ヘキサグラム
春一番が吹いた。
こうやって、日々なんてことのない時間をうしろに送り続けていると、ときどき自分が何かの小説の中に閉じ込められた人間のように思えてくる。
本を開けば、そこにはいつもと同じ文章が書かれてあって、登場人物は決められた会話を繰り広げる。
同じ暗示に、同じ伏線。同じ衣装に、同じ笑顔。
最初に読んだ時のあの胸を締めつける感じはもうないけれど、少しずつ麻痺していく感覚が今度は感傷性を纏って私の中に降り積もっていく。
造花の桜吹雪みたいに、それは決して朽ち果てることはない。
「道重さん、お待たせしました」
髪を染め、白いイヤリングをつけた彼女は初めて見たときよりもずっと大人びていて、ずっと洗練されている。
イヤリングの色と合った白い上品なワンピースの裾を風に靡かせ、譜久村聖は小さく頭を下げた。
私は「フクちゃん、久しぶり」と笑顔を投げかけ、「大人っぽくなったね」と目を丸くしてみせた。
そんなことを口にすると、まるで自分がひどく歳をくったように思えるけれど、それは私の勝手な思い過ごしなどではなく、たしかに、現実的に私は歳をくっているのだ。
たとえ日々が同じ一節の繰り返しだとしても、ページをめくる度に時間は目の前を通り過ぎてゆく。
コーヒーカップを持ち上げ、口をつける。そういうふうにして、いつの間にか時間が過ぎてゆくんだろう。
「久しぶりって言っても、先月会いましたよね」
「そうだっけ？」
「ほら、優樹ちゃんが商店街の福引で豪華鍋セット当てて、鍋パーティーして……」
「あぁ、そっか。さゆみは鍋パ行けなかったけど、フクちゃんがおすそ分けでカニ持って来てくれたっけ」
あのカニは結局、市販の「鍋の素」とその辺のスーパーで買った野菜とで、鍋にして食べた。録画していたお笑い番組を見ながら、ひとりで楽しく。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「いえいえ。優樹ちゃんが、どうしても持って行かせようとするんです。自分で持って行けばいいのに、なんか照れちゃったみたいで」
「まーちゃんらしい。でも、ああいう福引って、さゆみ当てたことないんだよね」
「私もいつもポケットティッシュばっかりです」
「なんていうか、持っている子って、やっぱり持っているんだね」
「不思議ですよね。でも、優樹ちゃんの場合、当たるのがあたり前みたいな感じ」
「人生、得だよねー」
「ですねー」
譜久村聖と佐藤優樹は中高と同じ学校に通い、先輩後輩の関係にあたる。
学年は２つ離れていたから実際の絡みは多くないはずなのに、どうしてかとても仲が良さそうだった。
譜久村聖（フクちゃん）はよく「あの手のかかる後輩が―」と私に話していたが、そんな話を聞く度に私はフクちゃんを憐れまずにはいられなかった。
私自身、佐藤優樹（まーちゃん）と接するようになり、なぜか強烈な懐かれ方をするようになってからは、彼女の持つ野生児的なパワーに振り回されることもしばしばだった。
私は「じゃあ、いこっか」と声をかけ、そしてフクちゃんを助手席に乗せると、駅に向かって車を走らせた。
私とフクちゃん、それからまーちゃんの関係性を説明するのは少しだけ骨が折れる。
私が大学生の頃にアルバイトをしていた家庭教師の生徒がフクちゃんで（彼女は当時まだ中学生だった）、ここまでは非常に話が簡単なのだけれど、そこから先はやや込み入った事情があった。
まーちゃんとの関係性は、フクちゃんの後輩とだけ考えれば、これもまた非常にわかりやすいけれど、彼女がフクちゃんの後輩になる前から、私たちには微妙な関わり合いがあった。
いずれも「運命的な」というほどではないにせよ、しかしながら年の差のある私たちがこうして関係性を保っているのは、きっとそこに不可思議な結びつきが張り巡らされているからだろう。
私はよく昔のことを思い出す。
そもそもは私が高校生のときの話が発端だ。いや、発端と言うよりは根幹と言った方がより正確な表現になるだろうか。
どんな綺麗な花を咲かせる植物にも根っこはあり、ときどきその根っこには毒があったりする。
その毒は少しずつ身体を蝕み、気づかないうちに私の血液を毒液に変えてしまう。
だから、私は血を流すことはもうできない。
私から流れ出た赤い液体が、ほかの誰かに触れたとき、その相手をも私の毒に感染させてしまうからだ。
大学時代の私はその持病＝毒に侵された身体を隠し、平穏に過ごそうと決めていた。
高校時代のことはできるだけ考えないようにした。
考えるとしても、それは一人きりの孤独な夜に少し部屋を静かにして「想う」だけで、私の周りに広がる社会（それは世間知らずの大学生の周りに広がる小さな世界にしか過ぎなかったけれど、たしかに一つの社会ではあった）に対しては、私は常に大人しい健常者を装った。
まるで、その花言葉の意味通りのシクラメンのように。根に毒を抱えながら。
「道重さんは、リホちゃんには全然会ってないんですか？」
信号待ちの間に、フクちゃんはさりげなく私に尋ねてきた。うん、全然会ってないな。
連絡も取ってない―うん―じゃあ、３年ぶりくらいですか―そうだね。
信号が青に変わり、私はまた軽自動車を駅に向かって走らせる。
ラジオからは新生活に対する不安を抱えたリスナーのメールを読み上げるDJの声が聞こえてきた。
DJの女性は何よりも早くに、リスナーへの共感を示し、８割の同意と２割の警告を与える。
ラジオDJの専門学校では、この比率が黄金率であると習うのかもしれない。
私は、そんなことを漠然と頭に思い描きながら、久しぶりのリホリホとの再会についてはできるだけ考えないようにしていた。
考えたところでどういう顔をして会ったらいいか、わかる訳もないのだから。
鞘師里保を駅に迎えに行く。私の役目はただそれだけのはずだった。
鞘師里保（リホリホ）は県外の大学に進学し、今日は久しぶりの帰省ということだった。
いつもなら彼女のご両親が駅まで迎えに行くのだけれど、生憎今日は二人とも仕事があるらしい。当然だ。大学生はすでに春休み期間かもしれないが、今日は平日だった。
私の職場はたまたま土日出勤がある不定休の職場で、さらに偶然なことにリホリホが帰省してくる日は私が休みの日だった。
フクちゃんがリホリホと連絡を取り、迎えがないという事情を聞き、そしてたまたま私がその事情を知るに至った。
どのような経緯で私がその事情を知るに至ったか。まーちゃんからスタンプだけのメッセージがスマホに送られてきて、私は何の気なしにトーク画面を開いた。
開いてから「あっ。しまった」と小さく声を漏らしたが、時はすでに遅く、私からの＜既読＞のついたことを確認したまーちゃんからすぐに電話がかかってくる。
そして、「ふくぬらさんと一緒にやっさんを迎えに行ってください。ほら、ふくぬらさんからも頼んでください」と甲高い声がスピーカーから漏れてきた。
「提案した本人が来ないってどういうことだろうね」
私が苦笑い混じりにそう言うと、フクちゃんも「ですよね」と私よりも苦みの強い笑みを浮かべて答えた。
そりゃそうだ。年上の相手に無理やり、自分の同級生の送迎をさせるのだから。
とは言え、今のまーちゃんは何かと忙しい身だろうし、仕方がないと言えば仕方のないことかもしれない。
ちなみに、フクちゃんとリホリホは高校の同級生で、私が個人的にリホリホと知り合ってからしばらくするまでは、フクちゃんと彼女が同級生であるということも私は知らなかった。
私がリホリホと知り合った頃、私はすでに大学を卒業して、家庭教師のアルバイトも辞めていた。
駅前のロータリーに車を止めて、窓の外で街路樹を撫ぜる春一番に目を細めている。
ラジオは短い曲フリに入り、そしてイントロに重なるように曲名が告げられる。「あの日に戻りたい」。2人組の女性ユニットの織りなす甘い歌声。「春なのに……」と柔らかい陰影に包まれた歌詞が、今の季節にぴったりだった。
私とフクちゃんは特に会話も無く、それぞれ別の情景を思い浮かべながらラジオから流れる音楽に耳を傾けていた。
窓から差し込む陽射しが温かい。暖房を少し弱くする。
曲の中盤で助手席側の窓から、電車がホームに到着する様子が見えた。何人かの人が降りてくるが、リホリホの姿は見つけられなかった。
この列車ではなかっただろうか？
フクちゃんとそんなようなことを口にして、なおも駅の方に目を向けていると、曲が終わる前にリホリホが駅の階段を降りてくるのが見えた。
重たそうなスーツケースを両手で持ち上げ、一段々々足元を確かめるように降りる姿が、どこか子供っぽく、私は心の中で「転ばなきゃいいけど」と呟く。
フクちゃんは「あぁ、落ちないでね」と実際に小さく声に出していた。何かにつけてよく転ぶ子だった。
リホリホが東京に行くと知ったときも、真っ先に思ったのは「東京駅の階段で転ばなければいいけど」ということだった。
「お久しぶりです」
下ろした助手席の窓から、リホリホが小さくお辞儀をしてくる。
前髪を流して、黒色のブラウスに色褪せたブルージーンズ。ブラウスの袖はシースルーになっていて女性的だったが、それにラフなジーンズを合わせるというスタイルがどこか都会っぽさを感じさせる。
「後ろのトランクに荷物入れて」
「あ、はい。ありがとうございます」
リホリホがスーツケースを載せ、後ろの席に乗り込むのを待って、私は車のエンジンを入れる。
「長旅お疲れさま」私は後部座席に声をかける。
「ずっと寝てただけなんで、疲れてはないですよ」リホリホは笑いながら言う。
「リホちゃん、どこでも眠れるもんね」フクちゃんも笑いながら言った。
車を発進させて、とりあえず行きつけのイタリアンレストランへと向かった。
「道重さんの車に乗るの初めてです」
「あれ、そうだっけ？」
「いつから乗ってるんですか？」
「いつからだっけね」私はフクちゃんに視線を向けて、尋ねてみる。
「2年前とかですかね。まぁ、私も乗せてもらったのは数回ですけど」
「みんな最初は私が車を運転することに反対してたの。お前は、ぜったい事故る、って。酷いと思わない？」
「まぁ、ちょっとだけわかるような気はしますね」
リホリホは悪戯っぽい笑顔で言う。
フクちゃんも首を傾げながら小さく頷くので、私はあからさまに溜息を吐いた。3人の笑い声がラジオの音をかき消す。
ものの5分でレストランに着き、予約していた席に案内してもらう。
リホちゃんはここ初めて？とフクちゃんが尋ねるが、リホリホは首を横に振る。「何回か道重さんと一緒に」。
素っ気なく答えるリホリホの表情はどこか強張っていて、一瞬私と視線が交錯する。「ふうん」とフクちゃんは無関心を装って椅子に腰かけるが、私とリホリホの態度に何かを感じている様子だった。
何種類ものオリジナルのパスタが美味しいお店だったので、それぞれメニュー選びに時間がかかる。
ようやく全員のメニューが決まり、注文を終えると、フクちゃんがお手洗いに席を立った。
目の前には大人びたリホリホただ1人（なぜか少しだけ緊張する）。愛らしい口元は昔のままだったけれど、目元の涼し気な感じはより強まり、何よりも長く流した前髪が大人っぽさを演出していた。
喋り方も少し落ち着いたかもしれない。まぁ、喋り方に関しては、久しぶりの再会に、お互いまだ少し緊張しているということもあるだろうか。
「久しぶりだね、リホリホ」
「ご無沙汰していました」
「そんなにかしこまらないでよ」
「私も少しは大人になったんです」
「うん。本当に大人びたよね」
「なんでちょっとがっかりした感じなんですか」
「がっかりなんてしてないの。ただちょっと寂しくなっただけ」
こういう言い方をすると犯罪者めいて聞こえるが、私は小さな子が好きだ。
幼稚園児とか小学生とか、まぁ、中学生とかも。リホリホとは何度かそういう話をしたことがあったし、だからこそ、リホリホはそういうからかい方をしたんだろう。
けれど、私がリホリホのことを好いている理由と、小さな子が好きだという事実はリンクしているようで、どこかリンクしていない。
コップの中、水に浮かぶ氷のように、それは見た目としてははっきりとした境界線を持ちながらも、哲学的には曖昧な境界線を持った設問だった。
「今日はお仕事お休みだったんですか？」リホリホが聞いてくる。
「そう。土日働いたご褒美……って言われるけど、ご褒美でも何でもなくてそういう勤務体系なだけ」
「社会人はやっぱり大変なんですね」
リホリホの言葉に「うん、まぁね」と返して私は少し考える。
わざわざ言うことではないのだろうな、と思いながらも会話の隙間を埋めるように私はつい口を開いて、昔の謝罪をしてしまう。
「そういえば連絡、返さなくてごめんね。せっかく、リホリホ連絡くれたのに」
「連絡……あぁ、それってもう1年とか2年とか前の話じゃないですか」
「あのときは色々とバタバタしてて……」
「フクちゃんから聞きましたよ。もうあの公民館辞めちゃったんですね」
「辞めるというか、公務員なんていずれ異動するものだから」
「でも、その公務員だって」
「さゆみにはもともとあんまり向いてなかったの。さゆみはどんなところに行ってもある程度やっていける自信はあって、だから異動の多い公務員になってみたんだけど、でもそれが間違いだった。同じところに腰を落ち着ける方が、さゆみに向いてた」
「今は駅南の図書館で働いているんでしたっけ？」
「そう。異動もないし、あんまり変わり映えもしないけど、比較的平和に過ごしているよ」
私は笑って見せる。私の言葉には若干の嘘が混じっていたけれど、時と場合によってはある程度の嘘も仕方のないことだった。
私の血が毒に侵されていることが知られてしまったら、みな私を遠ざけ、すぐに遠くへ消え去ってしまうだろう。あるいは、その毒を分かち合い、一緒に腐り果てるか。
私はお手洗いの方をちらっと見やる。まだフクちゃんが戻って来る様子はない。
「ねぇ、リホリホ。１つだけ聞いておきたかったんだけど」
「はい」
「フクちゃんは、さゆみとリホリホのことどれくらい知ってるの？」
「私からは何も話してないです。あの公民館でお世話になっていたお姉さんみたいな人としか」
「そう」
でも、たとえリホリホが何も話していなくても、フクちゃんが実際にどう思っているかまではわからない。
とは言え、リホリホが何も言っていないのであれば、きっと本当のことまでは辿り着かないだろう。
フクちゃんは上品で常識的な家庭で育ってきた。思いやりのある子だったから、人のことはよく見ているけれど、非常識的な話には疎いはずだった。
そう、フクちゃんはまさに今日着てきたワンピースのように純白な心を持っている。
私やかつてのリホリホが抱いていた鬱屈とした想いに対しては、何かを感じこそすれ、そこに確かな意味を見出すことはできないだろう。
私はその純白さを羨ましく思う。そういう意味では、まーちゃんも純白な心の持ち主だった。リホリホだって、本来はそんな純白の心を持っている子だ。
ただ周囲の期待や、彼女の責任感の強さがその純白の心を踏みにじっただけで、彼女はそんな風に踏みにじられたときですら笑顔を振りまいていた。
逃げたのではなく、自ら決断をしたのだと周囲にアピールする姿に当時の私は胸を締め付けられたものだ。
「私も道重さんに聞きたいことがあったんです」
「なに？ なんでも聞いて？」
「道重さんは、亀井さんっていう方をご存知ですか？」
「えっ――」
そのときフクちゃんがこちらに戻って来るのが見えた。私は居住まいを正し、コップの水を飲む。冷たさが少しだけ心を落ち着かせてくれる。
リホリホも何かを察したように先ほどの話題を切り上げて、そこからは至極普通の近況報告をしあった。
フクちゃんは来月には地元の大学の４年生になり、いま現在は就職活動に勤しんでいる。
私は自分が公務員試験を受けたときの話と、図書館に転職したときの話をして、さらに自己PRのコツについて色々と言って聞かせると、フクちゃんは「私には就活無理かもしれません」とうなだれてしまった。
「まぁ、そんな気負わないでも大丈夫だって」と私は励まし、「結局、熱意と誠実さが伝わればいいんだから。
御社に採用されるために私はこんなに頑張りましたよ、って態度で示すの。そのために企業研究とか面接練習をしっかりやっておく。
そういう努力はちゃんと伝わるし、フクちゃんの人柄なら絶対大丈夫」と肩を叩いた。
パスタが届き、口々に「美味しい」と感想を言い合いながら、またお喋りが始まる。
リホリホはフクちゃんと同学年だったが、ダンスに打ち込むために大学を1年間休学していたこともあり、フクちゃんの就活の話はどうも実感が湧かないみたいだった。
それに、そもそもリホリホはダンスで生きていくことを決めていた。「ダンサーとして、っていうのは難しいかもしれないです」とリホリホは言う。
私などは安直に「じゃあ、アイドルとかやってみれば？」と提案してみるが、リホリホは笑いながら首を横に振り、「歌うのは苦手なんです」と答える。
何度か一緒にカラオケに行ったことがあるけれど、リホリホは私より何十倍も歌が上手かった。
私がそう言おうとしているのを察してか、彼女は一足早く、「たしかに道重さんよりは上手く歌えるかもしれませんけど」と茶化してくる。「失礼しちゃうわぁ、ほんと」。
「ギターはもう弾いてないの？」フクちゃんがリホリホに尋ねる。
「たまに気晴らしで弾いたりするけど」リホリホは目を細めながら言う。「指の皮がすっかり薄くなっちゃったから、難しくて長いのはあんまり」
「あれはもう弾かない？」
「ソルの主題による変奏曲？」
「そう、それ。相変わらず覚えにくい名前だね」
「クラシックなんだから仕方ないじゃん」
「でも、さっき聞いたばかりなのにもうどんな曲名だったか思い出せないよ。ソルってのだけは覚えたけど」
「それでいいよ。フクちゃんが言えば、それでわかるから」
「ありがと。あ、それでそのソルはもう弾かないの？」
「弾けないよ、あんな難しいの」
私がその「ソルのなんちゃら」という曲が思い出せないでいると、フクちゃんが「あの公民館でリホちゃんが弾いてくれたやつですよ。私たちが高校3年生になる春休みに」と教えてくれた。
あぁ、あの曲か。あれはたしかに凄かった。
