なんとか日付が変わる前に帰ってこられた。
こんな日はエレベーターっていうものが実に有難いものだとしみじみ思う。
（いっそのことそのまま部屋の前まで運んでってくれたらいいのに…）
なんてちょっとばかりおバカな発想に至ったところで、正面に回したかぼちゃの馬車よろしくエレベーターの扉が開き、疲れた私を迎え入れた。
ボタンを押して6の文字を光らせると、やがて身体にわずかなGがかかる。上へと向かうその箱がどっこいしょと重い腰を上げるかのようだ。
（せっかく重い腰を上げたんだからいっそのこと部屋の前まで運んでって……ってこれ、さっきも考えたやつ…）
私の頭は私の意思とは無関係にぼんやりと考えを巡らせた。
（…そういえばアイツ、お夕飯どうしたんだろう？）
今から一月ちょっと前に、まさに私を抱えて部屋の前まで運んでくれた隣人の“アイツ”が頭をよぎる。
私の胸は私の意思とは無関係にじんわりと熱を帯びた。
あの時のアイツの、私を抱きかかえた腕、密着した胸、心臓の音、目の前にあった瞳の優しさ、首筋の汗、体の熱に、それから……どこか懐かしく美味しそうな匂い………ん！？ 美味しそうな匂い？
私の腹は私の意思とは無関係にいきいきと空腹を主張した。
（お腹空いたなぁ…あぁ、そうだ、お夕飯…どうしよう？）
◆◇◆◇◆
今日は早上がり。まだ日も高い内に帰って来られるのはやっぱり気持ちが良い。そうだ、今日の晩飯は何だろう？
マンションの玄関ロビーに差し掛かったあたりでスマホが着信を知らせた。
「はいもしもし？ …あぁ、なんだオマエか。え？ しょうがないだろ？ 慌てて出たから誰からの着信か見てなかったんだから」
「…そっか、相変わらず忙しいんだなそっちは。あんまりその…む、無理す、すんなよ？」
「ふん！ そうやって言われると思ったから言いたくなかったんだよ、まったく……
まぁいいや。…で？ …いや、オマエの帰りが遅くなるってのは分かったけど、なんで僕にわざわざそれを電話してきたんだ？」
電話の向こうからは盛大な溜め息が漏れていた。
「…うげっ！うわっ！そうだ！今日は晩飯食わせてくれる日じゃんか！えっ？ えぇっ？！ ってことは僕の今日の晩飯はどうなるんだよ？！」
「なんだよ知りませんって…薄情な奴だな」
《薄情って…誰かさんがこの後何時間もひもじい思いをしないでいいように早めに連絡してあげた私を捕まえて薄情とは酷い言い様ですね》
電話の主が向こうで何やら文句を言っているらしいが、そんなことより晩飯の心配だ。さてどうしたものか…。
このまま部屋に帰ってしまって安売りの時に買ってある５食入りの袋ラーメンか何かで済ませるか、それとも多少の出費にはなるがコンビニで何か買うか……
「あぁー！ あぬみーん！」
「あら石田クン、どうしたの難しい顔して？」
◇◆◇
（あとはお肉っと……たしか鶏モモ肉が安くなってたんだろうね）
香音はいつものスーパーで買い物をしていた。
まずは精肉・鮮魚・青果とひと通り店内を一周してみて、お得なものを中心に夕食のメインメニューを考える。
やっぱり今夜は鶏肉がメインかな？ レンコンとゴボウと玉ねぎあたりを一緒に炒めて黒酢で…
「いちだにぃにー！」
鞘師家の本日のメインディッシュが決まりかけたところで、真莉愛が青い服装の石田クンを発見した。
「あらホント、あゆみちゃんじゃん」
真莉愛の声に顔を上げた香音も彼の姿を認めた。
品物と値札を見比べ吟味するその眼はいつにも増して真剣である。
しばらく悩んだ末に彼がカゴに入れたのは、お買得品ではなく通常価格の薄切り牛肉だった。
「今日はフンパツ？」
真莉愛を座らせたショッピングカートをおしながら香音が声をかけた。
「ああ！香音さんに真莉愛ちゃん、こんにちは。お買い物ですか？」
「スーパーでカート押しながらすることなんて買い物のほかにはアイドルの子が写真集の撮影をするくらいしかないんだろうね」
「そっか、たしかにw」
「まぁあれは海外のでっかいスーパーだろうけど。あゆみちゃんこそ、晩御飯のお買い物？」
「え？ …ええ、まあ」
「ちなみに今晩のメニューは？」
「カレーです！」
「かぇーかぇー！」
「真莉愛も大好きなカレーだって、いいねぇ〜」
「そういえば香音さん、真莉愛ちゃん連れてよく小田とカレー食べに行かれてるんですよね？」
「うん、よく行ってるよ？」
