながら自分の部屋に持ってきた荷物を放り込んでいた。
明日は週に1度のお休みだ。
ここしばらくは西の国からも兵士達が攻めてくる気配は無いし、そうでなくとも貴重な休みを家に閉じ篭って過ごすなんてもったいなくて仕方が無い年頃なのだ。
普段であれば休みの日には町の中央にある小さな図書館で適当に読書でもして時間を潰すことが多いのだが、たまには外で思いっ切り走り回ったって罰は当たらないというものだろう。

その翌日、僕は朝食もそこそこに昼前から家を飛び出すと友達との待ち合わせ場所である山道への入口に向かって駆けていった。
これまでにも西の山で遊んだことは幾度かあったものの、やはり気の合う友達とささやかな遠出をするのはただひたすらに楽しいの一言に尽きる。
そして僕よりも気が早いのか既に待ち合わせ場所で暇を持て余していた2人の友人の姿を見つけると、僕らはそのままじゃれ合うようにして深い森の中へと飛び込んでいった。

不気味なまでの静寂を湛えた薄暗い森の中に、僕達の甲高い笑い声だけが響いていく。
木陰に隠れて脅かし合ったり、小石に蹴躓いて転んだ友達と笑い合ったり、競うように木登りに興じたり・・・
しかし楽しい時間を過ごす程に時の流れは早く感じるもので、お互いに少しばかりの疲労が顔を見せ始めた頃にはもう空が薄っすらとした橙色に染まり始めていた。
「もうこんな時間か・・・そろそろ家に帰らないと」
「そうだね。随分町から遠い所まで来ちゃったし、急いで戻ろう」
そしてそんな名残惜しさとともに皆で帰る意思を確認すると、3人揃って元来た道を遡り始める。
「おい、今誰かの声が聞こえなかったか?」
「ああ・・・確かに聞こえた。子供の声のようだったが・・・」
だが次の瞬間、恐らくは隣国の兵士達のものと思われるくぐもった会話が茂みの向こうから漏れ聞こえてきた。

まずい・・・!
そんな僕の焦燥を含んだ視線に、2人の友達からも即座に呼応の眼差しが返ってくる。
そして極力音を立てないようにそれぞれ木の陰や茂みの中へ素早く隠れると、僕達はじっと息を潜めて隣国の兵士達をやり過ごすことにした。
町にいればたとえ敵国の兵士だといっても非戦闘員である女子供には手を出さないことが多いが、これが僕達以外には誰もいない山の中ともなれば話は変わってくる。
僕達を人質にして町の人に無茶な要求を突き付けたり、或いはもっと酷い目にだって遭わせられるかも知れない。
やがてガサガサと茂みを掻き分けてこちらへと近付いてくる人の気配に、心臓の鼓動が否応無しに早まっていく。
人数は3、4人くらいだが、恐らくは後に控えている本隊の斥候役と言ったところなのだろう。
そしていよいよ剣で武装した屈強そうな男達がその姿を現すと、僕は彼らの様子を窺おうとほんの少しだけ木陰から顔を出していた。

「誰もいないか?」
「声が聞こえたのは確かなんだがなぁ」
「もう少し辺りを探してみよう。俺達の存在に気付いていなければ、まだ遠くには行っていないだろう」
そんな・・・何をするつもりかはわからないが、やっぱり奴らは僕達を捕まえるつもりだ。
それにこうなると、木に隠れているだけの僕と違って茂みに隠れてしまった彼らは万が一奴らに見つかりそうになっても全く音を立てずに逃げるのは難しいだろう。
だとすれば、いざとなったら僕が囮になってでもあの兵士達の注意を逸らさないと・・・
そしてそうこうしている内に、兵士の1人が友達の隠れている茂みの方へと近付いていってしまう。

駄目だ・・・これ以上隠れるのは無理だ!
僕は咄嗟にそう判断すると、わざと音を立てて兵士達の注意を引きながら友達の隠れている茂みとは反対方向へと一気に駆け出していた。
ガサガサガサッ!
「いたぞ!あいつだ!」
僕の姿を認めた誰かの声に、周囲を探し回っていた他の3人の視線が一斉に僕の方へと注がれる。
そして彼らが全員僕を追い掛けて来たことを確認すると、僕は森の奥深く目指して懸命に走り続けていた。

ここは一体何処だろうか・・・?
友人達は、無事に逃げ出せたのだろうか?
数分の逃避行の間に僕の脳裏を過ぎったのは、方向を見失って森の中を迷走する自分自身と遠くに残してきた友達の安否に対する2つの不安ばかり。
だがまだ確かに4人の殺気立った人間が僕の後を追って来ている気配を感じ取ると、僕は何処かに丁度良い隠れ場所が無いかを必死に探し続けた。

「あ、あれは・・・?」
とその時、50メートル程前方にある岩肌にぽっかりと大きな洞窟が口を開けているのが僕の目に入った。
ここから見る限り中は真っ暗だが、子供がその身を隠す分には広さも奥行きも十分にありそうだ。
兵士達ももしかしたら松明くらいは持ち歩いているのかも知れないが、それでもまだしばらくは明るい森の中を闇雲に走り回るよりは彼らを撒ける可能性が高いのは確かだろう。
そしてチラリと背後を振り向いて兵士達の姿が視界に無いことを確認すると、僕は素早く闇に包まれた洞内にその身を滑り込ませて行った。

「流石に真っ暗だな・・・」
しかしそう思ったのも束の間、天井の岩の隙間から所々漏れてきている夕日の筋が薄っすらと周囲を照らし出す。
そしてようやく少しばかり暗さに慣れてきた目を周囲に向けると、僕は愕然とした思いに囚われていた。
入口の広さから中は十分に奥行きがあると思っていたのだが、洞窟はほんの20メートル程度で行き止まりになっていたのだ。
しかも洞窟の中には何やらゴツゴツと不思議な形をした巨大な黒い岩が中央にポツンとあるだけで、他に身を隠せそうなところが何処にも無い。
しまった・・・!
だがそんな後悔を噛み締める間も無く、僕を探す兵士達の声と足音がもうすぐそこにまで迫って来ていた。

「ああ・・・どうしよう・・・」
既に辺りは夕暮れを通り越して大分薄暗くなってきているとはいえ、こうも奥行きの無い浅い洞窟の中では何処に隠れたところですぐに見つかってしまうだろう。
あの兵士達にしてみても、これだけの時間を掛けて追ってきた僕をただで帰してくれるはずがない。
「も、もう駄目だ・・・」
だがとうとう逃げ場を失って深い絶望にも似た悲嘆の表情が僕の顔に浮かびかけたその時、不意に何処からともなく奇妙な艶のある声が聞こえてきていた。

「フン・・・誰かと思えば・・・人間の小僧か・・・」
「え・・・?」
あの兵士達の声ではない。
だが声の主を探して周囲を見渡してみても、見えるのはゴツゴツした岩壁と歪な蒲鉾型に切り取られた洞窟の入口だけでそれらしい生物の気配は何処にも見当たらない。
「何処を見ているのだ。私ならお前の後ろにいる」
よくよく聞けば確かに背後から掛けられたらしいその声にギクリとして後ろを振り向くと・・・
そこにはこの洞窟に入って来た時からあった巨大な岩の塊が鎮座していた。
そして怪訝な面持ちを浮かべながら大きな起伏や凹凸に富んだその岩塊の表面に注意深く目を凝らしてみると、その所々にまるで大判の鱗のような規則正しい隆起が浮かび上がっている。
しかも初めの内はその中央部が盛り上がった横長のシルエットが全て岩で形作られていたように見えたのだが、実際には大木の幹程もある太い木の柱や神秘的な煌きを持つ金属の鎖のような物がそこかしこに点在していた。

「な・・・何だ・・・これ・・・?」
だが目の前の不思議な岩らしき物体の正体に想像を巡らせている内に、この洞窟を見つけたらしい兵士達の声が外から聞こえてくる。
「見ろ、洞窟があるぞ」
「さっきの子供が隠れているかも知れん。おい、松明を用意しろ」
まずいぞ・・・こんなことをしている場合じゃない。早く何処かに身を潜めないと・・・
「何だ・・・追われておるのか・・・フフフ・・・これは面白いものが見れそうだな・・・」
「だ、誰なの・・・?さっきから・・・誰かいるなら姿を・・・いや、僕を助けてよぉ・・・」
相変わらず正体の判らない声の主に、苛立ちと焦燥と微かな期待が綯い交ぜになった声が震えてしまう。

「フフフフ・・・そうだな・・・助けてやっても構わぬぞ」
「ほ、本当に?」
「助かりたいならこの手の・・・お前の目の前にある鎖を解くのだ。お前でなくては、解くことが出来ぬのでな」
鎖を?解く?
それを聞いてキョロキョロと周囲を見回すと、確かに目の前の大きな岩に太い鎖が何重にも巻き付いている。
あれを解くのか・・・だけど・・・それをしたら一体どうなるって言うんだ・・・?
だが脳裏に浮かんだそんな当然の疑問が、先程の声を再び思い出させる。
さっきあの声は1度、確かに"この手の"・・・って言った。
この幾重にも鎖の巻き付いた巨大な岩を、手だと言ったんだ。
そう言われてみれば、鎖の巻かれた岩の先端がまるで握り締められた手の指のようにも見える。

まさか・・・
ふと頭を過ぎったそのあり得ない想像に、しかし僕はその場から数歩だけ後退さるとその大きな大きな岩の塊をもっと広い視点で眺めてみた。
「う、うあっ・・・」
そこに見えたのは、仰向けに地面の上に縫い付けられている余りにも巨大な1匹の黒いドラゴン。
こちら側を向いているドラゴンの顔は目を閉じた状態で口も頑強な皮のようなもので束縛されていたものの、微かに赤み掛かった髪と巨木のような茶色の角が見る者を居竦ませる威厳のある造形を作り出している。
その四肢と尻尾らしき場所にはそれぞれ頑丈な鎖が無数に巻かれていて、しかも下腹部と見られる辺りには鎖を張った極太の杭が深々と突き立てられていた。



そうだ・・・これは・・・あの童話の・・・
かつてこの山に棲み付き町の人々を大層苦しめていたという、漆黒の巨大な邪竜・・・
僕の知っている童話では竜使いの導師によって退治されたことになっていたはずなのだが、彼の導師がドラゴンを封印する術にも長けていたことを考えれば必ずしも命を奪ったとは限らないだろう。
そして現実に今、僕の目の前でまるで岩のように黒く荒んだ巨竜が大地に縛り付けられているのだ。
万が一こんな奴を解き放ったら、それこそ大変なことになってしまう。
だがこのままでは、外の兵士達に見つかって捕らえられてしまうのは正に時間の問題だった。
「あ、あなたは・・・大昔に大勢の人々を苦しめていたっていう悪いドラゴンなんでしょ?」
「フン・・・ならばどうだというのだ。私を放たねば、何れにしろお前は助からぬのだぞ。何を迷うことがある」

だ、駄目だ・・・こんな奴、とても信用できない。
きっと封印が解けたら、僕もあの兵士達も殺してまた町を襲い始めるに違いないんだ。
童話という名の歪められた伝承によって育まれたそんな先入観が、いよいよ大きく膨れ始めた恐怖と激しい鬩ぎ合いを繰り広げていく。
「あそこにいたぞ!捕まえろ!」
だが何時までも決着を見ない葛藤に終止符を打ったのは、不意に僕の背後から聞こえてきた兵士達の声だった。
「う、うぅ・・・」
「さあ・・・時間が無いぞ、小僧・・・早くせぬか」
背後から迫る兵士達への恐れを巧みに利用したその危険過ぎる誘惑に、僕の手が無意識にドラゴンの腕を絡め取っている太い鎖へと伸びていく。
そして心の中で必死に声にならない叫び声を上げながら、僕はその不思議な光沢に濡れる金属の鎖を力一杯引っ張っていた。

