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【定義】

道元禅師や、達磨宗懐鑑の下で学び、その後、永平寺2世となった懐弉禅師に嗣法し、その後を嗣いで同寺の3世として住し、さらに加賀大乗寺を開いている。号は徹通、名は義介。別に義鑑とも称する。弟子に、瑩山紹瑾禅師を輩出した。

生没年:承久元年(1219)〜延慶2年(1309)
出身地:越前国丹生郡北足羽郷
俗 姓:藤原氏

【略歴−誕生から道元禅師の下での参学】

承久元年2月2日に越前国丹生郡北足羽郷にて、藤原氏に生まれた義介禅師は、13歳になると同国にあった達磨宗の寺院である波著寺の懐鑑和尚に就くようになり、その歳の秋には剃髪して、翌年(1232年)比叡山に上って受戒している。比叡山では天台教学を学んだ。さらに本師懐鑑の勧めによって、浄土三部経を学び、併せて『首楞厳経』の見性の義を聞いた。この段階で、いわゆる達磨宗の教義は深く学んでいたと思われる。

しかし、懐鑑が仁治2年(1241)の春に、深草興聖寺にいた道元禅師に参じて衣を改めると、それに付いていって、自分も衣を改めた。23歳の時であった。そして、それ以降は道元禅師の教えを聞いて、参究を続けている。或る時は、その示衆を聞いて捨身の志を発し、さらに興聖寺で亡くなった僧海首座遺偈を聞いた時には、讃歎することしきりで、自らの修行の励ましとしたという。

道元禅師が寛元元年(1243)7月、越前に下ると一緒に付いていって、吉峰寺での冬安居では、典座を勤めた。同年の冬には、雪深く曲がった道を八町にわたって、食料などが入った桶を自分で担い、朝・昼の食事を欠かさなかったという。

翌年には、大仏寺が草創されたが、なかなか修行者の数が揃わなかったためか、義介禅師は変わらず一人で典座を勤めている。義介禅師が典座を勤めるに当たっては、多くの仕事について一人で管理したという。道元禅師がその熱心な修行に謝して行った上堂が次のようなものであると推定される。
典座に謝する上堂。我が日本国寺院典座の法、大仏初めて伝う。前来、未曾有。現在、何を以ってか有る。実に是れ、潙山・夾山・無著・雪峰等の古聖先徳、伸手して修習し来る跡なり。生前の弁肯、乃ち最大功徳なり、阿誰、其の辺際を籌量せん。唯、一仏二仏三四五仏の所にして諸善根を殖えたるのみに非ず、明らかに知りぬ、無量無数諸仏所に於いて、諸功徳を修して、乃ち能く之を勤め、乃ち能く之を得て、乃ち能く之を満たし、乃ち能く之を進め、乃ち能く之を退くことを。〈中略〉良久して云く、雲門の三昧、現塵塵なり、能く転じて食輪、法輪を兼ぬ。満桶を担来して満鉢ならしむ。世尊授記、用来新たなり。 『永平広録』巻2-138上堂

さらに、宝治元年(1247)の夏(夏安居か?)には監寺となって、永平寺の経営を初めとして、様々な管理監督を行う役目を担った。なお、たいがい道元禅師が永平寺に入られてからは、役寮の交代の時には感謝か拝請のための上堂を行っているが、この宝治元年に見合う上堂だが、『永平広録』巻3-214上堂が寛元4年(1246)の年末に行われており、そのときの監寺と典座を謝する上堂であるため、この後で任命されたと思うが、詳細は不明である。また、宝治元年といえば、その年の8月3日から、道元禅師は鎌倉へ下向される時である。したがって、義介禅師は道元禅師が留守中に、永平寺の管理を行っていたと考えられる。

この時の参学の様子だが、昼間は監寺の公務を勤め、夜は参禅し、只管打坐して動静大衆一如であったというが、道元禅師はこれで、義介禅師が真の道人であることを知ったという。

【略歴−懐鑑の死】

この辺の詳細は『御遺言記録』と『三祖行業記』でほぼ同一の内容を伝えている。建長3年(1251)春のことだが、懐鑑が義介禅師に対して、達磨宗の覚晏が伝持していた仏照徳光の法系に伝える『嗣書』を付授し、そして菩提勝浄明心というのは、他人からこの意旨を得るのではなくて知るべきだと指摘した。いわば、冷暖自知を強調したといえよう。そして、さらに道元禅師から付授されていた『仏祖正伝菩薩戒作法』も義介禅師に授け、遺嘱して道元禅師が伝持している洞山下の『嗣書』を拝覧することを願っていたが、それが果たせなかったことを悔やむ気持ちと、もし義介禅師がそれを見ることが出来たなら、その功徳を真っ先に自分に対して回向して欲しいと告げた。そして、懐鑑遷化した(ただしその詳細な時期については諸説ある)。