リホリホはもともとクラシックギターをずっと習っていて、コンクールで賞を取ったりするくらいには優秀なギタリストだったそうだ。
しかし、私がそのことを知ったのは、リホリホと出会って1年近くも経った後のことだった。
彼女は当初、単なる勉強スペースとして私が勤めていた公民館によく訪れていた。
そのうちに、ときどき体育館でダンスの練習もするようになり、バレエレッスンで使っている鏡をいつも貸し出していたから、そこで私とリホリホは言葉を交わすようになった。
彼女はいつも1人で鏡を借りていき、1人で踊る。
体育館を予約するようなことはなく、予約の入っていない時間帯に、小学生がボール遊びや縄跳びをしている横で勉強の気晴らしに踊っているという感じだった。
だから、リホリホが体育館の予約をしたいと言って来たときは少し驚いたのを覚えている。
リホリホは、少し恥ずかしそうに「予約したいんですけど」と言った。私と目を合わせられないといった感じの仕草がとても可愛らしい。
今すぐでも抱きしめたい衝動に駆られたけれど、さすがにそうするわけにもいかない。私はそうは言っても、いっぱしの公務員なのだ。
「ダンスの練習？」私はためしに聞いてみる。
リホリホは首を横に振り、「ちょっと学校の友達と後輩に頼まれて」とだけ答える。
「ちゃんと使用用途を明かさないと予約させるわけにはいかないなぁ」
私がそう言うと、あれだけ目を合わせるのを恥ずかしがっていたリホリホが驚いたようにぱっとこちらを見上げ、いつぞやの消費者金融のCMに出てきたチワワみたいに潤んだ瞳を見せつけてくる。
私は「しかたないなぁ」という言葉を何とか喉元に押し留め、リホリホが訳を説明するのを待った。
「はぁ」リホリホの溜息。
「私、実はずっとクラシックギターをやっていて」
「え、初耳なんだけど」
「小さい頃から習い事でやっていたんですけど、あまりクラシックギターってやってる人って多くなくて、いつの間にかコンクールとかで優勝とかしちゃってて」
「なんか、すごい天才の人みたいだね……いや、実際天才なのか」
「そんなことないんです。本当にやってる人が少ないだけなんです。オーケストラとかにもギターってほとんど入り込むことないですし。
ただ、親心としては子供がコンクールで優勝とかしたら、『この子には才能があるんじゃないか？』とか思っちゃうじゃないですか。
だから、結構しっかりとレッスンとか受けさせられてて……大学も音大に行ったらいいじゃないかみたいに言われてて」
「なんか本当は別世界の人だったんだね。ちょっと寂しい」
「ぜんぜん、別世界なんかじゃないです。音大だって行けるのかどうかわからないですし、それにそもそも私の本心としては音大なんて行きたくないんです」
「どうして？ コンクールとかで優勝してたら、音大にも楽勝で行けるんじゃないの？」
「私、ギターよりもダンスをしたいんです」
一瞬だけだが、リホリホの瞳に強い光が宿るのが見えた。
たしかに、ときどき体育館で踊っているリホリホはとても楽しそうで、生き々きとしていた。私はダンスのことなんてほとんどわからなかったけど、彼女が踊っている姿はまるで燃え盛る焚火の炎のように見えた。
人間は生存競争における遺伝子の淘汰により、元来、火というものを愛する性質が備わっている、というようなことを何かの本で読んだことがある。
だから、暖炉の火や焚火をいつまでも眺めていられるのだ、と。リホリホのダンスには何かそういった遺伝子レベルで心を惹きつけるものがあった。
それは私だけの勝手な思い過ごしなどではなく、縄跳びをしていた小学生も、バレーの個人練習に励んでいたおばさんも、リホリホが踊るのを我も忘れて眺めているということがあった。
彼らはふと我に返ると、それぞれの活動に戻ったが、それでもまだリホリホのことが気になるみたいで、ちらちらと彼女の方を盗み見たりしていた。
「そういうわけで、私、進路に悩んでいて」リホリホは恥ずかしそうに声のボリュームを落として口を開いた。
「それで友達に相談したんです。そしたら、友達が私のギターを聴きたいって言い出して。だから、この公民館の体育館でちょっと弾かせてもらおうかな、と」
「その友達にも、リホリホがギターをやってたことは言ってなかったの？」
「言ってはいなかったんですけど」そう言いながら、リホリホは私に両手を裏返しにして、その小さく愛おしい手の甲を見せてきた。
「右手の爪は長くて、左手の爪は短いですよね？」
私はじっとリホリホの爪を見つめる。確かに、詰めの長さが左右でぜんぜん違った。1年もリホリホとは一緒にいたのに、まるで気がつかなった。女子失格だな、と思う。
「ギターをやっていると、どうしても弦を弾く右手は爪を長くしなきゃいけないんですけど、反対に左手は弦を押さえるために短くする必要があるんです。
その友達は、それをずっと不思議に思ってたみたいなんですけど、私が何も言わなかったから、聞かないようにしてたみたいなんです。変に気をつかっちゃう子で」
「さゆみだったら何の気なしに聞いちゃうな」
「道重さんはぜんぜん気づいてすらなかったですもんね」
「ごめんね。さゆみ、こう見えて自分にしか興味ないタイプの人間だから」
「あはは。その割に色んなところに気を配っている感じもするんですけどね」
「ぜんぶ自分を守るための気配りだからね。でも、おかげ様で今度からは他人の爪にも気を配らなきゃいけないことを学びました。こうして私が生きる世界はどんどん息苦しくなっていくのです」
「ごめんなさい。別に責めるつもりはなかったんですよ？ ただ私がギターをやっていたことを証明したかっただけで」
「わかってる、わかってる。意地悪してごめんね。で、その友達はリホリホがギターをやってるってのを知って、聴かせてよ、って言い出したわけね」
「その辺のデリカシーはなかったわけです。人間って不思議ですよね」
「もしかしたら、その友達はリホリホが何か中二病的なノリで、左右で爪の長さを変えてると思ってたのかも」
「まさか」
「でも、万が一にそういう痛い可能性があったから何も言えなかったけど、ギターをやっているせいだってわかって安心したんじゃないかな。それで、つい気分が弾んで『聴かせて！』って言っちゃったとか？」
「だとしたら、やっぱり恥ずかしい、って言えば引き下がってくれますかね」
「ダメよ。もう、さゆみが聞いちゃったから。予約のキャンセルは不可です」
そんな経緯があって、公民館での「鞘師里保ギターリサイタル」は決行されたわけだが、そこで私はフクちゃんとまーちゃんに出会う。
いや、正確には２人とも「再会」だった。フクちゃんは私のことを「道重先生」と呼び、まーちゃんは「みにしげさん！」と呼んだ（まーちゃんの場合、本当に感嘆符がついているのだ）。
2人との再会についてはまたきちんと説明する必要があると思うが、その公民館でのリサイタルにて、リホリホが弾いてくれたのがその「ソルのなんちゃら」という曲だった。
10分弱もある楽曲で、途中片手だけで弾くパートがあったりと、素人目に見てもかなりテクニカルな内容だった。
しかし、リホリホはいつにも増して涼し気な表情のままそれを弾き切り、公民館の体育館には淡い味わいの残響が染みついた。
あの騒がしさの塊みたいなまーちゃんが黙り込み、そして小さな声で「まーちゃんもギターする」と零していた。
今や注目の現役女子大生シンガーソングライターとなった佐藤優樹誕生秘話の目撃者となった私も、リホリホの演奏を聴き終わってからは、あまりの衝撃に黙り込むよりほかなかった。
ダンスを踊っているときのリホリホからは言わば、健全で若々しい炎のような熱情を感じたが、ギターを弾くリホリホからはどこか作り物めいた静謐さを感じた。
どちらも同じだけ魅力的に思えたが、あまりに相反する性質であったため、より生命力に溢れるダンスに対してリホリホ自身が惹かれてしまうのも無理はないように思えた。
これだけ真逆のベクトルの美しさを抱える少女とはいったいどんな気分のするものなんだろう。私は、まるで空を飛ぶ鳥を見上げるような心持でリホリホを見つめるしかなかった。
レストランを後にして、リホリホを家まで送り届ける。フクちゃんとリホリホは、「また明日ね」とまるで子供みたいに遊ぶ約束を交わしていた。
風は相変わらず強く吹き荒れ、景色の向こうから懸命に春を引きずり込もうとしているように見えた。
今度はフクちゃんを家まで送り届ける。道すがら、2人きりの車内でリホリホについて話した。まだ2年生なんて羨ましい。さゆみからしたら、まだ大学生なんて羨ましい。そんなことを言い合ったりもした。
しかし、私の頭の中にはずっとリホリホの発した1人の名前がぐるぐると回り続けていた。
亀井絵里。男なのに、絵里なんて馬鹿げた名前。
どうして彼の名前がリホリホから出てくるのだろうか。
東京で偶然会って、私の話になったとか？
いや、絵里にしろリホリホにしろ、わざわざ私の名前を出す理由なんてないはずだ。
なぜなら、2人にとって私という存在は、なかったことにしたいとまではいかなくとも、あちらこちらに言いふらすようなものではないからだ。
私だって何もなければ、絵里やリホリホのことは誰にも言うつもりはない。実際に絵里に関しては、リホリホにも、そしてもちろんフクちゃんにもまーちゃんにも言っていない。
フクちゃんは助手席から降りると、「忙しいのに、色々とありがとうございました。ご飯まで御馳走になっちゃって」と頭を下げた。さすが育ちが良いだけはある。品も良い。
フクちゃんに手を振って、車を発進させる。
初春の気持ちの良い午後。車を運転していてもつい眠たくなってしまう。ぼんやりとした頭で絵里とリホリホのことを順番に考えていた。
さて、午後は何をしようかな。
久しぶりに帰省をしたというのに、家には誰もいない。まぁ、そりゃそうだ。今日は平日で、両親は駅まで迎えに来てすらくれなかった。
代わりに道重さんが迎えに来てくれたけれど、どういう経緯（いきさつ）でそうなったのかはわからない。
おおよそ、優樹ちゃんが無理やりなことを言って、道重さんが迎えに来るなんてことになってしまったんだろう。
誰もいない静かな家は、どことなく居心地が悪くて、それでいて懐かしさがあった。なぜだか小学生の頃の春休みを思い出す。
電気の点いていないリビングには、薄いフィルム一枚分の影が貼りついていて、太陽がまだ高い位置にあることを感じさせた。壁には高校生の頃に撮った家族写真がかけられている。
遠くから写真を見ると、意外と私って可愛いんじゃないかな、なんて思う。どれどれ、と近づいて見ると、自分ってなんでこんなブスなんだろう、とへこむ。
いつだって私のことを可愛いね、美人だねと言ってくれるのは母だけで、その言葉を頼りにこれまで生きて来たけれど、さすがに二十歳を超えてみれば、それがただの親馬鹿に過ぎないのだという事実を受け入れられるようにもなってくる。
彼氏でもいれば、私のことを毎日可愛いと言ってくれるんだろうか。
けれど、大学に入ってからというものダンスに打ち込んでばかりで、男の子と関わり合う機会なんてほとんどなかった。
ダンス仲間にいる男の子も、恋愛対象というよりはライバルに見えたし、それに昔から私は男の子よりも女の子に魅かれる性癖があった。
フクちゃんともそういう関係になりかけたし、道重さんとはもう完全にそういう関係だった。あ、そう言えば、道重さんはいつも私のことを可愛いって言ってくれていたっけ。
道重さんの方が私なんかよりも圧倒的に可愛くて美人なのに、どうして私なんかのことを好いてくれているのか。
それは長年にわたり、私にとっての疑問であったけれど、道重さんは幼い子にめっぽう弱いらしいから、きっとその一環で私のことも好いていてくれているだけに違いない。
自分で言うのもなんだけれど、私は童顔な方だし（「私、童顔ってよく言われるんです〜」と言う女がキツいことは重々承知しているけれど、むしろそれくらいしか私が道重さんに好かれる理由が見つけられないのだから仕方がない）。
私は別に自分がレズであるという自覚もあまりない。
正しい言葉遣いではないと思うけれど、私は「レズ」なのではなく、「レズができる」と言った方がより実態に近い表現だと思う。
コミュ障というほどコミュ障でもないけれど、たしかに他人とのコミュニケーションがあまり得意ではない私にとって、男の子よりも女の子の方がまだコミュニケーションが取れるというだけのこと。
だから、気がつけば女の子に、女性に甘えてしまい、その一環でちょっぴり性的な関係になってしまうのだ。道重さんが小さい子を好きな一環で童顔の私を好いているように。
そんな私の性癖も、さすがに男性経験がないまま二十歳を超えれば、「レズができる」ではなくて、「レズ」なのだと自覚せざるを得ない状況になったのだろう。
しかしながら、19歳のときに亀井さんと出会って、そして私は亀井さんに恋をした。
年齢を聞けば道重さんの1個上だという彼は、私がアルバイトをしているファミレスの先輩だった。
いい歳してバイトなんてさ、と彼は自虐に走るけれど、彼が何か訳あって未だにアルバイトであることは明白だった。
頭がよく、人当たりの良い亀井さんみたいな人が、就職活動で上手くいかないはずがない。それくらいは就活未経験の私にもわかった。
ファミレスでのバイト経験は長いらしく、キッチンでもホールでも何でも上手くこなしたし、たまには店長の事務作業を手伝ったりもしていた。
しかし、出勤日は少なく、どうしても人が辞めたりなどの関係で人手が足りなくなると、どこからともなく現れて何とか店を回していた。
なかなか会話をする機会がなかったが、それでも何かのきっかけで話をすることができた。
彼いわく、色々なバイトを掛け持ちでやっているらしいが、主にヘルプ的な立ち位置で籍を置いていることが多いらしい。
「苦しいときに手を差し伸べる方が、効率良く他人から感謝されるだろう。
当然感謝の度合いに応じて時給も良くなるからね。常にその場にいるわけじゃないから責任もないし、美味しい立場ってわけさ。
その点、例えばインフラ系の会社で働いている人なんて、本当に尊敬するよ。感謝されないわりに責任は重いからね」
亀井さんの自虐はもう出会った時から、という感じだったけれど、自分以外のことについて喋るときはとても公平で面白いものの見方をする人だった。
「金は天下の回り物ってよく言うけど、ストレスが賃金換算されるような世の中にあっては、ストレスもまた天下の回り物であるはずだよね。
そういう意味では、さっきのお客さんが理不尽に怒鳴っていたのも、まぁ、あのお客さんだけのせいにするのは忍びない。
きっとあのお客さんが抱えていたストレスはどこかから回り回ってあの人のところまでやってきたものなんだろう。
ただ、ストレスの厄介なところは、お金だったら日銀みたいに取りまとめているところがあるけど、ストレスの場合、それを取りまとめる機関がないことなんだよね。
だから、政府もストレスの緩和施策を取ることができない」
そんな亀井さんに対して徐々に惹かれていき、それが恋心であることを実感して私は自分が単なるレズビアンではないことの証明に成功した。
しかし、よくよく思い返してみれば、優樹ちゃんの旦那役を務めていた工藤君とかにもちょっと心惹かれるところがあったし、テレビに映る男性アイドルを純粋に応援していた時代もあった。
だから、男性に対して憧れや漠然とした好意というのは何度も感じたことがあったわけだけれど、身近な男性に対して交際相手になってほしいという感情を抱いたことは亀井さんが初めてであり、
当然そこには性的な衝動というのもある程度は付随していた。そのことが私をほんの少しだけ安心させる。
ソファに横になり、実家のテレビのハードディスクに録画されていた映画を観ているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めた時には、リビングは夕闇の中にあって、寝ぼけた頭の中にふと「逢魔が時」という言葉がリフレインする。
脈絡もない、浮遊感。それに絡み合うように、フクちゃんの「リホちゃん、どこでも眠れるもんね」という声も脳裏に現れる。
実家のソファっていう最高の環境だから眠れて当然！
と、誰に言い訳しているのかもわからないまま、身体を起こし大きく身体を伸ばした。夕暮れ時の寂しく澄んだ空気が辺りには漂っている。
テレビは録画一覧の画面を写したまま静止している。コップに一杯の水を飲み、乱れた髪を軽く梳かして、それから家を出た。
枝葉のように広がる住宅街。その幹となる道路に沿ってしばらく歩く。いつもの散歩道。久しぶりの感覚。
取り立てて美しいとは思わないし、東京という街を経験してからこの景色を見ると、「自分はこんなところで18年も生きてきたのか」とちょっぴり呆れてしまう。
けれども、この温度、この湿度、この静けさ。ただただ懐かしく、親密で、薄汚れたスニーカーで踏むアスファルトがどうしてかとても柔らかく感じられる。
車通りは少なく、15分程度歩いていたにもかかわらず、ほんの5，6台が無感情に走り去っていっただけだった。夕焼けの赤は熾烈を極め、まるで世界がこれで終わってしまうのではないかというほどだった。
目を細めて眺める西の空。家々の屋根は暗い影のシルエットを炎の煌めきに映し、時の流れと感傷性を切に訴えかけている。
これが私の住んでいた町だったんだ。懐かしさのビター味の中に、ほんのりと新鮮な甘味を感じる。
そして、私はあの公民館へとやって来る。
不思議と寂しさみたいなものはない。私のすべてはここから始まったようにも思うのだけれど……どうしてだろう。
あんなにも胸を締め付けたあの時間たちを私は過去に残し、今では何食わぬ顔をしてダンスに打ち込む日々が目の前には横たわっている。
もしも私に人格なんてものがあるのであれば、それはこの公民館を発端にして生まれ、育ったもののはずなのに、今の私はこの小さな公民館と無関係な日々を送る。
それは浜辺に寄せる波が、まるで素知らぬ顔をして引き返していくのに似ているかもしれない。
それはあの甘く吹き寄せる春風が、ほんの少し時間が経っただけで、切ない秋風に変わるのとも似ているだろう。
私にすべてを教えてくれたのは道重さんだった。もちろん、フクちゃんや優樹ちゃんにも感謝はしている。