「アイツ、どんなカレーが、その…好きなんですか？」
「さくらちゃんの好みねぇ…さくらちゃんはフレンチカレーっていうか、カレーライス派っていうか…
あっ、でもホント色んなカレー屋さん知ってるからなぁ…まぁどちらかっていうと辛いカレーの方が好きかも」
「辛いやつですか？」
「どちらかと言えばね？」
「なるほど！ ありがとうございます！」
「どういたしまして。あ、カレーのお野菜だったら今日は商店街の入り口に近い方の八百屋さんが安かったんだろうね」
◆◇◆◇◆
『先にシャワーでも浴びてこいよ』
アイツの一言にまたドキドキしてしまった。
「…覗かないで下さいね」
さくらは精一杯の悪態をついて、ドキドキを隠すように早足でお風呂場へと向かう。
どうせ他意などあるはずもない…それはわかっているけれど…。
（いやいやいや、これじゃあまるで何かを期待してるみたいじゃないですか！ そんなことないから！）
ちょっと熱めのシャワーを浴びながら、思考を落ち着かせようと、ここ数分間の出来事を思い返した。
◇◆◇
一瞬、ふわっとした感覚で身体が軽くなったような気がするのは、どうやらエレベーターが6階に到着したかららしい。
ふうっと溜め息をつき、僅かばかりの気合を入れ、残り少ない我が家への一歩を踏み出す……が、その足は二、三歩ばかり進んですぐにまた止まった。
「…何してるんですか？」
「ンんー？」
「コラ！起きろバカ石田！」
「おお〜おだだぁ〜！ おかえり〜」
「“おかえりー”じゃないです！なんでアンタは人の部屋の前で寝てるんですか？」
つま先のちょうど先にあったので、思わず彼の脛のあたりを軽く蹴ってみる。
「ぁ痛っ！ なんだよ、オマエの帰りが遅いからだろぉ」
あくびまじりに理不尽な文句を言われる。
「意味がわかりません！ なんで私の帰りが遅いとアンタが私の部屋の前で寝るんですか！
しかもお鍋なんか抱きしめて…だいたいちゃんと遅くなるからって連絡しておいたじゃないですか！」
「だからだよ…」
「？？」
「晩飯つくった…」
「はい？」
「晩飯つくったから一緒に食べるぞ？ それとももう何か食べてきたか？」
「いいえ、まだ何も食べてないですけど」
「だったらいいだろ」
◇◆◇
はぁ……。
熱いシャワーを浴びながらまた溜め息をついた。
『まぁそこまで言うなら食べてあげます。せっかくの食材を無駄にするのはしのびないですし』
はぁ……。我ながら実に可愛くない。別に、石田に可愛いと思われたいとかそんなんじゃない…はずだけど、それにしても可愛げがない。
でも、これは、その……エレベーターであの時のアイツのことを思い出しちゃって、そうしたらその石田がいきなりウチの前にいて、それで、つい……。
……アイツが私のためにお夕飯を作ってくれたり。
アイツが私のことを抱えて部屋まで連れてってくれたり。
あの亀の人形…ターちゃんでしたっけ？ あの子のキャラでお話したり…。
なんだかアイツのやるとこに全然素直になれない。勇気がないのはいつだって私の方なのかな……。
「あー、ダメだ！」
疲れた身体に熱めのシャワーを浴びて、頭もグチャグチャ。なんだかどっと疲れが出た感じがして、思考を放棄した。
（早くあがって、とりあえず冷たいお水でも飲もう）
浴室のドアを開けると、ふわりと美味しそうな香りが鼻をくすぐった。
◇◆◇
カレーの鍋を火にかけ、くるくると混ぜる。
（あー腹へったなぁ…アイツ、シャワー浴びるの時間かかるのかな…？）
少しずつカレーの香りが立ってくる。
（……ん？シャワー？）
そこで彼は、さっき自分が言った言葉を思い出した。
『先にシャワーでも浴びてこいよ』
別に特別な意味を込めて言ったわけではない。というか、そんな意味を持っている言葉ならきっと意識しすぎて言えるわけがない。
そう、ただただ、カレーを温めておくから、その間にシャワーを浴びて来ればいい…本当にそれだけの言葉だった。
急に、さくらが風呂場にいることを意識してしまい、顔が熱くなる。
（そういえば前に、会社の飲み会早めに切り上げて帰ってきてアイツのバスタオル姿見ちゃったことあったなぁ…）
脳裏にはあの時のさくらの姿が鮮明に浮かんでいた。
「…べっ、別に興味とか…あるわけじゃないし！」
このタイミングでまさかランニングに逃げるわけにもいかない彼は、誰に対するものか分からない言い訳を口にした。
