FlameDragon-side
IceDragon-side

世に人間という種が姿を現すよりも遥か太古の昔、世界は今よりもずっと厳格な秩序の下に統治されていた。
その地上に台頭していたのは大陸の南方にある活火山に棲み轟々たる火と大地を司ったという炎竜の一族と、北方の海に浮かぶ凍てつく氷山の奥地に集落を構え、荒らぶる風と水を操ったとされる冷たい氷竜の一族。
彼らは特に種族的な対立をしていたわけではなかったものの、決して相容れぬ存在としてお互いに異種族の竜達と関わりを持つことを固く禁じていた。
だがある時、これまで1度も破られることのなかったその絶対の掟に敢然と立ち向かう雌雄の竜が現れる。
この物語はそんな許されざる恋に身を投じた、1匹の雌氷竜が歩んだ生涯の一節である。


深い藍色に染まる原始の海に、厚い氷で覆われた巨大な大陸が浮かんでいる。
その年中通して激しい吹雪に見舞われる極寒の地に、私の住み処である氷塊を刳り抜いて作った雪洞があった。
氷竜である私にとっては、氷雪のもたらす寒さなどは何の苦にならない。
何しろ青白い皮膜に覆われた私の全身からは絶えず凍えるような冷気が発散され、湿潤な気候の土地へ行けば凍った大気がキラキラと周囲で輝く程なのだ。
更には氷海に住む魚達を主食にしているお陰でこんな過酷な環境でも生きていくのには全く困らないのだが、そんな私にも仲間達には打ち明けることのできないある悩みがある。
「はぁ・・・今年は、私にも素敵な雄が見つかるのだろうか・・・」
毎年繁殖期である春が過ぎる頃、私はいつも住み処の雪洞の中で番いを見つけられぬ悲しみに沈んできたのだ。
穏やかな気性の仲間達が多い中で私の気の強さが災いしているのは自分でも重々わかっているのだが、雄を前にして雌らしくしおらしい振る舞いができる程私は器用ではない。
今年ももうじき長かった冬が明け、もう何度目になるかもわからぬ例年通りの繁殖期がやってくることだろう。
だが私の方はと言えば、静かな住み処の中で早くも憂鬱な未来の予感に情けなく身を縮めていた。

一体どれくらいそうしていたのだろうか・・・?
今の時間は、丁度真昼に差し掛かろうかという頃だろう。
雪洞の中に吹き込んできた風がほんの少しだけ温くなったのを感じ取ると、私はおもむろに体を起こしていた。
他の仲間達はきっと今頃、繁殖期に声を掛けるべき目ぼしい相手を探してそこらを飛び回っていることだろう。
だが皆も私の性格を知っているためか、わざわざこの雪洞を覗きに来る雄は誰もいない。
とても・・・惨めだった。
本当は私にだって、いつか結ばれたいと思っている雄の氷竜がいくらもいる。
でも仮に勇気を出して彼らに声を掛けてみたところで、結局失敗するのはわかり切っていた。
極めて温厚な彼らにとっては、気の強い雌など所詮は扱いにくいだけのお荷物でしかないのだ。
何処かへ行こう・・・そんな思いが、私の中で喧しく騒ぎ立てている。
早くこの寒々しい住み処を離れて、どこか心の落ち着く場所でゆっくりと休みたい。
私はそんなことを考えながらトボトボと力の無い足取りで雪洞を抜け出すと、仲間達に見つからぬように大きな氷壁の陰から晴れ渡った空へと静かに飛び立っていた。

視界の遥か彼方まで続く青き海原が、私の背後に遠ざかっていく白き島々が、独り逃げ出すように地を離れた弱気な心に孤独の鎚を振り下ろす。
海風とともに南の大陸を目指す私の胸に、このまま遠い別世界に行ってしまいたいという願望が芽生えていた。
だがしばらくして水平線の向こうに白い海岸と森林の湛える緑の絨毯が姿を現すと、無我夢中で羽ばたき続けた翼からほんの少しだけ力が抜ける。
そして眼下に広がる濃い藍色が深い緑色へと染まり切った頃、私は延々と続く森の先にぽっかりと穴があいているのを見つけていた。
どうやら森の真ん中に、大きな湖があるらしい。
丁度いい・・・あそこで一休みするとしよう・・・

やがて長時間の飛行に疲れ切った体を必死に湖の上空まで運ぶと、私はまるで力尽きたかのようにフラフラとよろめきながら短い草の茂った湖畔へと落ちて行った。
そしてドサリと荒々しく地面の上へと着地したその瞬間、湖に水を飲みに来ていた数匹の獣達が慌てて森の中へと一目散に逃げ出していく。
彼らには少し悪いことをしてしまったが、しばらく独りになりたい私にはむしろありがたいことだった。
久し振りに長距離を一気に飛んできたせいか、鈍った翼がまるで鉛のように重い。
疲労に乱れた呼吸とともに吐き出される冷たい息が、湿度の高い周囲の空気を輝く氷の粒へと変えていく。
その美しくも幻想的な光景を目にすると、私は足元の草が凍り付くのも構わずにその場へと倒れ込んでいた。
これからどうしようか・・・
勢いに任せてこんな遠くまで来てはみたものの、そうかと言ってこれ以上は何処へも行く当てが見つからない。
結局私の戻る場所は、あの厚い氷に覆われた冷たい住み処しかないのだろうか?