けれど、そんなすべての出来事が意味を持ち始めたのは、道重さんが私の心の隙間に何かを植え付けたからだと思う。
それまでの私は、求められることと好きなことをただ何の考えも無しに選び取るだけの人生だった。
スーパーに入って、カゴの中に生活用品と好きなお菓子を放り込む。そんな人生。
自分の人生が空虚だと感じたことはなかったけれど、それは私が空虚を感じる感覚器官を持っていなかったからで、今となっては過去の私が何をどう考え、生きていたのか、それすらよくわからない。
私は変わった。そう思う。でも、種の進化における適応と淘汰。その洗礼を受けた私はもう後戻りすることはできない。
私は私の抱えた重みを、このまま一生引きずりながら生きていかなければならないのだと思う。
けれど、表面的に見れば私という存在はほとんど変わっていないのかもしれない。
強いて言うのあれば、クラシックギターを軸に生きていくのを辞めて、ダンスを軸に生きていくことにしたという点は、周囲からも見て取れる変化かもしれない。
確かにその選択をした背景には、この公民館での出来事も少なからず関係しているけれど、でも、直接的な関係ではないと思う。
私の心の中に占めるギターとダンスの比率はすでに決定づけられていたし、たとえこの公民館での一連の出来事がなかったとしても、私はギターを捨て、ダンスの道に進んだかもしれない。
ただ、私にとっては、道重さんと過ごしたあの時間があったからこそ、私は変わり、そしてそれによってダンスの道に進むことを決めたと思うのだ。
私自身の変化と、進路の選択。それらはとても自然に私の中で結びついている。
ダンスをやろう、と決めた私は東京に行くことにした。これもまた私の中ではとても自然なことだった。
きっと生まれたばかりの傷つきやすい心を、遠く離れた場所でひっそりと匿ってやりたかったんだと思う。この町からも、ギターからも遠く離れることを選択した。
留まっていると、ようやく知った心の重さで沼の底まで沈んでいってしまいそうだった。
もう一度、公民館を外から眺める。
あの中に私と道重さんはいたんだ。そして、フクちゃんと優樹ちゃんが、まるで忠義を尽くす惑星のように私と道重さんの周りを飛び交っていた。
窓の外はシルバーブルー。雨粒は妖精の挨拶のように細やかで、世界をモノトーンで色鮮やかに描き出す。
私は公民館の小さな図書室で学校の宿題を進めていた。数学�供０嫐Ｉ毀世併鯵儡愎堯Ｃ�が何のために三角関数なんてものを考え出したのか。
核爆弾のもととなる理論を考え出したのは、あの天才科学者と言うし、頭の良い人間というのはロクなものを考え出さない。
溜息をついて、静かに降り続ける雨を眺める。誰もいない一人きりの図書室には、ほんのりと黴臭い本の匂いが充満していた。
何となくだけれど、ギターの匂いと似ているような気もする。湿った樹の匂い。雨音は書架に並べられた本たちの持つ無限の言葉のように聞こえた。
何億もの登場人物が各々に自分の想いを静かな声で語り合っている。
私はじぶんの左手のひらを開き、そして分厚く固まった指先の皮に視線を落とした。指先を擦り合わせてみる。
もし、私が雄弁な作家だったら、今のこの気持ちをどのように表現するのだろう。
迷い。
私はそれくらいの言葉しか知らない。2か月前の、あの春休みの出来事が私を余計に迷わせていた。この公民館の体育館でやったささやかなリサイタル。
フクちゃんにギターをやっていることがバレて、道重さんにも私のギターを聴きたいとせがまれた。コンクールの度に死ぬほど練習して、そして張りつめた緊張感の中、審査員に向けて曇りのない演奏をする。
この公民館で演奏をすることになってしまったとき、私はコンクール出演が決まったときと似たような胸の苦しさを感じていた。
ギターは私にとっては究極の責任だった。
物心ついたときから私はギターが上手な子であり続けなければならなかった。
両親は私がギターをやるように無理強いはしなかったけれど、週に3回も先生に個人レッスンをつけてもらっていたし、私がギターのコンクールで良い成績を出せばこれ以上にないくらい喜んでくれた。
私自身、両親や先生が喜んでくれれば嬉しかったし、それにギター自体も嫌いではなかった。
ギターに真剣に打ち込むことで得られる達成感は、学校で勉強していることがただのお遊びに感じられるくらい激しく強いものだった。
私のこれまでの人生は昨日よりもギターが上手くなることで前に進んできたようにさえ思う。
だから、ギターに打ち込むことが私の想いに反していたかというと決してそんなことはない。
私は両親と先生、それから私自身に対して、ギターという責任をある意味では好んで負い続けていた。
なぜなら、それが私の存在意義であり、周囲の人たちとは、言うなればギターの弦によって結びついていたからだ。
けれど、私はギターを弾くロボットではなかったし、私はまごうことなき1人の人間だった。
いま思えば、学校でギターをやっていることを隠していたのは、気恥ずかしさという理由もあるだろうけれど、深層心理ではギターとは無関係なところで私という人間の立ち位置を確立したかったからもしれない。
中学生の頃は、フクちゃんと香音くんと生田とずっと一緒にいた。香音くんと生田は男の子で、傍から見たら常にダブルデート状態のように見えたかもしれない。
けれども、どうしてか私が好きになったのは女の子のフクちゃんだった。好き、といっても果たしてそれが世間一般で言うところの恋愛感情であったかはわからない。
私が思うに、私のフクちゃんへの想いは恋愛感情よりももう少し穏やかで、友情よりはもう少し色めいているものだった。
私はフクちゃんと一緒にいることでとても安心できたし、同時に彼女の身体に触れていることで鼓動を早めた。
何回かキスもしたりしたし、一緒にお風呂に入って身体を触り合ったりもした。けれど、私はフクちゃんの性器に指を触れることはかなわなかった。その分、胸や二の腕はたくさん触らせてもらったけれども。
香音くんはいつも優しく、フクちゃんと同じくらい包容力があったけれど、フクちゃんよりもずっと常識人だった。
私が香音くんに言い寄れば、それは単純な男女交際の形を成して、私の求めている穏やかなものとは少し違うものになったかもしれない。
生田はつまらないのが逆に面白いといった感じの奴だったけれど、気の良い奴だし、外見もよかった。
黙っていればモテるだろうに、と私はいつも思っていたが、彼の場合喋り散らしていてもそれなりにモテていたからタチが悪い。
身近な私からしたら恋愛感情なんて微塵も持てなかったけれど、遠くから眺めていたら憧れのカレになっていたかもしれない。
と、私はこんな風に他人を評価できるほどの人間ではないけれど、ともかく私は私の普通ではない性的趣向を受け入れるために、そういったことをよく考えていた。同時に、ギターからの逃げという部分も意識の外に追い出して。
ふと我に返って手元のプリントに視線を落とす。何一つ手が付けられないまま、図書室の蛍光灯に照らされて白い輝きを放っている。
まるで、私が消耗していることを見越して、「もう疲れたのかい？ まだまだ何も始まってやしないぜ」とでも煽っているかのようだった。私は溜息を吐き出す。
長くしつこい雨だった。午前中は晴れていたのに、昼前くらいからぽつぽつと降り出して、今や世界の果てまで雨雲で覆われているかのような雰囲気さえ漂っている。
けれど、あまり嫌な感じはしない。雨は世界に静けさを捧げ、すべての存在の輪郭をぼんやりと滲ませている。それはある種、崇高な天の行為のようにさえ思えた。
きぃ、と扉が開く音が1人きりの図書室に響く。
時計に目を向ける。17時4分。道重さんがやってくる時間だった。
図書室の入り口は書架に囲まれていて、その書架たちは窓側に面した読書スペースとの境界線を引いてもいる。
だから、私の座っている座席からは誰が入って来たのかが直接確認できない。けれど、この時間帯にコツコツというハイヒールの音が聞こえてきたということは間違いなく道重さんだった。
「雨、やまないね」
挨拶もなく、道重さんが私に喋りかけてくる。「朝は晴れてましたけど、ちゃんと傘持ってきました？」と私は質問で返す。
「リホリホに心配されるような、さゆみじゃありません。もちろん、持って来てるよ」
「愚問でしたね」
「とあるCM、田舎バージョン。ぐもん、いっぐもん♪」
「こんなこと言うの失礼ですけど、めちゃくちゃつまんないですね。そして音痴です」
「あらあら、随分と言ってくれるの。最近、どんどん私への敬意が少なくなってきてる気がするんだけど、どう？」
「そんなことありませんよ。親しくなっているが故の、こう……やり取りなわけじゃないですか。私は尊敬してますよ、道重さんのこと」
「例えば、どんなところを尊敬しているのかな？」
「頭が良くて、美人で、可愛いところです」
「うーん、嬉しいけど80点。可愛くて、美人で、頭の良いところ、っていう順番だったら100点あげたんだけどな」
「順番ですか」
「順番って大事なものだよ。食事の席、タクシーの席、色んなものに上座、下座があってね。男の人とお付き合いするにしても、自分が何番目の女なのか、ちゃんと序列を把握しておかないと大変なことになるから要注意」
「道重さんはヒドイ男性としか付き合ってこなかったんですね」
「基本、ディスりのスタンスだよね」
「そんなことないですよ。道重さんが自虐スタンスのボケをしてくるから、それに律義にツッコんでるだけです」
「ふふふ」
「何ですか……？」
「あぁ、今日も可愛いな、と思って」
「やめてくださいよ……」
「あらあら、違うよ。窓ガラスに映る自分が、可愛いな、って」
「……」
「リホリホもさゆみの次に可愛いよ」
「例の『順番』ってやつですね」
「正解」
道重さんと話すのは楽しい。私がふと笑みを零してしまうと、それを見て道重さんは小さな声でまた「可愛い」と口に出した。私は恥ずかしくなって、視線を落とす。
「宿題、ぜんぜん進んでないね」
「あぁ」私は嫌なことを思い出してしまって、思わず溜息をついてしまう。
「若者が溜息とはいただけませんなぁ」
「なんていうか、こんなことしてる場合じゃないのに、って思っちゃうんですよ」
「じゃあ、何をしてる場合なのかな？」
「それがよくわかんないんです。でも、きっとそれは宿題なんかじゃなくて。もっと大事なことがあるような気がするんです」
「うーん、リホリホの場合だとギターとか？」
「それはそれであるんですけど。でも、ちょっと違うんです。ギターを練習する時間はちゃんと確保してありますし、ギターも勉強もおろそかにしない、ってのはもうずっと習慣でやってきてることで……」
「すごいよね、リホリホは。さゆみなんて、宿題は手っ取り早く終わらせるものとしか考えてなかったのに。やっていさえすれば誰も口を出してこないし、さゆみがさゆみの好きに時間を使うための免罪符でしかなかったように思う」
「そういう考え方をできる、道重さんの方がすごいと思いますけどね」
頭の良い道重さんはきっと私とは別次元でものを考えているのだろう。だから、きっと私のように将来の進路について悩むことなんてなかったに違いない。
私はそう思って、「道重さんは自分の進路ってどうやって決めました？」と聞いてみる。
私とは次元が違い過ぎて参考になるとは思えなかったけれど、単純に道重さんみたいな人がどうやって自分の将来を見定めているのか興味があった。
「さゆみ？ さゆみはまだ何にも決めてないよ？」
「え？」
「まぁ、一応公務員にはなってみたけど、将来についてはまだ何も決めてないの。決めてないからこそ、色んなことをやらされる公務員がいいんじゃないかな、って。
自信過剰に聴こえるかもしれないけど、さゆみは割とどこでもある程度やっていける自信があるし」
「かっこいいですね」
「かっこよくなんてないよ。可愛いだけ」
「あはは」
「そこ、笑うとこじゃないんだけど」
「でも、それじゃあ、ある意味では色んなことを経験してみたいから、公務員になったってことですか？」
「うーん、そうと言えばそうなんだけど、改めて聞かれるとちょっと違うような気もするんだよね。
もっと漠然と、適当に生きているって言えば良いのかな。たまたま公務員っていう選択肢が目の前にあって、『あれ、これって美味しい話なんじゃないか？』って思って、公務員になっただけって感じ。
自分って何なんだろう、って常に考えてるんだけど、それがよくわかんないからこそ、決断を先延ばしにするために大学に行って、さらに先延ばしにするためにとりあえず公務員になってみたってとこだね」
「道重さんも自分って何なんだろう、って考えたりするんですね」
「誰だって考えるんじゃない？ リホリホもそういう感じのことで悩んでるから、宿題に手をつけられないのかな？」
私はもう何度目か数えられないほどだけれど、再び宿題のプリントに視線を落とした。
道重さんの言う通り、宿題はやれば終わる。でも、私が本当に知りたい答は宿題をやり遂げても得られない。
「リホリホはさ、これまで真面目にギターをやり続けてきたわけでしょ。でも、ダンスも始めてみて、違う世界があることを知った。
そこでようやく、『私って何だろう？』って初めて疑問を感じるようになる。だから、とても困っているんだと思うけど、普通の人はね、そういうことを漠然とずぅっと考えながら生きてきてるわけ。
もうそんな疑問なんて当たり前すぎて、今さら考える気なんておきなくて、ただ何となく目の前の選択肢から気になるものを手に取って、それが自分の生き方になってるの」
「本当にそんなものなんでしょうか」
「まぁ、違う人もいるけどね。でも、それだって程度の差でしかないと思うよ。
自分の選択に対して、どれだけ理由付けをしたいか、っていうだけの差であって、結局は手に取ってみて身体に馴染むまでは、本当にそれが自分の求めていたものなのかはわからない」
「洋服を選ぶみたいに」
「さゆみ的には洋服よりももっと馴染みのないものかな。例えば、そうだな……お祭りの金魚すくいみたいなものかな。
遠目から見ればほとんど同じものに見えるもののなかから、たまたま目についた一匹を選ぶようなものだと思うの」
「金魚すくい」
「そう、金魚すくい。人生は金魚すくい」
「なんかお洒落な格言みたいですね」
「でしょ。絶対に『人生は山登り』よりは素敵と思うの」
道重さんはそう言って笑った。
道重さんみたいに頭が良くても、自分の生き方を決めるのが難しいと言うんだから、私なんかに決められるはずもなかった。でも、今の私はもっと混乱している。
「私、本当はギタリストになんてなりたくなかったんです」
「いまはダンスの方がやりたい、ってこの間言ってたもんね」
あれは春休みのことだった。私はフクちゃんに「ギターを聴かせてほしい」とせがまれて、仕方なくこの公民館の体育館で披露することに決めた。
そして、体育館の予約をするときに、何故だか道重さんに「ギターよりもダンスをしたい」と打ち明けてしまった。しかし……
「たしかに、私はギターよりも今はダンスをしたいと思っています。というか、私はずっとギターからは逃げたいと思って来たんです。正直、私には演奏の才能がないんです」
「そんなことないよ！ この間のギターめちゃくちゃすごかったもん！」
「！ ……ありがとうございます」
「あぁ、急に大きな声出して、ごめんね。でも、ほんとにすごいと思ったよ、さゆみ」
「あれは、いわば訓練の賜物なんです。本気で訓練して、やり続けてきたからこそ、複雑な曲も正確に弾けるようになりましたし、表現したい世界も表現できるようになってきたと思います」
「それは良いことでしょ？」
「そうですね。でも、私には演奏で表現したいことそのものが欠けているように思うんです。
自分でわかるんです。感情よりも先に指が動いてギターを弾こうとするんです。プレッシャーとか責任感みたいなものが、私がギターを弾く一番最初の動機なんです」
「プレッシャーと責任」道重さんはそう範唱しながら何かを考えているようだった。
もしかしたら何か思うことがあったのかもしれないが、何も口にすることなく、私の次の言葉を待った。
「ダンスはもっと私の純粋な気持ちと近いところで繋がっているように思うんです。踊りたいから踊る。
ダンスをするようになって、こんなに素敵なことが世の中にあったんだと思いました。ただギターが上手くなるだけの人生とは違う道があるんだって、その時気づいたんです。
だから、さっき道重さんが言ったように、私は初めて違う生き方について考えるようになって、それで少しは悩んだりもしたんですけど、
結局のところ、私はもうギターを辞めてダンスで生きていくって心の中では無意識のうちに決めていたんです」
「でも、ダンスで生きていくことについても今は悩んでる？」
私は頷いた。
「この間の春休み。フクちゃんと優樹ちゃんと道重さんの前でギターを弾いてみて、なんて言うか、とても楽しかったんです。いつもみたいに強いプレッシャーはあったんですよ？
でも、なんかいつもとは違くて……あぁ、ギターやってて良かったな、と初めて思えました。良い結果を残せて良かったな、じゃなくて、ギターが弾けて良かったな、と思ったんです」
あの時の感触はとても不思議で、未だによく思い出せる。
あれからコンクールにも出たけれど、あの体育館での小さなリサイタルのときのような幸福感は得られなかった。
当然、迷いのある演奏が評価されるはずもなく、先月のコンクールは酷い結果になってしまった。
「私自身、ギターには限界を感じてもいて。普通、私くらいの年齢のギターを真剣にやっている子は、普通の高校に通ったりしないもんなんです。
音楽専門の学校に行って、毎日朝から晩まで音楽漬けで。私よりも上手い子が私よりも練習をしているわけです。
それでも、もともと私が短期集中型の性格ってこともあって、表現の鮮烈さよりも技術の正確さを求められるコンクールでは何とか結果を残すことはできていたんです。
でも、そろそろそれも限界が来ていることは、私もギターの先生もわかっています。ただ両親だけはいつも励ましてくれて……」
「それが逆に重しになってるってことね」