（まさか今日はあんな姿では現れないよな…うん、流石に大丈夫だよな。…いやいやいや、別に期待してるわけじゃないし！違うから！）
気持ちを落ち着けようと、蛇口をひねりコップを半分ほど満たし、そして一気に喉に流し込んだ。
ふぅ…。もう一杯……
再びコップが水で満たされたその時、カレーの鍋を混ぜていたはずの手がすっかりお留守になっていることに気づいた。
「やばっっ！」
思わずコップをテーブルに置き、慌てて火を弱める。お玉で確認してみたが、幸いまだ鍋底も焦げ付いてはいないようだった。
◇◆◇
「あ、いい匂い」
シャワーを終え浴室から出たさくらはしばし忘れていた自らの空腹に気がついた。
思わずいつもそうしているようにバスタオルを巻いただけの格好で部屋に行きかけたが、流石にそれはマズいと思いとどまった。
（そういえば前、お風呂あがりにゆっくりしてたところに遅くなるって言ってたはずの石田が帰ってきて……）
さくらはいつも風呂上がりに着ている軽めの服装に着替えながら思い出していた。
（あの時はアイツ、全然ドキドキしたような素振りも見せずに……っていうか、それはそれでどうなんですかね）
ほぼ無意識に手にしていたのは、派手さはないものの少しばかり大人っぽいキレイ目なデザインの下着と、先日買って洗っておいた新品の部屋着だった。
着替えを終えてダイニングキッチンの方へ向かうと、カレーの匂いに思わず喉がなる。
「いい匂いですね」
「おお、上がったか。もうあとは冷凍してるご飯チンしたら食べられるから」
さくらはテーブルに置いてあったコップの水に目をとめた。
「その前にこのお水もらってもいいですか？」
「ん？ ああ忘れてた。普通に今さっき入れた水道の水だけど別にいいぞ」
コップの水はさほど冷たいわけではないが、すっかり温もった身体には十分に冷たく感じられた。
「ふぅ〜。 …あっ、これ飲むつもりだったやつですか？」
「ん？ まぁそうと言えばそうだけど。一杯飲んでもう一杯と思って入れたところで忘れてたから……」
そこまで言った彼がわずかに口ごもった。
「…悪い。僕が使ったコップだって、ちゃんと言えばよかったな」
「別に、そんなこと……気にしません、から」
お互いの思いと言葉に、二人は温かさや安堵感、照れくささ、むず痒さ…そんな何とも言い難い心地に包まれた。
「……」
「……」
何も言う必要のない空間だと思えるふたりの沈黙を破ったのは電子レンジの温め終了を知らせるメロディーだった。
「あっチキブン」
「ん？ ちきぶん？ ……って何だ？」
「あっ、レンジの音のことです。この前ウチに優樹ちゃんが遊びに来た時にホットミルク作ったんですけど、優樹ちゃんには温めが終わった時のメロディーがチキブンって聞こえたみたいで。チキブ〜ンチキブ〜ン♪って歌ってて、それ以来チキブンにしか聞こえなくなってしまって」
「なるほど、いかにもまーちゃんだな」
「優樹ちゃん、可愛いですよね。ハルくんやあかねちんや真莉愛ももちろんだし、それにちぃちゃんも男の子だけどまだまだ可愛いですし」
「小田にも母性本能？ …ってあるんだな」
「どういう意味ですか、当たり前です！」
お互いにフフッと笑い合ったところで石田クンのお腹が音を立てて夕食を要求した。
◇◆◇
ようやくの遅い夕飯に手を合わせた頃には日付も変わりかけていた。
「…うん、我ながら結構いい出来だな」
「そんなに急いで食べたら消化に悪いですよ？ 時間ももう遅いんですから」
「しょうがないだろ、誰かさんの帰りが遅かったんだから」
「だから前もって連絡したんじゃないですか」
文字にすればいつもと変わらない二人の憎まれ口だが、今日は少しだけいつもとは違う空気が流れていた。
ただ単純に二人の会話を楽しむ二人の姿があった。
「あっ、牛肉」
「どうかしたか？」
「お肉、高かったんじゃありませんか？」
「ん？ まぁ、少しな。でもその分、野菜が安く買えたから」
「そうなんですか？」
「ああ。香音さんが…スーパーで会ったんだけど、商店街の八百屋が安かったって教えてくれて」
さくらは今度香音さんにお礼を言っとかないと…と思いかけたが、自分がお礼を言うのも変な話だと気づき、なんだか可笑しくなった。
「……？」
その様子に石田クンが目線を向けた。
「なんでもないです」
「いや、まだ何にも言ってないし」
「…じゃあ」
「うん？」
「なんでお夕飯作って待ってたんですか？」