パァン!
次の瞬間、まるで何かが弾けたような乾いた破裂音が周囲に響き渡る。
そして僕を捕まえようと迫っていた2人の兵士達がその音に驚いて足を止めた時には、全てが終わっていた。
何時の間にか跡形も無く消え去った鎖の束縛から解き放たれた巨竜の腕が持ち上げられ、松明を持った2人の兵士達をガシッという音とともに纏めて鷲掴みにする。
「な、何だこいつは・・・う・・・ぐあああぁっ・・・!」
「ひっ・・・やめ・・・うわああああぁぁ・・・!」
グギ・・・ベギッ・・・・ボギボギボギッ・・・グシャッ
更には彼らが口々に上げた驚愕の叫び声を文字通り一瞬で握り潰すと、ドラゴンは仲間の叫び声に気付いて愚かにも闇に目を慣らさぬまま洞内に踏み入ってきた他の2人の兵士に向かって凄まじい猛火を吐き掛けていた。

ゴオオオオオオオッ!
「ぎゃあああああっ!」
「た、助けてっ・・・うああああ〜〜!」
信じられない光景に呆然と立ち尽くした僕の眼前で、火達磨になった男達が悲痛な叫びとともに悶え転げている。
だが数秒の後にそれもすっかり静かになってしまうと、僕は背後でのそりと起き上がった見上げるような巨竜の余りの恐ろしさに腰を抜かして地面にへたり込んでしまっていた。
まるで岩のようだったそのドラゴンの鱗は元通りの美しい艶と光沢を取り戻し、大きく開けられた2つの金色の竜眼が眼前のちっぽけな人間の子供にギロリと向けられる。

「あ・・・あぅ・・・」
たったそれだけのことで、僕はもう心臓が止まってしまいそうな程の恐怖に震え上がっていた。
や、やっぱり・・・止めればよかった・・・こんなこと・・・
もう何の体重も支えてはいないはずの地面に投げ出された膝がガクガクと笑い、まるで息の根を止められたかのように呼吸が苦しくなってしまう。
凄まじい恐怖と深い後悔の入り混じった熱い涙が次々と目から溢れ出し、逃れようの無い絶対的な死の予感が冷たい手となって僕の手足を掴んでいった。
4人の人間を一瞬にして無残に捻り潰したこの恐ろしいドラゴンに、僕は一体どんな最期を迎えさせられるのか。
やがてそんな絶望的な想像が1度は真っ白になったはずの頭の中をすっかり埋め尽くすと、最後の防衛本能のお陰なのか僕はついに気を失ってドサリと地面の上に倒れ込んでしまっていた。

「フウゥ・・・」
4万回余りも味わった孤独な夜からのようやくの脱却に、私は一応の歓喜を孕んだ感慨深い溜息を吐いていた。
そして足元で気を失ってしまった小さな少年の体を誤って踏んでしまわぬように気を付けながら、手の中で無残に拉げ潰れている2人の男の亡骸をポイッと口の中へ放り込む。
その百十数年振りに味わう懐かしい人間の味に、私はふと無表情な視線を眼下の少年に向けていた。
この私にとっては所詮人間などただの食料であり、それ以上でもそれ以下でもない。
なのに私は・・・こんな触れれば壊れてしまいそうな程に脆くか弱い人間の子供と、己が運命を共にしなければならぬというのだろうか?
不意に脳裏に浮かんだあの忌々しい老いた導師の言葉が、折角の自由を取り戻した私の心を重い鎖で縛っていく。

「グ・・・な、何だこれは・・・おのれ・・・小賢しい人間めが・・・!」
ある日突然音もなく私の住み処を訪れた人間の導師・・・
その口元から放たれた妖しげな呪文の如き言霊が不思議な響きを伴って周囲に霧散したかと思うと、何処からともなく出現した奇怪な鎖が私の四肢へ、尻尾へ、翼へ、そして顎へと絡み付いてくる。
だが簡単に引き千切れそうに見えたその漆黒の鎖は一瞬にして凄まじい力で私の自由を奪い去り、あまつさえ私の体をまるで荒れ果てた岩肌の如きそれへと変え始めていた。
「お前はこれまでに、余りにも大勢の人々の命を奪った。その大罪は、最早お前の命でさえ償えるものではない」
「ウグ・・・な、ならばどうするというのだ・・・?」
「永き時を掛けて、この洞穴で己の所業を悔い改めるが良い。時期が来れば、お前を解き放つ者も現れるだろう」
大地に鎖で四肢を拘束されているというのに、不思議と苦痛らしい苦痛は一切感じられない。
とは言え、その体はまるで本物の岩にでもなってしまったかのように指先すら動かすことができなくなっている。

「貴様以外の人間に、私を解き放つことが出来るというのか?」
「お前に施したその封印は、人間になら簡単に解くことが出来る。だが、自力で逃れることは絶対に出来ぬのだ」
「フン・・・そういうことなら、私は命知らずの愚か者がここへやってくるまで精々気長に待つとしよう」
その言葉は、この私によりによって贖罪を促そうとするこの不遜な導師に対しての精一杯の皮肉のつもりだった。
だが眼前の年老いた男は、それさえ見透かしていたかのように薄ら笑いを浮かべながら先を続ける。
「そうか・・・それならそれでも構わぬ。だが・・・お前は"命の契約"というものを聞いたことがあるかな?」
「命の契約だと・・・?何だそれは?」
「遠い異国に住まうある竜族が、族長争いの儀に用いる特殊な契約よ。人と竜の命を共有する、秘儀の1つだ」
人間と・・・ドラゴンの命を共有するだと・・・?
「もし誰かがこの封を解いたら、お前はその人間と命の契約を結ぶことになる。その意味は、理解できよう?」

人間と命を共有するということは、私にはその人間を手に掛けることが出来ぬということか・・・
いやそればかりか、誰かが私を殺そうと思えばその共有者となった人間の方を殺めれば事足りるということ。
つまり私は封印を解いた者を殺すことが出来ないばかりか、己が身を挺してでもそ奴を護らなければならなくなるということだ。
「何れにしても、お前は最早悪事を働くことは出来ぬだろう」
「ウ・・・グゥ・・・」
何とも口惜しいが、あの時の導師の言葉には確かに否定できないある種の真実があった。
つまり今の私は、この人間の少年と自分の命を共有しているということになる。
だが下手に触れるだけでも命取りになりそうな程に弱々しいその少年の無防備な様子に、私はどうしたものかとただひたすら途方に暮れていた。

「う・・・う〜ん・・・」
顔を摩る涼しげな夜風の感触に、僕はおぼろげながら取り戻した意識を闇の中で噛み締めていた。
あれ・・・僕・・・どうしたんだっけ・・・?
何か大事なことが抜け落ちてしまったかのような虫食いだらけの記憶が、そんな間の抜けた思考を揺り起こす。
だが薄っすらと目を開けた僕の眼前であの恐ろしげな金色の巨眼が輝いているのを目にすると、僕は己の身に起こった事態を察して息を詰まらせていた。
「ひっ・・・」
そ、そうだ・・・僕は隣国の兵士達から逃れるためにあのドラゴンを・・・
だがあっという間に4人の人間を握り潰し消し炭に変えたその凶暴さに僕自身も確実な死を覚悟したというのに、どうして僕はまだ生かされているのだろうか・・・?
そして僕の怯えが張り詰めた空気として伝わったのか、ドラゴンがおもむろにその口を開いていた。

「ようやく気が付いたか、小僧」
「あ・・・うぅ・・・」
一面を覆い尽くした闇が湛える鋭い竜眼が、相変わらず身動きできぬまま震えていた僕を見て微かに細められる。
「フン・・・そう怯えることはない・・・私には、お前を殺すつもりはないのだからな」
「ほ、ほ・・・本当に・・・?」
このドラゴンはただでさえ信用の置けない邪竜だというのに、その上目の前であんな凄惨な虐殺劇を見せられて僕だけは殺さないなどという言葉を一体どうやって信じろというのだろうか。
そしてそんな当然とも言うべき僕の疑問に、ドラゴンが僕への殺意を隠しもせずにその凶悪な牙を剥く。

「私がそのつもりなら、お前などとうに私の腹の中で泣き叫んでおるわ!」
「ひぃっ・・・!」
ゴオッという空気を震わせるようなその恐ろしい声に、心臓がギュッと締め付けられる。
だが僕が両目一杯に涙を浮かべながら息苦しそうに喘いでいるのを見て取ると、途端にドラゴンが先程まで僕に浴びせ掛けていた身も凍るような冷たい殺気を和らげていた。
「おっと・・・余り脅かすのも考え物だな・・・」
それと同時に小声で呟いたドラゴンの言葉に、微かな困惑と怒りが半々に混じっている。
「つまりだな・・・私は、お前を殺したくとも殺すことができぬのだ」
「ど、どうして?」
「私をここへ封じた、あの忌々しい導師がそう言ったのだ。今の私とお前は、命の契約で結ばれているとな」
命の契約・・・もちろん僕はその言葉を聞くのは初めてだったけれど、例の不思議な竜使いの導師が口にしたのであればそれについての伝承もあの町に残っているかも知れない。

「その契約を結ぶと・・・その・・・どうなるの・・・?」
「私とお前が、1つの命を共有しているのだ。お前が死ねば私も、私が死ねばお前もその命が尽きることになる」
「そ、そんな・・・そんなの酷いよ・・・う・・・うあああぁん・・・」
僕が、この恐ろしいドラゴンと一蓮托生だって言うのか?
もちろんその命の契約とやらのお陰で僕は殺されずに済んでいるのだろうけど、こんな怪物と1つの命を共有することになるなんて・・・

「ええい、泣くな小僧!本当に泣きたいのはこの私の方なのだぞ!私がどうしてお前のような小僧と・・・」
だがそこまで言ってから、ドラゴンがハッとした様子で言葉を途絶えさせる。
そして不思議に思ってドラゴンの顔を恐る恐る見上げてみると、人間の前で取り乱してしまったことを恥じるかのようにドラゴンが小さく俯いていた。
「と、とにかく・・・お前の命は私の命でもあるのだ。それを肝に銘じておけ」
「あの・・・そ、それじゃあさ・・・あなたが、僕の命も護ってくれるっていう・・・ことだよね・・・?」
「う・・・く・・・それは・・・私に何をしろというのだ?」

翌朝、僕は巨大なドラゴンの背に乗せてもらいながら悠々と自分の町へ帰ってきた。
本当は空を飛んでと強請ってみたのだが、それは流石に僕を取り落とした時のことを考えて思い留まったらしい。
だがいざ町に辿り着いてみると、人間を背に乗せて何処か屈辱的な表情を浮かべていたドラゴンの姿にあっという間に町中が蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていた。
「ドラゴンだ!ドラゴンが出たぞー!」
「早く、早く逃げろー!」
歴史を考えればこのドラゴンが町を脅かしていたのは100年以上も昔の話・・・
当然当時の人々はもう誰1人として生きてはいないはずなのだが、漆黒に染まった巨竜が人々に与える不吉な印象と恐怖心は何時の時代も同じものであるらしい。
「皆!大丈夫!大丈夫だよ!このドラゴンは暴れたりしないから・・・騒ぐのを止めて!」
それでも必死に逃げ惑う人々に向かって懸命に大声で叫び続けると、ようやくドラゴンの背に乗った僕の姿を認めた人々が徐々に元の落ち着きを取り戻し始めていた。

母や町長を含めた町の人々に、ドラゴンのことを説明するのは思った以上に骨の折れる仕事だった。
何しろ僕がそうであったように、この町の人々はそのほとんど全員が童話という形でかつてこの町を荒らしていた凶暴な黒いドラゴンの存在をその記憶の中に留めている。
だが中途半端な知識程性質の悪いものが無いように、それはこのドラゴンに対しての恐れや不安、そして不信感を煽る以外の役には立たなかったのだ。
それを僕の言葉だけで解消しなくてはならないのだから、何とか騒ぎを鎮めて家に帰り着いた時には自分で歩いたわけではないというのに僕はもうクタクタに疲れ切っていた。