とその時、突然私の耳にバサッバサッという翼を羽ばたく音が聞こえてきた。
「・・・?」
何事かと思って地面の上に蹲ったまま音のする方へと首を振り向けた私の前に、細かな火の粉を振り撒きながら翼をはためかせる大きな雄の炎竜が静かに舞い降りてくる。
そして疎らな草の生えた地面にその紅の鱗に覆われた足を着いた瞬間、ボッという小さな音とともに足元の草が一瞬にして燃え尽きていた。
こちらに向かって歩いてくる彼の体からはユラユラとした熱気が昇り立ち、この私のもとにまでフワリと暖かい風が吹き付けてくる。

「そなたは・・・一体ここで何をしているのだ?」
やがてお互いに関わりを持つことを禁じられているにもかかわらず、炎竜が突然私にそう話し掛けてきた。
だが彼と私は、所詮住む世界の違う別の種族。
今更ここで不慣れな愛想を振り撒く必要もないだろう。
「私はただ、ここで疲れた翼を休めているだけだ・・・お前には何の関係もないことだろう?」
そしてつっけんどんにそう答えると、私は早く何処かへ消えてしまえとばかりに炎竜からフイッと顔を背けた。
「そうはいかぬ。この湖は我らが一族の貴重な狩り場・・・そなたのせいでここに獣が寄り付かぬのでは困る」
全く・・・面倒なことだ。
「私にどうしろというのだ?」
「すぐにここから出て行ってくれ。本当ならば、私はそなたと言葉を交わすことさえ禁じられているのだからな」

それを聞いた途端、私の胸には何故か怒りや悲しみよりも先に激しい自己嫌悪が湧き上がっていた。
ああ、まただ・・・いくら掟で互いに近づくことが禁じられているからとはいえ、私はこんな異種族の雄にさえ疎ましい存在に思われてしまう運命なのか・・・
最早炎竜に向かって何かを言い返す気力さえ失ってしまい、私は力無く地面の上へと視線を落とした。
そんな私の様子を不思議に思ったのか、炎竜が更に言葉を紡ぐ。
「どうかしたのか・・・?」
「な、何でもない!」
これ以上、惨めな思いなどしたくない。
私は困惑した顔を浮かべる雄の炎竜から逃げるようにして勢いよく空に舞い上がると、ロクに疲れも癒やせぬまま元来た方角に向かってひたすらに翼を羽ばたき続けた。

バサッ・・・バサッ・・・
「ハァ・・・ハァ・・・」
無我夢中で空を飛び続けること数時間、ようやく遥か彼方に洋上に浮かぶ巨大な氷の台地が見えてくる。
だがほとんど休むこともなく長距離を一気に飛び続けたせいか激しい疲労感に苛まれ、私は住み処の洞窟まで辿り着くこともできずに雪と氷で覆われた氷山の上へゆっくりと降りていった。
そして固い地面の上にみっともなく這いつくばりながら、しばらく乱れた呼吸を整えようと深い息を吸う。
一体私は何をやっているのだ・・・
こんな情けない姿を仲間の誰かに見られでもしたら、それこそ物笑いの種になるというものだろう。
一時の不安と激情に駆られて住み処を飛び出したまではいいものの、結局私が持ち帰ってきたのは空しい疲れと浮き彫りになった心の傷だけ。
しかもその上、朝から何も口にしていない空腹感が打ちひしがれた私の胸を更に掻き毟っていく。
もういい・・・今日はもう、あの寂しい住み処でじっとしているとしよう。
やがて私はそう胸に決め込むと、幾許か回復した体力を注ぎ込んでいつも以上に重い体を持ち上げていた。

暗い闇に沈んだ住み処の中で迎える、いつも通りの孤独な夜。
結局、今日はあれから何もする気が起きなかった。
丸1日食事を与えられていない腹が先程からゴロゴロと不穏な唸りを上げて獲物の到来を待ち侘びているものの、もう今からでは海の魚も見つけることはできないだろう。
それに・・・何故か私の脳裏には、昼間出会ったあの雄の炎竜の姿が鮮明に焼き付いて離れようとしなかった。
たとえそれが住み処を異にする同じ竜族の仲間であったとしても、本来なら大事な餌場を荒らす侵入者など力尽くででも無慈悲に追い払うのが当然のことなのだ。
なのに彼は、それが掟に反することを承知で私に声を掛けてくれた。
もしこのことが炎竜の一族に知れるようなことがあれば、少なからず彼もその咎めを受けることだろう。
もちろんそれはこの私も同じことなのだが、それでも私は最後に彼から掛けられた幾らか優しげな声を強引に振り切って飛び出してきてしまったことをとても悔やんでいた。

せめて、彼に一言だけでも謝りたい・・・
氷竜の一族としてもそれが決して許されないことであるのは理解しているが、このままではただでさえ憂鬱な気分が当分の間尾を引く結果になるのは目に見えている。
だがこれ以上彼を怒らせてしまわぬように、明日もあの湖で彼を待つとするのならせめて湖畔に集う獣の1匹くらいは捕らえておくべきだろう。
生まれてこのかた地上に住む獲物を狩った経験など1度としてなかったものの、海中を自在に泳ぎ回る素早い魚達に比べればきっと造作もないことに違いない。
私はそんなふうに高を括ってフンと鼻を鳴らすと、なおも空腹に暴れる腹を抱えるようにして眠りについた。

翌朝、私は氷洞の外から差し込む淡い光に目を覚ますとまだ朝日が水平線に足をつけている間に氷の住み処を抜け出していた。
そして周囲に仲間達の気配が無いことを慎重に確認しながら、昨日と同じく聳え立つ氷壁に隠れるようにして微かに曇った空へと舞い上がる。
夕べあれ程うるさくがなり立てていた腹の虫も一夜を過ごす内に鳴りを潜めてしまったらしく、私は今不思議と空腹が気にならなくなっていた。
いやもしかしたら、獲物を探す時間も惜しく思える程に早くあの湖へ行きたくて仕方がなかったのかも知れない。
炎竜達にとっての貴重な餌場だという割には湖の周囲に全く彼の仲間の姿が見当たらなかったのは、きっと私達の魚の狩り場が各々違うのと同じように彼らも自分だけの縄張りを持っているのだろう。
もしそうなら、あの湖で待っていればきっと今日も彼に会えるに違いない。
炎竜と関わり合ってはならぬなどといういつどこの誰が決めたかもわからぬ一族の掟など、この際知ったことか。

