「え、私がですか?」
「そう、別に問題はないと思うんだけど」

探偵は喫茶店である女性と向き合っていた。
彼女は同じ探偵事務所の後輩であると同時に、探偵とは少し「特別な」関係にある。

「でもなんで、私が引き継ぐんですか?」
「うん…新しい仕事が入って、そっちに掛かりっきりになりそうなんだ。しかも全国を動きそうだしな」

探偵と彼女が向き合っている理由は、仕事の話だった。
「田中れいな」と「亀井絵里」の身辺調査は、実質探偵と彼女のふたりでの仕事であり、依頼人との交渉は探偵がひとりで担っていた。
しかし、今回探偵に新たに舞い込んだ仕事を理由に、探偵は彼女ひとりに調査を委託しようと考えていた。

「それだけ、ですか?」
「ん?」
「ホントはこの仕事、向いてないと思って降りようとしてるんじゃないんですか?」

彼女の指摘に対し、探偵は否定も肯定もしなかった。
ただ黙って珈琲を飲む姿に、彼女はなんとなく肯定の意をとった。
彼はもともとこの仕事に乗り気ではなかった。
それは自分が探偵に向いていないかもしれないという考えからもだったが、なにより依頼人への不信感、調査人への同情があったからだった。
そんなもの、この職業には必要ない感情のはずだったのに。

「まあ、正式にこの職に就いてまだ日は浅いけど、お前ならできるだろ」
「……できなくはないですけど」

そうして彼女は紅茶に口付ける。
実際彼女もまた、この仕事に乗り気ではなかった。しかもその理由は、目の前にいる探偵と同じものだった。
そういうところが似てしまうなんて、皮肉なものだと苦笑する。
だが、彼女には断ることはできない。彼女は探偵の「養女」であり、恩義があるのだから。

「じゃ、任せた。依頼主には話をつけておくから」

そうして探偵は自分の珈琲代を置くとカバンを持って立ち上がる。
足早に過ぎ去っていく彼の背中を見ながら、彼女は溜め息を吐いた。

受け取った資料に目を通していると、調査対象者が横を通り過ぎ指定の席へと座るのを確認した。
やれやれ、早速仕事かと、彼女はイヤホンを耳につけた。


 -------


撮影を終えたれいなと愛佳は、事務所に戻る前に喫茶店に入った。
そこで高校時代の懐かしい思い出話に花を咲かせ、あの頃に戻ったように笑いあった。

「愛佳それあり得んってー!」
「えー、そんなことないですよぉ」

こうして過去を共有した人と思い出を話すのは楽しかった。
同窓会というものにれいなはなかなか参加したことがない。
れいなの職場は当然のように東京にあり、この仕事柄、長期休暇もなかなかとれない。
本当は仲の良かった同級生に会いたいのだが、なかなか会えないのが現状だった。
その分、こうして後輩と久しぶりに会えたことは嬉しかった。

「みんな元気してる?」
「写真部の子とはよく遊びますけど、みんな変わってないですよ。田中さんにも会いたいって言ってました」
「ホントにぃ?そういう割にメールとかこんけど」
「それは遠慮してるんですって。田中さん忙しいですし」

れいなは珈琲を飲みながら顔をくしゃっと崩して笑う。
やっぱり、多少は無理してでも、実家に帰ろうかとこういう時にふと思う。

れいなはもう随分長く、実家には顔を見せていなかった。
女の子なんだから、年に一度は帰ってきなさいと母親はよく愚痴を零すが、れいなはそれを無視していた。
心配されていることは分かっていたのだけれど、仕事を言い訳にいつも帰らなかった。
だけど、そろそろ帰ろうかと思っている。
たぶんそれは、いつでも逢えるという確証など、何処にもないことを知ったからだと、れいなは思った。

