ゴク・・・ゴク・・・
心地良く喉を通り過ぎる、美しく澄んだ冷水の感触。
我は雲1つ無く晴れ渡った清々しい空を見上げると、満腹になった腹を抱えたまま湖畔の湿った土の地面に横たわっていた。
今日の食事は普段の我の獲物に比べればやや小柄な1頭の仔鹿だったものの、適度に痛め付けた後で生きたまま丸呑みにしてやったお陰か独特の征服感が胸の内を満たしている。
だが、恨むならこの我の縄張りに生まれ落ちてしまった己を不運を恨むのだな・・・
やがて腹の中に感じる哀れな獲物の感触をそっと摩りながら、我はふとそんな独り言を脳裏で呟いた。

我の棲むこの広大な森はその周辺にも人間達の暮らす町や村といった集落が無いお陰で、ずっと昔からほとんど人間がやってくることのない平和な環境が保たれている。
それ故に野生の獣達も数多く生息しており、またそれらを糧とする同族達の姿もしばしば目に付くことがあった。
とは言っても、我らは誰もが無用な衝突を避ける為にできるだけお互いの縄張りは侵さぬようにしている。
それに誤って他者の縄張りに踏み込んだ場合でも、敵意を示さぬ限りはやんわりと追い払われることが多かった。
第一、我らにとって縄張りなどというものは所詮大した意味を持っていない。
日に1度か2度食料となる獣を追い回す以外は、誰もが1日のほとんどを薄暗い洞窟の中で暮らしているからだ。
だがそんな竜族の一員である我にも、ここだけは他の同族達に侵されたくないという場所がある。
今我が幸せな食後の一時を楽しんでいるこの小さな湖も、そんな数少ない聖域の1つだった。

「さて・・・そろそろ塒へ戻るか・・・」
毎日の日課である食後の日光浴も、快晴の空に掛かり始めた夕焼けが名残惜しくも終焉の時を告げている。
数時間の休息の内に柔らかな純白の皮膜を膨らませていた腹は、すっかり元の大きさにまで凋んでしまっていた。
だが、今日はもう何も食べずとも特に問題は無いだろう。
そして腹とは対照的に深みのある漆黒の鱗を纏った手足に力を入れると、我はゆっくりと重い体を持ち上げた。
ここから住み処の洞窟まではしばらく歩かなければならないが、この憩いの場を我の縄張りと主張する為には毎日足を運んで自身の存在を周囲に知らしめる必要があるのだ。
そしてこの湖には、我にとってその苦労に見合うだけの価値が十分にある。
落ち着いて体を休められる水場を確保することはただでさえ退屈な生活を充足させる一助になるだけでなく、万が一獲物を狩り損ねた時でも喉の渇きだけは癒すことができるという安心感を得るのにも一役買っていた。

やがて空が美しい橙色から我の体色と同じ深い闇の色に染まり切った頃、我はようやく辿り着いた広い洞窟の中でゆったりと蹲っていた。
こんな生活を、もう何十年続けてきたのだろう・・・?
今まで特別これといった不自由が無かったせいで大して疑問にも思わなかったが、この孤独で単調な生活もあまりに長引けば少しばかりの新しい刺激というものが恋しくなってしまう。
思えば我がまだ幼い仔竜であった時には、自身より大きな獣を見る度にドキドキと胸を高鳴らせたものだった。

数十分もの長い間巨大な猪に追い回されたり、そっと背後から近付いたはずの鹿に蹴り飛ばされたりした記憶が、何とも形容のし難い不思議な懐かしさを伴って我の脳裏にこびり付いている。
あれから長い年月を経た今ではもうすっかりと立場は逆転してしまったものの、当時の我にとっては正にそんな獣達が刺激的な遊び相手でもあったのだ。
「遊び相手、か・・・」
森に澄むどんな獣達よりも遥かに巨大な体躯を獲得してしまった今では、そんな退屈を紛らわせてくれる相手など恐らく同族以外には存在しないことだろう。
だがその同族達も互いに互いの縄張りを尊重して顔を合わせぬように暮らしている以上、悲しいことに新たな出会いは到底望むべくも無いただの儚い夢でしかないらしかった。

翌朝、我は何時ものように朝早くから塒を抜け出して早速今日最初の獲物である子供の猪を捕らえると、ほとんど丸1日振りとなるその美味い食事を十分に堪能した。
そして今日も快晴となった真っ青な空を木々の梢の隙間から見上げると、またあの湖で静かな時間を過ごせるのが楽しみで満腹だというのにほんの少しだけ足を速めてしまう。
だが昼を少し回った頃になって我が例の湖畔に辿り着いてみると、驚いたことに美しい紅に身を染めた雌の竜が美味そうに湖の水を飲んでいるところだった。

細かな鱗を纏った雄の我とは異なり、その雌らしい丸みを帯びた背を包むのは滑らかな真紅の剛皮。
湖水に口を付けてコクコクと水を飲み下すその仕草は何とはなしに心を和ませたものの、我はハッと我に返ると自らの縄張りが、それも最も他者に侵されたくない聖域が汚されていることに気付いて声を張り上げていた。
「な、何だお前は!?ここは我の縄張りなのだぞ?水を飲むのは構わぬが、すぐに立ち去るのだ」
やがてその声で初めて我の存在に気が付いたらしく、彼女がゆっくりと顔を上げてこちらへとその視線を振り向けてくる。
そして如何にも気の強そうなその鋭い双眸で我をキッと睨み付けると、正に我が想像した通りの澄んだ、それでいて我への敵意を隠そうともしない不穏な声が彼女の口から放たれていた。

「それは断る・・・ここは私の住み処に程近いからな・・・今日からここは、私の縄張りにさせてもらうぞ」
何だと・・・?
余りにも唐突で、そして余りにも不躾なその物言いに、我は一瞬彼女が何を言っているのか理解できなかった。
今日からここを自分の縄張りにさせてもらうだと・・・?ふざけるな!
だがそんな悪態が我の口を衝いて出なかったのは、彼女の顔に我に対する明らかな侮り、そして自身の優位性を微塵も疑わない奇妙な自信とも取れる表情が浮かんでいたからだった。
つまりこの不埒な雌竜は、我と争っても勝てるものだと高を括っているのだ。
自分よりも大きな雄竜にそんな態度を示されるのならまだ理解できなくもないのだが、彼女の体はどう大きく見積もっても我と同じかほんの少し小さい程度でしかない。
体の大きさが同じであれば力は雄の方が強いことなど、竜に限らず生物としての常識ではないか。
にもかかわらず我との一戦も辞さぬというその不遜な姿勢に、我は雄としての自尊心が甚く傷付けられたことを感じていた。

「ほう・・・そんなに我の縄張りを横取りしたいというのなら、相応の覚悟はできているのであろうな・・・?」
「フン・・・大人しく身を引くというのなら痛い目には遭わずに済むものを・・・」
そして我の精一杯の殺意と敵意を込めたその脅しにも真っ向から戦意を叩き返してくると、彼女がようやく水を飲むのを止めて我の方へとその体を向ける。
我と同じ純白の皮膜に覆われた彼女の腹はたっぷりと水を飲んだお陰かタプタプと左右に揺れていて、その希薄な緊張感はとてもこれから命懸けの戦いに身を投じるというような雰囲気からは遠く懸け離れていた。