このドラゴンが町を襲わないように、僕は敢えてドラゴンと命の契約を結んでいることを人々に告白した。
そうしておけば、ドラゴンも僕が人々の標的にされないように大人しくしていてくれるからだ。
正直自分の命をそんな危険な交渉に持ち出すのはかなり気が引けたものの、そうでもしないとまたあんな悲惨な光景をこの町で繰り返されたら堪ったものではない。
とは言え真に命の危機に瀕しているのは脆弱な人間の身に命を分け与えてしまったこのドラゴンの方なのだから、如何に凶暴で凶悪な邪竜といえどもその聡明さ故に無闇に他の人々を脅かすことは無いだろう。

「ありがとう、もう大丈夫だよ」
「フン・・・人間などを背に乗せたのはこれが生まれて初めてだ。随分と・・・良い景色だったのだろうな?」
「うん・・・凄く気持ちが良かったよ。それに・・・あの時は助けてくれて感謝してる」
時間が経って少しは自分の気持ちにも落ち着きや余裕ができたのか、僕は素直に兵士達から助けてくれたことに対してドラゴンにお礼を言った。
あれは確かに凄惨な光景には違いなかったけれど、状況がどうであれ僕を救ってくれたことには違いない。
そして窮屈そうに身を屈めたドラゴンの背から飛び降りると、僕はドラゴンに別れを告げて家に入ろうとした。
だがその瞬間、ドラゴンが僕を引き止めようと器用にもその太い指先から生えた鋭い爪で僕の服の端を摘む。
「まあ待て小僧・・・その前に、何処かに私の寝床を用意せぬか」
「え・・・?ね、寝床って・・・あなたはあの洞窟に帰るんじゃ・・・ないの?」
「己が命の片割れを遠くに残して暮らすことなどできぬわ。私も、お前と共にこの町に居を構えさせてもらうぞ」

こ、このドラゴンが・・・僕と一緒にこの町に棲む・・・だって?
全く予想だにしていなかったそのドラゴンの申し出に、僕はまたしても頭の中が真っ白になるのを感じていた。
まあ、ドラゴンの立場で考えてみれば僕と別々に暮らすということはいわば己の心臓を自分の目の届かないところに置いてその場を離れるようなものなのだから、四六時中僕の傍に居たいという心情は理解できる。
だけどこんな巨大なドラゴンの寝床なんて、そう簡単になど用意できるはずもない。
「う・・・わ、わかったよ・・・でも、寝床なんてどうやって用意したら・・・」
「フン・・・私の眠りが誰にも邪魔されなければ場所など何処でもよいわ」

誰にも邪魔されない場所か・・・だけど町の中で誰にも邪魔をされなそうな広い場所と言ったら、もう学校の広場くらいしか無いんじゃないだろうか?
少なくとも夜の間だけなら、まず滅多に人は近付かない場所であることには違いない。
尤も、こんな巨大なドラゴンがとぐろを巻いて眠っていたら何処だろうと恐ろしくて誰も近付かないだろうけど。
「そ、それじゃ・・・案内するよ。でも、昼の間は近付いちゃ駄目だよ。その・・・子供達が多い場所だからさ」
その言葉にドラゴンからの返事は無かったものの、代わりにジュルリという音とともに遠慮がちに舌を舐めずったドラゴンの様子に微かな不安を抱きながら僕は新たな町の"住人"を学校の広場へと連れて行った。
やれやれ・・・明日からまた学校が始まったら、一体どんなことになるのやら・・・

「ほら、ここだよ」
「ほう・・・なかなかに開放的な所ではないか」
普段なら学校が休みの日ともなれば大勢の子供達がこの広場で走り回っているものなのだが、今日はドラゴン騒ぎがあったせいか広場の何処にも人影は見当たらなかった。
「気に入ってくれてよかった・・・それじゃあ僕は帰るから・・・他の人を襲ったりしちゃ駄目だよ」
「分かっておるわ・・・では私は、そろそろ狩りにでも出掛けるとしよう」
そしてそう言いながら、ドラゴンが元来た山の方に向かってノシノシと歩いていく。
成る程・・・昼の間はドラゴンも獣を狩りに山へ出掛けるのか・・・それなら、案外問題は無いのかも知れない。
やがてドラゴンの姿が完全に森の中へ消えてしまうと、僕はふと調べたいことを思い出して町の中央にあるあの小さな図書館に寄ってから家に帰ることにした。
童話となった例の導師のことについては町長の家に詳しい記録があるらしいのだが、図書館でも多少はこの町の過去について知ることが出来るだろう。
早くも夕焼けの気配が漂い始めた空の下、僕は心中に凝り固まっている黒々とした不安とほんのちょっぴりの高揚を楽しみながら通い慣れた図書館へと続く道を歩き出していた。

害が無いとは言え恐ろしいドラゴンが町にやって来たからだろうか、僕は図書館に着くまでの十数分間、外を出歩いている人の姿をほとんど見掛けなかった。
まあ、誰もいない夜の町角でいきなりあんなドラゴンと出くわしたらどう楽観的に見ても無事に済むとは考えにくいだろうから、それも仕方の無いことなのかも知れない。
やがて図書館の中に入ると、僕は歴史書の並んでいる書架を探してひっそりとした館内を歩き始めていた。
あの導師がこの町を訪れたのは、今から百十数年前のことだ。
僕が知っている童話によれば、それ以前は度々山から下りて来ては人々を喰らい町を焼き払う巨大な黒いドラゴンが町の人々を恐怖のどん底に陥れていたらしい。
確かにあんなドラゴンが思う存分町中で暴れ回ったのだとしたら、その被害はさぞ甚大なものだったことだろう。
そしてそんな事実に基づく空想に耽りながらようやく目的の本の一群を探し当てると、僕はそれら数冊の厚い本の束を纏めて本棚から抜き取っていた。

歴史書というものは、大抵の場合3つの種類に分類される。
1つは、全世界で起こった主要な出来事を綴った世界史。
次にその範囲を1つの国に定め、内容もより詳細さを増した国史。
そして最後に、ある町や村といった極狭い地域における史実を纏めた地方史に分けられる。
僕が探していたのは、この町ついての地方史の本だ。
小さな町故に決してその量は多くないとは言え、それでも大昔から続く戦乱やドラゴンの襲撃、更には不思議な導師の訪れなど、この町の持つ歴史の話題性は他の地方に比べれば群を抜いて高いものだろう。

「さてと・・・」
やがて重い本を抱えながら読書席までやってくると、僕はドサリとテーブルの上に置いた本の中から手近な1冊を広げて木で出来た丈夫な椅子に腰掛けていた。
巻頭に記載された詳細な年表の1番下・・・今から100年程前の出来事が書かれた欄に、確かに黒竜の脅威と導師の訪問についての記事が載っている。
それによると、町を訪れた導師は人々の願いを聞いてすぐにドラゴンの棲む山へと向かったらしい。
そしてたった一晩でドラゴンを退治して再び町へ戻ってくると、厚い歓迎ともてなしを受けながら竜使いとしての様々な知識や儀式を大勢の人々に伝えたとある。
だがその詳しい内容についてまでは書かれておらず、僕は1番知りたかったこと・・・命の契約についての情報は、残念ながら何1つ得ることが出来なかった。
こんな調子では、恐らく他の本も似たり寄ったりの内容であることは容易に想像が付く。
やはりここは、直接町長に聞いてみるのが近道というものだろう。

結局何の手掛かりも無いままに些か暗い面持ちで図書館から出て来ると、僕は狩りから帰ってきたらしいドラゴンの重々しい足音にぼんやりと聞き耳を立てていた。
僕が知りたいのは、この命の契約というものがどうやったら消えるのかということだ。
幾ら人と竜の命を共有する秘儀だとはいえ、まさか人間が老いて死ぬまで続くというものでもないだろう。
もちろん仮に命の契約を解除する方法が見つかったとしても、それを実行するのは何らかの方法でドラゴンの脅威を取り除いてからになることは分かっている。
だがこのままあのドラゴンと命を共有していたら、たとえドラゴンが能動的に人々を襲ったりしなくともそう遠くない内にあのドラゴンを殺そうと僕の命を狙う人々が現れないとも限らないのだ。
それに・・・図書館であの導師について調べた時に、僕はもう1つどうしても気になることがあった。

あの導師は・・・どうして山に封じたドラゴンのことを"退治した"と人々に伝えたのだろうか?
仮に竜使いとしてドラゴンの命を奪うのが忍びなかったのだとしても、人間になら簡単に解けてしまうあの封印では何時か僕のように必要に迫られてドラゴンを解放する人間が現れることは目に見えていたはずだ。
しかも封印を解いた人間があのドラゴンと命の契約を結ぶことになるということは、それこそ真っ先に町の人々に伝えるべき重要な情報の1つだろう。
だが1人で幾ら考えてみても当然正しい答えなど出てくるはずも無く、僕はすっかり暗くなってしまった空の下を家に向かってトボトボと歩き始めていた。

その翌日、僕は何とも憂鬱な気分で目を覚ますと、母との会話もほとんど無いままに朝食を摂って家を出た。
あのドラゴンは、もう狩りへ出掛けたのだろうか?
だがそんな一抹の不安とともにいざ学校に辿り着いてみると、そこでは僕にとって余りにも予想外の光景が展開されていた。
依然として広場で蹲っている、漆黒の鱗を纏った巨大なドラゴン・・・
だが眠っているというわけではなく、遠目から見てもドラゴンが目を覚ましているのはすぐに判る。
そしてその周りには、あろうことか大勢の子供達が何やら楽しそうに騒ぎながら黒山の人だかりを作っていた。
「一体何が・・・?」
あのドラゴンの恐ろしさについては、その見た目ばかりでなく童話によって誰もが知っているはず。
なのにどうして彼らはあんなにも無防備にあのドラゴンへ近付くことが出来るのだろうか?
命の契約で護られているはずの僕でさえ、鋭い金眼を湛えるドラゴンには未だ恐れの感情を拭えないというのに。

「ぬ!おのれ小僧!話が違うではないか!あれ程私の眠りを妨げるなと言ったというのに、これでは眠れぬわ!」
やがて僕の姿をその視界に捉えたのか、少しばかり困惑気味のドラゴンが怒りの混じった視線を僕に投げ付ける。
どうやら、ドラゴンの朝は僕が思っていた以上に遅いものだったらしい。
だがそうかと言って迂闊にその腕でも払おうものなら周囲の子供達が紙切れのように吹き飛ぶだけに、ドラゴンはじっと身を縮込めたまま子供達の奏でる耳障りな喧騒に辛抱強く耐え続けていた。
雌のドラゴンということもあってか、そんな強気な口調の割りに繊細なところが何となく可愛く思えてしまう。
だが流石にそんな彼女が少し気の毒になってきたところで、ようやく授業の開始を告げる甲高いベルの音が周囲に鳴り響いていた。

子供達にとってドラゴンというものはたとえそれがかつて町の人々を脅かした忌むべき存在であったとしても、どうしたって心惹かれる存在なのかも知れない。
それは僕が兵士達から逃れるためとは言え彼女を解放してしまったこととも、恐らく無関係ではないのだろう。
やがてドラゴンは周囲を取り囲んでいた子供達の姿が無くなると、ようやく体が休まるとばかりに緊張を解きながら大きな溜息を吐いていた。
恐らくはまた1時間もすれば大勢の子供達に囲まれて騒ぎの渦中に巻き込まれることになるのだろうが、もしかしたら学校の広場をドラゴンの寝床に選んだのはある意味で正解だったのかも知れない。
誰も近付かないような寂しい場所で人間達と関わらずに静かに暮らしているよりも、寧ろ毎日のように子供達と触れ合っていた方があのドラゴンに対する警戒心や負の印象も薄れるというものだ。
まあそれが良いことかどうかは、まだ僕にも正確な判断がつかないのだけれど。

それから1時間後、ドラゴンは再びやってきた子供達の群れに辟易したのか不意に体を起こすと、まるでその場から逃げるように急いで山へと狩りに出掛けていった。
肝心の子供達は折角の遊び相手とでもいうのか、その溢れんばかりの興味と好奇心を振り向ける標的が急にいなくなってしまったことに些か落胆の色を見せたものの、すぐに気を取り直して広場を走り回り始めている。
何はともあれ、取り敢えずはこれでまたしばらく静かな時間が戻ってくることだろう。