「ああ、そういえば田中さん」

ふと話を振られ、れいなは現実に戻った。

「道重先輩とは最近どうですか?」

だが、想定外の質問をされ、れいなは眉を顰める。
道重先輩、すなわち、同じ高校だった道重さゆみのことだ。愛佳にとっても、先輩に当たる人物だった。

「どうって……たまに仕事一緒になるくらいやけん…」
「別れたんですか、道重先輩と」

その言葉に飲みかけの珈琲を噴き出しそうになり、慌てて口をおさえる。

「わ、別れたって……なんで」
「だって付き合ってたんでしょ、高校時代」

愛佳の口から出る言葉にれいなはいよいよ眉を顰めた。
待て待て、待ってくれ。
れいなとさゆみが付き合っていたことは事実だ。だが、高校時代には付き合ってはいない。
付き合いだしたのはれいなが上京したあとのことであり、その事実は当人たち以外はだれも知らない。

「つ、つつつつ、付き合ってなかよ」
「あ、そうなんですか?あんな写真撮るから付き合ってるんかと」
「あんな写真?」
「高校ンときに見せてもらったやないですか、道重さんを撮影したやつですよ」

愛佳の言葉を聞いてれいなは記憶のフタをぼんやりと開けた。
そういえば……と思い当たる節はいくつかあった。
初めて体を重ねたあの日以降、急速にふたりの中は深まり、事あるごとにれいなはさゆみの写真を撮っていた。
コンクールに出品することはなく、表舞台に出ることのなかった写真だったが、同じく写真部の後輩だった愛佳にはよく見せていた。

「あれ見たら分かりますって」
「なにが?」
「田中さんがホンマに、道重さんのこと好きでいてるんやって」

れいなは彼女の言葉を黙って聞きながら珈琲を飲む。
道重さゆみという存在は、れいなにとってあまりにも大きかった。
ただ漠然と日々を送っていた自分を、再び写真の世界に引き戻してくれたのがさゆみだった。
なんとなく過ぎ去る日常を、色鮮やかに輝く世界へと変えたのは間違いなくさゆみのおかげだった。

上京してからも、さゆみとなんどとなく会い、その度に体を重ねた。
歳を重ねるごとに彼女はいっそう美しさを増していき、自分がいかに不定形で曖昧な存在かを思い知った。
同じラインとまではいかなくても、せめて傍にいたかった。
隣にいることが許されなくても、さゆみの美しさを伝える裏の存在として、確かな自分を確立したかった。
だかられいなは相応の努力をし、カメラマンとしての自分の立場を明確化させた。

「……付き合ったンは、れながちゃんとカメラマンになってからやけん」

れいなはぽつりとそう呟いた。
彼女の言葉に、愛佳は思わず紅茶を飲む手を止めた。

「別れたのは、最近……って言っても1年前やね」
「……なんで、別れたんですか?」
「さゆにフラれたんよ。ある日突然やったけん、れなも心の準備もなんもできとらんかったけど」

珈琲を飲み干すと、れいなは天井を仰いだ。
未だにあの別れた日の記憶は曖昧で、正確に思い出すことはできない。
断片的な記憶として、雨が降っていたこと・撮影を終えたあと、さゆみの部屋に行ったこと・体を重ねたことは覚えていた。
だが肝心の、別れ話のこととなるとれいなはどうしても記憶のフタを開けられない。


―――「ねぇ、れいな。別れよっか、さゆみたち」


雨の降る夜、真っ白いシーツにくるまったさゆみは切なそうにそう伝えた。
いまにも泣きそうな彼女の顔にれいなは眉を顰めた。どうして?とカラカラに渇いた口でそう伝えると、さゆみもまた震えながら応えた。


―――「だって、れいなは……」


いつも此処で、記憶が途切れる。
彼女がなんと言ったのか、どうしても思い出せない。
雨の降る音がうるさかった。別れ話を終えたあと、れいなは黙って部屋を後にする。
ザーザーと冷たい雨に打たれながら、夜道を歩いた。彼女はいったい、なんて言ったんだ?