「グオオアアァ!!」
巨竜同士の戦いの開始を告げる激しい咆哮が周囲の森一帯に響き渡り、静かな平面を取り戻していた湖面をビリビリと震わせる。
我は怒りに漲る四肢を力一杯躍動させると、土の地面が深く抉れるのも構わずに全力で大地を蹴っていた。
そして堅牢な鱗で固めた巨体を一瞬で加速させると、相変わらず湖の傍で身構えていた雌竜に向かって突進する。
だがやがて頭部に感じるであろう重い衝撃を覚悟したのも束の間、我の体は雌竜がいたはずの場所を何の抵抗もなく通り過ぎてしまっていた。
ブゥン!バキィッ!
「グガァッ!?」
先制の攻撃があっさりとかわされてしまったことに驚く暇も無く、唸るような風切り音とともに振り回された雌竜の屈強な尾が我の顔を思い切り弾き飛ばす。
そして一体何が起こったのかと痛む顎に顔を顰めながら周囲を見回すと、雌竜が勝ち誇ったような顔でこちらを見つめていた。

「フフン・・・口程にもないではないか」
「グ・・・おのれ生意気な小娘めが・・・」
だが再び湧き上がってきた侮辱への怒りに任せて飛び掛かりながら鋭い爪を振り下ろすと、雌竜がその巨体に比して驚くべき俊敏さで背後へと飛び退いてしまう。
成る程・・・重厚な鱗を纏う我ら雄とは違い、薄くて丈夫な剛皮のみを纏った雌の竜は随分と身軽であるらしい。
しかもそのしなやかな肢体をしならせて繰り出される尾撃の威力は、まともに食らえばこの我でさえ正常な体勢を保ってはいられぬ程の強烈さときている。
打撃如きを幾ら受けたところで致命傷になることはまず無いだろうが、痛みと疲労の蓄積は間違い無く無様な敗北へと繋がることだろう。
とは言え、単純な腕力だけで言えば我の方に分があることもまた事実。
一旦捕らえさえすれば、後はどうとでも好きなようにこの鬱憤を晴らしてやれるはずだ。
そしてそんな近い内に訪れるであろう至福の時を想像すると、我は尾撃を受けた際に自らの牙で傷付けたらしい口の端から流れ出した血をペロリと舐め取っていた。

「いい加減に諦めたらどうだ?所詮は力ばかりで鈍重な雄どもに捕まる程、私は間抜けではないからな」
「おのれ言わせておけば・・・!」
安い挑発に乗せられてはあの小娘の思う壺だと頭では理解しているものの、我は敢えて平静を失った振りをしてその挑発に乗ってやることにした。
確かに全身に重い鱗を背負った我の動きは、雌竜のそれに比べれば鈍重に見えることだろう。
だが彼女の言った言葉は、それでも我に捕まれば勝ち目は無いという自覚の裏返しなのだ。
我を挑発すればする程、我の怒りを煽れば煽る程、万が一我の手に落ちた時にどんな報復を受けるのかという恐れと不安は目に見えずともあの雌竜の心中で確実に膨れ上がっていくことだろう。
そしてそれを助長するには、如何にも我が直情的な怒りに任せて振舞う粗暴な雄であるという印象を植え付けてやるのが何よりの早道だった。

雌竜のそれよりも一回り太い豪腕から繰り出される我の怒りのこもった凶悪な爪を、小娘がまるで嘲るような薄ら笑いを浮かべながらひらりひらりとかわしていく。
だが我よりも激しく動き回っている分、体力の消耗は避けて通れぬ弱点のはずだ。
その証拠に、最初は空しく空を切っていた爪先が僅かながらその先端を雌竜の皮膚に触れさせ始めている。
幾度かの微かな接触で我の爪にその自慢の剛皮さえ切り裂く程の威力があると悟ったのか、依然として軽やかに身をかわす雌竜の顔からは何時しか余裕の笑みがすっかりと抜け落ちていた。
とは言え、我の方にも疲労は蓄積され始めている。
戦い始めてから1時間が経過する頃には我も彼女もお互いに重い体を跳躍させる体力は既に枯渇し、汗の代わりに体温を調節する機能を持った吐息は荒々しい灼熱の熱風となって我らの周囲を暖めていた。

「ハァ・・・ハァ・・・ちょこまかと小賢しい小娘め・・・」
「フゥ・・・フゥ・・・わ、私を捕らえようとしても無駄なことはもう分かっただろう、このノロマめ」
強がった言葉とは裏腹に当初の輝きを失っている彼女の眼を見る限り、お互いにもう体力の限界が近いようだ。
まだ夕方と呼ぶには早い時間だというのにここへ来た時は満腹だった腹はもうすっかりと空っぽになっていて、下らぬ争いをしている暇があったら早く次の獲物を寄越せとばかりにゴロゴロと生意気な唸り声を上げている。
そして激しい疲労に悲鳴を上げる四肢を巨竜の暴挙によってズタズタになってしまった湖畔の地面に横たえると、我は内心の悔しさを噛み殺しながらも一旦の休戦を申し入れていた。
「今の内に吼えておけ・・・今日のところは引いてやるが、この場所だけは絶対にお前などには譲らぬからな」
「フン・・・諦めの悪い奴だ・・・」
だがそれでも一応は不毛な鬼ごっこに終止符が打たれると、お互いに少し離れた場所でゴクゴクと水を飲んでからプイッと相手に顔を背けて新たな狩りへと身を翻す。
今度あの小娘に出遭ったらどうしてくれようかと幾度も頭の中で夢想しながら、我は当面の空腹をどうにかしようと凄惨な憂さ晴らしの標的になるであろう哀れな次の獲物を探し始めていた。

その翌日・・・
昨日興奮したせいか我は普段よりも少しばかり早く目を覚ますと、早速朝の食事を求めて塒を飛び出していった。
思えば昨夜不運にも我の餌食となった鹿の親子には随分と可哀想なことをしてしまったものだが、それ程までに我の心が張り裂けんばかりの怒りと屈辱で満たされていたのだろう。
本来ならば一息にその喉許を噛み砕いて楽にしてやっているところを、昨日は両脚を踏み潰されて苦悶にのたうつ親鹿の目の前で仔鹿をゆっくりと時間を掛けて引き裂いてやったのだ。
お陰で腸が煮え繰り返る程の激しい怒りは少しばかり収まったものの、それでも晴らし切れなかったこの黒い感情はやはりあの小娘に直接ぶつけてやるのが筋というものだろう。
そして考え事をしながらもふと視界に入ってきた"幸運な"1頭の鹿に狙いを定めると、我はこちらに背を向けているその無防備な首筋に勢いよく鋭い牙を突き立てていた。

「さてと・・・」
やがて空っぽとなっていた腹にたっぷりと美味い獲物の肉を押し込むと、我は今日も清々しい快晴となった空を見上げて小さな苦笑を漏らしていた。
恐らくは今日も、あの生意気な小娘が我が物顔であの湖を休息の場に選んでいるのに違いない。
だが如何にあの小娘の住み処に近かろうとも、あそこはもう数十年も前からこの我だけの物なのだ。
もしもまたあ奴が我の聖域を侵していたとしたら、今度こそ己の愚かさをその身にたっぷりと刻み込んでくれる。
そして逸る気持ちを抑えつつも少しばかり足早に森の中を進んでいくと、しばらくして心地良さそうに湖畔で蹲っている真紅の雌竜の姿が我の目に飛び込んできていた。

