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【定義】

/瓦鮴櫃瓩襪海箸如打眠を貪ったり意識が散乱しないようにすること。坐禅のこと。
すでに仏祖祖風嗣続するより、摂心無寐にして脇不至席なること僅六十年なり。 『正法眼蔵』「行持(下)」巻

摂心会の略であり、篤志の参禅者を集めて、一定の期間摂心を行わせる坐禅会を指し、この間は他の事を一切放下して、坐禅のみに集中する。場合によっては、7〜14炷(1炷は40分くらい)程度行う。時期によって臘八摂心(12月1日〜8日・釈尊成道を讃える行持)や、断臂摂心(12月9日・慧可の断臂を讃える行持)、或いは大本山總持寺では6月に伝光会摂心などを行っている。

【内容】

摂心は接心とも書く。前者の場合は、「心を摂める」ことであり、例えば『妙法蓮華経?』「安楽行品」には、「常に坐禅を好んで閑かなる処に在って其の心を修摂せよ」とあり、また道元禅師は『学道用心集』「参禅可知事」章で「釈迦老子云わく、観音流れを入して所知を亡ず。」と示しておられるが、これらは摂心という心的状態を示した好語である。坐禅の心的状態に近い事から、坐禅そのものを摂心と呼ぶようにもなっている。なお、接心と呼ぶ場合は、坐禅が仏陀の心に接する事であることを意味している。

【歴史的変遷】

現在のように、1日中坐禅をするような摂心会についてだが、道元禅師の著作には該当する記述を見出すことは出来ない。日分行持しか書かれていない『永平大清規』から判断するのは早計だが、永平寺では基本的に「四時坐禅」であったのだろう。一方で、自ら天童山で行っていた修行の様子を、「昼夜定坐」と表現しているが、これが今の摂心会に該当する可能性がある。

瑩山禅師の著作にも「摂心会」に相当する言葉は見出せない(「摂心」という単語自体はあるが、摂心会を意味しない)。しかし、『瑩山清規』下巻の「成道会」の説明に「七日夜、九日夜、山僧住裏一衆長坐す。発心以来、四十余年、此に於いて両夜、未だ打眠せざる故なり。住裏二十六年、多く一衆を率い、堂の裏に打坐するは、蓋し恒規の如し」(『常済大師全集』358〜359頁)とあって、成道会の前後の夜(9日夜の方は、断臂摂心か)には、修行僧達が夜を徹して坐ることを示しており、この辺りが原型になっていると考えられる。

また、瑩山禅師峨山禅師―大徹禅師と続き、その法嗣である竺山?得仙禅師(1344〜1413)の『竺山得仙語録?』巻1には、「定坐」についての偈頌が収録されている。
一七日中堂裏に坐し…… 「定坐僧徒に示す」

ここから、一週間に及ぶ「定坐」の修行を行っていたことが分かる。これは、今の「臘八摂心」に相当すると思われるため、14世紀末〜15世紀初には既に成立していたことが窺える。そして、15世紀末には既に現状のような一週間の摂心について清規上に明文化した例がある。
十二月朔日入定、早朝祝聖常の如し。朝参在也。大衆散す。坐禅鐘五便、住持大衆等入堂面壁す。是便入定也。〈中略〉定七日之間、日毎に鉢盂を行ずべし。義式は前に委す。又七堂の門戸を閉却、而門外へ寸歩移さず、結跏趺坐す。諸行事を禁て、被衣洗脚を許さず。此の如くの三日、次之四日に至るに、被衣洗脚を許す。 大安寺蔵『回向并式法?

また、「摂心」という呼び方の原型とも考えられる修行として、『椙樹林清規』の「臘月一七尅期切心式」がある。
自朔日至七日、昼夜切心、只管坐禅す。故に鳴法器次第、坐香等まで恒規に不同なり。先づ朔日朝課粥時如常、三下鐘の後、直堂打諸寮前板、坐禅を始む。至黄昏、坐香の多少をはからず、坐禅経行循環なるなり。夜坐は香数八枝に限る。次の日より、暁天に坐禅を始め、夜坐の開定に至るなり。七日の中、三時の念経を止む。暁天粥後飯後の小開静、二時の殿鐘をも不打、只夜坐の了に、小開静のみして、七日を終る。 『椙樹林清規(下)』「年中行事」