「でも、道重さん、いまでも好きなんですよね、田中さんが」
「……え?」
「今日向こうさんの事務所で会いましたやん。そんときの姿とか見てると、なんとなくそう思いましたけど」

愛佳の言葉に再びれいなの心は動く。
れいなは愛佳のことを高校時代からよく知っている。
会わなかったこの数年で、彼女の性格が急に変わるとも思えない。愛佳が人を傷つける嘘はつかないことをれいなは知っている。
気遣いのできる人間だからこそ、一歩引いたスタンスで物事を見て、知らない心の機微に気付けることがある。
だとするならば、愛佳の話は真実味を帯びてくる。

「……そうやとしても、もう遅いけん」
「なんで、ですか?」
「れなにはもう、好きな人、おるけん」

そうしてれいなは伝票を持って立ち上がった。
さゆみがいま、どんな想いを抱いているのか、れいなには知る由もない。
だが、絵里と出逢った次の日、さゆみが自宅にやって来たとき、彼女は確かにこう言った。

―――「さゆみのこと、どう想ってる?」

れいなは財布を取り出すと、愛佳が慌てて「いくらですか?」と聞いてきた。
「こんなところでくらい、奢らしてよ」と笑うと、愛佳も苦笑しながら「御馳走さまです」と返した。

もしいまでも、彼女がれいなのことを好きだとしたら、どうしてあの日別れを告げたのだろうとれいなは思う。
一時の気の迷いで人を振り回すなんてことをさゆみはしない。
別れを告げるというエネルギーの必要な選択肢を彼女が選んだ理由は、やはりフラれたあの日の言葉にあるはずだった。
結局、それを思い出さないことには、なにも分からないんだなとれいなは自覚する。

―会おう、かな……

れいなと愛佳は車に乗り込んだ。
シートベルトを着けながら手帳を取り出す。さゆみの事務所との合同飲み会はもうすぐだった。
その日の前に、さゆみと個人的に会って話そうかと考える。
会ったところで、なにか変わるものがあるとも思えないけどと考えていると、車は発進した。

「事務所で良かったでしたっけ?」
「うん、そう。安全運転で頼みますよ」

そうしてれいながふざけて返すと、愛佳もまた笑った。
あの日のことを、れいなはもう一度思い返そうとしていると携帯電話が震えた。
着信の相手は里沙で、思わずれいなは身構えた。


 -------


ウェイトレスは食器を片付けながら、机の下に忍ばせていた黒い機械を取り外し、そっとポケットに入れた。
すべての食器をトレーに乗せ、厨房まで運ぶと、ウェイトレスは厨房に溜まっていたゴミ袋を取る。

「ゴミ捨ててきますね」
「ああ、ありがとう」

ウェイターの声を背に、彼女は外へと向かった。
ゴミ捨て場には黒いジャケットを羽織った顔立ちの綺麗な人物が立っている。彼女はゴミを捨てようと歩いた。
ふたりがすれ違う直前、互いのポケットに入れていた黒い機械と封筒が行き交った。
ウェイトレスは何事もなかったかのように封筒をポケットにしまい、再び店内へと戻って行った。

「こんなんで良いのかな……」

そう独り言のように、探偵から依頼を委託された彼女―――もうひとりの探偵は呟いた。
探偵はその黒い機械―――盗聴器のスイッチを切り、駐車場に止めていた車に乗り込む。

「道重さゆみ……か」

探偵は助手席に置いていた雑誌を開いた。
長めの丈のワイシャツを羽織り、ショートパンツを穿いた彼女がこちらに笑いかけていた。
その綺麗な瞳に思わず吸い込まれそうになり、探偵は胸が高鳴った。

「田中さんも、悪い人ですね」

そうして笑いながら呟き、エンジンを回した。
夕陽が射し込んできて思わず目を細める。もともと切れ長な目が余計にキツく見えるなと苦笑しながらアクセルを踏んだ。





第19.5話へ...
 

ノノ*^ー^) 検索

メンバーのみ編集できます