おのれまたしても・・・
我が憩いの場に平然と佇んでいるその雌竜の不遜な態度に、再び例えようも無い怒りが込み上げてくる。
そして鼻息も荒く茂みから出て行くと、雌竜が我の姿を認めて気怠そうに起き上がっていた。
「また貴様か・・・昨日あれ程はっきりと己の無力さを思い知らせてやったというのに、まだ諦められぬのか?」
「黙れ・・・言ったはずだぞ。我は絶対にこの場所をお前に譲り渡すつもりはないとな!」
我がそう言うと、雌竜がやれやれとばかりに小さく首を振る。
だが何処までも我を馬鹿にしたその態度の裏側にほんの微かな不安とでも言うのか、ノロマな雄竜などには決して捕まらないという絶対の自信に小さな揺らぎが走ったのを我は見逃さなかった。

やはり、こ奴は恐れているのだ・・・この我を。
昨日でさえ体力が衰えてきた頃には幾度か我の爪先がその身に掠り、堅牢なはずの剛皮に傷が付いた程なのだ。
もし万が一にも我の渾身の爪撃をまともに受けるようなことがあれば、急所に当たらなくとも深手を負うであろうことは彼女も十分理解しているに違いない。
なのにこの生意気な小娘にできることは、必死に我から逃げ惑いながらどうしても時折見せてしまう小さな隙にとっさに振り回した尾撃を見舞うことくらいのもの。
それでさえ頑強な体を持つ我には到底致命傷を与えることができぬとあっては、詰まるところ我の体力が尽きるか或いはその心が折れるまでの間、辛抱強く我の攻撃を避け続けなければならないことを意味している。
縄張りの奪い合いという闘争の性質上この場所から逃げ出すことの許されない彼女にとって、それは正に身の細るような恐怖と隣り合わせの一時であるに違いない。

「グオアアアアァァッ!!」
そしてそんな我の宣戦布告にも昨日のような自信に満ちた返答が返ってこないことを確かめると、我は威嚇も兼ねた一際大きな雄叫びを上げながら一足飛びに雌竜へと向かって飛び掛かっていった。
それを見て、雌竜が背後に飛び退こうと微かに腰を沈める。
だがただ単調に攻め込んでも身軽な雌竜を捕らえるのが至難の業であることは、昨日十分に思い知らされている。
更には依然として動こうとしない雌竜の様子に我が爪を振るった隙に反撃を企てているらしいことを悟ると、我は敢えて空中で伸び切っていた体の力を抜いてその跳躍距離を縮めていた。
そして回避の機を窺っていた雌竜の眼前に一旦着地すると、我の予想外の行動に動けずにいた雌竜に至近距離から再び巨体を浴びせるように飛び掛かる。

「くっ・・・!」
だが敵もさる者、咄嗟の後退を想定して勢いよく大地を蹴った我に対して雌竜はあろうことか前方へ飛び出すと、クルンと回転して硬い剛皮で覆われた背を我の顔へと叩き付けてきた。
「グアッ!」
その瞬間ズガッという激しい激突音が周囲に響き渡り、鈍い痛みと衝撃で歪んだ我の視界の端に回転体当たりで崩れた体勢を鮮やかに立て直して着地した雌竜の姿がチラリと映る。
何も出来ずに我から逃げてばかりかと思いきや、どうやら意外と大胆な行動に出る度胸もあるらしい。
とは言え彼女の方も随分と必死だったらしく、まだ最初の攻防を終えたばかりだというのにその息は明らかな恐れの感情に早くも荒れ始めていた。

「うぬぅ・・・なかなかやるではないか・・・」
「フ、フン・・・だから無駄だと言っただろう。この分からず屋め・・・」
それでもどうやら、まだ減らず口を叩く余裕はあるらしい。
「分からぬのはお前の方だ。我が決して諦めぬ以上、どう足掻いてもこの争いでお前に勝ち目など無いのだぞ?」
「ならば、口先だけでなくそれを証明してみたらどうなのだ?」
「お前などに言われずとも・・・そうしてくれるわ!」
やがてそう叫びながら、我は再び雌竜に向かって躍り掛かっていった。
先程のやり取りがあるだけに、我の動向を見つめる雌竜の顔に先程までよりも濃い緊張の色が浮かんでいる。
だが短い思考の末に雌竜が選んだ行動は愚かにもというべきか、真っ向から我に対抗しようというある種の固い意志を孕んだものだった。
そして唸りを上げて振り下ろされる凶爪を、彼女が器用にもその顎で受け止める。
更には大きく開けた口で我の腕を咥えたまま無防備となった我の唯一の弱点とも言える柔らかい皮膚で覆われた腹に向かって尖った爪を突き出してくると、その鈍らな先端が僅かながら我の皮膚を断ち割っていた。

その瞬間チリッという鋭い痛みが胸元に走ったかと思うと、短く裂けた傷口から真っ赤な血がまるで霧のように虚空へと飛び散っていく。
研ぎ澄まされた鋼の刃さえ跳ね返す程の硬度を持つ背面の竜鱗とは対照的に、腹側を覆った餅のように頼り無く波打つ柔軟な皮膜はさして研がれてもいない雌竜の爪にさえいとも簡単に切り裂かれてしまうのだ。
「グゥッ・・・」
そして痛みを堪えるように顔を顰めながらもう一方の爪を振り上げると、雌竜が素早く口に咥えていた我の腕を放してその場から飛び退いていた。
我に深手を負わせる数少ない好機であったろうにこうもあっさりと距離を取ったということは、彼女がそれだけ我に近付くことに危機感を抱いている証拠でもある。
或いは、我に手傷を負わせたことで多少なりとも動きが鈍ると判断しての安全策と言ったところだろうか。

とは言え、我としては腕を噛み砕かれなかっただけでも僥倖だったと見るべきだろう。
如何に雌雄の力に差があるとは言っても、獲物を噛み潰す力はたとえ雌竜のそれとて侮れるものではない。
そして彼女も自身の恐れの為に決定的な好機を逸したことに気が付いたのか、我を睨み付けるその鋭い双眸には幾許かの後悔と悔しさが見え隠れしていた。
「どうだ、まだ続けるか?如何に野蛮な貴様とて、もうそれ以上無用な血は流したくないだろう?」
「フン・・・余裕を装ってはいるが、些か声が震えておるぞ。お前こそ、もう終わりにしたいのではないのか?」
思わず図星を突かれて焦ったのか、そんな我の返答に雌竜の顔が少しばかりの曇りを見せる。
この程度の小さな傷など、我にしてみれば怪我の内にも入らぬ掠り傷だ。
実際に出血はもう既に止まっているし、傷の周囲では早くも再生の為の組織が活発に活動を始めている。
体内の臓腑を傷付けでもせぬ限りは、巨竜を外傷で死に至らしめることなどそう簡単なことではない。
それを知っていながら、この雌竜は狡猾にも怪我による我の戦意の喪失を促そうとしたのだ。

だが如何に傷を負おうとも、我にはここで折れる理由が無い。
昨日以上に激しく動き回ったお陰で、あの雌竜にも体力の限界は確実に迫っているはず。
機を見ては我を侮辱していた自慢の減らず口が減ったことこそが、その確たる証拠と言えるだろう。
激しい疲労の為に一度その身軽さを生かした敏捷性を鈍らせてしまえば、もう我の爪を悠々とかわす余裕など無くなることは昨日の内に証明されている。
つまりあの雌竜にはこれから我の体力が尽きてしまうその瞬間まで、触れることさえ許されぬ鋭利な爪先から必死に逃げ惑うだけの恐ろしい修羅の時が始まるのだ。