「別に？」
「誰に”そそのかされた”んですか？」
「別にそそのかされたわけじゃないけど……まーちゃんに」
「優樹ちゃん？」
「うん。夕方、マンションの玄関のところで小田から電話もらって、晩飯どうしようかなって思ってるところにちょうどまーちゃんとさゆみさんが来て。
で、晩飯のことそう言ったら”あぬみんが作ればいいじゃん”って。さゆみさんが忙しい時とか、田中さんがよくご飯作るんだって。さゆみさんにもそれがいいって言われて」
「それでその気になったんですか？」
「いや……というか、ちょうどさゆみさんたち、出かけるところだったみたいで、それで、途中まで一緒に行こうってまーちゃんに手引っ張られて。それで」
「なるほど、いかにも優樹ちゃんらしいですね」
「うん。 ……でもあれだな、誰かのためにご飯作るのって、まぁ毎日とかだと大変だろうけど、ちょっと楽しいな」
「そうですか」
さくらはなんだか、普段自分が彼のために食事を作っていることを言われたような気がして、妙に恥ずかしくなってしまった。
「だったらまた作ってください」
「お、おお。 まぁその、また気が向いたらな」
二人は、自分たちのちょっとした”未来”の話に気恥ずかしさを感じ、思い出したようにカレーを口に運んだ。
「うん、おいし」
思わず口をついたさくらの一言に、石田クンの頬が緩む。その表情の変化に気づいたさくらが彼の顔を見る。
「な、なんでもないし」
「まだ何も言ってませんよ？」
「……」
「これ、ルーは甘口ですか？」
「あ、ああ。甘口」
「…確か、前にルウ買ってきてもらった時も甘口買ってきてましたよね？」
「あー、そうだったっけ？」
そう答えたが、石田くんには覚えがあった。今年の春だったか、コンビニでルウを買ってくるように頼まれた。
センスがないとかなんとか言っときながら、メーカーも辛さもお任せで。
ずいぶん悩んだ結果、アイツが辛いのがダメだったら嫌だなと思って甘口を買った。
「甘いのが好きなんですか？」
「まぁ、うん」
その返事が肯定でないことは何となくわかった。
「私は中辛とか辛口も好きですけどね」
「…疲れてる時にはちょっと甘いくらいの方がいいんだよ」
ぶっきらぼうに言ったその言葉が彼の本心の一部であることも、もちろんわかった。だからこそ、さくらは精一杯とぼけて返す。
「そんなに疲れてたんですか？」
「…ま、まぁな。あぁーしんどい！」
やわらかな夜、甘口のカレーはどこまでも優しい味がした。
「カレーなるスイートスパイス 〜愛情は後で効いてくるもの〜」（終）
◆◇◆◇◆
おまけの後日談、というか翌日。
この日休みのさくらは昼食の準備をしていた。
ストックしてある冷凍のうどんをレンジで温め、斜め切りにした白ネギとともに出汁つゆに入れ軽く煮込む。
昨日のカレーを入れて、水溶き片栗粉でとろみをつければ出来上がりだ。
テーブルに運び、手を合わせる。つゆが飛び散らないように気をつけながら箸を入れる。
ズルズルッと音を立て一口二口と食べ進める。
ピンポーン
間の悪い玄関チャイムが来客を伝えた。
（せっかくおうどん食べ始めたところなのに…）
仕方なく玄関に向かうと、制服姿の石田クンが立っていた。
「お、お届け物です」
「はい、ご苦労様です」
「…通販か？」
「ええ、この前注文してたやつですね」
「食べ物？」
「残念でした」
「ってかいい匂いだなぁ。昨日のカレーか？」
「カレーうどんにしました」
「マジっ？！」
「マジですけど？」
「小田ァ！ それ頂戴！」
「はぁ？ まだお仕事中じゃないんですか？」
「午前はここがラストで今から昼飯タイムだから大丈夫！」
「は、はあ……」
「カレーはまだたくさんあるだろ？」
「そうですね、誰かさんが炊き出しかってくらい作って持ってきましたから」
「じゃあいいだろ？」
「はいはい、ちゃんと手を洗ってから食べてくださいよ」
結局石田クンは小田ちゃんの食べかけのカレーうどんをすっかり食べてしまいました。
川*ﾟ ゥ ﾟ）＜なになに？カレーうどんシェアしたの？わけわけしたの？ねぇねぇ？
川 ´ﾟeﾟ ﾘ＜えっと…シェアって言うんですかね？
ﾉc|*’∀´)＜いや、強奪しただけだし！
川�鵝� _l＾）＜へぇ〜
川*´◇｀)＜ふぅ〜ん
川o’u’o) ＜ふふふ
川*^ｗ^ﾘ ﾆﾔﾆﾔ
（終）