やがてその日の学校が終わると、僕は家にも帰らずに真っ直ぐ町長の家へと走っていった。
そして呼び出しに応えて町長が家の戸口に姿を見せると、彼がまだ用件も話していない内に何処か神妙な面持ちを浮かべたまま僕を家へと招き入れてくれる。
「ああ君か・・・さ、上がりなさい」
「あ、その・・・お、お邪魔します・・・」
まるで僕が来ることを予め知っていたかのようなその町長の対応に、僕は何となく小さな不安を覚えていた。
「あの、町長さん・・・今日はその・・・」
「君は、あのドラゴンのことについて調べに来たんだろう?当時の詳しい記録があるのは、この家だけだからね」
「そ、そうです。それに、命の契約のことも知りたくて」
だが僕がそう言うと、町長は突然僕の方を振り返ってその声の調子を落としていた。
「その命の契約のことで、君に少し聞きたいことがあるんだが・・・」
「な、何ですか?」
その質問に答えるように、彼が部屋の奥から当時の記録を纏めた1冊の書物を取り出してきて僕の前に広げる。
「これが、例の導師がこの町に伝えたとされる秘術についての記録だ。まだほんの一部だけどね」
そして目の前に開かれている栞の挟まれたページに、正に命の契約についての記録が事細かに綴られていた。

記録によれば、命の契約はかつて導師が立ち寄ったことがあるというとある砂漠の小さな村に棲んでいる黒竜から教わったものなのだそうだ。
その黒竜は遠いドラゴンの里から来て族長争いの試練の為に1人の少年と命の契約を交わし3年間を過ごしたが、結局里へは帰らずにその少年と生涯を共にすることを選んだのだという。
だが本来であれば試練に臨むドラゴンの足枷として交わされるはずの命の契約を、導師は研究の末に人間の方から取り交わす方法を幾つか編み出したらしい。
そしてそれは、凶暴なドラゴンに対して自身の安全を保証する為の1つの手段となった。

「それで・・・僕に聞きたいことっていうのは・・・」
「例の導師が人々に伝えた契約の履行方法には幾つか種類があるのだが、それらにはある共通点があったんだ」
同じ契約を結ぶ為の方法が幾つもあるのにそれらに共通点があるということは、当然僕とあのドラゴンとの間にも契約の締結に当たってその共通点があるはずだと町長は言いたいのだろう。
「その共通点というのは、何れの場合も契約者となる人間の血をドラゴンに捧げることなんだ」
「え・・・?」
契約者となる人間の血をドラゴンに捧げるだって・・・?
だけど、僕はあのドラゴンに捧げるどころかここ数日は血など1滴も流したことが無い。
「それで君に聞きたいんだが、君はあのドラゴンを解放した時に血を捧げたのかい?」
「いや・・・血を捧げた記憶なんて全然ないよ。僕は、ドラゴンを縛り付けていた鎖を引っ張っただけなんだ」
だがその返事を聞くと、途端に町長の顔が不安げな表情で塗り潰されていた。

「や、やっぱりそうか・・・それは・・・随分とまずいことになったぞ」
「ど、どういうこと?」
「君が血を捧げていない以上、あのドラゴンと命の契約は成立していないっていうことだよ」
命の契約が・・・成立していないだって・・・?
「つまりそれは、万が一ドラゴンが解放された場合に備えて導師が掛けていた保険・・・ハッタリだったんだ」
「じゃ、じゃあ・・・ドラゴンは導師が言ったその嘘を信じ込んでいるだけだっていうこと・・・?」
大変だ・・・もしこのことがドラゴンに知れたりしたら僕は・・・
いや、下手をしたらこの町そのものが、あの凶暴なドラゴンに滅ぼされてしまうかもしれない。
「この契約の最大の利点は、契約者のどちらかが死にでもしない限り履行の真偽を確かめる術が無いことなんだ」
「そんな・・・どうしよう・・・契約を結んでいないことがばれたら僕・・・あのドラゴンに殺されちゃうよ!」
それまでは契約者であるが故に少なくとも自分だけはドラゴンの脅威の降り掛からないところにいるのだという安心感があったというのに、これでは寧ろ僕が1番危険な立場に立たされているようなものじゃないか。
「落ち着いて・・・さっきも言ったけど、命の契約は本当に履行されているかどうか確認する術が無いんだ」
「こ、このまま・・・あのドラゴンを騙し続けろって・・・言うの・・・?」
「それしかないことは君だって分かっているはずだ。とても細くて儚い偽りだが、今はそれに縋るしかない」

町長はああ言ったものの、僕はいざあのドラゴンを前にしても激しく渦を巻く心中の動揺を無事に隠し通すことができるかどうか気が気ではなかった。
確かに、僕がそう告白しない限りあのドラゴンが真実を知る可能性は極めて低いのかもしれない。
だがあの鋭い金眼で睨み付けられると、まるで心の奥底を見通されているかのような不安が胸を過ぎるのだ。
僕は町長の家からの帰り道、すっかりと夕日に染まった橙色の空を眺めながらそんな先行きを静かに憂えていた。
遠く聞こえてくる狩りから戻ったのであろうドラゴンの重々しい足音が、まるでヒタヒタという死神のそれにさえ聞こえてしまう。
とにかく何とかして気分を落ち着けないことにはまともにドラゴンの顔さえ見れなさそうな予感に、僕は家に帰り着くと洗面台でバシャッと冷たい水を顔に浴びせていた。
そうだ・・・心配ない。
明日もまたドラゴンに会ったら、平然と挨拶の1つでも交わして笑っておけばいいだけじゃないか。
あのドラゴンも何だかんだでこの町での生活に溶け込もうと努力しているのだし、僕が1人で不安に駆られていたところで結局取り越し苦労に終わるだけなのは目に見えているのだ。
そして必死にそう自分に言い聞かせて何とか自身の危うい立場を納得させると、僕は夕食に呼ばれるまでの間自分の部屋で明日からの予定をあれこれと考え始めていた。

目に映るのは、一面を鮮やかな朱に彩る紅蓮の炎。
跡形も無く燃え落ちては白く燻り続ける家々の瓦礫に囲まれて、僕は自分の母親が生きたまま目の前の巨大な漆黒のドラゴンにゆっくりと丸呑みにされていく信じ難い光景を呆然とした表情で見つめていた。
辺りに漂うのは人間が燃える香ばしくも鼻を突く臭いと、燃え上がり崩れ行く家の中から聞こえてくるくぐもった悲鳴ばかり。
町を焼き尽くした業火は闇に包まれた天をも焦がし、やがて獲物を飲み下したドラゴンが怒りとも歓喜ともつかない低い唸り声を上げながら視界に映った最後の生存者である僕にその視線を突き刺してくる。

「グルルルルル・・・」
「う・・・うあぁっ・・・」
堆く積み上げられた最早ほんのりとした熱しか帯びていない消し炭の山を背に当てながら、僕は早くも完全に逃げ場を失ってしまったことを否応無しに思い知らされていた。
喉から漏れてくるのは暗い絶望に染まった力の無い喘ぎばかりで、無駄だと知っている助けを求める声すらもが既に絶対的な死の恐怖を前に成す術も無く平伏している。
だがドラゴンはそんな僕を見つめながら美味い御馳走だったとばかりに舌を舐めずる様子を見せ付けると、ゆっくりと、まるで1歩1歩を焦らすように僕の方へ緩慢な肉薄を開始していた。

い、嫌だ・・・こんなの・・・誰か・・・誰か助けて・・・!
決して声になることの無いその魂を引き裂かれるような悲痛な叫びが、何か見えない力にでも堰き止められたかのように喉の奥で空しく掻き消されていく。
ガシッ
「ひ、ひいぃ・・・」
だがいよいよ幾人もの人間を虫けらのように握り潰したその屈強過ぎるドラゴンの手に捕らえられてしまうと、僕は指先まで恐怖に麻痺してしまった体を震わせながらただひたすらにボロボロと涙を流していた。
僕のせいだ・・・こうなったのは・・・全部僕の・・・
そしてそんな深い後悔が胸の内に競り上がってくると同時に何処からともなくグシャッという湿った音が聞こえ、僕は断末魔の声を上げる間も無くドラゴンの掌中で物言わぬ小さな肉塊へとその姿を変えていた・・・

「うわあああああっ!」
次の瞬間、僕は汗だくになった布団を跳ね飛ばしながら大きな悲鳴を上げてベッドから飛び起きていた。
「はあっ・・・はぁっ・・・はあぁっ・・・」
そして限界一杯まで荒くなってしまった呼吸を必死に整えながら、つい先程まで見ていた光景が夢だったことを何度も何度も自分に言い聞かせる。
だが今はまだただの悪夢として片付けられたとしても、もしあのドラゴンに真実を知られるようなことがあればさっき体験した身の竦むような出来事が今日にでも現実になってしまうかも知れないのだ。
昨夜は自分なりに何とか気持ちの整理をつけたつもりだったのだが、こんな夢を見るということはやはり僕も心の何処かであのドラゴンと会うことを恐れているのだろう。

やがて昨日以上に憂鬱な気分で学校へ行く支度を整えると、僕は徐々に近付いてくる校舎とドラゴンがいるであろう広場を見ないように下を向いて歩き続けていた。
だがしばらくして結局賑やかな広場の前までやってくると、頑なに俯いていた顔を思い切って引き上げてみる。
「え・・・?」
そしてそこで起こっていた出来事に・・・
僕はこれまでにも何度か信じられないものを見てきたというのに思わず自分の目を疑ってしまっていた。
所詮人間など食いでのある食料でしかないと思っているあの気難しい性格のドラゴンが、あろうことか大勢の子供達と自ら進んで触れ合っていたのだ。
まるで腫れ物を扱うような慎重な手付きで子供達を持ち上げてはその広大な背中に乗せてしばしの夢物語の世界を体験させている巨大なドラゴンの様子に、何だかさっきまでの悩みが酷く馬鹿げたことのように思えてしまう。
本当にこれが僕の眼前で4人の兵士達を虐殺したあのドラゴンなのかと思ってしまう程、微かに笑みを浮かべる彼女の顔からは初めて出会った時の邪気や迫力がすっかりと消え去っていたのだ。
だがそれでもドラゴンと顔を合わせることに一抹の不安を拭い去ることができず、僕は彼女に挨拶の声も掛けぬまま静かにまだ誰もいない教室へと駆け込んでいった。

ズシ・・・ズシ・・・
朝の授業中、僕は広場の方から聞こえてきたドラゴンの足音に気付いてそっと窓の外へと視線を向けていた。
彼女は、これから山へ狩りに出かけるのだろう。
ドラゴンの棲む学校か・・・何だか不思議な響きだが、実際に子供達の遊び相手になっているドラゴンを見た時の驚きはもう何と表現していいのか分からない程に大きなものだった。
一体、何処までがあのドラゴンの本当の姿なのだろうか?
童話の中で散々に暴れ回った凶暴な一面は確かにあの兵士達との一件で確認できたものの、それも言うなればあのドラゴンにとっての"狩り"の1つだったのかも知れない。
住んでいる場所が定まっている上に野生の獣に比べて比較的容易に捕らえられ、十分な食いでがあってなおかつその獲物の狼狽を楽しめる・・・

ドラゴンの立場からするならば、人間を襲うのはある意味で最も簡単で最も楽しい狩りだったのだろう。
そして僕という足枷をはめられたことで人間が狩りの対象から外れただけだというのなら、無邪気な子供達に見せるあの恐ろしい顔に似合わぬ優しさこそが彼女の本性である可能性は否定できない。
取り敢えず・・・何でもいいから彼女と話をしてみようか・・・
決して単なる悪夢とは断じ切れないおかしな夢と町長の脅しが相俟って、今日の僕は何だかあのドラゴンに怯えてしまっていたのだ。
だが勇気を出して面と向かって話をしてみれば、案外彼女の本当の素顔を知ることが出来るかも知れない。