「全く・・・しつこい奴だ・・・」
やがて苦虫を噛み潰したような顔でそう毒づいた雌竜の声を合図に、我はゆっくりと彼我の距離を縮めていった。
じわじわと肉薄されることが余程恐ろしいのか、我と同じ速度で後退さる彼女の表情が微かに引き攣っている。
「ククク・・・どうした?随分と旗色が悪そうに見えるぞ」
「だ、黙れっ・・・」
そう言いながら精一杯我を睨み付けるその瞳にも、やはり初めの頃の力強さは失われていた。
とは言っても、我の方もむやみやたらと雌竜に飛び掛かるのは自重しなくてはならない。
彼女がかなり疲れているのは明白だが、追い詰められた時にも咄嗟の機転を利かせて難を逃れるのがこの小賢しい小娘の1番手強いところだった。
だがその一方で、攻めあぐねている間に体力を回復されてしまうのも具合が悪い。
結局のところは威嚇と挑発のやり取りを通して上手く彼女の隙を衝くことが出来なければ、今日も悔しい引き分けに終わってしまう可能性は十分にあり得ることだった。

「う・・・」
時折飛び掛かると見せ掛けて微かに身を沈めただけの我の動きにも、雌竜が過敏に反応する。
お互いに残り少ない体力を無駄には出来ないという緊張感に、常に我に追われる立場である雌竜の心中はさぞ激しく荒れ狂っているのに違いない。
同族同士の争い故に捕まれば死とまでは行かなくとも、これまで散々に侮辱し煽り倒してきた我の怒りを一身に受ける覚悟はできていないのだろう。
そしてふと脳裏に過ぎった閃きに沿って地面から一握りの湿った土を掴み上げると、我は目潰し代わりにその土礫を雌竜の顔目掛けて思い切り投げ付けていた。

一握りと言えば可愛いものだが、我の手は人間の頭さえ容易く掌中に納めてしまう程の巨大さなのだ。
湿り気を帯びた黒い土塊も必然的に相応の質量を有していて、固く握り締められたそれらの土が宛ら散弾の如き威力を伴って雌竜の顔へと襲い掛かっていく。
バババババッ・・・!
「ぐぅ・・・!」
幾ら雌竜といえども所詮土の欠片で怪我を負う道理などありはしないのだが、それでもその視力を奪わんと飛来した黒い嵐に彼女は咄嗟に腕を翳しながら顔を背けていた。
「グオアァッ!」
「ひっ・・・」
更には彼女が我の姿を見失ったであろう機を見計らって、攻撃の合図とばかりに短い唸り声を上げてやる。
そしてそんな窮地にあの雌竜が一体どんな策を講じるのだろうかとその場に留まったまま様子を窺っていると、彼女は力一杯体を反転させて飛び掛かってきているであろう我を迎撃しようと渾身の尾撃を振り放っていた。

ブオン!
これまでの攻防で我も幾度か彼女の尾撃をこの頬に受けたものだが、流石にあれ程重々しい風切り音を響かせて尾が振られたことはまだ1度も無かったはずだ。
もし今迂闊に飛び込んでいたら、今度は頬を叩かれるなどという生易しい結果では済まなかったことだろう。
だが苦し紛れとは言え全力で放った自慢の尾が空しく空を切ったことを感じ取ると、彼女は翻した身もそのままに最早我の姿を視認することも無く一目散に森の中へと駆け込んでいった。
我に捕らえられるくらいなら、たとえ無様でも一時の敗北を選ぶと言うのか。
それは本来であれば侮蔑の言葉を叫びながら高らかに勝利を宣言する場面のはずなのだが、我は寧ろその徹底した危機回避の思考に敵ながら心中で賞賛の声を上げていた。

取り敢えず今日のところは我の勝ち・・・そういうことなのだろう。
だが圧倒的に不利な状況に思わず戦略的撤退を選択したあの小娘は、まだこの場所を我から奪うことを諦めたわけではないに違いない。
知性が高く人間を除く他の動物程極端な同族意識を持たぬ我ら竜族にとっては、同族同士で命を奪い合うことも決して少なくないと言っていい。
だが数少ない食料を巡っての争いはともかくとして、日に1度足を運ぶかどうかの縄張りの一部を巡って命懸けの死闘を演じていたのでは命が幾つあっても足りぬと言うもの。
故に縄張り争いの決着は単純に相手に諦めさせることが最善の方法なのだが、お互いに強情な一面があるだけに我らの対立は思ったよりも長引きそうな気配を漂わせている。

とは言え、流石に雌竜の心を折るとまではいかなかったもののこれが勝利であることは疑いようがない。
この次に出遭った時には向こうも我に対してそれなりの作戦と対策を練ってくることだろうが、それはそれで密かな楽しみに感じられてしまうのは我の心の余裕がもたらす楽観的な思考に過ぎないだろうか。
まあいい・・・それを考えるのは、この空腹を癒してからにするとしよう・・・
そして格別に美味い勝利の美酒と言う名の冷たい湖水をたっぷりと飲み下すと、我は清々しい気分で悠々と少し早い夕食探しに出掛けることになった。

その数時間後・・・
森で手頃な獲物を捕まえて腹を満たすと、我は住み処の寝床の上でぼんやりと今日の出来事を思い返していた。
幾らノロマと揶揄されようとも、我とてこれでも野生の獣を捕らえられる程度の敏捷さは身に付けているのだ。
なのにあの雌竜は幾ら広大な湖畔で対峙していたとは言え、幾度と無く躍らせたこの巨体を、幾度と無く伸ばしたこの豪腕を、正に1つ残らず実に鮮やかにかわしてみせた。
それは我の心に、ほんの僅かとは言え確かな敗北感と絶望感を植え付けたことは間違いない。
たった1度でいいからその捷い獲物を捕らえることさえ出来れば後はどうとでも料理してやれるというのに、指先にすら掠らない魚の群れに翻弄されているかのような悔しい感覚が全身に広がっていくのだ。
だが今の我の脳裏を支配していたのは過去を振り返ることなどではなく、今度もしまたあの雌竜と遭ったらどうしてくれようかというある種の嗜虐的な興味だけだった。

それからというもの、我は空が晴れる度にあの湖畔で雌竜との短い戦いに赴くようになった。
時折湖へ行っても雌竜の姿が見当たらないことがあったものの、その翌日にはまた当たり前のように湿った湖畔で体を休めている彼女の姿を目にして何故かホッと胸を撫で下ろしたこともあったものだ。
だが初めてあの雌竜に出遭った日から既に10日余りが過ぎたというのに、我は不甲斐無いことに未だに彼女を捕らえることが1度もできないでいた。
初めの頃は恐怖心故にか盛大に動き回ってはすぐに疲れてしまっていた彼女も、今では我の爪が触れるか触れないかという至近距離で踊るようにその身をかわすようになっている。
そのお陰で体力の消耗は最小限に抑えられ、それと同時に我にはあと少しで彼女を捕らえられるのにというジリジリとした悔しさだけが募るようになっていった。