そんな背徳的な期待感を胸に海を越える時間は、何だか昨日に比べてずっとずっと短いものに思えた。
同じ距離を飛んでいるのだから翼にも昨日と同様の疲れが溜まっているはずなのだが、自分でも不思議な程に全く気だるさというものを感じない。
そしていよいよ海の先に青々とした森が広がり始めたのを見て、私はますます力強く風を切って青白い肢体を躍動させていた。
もうすぐ、あの湖が見えてくるはずだ。
彼に会ったら謝らなければならないというのに、何故か今はその邂逅の瞬間がこの上もなく待ち遠しい。
ドクドクと心臓の鼓動がまるで早鐘のように打ち続けているのは、きっと疲労のせいだけではないのだろう。
だがやがて視界を埋め尽くした広大な深緑の園の中に透き通った湖水を湛える目的地が姿を現すと、私はその眼下の光景に微かな絶望を感じずにはいられなかった。

「昨日はあんなに獣達がいたというのに・・・今日は一体どうしたというのだ・・・?」
さざ波1つない平らな湖面が象徴しているように、湖の周りにはただの1匹も獣の姿がない。
丁度南中しているはずの太陽は空を覆い尽した灰色の雲にすっかりと隠れてしまっていて、上空に吹く仄かな風の音だけが辺りに立ち込めた何とも言えぬ静寂の胸を優しく叩き続けていた。
もしかして、これも昨日私が湖の畔に居座ったことによる影響なのだろうか・・・?
炎竜達はきっと、湖に水を飲みにきた無防備な獣達を空から掠め取るようにして狩っているのに違いない。
だが1度地上に降りてしまったら、その周囲に私や彼のような捕食者の痕跡が残ることになる。
その証拠に昨日私達がいた辺りの地面には、踏み拉かれたまま1度凍り付いたと見える不自然な草の跡と草が焼け焦げて灰となった黒い足跡が今もくっきりと残っていた。
流石にこんな状態で命の危険に敏感な獣達に、警戒を解いて水を飲みに来いというのは無理な話だろう。

一体私はどうしたらよいのだ・・・
手土産で彼の怒りを緩和しようという己の浅はかさは十分に自覚しているが、これでは余計に彼を怒らせてしまうだけではないか。
だが折角ここまでやってきたというのに、このままただ失意を抱えて逃げ帰るのではあまりにも惨め過ぎる。
私は1度折れかけた心に何とか拙い添え木をあてがうと、意を決して誰もいない湖の畔へと降りていった。
そして不気味なまでの静寂を孕んだ湖面にゆっくりと顔を近づけ、その透き通った水の中にじっと目を凝らす。
やがて鏡の如き静かな水面に見えたのは、今にも泣き出してしまいそうな情けない表情を浮かべる私の顔・・・
だがその顔の更に奥底に、これまで誰にも脅かされることのなかったであろう大きな魚達が悠々と群れを成して泳いでいる姿が見て取れた。
その瞬間、湖面に映った私の顔が思わずニヤリと綻んでしまう。

ようやく見つかった獲物に逸る気持ちを抑えながら、私はそっと水面の上に片手を差し出していた。
その手先からシュウウ・・・という音とともに凄まじい冷気が発散され、足元の岸辺から少しづつ同心円状に湖面が白く凍り付いていく。
やがてものの数秒で凍った即席の釣り場が完成すると、私はゆっくりその氷上に足を踏み出した。
流石は穏やかな湖の水というべきか、波の激しい海とは違って簡単に丈夫な足場を作ることができるらしい。
そんな氷台の上から水中を覗き込むと、何も知らぬ魚達の群れが私のすぐ目と鼻の先で呑気な行軍を続けている。
私はその中の1匹に慎重に狙いを付けると、青白い指先を静かに水面へと近付けていった。
そして指先を勢いよく水中に突き入れた次の瞬間、急激に水が凍ったと見える凄まじい音が辺りに響き渡る。

ビシッビキビキビキッ!
一瞬にして私の指先から伸びた氷の帯が、逃げ遅れた数匹の魚達を巻き込んでいた。
凍り付いた指をそっと水中から引き抜いてみると、刺々しい氷柱のような氷の先に3匹の魚達が埋まっている。
北方の海では見たことのない魚だが、でっぷりと太ったその身の味は想像するだけでも唾液が滴り落ちるようだ。
そんな久し振りの釣果に、長らくお預けを食らっていた腹が再びゴロゴロと唸りを上げ始めていた。
だが彼がいつここへやってくるかわからない以上、この最初の獲物に私が手を付けるわけにはいかないだろう。
早く獲物を寄越せと泣き喚く腹の虫を押さえ付けて、私は魚を捕らえた氷柱をポイッと背後に放り投げた。
やがて地面の上に落ちた氷塊がガシャンという音とともに砕け散り、中に埋まっていた魚達が陸上に投げ出されてピチピチと跳ね上がる。
節操のない馬鹿者め・・・お前よりも私の方が泣きたい気分だというのに、空腹など少しくらい我慢するのだ。
心の内で己の腹にそう怒鳴り散らすと、私は次の獲物を獲るために再び水中へと目を凝らしていた。

やがてゆらゆらと揺らめく魚影が右へ左へ乱舞すると、私の眼前に再び数匹の魚達が迷い込んでくる。
ビキビキッビシシッ!
どうやら、今度も上手くいったらしい。
慎重に水中から指先を引き抜いてみると、太くて歪な氷柱の中に2匹の魚達が捕らわれの身となっていた。
大分幸先がいいと言えるだろう。
既に私の空腹も限界に程近い所まできていたものの、この調子なら彼にも十分な量の獲物を分けてやれるに違いない。
そうして魚を捕らえた氷柱をチラリと一瞥すると、私は先程と同じように手にしたそれを背後に放り投げていた。