ほぼ現在に見るような「切心(摂心)」が確立されている。なお、『椙樹林清規』が大きな影響を受けたという『黄檗清規』には見えない。「切心」という呼び名だが、定着するには時間がかかったようで、やや時代が下って、面山瑞方が著した『僧堂清規』第3巻「年分行法」の「十二月」に「常坐式」に関わる項目が立てられているが、名称は違う。
常坐 朔日早晨より八日の後夜まで、開静なく、大衆打坐なり。諷経早晩参も免ず。昏暁の鐘鼓、斎鐘、更点粥飯の鳴器は常と同じ。ただ坐禅と諷経にかかる法器鳴さず。茶は僧堂にて行ず。毎日晡時に洗足す。常坐の間は公用だに一切免ず。私用一向になさず。七日の飯後、知殿等のみ坐禅を免じて、大殿洒掃し、出山の像を掛け、供具厳浄す。 『曹洞宗全書』「清規」巻、98頁

要するに、12月1〜8日の夜までひたすらに修行僧が坐禅し、坐禅以外の一切の仕事を止めて、とにかく集中することになる。ほぼ行法は『椙樹林清規』に同じだが、呼び方は「常坐」である。また、同時代の永平寺50世・玄透即中禅師によって記された『永平小清規』にも、釈尊が悟りを開いた「成道会」に因む「定座」についての記述がある。
定座 吾が門諸刹、十二月朔より七日五更に至りて期を刻んで坐禅す。之を定座と謂う。諸規未だ載らず。想うに小院小衆、尋常に事務のために遮礙されて専らに打坐を勤めること能わざるに、期を刻んで之を勤める因なり。 『曹洞宗全書』「清規」巻、77頁、下線は管理人

下線部にあるように、「定座」の作法は、それまでの諸清規には見えなかったが、この江戸中期に明文化したことが窺われる。玄透は「定座」と合わせて先の瑩山禅師が徹夜の坐禅を述べたことも指摘している。また、「此夜、初更より坐禅、一衆の坐、明早に至る」と『小清規』に記すことで、午後7時くらいから一晩中坐禅をしたことと、同じく12月9日に中国禅宗二祖である慧可禅師の故事に因んで夜を徹して坐禅(これは現代の「断臂摂心」に当たる)をした行持を継承している。なお、玄透が指摘するように、仕事の多様化・多忙化に伴って、叢林でも坐禅をする機会が少なくなってきたことを補完するために、集中的に坐禅する期間が設けられたのであろう。

ところで、臨済宗の『諸回向清規』には、「定坐偈」が収録される。
結跏趺坐当願衆生、善根堅固、得不動地。

ここからは、坐禅とは別に、定坐という行法が江戸初期までには確立されていたことになろう。そして、盤珪永琢禅師(1622〜1693)は「不生禅」を唱導したことで知られているが、その語録には「定座(定坐)」に関する説法がある。
師、臘月朔日衆に示して曰、身どもが所は、常平生が定座で居まする所で、諸方のごとく今日より定座といふて、各別にあがきつとむる事はござらぬ。 『盤珪禅師語録』岩波文庫、90頁

以上のことからすれば、明らかに「定座」が臘八に因んで行われていることが分かるだろう。そして、これは別に「摂心」とも呼ばれるようになったと思われる。

面山が指摘した「常坐」だが、これは元々は十二頭陀僧侶煩悩を滅却するために行う十二個の実践徳目)の1つとして数えられており、『法門名義集』では「十二頭陀 一つには尽形乞食、二つには阿蘭若に処住、三つには糞掃衣を著く、四つには一坐に食す、五つには常坐、六つには中後非時食を受けず、七つには中後漿を飲まず、八つには但だ三衣有るのみ、九つには毳衣。十には樹下に坐す、十一には空地に住す、十二には死屍の間に住す。」(『大正蔵』巻54−129b)とされている。

天台宗の実質的な開祖と言って良い天台智擇蓮△修涼『摩訶止観』の中で「一つに常坐は、文殊説・文殊問の両般若に出る。名けて一行三昧と為す。」(『大正蔵』巻46−11a)とあるように、「常坐」を四種の三昧の1つに挙げている。内容は、静かな部屋にて一人坐り、一仏の名前を唱えて加護を求めながら、この世界が平等一相であることを観ずることとしている。

この「常坐(定座・定坐)」の作法を曹洞宗禅宗に入れた時期は分からないが、この頭陀行の1つとしての常坐をイメージしながら取り入れたことが推定される。そして、現行の呼び方は『椙樹林清規』の「摂心・切心(写本によって異なるようだ)」が元になっていると思われる。『行持軌範』への導入については、既に明治の『洞上行持軌範』の段階で、『椙樹林清規』『僧堂清規』などを挙げて検討されてはいるが、『瑩山清規』に配慮して、12月1日からの行法としては載っていない。なお、『洞上行持軌範』では、『椙樹林清規』に「摂心」と載ることを指摘しているので、そう書かれた写本もあるのであろう。『曹洞宗全書』の『椙樹林清規』は「切心」である。

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