「くっ・・・このっ・・・」
「うく・・・貴様も・・・い、いい加減に・・・諦めろというのに・・・」
体の奥底から徐々に溢れ出して来た疲労に、必死で爪を振るう我とそれをかわす彼女の息遣いが荒くなっていく。
もし我らの姿を他の者が見たとしたら、まるで黒竜と赤竜がじゃれ合っているように見えたことだろう。
それにしても、何故この小娘はこれ程までに我との対立を望むのだろうか?
確かに心折れぬ限り敗北の無い我にとって彼女と過ごすこの剣呑な一時は、退屈な日常に辟易していたところに訪れた丁度良い気晴らしになっている。
だが彼女は、万が一にも我に捕らわれればその命すら危うい立場なのだ。
これまでは我の爪が彼女に届くことは無かったものの、これから先もそうだという保証は何処にも無い。
それにそんなに我が恐ろしいのなら、何も危険を冒して我と戦わずともすぐに逃げればよいだけの話ではないか。
幾ら我と争ったところで結局ここで体を休めることができぬことに変わりはないのだし、住み処が近いというのなら我が引き払った後にでもやってきてゆっくり過ごせばいいだろう。

だが命懸けの戦いの最中だというのにそんな何処か間抜けな思考を巡らせている内に、この理解し難い雌竜の心情に対して我の中にふとある1つの仮説が生み出されていた。
そう・・・もしかしたら彼女の方も、我と同じなのかも知れぬのだ。
人間達の立ち入らぬこの静かな森に暮らす我ら竜族にとって、平和と退屈は正に切っても切り離せぬ表裏一体の関係にある。
日に数度の狩りの時間だけは多少退屈な気分も晴れるとはいえ、基本的に獲物となる獣達は我らに対して抵抗の術を持たぬ弱き者たちなのだ。
我らの堅牢な鱗にはどんな猛獣の爪や牙も歯が立たず、ましてや純粋な力でなど到底抗うべくも無い。
そんな者達を幾ら無残に引き裂き喰らおうとも、数瞬後に訪れる空しい寂寥感が全てを台無しにしてしまうのだ。
彼女がもしそんな単調な生活に我と同じように新たな刺激を求めていたのだとしたら、危険を承知で我と爪牙を交えるというのも1つの選択肢なのかも知れなかった。

ブン!バシィッ!
「ぐふっ・・・!」
やがて少しばかり大振りになった爪をかわされて追い打ちを掛けるように鋭い尾撃を顔に受けると、我はジンとした痺れるように痛む頬を摩りながら雌竜を睨み付けていた。
「ぬう・・・」
お互い疲労を相手に悟られまいと努めて小さく呼吸をしていたものの、そろそろ限界が近いだろうことはまるで自分の鏡像を覗き込んでいるかのようにわかってしまう。
「懲りぬ奴め・・・これだけ痛め付けられてもまだ無駄だというのが理解できぬのか?」
「どれ程自信があるのか知らぬが、お前こそ我に付き合っていればその内に命を落とすかも知れんのだぞ?」
「フン・・・爪の先で私に触れるのもやっとのウスノロが、虚勢だけは随分と達者なのだな」
そんなお互いの挑発に、周囲の空気がピリリと張り詰めていく。
彼女の方も、恐らくは体力的に次の攻防が今日最後の山場となることを理解しているのだろう。
そして大分熱くなってしまった息を少しばかり落ち着けると、我はおもむろにその巨体を宙に舞わせていた。
「あっ・・・」
近頃はゆっくりとした慎重な肉薄に徹していた我のその突然の行動に、雌竜が対処に一瞬の後れを取る。
そして間髪入れずに振り下ろした我の爪先が、ついに避け損ねた彼女の右脚をその剛皮ごと深々と抉っていた。

「うああっ・・・!」
我の左手の爪先に残る、標的を捉えた確かな感覚。
それと同時に雌竜の苦痛に満ちた悲鳴が周囲に響き渡ったかと思うと、真っ赤な鮮血がその傷口から噴き出しては我の視界を彼女の体色と同じ鮮やかな紅に染めていた。
怪我の大きさの割にはそれ程に深刻な出血ではないように見えるものの、我にとって彼女に怪我を負わせられたこと自体は大した問題ではない。
それよりも何よりも、彼女が我の目の前でかつて無い程に体勢を崩したことの方が遥かに重要なことだった。
我の方も疲弊した体に鞭打った跳躍で既に体力の限界を迎えてはいたものの、この機を逃してはもうこの雌竜を捕らえることなど出来なくなってしまうに違いない。
そして疲れ切った四肢に精一杯の力を込めて己が巨体を再び跳ね上げると、我は正に獲物を押し潰す勢いで眼前の彼女の上へと飛び掛かっていった。

ドオオンッ・・・
乾いた地に比べて遥かに音が響きにくいはずの濡れた黒土の上だというのに、2匹の巨竜が絡み合って大地に叩き付けられた音がまるで森全体を揺らすかのような轟音となって広がっていく。
だが全身に感じた無数の衝撃の嵐がようやく収まると、ついに我の腹下にあの小生意気な雌竜が組み敷かれいた。
「あ・・・う・・・うぅ・・・」
苦しげに顔を顰めた彼女の口元から、そんな小さな呻き声が漏れていく。
「ク・・・ククク・・・ようやく・・・ようやく捕らえたぞ・・・この愚か者め・・・」
そして何が起こったのかと焦点の合わぬ目で周囲を見回した雌竜が暴れ始めぬ内に、全体重を掛けながらその手足をしっかりと地面の上へ縫い付けてやる。

「ひ・・・ひっ・・・!」
その数瞬後ようやく状況を把握したと見える雌竜と目が合うと、彼女はそれまでの気丈さからは想像も出来ないような怯えた表情とともに冷たい恐怖の染み込んだ短い声を漏らしていた。
「さて・・・これまでよくも散々我を虚仮にしてくれたものだな・・・」
ゴクリ・・・と、我にもはっきりと聞こえる程の音とともに彼女が大きく息を呑む。
そして我から逃れるように力無く左右に振られ始めたその首を大きく開いた顎でゆっくり咥え込んでやると、そのまま動けぬように地面へきつく押さえ付けてやる。
後ほんの少しこの顎を閉じれば、彼女の命は儚い露と消えることだろう。
彼女の方もそんな絶体絶命の状況に、声を出すでもなく目を閉じてただただ静かに震え続けていた。

ペロッ・・・ペロペロ・・・
「は・・・あ・・・あうぅ・・・」
鋭く尖った牙の先を頼り無く受け止める、真紅色の硬い剛皮・・・
だが我の顎に咥えられているその剛皮の中間に、純白の腹から鼻先まで続く柔らかな皮膜が挟まれている。
そして戯れにその無防備な柔肉を軽く舌先で弄んでやると、彼女が思った以上に過敏な反応を示していた。
屈辱故かきつく瞑った彼女の目からはじわりと熱い雫が滲み出し、我に押さえ付けられた手首の先で何かに耐えるように固い拳がギュッと握られる。
とは言え、如何な策を弄しようとも既に手遅れであることは何よりも彼女自身が1番良く分かっているだろう。
最早彼女にできることは、我の気が晴れるまで嬲り者にされた挙句に無残なとどめを刺されるのを待つことだけ。
時が経つ毎にそんな死に対する恐怖は際限無く膨れ上がり、彼女の心をじわじわと掻き崩していくに違いない。