「・・・・・・?」
だが不思議なことに、氷の割れる音が何時まで経っても聞こえてこない。
柔らかい草むらの上にでも落ちてしまったのだろうか?
背後で起こったであろう不思議な現象の正体を確かめるために、私はゆっくりを後ろを振り向いてみた。
その視界の中に、突然見覚えのある紅の雄竜が飛び込んでくる。
私が放り投げた氷柱を抱えたままの彼と思わずじっと見つめ合ってしまったその数瞬後、己の置かれている状況を理解した頭の中が真っ白に塗り潰されていた。

「なっ・・・あっ・・・こ、これはその、つまりだな・・・も、もう好きにしろ!」
自分でも何を言っているのか訳がわからず、私は彼の顔を直視できずにその場で顔を伏せてしまった。
まだ彼に会う心の準備などできているはずもなく、何をどうすればよいのかが全くわからない。
頭の片隅では彼に謝らなければという思いが必死に駆け巡ってはいたものの、機会を逸した今となっては一体どうやってそれを切り出せばいいというのだろうか。
できることならば、今すぐにでもここから逃げ出したい。
だが萎縮してしまった翼がそう簡単に動いてくれるはずもなく、今の私にできるのはただブルブルと震えながら彼の言葉を待つことばかり。

そしてしばらくすると、何の怒りも侮蔑も込められていない彼の声が聞こえてくる。
「もしやこの魚達は・・・私のために獲ってくれたのか?」
「な、何・・・?」
突如として投げかけられたその予想外の質問に思わず間抜けな声を出してしまい、私は恐る恐る顔を上げていた。
さっきまで彼が抱えていたはずの大きな氷柱はその燃えるように熱い体温の前に跡形もなく溶けていて、その足下に溶けた氷柱から零れ落ちたと見える2匹の魚達が激しくのたうっている。
彼の第一声がまたしても縄張りを荒らしてしまった私を責める辛辣な言葉でなかったのは、きっと私のことを気遣ってのことなのだろう。
「そ、そうだ、お前のために獲ったのだ。こ、これで昨日の無礼な振る舞いの借りは返したからな!」
違う、そうではないのだ・・・!
どうして私はこう、雄の前で素直になることができないのだろうか?
これではまるで、わざわざ彼の気分を逆撫でしにきたようなものではないか。

だが肝心の彼の方は特に気分を害した様子もなく、地面に落ちた2匹の魚をひょいっと片手で拾い上げていた。
その途端ジュッという音とともに彼の手の内で魚が丸焼けになり、大きく開けた口の中へと放り込まれる。
モグ・・・モグムグ・・・
「ふむ・・・初めて食べてみたが、魚もなかなかに美味いものなのだな」
そう言って美味そうに魚を呑み込んだ彼を見て、私はついに空腹を我慢できずに腹を鳴らしてしまっていた。
ゴロゴロ・・・ゴロロ・・・
「あ・・・」
彼にだけは聞かれたくなかった、恥ずかしい食欲の唸り声。
氷のように冷たいはずの体が熱く燃え上がったかのような激しい羞恥に、思わず顔を赤らめながら俯いてしまう。

そんな弱り切った私の姿は、彼にはとても不器用な雌に映ったことだろう。
例えようもない恥ずかしさと情けなさに顔を上げることもできず、私はひたすらに彼から顔を背け続けていた。
だがその私の目の前に、突然彼の手からこんがりと焼けた3匹の魚が差し出される。
「何故そうまでして強がる必要があるのだ。そなたの獲物なら、空腹など我慢せずに食べたらいいではないか」
それと同時に掛けられた声に驚いて彼を見上げると、穏やかな慈しみに満ちた視線が私に向けて注がれていた。
やがて彼に弱みを見せたくないという拙い自尊心が反射的に抗弁の口を開けはしたものの、その瞬間鼻から吸い込んでしまった香ばしい香りがこれまで耐えに耐えてきた食欲に軍配を上げる。
そして彼の手から程良く焼き目のついた美味しそうな魚を受け取ると、私は雄の見ている目の前だというのにもかかわらずそれを一気に口の中へと詰め込んでいた。

ムシャッハグ・・・ムグ・・・ング・・・
美味い・・・!
激しい空腹のせいもあるのだろうが、初めて味わったこの魚の美味さはもう生涯忘れられそうにない。
いつもなら半ば凍りかけた冷たい生魚を一呑みにするだけだというのに、私は少しずつ喉の奥へと流れ込んでいくまろやかな味を惜しむように何度何度も咀嚼を繰り返していた。
そして美味しい食事に十分満足した私の口から、弱々しい呟きにも似た微かな声が漏れ出していく。
「私を・・・怒らぬのか・・・?」
「どうして?」
「わ、私は、またお前の縄張りを荒らしたのだぞ?ここはお前にとって、貴重な狩り場なのだろう?」
謝りに来たはずなのにまたしても彼に気を遣わせてしまい、私はもうどう振舞えばいいのかわからなかった。
せめてきつい言葉の1つでも叩き付けて私を詰ってくれればそれで済むというのに、彼は掟で禁じられているはずの私との再開を寧ろ喜んでいるようにすら見える。
その怪訝そうな私の視線を受けて、彼が静かに言葉を紡ぎ始めていた。