「そういうことです」
「だから、ギターとは決別するつもりだったけど、この間の演奏会でまたギターの良さに気付いてしまって、その決心が揺らいでいるのが今のリホリホっていうことね」
「はい」
不思議と喋り出してみると、思ったよりも私は私の気持ちをしっかりと理解できているように思えた。
けれども、じゃあどうすればよいのか、ということに関しては、もはやどうして良いのかわからない。
どうして雨が降るのか仕組みがわかっても、私たち人間には雨を止ませるためにどうすれば良いのかわからないように。
「傘をさせばいいと思うの」
道重さんの言葉に私はドキっとする。
もしかして、私は心の声を零してしまっていただろうか、と焦るけれど、どうやらそういうことではなかったみたいだ。
「今のリホリホの頭の中はこの雨降りと一緒。雨が止むのを待っていようか、それとも濡れるのを覚悟で走って帰るか。
その2択で迷っているのかもしれないけど、でも、傘があれば雨に濡れずに無事帰ることができる。
もちろん、ちょっとは靴の中が濡れたりして気持ち悪いかもしれないけど、でも、それだって家に帰ってから乾かすことだってできる」
「雨降りの話はわかりましたけど、私はそれをどう解釈すればいいんでしょう……？」
「つまりね。そんなに真剣にギターとダンスのどちらかを選ばなくたって良いと思うの。
それこそ、さゆみをはじめ、周りの皆がやっているように、のらりくらりと選択を先延ばしにしちゃえばいいってこと。
何か傘みたいなものがあれば、とりあえずはたいして濡れなくて済むんだから、それでいいじゃない。
さゆみが聞いてる感じだと、一流のギタリストになるのは難しいのかもしれないけど、一流のギタリスト以外にもギターと一緒に生きていく道はあると思うし、
逆にダンスが好きだからと言って、ダンスの道に進まなきゃいけないってこともないと思うの。
じゃあ、どういう道を選択すればいいのかってのはわからないけど、だからこそ時間を稼ぐためにも、とりあえず傘でも差しながら前に進むのもありなんじゃない？
もちろん、傘をさして歩くのだって、1つの選択肢でしかないわけだから、傘をささずに雨に濡れるの覚悟で走り出す方が正解だったということもあるかもしれないけどね」
道重さんの言葉を聞きながら私は余計にどうしていいのかわからなくなってしまった。
ただ、道重さんは「どうしていいかわからないままで良い」ということを何とかして伝えたかったんだということくらいはわかる。
ほんの少しだけ心が軽くなったように思えるけれど……相も変わらず、窓の外からは柔らかな雨音が聞こえてくる。
「何となく、道重さんの言いたいことはわかりました」
「さゆみは自分で話しながら、自分が何が言いたいのかよくわかんなくなってきたけどね」
「でも、1つだけ聞いても良いですか？」
「いいよ、上手く答えられるかわからないけど、何でも聞いて？」
「私にとっての傘って何になるんでしょう？」
道重さんは首を傾げて、窓の外を見た。私もつられて窓を見る。すっかり暗くなって、外の景色はよくわからない。私と道重さんが窓ガラスに映っているだけだ。
そして、そんな曖昧な道重さんの像がゆっくりと私を覆うように降りて来て、次の瞬間には、私の耳元には道重さんの温かい息がかかった。
全身に痺れるような感覚が走る。背中から腕を回されて、その繊細な指先が私の肩を撫でた。
「これからはさゆみお姉さんがリホリホの傘になってあげる。だから、何でも隠さずに話してね。さゆみが雨から守ってあげるから」
そう言って、道重さんは私のほっぺに口づけをした。心臓がバクバクいってる。恥ずかしさで顔が紅潮していくのがわかる。どうしよう、ぜんぶ道重さんに伝わっちゃう。
が、私が固まっているうちに道重さんは身体を起こし、窓ガラスの中で一体となっていた私たちはまた穏やかな2つの存在に分裂してしまった。
化学反応みたいな何かが起こったという感触だけが腰骨の辺りに残るだけで、いま起こった出来事が現実のものなのか、短い夢の中のできごとだったのかうまく判別ができなくなる。
「明日もおいで」
道重さんはたぶんそう言って、私を図書室に残し、去っていった。
遠く、図書室の扉の外から雨の音に混じって、階段を降りていく道重さんのハイヒールの音が聞こえてくるような感じがした。
しばらく私は固まったまま、心拍が落ち着くのを待っていた。雨が降っていてよかった。柔らかな雨音が火照った全身を少しずつチルアウトしていってくれた。
「んっ、はぁ、はぁ、だめっ……」
「乳首だけでそんなに感じるの？ ふふ、かぁわぁいぃっ」
道重さんの指がブラウスの上から私の乳首を容赦なく摘まみ上げる。
きゅうっという痺れが心臓の裏あたりに収縮していって、道重さんが指を離すと、それがふわっと全身にとろけていき、私は息苦しさを思い出して、粗い呼吸を空中に浮かべる。
今日は平日。だから、私も制服で道重さんもお仕事中。小さな公民館の図書館、この時間はいつも私と道重さんしかいない。
最初のうちは誰かに見られるのが怖くて、思わず道重さんの手を払いのけたりしてしまっていたが、今では道重さんの説明に身を委ねてしまっている。
「まず、1つ目に図書室のドアは立て付けが悪いから開くと『きぃ』って大きな音がする。
そして2つ目に入口は書棚に隠れて、入って来た人がすぐにはこっちを覗けないようになっている。だから、ドアが開く音がしたらすぐにやめればバレることはないの」
そういうわけで、私たちが図書室でするときは、一切服を脱がない。
「でも、せっかくだからブラはトイレで外しておいてね」
私は道重さんの教えを守り、ブラジャーを事前にトイレで外し、ついでにキャミソールも脱いでおく。せっかくだから、と私が言うと道重さんはとても喜んでくれた。
道重さんも私が来る日は脚を広げやすいフレアスカートを履くようになった。
図書室に来ると道重さんはまず最初にパンツを脱ぎ、それを自分のブラウスの中に仕舞い込む。だから、道重さんは大抵白いパンツを履いてきていた。
何度かキスをして、私の乳首を摘まむ。舌を絡ませたり、私の耳に舌をねじ込んだり、首筋に舌を這わせたり、道重さんは主に口を使って私を気持ちよくしてくれる。
一度だけ道重さんは私のスカートの中に手を入れてくれたけれど、私が声を我慢できなかったせいで、それからは絶対に手を下に伸ばすことはしなくなってしまった。
「さすがに声出すのはダメ。さゆみも気分が乗って来て、ぜんぶどうでもよくなりそうだし」
そう言ってくれるのは嬉しかったけれど、下を触ってもらえないのは最初のうちかなりの苦痛だった。
けれども、それも数回続くと、より様々な刺激を味わおうとする私の貪欲な身体のおかげで、耳や首筋への愛撫と、乳首への刺激だけで、私は果てることができるようになってしまった。
恥ずかしがる私を見て、嬉しそうにぎゅうっと抱きしめてくれた道重さんの柔らかい身体が忘れられない。
そして、私が果ててしまうと、道重さんは私の制服のスカートをたくし上げる。露わになった私の太ももに跨り、そこにこすりつけるのが道重さんは好きなようだった。
パンツを脱いで直接肌に触れる道重さんのぬるぬるとした性器は、唇よりも柔らかく、何かを吸い取るように私の皮膚にひっついた。
切なそうな表情を浮かべる道重さんの目の前に私は指を差し出し、それを咥えさせる。
私の指先の動きに合わせて腰を振る道重さんがこの上なく愛らしい。このときばかりはまるで主従関係が逆転したような心地がする。
時間があるときは、最後にきちんと指でしてあげる。道重さんは声が出ないように頑張っていたけれど、実際はかなり淫靡な水音が図書室中に反響し、ひどくうるさかった。
が、道重さんはまるでその事には気づいていないみたいで、必死に唇を噛みながら、私の身体にしがみついたまま果てた。
いつからこんな関係になったのか。私は初夏のまだ明るい夕闇の中、家路につく途中で考えていた。
たぶん、私がフクちゃんとの関係について、道重さんに喋ってからこうなったのだと思う。
「隠さずに何でも話してね」という言葉を鵜呑みにし、私はつい口を滑らせてしまった。
けれど、道重さんが最初から私という女の子に興味を持っていたのは何となく感じていたし、私がなし崩し的にこのような関係になってしまうことを、心の底では本当に求めていなかったかと問われると、返答に窮してしまう。
中学生の頃のフクちゃんならまだしも、高校生になったフクちゃんに言い寄るのは難しい。中学生なら冗談やじゃれ合いで済んだかもしれないことが、高校生ともなれば全然話が変わってくる。
だからこそ、私はフクちゃんはフクちゃんで好いていながらも、ふつふつと煮える性衝動の捌け口を道重さんに求めたのかもしれない。
いや、性衝動の捌け口というのは少し違う。これは何も自分を正当化しようとか、美化しようとかそういうのではなく、結果的に性衝動の捌け口として道重さんを利用していることは間違いないのだけれど、
それ以上に私には私を受け止めてくれる存在が必要だったのだ。そして、私はそのような私を受け止めてくれる相手に対して、どうも肉体的な交流を求めてしまう性質らしい。
まぁ、そんなことはちょっと考えれば、中学生の頃の経験からすぐにわかりそうなものだけれど。
そんな私の中の自然な原理に従って、私は道重さんとの関係性を深めていった。悪いことをしているという自覚はまるでなかったけれど、他人に言うのが憚れるというくらいはわかる。
そして、誰かにこのことを相談したらすぐにやめるべきだ、と言われるであろうこともわかっていた。
そして、その時期は間が悪いことに、優樹ちゃんがとてつもなく眩しかった。
いや、今でも眩しいのだけれど、その優樹ちゃんの輝きが私の影を浮かび上がらせて、私はまるで自分がどんどん醜い存在になっていくように感じていた。
私は次第にふさぎ込むようになっていったけれど、できるだけそれを周囲には見せないようにした。
それが私のできる精一杯で、そのために私は受験勉強に打ち込む振りを続け、道重さんを傘代わりに雨降りの道を訥々と歩き続けるしかなかった。
リホリホが帰省して来た日の翌日の朝。今日も私は休みだった。
もし、リホリホに会うのだとしたら今日しかない。リホリホがどうして亀井絵里なんて名前を出したのか、それを究明しなければならない。たぶん。
もう絵里のことなんて忘れてしまったはずだった。けれど、絵里は私の原点であり、もしも絵里がいなかったら今頃私は……いや、そんなに変わらないか。
きっと絵里と出会わなかった人生の私もまたこうやって図書館で働いていたかもしれない。
でも、おそらくもう少しは世の中に対して真っ直ぐ向き合っていたんじゃないかと思う。れいなを助けるためにあのラブホテルに駆け込み、そこで絵里と出会う前の私のように。
そう言えば、れいなは今頃何をしているんだろう。もう売春みたいなことなんてしていなければいいけれど。
絵里との関係というのも、まぁ不可思議なものだったけれど、れいなとの関係性はもっと不可思議なものだった。
あれだけ互いに依存し合っていたのに、れいなはあっさりと東京の専門学校を受験して、私のもとから離れていってしまった。
「れーな、東京に行って、美容師になると」
美容師なんてここでもなれるんじゃない、と私が正論を言う前に、れいなはにっこりと笑って私のもとから去っていった。高校3年の夏休み前の何の変哲もない休み時間のことだった。
夏休みに入ると各々の受験に向けた予定で時間を合わせるのが逆に難しくなってしまい、いつの間にか私とれいなの間には「進路を異にしている」という事実が出来上がってしまっていた。
だから、夏休みが終わった後は、もはやその点を掘り返すこともなく、互いに目標に向けた進捗はどうだとか、そういうことを話すようになった。
たまに昔のようにれいなと抱き合っていると、「あと半年したら離ればなれやね」なんて感じの言葉がれいなの口からも零れてきたが、だからと言ってその現実を覆すほど力は私たちの間には残っていなかった。
絵里がいたときの一連の出来事の中で、私たちはきっと力を使い果たしてしまったんだろう。
勝手に東京に行くことに決めて、勝手に別れを寂しがっているれいなの理不尽さに私は少し当惑したけれど、怒りが湧いてくるというほどでもなかった。あの頃は私もまた、それくらい疲弊していた。
だから気が付けば、バラバラの道を進んでいた。
でも、いま思うとあれだけ互いを求めあっていた2人が別々の道に進んだというのは、やはり不思議なことだった。
互いに疲弊していたという理由だけでは足りない何かがあるように思えてならない。けれど、その「何か」を知ることは私にはかなわなかった。
私は洗面台に向かい、顔を洗い、髪をとかし、それから朝ご飯を食べた。テレビを点けて、見たくもないニュースを見ながら、無機質な世界に軽蔑と羨望を同じ分量だけ捧げる。
女性一人暮らしの８畳の部屋。辛うじて女性専用のアパートだったけれど、虚しさを噛み締めるのには十分な広さと言えた。
転職する前から住んでいるけれど、どうしてこんなところに住むことに決めたのか。もちろん、金銭的な理由が大きい。
けれど、こうやって得も云えぬ哀しさが漂う小さな部屋に身を委ねていると、どうしてもあの絵里の姿が思い出されてくる。
17歳にして寂れたラブホテルの一室を自分の生活スペースとしていた彼の苦労を思えば、私がこうやって女性専用のアパートで暮らしていることなんて、ずいぶんと贅沢なことではないか。
今の絵里が暖かい家で暮らしていてくれれば、と想う。
さて。
私は気持ちを固めて、リホリホにメッセージを送ってみる。あえて絵里の名前は出さなかったけれど、昨日の話の続きができないかな、と遠回しに聞くスタイルだ。
それだけでわかるはずだし、何となく私にとってもリホリホにとってもデリケートな話に思えたから、そのような言い方にしてみた。
しばらくすると、なぜかまーちゃんから電話がかかってきた。あぁ、またろくでもないことが始まる、と思いながらも、私はその電話を無視することができない。
まーちゃんは、推理ドラマで主人公の探偵にいつもそれとなくヒントを指し示す忠犬みたいな存在だった。
「どうしたんだ、パトラッシュ。そんなオモチャのしゃもじなんて咥えてきて……ん？ しゃもじ？ はっ！ そういうことか！」
炊飯器のタイマーを利用して自分のアリバイを作り上げた知能犯を捕まえるような心持で、まーちゃんからかかってきた電話を取る。
まさか、お米の炊き上がり時の蒸気と化学反応を起こして毒になる物質があったなんて……なんてね。
「みにしげさん、やっさんがギター持ってきました！」
「え？ リホリホとまーちゃんがこれからギター弾くから、まーちゃんの家に来いって？」
「ふくぬらさんも良い匂いです！」
「フクちゃんが美味しいケーキも持ってきたのね。わかった。今から行くね」
我ながらどうしてまーちゃんの言っていることがここまで理解できるのか不思議だったけれど、私はさっと化粧を済ませると、車を走らせた。
まるでコメディだな、と青い空の下、国道を走りながら思う。
フクちゃんの家のような瀟洒な豪邸ではないが、まーちゃんの家もなかなか立派なものだった。伝統的な日本家屋。
平屋ではなく2階建てだったが、庭には小さな池もあったし、思わず四つん這いになって雑巾がけをしたくなるような長い縁側もあった。
引き戸の木製の門扉を開け、敷石の道を渡り、玄関へ。チャイムを押すと広い家にすぅーっと染み渡るようにその音が浸みていく。
少しあって、どたどたと子供のかけてくるような音が聞こえてきた。
たしかまーちゃんには妹がいたっけ？
私の予想に反してやってきたのは、妹ではなく長女のまーちゃん本人だった。「みにしげさん、おっそいですよ！」と楽しそうに私の腕を引っ張る。
まぁ、予想通りと言えば、予想通りか。私はなんとなく感慨深い気持ちになる。
手を引かれていった先は佐藤家自慢の縁側で、フクちゃんがこちらを向いて立ったままお辞儀をした。リホリホはギターを抱えながらチューニングをしている。
「やっさん、できました？」
「ん、っと……はい。できたよ」
リホリホがチューニングを終えたギターをまーちゃんに手渡す。まーちゃんは嬉しそうにそれを受け取ったが、リホリホは「自分でもできるでしょ」と呆れたような様子だった。
「ケーキ食べますか？」
「あ、ありがとう」
フクちゃんが呆然と立ち尽くす私に気をつかって、ケーキの入ったお皿を手渡してくれた。
リホリホがまーちゃんにギターを手渡し、フクちゃんが私にケーキを手渡すという構図は、少し離れたところから見たらちょっと面白い光景だったかもしれない。
「みにしげさん、まーちゃんが弾くんで歌ってくださいね」
「は？ そんなの無理だよ」
「ダメ、歌うの！」
「優樹ちゃん、さっき新曲できたから道重さんに聴かせるんだって言ってたでしょ」フクちゃんがたしなめるように言う。
それでも恥ずかしいのか、自分で言い出したことなのに嫌がるまーちゃんをフクちゃんとリホリホの2人で何度も説得する。
天才ギター少女と注目されている佐藤優樹という人間が、私の前で演奏するのを恥ずかしがるというのは不思議な光景だった。
とは言え、そんなあまのじゃくなところは昔から変わらず、もはや芸能人・アーティストと言って過言ではない彼女にも関わらず、そういった部分を失っていないのは喜ばしいことだった。
漠然と、これからもそんなまーちゃんらしさを失わないで欲しいと思う。
まーちゃんこと佐藤優樹はもともとピアノやドラム、乗馬にバレエなど小さい頃から様々な習い事をしてきたようだった。
明らかに勉学の苦手そうな彼女にそのような多方面の習い事をさせた彼女の両親の目は賞賛に値するが、それ以上に彼女自身が持っている伸び々びとした才能はとてつもないものがあった。
リホリホのクラシックギターをあの公民館の小さな体育館で聴いて、それに感動したまーちゃんは両親にねだってクラシックギターを買ってもらった。
ねだってすぐに買ってもらえる辺りが、佐藤家の経済状況を物語っている。
私は少し羨ましく思うけれど、それよりもむしろすぐにギターに挑戦したいと思えるまーちゃんの積極性の方が、経済的な裕福さよりも稀有なものだとも思う。