こんな日はエレベーターっていうものが実に有難いものだとしみじみ思う。
（いっそのことそのまま部屋の前まで運んでってくれたらいいのに…）
なんてちょっとばかりおバカな発想に至ったところで、正面に回したかぼちゃの馬車よろしくエレベーターの扉が開き、疲れた私を迎え入れた。
ボタンを押して6の文字を光らせると、やがて身体にわずかなGがかかる。上へと向かうその箱がどっこいしょと重い腰を上げるかのようだ。
（せっかく重い腰を上げたんだからいっそのこと部屋の前まで運んでって……ってこれ、さっきも考えたやつ…）
私の頭は私の意思とは無関係にぼんやりと考えを巡らせた。
（…そういえばアイツ、お夕飯どうしたんだろう？）
今から一月ちょっと前に、まさに私を抱えて部屋の前まで運んでくれた隣人の“アイツ”が頭をよぎる。
私の胸は私の意思とは無関係にじんわりと熱を帯びた。
あの時のアイツの、私を抱きかかえた腕、密着した胸、心臓の音、目の前にあった瞳の優しさ、首筋の汗、体の熱に、それから……どこか懐かしく美味しそうな匂い………ん！？ 美味しそうな匂い？
私の腹は私の意思とは無関係にいきいきと空腹を主張した。
（お腹空いたなぁ…あぁ、そうだ、お夕飯…どうしよう？）
◆◇◆◇◆
今日は早上がり。まだ日も高い内に帰って来られるのはやっぱり気持ちが良い。そうだ、今日の晩飯は何だろう？
マンションの玄関ロビーに差し掛かったあたりでスマホが着信を知らせた。
「はいもしもし？ …あぁ、なんだオマエか。え？ しょうがないだろ？ 慌てて出たから誰からの着信か見てなかったんだから」
「…そっか、相変わらず忙しいんだなそっちは。あんまりその…む、無理す、すんなよ？」
「ふん！ そうやって言われると思ったから言いたくなかったんだよ、まったく……
まぁいいや。…で？ …いや、オマエの帰りが遅くなるってのは分かったけど、なんで僕にわざわざそれを電話してきたんだ？」
電話の向こうからは盛大な溜め息が漏れていた。
「…うげっ！うわっ！そうだ！今日は晩飯食わせてくれる日じゃんか！えっ？ えぇっ？！ ってことは僕の今日の晩飯はどうなるんだよ？！」
「なんだよ知りませんって…薄情な奴だな」
《薄情って…誰かさんがこの後何時間もひもじい思いをしないでいいように早めに連絡してあげた私を捕まえて薄情とは酷い言い様ですね》
電話の主が向こうで何やら文句を言っているらしいが、そんなことより晩飯の心配だ。さてどうしたものか…。
このまま部屋に帰ってしまって安売りの時に買ってある５食入りの袋ラーメンか何かで済ませるか、それとも多少の出費にはなるがコンビニで何か買うか……
「あぁー！ あぬみーん！」
「あら石田クン、どうしたの難しい顔して？」
◇◆◇
（あとはお肉っと……たしか鶏モモ肉が安くなってたんだろうね）
香音はいつものスーパーで買い物をしていた。
まずは精肉・鮮魚・青果とひと通り店内を一周してみて、お得なものを中心に夕食のメインメニューを考える。
やっぱり今夜は鶏肉がメインかな？ レンコンとゴボウと玉ねぎあたりを一緒に炒めて黒酢で…
「いちだにぃにー！」
鞘師家の本日のメインディッシュが決まりかけたところで、真莉愛が青い服装の石田クンを発見した。
「あらホント、あゆみちゃんじゃん」
真莉愛の声に顔を上げた香音も彼の姿を認めた。
品物と値札を見比べ吟味するその眼はいつにも増して真剣である。
しばらく悩んだ末に彼がカゴに入れたのは、お買得品ではなく通常価格の薄切り牛肉だった。
「今日はフンパツ？」
真莉愛を座らせたショッピングカートをおしながら香音が声をかけた。
「ああ！香音さんに真莉愛ちゃん、こんにちは。お買い物ですか？」
「スーパーでカート押しながらすることなんて買い物のほかにはアイドルの子が写真集の撮影をするくらいしかないんだろうね」
「そっか、たしかにw」
「まぁあれは海外のでっかいスーパーだろうけど。あゆみちゃんこそ、晩御飯のお買い物？」
「え？ …ええ、まあ」
「ちなみに今晩のメニューは？」
「カレーです！」
「かぇーかぇー！」
「真莉愛も大好きなカレーだって、いいねぇ〜」
「そういえば香音さん、真莉愛ちゃん連れてよく小田とカレー食べに行かれてるんですよね？」
「うん、よく行ってるよ？」
「アイツ、どんなカレーが、その…好きなんですか？」
「さくらちゃんの好みねぇ…さくらちゃんはフレンチカレーっていうか、カレーライス派っていうか…