しかし数分に亘って彼女の首筋を舐め回していると、彼女が不意にその目を開いて我をキッと睨み付けていた。
「お、おのれ・・・何時まで私を嬲るつもりなのだ・・・は、放せ・・・放さぬかぁっ・・・!」
そして両目一杯に大粒の涙を浮かべながらそんな精一杯の抗議を口にすると、仰向けに組み敷かれた彼女の身で唯一自由の利く太い尾が思い切り振り上げられていた。
ドスッ!
「グアァッ・・・!」
明らかな苦し紛れで放ったその他愛も無いはずの軽い尾撃が、我の興奮に漲っていた股間の肉棒を強打する。
だがそれでも我に雌竜を放すつもりがないと悟ると、今度は肉棒に押し付けた尻尾がグリンと捻り上げられる。
「ク・・・ハ・・・」
その瞬間歪な凹凸のある彼女の剛皮がジョリジョリッという小気味の良い音とともに我の雄を摩り下ろし、我は全く想像だにしていなかったその凄まじい快感に思わず背筋を仰け反らせていた。

「お、おのれ・・・いい加減に・・・」
背筋を駆け上がった甘過ぎる刺激に、雌竜の手を押さえ付けている両腕から危うく力が抜けそうになってしまう。
ふ、ふざけるな・・・!
ここまで漕ぎ着けるのに我が一体どれだけの苦労と、痛みと、そして傷を伴ったのか・・・
そんな過去の苦い敗北の思い出が一瞬にして脳裏を過ぎり、我はギリリと力一杯牙を食い縛ると自らの巨体で雌竜の動きを捻じ伏せようと再び彼女の上にその身を叩き付けていた。
「うぐっ・・・う・・・」
次の瞬間、ズウゥンという重々しい音とともに我よりも少しばかり小柄な雌竜の体が黒土の上に縫い付けられる。
それと同時に息の詰まるような雌竜の呻き声が聞こえたものの、流石にその俊敏な尾の動きまで封じることはできなかったらしい。
「は、放せ・・・貴様・・・く・・・ふ・・・」
そして我に押し潰されて苦しげに顔を歪めながら、彼女の尾が更に激しく暴れ始めていた。

ズリッ!グリリッ!パシッパシッ!
「ウヌ・・・ま、まだ暴れるかこ奴め・・・」
炎天の地面を必死にのた打ち回るミミズの如き竜尾の暴挙に、再び我の肉棒が蹂躙される。
先程のように勢いを付けて打ち据えられるようなことはなくなったものの、興奮にそそり立った敏感な怒張を撫でられ摩り下ろされる刺激には我とてそう長くは耐えられそうにない。
だがそうかと言って我の方もピタリと雌竜に体を預けているせいでさほど自由には自らの尻尾を動かせず、ひたすらに暴れ狂う彼女の悪足掻きを絡め取るのは至難の業だった。
「お、往生際の悪い小娘め・・・止めぬと言うのならこうしてくれるわ!」
やがて彼女の抵抗を捻じ伏せるのは無理だと悟ると、我は大きく牙を剥いてその紅白に彩られた首筋をバクリと顎で咥え込んでいた。
更には硬い剛皮に牙の先を食い込ませるように、ゆっくりと彼女の首を噛み締めてやる。

グ・・・ググ・・・ズブ・・・
「う・・・ああっ・・・は・・・」
唾液に濡れ光る尖った牙の先端が、鈍い音を残して雌竜の首筋へと沈んでいく。
その鋭い痛みと絶対的な死の恐怖に、彼女がきつく目を瞑ってはその身を固めていた。
もう少しその顎を狭めれば、彼女の首はいとも容易く砕け散ることだろう。
彼女もその瞬間がそう遠くないことを既に覚悟しているのか、ハッハッと短い息を漏らしながら虚ろな表情で虚空をぼんやりと見つめ続けている。
だが最後まで抵抗を続けていた彼女の尻尾はそんな主の屈服を素直に受け入れることが出来なかったのか、その細い尾の先端が器用にもシュルリと我の肉棒に巻き付けられていった。

グギュッ!
「グハァッ!」
次の瞬間肉棒に渾身の力を込めたと見える凄まじい締め上げを味わわされ、今度こそ我の全身が雌竜の上から跳ね上がってしまう。
そして少しばかりその拘束が解けた拍子に脱出を図ろうとした狡猾な雌竜を捻じ伏せようと、我は反射的に自らの腰を彼女目掛けて勢い良く突き出していた。

ズブブブッ!
「うああっ!?」
その数瞬後、今度は彼女の口から甲高い嬌声が周囲へと迸る。
そして一体何事かと思って自らの下腹部を見回してみると、一体どんな偶然が味方したのか我の肉棒があろうことか彼女の秘所の正に奥深くへと突き刺さっていた。
「き、貴様・・・何をするのだ・・・!」
突然の雌雄の邂逅に狼狽える雌竜の顔が、その鮮やかな体色以上の例えようもない羞恥の紅に染まっていく。
そしてなおも我の体を跳ね返そうとその身を捩ろうとしたものの、膣に捻じ込まれた肉棒から与えられる快楽が意外にもそんな彼女の抵抗を封じ込めていた。

「うっ・・・・・・く・・・はぁっ・・・」
グイッグイッと左右に長い首を振り乱しながらも、雌竜の口から漏れてくるのは時折その身に走るらしい初めて味わう快楽に屈したか弱い喘ぎ。
これまで如何な窮地に陥ろうとも決して不遜な態度を崩さなかった雌竜の予想外の狼狽に、我は己が心中にふとした悪戯心が芽生えたことを確かに感じ取っていた。
「ククク・・・どうした?もしや、感じておるのか?」
「ば、馬鹿を言うな!わ、私が一体どうして貴様などに・・・」
そんな拒絶の声までもが、堪え切れぬのであろう甘美な刺激に微かな熱を帯びていく。
「その割には、随分と熱心に我のモノを味わっているようだが・・・?」
「ち、違う!私は断じて貴様などに・・・うく・・・貴様・・・などに・・・」
だが幾重にも重ねたその言葉に自分でも最早到底隠し切れぬ欲情の色が浮かび上がってしまっていることに気が付いたのか、彼女は半ば涙目になったまま我への罵声を途切れさせていた。

「う・・・うぅ・・・」
心の底から滲み出す悔しさをそのまま声にしたかのような力の無い嗚咽が、虚ろな目で俯いた彼女の口元から漏れ聞こえてくる。
後はもう、煮るなり焼くなり好きにしろということなのだろう。
一切の抵抗を諦めたらしい彼女の体はその尾の先から鼻先までがすっかりと弛緩し、最早我の預ける重い体重に微かな頼り無い弾力を返してくるだけになっている。
何とか弱く、何と脆く、そして何と愛くるしい存在なのだろうか。
一時はこの小生意気な雌竜に対して黒々とした冷たい殺意さえ抱いたこともあったというのに、今はもう彼女に対する怒りや恨みといった負の感情はどういうわけか綺麗に洗い流されてしまっていた。
その代わりに我の思考を侵食し始めていたのは、無抵抗となった雌の同族に対する例えようも無い奇妙な昂ぶり。
どんなに激しく燃え盛る憤怒や怨嗟を伴おうとも、種の保存という自然界の至上命題に裏打ちされた異性に対する欲情の前では闘争本能など所詮は副次的なものにしか過ぎないのだろう。