その日、僕は学校が終わるともう誰もいなくなった広場に行ってあのドラゴンが狩りから帰ってくるのを静かにじっと待つことにした。
そして特に何をするわけでもなく2時間程物思いに耽っていると、ようやく遥か遠くの方から彼女の重々しい緩慢な足音が僕の耳へと届いてくる。
ど、どうしよう・・・何から話そうか・・・
未だに整理のつかないゴチャゴチャとした頭の中が、軽いパニックとともに彼女の真意を探るという目的さえをも白く霞んだ意識の外へと追いやってしまう。
これではまるで、告白を決意して人通りの少ない場所で思い人を待っている初心な青年のようじゃないか。
だが仮に何を話すにしても、命の契約が導師のブラフだったことだけは彼女に知られてはならないだろう。

ズシッ・・・ズシッ・・・
「・・・む・・・?」
やがて大地を揺らすような大きな足音がもう広場の目と鼻の先にまでやってくると、広場の中央に佇んでいた僕の姿に気付いたのか彼女が怪訝そうな声を上げる。
「どうしたのだ、小僧・・・?」
「う、うん・・・その・・・あなたに、ちょっと聞きたいことがあってさ・・・」
「聞きたいことだと?」
別段怒気も殺意も無いその平坦なドラゴンの声に、僕は意を決して彼女に今朝のことを訊ねていた。
「今日の朝のことなんだけど・・・あんなに五月蠅いと嫌っていた子供達と、遊んであげていたよね・・・?」
「そ、それは・・・騒々しい連中だが、ああも懐かれてしまっては無碍に黙殺するのも気が引けてだな・・・」
人間に心を許したところを僕に見られていたことに焦りを感じたのか、彼女が分かりやすく僕から視線を外す。

「あなたは、人間が憎いんじゃないの?だから、昔はこの町を襲ったりしたんでしょ?」
「別に私は・・・人間を憎んでいるわけではない。第一、この私が人間に一体どんな恨みを持つというのだ?」
確かに、彼女にとっては人間など所詮はただの食料でしかない。
肉食獣のように持ち前の鋭い牙や爪でささやかな反撃さえされない、極めて鈍重で無抵抗な肉の塊。
腹が減れば捕らえて口に入れ、胸の内に嗜虐的な欲求が芽生えれば思うがままに嬲り殺しその断末魔を楽しむ。
そんな都合の良い獲物であり玩具である人間に、恨みなど抱く理由は無いと彼女は言いたいのだろう。
「じゃあどうして・・・?」
「そうだな・・・今となっては私にも良く分からぬ。人間と共に暮らすのも、悪くないと思い始めているのだ」
その彼女の返答に、僕は必死に安堵の表情が零れるのを堪えていた。
もし本当に彼女が人間を襲う理由を見失ってくれたのだとしたら、折を見て真実を伝えることができるかも知れない。
だが今はまだその時ではないと自分に言い聞かせると、僕は更に彼女との距離を縮めようと思い切ってその硬い竜鱗に覆われた人間すら握り潰せる巨大な掌に自らの体を預けていた。

これまで幾つもの獲物を、小さな命を、微塵の容赦も躊躇いも無く消し去ってきた恐ろしい巨竜の手・・・
だがそんな彼女の手が、僕という己が命の片割れに触れてビクッと微かな戦慄きを見せる。
彼女は、やはりまだ僕との間に命の契約が成立していると思い込んでいるのだろう。
「大丈夫だよ・・・そんなに神経質にならなくたって」
「フン・・・お前といい他の子供達といい、恐れを知らぬというのは愚か者の証拠だな」
「僕も皆も、別にあなたが怖くないわけじゃないよ。だけどあなたを見ていると、不思議と胸が躍るんだ」
それを聞いて、彼女がそっと優しく僕の体を握ってくれる。
「それが愚かだというのだ・・・この契約さえ無ければ、今頃この町は焦土になっていたかも知れぬというのに」
「今でも・・・そうすると思う?」
「・・・さあな・・・」

彼女のその言葉には、人間の僕にもはっきり分かる程の大きな"迷い"が滲み出していた。
このかくも恐ろしい巨竜の胸中に、或いはその脳裏に、果たして一体どんな葛藤が繰り広げられているのだろう?
「とにかく、今日はもう帰るがいい。こうも毎朝早くから起こされるのでは、私も寝不足が募るばかりなのでな」
そしてその言葉とともに相変わらず恐る恐るといった様子で僕を解放すると、彼女が広々とした土の地面の上にその巨体をゆったりと横たえていく。
「うん・・・じゃあ、また明日ね」
やがて彼女に明るく別れを告げて夕焼けに追われるように帰路へついた頃には、僕は何時の間にかあのドラゴンに対する恐れの感情が綺麗に拭い落とされているのを感じていた。

その次の日・・・僕は昨日と同じく授業中に聞こえてきたドラゴンの外出の足音にそっと聞き耳を立てていた。
ただ朝夕の短い間学校の広場にドラゴンがいるというだけで、どうしてこんなにも日常が平和に感じられるのだろうか。
他の子供達は朝の間だけでもドラゴンに遊んでもらおうと普段より早く家を出てくることが多いらしく、ちょっと前までは退屈で憂鬱な場所だったはずの学校が今では1番の憩いの場になっているらしい。
だがそんなちょっとだけ刺激的な日常は、どうやらふとした拍子にあっさりと壊れてしまうものらしかった。

カン!カン!カン!カン!カン!・・・
雲1つない快晴の空から大地に照り付ける太陽が、最も熱くなる時間・・・
もう間も無く午後2時を回り今日の授業も後少しとなったその時、不意に甲高い鐘の音が町中に響き渡っていた。
それは隣国からの兵士達の来襲を告げる、もう誰もが聞き慣れた不穏な警鐘。
しかもその音は町の人々に避難を促す他に、攻め入ってきた兵士達の規模を知らせる役割をも担っている。
初めの5回は警報、6回目以上は兵士約10人に対して1回鳴らされるという仕組みだ。
だが、今回は妙にその数が多いような気がする。
12、13、14・・・回・・・?
馬鹿な・・・こんな真昼間から、100人近い兵士達が町へやって来たとでも言うのだろうか?
これまでは精々多くても4、50人程度の兵士達がやってくるだけだったというのに、そんな少人数でさえ武装した屈強な連中に対して町の人々に抵抗の余地は無かったのだ。
なのに今回は一気にその倍近い兵士達が攻めてきたというのだから、敵国に対する人道に反した略奪行為や誘拐がこれまで以上に激化することは目に見えている。

「何か、凄く多くなかった?今の鐘の音・・・」
「う、うん・・・隣国の兵士達が、大勢来たみたいだね・・・」
「やだ・・・あたし怖い・・・」
やがて周囲の子供達の間で交わされるそんな不安げな会話にじっと聞き耳を立てながら窓の外に目を向けると、徐々に町のあちこちから微かに悲鳴や怒号のようなものが聞こえてきた。
兵士達が、少しずつこの学校にも近付いてきているのだ。
隣国の兵士達が町にもたらす被害の中で最も深刻なことを1つ挙げるとしたら、やはり何よりも人質として抵抗力の小さな子供達を誘拐することに尽きるだろう。
僕の父も、かつて僕が連れ去られそうになった時に体を張って止めに入った為にその命を落としてしまったのだ。
そして今回も、どうやら兵士達の最初の標的はこの学校に向けられているらしい。
慌てふためいた先生達が子供達の避難場所を探して忙しなく辺りを走り回ってはいたものの、結局その甲斐も無く僕達は学校を取り巻いた十数人の兵士達によって逃げ場を失ってしまっていた。

何だか、人間の町の方が騒がしい気がする・・・
それは獲物を探して山の中を歩いていた私の脳裏に、ふと過ぎったある種の予感に近かった。
逆に言えばそれ程狩りに身が入っていなかったとも言えるのだが、己のもう1つの命を遠い所に残してきているだけに単なる胸騒ぎと断じるには些かの勇気が要る。
「まだ空腹は癒えぬが・・・引き返すか・・・」
何の根拠も無い小さな不安に引き摺られて、確かな空腹を捻じ伏せるという暴挙。
だが生まれて初めて自分以外の他者のことを気に掛けるようになったこの数日間、私は余りにも大きな変化を遂げた幾つもの事象の中に己の心が含まれていることを自覚していた。
そしてその場でゆっくりと踵を返すと、厚い木々に阻まれてその気配すら感じられぬ人間の町へと歩き始める。
あの小僧が・・・無事でいればよいのだが・・・

「や、やめて!やめてよぉ!」
「うわあああぁん!」
次々と無理矢理に教室から引っ張り出されては、危険な白刃を携える兵士達の前に並べられていく子供達。
子供を人質に取って敵を牽制するというその隣国の卑劣なやり方は、何年経っても変わるものではないらしい。
しかも過去に連れ去られた幾人かの子供達は、誰1人として戻ってきたことがないそうだ。
用が済んだら何処かで人目に付かないようにひっそりと殺されているのかも知れないし、そうでなければ隣国の強制労働所のような場所で従順な労働力として死ぬまでコキ使われているのかも知れない。
何れにしても、あの野蛮な兵士達に連れ去られてしまった子供達には悲惨な運命が待っているのだろう。
そして何よりも悪いことに、今正に僕自身がそんな地獄への片道切符を渡される亡者の列に並ばされていたのだ。

剣を突き付けられて地面に座らされた、悲愴な表情の先生達。
激しく泣き叫んでは殴られて黙らせられる、恐慌状態の子供達。
我が子の無事を確かめようと他の兵士達に見つからないように学校を覗いている、不安げな誰かの両親達。
それらが混在した混沌極まるこの世界の中で、僕だけは声を上げることもなく必死に恐怖に耐え続けていた。
所詮人間からもたらされる恐怖など、あのドラゴンの鋭い一睨みに比べれば物の数ではない。
だが必死にそう自分に言い聞かせてみたところで、この絶望的な状況にどうやら好転は望めそうになかった。

「よし、そのくらいでいいだろう」
やがて兵士長らしき男が野太い声でそう告げると、人質の物色に勤しんでいた他の兵士達が僕を含めた10人余りの子供達を後ろ手にロープで縛り上げる。
ギュッ
「う・・・」
まるで人を物としか見ていないようなその情け容赦の無いきついロープの締め方に、僕は思わず小さな苦悶の声を漏らしていた。
「よ、よせ・・・子供達は連れていかんでくれ!」
「何だと?貴様、我々に歯向かうつもりか!」
スパッ!
「うぁっ!」
剣を向けられながらも精一杯勇気を振り絞って抗議の声を上げた先生の1人が、事も無げに振り下ろされた無慈悲な刃に肩口を切り裂かれてしまう。
幸い傷は浅く命に別状は無さそうではあったものの、その真っ赤な鮮血に染まった痛々しい先生の姿はその場にいた他の者達の抵抗を封じるのに十分過ぎる程の効果を上げていた。

本能が何処かで告げている急がなければという奇妙な焦りと、あれはただの思い過ごしだという冷静な理性の諫めが私の中で静かに対立していた。
尚も強くなっていく空腹が帰路についた私の目に無意識の内に獲物の姿を探させては、まだ見ぬ標的に振り下ろす為の大きな爪を微かに奮わせる。
そして特に急ぐことも無く歩き続けて人間の町が目に入ってきたのは、もう既に午後4時を過ぎた頃だった。
だが注意深く辺りを見回す内に、普段と違う光景が我が目に飛び込んでくる。
私の寝床としている広場に集まった、数十人からなる人間達の群れ。
その中には何時もであれば危険だからと私から子供を遠ざけようとする大人達までが入り混じっていて、全員がズシッズシッという私の足音を心待ちにしていたかのように一斉にその視線をこちらに振り向けていた。