そして、それ以上に稀有なのは、クラシックギターを買ってもらったにもかかわらず、ギターの教則本として買ったのがなぜかブルースのもので、そのことにも気が付かずあっという間にブルースを習得した佐藤優樹の天然さと天才さだろう。
私もクラシックとブルースの違いなんてよくわからなかったけれど、リホリホが言うには、座って黙々と弾くのがクラシックギターで、マイクに向かって歌いつつギターも弾くのがブルースということらしかった。
わかるようでわからない説明だな、と思ったが、実際にリホリホが弾いたギターとまーちゃんが弾くギターを比べてみるとその違いがよくわかった。
「なんで私のギターを聴いて、ブルースに辿り着くんだ！？」とリホリホはまーちゃんの演奏を初めて聴いたときに愕然としたそうだった（残念ながら私はその場にはいなかった）。
「やっさん、ギター教えてください」と頼まれたのに、リホリホはしばらく何も口が聞けなかったらしい。
それはまーちゃんがブルースを弾いていたことに驚いたというのも1つの理由だったけれど、それ以上に、始めてたった1か月とは思えないほどにまーちゃんのギターが上手だったというのも大きな理由と言えた。
初めて演奏した時の動画をフクちゃんが撮っていて、私に見せてくれたが、たしかに素人とは思えないほど上手かった。
何よりも歌いながら全く別の動きをする手がまるでもう1つの生き物のように見え、それでいて歌とギターが1つに交わって全体で1つの生き物として成立しているのが不思議で堪らなかった。
「それで、これがリホちゃんに1週間つきっきりで教えてもらった後の動画です」
フクちゃんはそう言って、2つ目の動画を見せてくれたが、そこでも私は衝撃を受けた。
1つ目の動画では確かにとてつもなくギターが上手いというのがわかったけれど、そこにはかなり荒々しさがあり、まだギターの上手い素人という感じが強かった。
が、リホリホの指導を受けた後の動画では、まるでプロのミュージシャンのように見えたのだ。
「たった1週間、基本的な音の出し方とか、丁寧に弾くことを教えただけですよ？ こういう子がいるんだって思うと、私は本当にギタリストって目標を諦めた方が良いと思い知らされます」
リホリホは悔しそうだったけれど、どこか嬉しそうに眉を下げた。
佐藤優樹という規格外の才能に背中を押され、やっと肩の荷が下りたというような安堵感さえリホリホからは感じた。
それからフクちゃんの提案で、動画サイトにアップしてみようよ、という流れになり、軽い気持ちで初めて披露した時の演奏動画をアップしてみる。
そう簡単に注目されるはずもないか、とちょっと肩透かしを食らったような気分でいると、1時間後くらいに「ギターうまっ！」というコメントがついた。そして、その15分後には、「うまっ！ そして可愛い！」というコメントがつく。
面白くなって、翌日にリホリホの指導を受けた後の動画をさらにアップロードすると、「え、めっちゃうまくなってるやん！」というコメントがすぐについて、あれよあれよという間に再生回数が100回を超えた。
そこからはとても早かった。休日が来ると、一気に再生回数が伸び、ゆうに1000回を超え、別の動画を上げると全部の動画の再生回数がさらに伸びた。
翌週にはまーちゃんがオリジナルで楽曲を作って、ほんの2分くらいのオリジナルだったけれど、それもあっという間に1000回再生を超え、私をはじめ、多くの人間がまーちゃんの才能に驚いた。
それからもオリジナル楽曲を作る度に、その完成度と演奏技術が上がっていくので、「これはすごいものを見ているのでは……」というような感じのコメントが多くなり、
1月も経たないうちに、「まーちゃんのギターチャンネル」はすべての動画が1万回再生を超えてしまった。
まーちゃん以上に、私とフクちゃんが舞い上がってしまい、「どうしよう、どうしよう」とお互いの汗まみれの手を握り合って混乱していると、私でも聞いたことがあるような音楽事務所からスカウトの連絡が来る。
そこからもまーちゃんの快進撃は続くが、アーティスト写真が出来上がって、初めてのミュージックビデオが出来上がった辺りで、急な失速を見せる。
というのも、まーちゃんが突如として「人前で弾くのは嫌だ」と言い出したからだった。
「もともと、やっさんとかふくぬらさんとかみにしげさんに聴かせたくて始めたんです。だから知らない人の前で弾くのは嫌なんです」
「でも、音源制作とかミュージックビデオ制作では知らない人の前で弾いたわけでしょ？」
「あれは演奏じゃないですもん」
「演奏じゃない？」
「いま、『せーさく』って言ったじゃないですか。ものづくりです。演奏じゃないんです」
まーちゃんの言い分はよくわからないところもあったけれど、ミュージシャンたるものどんな理由があっても、ライブをしなければ評価をされない。
音楽事務所側も頭を抱えたが、「もっと上手に弾けるようになったら、人前でライブしてもいいですよ」とまーちゃんが言うので、その時を待つよりほかなかった。
ただそんなときにリホリホが1つ提案をする。
事務所との話し合いの場に、まーちゃんの推薦で「まーちゃんの師匠」として招待されたのだけれど、リホリホはその時まで自分が場違いであることに気が引けて1つも発言をしていなかったらしい。
しかし、さすがのリホリホもここでまーちゃんの活動が止まるのはよくないと思ったらしく、「今までみたいに、私たちが演奏動画を取る分にはいいんでしょ？」とまーちゃんに尋ねてみる。
「それはオーケーです。やっさんたちだけの前でだったら演奏できます」
「じゃあさ、ライブができるようになるまでの間の成長記録みたいな感じで、動画形式で発信していくのもアリかな？」
「ライブじゃなきゃいいです。まーちゃんは知らない人からお金取って演奏したくないだけなんです。だから、本当に上手になるまではお金取りません！」
結局、そのリホリホの提案通りに、音楽事務所は「まーちゃん、初ライブへの挑戦！」という企画を打ち出すことになった。
そして、これまたそれが斬新な企画だと注目を集め、テレビなどでも取り上げられるようになってしまった。
現に、まーちゃんが初めてテレビに出たときはまだライブをする前で、せっかく注目の女子高生ギタリストとしてテレビ出演を果たしたのにもかかわらず、ギターには指一本触れなかった。
ギターを始めるきっかけと、ケサランパサランが白粉（おしろい）を食べるという話をして、その30分番組は幕を引いた。
当時、まーちゃんはまだ高校1年生の16歳だったけれど、あれからもう4年が経ち、今年はもう成人式を迎える。
無事、16歳のクリスマスに初ライブを成功させてからは順調にミュージシャンとして身を立てているまーちゃんではあったけれど、未だに実家に住んでいるし、CDならまだしも、ライブとなるとお金を取るのを嫌がっていた。
「だって、まーちゃんより、やっさんの方がギター上手いですもん。なのに、まーちゃんがライブしてお金貰うのは間違ってると思いません？」
「それじゃあ、この世界で1番上手い演奏家以外、音楽で食べていくことはできなくなっちゃうよ」
リホリホはそう正論を言って宥めるけれど、まーちゃんはへそを曲げるばかりで、未だにライブでは会場費とスタッフの賃金以外は取らず、破格の安値でライブを開催している。
「じゃあ、やっさんよりもギターが上手くなったら、お金取ります！」
良い子であるのは間違いではないのだけれど、もう少し一般的な考え方を身に着けて欲しい、と誰もが思う子であった。
そんなまーちゃんの弾き語りを聴きながらケーキを食べ、そのまーちゃんの師匠であるリホリホの演奏を聴きながら紅茶を啜った。
まーちゃんの演奏は確かにエキセントリックで人を魅了するものがあったが、リホリホの方がギターが上手いというまーちゃんの言葉も嘘ではないと感じた。
リホリホはもう本格的にはギターを弾いていないみたいだったけれど、一音一音がくっきりと聞こえ、その強弱が実に見事にコントロールされていた。
「私のギターはただ技術的に上手なだけなんですよ。だから、優樹ちゃんに教えることができる部分はあるんですけど、私が優樹ちゃんからその爆発的な表現力を学ぶことはできないんです」
芸術には疎い私だったけれど、リホリホがそう言うのも何となくわかった。
「だから、やっさんよりも上手にギター弾くのが今の目標です！」
「何年かかることやら」リホリホは小馬鹿にしたように笑った。
素敵な子たちだな、と思う。まーちゃんの真っ直ぐさも素敵だと思うけれど、リホリホがまーちゃんに嫉妬したりしていないことが凄い。
リホリホが高校3年生の年明け頃（クリスマスにまーちゃんが初ライブを成功させてからすぐの頃）に、私はリホリホに尋ねてみた。
「リホリホはまーちゃんにもう嫉妬したりしないの？」
「最初の頃より……今までも何度かコンクールで私よりもミスした子が金賞を取ったことがあったんです。あの時の気持ちに近いものが私の中にはずっとありましたね。
でも、どうしてあの子が金賞で私が銀賞だったのか。考えてみれば、結構明白にわかるもので、私にはないものをその子は持っていたんです。
だから、そういう意味で言えば、私は優樹ちゃんには完敗なんです。技術の正確さ、高度さで全てが決まる世界だったらもっと悔しかったんでしょうけどね」
「でもさ、そもそも世の中が技術の正確さや高度さで優劣が決まる世界じゃないことに嫌気はささないの？」
「そんな世界、私だって嫌に決まってるじゃないですか」
リホリホが眉を潜めながら笑うのを見て、私は本当に素敵な子だな、と思う。
逞しいと思うけれど、リホリホの中にあった様々な葛藤がそういう考え方をリホリホに身につけさせたのだと思うと、少し悲しくもなった。
周囲の期待のためにギターを頑張り続けたリホリホ。でも、そういうやり方じゃ上には行けないと悟りながらも、それでもリホリホはギターを辞めるわけにはいかなかった。
そんなときにダンスに出会って、ギターでは足りないと思っていた部分が、ダンスによって補完されていく。
けれど、それはギターには還元できるものではなく、リホリホは周囲の期待を裏切る形でギターから逃げるしかなかった。
ギターじゃダメなんだ、と思うためにまーちゃんの才能は背中を押してくれたけれど、でも、本当に悔しくないと言ったら嘘になる。
悔しいから頑張る。きっとそれが情熱というものなのかもしれない。
けれど、そのときのリホリホにはもう悔しさを情熱に変えるだけの力は残っていなかった。私が、れいなとの関係性をやり直す力が残っていなかったように。
だから、私はリホリホを放っておくことができなかった。
あの春休みの小さなリサイタル以来、ギターに希望を見出しかけていたにもかかわらず、まーちゃんという凄まじい光が、リホリホの希望を焼き尽くす。
私はその凄まじい光からリホリホを守るための日傘であり、そして裏切りの血の雨を受け止める雨傘の役目を務めなければならなかった。
ギターという大きな質量を持つ惑星の重力に引きずり込まれるリホリホを救うために、私は兎にも角にもリホリホの近くにいるようにした。
万有引力は距離の二乗に反比例すると言う。私は高校時代に学んだ物理の授業を信じて、とにかくリホリホの近くにいて、私の引力とギターの重力を相殺させるようにしたかった。
ケーキと小さな演奏会が終わり、私たちはそれぞれ帰途につく。
私がさりげなくリホリホを手招くと、フクちゃんは何かを察したように「それじゃあ、私は先に帰りますね」と手を振って背を翻した。
私とリホリホは2人でその背中を見送り、声も届かないくらいにその背中が遠ざかったところで顔を合わせる。
「亀井さんのことですよね」とリホリホが小さく言う。
私が頷くと、「少し長い話になるかもしれません」とリホリホは眉間にしわを寄せた。
「とりあえず、車乗って。うちで話そう」
私の提案に今度はリホリホがこくりと頷いた。
たった8畳しかない自分の部屋にリホリホを案内するのは少し恥ずかしいような気もした。ともすれば、いまリホリホが東京で一人暮らししている部屋よりも小さいだろう。
私がそんなことを気にしてると、助手席に乗ったリホリホが「道重さんのお家に行くの久しぶりです」と言う。そうだ。リホリホは何度か私の家に来たことがあるんだった。
彼女はまだ高校生で、そして小さく寒い部屋の中で私たちは裸で抱き合った。一瞬にして性的な記憶が思い出され、私は少しだけ頬が上気してしまう。
ちらりと横目でリホリホの方を見やると、言った本人もまた頬を赤らめているので、私もより緊張してしまう。
家に着き、リホリホを部屋に案内するが、緊張のせいかまるで自分の家に帰ってきた気がしない。とりあえず、座椅子をすすめ、紅茶を入れる準備をする。
「お構いなく」なんて言葉を覚えたリホリホを可愛らしく思い、「リホリホはさゆみに構ってほしくないの？」なんて軽口をたたいていると、ほんの少しだけ昔に戻れたような気がした。
今もリホリホは私に抱かれることを求めているだろうか、とふと思う。
私はまたリホリホと裸で抱き合いたいという気持ちがあったけれど、どちかと言えばそれは2次的な動機だった。
私の当面の望みは、あの頃のもっと親密だった空気感をまた作り上げるということだった。
しかし、何よりもまずは絵里のことだ。私たちは絵里のことを話すためにここにいる。物事には名目と優先順位というものがあるのだ。
熱い紅茶をテーブルの上に２つ置き、私とリホリホは向かい合って座った。
「リホリホはどこで絵里に会ったの？」私はティーカップの取っ手に指をかけながら尋ねる。
「バイト先です。私はいま向うのファミレスでバイトをしているんですけど、そこで偶然亀井さんが働いていたんです」
「絵里、まだフラフラしてるんだ」彼らしいと言えば彼らしいが、何というか少し残念でもある。絵里はただのフリーターなんかで収まっているような人間ではないはずなのに……
「亀井さんなりの考えがあるんだと思いますけど……」
「まぁ、そうだろうね。絵里はなんて言うか普通とはちょっと違ったところがあるし」
「そうですね」リホリホは私に同意しながら少し嬉しそうに微笑を浮かべた。
「なんでリホリホは絵里とさゆみが知り合いだってわかったの？」
「普通に出身地の話をして、そして亀井さんが昔この街にいたって話をしてくれたんです。そして、どうして私が上京したのかとか話してるうちに、
私が『公民館にいたお姉さんの影響ですかね』みたいなことを言ったんです。そしたら、亀井さん、急に顔色が変わって、『それってもしかして道重さゆみという女じゃなかったか？』って」
驚いた。私は絵里に公民館で働いているなんて教えていなかった。というか、そもそも連絡を取る手段もなかったし、彼がどこにいるかだって知らなかった。
私たちは完全に分断されていたのだ。もしかしたら、彼は私のことを気にしていて、どこかから私の足取りを追ってくれたのかもしれない。
私の人生はわかりやすい道筋を辿っていたし、調べようと思えばいつだって誰だって簡単に調べられてしまうだろう。しかしながら、彼がそんなことをするとは思えなかった。
それにしても「道重さゆみという女」って。ずいぶんな物言いだ。
「それでリホリホは絵里とどんな話をしたの？」
「それは……」
リホリホは何か言いにくそうな表情を浮かべる。
私が「無理して言わなくてもいいんだよ」と謝ると、リホリホは首を横に振って「どう整理したらいいかよくわからなくて」と溜息交じりで答えてくれた。
私はとりあえずリホリホに紅茶を勧め、私もティーカップをようやく持ち上げた。
私はリホリホが紅茶を飲みながら頭を整理している様子を眺めていた。眺めているうちに、何となくリホリホの戸惑いの正体が見えてくる。
人の心でも読み取る超能力が身に付いたかしら、なんて場違いな言葉を頭の中で唱え、私も切り出し方を考えた。
リホリホが口を開く一瞬手前、私の方が早く切り出しの言葉を見つけ出したようだった。
「もしかしてリホリホは絵里のことが好きなの？」
リホリホは黙り込んだ。しかし、その黙り込みが質問に対する肯定であることを、私もリホリホも承知していた。
そりゃあ、リホリホも言いにくいだろう。かつて、愛に引き寄せられ身体を重ねた相手に対して、新しい恋の話をするというのはなかなかに心苦しいことだ。
しかも、かつての女に、新しい男の話をするというような場合は特に。
「まぁ、リホリホが絵里とどんな話をしてるのかはどうでもいいの。何となく聞いてみただけだから、気にしないで。ちなみに、絵里はどうしてさゆみが公民館で働いていることを知っていたんだろう。何か絵里は言ってた？」
「え、道重さんが自分で教えたんじゃないんですか？」
「ううん。さゆみは絵里の連絡先も知らないし、それどころかこうしてリホリホから話を聞くまで、東京にいるということさえ知らなかったの」
「そうなんですか？」
「絵里は何も言ってなかった？」
「道重さんの制服姿を知っている、くらいのことしか言ってなかったんで……」
「やっぱり絵里は変人だ……」
「そういうの、ちょっと羨ましかったですけどね」
「リホリホが正式に頼んでくれるなら、いくらでもコスプレするよ」
「そういう意味じゃないです」
リホリホが少し肩の力を抜いて笑うので、私も少しだけ緊張を和らげる。いつの間にか緊張している私がいたことに、ようやく気付いた。
どうも話だけ聞いていると、リホリホは絵里とそこまで私に関する話をしていないようだった。
リホリホがそれを避けたのか、絵里がそれを避けたのかまではわからない。おそらく両方が私の話を避けたに違いない。
リホリホは恋した相手に自分には同性愛の気があるのだと悟られたくはないだろうし、絵里にしたって私のことを説明しようとしたらあの混濁した一連のことを語らなければならない。
仮に、私やれいなについて話すことに躊躇いがなかったとしても、こんな幼気なリホリホに対して自分かつて17歳という年齢でラブホテルで働いていたことを聞かせなくてはならない。
変なところに気を遣う絵里のことだ。案外、私のことを喋らなかった理由はそんなところにあるのかもしれない。
仕方がないので、私はかつての私たちについてリホリホに聞かせてやることにした。絵里には悪いけれど。