ところで、道元禅師は、或る時、義介禅師に対して、懐鑑からの遺品を全て受け取ったかを聞き(『御遺言記録』に依るならば、建長5年[1253]4月27日か?)、義介禅師はそれを肯定した上で、先の懐鑑の想いを告げた。道元禅師は、『嗣書』拝覧を願っていた懐鑑の求道心を感歎し、そして「鑑公は人を見るの眼有り、人を知るの智具う。汝、彼の長嫡となる。吾が法を必ず汝、証通せよ。以て為に必ず、門徒の先達となって、吾が山を護り、他游すること勿れ」と告げた。ここからは、道元禅師が義介を懐鑑の一番弟子であることを認めつつ、その上でさらに、修行を進めて道元禅師の教えも受けるべきだとしていたことが分かる。道元禅師は懐鑑に対して、その弟子の義準の依頼によって、追悼の上堂を行っている(『永平広録』巻7-507上堂)が、この辺りからは達磨宗を完全排除する意図は見えず(ただし、道元禅師の著作や瑩山禅師の『伝光録』第52章を見る限り、達磨宗と思想的対立はあったと思われるが、それは繰り返し指導を行うことで解消されたと考えるべきである。また、道元禅師の会下には、浄土教の者も出入りしていたが、それら様々な出自の者の集合が、道元禅師僧団だったわけであり、元から特定の思想的共有を前提に僧団が維持されていたと考えることは出来ない)、自分の僧団を構成する有力な僧侶達として位置付けていたことが明らかになる。そして、義介禅師に対しては永平寺、あるいは僧団から離れることがあってはならないとし、自分が亡くなった後も寺門を護持していくように依頼するのである。

なお、道元禅師は、これから上洛することを告げながら、もし命あって帰山することがあれば、その時には法を嗣ぐべきであるとしながら、そのためにも、義介禅師には老婆心がないから、今後必ず調えるべきだと教示した。この教えは、義介禅師のみならず、懐弉禅師も聞いていた。

【略歴−道元禅師寂後、懐弉禅師に弟子入りする】

懐弉禅師は、道元禅師が遷化された後、義介禅師を重んじた。そして、両者の間では、多くの問答が交わされたという。懐弉禅師は、道元禅師の長嗣として、その教えを漏らすことなく伝えたという。
仏樹和尚の門人、数輩ありしかども、元師独り参徹す。元和尚の門人又多かりしかども、我独り函丈に独歩す。故に人の聞かざる所を聞けることはありと雖も、他の聞ける所を聞かざることなし。 『伝光録』第52章

したがって、まだ若くして道元禅師に参学していた義介禅師が、聞いていない教えや、決着していない疑問を、懐弉禅師に尋ね、次第に永平寺を嗣ぐべき資格を得ていくようになったといえよう。そして、懐弉禅師は或る時、義介禅師が身心脱落話を会得したことを評価して、自分だけが伝えていた永平寺の住持の用心を伝え、さらに道元禅師の遺言として、道元禅師が義介禅師を高く評価し「真の法器なり」と述べていたことを告げて、嗣法した。その際、仏種を断絶することがないように示している。なお、それを義介禅師の法嗣である瑩山禅師は次のように讃歎する。
之に依て当寺老和尚价公、まのあたり彼嫡子として法幢を此処に建て宗風を当林に揚ぐ。因て雲兄水弟、飢寒を忍び古風を学で、万難を顧りみず昼夜参徹す。是れ然しながら師の徳風のこり、霊骨暖かなる故なり。 『伝光録』第52章

【略歴−義介禅師の入宋】

懐弉禅師法嗣となった義介禅師だが、その懐弉禅師から、道元禅師が中国の天童山の規矩や、叢林で実際に用いられている清規を伝えることで、永平寺という叢林を作り上げたといわれ、それは同時に栄西禅師の本懐であることも告げられた。しかしながら、興聖寺の焼失によって、それら道元禅師が伝えた、清規や中国禅宗の語録、或いは一切の経論などが紛失したことが残念だから、義介禅師には、その都度に、中国の風習を伝え、折中して清規を構築するべきであるとした。

このような師命を受けて、まず義介禅師は、京都にある建仁寺や東福寺、そして鎌倉にある寿福寺や建長寺に行って伽藍などを見ており、さらに正元元年(1259)には、中国に渡った。その時、義介禅師は如意輪観音と虚空蔵菩薩を自ら彫って、願文を著して、次のように宣言した。
吾、先師の往願を果たさんとす。永平の宗風を日本国裏に一興せんと欲す。また、弉師の命有って、身を波涛に任せ、命を師勅に軽んず。菩薩合力して、叢席を興行せんと欲す。もし、海内にその命を没しても、再来して心願を果たさん。 『三祖行業記』「三祖介禅師」章