そしてまるで俎上の鯉の如くおとなしくなった彼女の四肢を離してやると、我はその両手足でしっかりと大地を踏み締めていた。
ズズッ・・・
「あっ・・・う・・・」
膣の最奥まで捻じ込まれた肉棒を引き抜くその刺激に、再び彼女の熱に魘されたような声が周囲に霧散する。
だがそれ以上は特にこれといった反応が返ってこないことを確かめると、我は中程まで引き抜いた己の怒張をゆっくりと彼女の中へ再び押し込んでいた。
ジュブブブブッ・・・
「うあああぁっ・・・!」
憎らしい雄に蹂躙されていることが彼女の心の内に秘められていた被虐的な興奮を煽っているのか、周囲に迸った悲痛な叫び声とは裏腹に彼女の顔が恍惚とも呼べる緩んだ表情に塗れている。

グニュッ・・・ギ・・・ギチギチ・・・
「グ・・・ウグァ・・・」
だが次の瞬間無意識に翻されたのであろう無数の肉襞に肉棒が締め上げられると、我の方も耐え難い快楽の嵐にガクガクと膝が笑い始めてしまっていた。
そしてその無上の快楽に耐えるように、両腕で力の抜けた彼女の体をしっかりと掻き抱く。
ズブッ・・・ドスッ・・・ズン・・・ズンッ・・・
幾度も幾度も熱く蕩けた竜膣の奥へと打ち付けられる、まるで天を衝くかのような我の巨根。
怒りでも憎しみでもなく、雌に対する雄としての純粋な熱い思いが我の腰を力強く彼女へと叩き付けていく。

「ンク・・・ム・・・クゥ・・・」
「う・・・あ・・・はあぁ・・・」
互いに互いの体を愛撫しては無意識の内に舌を絡ませ合う我らの熱い交わりに、早くも夕刻の朱を湛える快晴の空が美しい背景となって静かな湖を切ない色に染め上げていた。
徐々に膨れ上がっていく快楽と絶頂の予感に、我らの吐き出す吐息がますますもって熱と艶を帯びてくる。
一体どうしてだろう・・・
あれ程敵対したはずなのに・・・その命さえ奪おうと考えていたこともあったというのに・・・
今はただただ彼女の身を、その全てを我の物にしてしまいたいという切なる欲求が、我の全てを支配していた。

火照った体の中に少しずつ膨れ上がっていく、確かな絶頂の予感。
雌竜を貫く我の腰使いもそれに合わせてより一段と激しさを増し、秘所を突き上げられる度に恍惚に蕩けた彼女の顔が自身の限界も近いことを如実に告げていた。
溢れ出した愛液の弾ける淫靡な水音が、夕闇の掛かり始めた幻想的な湖畔に響き渡っていく。
丈夫な剛皮を摩る我の手も、硬い竜鱗を撫でる彼女の手も、次第次第に扇情的な艶かしさを帯びて互いの欲情をこれでもかと言う程に煽り続けていた。
全身に感じるのは例えようも無い熱さと、脳が粟立つかのような凄まじい快楽と、そして退屈に空っぽだった胸を満たすかつて無い程の奇妙な幸福感。
雄の奥底に渦巻いている熱い滾りが競り上がってくる確かな前兆に、我は何時しかポロリと涙を零していた。

何の刺激も無く、何の変化も無く、ただひたすらに単調な日々を送るだけだった空虚な生活。
だがそんな我が今、1匹の雌竜と身を重ね湧き上がる熱情に何もかもを委ねている。
そして我と交わっている彼女もまた、本当はこんな場面を待ち望んでいたのかも知れなかった。
その証拠に彼女の口内へと突き入れた舌は噛まれることも無く迎え入れられ、我の肉棒をその凶暴な肉欲の坩堝で味わっては無上の快楽を塗り込めてくる。
耳に届くのは雌雄の短い喘ぎと荒い呼吸の音だけで、後は静かに湖上を吹くそよ風が粘着質な水音を伴った雌雄の衝突を静寂に包まれた森の中へと撒き散らしていた。

「あ・・・はぁっ・・・」
「グ・・・グアゥ・・・」
黒と紅の巨竜がポツリと発したその声は、忍耐という名の堤防に入った深い亀裂の音にも似て・・・
次の瞬間、彼らはほとんど同時に絶頂を迎えていた。
「ウ・・・グ・・・グオッ・・・アアァァァッ・・・!」
「ああっ!は・・・ぅ・・・」
ドブッ!ドクッ・・・ドクッ・・・
雄の中で宛らマグマの如く熱せられた灼熱の白濁が、その受け皿となった雌の秘所を焼き尽くす。
圧倒的な快楽の解放に震える雄竜の咆哮と身を灼く愛の証に身悶える雌竜の歓喜の悲鳴が、美しい旋律となって漆黒の闇に包まれた辺りに響き渡った。

「ウ・・・ウゥ・・・」
雌雄のまぐわいなど初めての経験だというのに、我は余すところ無く己の全てを彼女に注ぎ込んで力尽きていた。
口から漏れてくるのは激しい疲労に弛緩し切った胸が絞り出す、か細い呻き声ばかり。
「はぁ・・・はぅ・・・」
そんな重い肉塊と化した我の下敷きにされていた彼女の方も押し潰された肺が苦しいのか、時折弱々しい吐息にも似た喘ぎを吐き出している。
だがしばらくしてようやく乱れていた呼吸を落ち着けると、意外にも先に口を開いたのは彼女の方だった。

「き、貴様は私を・・・一体どうするつもりなのだ・・・?」
依然として我に命を握られていることを自覚しているのか、そんな彼女の声にまだ微かな震えが残っている。
しかし我は、もうこの雌竜に対する怒りや恨みなどとうに持ち合わせてはいなかった。
そればかりか、今では彼女を我が生涯の伴侶とする覚悟さえ固まり始めている。
だが今にも殺されてしまうのではないかと言う恐怖に内心怯えている彼女にそんな話をしたところで、命を盾に取った脅迫か何かのようにしか受け取ってはもらえぬことだろう。
「お前は最早、我の仔の母親となるかも知れぬ者なのだ。そういう扱いでは・・・不服か・・・?」
「なっ・・・!?」
彼女のその驚愕は、一体何に対してだったのだろうか?
我の仔を宿すかもしれないこと?それとも、命が助かったことに対してだろうか?或いは・・・

心の何処かでその儚い可能性は認識していたものの正直予想だにしていなかったそんな彼の提案に、私は思わず大きく目を見開いたまま驚きの声を上げてしまっていた。
この数日間私が己の命の危険も顧みずに巨大な彼とその爪牙を交えたのは、云わば雄に対して素直になれない自分の心の弱さを隠すための不器用な求愛行動だったのだ。
だが毎日毎日悔しげに顔を歪めて住み処へと帰っていく彼の様子を見る度に、ますますもって彼が私から離れていってしまうような気がして焦燥を感じていたのもまた事実。
けれども彼は、あんなにも彼を侮辱し挑発したこんな私を・・・妻として迎えてくれると言っているのだ。
それなのに・・・胸の内で吹き荒れる混沌とした激情の嵐は無情にも私にそれ以上の声を上げることを許してはくれなかった。

途切れた声の先が続かぬまま流れた、数十秒の沈黙。
だが彼女の顔に激しい驚きに隠れた確かな歓喜の色が浮かんでいるのを目にすると、我はそれ以上は何も言わずに彼女の頭をそっと撫で摩っていた。
後頭部に伸びる小振りで可愛らしい2本の角が、黙っていれば彼女が美しい雌竜であることを我に教えてくれる。
そしてそれに甘えるようにして微かに涙ぐんだ彼女が頭を揺すると、我はそのまま妻となった紅竜の隣にドサリと寝転んでいた。
「これからは・・・共に暮らさぬか・・・?」
「ああ・・・何処にでも、ついていくぞ」