何せ、私とリホリホはあの冷たい時期を2人で身体を寄せ合って耐えた仲なのだ（リホリホは私が一方的に彼女を救っていたと思っているかもしれないが、あの時期は私にとっても辛い時期だった）。
「私が高校2年生のころ、絵里と会ったの。とても不思議な出会いでね、それを説明するのはかなり面倒だし、ちょっと教育上よろしくない部分もいくらかある。もし、時間があればだけど話してもいいかな？」
「ぜひ聞きたいです」
リホリホは切実な目を私に向ける。リホリホのまっすぐな瞳には、絵里と私の姿が（幾分か絵里の割合の方が多いように私は感じたけれど）映っているように思えた。
「まずは絵里との出会いを話すためには、田中れいなって女の子について話す必要があるんだけど。リホリホは絵里かられーなのことを聞いてたりするかな？」
「あ、はい。一度だけ、ほんの少し」
「ほんとに？ どんなこと言ってた？」これはちょっと驚きだった。
「いえ、ほんとに名前が出た程度で。道重さんの話が出たときに、『道重さゆみと田中れいなっていう2人に自分は随分と救われた』って言ってました。
深くは話してくれなかったんですけど、何となく話し方からすると、道重さんとその田中さんという方は親友だったのかな、って思ってます」
「親友ね……まぁ、親友っちゃ親友なのかな。学生時代の友達と言って思い出せるのは、れーなくらいなもんだし」
そのれいなとも今となってはほとんど連絡も取っていない。自分が随分と孤独な人間であることを私は改めて実感する。
「さゆみとれーなは同じ高校で、たまたま同じ図書委員になったの。さゆみは良い子ちゃんぶりっ子の優等生。対して、れーなはいわゆる不良少女だったんだけど、いつの間にかよく話すようになってね。
で、あるときれーなが援助交際でお金を稼いでいることを知ったの」
「え、援助交際ですか……」
「一応、れーなの面目を守るために言っておくと、れーなは自分の身体を触らせはしなかった。手と口でしてあげるだけ。ま、こんなんで面目が保たれるとも思わないけどね。
ただ、そのころのれーなは色々と遊びたい盛りだったし、お金が必要だった。お金を稼いで、それを使うことでしか、れーなの中で渦巻く何か黒いものを発散することができなかったんだと思う。
ただ、そんなことを言われても、さゆみはまだ純真無垢な高校生だったし、当然『援交なんてダメだよ』って口うるさく止めに入った」
「道重さんも常識的なところがあるんですね」
「この話を聞いてそんな感想が言えるリホリホは非常識だと思うよ。まぁ、話を戻すけど、当然れーなはいわゆるヤンキーだからね。
さゆみの忠告なんて聞かずに、援交のためにラブホテルに向かった。私は心配半分、好奇心半分って感じでその後をつけていって、そして運悪く、いや、結果的には良かったのか。
さゆみは偶然、れーなが襲われそうになっているところに遭遇したの。こんなのは当たり前だと今になって思うけど、男の人が手と口だけで満足してくれるなんてそんな平和な世界は存在しない。
それまでの相手が手と口だけで済んでいたのは本当に運が良かっただけ。
れーなの後をつけていったさゆみは鍵の閉まったドアの向こうから聞こえるれーなの悲鳴を聞いて、何とか助けなくちゃって思ってドアを叩いたんだけど、そしたら中から男の人に怒鳴られてね。
『お前もおかすぞ』みたいなことを言われたような気がする。それで、さゆみ怖くなっちゃって、その場に立ち尽くしてたんだけど、そこにたまたま通りかかったのが絵里だったんだ。
絵里はその時まだ17歳だったけど、わけあってラブホテルで働いていた。
後々、その理由をさゆみは絵里から教えてもらったけど、これはあまりにも絵里だけのプライベートに関することだから、もし知りたければ絵里から聞いて。
絵里は高校にも通ってなくて、そのラブホテルで働いていた。
そして、さゆみから事情を聞くと、マスターキーを使って部屋の中に入って、一本背負いでその男の人をとっちめたの。今でもあの時の光景はよく覚えてる」
「亀井さん、凄いですね」
「ほんと凄かったし、格好良かったよ。ま、そんな経緯があって、さゆみは絵里と知り合って、それから何回かデートをしたの」
「急な展開ですね。付き合ってたんですか？」
「わかんない。結局、付き合ってはなかったんじゃないかな。それでも、さゆみは幸せだったけどね。平和な青春時代……まぁ、れーなさえいなければ、だけどね」
「田中さんがまた何かしたんですか？」
「これだけは言っておくけど、別にれーなは悪い子なんかじゃないの。本当はどこまでも純粋で、それでナイーブで傷つきやすくて。
れーなはその一件があってから、援交をやめたんだけど、それまで援交で稼いだお金でストレスの発散をしていたからね。
それが無くなってしまって、やり場のないモヤモヤした気持ちをさゆみにぶつけるようになったの。いわば、代償としてさゆみを求めたってわけ。
さゆみもれーなのことは好きだったから、れーなを受け入れて、まさしくかつてのさゆみとリホリホみたいな関係性になった」
私の言葉にリホリホは複雑そうな顔をした。それも当然と言えば当然だ。
いま現在好きな亀井絵里という人と、かつて関係があった相手である私が半ば恋愛関係のようなものにあって、しかもその私が絵里とは別に同性の相手と乳繰り合っていたと知らされたのだから。
「さゆみは絵里と健全な交際を続ける裏で、れーなとグズグズの関係を始めた。絵里は男で、れーなは女。だから浮気とかそういうんじゃないんだと自分に言い聞かせてね。
でも、そんなことを続けられるような能力はさゆみにはなかったの。そもそもれーな1人だってあの時のさゆみには救うことができなかった。
リホリホと一緒にいたときは、さゆみも歳を取っていたし、絵里とれーなとのことから少しは学んでもいた。
だから、個人的にはそんなに酷いことにはならなかったと思ってるんだけど、その時のさゆみはもう最悪だった。結果的に、絵里もれーなも傷つけたし、絵里とれーなにも傷つけられた。
そして、絵里はさゆみたちの元から去って、さゆみとれーなの関係も大学進学と同時に消滅してしまった。そういうことがね、さゆみと絵里の間にはあったの」
随分と間を省略したように思うけれど、とりあえずは私と絵里の関係について、リホリホに説明することができた。
リホリホはこんなことを聞かされても、いったいどうすれば良いんだ、とわかりやすく当惑の表情を浮かべている。
私も何がしたかったんだろうと自分で首を捻りながら、それでも言いたいことを言い終えてすっきりとした思いで紅茶を啜った。
「道重さんは、私と一緒にいたとき、やっぱりその時のこと……亀井さんや田中さんのことを思い出したんですか？」
「そうね……やっぱりれーなのことは思い出した。れーなのときもとにかく近くにいてあげることしかできなかったけど、
それでも近くにいるということがどれだけ支えになるのかということはれーなから学んだしね。リホリホもあの時は何か支えが必要だったように、さゆみには思えたから」
そう言えば、絵里も似たようなことをしていたっけ。かつて駆け落ちした相手を救えず、その経験から私とれいなを救おうとしてくれた。
「どうして、そのときに亀井さんたちの話を私にしてくれなかったんですか？」
私が昔のことを思い出そうと視線を逸らしているうちに、リホリホの表情は厳しいものに変わっていた。怒っている。リホリホの怒りは確かに私に向けられていた。
「私は道重さんに対して、できうる限りすべてを打ち明けました。私が今までどんな経験をしてきて、その度にどんなことを感じ、どんなことを思ってきたか。
なのに、道重さんは体の良さそうな聞き心地の良い言葉だけを並べて、私を窘めるようにしていただけってことだったんですか？」
「違うの。そういうわけじゃないの。さゆみにとって絵里とれーなの話は本当に誰にも言ってこなかった、さゆみの核についての話。
だから、本当はそれを誰かに話して受け入れてもらいたかった。ずっとそう思って生きてきた気がする。でも、あの時のリホリホには話すことができなかった。それはさゆみのせいなの。リホリホに嫌われたくなかったの」
「今は嫌われてもいい、ってことですか？」
「今のリホリホなら受け入れてくれる。そう思ったから、いま話したんだと思う」
「答えになってません」
「嫌われてもいいか、ってことなら、嫌われてもいいと思ってる。ううん、違う。やっぱり嫌われるはずがないっていう魂胆があるから、嫌われてもいいなんて言えたんだと思う。
ねぇ、リホリホ。リホリホは気づいてないかもしれないけど、本当にリホリホは変わったと思うの。とても穏やかになったし、懐も深くなって、大人になった。
別段色々と話したわけじゃないけど、そういうのってしっかり伝わって来る。これは話を逸らすわけじゃないんだけど、１つ聞いてもいいかな。リホリホはもうギターとダンスで迷うことはなくなったんだよね？」
「……昨日も話した通りです。私はダンスと関わる仕事に就きたいと思ってます。ギターも今日みたいに時々は弾き続けていきたいです。とりあえず、優樹ちゃんが私より上手くなるまでは私も下手になるわけにはいかないと考えています」
「うん。やっぱりリホリホはさゆみといたときのリホリホじゃない。1人で東京に行って、そしてその中でこんなに成長して、またこうしてさゆみの目の前にいる。
なんだかさゆみはタイムスリップでもしたような気分なの。そして、不思議な巡り合わせでリホリホは絵里を連れて来た。比喩的にだけどね。
さゆみがまだあの公民館にいたとき、絵里とのことはリホリホには言えないと思った。れーなのことは尚更ね。言ったら、リホリホを傷つけるだろうし、傷つければ当然嫌われちゃうから。
でも、今はむしろちゃんと言わなきゃいけないな、って気持ちなんだ。
大人になったリホリホはきっと打ち明けてもさゆみを拒絶しないだろうし、なんて言うか、今はさゆみとリホリホで絵里の話をするべきなんだと思ったの。ねぇ、リホリホはどう思う？」
「私は……私はそれでも傷つきました。むかし好きだった人、もちろん今でも道重さんのことは大好きです。
でも、それとは違った温度感で今はまた亀井さんのことも好きになってしまったんです。そんな2人がむかしは恋人みたいな関係で、しかもそのとき道重さんは亀井さん以外にも別の人と関係があった。
それがかつての私と道重さんみたいな関係性にあったなんて……そんなことを今さら聞かされても、私はどうしていいかわからないんです」
「傷つけたことは謝るの。ごめんなさい。でも、いつかはリホリホに言うべきことだったし、こうして絵里の話がリホリホの口から聞けたタイミングだったから、今しかないかなって思ったの。
それにこう言っちゃなんだけど、リホリホも聞きたいって言ってくれたでしょ？」
「あんな風に、話してもいいかな？なんて言われたら、聞きたいって言うしかないじゃないですか」
リホリホはそう言って、溜息をついた。私は苦笑いを浮かべて、「そうだよね、ごめんね」と謝るしかない。カップに残った紅茶は既にかなり冷めてしまっているようだった。
リホリホは「ちょっと疲れました」と言って、テーブルの上で腕を組み、その上に顎を乗せた。
上目遣いで私の方を見上げる。すらりとしなやかな奥二重の三日月目。小動物のような愛らしい口元。顎を腕に乗せているせいで、可愛く皺が寄っている。
「誘ってるの？」と私が言うと、彼女は「違いますよ」と笑って身体を起こし、今度は座椅子の背もたれに体重を預けた。まっすぐ伸びた黒髪が輪郭を隠す。
リホリホは膝を立て、内股気味に静かに膝をこすり合わせた。口を軽く緩ませ、無気力に放り出された腕の先で、幼げな指先が意味深にこちらに向けられている。
私もいくらか話過ぎて頭が疲れていた。前頭葉に軽い痺れを感じる。あぁ、かどわかされているなぁ……そんな言葉が瞼の裏を這った。
私は膝立ちになってリホリホに近づき、覆いかぶさる。天井から降り注ぐ蛍光灯の明かりがリホリホの身体をキャンバスに私の影を描く。
両手でリホリホの頬を包み込み、緩く開かれた唇の隙間を私の唇で埋める。あぁ、愛しい。愛を確かめる方法が、こんな粘膜の接触であることがもどかしく感じられるくらいに、私はリホリホの唇にむさぼりついた。
道重さん、私、傷つきました。息継ぎの合間に、リホリホはそう小さく零す。慰めてください。あらあら、いつの間にこんなに色っぽいことができるようになったのかしら……
時間にすればほんの僅かなものだったかもしれない。濃密な口づけは、ふとした瞬間には終わっており、後にはほとんど何も残らなかった。
ある種の衝動のようなものもまるで霧が晴れるように、ほとんど瞬間的に消え去っていた。
静かな部屋の中、時計の秒針の音だけが聞こえる部屋の中で、私とリホリホはほんの数十センチの間を隔てて意図もなく見つめ合っていた。
「私は亀井さんが好きです。道重さんはいま好きな人はいますか？」
道重さんに車で家まで送ってもらった。亀井さんと道重さんのことを聞くことができて、私はそれなりに満足だったけれど、道重さんはどこか物足りなさそうに見えた。
それは決して、私と久しぶりに身体を重ねられなかったからとかそういう理由ではなく、おそらくは私から亀井さんの話があまり聞けなかったからだろう。
道重さんは「もう昔の話だし」というような感じで喋っていたが、心の中では未だに亀井さんのために取っておかれているスペースがあるに違いない。
それはきっと私のために取っておかれているスペースよりも、道重さんの心の奥深く、底の方にあるに違いない。
道重さんに1つだけ言わなかったことがある。
それは亀井さんが「さゆに会うことがあったらよろしく伝えておいてくれ」ということだった。亀井さんはきっとまだ道重さんのことを想っている。おそらくは、道重さんが亀井さんのことを想うよりも強く。
そんな2人がもし再会することになんてなったら……きっと私が2人の間に入り込む余地など無くなってしまうだろう。自らの手でそんなことをすることは、どうしたって私にはできなかった。
せめて、私が私の想いを亀井さんに打ち明けるまでは。それまでは、道重さんにもう少し待ってもらわなければならない。
もう何年も待てたんだ。あと数か月くらい、何とか待ってもらおう。とても卑怯な手ではあるけれど、私にはそうするよりほかにできることはなかった。
陽が沈む前から静かに雨が降り出した。風も少し出てきたようだ。オレンジ色のノスタルジックな夕焼けを期待していたのに、深い灰色の空が私の願いに取って代わって表れた。
そらから降りつける雨はいかにも冷たそうで、庭の花木を暗く染めた。千切れた葉が土の上を転がり、窓の額縁の外へと消えていった。
私の今の気持ちにおあつらえ向きの天気だ。
私の心は確かに傷ついていた。私のことを見つめて欲しいと願っていた2人が、実は私を通して、お互いのことを見つめ合っていたようなものだ。
私は自分が透明なガラス窓か、中身をくり貫かれた空洞にでもなったような気分だった。バカな子どもがふざけて駆け抜ける、俺は空洞。でかい空洞。
たしか、そんな歌詞の曲があったっけ。私という空洞の中を亀井さんと道重さんが手を繋いで駆け抜けていくイメージがふと頭に浮かんでしまった。私は部屋の窓を開けて、手を伸ばしてみた。
雨はちゃんと冷たく、私の心の温度にしっかりと同化してくれた。
身体が冷えて来た。私は窓を閉め、部屋に戻る。いつの間にか髪や服を濡らした私がガラス窓にぼんやりと浮かび上がっている。
ガラス窓が鏡になるくらいには、陽も暮れてしまったようだった。寒い。私は溜息を吐いて、シャワーを浴びることに決めた。
髪をドライヤーで乾かしながら、子供向けテレビ番組を眺める。実家でこうして1人でそんなものを見ていると、どこか子供返りしたような感じがした。
温かく、家庭という檻で守られていた小さな頃の私。ずっとその中で、温かい毛布に包まって眠っていられたら。いったいいつ私がそれ以外のことを求めただろう。
しかし、それはいつの間にか奪い去られ、冷たい雨が降り注ぐ、荒涼たる大地のうえに私は放り出されてしまった。
両親や子供向けテレビ番組、毛布やぬいぐるみに代わって私を温めてくれる人は誰だろう。ドライヤーの風の音で、テレビからの音は何も聴き取れない。
カラフルな映像だけが、網膜の上を通り過ぎていく。すっかり髪は乾いてしまったが、どうしてだかテレビの音を聴くのが怖くて、ドライヤーのスイッチを切ることができない。
しばらくそうしているうちに眠気が襲ってくる。あぁ、やっと私は優しい眠りの中へと逃げることができる。テレビがニュース番組に代わり、私はドライヤーのスイッチを切って、目を閉じる。
ニュース番組の雑然とした言葉、言葉、言葉。柔らかなノイズの中で、私は意識を閉ざし、眠りへと落ちていく。
最後に私の中で、道重さんの優しい口づけのイメージがふわりと広がり、そしてすべてが薄暮の中に飲み込まれた。
朝起きて、仕事へ向かう両親を見送る。1人残された家の中で久しぶりに真面目にギターの練習をする。
タンゴ・アン・スカイ、フェリシダージ、フォーコと、ローラン・ディアンスの曲を一通り、時間をかけて反復演奏してみた。
一時間くらいで少しずつ指が動くようになってきたような感覚があり、二時間もすると指が痛くなってきた。
指の腹の皮が痛むのはもちろんだが、関節に疲れが溜まりそれが痛み出すところを見ると、どうやら変な力が入ってしまっていたらしい。
あれだけ毎日練習していたというのに、時間というのは辛辣だ。どれだけ身を捧げてもほんのわずかしか振り向いてもらえない。
なのに、ほんのちょっとこちらが視線を外してしまうと、もう彼の背中すら見えなくなってしまう。そして、あっという間に私以外の人間の味方に付いて、私を嫉妬の渦の底に沈めてしまうのだ。
昔はそのことがとても辛かった。もちろん、私は自分の才能にどこか欠落した部分があることを知っていたし、表面的にはそのことを受け入れている風に振舞ったりもしていた。
しかし、本当は割り切れてなどいなかったし、だからこそ私は進路に悩み、そして佐藤優樹という才能に追い込まれ、救いを年上の女性に求めた。そう、道重さんだ。