「これは一体・・・どうしたというのだ?」
「あ、あなたを待っていました・・・子供達が・・・隣国の兵士に連れ去られてしまったのです」
私を待っていただと・・・?彼らはこの私に、連れ去られた子供達を助けてくれとでも言うつもりなのだろうか?
だが次々と足元に駆け寄ってきた人間達の幾人かが、突然私にとって到底聞き捨てならない言葉を発していた。
「そうだ!あの子も連れて行かれたんだ!あの・・・あんたと命の契約とかっていうのを交わした・・・」
「何だと!?」
あの小僧が・・・隣国の兵士達に連れ去られた・・・?
そう言えば、この小さな町でこれだけ大勢の人間が集まっているというのに肝心の小僧の姿が何処にも見えない。
「そ、それで・・・そ奴らは何処へ行ったのだ?」
「東だよ!町を出て東に向かうと広い岩地があって、そこを抜けるとすぐに隣町があるんだ」
「お願いです!助けてください!私達の子も・・・彼らに連れて行かれて・・・あぁ・・・」

我が子を奪われた悲しみと不安に眼前で泣き崩れた母親の姿を見つめながら、私は必死に考えを巡らせていた。
私がまだ生きていることを考えればあの小僧もまだ無事なのには違いないだろうが、追っ手を防ぐための人質として連れて行ったのであれば次の町へ着く頃には子供達が用済みになるのは目に見えている。
恐らくはそうして人質を取りながら比較的抵抗の少ない安全な町を辿り、この国の奥深くまで入り込むのが連中の目的なのだろう。
それに微塵の躊躇も無く幼い子供を攫っていくその非道なやり方を見ても、連れて行かれた小僧の身が危険に晒されているのは紛れも無い事実らしい。

「わかった・・・奴らは、東へ向かったのだな?」
やがて胸の内に沸々と湧き上がった抑えようも無い怒りに大きく眼を見開くと、私は精一杯押し殺した小さな声で人間達にそう念を押していた。
「あ、ああ・・・急いでくれ。幾ら岩地が広いとは言っても、一晩もあれば十分に抜けられる距離なんだ」
「早ければ、明日の朝には奴らが隣町に着いてしまう」
「そうなれば、子供達の命は無いということだな・・・あの、小僧の命も・・・」
そして独り言のように小声でそう呟きながら、兵士達が消えていったと見える遠い東の空を振り仰ぐ。

次の瞬間、私はまるで何かに弾かれたかのようにその巨体を撃ち出していた。
沈み行く夕日を背に浴びながら、遥か先に広がる岩地を目指して全力で大地を疾駆する。
自分の命の心配が無いわけではなかったものの、今はそれよりも遥かに激しい感情が私を支配しているようだ。
そしてそれは、自分にとって大切な者を脅かされたことに対する底知れぬ怒りの感情に他ならなかった。
おのれ愚かな人間どもめ・・・私を怒らせるとどうなるか、目に物見せてくれるわ!
そんな心中の猛りに応えるべく、大地を蹴る私の手足がなおも力強く躍動する。
だが町を抜けてしばらくの間走り続けると、私はやがて見えてきた殺風景な岩地への入口にどうしても微かな不安を抱かずにはいられなかった。

ここに来るまでに例の兵士達の姿を見ていないということは、もう既に連中が岩地の中にまで入ってしまっていることを示している。
十数人の子供達を引き連れてではそれ程速く移動することなどできぬはずだというのに、私が思った以上に連中は先に進んでいるらしい。
仕方ない・・・出来れば子供達の安全の為にもできるだけ気付かれずに後を追いたかったのだが、険しい岩地に入ってしまったとなれば空から連中を探した方が良いに違いない。
幸い辺りにはもうすぐ夜の帳が下りるだろうし、漆黒の体色のお陰で私の姿は闇によく溶け込むことだろう。
そして100年以上もの長い間錆付かせていた1対の巨翼をバサリと広げると、私は宵闇の迫った空へと勢い良く舞い上がっていた。

「はぁ・・・はぁ・・・うぅ・・・」
「えぐ・・・うぐ・・・ぐす・・・」
「パパ・・・ママァ・・・」
周囲にいる兵士達を下手に刺激しないようにか、小声で漏さられる子供達の悲痛な嗚咽。
両手を縛られて歩かされている十数人の子供達は誰もが皆一様に泣いていて、僕は暗澹とした思いに駆られながら歯を食い縛って必死に恐怖と戦っていた。
大丈夫だ・・・あのドラゴンが、きっと僕を・・・僕達を助けに来てくれる。
彼女はまだ僕と命の契約が成立していると思っているのだから、僕達が攫われたことを知れば何をおいても駆け付けてくれるはずだ。
だが命の契約が偽りであることを知っているだけに、僕はどうしても心中の不安を拭い去ることが出来なかった。

「小僧・・・何処にいるのだ・・・」
広大な岩場を一望しようとこれまでに無い程に天高く翔け上がると、私は眼下に広がる不毛な岩地に動く人影にじっと目を凝らしていた。
そして荒れ果てた岩が積み上がったある一角に、大勢の人間の姿を認めて一先ず小さな安堵の溜息を吐く。
連中はまだ岩地に足を踏み入れて間も無いらしく、東の町まではまだ随分と距離があるらしいことが窺えた。
しかも流石に屈強な兵士達といえども十数人からなる子供達を連れて夜通し歩く訳にはいかぬと見えて、早くも野営の準備をしているのか慌しく動き回っているのはほんの数人だけのようだった。
だが確かに、敵国のど真ん中で安全に夜を明かそうと思うのなら子供達を人質にするというのは悪い策ではない。
それでももし奴らに何かしらの失策があるというのなら、それは他でもない人質の人選を誤ったことだった。

空は既に完全な闇の色に染まり、都合の良いことに今夜は私の姿を照らす月の気配さえ何処にも感じられない。
何も知らぬ人間達に奇襲を掛けるには、正に絶好の条件が揃っていると言ってもいいだろう。
だがすぐにでも小僧を奪い返したいという心の焦りとは裏腹に、私は翼を広げて静かに滑空しながら冷静に状況を見つめていた。
奴らなどその気になれば何時でも襲えるが・・・まずは子供達の安全を確保するのが先というものだ。
見たところ連中の数は多く見積もっても100人足らず・・・
その全てが皆似たり寄ったりの兵装を身に着けているお陰で、子供達の姿は思ったよりも簡単に見つかった。
だが剣を持った数人の兵士達が見張りとして子供達の傍についていて、迂闊に攻め入ろうものならあの小僧の身が危険に晒されることになるのは間違い無い。

「うぬぅ・・・小賢しい人間どもめ・・・」
無論あの兵士達にしてみれば、仮に私の姿を認めたところで町からやってきた追っ手とは認識しないことだろう。
だが野生の竜を装って連中を襲ったとしても、今度は子供達を盾に使われる恐れがある。
故にここは多少強引な手を使ってでも、あの忌々しい兵士どもを子供達から離すことを優先しなくてはならない。
だとすれば、私の取るべき行動は最早たったの1つしか残されてはいなかった。
1歩間違えれば子供達にも多少の被害が出る可能性は否定できないものの、その成否がどうであれ少なくとも奴らを子供達から離すことはできるはずだ。

そして子供達が全員確かに大きな岩の陰に座り込んでいることを確認すると、私は極力音を立てぬようにそっとその岩の反対側に身を翻していた。
後は、何かの拍子に子供達が不意にその場を動いたりしなければ良いのだが・・・
やがて心中に渦巻くそんな懇願にも似た思いを胸に、私は大きく左右に翼を張ったまま子供達の隠れている岩へと向かって漆黒の空を真っ直ぐに滑り降りていった。
そしてそのまま大きく口を開け、激しい向かい風を利用して胸一杯に大量の空気を吸い込んでいく。

ゴオオオオオオオオオッ!!
「な、何だ!?」
「うわあああぁっ!」
「ぎゃああっ!」
次の瞬間、滑空しながら吐き出した私の凄まじい炎の渦が入り組んだ岩場を一瞬にして火の海に変えていた。
しかし肝心の子供達は大きな岩陰に身を潜めていたお陰で炎に巻かれずに済み、その周囲に無防備に突っ立っていた数人の兵士達だけが断末魔の悲鳴を上げながら燃え尽きていく。
そして首尾良く子供達の安全を脅かしていた邪魔者を纏めて焼き払うと、私はドオオンという地響きとともに狼狽える兵士達の前にその巨体を晒していた。
「何だコイツは!?」
「ド、ドラゴンだ・・・!」
「クソッ!ガキどもを奪われたぞ!」
全く予想だにしていなかったのであろう思わぬ敵の出現に、浮き足立った兵士達が次々に驚愕の声を撒き散らす。
だが愚かにも圧倒的な彼我の力量を量り違えたらしい数人の兵士達が奪われた人質を取り返すべく剣を抜いて飛び掛かってくると、私はフンと嘲笑めいた鼻息を吐いて眼前の虫けらどもをあっさりと踏み潰していた。

ゴシャッという何とも形容し難い鈍い音とともに、勢い良く振り下ろした巨大な両手が小さな2つの命を硬い岩の大地ごと跡形も無く叩き潰す。
その一欠片の悲鳴さえ上げる間も無い刹那の死に、先の2人と同様に剣を振り上げて向かってこようとした他の兵士達がまるで石にでもなってしまったかのようにピタリとその場に足を止めていた。
「う・・・く・・・」
「ひぃ・・・」
やがて砕け散った地面に縫い付けられるようにして息絶えている仲間の無残な姿を目の当たりにして、兵士達の間に明らかな恐怖と動揺がさながら突風のように駆け抜けていく。
そして眼前で拉げ潰れた2つの亡骸をまるでゴミでも摘むようにポイッと岩陰に放り投げると、私は精一杯の侮蔑を含んだ尊大な声で兵士達を挑発していた。

「どうした、もう終わりか?尤も、幼子を盾にするような腰抜けどもに決死の覚悟など到底望むべくもないがな」
「な、何だと!」
やはり思った通り、こ奴ら兵士というものは幾ら強大な敵に相対したとしてもそう簡単には逃げ出すことの出来ぬ悲しい性を持った連中であるらしい。
たとえ無様でみっともなく見えようとも、ここで逃走を選択できる者は間違い無く長生きできるだろう。
だが一時のくだらぬ誇りや矜持を貫かんがためにちっぽけな勇気を奮い起こしたことで、こ奴らの運命は既にその悲惨な結末が決まってしまったようなものだった。

その私の爪よりも短い剣で一体どうやって戦うつもりなのだろうか、数十人の兵士達が私と私の背後の岩陰で身を寄せ合っている子供達をグルリと取り囲んでいく。
そしてじりじりとその包囲の輪を縮め始めた彼らの様子に、私は小さな感嘆とそれ以上の失望を顔に滲ませた。
何時かは生じるであろう私の一瞬の隙を突いて攻撃を仕掛けようという彼らの目論見を鑑みれば、成る程確かに人数の利を生かした有用な戦法であることには違いない。だがそれは当然のことながら、人間の相手を想定した戦い方に過ぎないのだ。
大きな岩塊や岩柱による死角を巧みに利用した接近手段はなかなかに見応えのあるものではあったのだが、そろそろこ奴らに己の愚かさというものを教えてやった方が良いだろう。
私はふと脳裏を駆け巡ったそんな何処か嗜虐的な思考に我が身を任せると、居並ぶ兵士達には気付かれぬようにそっと自らの長い尾の先を持ち上げていた。
そして連中がもう十分に近付いてきたのを見計らってから、ブウゥンという風切り音とともに極太の尾を勢い良く振り回してやる。
その瞬間、私は尾に伝わった余りにも多彩な感触と衝撃に奇妙な爽快感さえ覚えてしまっていた。

ズドドドドドッ!バキッ!ドガッ!
「うわああ〜!」
「ぎゃっ!」
「ぐああっ!」
無数の肉塊を薙ぎ倒す柔らかな感触と小さな岩を粉々に破壊する硬い感触が交互に訪れ、硬い鱗に覆われた鋼鉄の鞭を振り回した後には砕け散った岩の破片と打ちのめされた大勢の兵士達が無残に転がっていた。
そして最早立ち上がる力すら失った愚か者達を一掃するべく、再び私の口から吐き出された業火が周囲を焼き払う。
やがて地獄の底で焼かれ悶え狂う亡者達の断末魔が周囲に響き渡ると、私は背後で震えているであろう子供達の無事を確かめようと静かに後ろを振り返っていた。