だが熱い吐息とともに漏らしたその睦言のような遣り取りに、ふと微かな違和感が残る。
「お前が・・・我の住み処に来ると言うのか?お前の住み処の方がここからは近いのだろう?」
「私の住み処は、ここから歩いて優に半日は掛かる程の遠い所にあるのだ」
「なっ・・・」
そんなまさか・・・早朝から我がどんなに急いでも、ここには何時も彼女の方が早く来ていたというのに・・・
「夜は森の中で明かした・・・時には雨に打たれたこともあったし、空腹で動けなかったこともあったが・・・」
成る程・・・それで時折ここに来ても彼女の姿が見えないことがあったのか・・・
「全てはき・・・お前よりも早くここへ来るためだ・・・私は・・・ずっと前からお前に惚れ・・・むぐっ!?」
「慣れぬ告白などするでない。お前が我に恋心を抱いていることなど、初めて遭った時から勘付いておったわ」
そんな優しい嘘とともに彼女の口を自らのそれで塞ぐと、我らは再び濃厚に舌を絡ませ合った。

雌雄の出逢いに、陳腐な言葉など要らぬ。
互いに視線を交え、思いを交え、そして身を交えてこそ、我らは初めて深く結ばれるのだ。
「これからは・・・お前の分も狩りに精を出さねばな・・・」
「では私は、夜にお前を狩って精を出すとしよう」
「フン、生意気な小娘が・・・だが・・・今夜ばかりは一時休戦としよう」
澄み切った夜空に輝く満天の星々が、静かな湖面にその儚い瞬きを映している。
辺り一面を覆い尽くした漆黒の闇と静寂が、そんな光の粒に囲まれた我らを宛ら幻想的な別世界へと誘うようだ。
こんなにも美しい場所で、こんなにも美しい妻と夜を明かすことのできる幸福・・・
それはすぐ身近にありながら、終ぞ今日という日まで気付くことの出来なかった至高の一時。
そして声に出さずともお互いにその胸の内に溜めていた思いの丈を存分に語り合うと、我は妻と抱き合ったまま静かな湖畔で深い眠りへと落ちていった。

それから2週間後・・・
「帰ったぞ・・・ど、どうした?」
2頭の猪をその背に積んで夕方前に住み処へと戻ってきた我は、寝床の上で苦しげに蹲っている妻の姿を目にして驚きの声を上げていた。
「ま、間も無く・・・産まれるのだ・・・た、卵が・・・」
卵が・・・?そう言えばここ数日妻の腹が心なしか大きく膨らんでいたことには気が付いていたが、我はどういうわけか彼女が子供を産むかも知れないという可能性を今の今まで忘れていたらしい。
「な、何か我に出来ることは無いか?」
「う・・・あううぅ・・・」
離床した卵が腹の中を転がる苦しさに、彼女が必死に顔を歪めながら小さな呻き声を上げる。

激しい喜びを内包した痛みと疲労に火照った体が灼け付く息を吐き出し、我はどうしてよいかも分からぬまま彼女の背を静かに摩ってやった。
「それ、どうした・・・早く産まれぬか・・・」
「うぐ・・・う・・・はあぁっ・・・」
あの気丈な妻がこんなにも苦しげな声を上げるとは、余程の難産なのだろう。
だがそれから数秒の間を置いてポンと飛び出した卵の大きさを見て取ると、我はその苦しみが決して誇張されたものではなかったことを悟っていた。
「これは・・・何とも我らの子供らしい、立派な卵ではないか」
一体妻の体内の何処をどうやって通ってきたのかと思わず疑ってしまう程の、大きな大きな1個の卵。
その薄く灰色掛かった卵の中で、正に産まれたての命が力強い鼓動に戦慄いていた。

「はぁ・・・はぁ・・・はぁっ・・・」
「大丈夫か?」
「あ、ああ・・・う、産まれたのか・・・?」
自身でもその瞬間が認知できぬ程の激しい苦痛だったのか、そう言ってこちらを振り向いた妻の目に大粒の涙が浮かんでいる。
だが薄っすらと粘液に包まれた大きな卵をその目で確かめると、途端に満足げな笑みが彼女の顔に浮かび上がっていた。
「これが・・・私達の仔か」
「うむ・・・もうすぐ、孵化するのだろう?」
「もう半日もしない内に、次第に殻が脆くなるだろう。卵から孵るのはそう・・・深夜になるだろうな・・・」
半日か・・・彼女と逢うためにあの湖へと通った2週間はあっという間に過ぎ去ったというのに、これからの半日は恐らく我の生涯の中で最も長く感じられる時間となるに違いない。
だが孵化の瞬間を見逃すことだけはどうしてもしたくなく、我は食事を済ませるとそんな気の遠くなるような長い時間を妻とともに卵を見つめて過ごすことにした。

「思えば私達の出会いは、随分と奇妙なものだったな・・・」
「お互い、不器用だったのだろう。退屈に辟易しながらそれを変えられぬことに我は絶望さえ感じていたものだ」
「そんな私達が今はこうして並んで子供の誕生を見守っているのだから、分からぬものだな」
お互い視線は卵に注いだまま、暇を持て余した口からどちらからとも無くそんな他愛の無い会話が繰り返される。
空はやがて燃えるような夕焼けの朱から深い紫色にも似た漆黒の帳を下ろし、微かな風の音と甲高い虫の声を辺りに響かせるだけとなっていた。
もう少し、もう少し・・・
卵の中で仔竜が殻を叩く度、ゆらゆらとその硬い卵殻が左右に揺れ動く。
孵化を間近に控えた1個の卵の前で、今や我らは極度の緊張と興奮に身を震わせていた。
端から見ればそれは実に滑稽な夫婦に映ったことだろうが、当の我らには最早息子の、或いは娘の顔を見ることが何より重要な目的になっていたと言っても過言ではないだろう。
そしてついに、待ちに待ったその瞬間が訪れていた。

パキッ・・・
「・・・!」
「・・・!」
2つの静かな驚愕が、闇の中に響いた殻の割れる音にしっとりと溶け込んでいく。
更には内側から走った衝撃にコロンと卵が転がると、ようやく脆くなった卵の殻がその亀裂を全体に広げていた。
パキャッ!
砕けた殻の中から最初に見えたのは、妻に似た真紅の体色。
だが殻の欠片を押し退けたその小さな手が我と同じ肌理細やかな竜鱗に覆われているのを見て取ると、確かに我の血も混じっていたという情けない安堵感が胸の内を満たしていく。
そしてようやく仔竜の顔が卵の外に出てくると、我らはともに大きく息を呑んでいた。

妻にそっくりな凛々しい顔立ちに、我のと同じ2本の立派な乳白色の双角。
「これは・・・雌だな・・・」
「ああ・・・可愛い可愛い・・・私達の娘だ」
「では早速、その身を清めてやるとしよう」
やがてそう言いながら、感動に打ち震えている妻を出し抜いて粘液に塗れていた娘の体をそっと舐め上げてやる。
「なっ・・・ま、待て、それは私の役目だぞ!」
「ええい、黙れ!お前は産卵で疲れておるのだろう?そこでゆっくり休んでいればよいではないか」
「きゅうぅ・・・?」
だが愛しの仔竜を我が物にしようと眼前で争う2匹の巨竜を前にして、当の娘は屈託の無い笑みとともに甲高い鳴き声を上げて地面に転がっていた。

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