指が疲れた。コップに水道の水を汲み、それを飲み干す。ふう。指を広げて、仔細にそれを眺めてみる。この細く短い指が、私という人間の半分近くの価値を占めているのか。
そう思うと何だか不思議な気がした。音もなく風に揺れる庭の木の葉が、なんだか懐かしい。
けれど、その緑の葉は冬に落ち、この春に灯り始めたものであって、かつて私が見て来たものとは確実に違うものなのだ。やはり不思議な気持ちになる。
確かなことなど何もないのだろう。私は変わり、この庭も変わった。傍目にはそんなに変わったとも思えないだろうけれど、確実に変わっていくんだ。
何かの本で読んだけれど、人間の細胞は2か月で丸々入れ替わってしまうらしい。遺伝子という設計書に則って、私という人間が何度も何度も複製されているだけに過ぎない。
繰り返し、繰り返し、コピー。コピーの度に少しずつ色が薄まっていく。テロメアが０となったとき、私は真っ白な無意味の紙になってしまう……はて、私はいったい何を考えていたんだっけ。
そう言えば、昨日の雨はすっかりどこかに消えてしまったみたいだ。相変わらず風は吹いているけれど。
午前10時を回った頃、家のチャイムが鳴り、宅配便かと思いインターフォンに出ると、そこにはギターケースを担いだ佐藤優樹が立っていた。
彼女のことは好きだけれど、私は少しだけ気後れしてしまう。優樹ちゃんは「ギター教えてください」と子供のような声で叫んだ。断るわけにもいかず、彼女を家に招き入れる。
ふわり。さっぱりとした匂いの香水がかおる。柔らかそうなパーカーにダメージジーンズというラフな格好だったけれど、どうしてか品が良く見える。ふと彼女に触れてみたくなる自分がいる。
しかし、彼女はこんなに可愛らしく美しい身体の中に、触れるものを切り裂くような鋭い才能を秘めているのだ。
下手な喩えになってしまうけれど、よくある通販番組。そこに出てくる良く切れる包丁。色々なものをスパスパと切っていくその様に爽快さを感じる人間は多いだろう。
でも、私はまるで咬ませ犬のような感じで引っ張り出されては身を刻まれていく野菜や肉を想うと、胸が苦しくなった。
ただの見世物として切り刻まれる彼らに自分を重ねてしまうからだと気づいたのは、大学に入学して一人暮らしを始めてからだった。
飲み会から帰って来て、ひとりで深夜の通販番組を見ているときに、ふとそんなことが頭を過ったのだ。今、テレビ画面に映るあれは、まさに自分だ、と。
さっそく私は優樹ちゃんからギターを手渡されて、せがまれるままに先ほど練習していたタンゴ・アン・スカイとフォーコを弾いてやる。
うっとりしたような面持ちで私のギターに聴き入ってくれるのは嬉しかったけれど、どちらもわずか３〜４分の曲ながら集中を欠かすことはできない。どちらもタイプの異なる集中力、そして筋力が必要になる楽曲だ。
タンゴ・アン・スカイの方は1つひとつのストロークを切れ味鋭く、歯切れよく。リズムの揺れ、ビブラートのかけ方1つをとっても緻密に計算通りに。
それでタンゴらしい気品や優雅さ、さらに艶やかさのようなものを感じさせなければならない。
ポイントは強弱の付け方と、細かいパッセージの中で少しだけ気怠さを見せること。ハンマリングとプリングのタイム感でそれを演出する。そしてゴルペ。つまり、ギターのボディを叩く強さとタイミングはジャストでなければならない。
叩く位置によっても、音が変わるから細心の注意を払って。最後は跳ねるように、チャン、チャン。この2音の長さや音量のバランスで楽曲の出来が決まる。
私の演奏が終わると優樹ちゃんは目を細め、秋の木漏れ日に金木犀の香りを嗅いだときのような笑顔を綻ばせた。
こんなことを言うと自画自賛になってしまうけれど、きちんと音楽がわかっている人に、こうやって素敵な表情を見せられると、私も心の底から嬉しくなってしまう。
惜しむらくは今の私の演奏技術が錆び付いてしまっていることだ。これもまた変な言い方だけれど、全盛期の私の演奏をきちんと優樹ちゃんに聴かせてやりたいと思った。
私がそう言うと、優樹ちゃんは「今のやっさんだからこそ、まさの心をきゅってさせてくれるんだと思います」と誉めちぎってくれる。
「昔のやっさんの方が、もっと綺麗に上手に弾けたのかもしれないですけど、そういうんじゃなくて〜……もっと技術の繊細さじゃない、心の繊細さみたいなのがたぶん演奏に必要なんですよ」。
わかったような口を利くけれど、まぁ、実際優樹ちゃんはわかっている側の人間なんだろう。
そして、そういう言い方をされると、長年私が悩んできた「演奏の個性」について、ギターを辞めた今更になってその個性が出てきたのだと思えて、少しだけ悲しくもなった。
次に私はフォーコを演奏する。イタリア語で炎を意味するこの楽曲。作曲者のローラン・ディアンス自身が生死の境をさまよったときに作った楽曲。
人間の命を炎に見立てて、生々しく有機的な、つまり予測不能なパッセージと曲展開がこの楽曲の肝となっている。
が、何といっても難しい。よくエレキベースの奏者が手数、指数の多い楽曲を「ベラベラ弾く」というような言い方をするが、まさにこのフォーコは「ベラベラと弾き」続けなければならない。
しかも、ベース音の踏み込むタイミングが特殊で、リズムも取りにくい。クラシックギターには珍しくチョーキングを取り入れたりもしており、不安定な音色が楽曲を支配している。
ポイントは、トレモロやアルペジオの強弱の付け方で、炎が揺れる様をどこまで表現できるか。
最後のスラップ奏法を用いたカッティングのフレーズではありったけの情熱を込めて、命を燃やし尽くすように弾く。そして、暖炉の最後の薪がことりと首を折るように終わる。
曲を弾き終わると額には汗が滲んでいた。カロリーの高い楽曲だ。優樹ちゃんも息を止めて聴いていたような感じで、終曲後、静けさの中で2人の抑え込むような呼吸の音だけが聴こえた。
「まさ、この曲好き」
確かに、タンゴ・アン・スカイよりはこっちのフォーコの方が優樹ちゃんらしい。独創的で、情熱的で生々しい。肉感的な魅力がある。
炎のような揺らめきは確かに計算ずくで演出できなくもないが、計算されたものよりはその場の空気感なども踏まえて、臨機応変に自分の感性で描いていく方が美しくなるだろう。悪魔的な力強さは優樹ちゃんらしい。
対して、タンゴ・アン・スカイはどちらかと言えば、私向きの楽曲かもしれない。きっちりと、それでいて大胆に。技術と基礎体力を極限まで高めて弾き切る。厳しさの中に柔軟性を込める。
どこまで行っても感性が先に立つ優樹ちゃんよりは、やはり私らしい楽曲だ。
最後に私はまたせがまれて、ソルの主題による変奏曲を弾いた。あの公民館の体育館で演奏した楽曲だ。それまでの2曲で波に乗れたおかげだろうか。
ほとんど練習していないにもかかわらず、8分以上にも及ぶ大曲を、私は何とか最後まで弾き切ることができた。弾き終わると、指の皮が剥け、喉もカラカラになっていた。
両手の指の関節がじんじんと鈍く痛み、頭もぼうっとする。優樹ちゃんが家に来てから、30分ほどしか経っていない。が、私はもうヘトヘトになってしまっていた。
「何か飲み物と甘いものでもどうですか？」優樹ちゃんが笑顔でそう言う。
「いいね。でも、私の家だよ」
「遠慮しなくていいですよ。まさが持ってきますから」
「いや、だから私の家なんだけど」
家主の私がおもてなしをするべきところ、客人である自分が代わりにもてなしてやる、というのが優樹ちゃんの考えなのだろう。
私は、勝手に他人の家の冷蔵庫やら戸棚やらを開けるのは失礼だろう、という想いだったのだけれど。
会話は噛み合わないけれど、でも、これまでも音楽以外のことで優樹ちゃんと話が噛み合ったという覚えがない。だから、今さらそんなことを口に出してもしょうがない。
私は優樹ちゃんが持ってきてくれたオレンジジュースとカントリーマームを受け取り、礼を言う。
私はソファに移動して、優樹ちゃんを隣に侍らせた。目鼻立ちがはっきりとしている彼女が隣にいるだけで、何か世界が華やかになったような気がする。
どちらかと言えば、薄味の顔をしている私は、そんな彼女の外見もまた羨ましく思ってしまう。
「さっきの2曲目に弾いてた、ジャラジャラジャラ〜って曲、まさも弾いてみたいです」
「フォーコっていう曲で、イタリア語で炎って意味なんだよ」
「へぇ。でも、なんか炎っていうよりは、川って感じがしました」
「川？」
「次々、音が溢れて、どんどん流される〜みたいな」
「へぇ。不思議だね。私はもう炎のイメージしか頭に浮かばないけど」
「もちろん、炎っていうのも感じますけど、まさにとっては川でした。あの、あれです。なんて言うんでしたっけ？」
「いや、ノーヒントでは無理だよ」
「あれですよ、あれ。何とか川」
「信濃川？ 最上川？」
「違いますー、違います」
「天の川とか？」
「うーん、違いますって。あれですよ。ジャズ、みたいな」
「ジャズ？」
「ジャズじゃなくて、ジャズ川、みたいな感じのやつです」
「いや、全然わかんないよ」
「あぁ、もう。いいですよ、やっさんのわからずや」
「こういうタイプの『わからない』は『わからずや』とは言わないんだよ、優樹ちゃん」
「もう、やだ」
優樹ちゃんはそれからも少しばかりの間、言葉が喉元まで上がっているんだけど、みたいなもどかしさを浮かべていたが、カントリーマームを何枚か食べるとあっさりと気持ちを切り替えて、持って来たギターを手に取った。
私は動画サイトで、何人かの演奏家によるフォーコの演奏動画を見せてやった。人によって表現の仕方が全然違って面白い。
自分の弾き方と似た弾き方をしていれば上手いと感じ、そうでないと下手だと感じるのはどうしてだろう。客観的に見れば、絶対に私よりも上手なのだけれど。
いくつかの演奏動画を見た後で、私はフォーコをゆっくりと弾いてやった。１つひとつのフレーズを何回も一緒に弾き、それを繋ぎ合わせていくことで気がつけば1曲が完成している。
とびっきり耳が良く、指も柔らかい優樹ちゃんは、およそ2時間でこの難曲を一通り弾けるようになった。
まだまだテンポも遅いし、細部はマチマチになってしまうけれど、とりあえずは楽曲としての体を為すようにはなった。
最後に、優樹ちゃんが通しで弾いた後に、私も弾いて聴かせてやる。「やっぱりダメだー！」と叫ぶ優樹ちゃんだったけれど、その表情はどこか楽しそうでもあった。
気がつけばもう午後1時を回ろうとしている時分。午後の温かい空気が街を満たしていた。対して、私たちのお腹はぺこぺこでさもしい。
近くに蕎麦屋があるから、と私は優樹ちゃんを引き連れて、昔からよく行っていた蕎麦屋に行った。
歩いてものの五分。暖簾をくぐり、席に着くと、「あら、久しぶり」と女将さんがお茶を運んできてくれ、私はざるそば二人前を注文する。
「やっさんはもうギターやらないんですか？」
「どうだろう……でも、ギターで食べていくつもりはないかな。今はダンスの方が好きだし」
「えー、もったいなーい。あ、じゃあ、今度はやっさんが踊る動画作りましょーよ」
「ムリムリムリ！ 人に見せられるようなものじゃないし！」
「でも、ギターは一緒に動画撮ってくれたじゃないですか」
「そりゃ、ギターはまだ一応人前で見せられるように練習してきてるし……」
「なのに、ギター辞めてダンスやるんですか？」
「だって、ダンスの方が好きだし」
「へんなのー」
私でも変だとは思う。けれど、実際その通りなのだから仕方がない。
ギターはずっと人前で演奏するために技術を磨いてきたものだし、一応コンクールとかでもそれなりの成績は出しているから、自信だってそれなりにはある。
プロのギタリストと自分の現在地の距離感だってよくわかっているし、セミプロを名乗っても差し支えないくらいの自負もある。
対して、ダンスはまだ素人に毛が生えたくらいのもの。プロのダンサーなんてまだその背中すら見えていないし、まずは身の回りのダンスサークルにいる誰よりも上手くなるというのが自分の今の目標なのだ。
そんな人間のダンスを人前に晒すわけにはいかない。ましてや佐藤優樹なんていう有名人の名前の下で。
私がそう説明すると、「まさがライブでお金取らないこと怒るくせに」と優樹ちゃんには珍しく、正論で返されてしまう。たしかに、と私は首肯せざるを得ない。
「なんか、やっと優樹ちゃんの心境がちゃんと理解できた気がする」
「理解なんかいいですから。ね、一緒にやりましょー！」
ざるそばが運ばれてくると、腹をすかせた私たちは、無言でそれを一息に啜った。
「あ〜、美味しかった」
幼いころからの行きつけの蕎麦屋に満足してもらえて、私は嬉しくなる。そう言えば、大学生になり上京したけれど、東京で蕎麦を食べたという記憶がない。
おそらく私は別に蕎麦が好きというわけじゃないんだろう。蕎麦なんて別に好んで食べるものじゃない。
それでも、こうして帰省して来て、家の近くで何かをご馳走するとなったら、この蕎麦屋にやって来るのだ。人間というのは不思議なものだ。
家に戻ると、帰りがけにコンビニで買って来たシュークリームを食べる。蕎麦の後のデザートとしてシュークリームが妥当かどうかは甚だ疑問ではあるけれど……紅茶を入れて、ソファに並んで座る。
「そう言えば、優樹ちゃんは一人暮らししないの？」
「しませんよー」
「でも、仕事の度に東京まで出ていくの大変じゃない？」
「うーん、でも、そんなに仕事多くないですし。レコーディングとライブ以外はこっちでできますもん」
「事務所の人と打ち合わせがあったりするんじゃないの？」
「ネット会議で済ませてるんで」
あの優樹ちゃんから「ネット会議」という言葉が飛び出して来て私は少しうろたえるけれど、この天然っ子は意外とパソコンとかが使えるタイプの天然っ子だったことを思い出す。
最近、彼女が配信リリースした楽曲も、彼女が音楽制作ソフトの打ち込みで作ったらしい。打ち込みのリズムの上で12弦ギターの煌びやかな音色が鳴る、不思議な質感の楽曲だったけれど、評判は良かった。
何よりも「佐藤優樹は打ち込みもできるのか！」というところが話題をさらった。
「逆にやっさんはなんで東京に行っちゃったんですか？」
「私？ 私はダンスをするため」
「ここじゃできないんですか？」
「そう。ここじゃダメなんだ。1回、ひとりになって、そこでダンスだけに打ち込んでみたかったんだ」
「ふうん……まさの……いないところがよかったですか？」
優樹ちゃんは、じっと私の瞳を覗き込んできた。私はどう答えてよいかわからず、つい目を逸らしてしまう。胸が苦しくなる。
けれど、私は何かの主人公みたいに「逃げちゃだめだ」と自分に言い聞かせ、優樹ちゃんの方に向き直る。彼女はまだ私の方をじっと見つめていた。
「そうかもしれない……でも、そういうことじゃない」
「どういうことですか？」
「優樹ちゃんがいたから、私もいつまでもぐずってないで、一生懸命ダンスに打ち込まなきゃって想えたんだとおもう」
優樹ちゃんは軽く首を傾げる。
「優樹ちゃんの才能が羨ましかった。でも、優樹ちゃんの才能を目の当りにするずっと前から私はギターをいつ辞めればいいのか、って考えてた。
ダンスに逃げ道を求めていたわけじゃないけど、ダンスが好きになって、好きなダンスに没頭する人生を夢見るようになった。
でもね、優柔不断な私はギターを捨てきることもできずに、ギターを隠れ蓑にダンスをすることしかできなかったの。
それだけじゃなくて、道重さんやフクちゃん、そして優樹ちゃんの前で、あの公民館で演奏して、改めてギターが好きになって、自分の人生を迷ってしまった。
その後、優樹ちゃんがギターを始めて、とんでもない才能で瞬く間に有名になって、そこでまた私はギターが嫌いになって……で、そんな時期に道重さんが私を支えてくれた。
正直ね、もう私には何が何だかわからなかった。優樹ちゃんを応援したいって気持ちもあったし、逆に優樹ちゃんを妬ましく思う気持ちもあった。
ギターが好きで、それでいて嫌いで、ダンスは好きだけど、逃げ道にはしたくないし。道重さんは優しいからずっと甘えていたかったけど、でも、ずっとそこに甘えていたくはなかった。
それで、なんだかよくわかんないけど、いったん1人になって、もう1回ゆっくりと自分で自分を立て直さなくちゃって思って、それで東京に行ったの。
そして、行ってみてやっぱり私はギターよりもダンスをして生きていきたいって思えるようになったし、それからは優樹ちゃんが頑張っているのもとても励みになった。
だから、最初から前向きに『ダンスをするぞ！』っていう風に上京したわけじゃないけど、
結果的に私はダンスとしっかり向き合えるようになるために東京に行くことにしたようなものだったんだ。まぁ、後になって思えばってことだけど」
どうしてかわからないけど、私の話を聞きながら優樹ちゃんは涙を流していた。
目じりで綺麗な玉になった透明な涙が、まるで魔法が解けるみたいにして、すっと筋になって滑らかな頬を落ちていく。
まーちゃん、やっさんのこと傷つけちゃったのかな、ってずっと思ってて。
そう言うと、優樹ちゃんは私に抱きついてきた。
私は彼女の柔らかな身体を抱き止め、頭を撫でてやる。かつて、道重さんがそうしてくれたように。そして、道重さんが昨日話してくれたことを思い出す。
リホリホは大人になったよ。
大人になった私はこうして、あの佐藤優樹を抱きしめてやることができている。
自分で傷つけておいて、それを慰めてやるというのもおかしな話だけれど。それでも、私は自分がやはり少しは成長したのだなとも感じる。
当時、田中さんを救ってやることができなかった道重さんが、その何年後かに私を救ってくれたように。
しばらく私は優樹ちゃんを抱きしめていたが、そのうちに彼女は泣き止んで、私から身体を離した。鼻をずるずるとすすり、そしてガハハと優樹ちゃんらしい大雑把な笑い声をあげた。
何がおかしいのかよくわからなかったけど、とにかく彼女が笑うので私も笑わずにはいられなかった。
「やっさん、大好き」
「私も優樹ちゃんのこと好きだよ」
「ほんとに？」
「ほんとに」
「どれくらい好きですか？」
「これくらい！」そう言って、私は優樹ちゃんに抱きつく。
「ぎゃー、やっぱりやっさん嫌い！」