あっ、でもホント色んなカレー屋さん知ってるからなぁ…まぁどちらかっていうと辛いカレーの方が好きかも」
「辛いやつですか？」
「どちらかと言えばね？」
「なるほど！ ありがとうございます！」
「どういたしまして。あ、カレーのお野菜だったら今日は商店街の入り口に近い方の八百屋さんが安かったんだろうね」
◆◇◆◇◆
『先にシャワーでも浴びてこいよ』
アイツの一言にまたドキドキしてしまった。
「…覗かないで下さいね」
さくらは精一杯の悪態をついて、ドキドキを隠すように早足でお風呂場へと向かう。
どうせ他意などあるはずもない…それはわかっているけれど…。
（いやいやいや、これじゃあまるで何かを期待してるみたいじゃないですか！ そんなことないから！）
ちょっと熱めのシャワーを浴びながら、思考を落ち着かせようと、ここ数分間の出来事を思い返した。
◇◆◇
一瞬、ふわっとした感覚で身体が軽くなったような気がするのは、どうやらエレベーターが6階に到着したかららしい。
ふうっと溜め息をつき、僅かばかりの気合を入れ、残り少ない我が家への一歩を踏み出す……が、その足は二、三歩ばかり進んですぐにまた止まった。
「…何してるんですか？」
「ンんー？」
「コラ！起きろバカ石田！」
「おお〜おだだぁ〜！ おかえり〜」
「“おかえりー”じゃないです！なんでアンタは人の部屋の前で寝てるんですか？」
つま先のちょうど先にあったので、思わず彼の脛のあたりを軽く蹴ってみる。
「ぁ痛っ！ なんだよ、オマエの帰りが遅いからだろぉ」
あくびまじりに理不尽な文句を言われる。
「意味がわかりません！ なんで私の帰りが遅いとアンタが私の部屋の前で寝るんですか！
しかもお鍋なんか抱きしめて…だいたいちゃんと遅くなるからって連絡しておいたじゃないですか！」
「だからだよ…」
「？？」
「晩飯つくった…」
「はい？」
「晩飯つくったから一緒に食べるぞ？ それとももう何か食べてきたか？」
「いいえ、まだ何も食べてないですけど」
「だったらいいだろ」
◇◆◇
はぁ……。
熱いシャワーを浴びながらまた溜め息をついた。
『まぁそこまで言うなら食べてあげます。せっかくの食材を無駄にするのはしのびないですし』
はぁ……。我ながら実に可愛くない。別に、石田に可愛いと思われたいとかそんなんじゃない…はずだけど、それにしても可愛げがない。
でも、これは、その……エレベーターであの時のアイツのことを思い出しちゃって、そうしたらその石田がいきなりウチの前にいて、それで、つい……。
……アイツが私のためにお夕飯を作ってくれたり。
アイツが私のことを抱えて部屋まで連れてってくれたり。
あの亀の人形…ターちゃんでしたっけ？ あの子のキャラでお話したり…。
なんだかアイツのやるとこに全然素直になれない。勇気がないのはいつだって私の方なのかな……。
「あー、ダメだ！」
疲れた身体に熱めのシャワーを浴びて、頭もグチャグチャ。なんだかどっと疲れが出た感じがして、思考を放棄した。
（早くあがって、とりあえず冷たいお水でも飲もう）
浴室のドアを開けると、ふわりと美味しそうな香りが鼻をくすぐった。
◇◆◇
カレーの鍋を火にかけ、くるくると混ぜる。
（あー腹へったなぁ…アイツ、シャワー浴びるの時間かかるのかな…？）
少しずつカレーの香りが立ってくる。
（……ん？シャワー？）
そこで彼は、さっき自分が言った言葉を思い出した。
『先にシャワーでも浴びてこいよ』
別に特別な意味を込めて言ったわけではない。というか、そんな意味を持っている言葉ならきっと意識しすぎて言えるわけがない。
そう、ただただ、カレーを温めておくから、その間にシャワーを浴びて来ればいい…本当にそれだけの言葉だった。
急に、さくらが風呂場にいることを意識してしまい、顔が熱くなる。
（そういえば前に、会社の飲み会早めに切り上げて帰ってきてアイツのバスタオル姿見ちゃったことあったなぁ…）
脳裏にはあの時のさくらの姿が鮮明に浮かんでいた。
「…べっ、別に興味とか…あるわけじゃないし！」
このタイミングでまさかランニングに逃げるわけにもいかない彼は、誰に対するものか分からない言い訳を口にした。
（まさか今日はあんな姿では現れないよな…うん、流石に大丈夫だよな。…いやいやいや、別に期待してるわけじゃないし！違うから！）