「実は昨日そなたが去った後、私は一体何がそなたをそんなに傷付けてしまったのかずっと悩んでいたのだ」
私から外した視線を地面の上に落としながら、彼がその顔に少しばかり申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「氷竜達と関わり合うことを掟で禁じられている以上、あのように言うしか他に方法がなかったのでな・・・」
「お前と会うことを禁じられているのはこの私とて同じこと・・・それに・・・昨日の私はどうかしていたのだ」
私がそう言うと、彼は相変わらず穏やかな表情を崩さぬまますぐ傍の地面の上にそっと腰を下ろした。
その紅い鱗に触れた短い草がポッと小さな炎を吹き上げながらあっという間に燃え尽き、辺りにほんのりとした香ばしい香りを漂わせる。
そして彼と並ぶように湖の方へと体を向けると、私は徐々に溶けていく氷の釣り場を眺めながら先を続けていた。
「私は見ての通り、気が強いばかりで何の取り柄もない。そのお陰で、仲間達からも干されてしまってな・・・」
「それで自棄を起こした挙句に、こんな遠くまで飛び出してきてしまったというのか?」
「ああ、そうだ・・・その上更に異種族の雄竜にまで冷たくあしらわれて、正直昨日は泣き出したい気分だった」

私はそこまで言うと、長い首をそっと彼の方へと振り向けた。
それに釣られるようにして、彼も私の顔を正面から見据えてくる。
「だが後になってから、お前が掟を破ってまで私に声を掛けてくれたことが妙に嬉しく思えるようになったのだ」
「いくら気性の荒い炎竜の一族だとはいえ、問答無用で雌の仲間を叩き出せる程私は残酷にはなれぬよ」
「そんなお前の気遣いを振り切って逃げ出してしまったことを、一言お前に謝りたくてな・・・」
呆れ顔を浮かべるという私の予想に反して、彼はそんな告白を聞いてもなお表情を変えようとはしなかった。
いや寧ろ、心なしか柔和さが増したような気さえしてしまう。

「謝る必要などない。私の方こそ、そなたの気持ちも考えずに冷たく当たってしまって悪かった」
「お前は・・・優しいのだな・・・」
生まれて初めて雄から掛けられたその言葉に、私は思わず胸の内が熱くなっていた。
もっともっと、彼と同じ時間を過ごしていたい・・・
だがそんな願望に意識を傾けようとした正にその時、突然ポタッという音とともに1粒の小さな水滴が私の鼻先に当たって凍り付く。
ポツッ・・・ポツポツ・・・
何時の間にかどんよりと空を黒く染めていた厚い雨雲が、ついに冷たい滴を地上に向かって落とし始めたのだ。
氷のように冷たい私の体が、その降り頻る雨粒を受け止めては次々と細かな氷の粒へと変えていく。
そしておもむろに傍にいた炎竜の方へ目を向けると、彼の全身から薄っすらと白い湯気が立ち昇っていた。



「全くこれからという時に・・・憎たらしい夕立ちだ・・・」
「フフフ・・・そうだな・・・だが掟で禁じられた我らの逢瀬も、今日はここらが頃合ということなのだろう」
なおもザーザーと激しさを増す雨の中、そんな彼の声が少し遠くに感じられてしまう。
「また・・・お前に会いに来てもよいか?」
「もちろんだ。私も仲間に知れてはならぬ故そう頻繁には来られぬが、それでもよいならここで待っていてくれ」
よかった・・・彼はまだ、こんな厚かましい私のことを疎ましくは思っていないらしい。
私はその返事を聞いて彼に隠すことなく顔一杯に安堵の表情を浮かべると、バッと翼を広げて全身に降り積もった小さな氷の粒を弾き飛ばしていた。
やがてお互い別れを惜しむかのように数瞬だけ見つめ合い、羽のように軽く感じる体を宙へと舞い上げる。
「楽しみにしているぞ!」
そしていまだ地上から私を見上げている彼に向かってそう叫ぶと、私は意気揚々と遥か遠い北方の住み処目指して翼を羽ばたいていた。

それからというもの、私はくる日もくる日も遠い海を越えてあの森に隠された湖へと足を運ぶようになっていた。
流石に彼も毎日私に会いに来てくれるというわけではなかったものの、そんな時は私もゆっくりと魚を獲って1日中のんびり過ごしていればいいだけのことなのだ。
どれ程空模様が荒れようとも、どれ程激しい海越えの疲労が溜まっていようとも、そしてどれ程炎竜と会うことを固く禁じられていようとも、そんなもの私にとっては何の障害にもなりはしない。
とにかく早く彼に会いたい、1秒でも長く共に過ごしていたいという激しい衝動が、まるでコンコンと湧き出す澄んだ泉のような活力となって私の中に満ち満ちている。
正に今、私は恋をしていた。
その相手は異種族の私でさえ受け入れてくれる程に大らかで、仲間達の誰よりも優しい性格の持ち主。
長く辛かった茨の道を乗り越えて、私はようやく運命の相手に巡り合うことができたのだ。

初めて彼と会ってから2ヶ月が経ったある日、私はいつものように湖へ向かって快晴の空の下を飛び続けていた。
ここ3日程は彼の姿を見ていないが、今日はきっと私に会いに来てくれるに違いない。
片道数時間という過酷な往来すらもが、そんな切ない期待の前では小さなこと。
しばらくして海の向こうに深緑を湛える大陸の影が見え始めると、私は殊更に大気を叩く翼を早めていた。
真昼の陽光を反射する湖面の眩い輝きが目に入り、水を飲みにきた大勢の獣達が湖畔で長閑に草を食んでいる。
そしてそんな平穏な世界の中へと静かに舞い降りていくと、獣達がそっと私から離れていった。
だが未だかつて私が獣達を襲ったところを見たことが無いためか、必死に逃げ出すというよりは私と・・・
そして後からやってくるであろう彼のためにこの秘密の場所を明け渡してくれているようにすら感じられる。
こんな平和な考えが頭を過ぎるのも、きっと恋の病のせいだろう。