中国での叢林の見学などを経て、義介禅師は永平寺に戻ると、山門を立てて、両脇の廊下に祖師像などを祀り、他にも季節毎の礼儀や、粥罷諷経掛搭の儀式などを調えたという。

これらの功績などもあって、懐弉禅師が病を発するや、法席を嗣いで永平寺に入った。その時は文永4年(1267)4月8日であった。その間にも、永平寺の造営事業を続け、さらに説法を行い、鐘鼓の正確さを期していくなど、叢林としての面目が調ったため、人は「永平寺の中興」であると評価した。しかし、文永9年(1272)2月には退院し、養母堂を建てて母を養った。それはあたかも、中国の陳睦州のようであった。この頃、美濃国(現在の岐阜県)にいた人が、義介禅師のために寺を造って供養し、その開山となるように懇請したようだが、断っている。

断った日の夜に義介禅師は夢を見たが、その夢では門を出て行こうとしている義介禅師の両足に葛藤がまとわりついて、出さないようにしているように思えた。この一件で、義介禅師はまだ、道元禅師が、自分自身を認めていないと思い、さらに修行しようと志を発したという。そして懐弉禅師がいよいよ最期の時を迎えることとなった。

弘安3年(1280)の8月15日に、懐弉禅師は義介禅師に対して、自分は永平寺の住持職袈裟を、道元禅師からいただいたことを告げ、自分は道元禅師が亡くなって以来18年、一度も身体から離したことはないと告げた。そして衣と法を同じく伝えるから、断絶させてはならないとした。義介禅師は、その遺命を受けて、永平寺に再び住持として入ったが、この頃から、円公(詳細不明。義演か?寂円か?)という者の参随の徒が、争いごとを起こし、義介禅師を追放しようとした。議論があるところだが、三代相論に関係があると思われる。

永平寺の大檀那である波多野家は、義介禅師が懐弉禅師の長嗣であり、さらにその遺命として永平寺の住持であることを告げながら、争いごとを止めるように述べ、義介禅師を追い出せば、山門が衰微し、門徒は不幸になると述べた。波多野重道は、義介禅師を強引に永平寺に戻すなどしたが、一度乱れた大衆の和合は容易に回復することはなかったようである。

【略歴−大乗寺にて衆生接化】

大乗寺は元々、弘長3年(1263)に、澄海阿闇黎を寺主として、富樫家尚が、加賀押野庄野々市外守に建立した寺院であったが、永仁元年(1293)に永平寺3世の徹通義介禅師が拝請されて、義介禅師の手によって日本曹洞宗に改宗された。義介禅師は、永平寺を退いて、ここに到るまで21年であった。

そして、義介禅師は大乗寺に法堂を建てて修行を行うと、各地から四衆が集まり、法や戒を得た者が多かった。中でも、嗣法の弟子は、後に曹洞宗太祖となる瑩山紹瑾禅師、そして、宗円懐暉などがいた。義介禅師は老衰し、弟子の指導が出来なくなると、永仁6年(1298)に瑩山禅師を住持として大乗寺を継がせ、自分は庵に独居した。

独居から十年も経る頃には、いよいよ身体も弱まり、延慶2年(1309)8月24日に病を発すると、同年9月2日には、まだ沙弥童行だった者を剃髪受具させた。同月12日には弟子達を集めて、発心行脚して、法のために身を捨てることを説いた。同月14日には、筆を執って二字ほど書くと、自らの病のために続けて書けないことを理由に、瑩山禅師に後を続けてくれるように依頼し、「七転八倒、九十一年。蘆花雪を覆い、後夜に月円かなり」と遺偈を述べて、遷化された。法臘78歳、世寿91歳であった。遺骨は、大乗寺の西北の隅に葬られ、その塔は定光院と称された。

また、『三祖行業記』には、遺偈として、以下のような語句も書かれているが、『三大尊行状記』には見えず、さらに内容からしても義介禅師の遺偈ではないのかもしれない。
行業記を看て忽ちに驚情す。没後生来して師を給わんと思う。骨は塔辺の侍者位に埋めよ。松風白日是れ聞くこと奇し。 『三祖行業記

【著作】

・義介禅師には、思想的に目立つ著作はない。ただし、『正法眼蔵』の写本や、弟子の瑩山禅師に付与した書状など、幾つかの直筆の文書が残されている。また、中国の禅林を見学して歩いた時に、それを記録した『五山十刹図』を書写してきたとされており、大乗寺に収められている(ただし、現在は美術館に委託管理されている)。

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