気持ちを落ち着けようと、蛇口をひねりコップを半分ほど満たし、そして一気に喉に流し込んだ。
ふぅ…。もう一杯……
再びコップが水で満たされたその時、カレーの鍋を混ぜていたはずの手がすっかりお留守になっていることに気づいた。
「やばっっ！」
思わずコップをテーブルに置き、慌てて火を弱める。お玉で確認してみたが、幸いまだ鍋底も焦げ付いてはいないようだった。
◇◆◇
「あ、いい匂い」
シャワーを終え浴室から出たさくらはしばし忘れていた自らの空腹に気がついた。
思わずいつもそうしているようにバスタオルを巻いただけの格好で部屋に行きかけたが、流石にそれはマズいと思いとどまった。
（そういえば前、お風呂あがりにゆっくりしてたところに遅くなるって言ってたはずの石田が帰ってきて……）
さくらはいつも風呂上がりに着ている軽めの服装に着替えながら思い出していた。
（あの時はアイツ、全然ドキドキしたような素振りも見せずに……っていうか、それはそれでどうなんですかね）
ほぼ無意識に手にしていたのは、派手さはないものの少しばかり大人っぽいキレイ目なデザインの下着と、先日買って洗っておいた新品の部屋着だった。
着替えを終えてダイニングキッチンの方へ向かうと、カレーの匂いに思わず喉がなる。
「いい匂いですね」
「おお、上がったか。もうあとは冷凍してるご飯チンしたら食べられるから」
さくらはテーブルに置いてあったコップの水に目をとめた。
「その前にこのお水もらってもいいですか？」
「ん？ ああ忘れてた。普通に今さっき入れた水道の水だけど別にいいぞ」
コップの水はさほど冷たいわけではないが、すっかり温もった身体には十分に冷たく感じられた。
「ふぅ〜。 …あっ、これ飲むつもりだったやつですか？」
「ん？ まぁそうと言えばそうだけど。一杯飲んでもう一杯と思って入れたところで忘れてたから……」
そこまで言った彼がわずかに口ごもった。
「…悪い。僕が使ったコップだって、ちゃんと言えばよかったな」
「別に、そんなこと……気にしません、から」
お互いの思いと言葉に、二人は温かさや安堵感、照れくささ、むず痒さ…そんな何とも言い難い心地に包まれた。
「……」
「……」
何も言う必要のない空間だと思えるふたりの沈黙を破ったのは電子レンジの温め終了を知らせるメロディーだった。
「あっチキブン」
「ん？ ちきぶん？ ……って何だ？」
「あっ、レンジの音のことです。この前ウチに優樹ちゃんが遊びに来た時にホットミルク作ったんですけど、優樹ちゃんには温めが終わった時のメロディーがチキブンって聞こえたみたいで。チキブ〜ンチキブ〜ン♪って歌ってて、それ以来チキブンにしか聞こえなくなってしまって」
「なるほど、いかにもまーちゃんだな」
「優樹ちゃん、可愛いですよね。ハルくんやあかねちんや真莉愛ももちろんだし、それにちぃちゃんも男の子だけどまだまだ可愛いですし」
「小田にも母性本能？ …ってあるんだな」
「どういう意味ですか、当たり前です！」
お互いにフフッと笑い合ったところで石田クンのお腹が音を立てて夕食を要求した。
◇◆◇
ようやくの遅い夕飯に手を合わせた頃には日付も変わりかけていた。
「…うん、我ながら結構いい出来だな」
「そんなに急いで食べたら消化に悪いですよ？ 時間ももう遅いんですから」
「しょうがないだろ、誰かさんの帰りが遅かったんだから」
「だから前もって連絡したんじゃないですか」
文字にすればいつもと変わらない二人の憎まれ口だが、今日は少しだけいつもとは違う空気が流れていた。
ただ単純に二人の会話を楽しむ二人の姿があった。
「あっ、牛肉」
「どうかしたか？」
「お肉、高かったんじゃありませんか？」
「ん？ まぁ、少しな。でもその分、野菜が安く買えたから」
「そうなんですか？」
「ああ。香音さんが…スーパーで会ったんだけど、商店街の八百屋が安かったって教えてくれて」
さくらは今度香音さんにお礼を言っとかないと…と思いかけたが、自分がお礼を言うのも変な話だと気づき、なんだか可笑しくなった。
「……？」
その様子に石田クンが目線を向けた。
「なんでもないです」
「いや、まだ何にも言ってないし」
「…じゃあ」
「うん？」
「なんでお夕飯作って待ってたんですか？」
「別に？」
「誰に”そそのかされた”んですか？」