やがて私が湖に着いてからものの30分もしない内に、バサッバサッという聞き慣れた翼の音が耳へと届いてきた。
反射的に上を見上げてみると、真っ赤な火の粉を撒き散らしながら彼がこちらに向かって空を滑り下りてくる。
そしてゆっくりと地面に着地した彼としばし無言のまま視線を重ねると、私達はどちらからともなくお互いにその場に蹲っていた。
「久し振りだな・・・そなたは毎日のように待ってくれているというのに、寂しい思いをさせてしまっただろう」
「別に構わぬ・・・待ち焦がれる時間が長ければ長いほど、お前に会えた時の喜びが増すというものだ」
まるで甘い睦言のように交わしたその言葉に、彼が珍しく先を続ける。
「そなたと会うのは・・・もうこれで何度目になるのだろうな?」
「今日で37回目だ・・・お前と交わした言葉も、共に食べた魚の味も・・・私は、全部覚えているぞ」
「そうか・・・もうそんなになるのだな」
私と会ってからのこの2ヶ月間を振り返るように、彼はゆっくりと青く澄み切った空を仰いでいた。

「私は、そなたが好きだ。気が強くて不器用で、それでいてとても繊細・・・だが一途に私を想ってくれている」
唐突に、彼がそんな告白を口にする。
そう言えば、彼から面と向かって好きだと言われたのはこれが初めてかも知れない。
「だが毎日こんなにもそなたのことばかり考えているというのに、私はそなたに触れることさえできぬ」
その言葉の意味を理解した瞬間、私はガツンと頭を殴られたような気分を味わっていた。
確かに・・・灼熱の熱気を吹き上げる炎竜の体に、氷竜の私は触れることができない。
そして彼もまた、極寒の冷気を纏った私には手を触れることができないのだ。
もしお互いの身に触れたとしたら、私も彼も酷い火傷と凍傷を負ってしまうことだろう。
種族の違いという、私と彼との間を隔てる一族の掟とは別の高い壁。
それはつまり、私達の間にこれ以上の進展など望むべくもないことを暗に示している。

「何が・・・言いたいのだ・・・?」
別れ話を切り出されるのではないかと思って、そう訊いた私の声は無意識の内に不安で震えていた。
「もうそろそろ、決断を下す頃合だと思うのだ」
「それはつまりこの私に・・・お前のことを忘れろというのか!?」
「そうでなければ、何処かここから遠く離れた地で互いの一族から隠れて暮らすかのどちらかだろう」
自らの不安を掻き消すかのように、思わずそう声を荒げてしまう。
だが彼の言葉には、何よりも彼自身の深い懊悩がまるで血の涙のように滲み出していた。
「何故突然そんなことを・・・」
「仲間達が・・・そなたと会うためにひっそりと住み処を抜け出していく私のことを怪しみ始めているのだ」
いつか来るだろうと覚悟だけはしていたこの時。
掟を破ったことが仲間に知られれば、私はともかく彼にも大きな迷惑を掛けてしまうことだろう。
それでも彼は、私を捨てることよりも共に駆け落ちすることを選んでくれようとしている。
「私は・・・」

とその時、私は彼の背後の空に一瞬何か赤い物が飛んでいたのを見つけて言い掛けた言葉を呑み込んでいた。
今のは・・・?
「どうかしたのか?」
彼は全く気付かなかったようだが、私の見間違いでなければあれは恐らく・・・他の炎竜・・・?
まさか、私が彼といるところを仲間に見られてしまったのか・・・?
もしそうだったとしたら、住み処に戻った彼は一体どうなってしまうのだ?
一族の掟を破った者にどんな咎めが待っているのかは知らないが、少なくともこのまま無事に済むとは思えない。
でもそれを伝えたら・・・彼は・・・
「そなた・・・私の仲間の姿が見えたのか?」

その瞬間、私は唐突に現実へと引き戻されていた。
そして何時の間にか宙を泳いでいた虚ろな視線を、どうにかして彼の方へと向ける。
「わ、私は一体どうすればよいのだ?このことが仲間に知られればお前は・・・」
だが依然として取り乱す私を落ち着かせるように、彼はその優しげな眼差しを一心に私に注いでくれていた。
「そなたが心配する必要はない。だが仲間に知られてしまった以上、私はもうここには来られぬかもしれぬ」
「・・・戻るつもりなのか?」
「そうだ・・・長年固く守られていた掟を破ったからには、私も咎めを逃れることはできぬだろう」
そう言った彼の目には、悲しげな覚悟のようなものが輝いていた。
今すぐここで私と別れることで、彼は私を守ろうとしてくれているのかも知れない。
彼は・・・この私が誑かしたも同然なのだ。
やがて言葉を失ったままの私に背を向けながら、彼が切ない声を絞り出す。
「最後になるかも知れぬ別れ際で、そんなに悲しそうな顔をしないでくれ・・・何時か何処かで、また会おう」
そしてその言葉を最後に、彼が空へと舞い上がっていく。
「私はここで待っているぞ!」
小さく竦めた彼の背中に私は思わずそう叫ばずにはいられなかったものの・・・その声も、彼には届かなかった。

心の準備をする間もなく訪れた、唐突な彼との別れ。
私は翌日もそのまた翌日も、誰もいない湖の畔で毎日彼の訪れを待ち続けた。
この2ヶ月間、私の孤独を埋めてくれた1匹の雄の炎竜・・・
その彼がいなくなって、再び胸の内にぽっかりとした黒々しい穴が空いてしまったような気がする。
やがて繁殖期である春が終わりを迎え暑い夏の季節がやってきても、やはり彼は一向に姿を現さなかった。
危うく今にも折れてしまいそうな程にまで細った心へ不器用に添え木を当てながらも、過ぎていくのはただただ孤独に時を潰す日々ばかり。
彼は無事なのだろうか・・・?
それとも、もう私のことはすっかり忘れてしまったのだろうか・・・?
時折遠い空で紅い炎竜の影がチラつく度に胸が高鳴るものの、それが森の向こうへ消えてしまう度に目の奥から熱い物が溢れ出しては小さな氷の粒となって地面の上へと零れ落ちていく。
彼に会いたい・・・そんな切ない思いが、日に日に大きく膨れ上がっていった。