「うわあっ!」
だが次の瞬間、不意に聞き覚えのある甲高い悲鳴が私の耳に突き刺さる。
一体何事かと思って闇の中に目を凝らしてみると、先程の尾撃と炎をどうにかしてかわしたらしい1人の兵士があろうことかあの小僧に剣を突き付けたまま私の前にその姿を晒していた。
他の子供達はその隙に何処か別の場所に身を隠したのか、今にも喉を切り裂かれそうな小僧とその兵士以外には何処にも人影が見えない。
「くそ・・・この化け物め・・・それ以上近寄るな!」
「こ、小僧・・・」
他の兵士達より幾分か位の高そうな身形をしているのを見る限り、こ奴は恐らくこの兵士達の長なのだろう。
そして私が子供達を護っていたのを見て取って、彼らを盾にすることが有効であると踏んだのに違いない。
だが奇しくもその苦し紛れに取った作戦は、今度こそ私の動きを止めるのに十分過ぎる程の成果を上げていた。

ゴオオオオォ・・・パチ・・・パチパチ・・・
激しく燃え上がる紅蓮の炎と何かが爆ぜる乾いた破裂音が、不毛な岩地をより終局的な背景へと変えていく。
そしてあれだけ大勢いた敵の兵士達を瞬く間に物言わぬ肉塊と消し炭に変えてしまうと、彼女は何処か愉しげな笑みを浮かべたままこちらを振り返っていた。
だが剣を突き付けられた僕の姿が目に入ると、そんな勝利を確信していたドラゴンの表情が激変する。
背後の兵士長らしき男は僕の首筋に鋭い剣の切っ先を触れさせながら、余りにも強大で暴力的なドラゴンの存在に怯えているのかフルフルと小刻みに震え続けていた。
僕がドラゴンに対する人質として機能しなかったとしたら、最早生き延びる術は無いと思っているのだろう。
確かに剣を突き付けられたのが僕ではなく他の子供だったとしたら、もしかしたらドラゴンの反応はもう少し違ったものになったのかも知れない。
だが明らかな動揺と狼狽を表に出してしまった彼女の様子に、男は幾分かの落ち着きを取り戻したようだった。

「貴様・・・もしその子供を少しでも傷付ければ・・・楽な死に方はさせてやらぬぞ!」
兵士が勢い余って小僧の首を掻き切らぬように抑えた、それでいて胸の内に溢れ出す殺意を存分に込めた脅迫。
流石にその背筋の凍るような冷たい声には男の顔にも若干の恐怖心が垣間見えたものの、やはりどう楽観的に見ても命の契約を交わした小僧を手中にされている限り形勢が不利なのは私の方だった。
あの兵士は当然命の契約のことなど知る由もないだろうが、万が一にもその秘密が知れれば奴は何の躊躇いも無くあの小僧の首を刎ねることだろう。
「だ、黙れ化け物め!そ、それ以上1歩でもこちらに近付いたら・・・このガキの喉を切り裂くからな!」
自身よりも遥かに巨大なドラゴンを相手に、幼い人間の子供を盾にして牽制する兵士・・・
それは端から見れば実に奇妙で滑稽な状況なのだろうが、あの小僧は正に私の命そのものなのだ。
その命が辛うじてまだ摘み取られずに済んでいるのは、単純にあの兵士の無知による僥倖以外の何物でもない。
だがこのままでは何時まで経ってもお互いに手出しができず、延々と膠着状態が続くのは明らかだった。

ど、どうしよう・・・
時折首筋に触れる鋭い刃の感触に怯えながら、僕は心中の葛藤と必死に戦っていた。
あのドラゴンを縛り付けているのは、僕と命の契約を結んでいるというたった1つの小さな嘘だけなのだ。
その誤解さえ解いてやれば、彼女にとって僕は人質としての意味を失うことになる。
だがそれは同時に、彼女が僕を助けようとする理由をも失ってしまうことを意味していた。
「おいガキ・・・あの化け物は何だってお前を助けようとしているんだ?」
「そ、それは・・・」
やがて唐突に背後から浴びせられたその危険な問いに、反射的に応じた声が微かに震えてしまう。
「ぼ、僕が・・・あのドラゴンの命の恩人だからだよ」
「何だと?そんなことで、あの化け物がこれ程までに人間に義理立てすると言うのか?」
確かにたった1人の人間を救うために100人の人間を皆殺しにするなど、幾らそれがドラゴンだとしても俄かには信じられる話ではないのかも知れない。
その言葉を裏付ける唯一の証拠は、人間の命を踏み躙ることに何の躊躇いも示さなかった凶暴なドラゴンが僕という人質の前にその動きを止めているというこの奇妙な状況だけなのだから。

「と、とにかくだ・・・あの化け物を早く俺から遠ざけろ。お前が言えば奴も言うことを聞くんじゃないのか?」
「多分、無駄だと思うよ。あなたは僕を人質に取るという、彼女にとって最大の禁忌を犯しちゃったんだから」
「う・・・く・・・」
その僕の言葉は、彼にとって自身の死が何よりも確実なものになるであろうことを予感させたらしかった。
僕を殺せば当然ながら彼はその瞬間彼女に八つ裂きにされるだろうし、仮に僕を放したところで怒り狂った彼女が見逃してくれる保証は何処にも無い。
だが流石は常に過酷な戦いに身を置いている兵士らしく、1つの提案が彼の口から漏れてくる。
そしてそれは人質となっている僕にではなく、今にも眼前の憎き人間を引き裂こうという不穏な気配とともに身を屈めていた彼女に対してのものだった。
「わ、わかった・・・このガキは放してやる。俺はただ、命が助かる保証が欲しいだけなんだ」
「それで・・・何が望みなのだ・・・?」
「俺が逃げても後を追って来れないように、自分で自分の両目を潰せ。それがこいつを放す条件だ」
その瞬間、僕と彼女はほとんど同時にその顔へ激しい驚愕の表情を浮かび上がらせていた。

「私の・・・目を潰せだと・・・?」
そう言いながら背後の兵士を睨み付けた怒れる巨竜の視線には、まるで目を合わせただけで心臓が止まってしまうのではないかという程の凄まじい殺気が込められていた。
だがその恐ろしい視線から身を護るように僕の喉元に研ぎ澄まされた剣の切っ先が強く押し当てられると、そんな鎮め難い怒りの炎が突如として走った緊張にゆらりと小さな揺らめきを見せる。
「そ、そうだ!そうすれば、このガキは約束通り放してやるぞ」
「ぐ・・・くく・・・」
自らの命を盾に命じられたその屈辱的な要求に、彼女が悔しげに牙を食い縛る。

「そうすれば・・・本当にその小僧を放すというのだな・・・?」
「あ、ああ!俺は、命が助かる保証が欲しいんだ。だからお前が両目を潰したら、もうガキどもに用はない」
「おのれ人間風情が・・・その約束・・・万が一にも違えた時はどうなるか覚えておれよ・・・」
彼女はそう言うや否や、指先から生えた槍のように鋭い爪の先端を静かに己の両目に近づけていった。
そんな・・・彼女は、本当に自分の目を潰すつもりなのだろうか?
幾らドラゴンだとはいえ、1度失ってしまった光はもう決して元には戻らないはず。
それに仮に彼女が目を潰したところで、本当に僕が助かるという保証は無いのだ。
なのに彼女は・・・最早何の関係も無い僕の命を救おうと不確実な可能性に賭けて己の目を潰そうとしている。
そしてゴクリと息を呑んで見つめる僕の前で、ついに彼女の爪先がその大きな2つの瞳を貫こうとしていた。

激しく燃え上がる炎、草の1本も生えていない乾いた岩だらけの不毛な大地、そして喉元に剣を突き付けられたまま私を見つめている、悲愴な表情の小僧・・・
そんな何の彩りも華やかさも無い冷たい景色が、生涯で最後に見る景色になろうとは・・・
クククッという何処か自嘲を含んだその心中の含み笑いに、私はスゥッと1つ大きく息を吸い込むと覚悟を決めて両目に宛がった指の爪先へと力を込めていた。
「だ、駄目だよドラゴンさん!そんなことしたら・・・」
だがその瞬間必死に叫んだのであろう小僧の声が私の耳へと突き刺さり、永遠に光を奪おうとしていた凶器をほんのしばしの間だけ硬直させることに成功する。

「ずっと言えなかったんだけど・・・僕、ドラゴンさんに伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「・・・何だ小僧・・・言ってみるがいい・・・」
「本当は僕達、命の契約なんて結んでいなかったんだ・・・あれは、導師の吐いた嘘だったんだよ・・・!」
な、なん・・・だと・・・?
その小僧の言葉の意味を理解するのに、私は両目に爪を突き付けたまま実に10秒以上もの時を要していた。
あの小僧との命の契約が、結ばれていないだと・・・?
あれは全て、あの忌まわしき導師の嘘だったというのか?
では・・・私は一体何の為に・・・
だが呆然自失としていたその空虚な時間が過ぎ去ると、今度はその反動のように凄まじい怒りが込み上げてくる。
それが一体誰に対しての怒りなのかは自分でも分からなかったものの、幸いにもやり場の無い激情をぶつける相手は私のすぐ目の前で震え上がっていた。

「お、おい!お前・・・あの化け物に一体何を言ったんだ?」
明らかにその憤怒の度合いを増したドラゴンの様子に慄いて、背後の兵士が慌てた様子で僕に聞いてくる。
だが既に覚悟を決めていた僕は、何処か諦観を滲ませた涼しい顔でその問いに応えていた。
「彼女に、もう僕には人質の価値なんて無いってことを教えてあげたんだよ。この意味、わかるでしょ?」
「なっ・・・ふ、ふざけるな!」
そしてそんな兵士の狼狽をよそに、まるで僕の言葉を裏付けるように彼女が般若の如き形相を浮かべながらゆっくりとこちらに向かってその巨大な1歩を踏み出してくる。
「う・・・ま、待て・・・それ以上近付いたらこのガキを・・・」
「グルオアアアアアァァァッ!」
「ひ、ひいぃっ・・・!」
やがてその怒れる咆哮に最早僕が身を護る為の人質としては機能しないことを悟ったのか、兵士はついに意を決すると僕にとどめを刺すことも無く手にしていた剣を打ち捨てて脱兎の如くその場から逃げ出していた。

絶対的な死に迫られた人間は、あんなにも速く走れるものなのだろうか・・・
起伏に富んだ不安定な岩の地面の上を、逃げ出した丸腰の兵士が凄まじい速さで遠ざかって行く。
だがその数瞬後、僕は一見すると賢明に見えるその彼の選択が間違いであったことを正にこれ以上無い程にはっきりと思い知らされていた。
筆舌に尽くし難い純粋な怒りという感情に猛り狂った巨大な黒き獣が、まるで存分に引き絞られた見えない強弓にでも打ち出されたかのような1本の矢となって不毛な大地を疾走する。
僕はそれまであの巨体で一体どうやって山に棲む野生の獣を捕らえていたのかと不思議に思っていたのだが、強靭な手足で地面を抉らんばかりに蹴り出した彼女は正に一呼吸の間も無く逃げ出した獲物に追い付いていた。
そして必死に走り続ける男を事も無げにバシッと地面の上に叩き伏せたかと思った次の瞬間、ようやく彼女の通った後をゴウッという音とともに鋭い突風が追い縋っていく。

「ぐああっ!」
必死の逃避行の最中に突然背後から強烈な衝撃とともに荒々しい岩に覆われた地面へと叩き付けられて、俺は痛みとも熱さともつかない全身が痺れるような絶望的な感触に苦悶の声を上げていた。
やがて巨大なドラゴンの手に押さえ付けられてしまったという恐ろしい事実が、俺の脳裏を圧倒的な死の予感でこれでもかとばかりに埋め尽くしていく。
だがそこから逃れようとどんなに体に力を入れてみても、上からギュッと軽く地面に押し付けられただけでそんな儚い抵抗はあっさりと踏み躙られてしまっていた。
「た、助けてくれ!助けてくれぇっ!」
一思いに叩き潰されずに無傷のままドラゴンに捕らえられてしまったことが、逆にこれから味わわされるであろう恐怖と苦痛の予感を確かなものにしてしまう。
そしてそんな俺の怯える様子をたっぷりと堪能したのか、ついにドラゴンが俺をその掌中へと包み込んでいた。