「別にそそのかされたわけじゃないけど……まーちゃんに」
「優樹ちゃん？」
「うん。夕方、マンションの玄関のところで小田から電話もらって、晩飯どうしようかなって思ってるところにちょうどまーちゃんとさゆみさんが来て。
で、晩飯のことそう言ったら”あぬみんが作ればいいじゃん”って。さゆみさんが忙しい時とか、田中さんがよくご飯作るんだって。さゆみさんにもそれがいいって言われて」
「それでその気になったんですか？」
「いや……というか、ちょうどさゆみさんたち、出かけるところだったみたいで、それで、途中まで一緒に行こうってまーちゃんに手引っ張られて。それで」
「なるほど、いかにも優樹ちゃんらしいですね」
「うん。 ……でもあれだな、誰かのためにご飯作るのって、まぁ毎日とかだと大変だろうけど、ちょっと楽しいな」
「そうですか」
さくらはなんだか、普段自分が彼のために食事を作っていることを言われたような気がして、妙に恥ずかしくなってしまった。
「だったらまた作ってください」
「お、おお。 まぁその、また気が向いたらな」
二人は、自分たちのちょっとした”未来”の話に気恥ずかしさを感じ、思い出したようにカレーを口に運んだ。
「うん、おいし」
思わず口をついたさくらの一言に、石田クンの頬が緩む。その表情の変化に気づいたさくらが彼の顔を見る。
「な、なんでもないし」
「まだ何も言ってませんよ？」
「……」
「これ、ルーは甘口ですか？」
「あ、ああ。甘口」
「…確か、前にルウ買ってきてもらった時も甘口買ってきてましたよね？」
「あー、そうだったっけ？」
そう答えたが、石田くんには覚えがあった。今年の春だったか、コンビニでルウを買ってくるように頼まれた。
センスがないとかなんとか言っときながら、メーカーも辛さもお任せで。
ずいぶん悩んだ結果、アイツが辛いのがダメだったら嫌だなと思って甘口を買った。
「甘いのが好きなんですか？」
「まぁ、うん」
その返事が肯定でないことは何となくわかった。
「私は中辛とか辛口も好きですけどね」
「…疲れてる時にはちょっと甘いくらいの方がいいんだよ」
ぶっきらぼうに言ったその言葉が彼の本心の一部であることも、もちろんわかった。だからこそ、さくらは精一杯とぼけて返す。
「そんなに疲れてたんですか？」
「…ま、まぁな。あぁーしんどい！」
やわらかな夜、甘口のカレーはどこまでも優しい味がした。
「カレーなるスイートスパイス 〜愛情は後で効いてくるもの〜」（終）
◆◇◆◇◆
おまけの後日談、というか翌日。
この日休みのさくらは昼食の準備をしていた。
ストックしてある冷凍のうどんをレンジで温め、斜め切りにした白ネギとともに出汁つゆに入れ軽く煮込む。
昨日のカレーを入れて、水溶き片栗粉でとろみをつければ出来上がりだ。
テーブルに運び、手を合わせる。つゆが飛び散らないように気をつけながら箸を入れる。
ズルズルッと音を立て一口二口と食べ進める。
ピンポーン
間の悪い玄関チャイムが来客を伝えた。
（せっかくおうどん食べ始めたところなのに…）
仕方なく玄関に向かうと、制服姿の石田クンが立っていた。
「お、お届け物です」
「はい、ご苦労様です」
「…通販か？」
「ええ、この前注文してたやつですね」
「食べ物？」
「残念でした」
「ってかいい匂いだなぁ。昨日のカレーか？」
「カレーうどんにしました」
「マジっ？！」
「マジですけど？」
「小田ァ！ それ頂戴！」
「はぁ？ まだお仕事中じゃないんですか？」
「午前はここがラストで今から昼飯タイムだから大丈夫！」
「は、はあ……」
「カレーはまだたくさんあるだろ？」
「そうですね、誰かさんが炊き出しかってくらい作って持ってきましたから」
「じゃあいいだろ？」
「はいはい、ちゃんと手を洗ってから食べてくださいよ」
結局石田クンは小田ちゃんの食べかけのカレーうどんをすっかり食べてしまいました。
川*ﾟ ゥ ﾟ）＜なになに？カレーうどんシェアしたの？わけわけしたの？ねぇねぇ？
川 ´ﾟeﾟ ﾘ＜えっと…シェアって言うんですかね？
ﾉc|*’∀´)＜いや、強奪しただけだし！
川�鵝� _l＾）＜へぇ〜
川*´◇｀)＜ふぅ〜ん
川o’u’o) ＜ふふふ
川*^ｗ^ﾘ ﾆﾔﾆﾔ
（終）
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