一体何故、掟などというものがあるのだろうか・・・?
今の氷竜の一族に、その理由を知る者は誰もいない。
遥か昔には氷竜と炎竜が共に暮らしていた時代があったらしいが、それすら他の者から伝え聞いた話でしかない。
なのに今、私はそんな不条理な掟のせいで初めて恋に落ちた雄竜とも空しく引き離されている。
時折心が折れそうになることも幾度かあったが、私はここで待っていることを彼に約束したのだ。
もし私が希望を捨ててしまったら、本当にもう2度と彼と会うことができなくなってしまう。
それだけは・・・そんなことだけは、絶対に認めてなるものか。
湖面に映る氷竜独特の青い顔を恨めしげに睨み付けながら心中でそう呟くと、私は力強く炎竜達の住み処のある南の空を見上げていた。

その明るい空の向こうに、また1匹の炎竜の姿が目に入る。
また彼の仲間が遠巻きに私の様子でも窺いにきたのだろうか・・・?
だがその炎竜の動向をじっと見守っていると、やがてその正体が私の目に激しい雷光のように飛び込んできた。
「まさ・・・か・・・?」
間違いない。よもやこの私が、彼を見間違うことなどあるものか。
遥か南の空から私の前に姿を現した者・・・それは紛れもなく、私が一月半もの間待ち焦がれた彼だった。
その紅い鱗で覆われた精悍な顔に、満面の笑みが貼り付けられている。
やがてお互いに一声も発することなく地上に降り立った彼としばし見つめ合うと、何とも言えぬ張り詰めた緊張が私と彼の間に流れていった。

「戻って・・・きてくれたのだな」
「待たせてしまって済まなかった・・・そなたには、とても詫びの言葉が見つからぬ」
「よいのだ・・・お前が目の前にいるだけで、私のこの一月半は無駄ではなかったのだから」
その返事を聞いた彼の口から、フゥと深い安堵の溜息が漏れる。
「とにかく、仲間に見つからぬ内にここを離れるとしよう。何処か遠くに逃げ延びて、ひっそりと隠れ住むのだ」
やはり彼は、仲間の監視の目を逃れてここまで駆け付けてきてくれたのだろう。
グズグズしてはいられない。
私は先に東の空へ向かって羽ばたき始めた彼の後を追うように地上から飛び立つと、周囲に他の炎竜の姿が見えないことを確かめながら彼の紅く燃える背中を眺め続けていた。

やがて眼下に広がっていた広大な深緑の森がゴツゴツとした岩山へと変わり、麓の森に澄んだ水を供給している川がその谷間を静かに流れているのが見えてくる。
そして川の上流に、浸食によって自然にできたと見える歪だが大きな洞窟が不意に姿を現した。
その暗闇の中へ音も無く滑り込んで行った彼に続いて、私もぽっかりと口を開けた岩の巨口へと飛び込んで行く。
古い川の流れが形作っただけに、その地面は所々細かな石が転がっている他は比較的程よい平坦さを保っていた。
「よくこんな所を見つけたものだな」
何処となく隠れ家的な洞窟の佇まいに、思わずそんなことを呟いてしまう。
「我らは自分だけの狩り場を見つけるために方々を飛び回るのでな・・・こういう場所なら幾つも知っている」
「これでもう、私達の間を引き裂こうとする者は誰もおらぬのだな」
「そうだな・・・新たな狩り場を見つけるのは少々骨が折れるだろうが、そなたと暮らせることを思えば・・・」

ようやく、私達は誰にも邪魔されぬ安住の地を得たのだ。
唯一心配された未開の狩り場も運よく洞窟のあるこの岩山のすぐ近くに見つかって、いよいよ四六時中彼と共に過ごせるという実感がこの上もない幸福感となって押し寄せてくる。
彼を探し回っているであろう炎竜達に見つからぬように食料を獲りに行くのはなかなかに緊張するものの、それも数日と経たぬ内に狩りの楽しみの1つとなっていた。
だがこの洞窟で彼との生活を始めてから10日が経とうとしていたある日の朝、私は全身に重くのしかかるような酷い倦怠感で目を覚ました。
「う・・・うぅ・・・ぐぅ・・・」
一体何だこれは・・・?
手足が痺れ、身動きできなくなった体がまるで内側から炎に炙られているような酷い苦痛を伝えてくる。
私の呻き声で目を覚ましたのであろう彼はしばらく何が起こったのかわからぬといった様子でじっと私の方へと視線を向けているだけだったものの、やがて事態の深刻さに気が付いて飛び起きていた。

「ど、どうかしたのか?」
いつもの彼らしくない、狼狽しきった声。
何とか彼にこの苦しみを伝えようとして、私は今にも消え入りそうな小さな声を必死に喉の奥から絞り出した。
「わ、わからぬ・・・だが・・・あ、熱いのだ・・・体中が・・・燃えるように・・・う、うああっ・・・!」
なおも全身を灼く苦痛の炎が、轟々と音を立てて燃え上がる。
そして悲痛な叫びで中断されたその訴えを最後に、私はついに声を出すことが出来なくなっていた。

「・・・す・・・だ!・・・・・・・・・か・・・・・・れ!」
朦朧とした意識の中へ、彼の切迫した声が途切れ途切れに聞こえてくる。
私は・・・死ぬのだろうか・・・?
一体何故・・・?
ようやく彼と共に暮らせるようになったというのに・・・こんな・・・
だが悲しみと悔しさに滲み出した1粒の涙は、頬を伝っても凍り付くことなく地面の上にまで零れ落ちていった。