ギュッ・・・ギュウゥッ・・・
「ひ・・・ひぃ・・・」
そこはまるで大蛇の懐にも似た、決して逃れようの無い死の牢獄。
全身がゆっくりと握り潰されていく感触が、確かな苦痛と激しい息苦しさとなって俺の体を蝕み始めていた。
「う・・・あ・・・はぁ・・・・・・た・・・すけ・・・」
ボギッ・・・ベギギッ・・・
必死に助けを求める掠れ声も空しく、自身の崩壊の第1歩を告げる両腕の砕ける音が体中を駆け巡っていく。
だが早くも押し潰され始めた肺が喉から迸ろうとした悲鳴を掻き消してしまうと、俺は続いて聞こえてきた両足の折れる音にただただきつく顔を顰めることしかできなかった。
グギッ・・・ゴキ・・・メキメキメキ・・・
た、頼むから・・・は、早く・・・楽にしてくれ・・・
やがてボロボロと大粒の涙を流しながらひたすらに無言でそう訴えていた俺と目が合うと、ドラゴンが何を思ったのか今にも俺を握り潰さんとしていた手の力をほんの少しだけ緩めていく。
そして一体何をと訝る間も無く、天を仰いだドラゴンがゆっくりとその巨口を開いていった。

「あぁ・・・そんな・・・い、嫌だ・・・やめてくれぇ・・・」
手足を砕かれて最早芋虫のように地を這うことしか出来なくなった俺を、この残酷なドラゴンは生きたまま丸呑みにしようとしているのだ。
だが今更俺にその悲惨な運命を回避する手段などあるはずも無く、俺はゆっくりと時間を掛けて焦らされながらドラゴンの口の上にまで持ち上げられてしまっていた。
「う、うわああぁ・・・」
やがて完全に俺を大きく開いた口の真上まで運んでくると、美味い獲物を待ち侘びていたかのようにその巨大な舌がベロリと口の周りを舐めずっていく。
「た、頼む・・・俺が悪かった・・・だから・・・ゆ、許してくれぇ・・・」
生きたままドラゴンに食われるという想像するだに恐ろしい状況に、俺はもう身も世も無く泣き叫びながら決して叶わぬ赦しを乞うことしかできなかったのだ。
そして次々に零れ落ちる深い後悔の溶け込んだ俺の塩辛い涙を一頻り美味そうに味わうと、ついにドラゴンがその確実な死の待つ暗い肉洞目掛けて高々と摘み上げた獲物を静かに投げ落としていた。

「うわああああぁぁぁ・・・」
成す術も無く恐ろしいドラゴンの口内へと消えていく、哀れな兵士の長い長い断末魔の声。
だが僕はその光景を呆然と見つめたまま、次は自分の番だという理性の鳴らす警鐘に心臓の鼓動を早めていた。
あのドラゴンが彼を先に襲ったのは、単に彼が僕より先に彼女の前から逃げ出したからなのだ。
命の契約が嘘だったという真実を知ってしまった今、この僕さえも彼女にとってはただの餌の1つでしかない。
そしてその証拠に、散々に口内で嬲り尽くして動かなくなったのであろう獲物をゴクリと飲み下したドラゴンが今度は地面にへたり込んでいた僕の方へとその感情の読み取れない無機質な視線を向けていた。

「う・・・うぅ・・・」
ズシッズシッという既に聞き慣れた巨竜の足音が、今だけは僕の命のカウントダウンのように聞こえてしまう。
だが結局逃げ出そうという気力を奮い起こすことは出来ず、僕は音も無くこちらに伸ばされてくる彼女の巨大な手をただひたすらにガタガタと震えながら見つめていることしかできなかった。
ガシッ
「ひっ・・・」
やがて僕の体をすっぽりと包み込む程に巨大なドラゴンの手で無造作に鷲掴みにされると、図らずも先程の兵士が辿った悲惨な末路を思い出して小さな悲鳴を漏らしてしまう。
そして彼女の顔の前まで一気に持ち上げられると、僕はあまりの恐ろしさにカチカチと震える歯を食い縛りながらギュッときつく目を瞑っていた。

「・・・その怯え方はやはり・・・本当なのだな・・・?」
努めて低く抑えられた、静かに囁くような彼女の声。
しかしその陰に今にも爆発しそうな危険な激情の気配を感じて、思わず返事をするのが憚られてしまう。
だが何時までも震えるばかりで声さえ出せずにいた僕に苛立ちを覚えたのか、まるで肯定の言葉を強要するかのように彼女が僕の体をキュッと軽く握り締めていた。
「うあぁっ・・・」
握り潰される・・・!
その正に非の打ち所の無い確実な死の予感に、ついに大粒の涙がその両目から零れ落ちていく。
そしてそんな僕の様子を肯定の返事と受け取ったのか、いよいよ何の価値も無いただの"獲物"と成り下がった僕にとどめを刺そうと彼女の眼に冷たい殺意の輝きが煌いていた。

「ありがとう!ドラゴンさん!」
「助けてくれてありがとう!」
だが次の瞬間、確かに固く握り締められたはずのドラゴンの手の中でそんな場違いな声が僕の耳に届いてくる。
と同時に指の隙間から見える彼女の顔から、見る見るうちに険しい怒りの表情が剥がれ落ちていった。
どうやら状況から察するに、今の今まで何処かの岩陰にでも隠れていたのであろう十数人の子供達が一斉に自らを救ってくれたドラゴンに寄り縋って口々に感謝の声を上げているらしい。
荒れ狂う怒りに身を任せていた彼女もこれには流石に心中の驚きが隠せなかったのか、僕はどうして良いのか分からずに助けを求めていたらしい彼女とついつい目を合わせてしまっていた。

「ド、ドラゴン・・・さん・・・」
そして辛うじて声が出せるまでに緩められたドラゴンの手の中で、困惑気味な彼女にそう呼び掛けてやる。
「皆、あなたに感謝してるんだ・・・ぼ、僕のことは許せないかも知れないけれど、それだけは分かって欲しい」
「だからと言って、私がこ奴らをこのまま見逃してやるとでも思っているのか・・・?」
しかしそんな不穏な言葉を口にした割には僕からフイッと視線を逸らした彼女の様子に、僕はようやく彼女の中で暴れ狂っていたやり場の無い怒りの炎が収まってくれたことを確信していた。
「あなたが僕だけじゃなくて子供達全員を助けようとしてくれたのは、命の契約だけが理由じゃないんでしょ?」
「う・・・だ、黙れ小僧!それ以上つまらぬ口を利くようなら本当に握り潰すぞ!」
「う、うん・・・ごめん・・・あうっ・・・」
だが照れ隠しなのかそう言いながら再びミシッと全身の骨が軋む程度に体を締め上げられると、何故かその奇妙に心地の良い痛みと息苦しさに思わず謝罪の声を漏らしてしまう。
「フン・・・生意気な小僧めが・・・だが、町へ帰るにも今日はもう遅い。今夜は、ここで夜を明かすとしよう」
「わーい!賛成!」
「何だか、遠足みたいだね」
やがてそんなドラゴンの提案に口々に喝采を上げる子供達の声を聞きながら、僕も何時しか彼女の手の中で何の恐れや不安の無い満面の笑みを浮かべていた。

その翌朝、僕達は全員ドラゴンの背中に乗せてもらって楽しげに笑いながら町まで帰ってきた。
学校の先生達や攫われた子供達の両親が、広場で歓喜の涙を流しているのが遠くからでも良く見える。
そして大勢の人々が見守る中で広場の真ん中に降ろしてもらうと、それまでガヤガヤとした喧騒にしか聞こえなかった人々の声がドラゴンに対する深い感謝の色を帯びていった。
「あ、ありがとうございます!何と、何とお礼を言ったらいいか・・・」
「良かった・・・本当に良かった・・・」
「フ、フン・・・」
だが当のドラゴンはまだ人間達から感謝されることに慣れていないのか、何処と無く居心地の悪そうな表情を浮かべながら静かに俯いているばかり。
やがてそんな困惑した彼女の様子を見るに見かねると、僕はそっと彼女に感謝とは別の声を掛けていた。

「ドラゴンさん・・・これからどうするの?」
「これからどうするかだと?私はもうお前とは無関係なのだ。当然、山へ帰るに決まっているだろう」
「そ、そっか・・・そうだよね・・・」
確かに、彼女は命の契約を結んだ僕を護るためにこの町に棲むことを決意したのだ。
それが偽りだったと知ってしまった以上、彼女にはもうここにいる理由など何も無い。
そして周囲の興奮がようやく多少の落ち着きを取り戻したのを見計らってか、彼女が不意にクルリと西の山の方へとその向きを変えていた。
後の説明は僕に任せ、彼女は狩りに行くと見せ掛けてこのまま何も言わずに町から消えるつもりなのだろう。
だがそんな彼女の思惑を知ってか知らずか、足元に犇いた人々を踏まぬようにゆっくりと歩き始めた巨大なドラゴンに向かって天真爛漫な子供達の甲高い声が浴びせ掛けられていた。

「ドラゴンさん!また遊んでね!」
「今度は空を飛んでみたいなぁ!」
「兵士達をやっつけてくれてありがとう!凄くかっこよかったよ!」
このままドラゴンが帰ってこないとは露程も思っていないそんな子供達の声に、彼女の横顔が微かに歪む。
きっと言葉ではああ言いながらも、心の何処かではまだこの町で人々と暮らすことに未練があるのかも知れない。
その証拠に、逃げるように人々の輪を抜け出したはずの彼女の足が何時の間にかピタリと止まっていた。
そして長い長い葛藤の末に、先程1度は別れを告げた僕に向かって不本意そうに苦い表情の浮かんだ顔を向ける。
それが前言の撤回を求める彼女の敗北宣言だということを即座に理解すると、僕は嬉しさの余りその場から勢い良く飛び上がっていた。

「しっかり掴まっているのだぞ。もし背から転げ落ちても、拾いには行かぬからな」
「うん!大丈夫!」
「早く!早く飛んで!」
私の背に跨った2人の命知らずな子供達が、口々に生意気な催促の声を発していく。
やがてそんな彼らの腕がしっかりと首に絡み付いているのを確かめると、私は巨大な翼をバサリと広げていた。
そして静かに大地を蹴りながら大きく翼を羽ばたくと、私の体がフワリと大空に舞い上がる。
人間を背に乗せて飛ぶなど私にはもちろん初めての経験だったものの、楽しげにはしゃぐ背中の子供達の声がそんな私の密かな不安を掻き消していった。

「凄い!学校があんなに小さく見えるよ!」
「もっと速く飛んでみて!」
「全く・・・お前達はこの私を一体何だと思っているのだ・・・?」
だがそんな不満の声を上げながらも、私は何時からか子供達と過ごす時間を楽しんでいることに気が付いていた。
命の契約は、確かに偽りだったのかも知れない。
だがそのお陰で、私はそれまでただの餌としか見ていなかった人間達と深く関わる切っ掛けを手に入れたのだ。
あの薄暗い洞窟の中で無為に過ごしてしまった百年余りの孤独も相俟って、この人間達との生活は奇妙なまでの充実感を私に与えてくれている。
これからも、私はこの町で人間達を護りながら静かに暮らすとしよう。
「そろそろ下に下りるぞ。お前達の他にも、まだまだ大勢命知らずな小僧どもが後に控えているのでな」
「はーい!」
そして背後から元気のいい2つの揃った返事が聞こえてくると、私は左右に広げた巨翼一杯に風を受けながら遥か眼下に見える大勢の子供達が待つ広場へと向けて快晴の空を優雅に舞い降りていった。

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