バサ・・・バササ・・・バサバサ・・・
不意に何処か遠くから聞こえてきた、翼を羽ばたく音の波。
私は薄っすらと閉じていた目を開けてみたものの、辺りは完全な真っ暗闇に包まれていた。
今は夜なのだろうか・・・?
どうやら長いこと気を失っていたようだが、彼の姿は何処にも見えない。
だがそこへ、突然何やら慌ただしい様子で数匹の竜達がぞろぞろと雪崩れ込んでくる。
先頭にいるのは彼だ。
その背後にいるのは・・・氷竜・・・?
両手で大きな氷塊を抱えた3匹の仲間達が、あろうことか炎竜である彼に付き従っているとは・・・
これが・・・これが奇跡でなくて一体何だというのだ?
やがて心の底から心配そうな表情を浮かべた彼が、急いで私のもとへと駆け寄ってきた。
そしてもうすっかり衰弱して虚ろになってしまった私の眼を真っ直ぐに覗き込みながら、その顔にまだ私が生きていることに対する微かな安堵の色を滲ませる。

「さあ、その氷を私に・・・そして彼女の体を、そなたたちの身で冷やしてやってくれ」
彼はそう言うと、仲間から大きな氷塊を受け取って私の口元にその尖った先端をそっと差し込んでいた。
すぐに炎竜の全身から発する高熱が氷塊を溶かし始め、その表面を伝った冷たい水が渇き切った私の喉へと心地よい潤いを運んでくる。
更には彼に氷塊を渡した仲間がドサリと私の上に覆い被さると、その凍り付くかのような冷たさが生気となってこの身に流れ込んでくる感覚が全身に走った。
ああ・・・生き返るようだ・・・
彼はこのために・・・私を救うために、遥か北方の氷山まで仲間達を呼びに行ってくれたというのか。
胸の内から込み上げてくる彼と仲間達への感謝の疼きが、再び涙となって目の端から溢れ落ちていく。
そしてそれが青白い皮膜に覆われた私の頬に触れると、一瞬の内に小さな氷の粒となって地面の上に弾けていた。

次の日の朝、命を救ってくれた4匹の竜達が見守る中で私はゆっくりと立ち上がった。
「本当によかった・・・そなた達には、礼の言葉が見つからぬ」
「仲間同士が助け合うのは当然のことだ。お前こそ、よく我らに知らせてくれた」
やはり、彼はあの遠い海を越えて私の一族にこのことを伝えにいってくれたのだろう。
そして彼との会話を終えた仲間の1匹が、不意に私の方へと話し掛けてくる。
「さあ、里へ帰ろうぞ」
嫌だ・・・私はここへ残りたい。
お前からも、何とか言ってくれ。
だがそんな期待の眼差しを向けた彼の口から、悲しい言葉が聞こえてくる。
「そなたのためだ・・・もし今度同じことが起こったら、次もまたそなたを助けられるとは限らぬ」
「そんな・・・」
「私は、そなただけは失いたくないのだ。共に暮らすことが危険だというのなら、私は潔く身を引こう」

彼の言葉に、私は愕然とした思いを隠すことができなかった。
あの酷い苦痛の原因がまさか彼にあったなど、私はどうしても信じたくなかったのだ。
だが・・・彼の言葉には真実がある。
仲間の見張りを振り切ってまで私に会いに来てくれた彼がそう言うのだから、事実氷竜が炎竜と生活を共にすることはできないのだろう。
「もう・・・私と会ってはくれないのか・・・?」
今にも仲間達の前で泣き出しそうになるのを必死に堪えながら、私は彼にそう訊ねていた。
激しい葛藤に襲われているのが傍目にも判るほど、彼の目に暗い懊悩が顔を覗かせている。
だがやがて辛そうに私から視線を外した彼を助けるように、仲間達が不意に口を挟んでいた。

「お前さえよければの話だが、我らの里で彼女と共に暮らすというのはどうなのだ?」
「それはいい!それならもしまた同じことがあっても、すぐに我らの助けが呼べるだろうしな」
「だ、だが・・・あの土地は、炎竜の私が暮らしていけるような所ではないだろう?」
尤もな不安だ。灼熱の体を持つ炎竜では、あの土地で活動することはできても眠ることはできないに違いない。
何しろ地面は全て、厚い雪と氷で覆い尽くされた世界なのだから。
「なぁに・・・寝床となる岩を1枚、外から持ち込んでくればよいだけではないか」
「彼女のために精一杯尽くしてくれたお前なら、我らの仲間達も快く受け入れてくれるとも」
それを聞いた彼が、先程の私と同じように何かを訴えかけるような視線をこちらに向けてくる。
私はお返しとばかりに満面の笑みを浮かべて彼を見返すと、ようやく彼の迷いが何処か遠くへと消え去ってくれたようだった。
「そうだな・・・そう言ってもらえるのなら、お言葉に甘えさせてもらうとしよう」


視界一面を白銀に塗り潰す、とめどない雪と氷に支配された冷たい世界。
そんな不毛な大地のとある片隅で、禁じられたはずの氷炎の竜の番いが暮らしていた。
広い氷洞の奥には炎竜の寝床となる厚い岩床が設けられ、そのすぐ横の地面の上で全身に青白い皮膜を纏った雌の氷竜が静かに夫の帰りを待っている。
もう間もなく、氷海に住む獣を仕留めた炎竜が意気揚々と妻のもとへ帰ってくることだろう。
お互いにその身を触れ合うことすら許されぬというのに、彼らの未来は燦々と氷原に降り注ぐ太陽のように明るい輝きに満ち溢れていた。

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