私をはねのけようとする優樹ちゃんの腕を掴んで、なおも抱きついてやろうとすると、何かの弾みでバランスが崩れ、ソファの上で優樹ちゃんを押し倒すような格好となる。
艶やかな髪が扇のように広がり、朝方彼女が部屋に入って来たときに鼻腔をくすぐった爽やかな香りがふわっと舞う。
ぱっちりとした二重。煌めく瞳。定規を当てて描いたようなすらっとした鼻筋。なんて可愛い顔をしているんだろう。
私は思わず、顔を寄せてしまう。半分だけ開かれた優樹ちゃんの唇。色っぽく実った厚い唇だ。
「やっさん、女の子のことが好きなんですか？」
「えっ」
「まさ、知ってますよ。みにしげさんとやっさんのこと」
息が詰まる。鼓動の音が鼓膜の辺りで聞こえる。背筋に冷や汗が流れる。
なんで優樹ちゃんがそんなことを知っているんだ。フクちゃんだって知らないはずなのに……道重さんがあえて優樹ちゃんに私との関係を話すはずもない。
「別にまさはそういうこと気にしないですよ。そんなことでみにしげさんややっさんのこと嫌いになったりもしないです」
「気にしない、って……」
「まさもやっさんとなら、別にいいですよ」
涼しい顔をして、優樹ちゃんはそんなことを言う。私の頭は展開についていけず、ただただ自分の鼓動がうるさい。
「でも、やっさん。いま、別に好きな人がいるんじゃないですか？」
「なんでそんなこと……」
「だって、やっさん、みにしげさんと喋りにくそうにしてるから」
その言葉を聞いて、私はどうしてかすべてのことに納得がいってしまった。私はやはりまだ佐藤優樹という人間のことをちゃんとは理解できていない。彼女は、天然で天才なのだ。
言語能力が乏しく、喋り方が幼いだけで、彼女の感性は猫の髭のように鋭敏だし、頭で考えるよりも先に、そこにあるものが何であるのかを感じてわかってしまうのだろう。
「東京で好きな人ができたんですか？」
私は相変わらず優樹ちゃんの上に覆いかぶさったまま、「そうだよ」と答える。
「今度はちゃんと男の人のことを好きになれた」
「安心しましたか？」
「そうだね。でも、それも結局ダメになりそう」
「ダメっていうのは、もうその人のことが好きじゃなくなったってことですか？」
私は反射的に首を横に振る。でも、私は本当にまだ亀井さんのことが好きなのだろうか。
「わかんない。道重さんからね、その人の話を聞いたんだ。どうやら、私が好きになった人は、むかし道重さんが好きだった人みたい。道重さんが高校生の頃のこと」
「そのことが何かやっさんに関係あるんですか？」
「関係ないと言えば、関係ない。でも、まだ道重さんには言ってないけど、その人はまだ道重さんのことが好きかもしれない」
「やっさんはそう思ってる」
「そう」
私は溜息を吐いて、身体を起こした。元の位置に座り直し、優樹ちゃんも後に続いて起き上がって来る様子を見つめる。
「ずるいよね。そういう大事なこと言わないで、隠しておくなんて」
「まさもみにしげさんに内緒にしてることありますよ」
「それは大事なこと？」
「やっさんにも言いづらいですけど、まさは、やっさんの他にもみにしげさんのこと好きな女の人知ってるんです」
「女の人？」
「まさのメイクとか髪の毛とかやってくれるスタイリストさんが、たまたまみにしげさんのこと知ってて。ちゃんと聞いたわけじゃないんですけど、絶対みにしげさんのこと好きだと思います。たなさたん、っていうんですけど……」
「たなさたん？」
兎
リホリホは、絵里のことを好きだと言った。
好きだ、と宣言するくらいだから、もちろんまだ2人が特別な関係にはあるはずがない。
そして、いくら相手があの可愛らしいリホリホだからと言って、絵里がリホリホのことを好きになるとは考えにくかった。
窓の外はすっかり暗くなっていて、いつの間にか雨が降り始めていた。風も吹いているようだった。
こんな天気のせいなのか、やけに心が寂しい。
心の中にはいくつか部屋があって、几帳面な私はその１つひとつの扉にきちんと鍵をかけて閉めている。それぞれの部屋の中には、私の記憶が眠っている。
早く捨ててしまいたいけれど、捨てることのできない不燃ゴミみたいな記憶をそこに入れているのだけれど、どうしてかそういう記憶はたまに取り出して手に取ってみたくなる。
まるで小さい頃に遊んでいた着せ替え人形を、大掛かりな掃除のときに見つけてつい手に取ってしまうみたいに。
私はあの17歳の頃の記憶をずっと意図的に心の角部屋の中に閉じ込めて来た。部屋の鍵は机の引き出しの一番奥に押し込めて。
私の心の暗い廊下には、時折その部屋から明るい光が零れ落ちて来て、いやでもその部屋の存在を思い出さずにはいられなかったけれど、
そんなのは大学時代の最初の数年くらいのもので、気がつけば大学も卒業し、働き始め、転職だって1回経験しているし、最近ではほとんどその部屋の存在を意識することはなくなっていた。
もちろん、廊下の角にはその部屋が存在しているということはずっと頭の中にあったけれど。
しかし、それにしたって少なくともその部屋の中の様子をあえて思い浮かべるようなことはもうほとんどしていなかった。
そういうのは人間として、特に人間の女として至極当然のことだったし、何だったら女の割には長くその記憶に苦しめられてきた方だと思う。
もちろん、今でだって絵里のことは好きだし、絵里と再会してやり直すことができたら素敵だとも思う。
都合の良いことに、私はあれ以降「男」とは交際してこなかったし、だから私の心はずっと絵里のために取っておくことができた。
もし別の男と交際していたら、絵里のことはきっぱりと忘れられていたかもしれない。他の女と同じように。生憎、私にはそんなことは起こらなかったけれど。
だから、私は不思議なのだけど、どうして今更こんなにも寂しいのだろう。
リホリホが絵里のことを思い出させたから？ もちろんそれもある。
けれど、リホリホは「道重さんの心の奥には、亀井さんがいる部屋があるんですよね」と聞いてきただけに過ぎない。
そこで私は「あぁ、そんな部屋もあったね」とだけ言って、しばらく掃除してないなぁ、なんてちょっとした罪悪感に駆られるくらいにしておけば良かったのだろう。
でも、頭の悪い私は、リホリホに黴臭い昔話を聴かせるために、部屋の鍵を開けてしまった。部屋の鍵を開けて、そこにあったものをまた手に取ってしまった。
けれども、手に取ったものはすべて薄汚れていて埃まみれで、まさに幼い頃の着せ替え人形を見つけたときのような、そんな心持にさせられてしまった。
部屋の中にあるのは、もはやそういった冷たくなった過去の感情だけで、その部屋の中には絵里もれいなも誰もいなかった。部屋の暗い窓ガラスにはひとりきりの私が映っているだけだった。
リホリホもいなくなった現実の8畳間で、私は目を瞑る。まだ6時を回ったばかりだけど、やけに眠かった。そして、何もする気が起きない。
あぁ、しかも明日は仕事だ。
ベッドに寝転がり、布団を首元まで引き上げる。たったそれだけが、私に残された最後の力だった。自分の呼吸音さえ聞こえないけれど、私はまだちゃんと生きているのだろうか。
雨降るアパート前の通りを車が走り抜けていく。水溜まりを踏む音。意識のちょうど皮下組織で、隙間風がうなる音が聞こえたような気がした。
あぁ、お腹減ったな。
夏の気配も薄れ、すっかり街は秋色。年々秋は短くなっていくが、この調子だとこれから生まれてくる子供たちは、春と秋という存在を知らずに大人になっていくかもしれない。
と、そんな季節のことをあえて考えているのは、きっと気持ちを落ち着かせるためだろう。
僕は終電間際の電車に揺られながら、今日のバイト終わりの出来事について考えまいとしている自分がいることを否定できない。
とは言え、いつまでもこんなことを放っておくわけにもいかない。
僕にとっては、意表を突かれ、どうにも手を付けることすら憚られるような手に余る一件だったけれど、彼女にとってはきっととても大切なことだ。
そんなことわかっているくせに、こうやって季節のことなんて考えているのだから、僕はまったく以って薄情なやつだ。
高校生、いや中学生の頃から何も進歩しちゃいない。むしろ、中学生の頃と比べたら退化していると言ってもいいくらいだ。
しかし、こういうことがこれまでも全くなかったというわけではない。色々なアルバイトを転々としているが、そこで様々な女性からこれまで言い寄られてきた。
不思議と僕は彼女たちに対して何も愛着を持てなかった。それは僕が仕事での付き合いとしてしか彼女たちを見られなかったからだろう。
僕はそれほど仕事に真面目という性格ではないと自分では思っているが、浮ついた感情を仕事場に持ち込まれることが苦手だった。
僕がずっと定職に就かないのは、職場での馴れ合いみたいなのがあまり好きではないからかもしれない。いや、もちろんそんな仕様もない理由が通るはずもないが。
アルバイトであれば、与えられたタスクを与えられた権限の中で、効率良く処理していくだけでいい。大きな判断や信念というのも必要とされない。
僕は大きな責任を負う必要もないし、ただ手の届く範囲内で細やかな判断を積み重ね、目の前のタスクを終わらせるだけだ。
さて、そんな僕のフリーター観について改めて考え直している場合でもないか。
これまでと同じように、6つも年下の女の子に告白をされてしまった。
彼女のことは「好きでも嫌いでもないねぇ」なんて、ナンバーガールのMCみたいな言葉が頭を過るけれど、どうしてか今回の彼女だけはそう簡単に捨て置くこともできなそうだ。
彼女はあの道重さゆみと接点があるそうだ。いったいどういう接点なのか。
かつての道重さゆみと田中れいなの関係性を思えばこそ、あまり深く追求したくはないけれど、まぁ、彼女は道重さゆみにそれなりに恩のようなものを感じているようだし、それならそれで良いではないか。
ともかく重要な点は、僕に愛の告白をしてきた鞘師という女の子が、道重さゆみを慕っているという事実だ。
いったいこの事実に対して、僕はどういう対処をしたら良いのだろう。
ずっとアルバイトで食いつないできた僕にとって、これほどに大きな問題は、つまり大きな判断はまさに手に余るタスクと言えた。
僕の対処できる範疇を優に超えている。しかしながら、今回の件についても幸いなことに僕は判断というものをする必要はないのだ。
なぜならば結論は何よりもはっきりしていたし、だからこそそこには僕があえてしなければならない「判断」なんてものは存在しない。僕は自明の結論について彼女にそのまま伝えてやれば良い。
僕は彼女と男女交際するつもりはない。
それは何よりもはっきりしている事実だった。
その理由について問われると僕は困ってしまうが、しかし、名目上の理由ならいくらでも付けることができそうだ。
例えば、先に説明したように、僕の仕事観……いや、アルバイト観のようなものを理由として表明することもできよう。
「悪いけど、僕は職場恋愛はしない主義なんだ」
そう言えば良い。
しかしながら、まぁ、彼女の熱量にもよるけれど、僕がそんなことを言えば、「じゃあ、私がこのバイトを辞める」なんてことを言い出すかもしれない。
少しくらい頭の切れる子であれば、「どっちにしてもフラれたらこのバイトは続け辛くなるし、辞める覚悟で告白したのよ」なんて横暴なロジックを準備している可能性だってある。
では、この場合、この理由は適当ではない。
じゃあ、次に僕が表明できる理由は何だろう。
「年齢が違い過ぎる。僕と君は6つも歳が離れているよ」
あぁ、もうこの段階で、この理由はあまり効果が無いように思えてしまう。
「じゃあ、何歳からならいいの？ 3歳？ それは学年として3年ってこと？ それともあなたの誕生日から起算して？ あるいは年号だから、早生まれはOKみたいなこと？
ちなみに私は未熟児として生まれたんだけれど、その場合は私が母の子宮から取り上げられた日から考えればいいのかしら、それとも病室から出た日から考えるべき？」
そんな話をされたら中学までしか出ていない僕の頭はこんがらがってしまって、不本意ながら「わかった、いいよ。付き合おう」なんてことを口走ってしまうかもしれない。
そうして、僕はまた1人の女の子を不幸にしてしまうのだ。
だから、年齢を持ち出すのはやめよう。
そもそも「サバを読んでいたの。あなたはてっきり若ければ若いほど良いって考え方の人だと思っていたものだから」なんてことを言われてしまったら僕にはもはやどうすることもできない。
ならば、いっそのこと「タイプじゃないんだ。僕は君に惹かれていない」とはっきりと言ってやれば良いか。
「じゃあ、あなたはどんな子がタイプなの？」
「物分かりが良い子かな」
「ふうん、私は物分かりが悪いってわけね」
「わかったよ。外見の好みの問題なんだ。こればっかりはどうしようもない」
「整形という手だってあるわよ」
「僕は整形という行為が好きになれないんだ。何かを偽っているような気がするからね」
「あら、じゃあ、あなたは化粧している女性は嫌いなのね。そうなると、あなたが好きになれるのはこの世の女性のうち、女子小学生くらいしかいないんじゃないかしら」
さて、僕はいったい何と言って彼女の申し出を断ればよいのだろう。
そんなことを考えているうちに電車は僕の家の最寄り駅までたどり着いてしまう。僕は重い腰を上げて、ほかの数人の乗客とともに列車から降りる。
一日中同じところを回り続けるエスカレーターに対し「ご苦労様」と肩に手を置き、前のサラリーマンの皺のついたジャケットの裾を見つめ、自分が今こうして立ち尽くしている無意味について漠然と想いを馳せる。
ただ立ち尽くしているだけなのに、何秒後かには僕は別の場所に運ばれていて、また自分の足で歩きださなければならない。すべての道が動く歩道だったらいいのに。
いつだったか道重さゆみがそんなことを言っていたっけ。彼女ほど「運動」というものが嫌いな人間も珍しい。溜息交じりに僕は口元をほころばせる。
思考をリセットしてセーブポイントまで戻ろう。
とにもかくにも、僕は彼女の申し出を断るための論理上正しいと思われる理由を見つけ出すことはできなそうだ。しかし、得てして現世、うつしよは論理的正確性のみで左右されるわけではない。
ましてや、ここは「曖昧の国、日本国」である。どんな理由であろうと、僕が彼女を拒否する姿勢さえきちんと見せることができれば、彼女は大人しく引き下がってくれるに決まっている。
あの鞘師という子はしっかりとした自分の考えを持っている子ではあるが、それを他人に強要したりするほど不躾な子ではない。きちんと和の国の民的な謙虚さで身を引いてくれるはずだ。
だったら、もはや僕が悩む理由なんてないじゃないか。
その通り。僕もその考えに同意する。なんて言ったって、主張も同意も判決もすべて僕の一人芝居なのだから。
話が逸れるけれど、自分で言うのもなんだが、僕は他人を見る目が意外とある方だと思っている。
だから、あの鞘師という子がどういう考えで、どういう行動を取るのかということは手に取るようにわかる。
これはあの鞘師という子に限った話ではなく、普通に一緒に仕事をしている相手ならだいたいのことが僕にはわかってしまう。
「だいたいわかってる」なんて言葉を使うと、どうしてもあの愛おしい田中れいなのことを思い出してしまうが。
これは僕が色々なアルバイトを転々として、色々な人と一緒に仕事をして、色々な客の対応をしてきた中で培われた「能力」と言っても良いかもしれない。
だからまぁ、鞘師が僕に愛の告白をしてきたというのも、ある程度予測できることではあった。
あの子にしてはやや性急すぎる、積極的過ぎるという気もしたけれど、人間というものはどこでどんな「きっかけ」を拾ってくるかわからない生き物なのだ。
きっとあの子の身の回りで、急ぎ足で僕に告白しなければならない理由でもできたのだろう。
「誤差の範疇」という言葉よりは、あくまで「確率的に十分起こり得ることだった」と言った方が正しい。もともとが確率的挙動を示す量子の集合体なのだ。
我々物質世界の住民はいくらその体が巨視的な視野に立とうとも、その根源的性質を払い除けることはできないのだと僕は考えている。
だから僕は僕がいま置かれてしまっているこの状況に対して驚いてなどいない。というか驚くべきではないはずなのだが……しかし、1点だけ解せないことがある。
ある意味では、彼女が僕に対して愛の告白をしてきたことよりも、この1点こそが僕の混乱の種であり、すべてと言えよう。
僕が返答を先送りにさせてほしい旨を彼女に伝えると、まるで彼女は何かの取引上の代償を求めるように、僕に1枚のコンサートチケットを手渡して来た。
「とにかくこのライブに一緒に来てください。1か月半も先だから、まだ予定の都合はつけられますよね。返事はそのときで大丈夫ですから、とにかくライブ、お願いします」
彼女は2回も「とにかく」という言葉を使った。「とにかく」という言葉は「兎にも角にも」の略語であり、仏教語の「兎角亀毛」から考えられたとされている。
兎角亀毛……兎に角はなく、亀に毛はない。つまり、現実にはあり得ないことの喩えらしいが、どうしてそんな言葉が「いろいろな事情はさておいて」なんて意味になったのだろう。
色々と可能性の話についておっしゃいましたが、そんなものは兎に角が無く、亀に毛が無いように現実にはあり得ないことでございます。つまり、兎にも角にも……という具合に、話を先に進めさせていただきたく存じます。
はい。その通りでございます。話を先に進めてくださいませ。
季節は初冬。すっかり寒くなって、これからまだ寒くなるのだと考えるだけで気が滅入ってくる。
私はこの冬の寒さに耐えられるのか。生きて春を迎えることができるのか。
ついついそんなことを考えてしまうけれど、なんだかんだ言いながら毎年何とかなっているのだから、今さらそんなことを心配する必要もないか。
そこまでがワンセットのルーティーンになっていて、ある意味ではそれが最初の冬支度の儀式とも言えた。
私はマフラーに口元までうずめながら、ひと気のないキャンパス内を足早に歩いていた。どうしてひと気がないのか。それは私が今日も今日とて遅刻をかましているからである。
どれだけ頑張っても私の遅刻癖は治らない。特に寒い季節ならなおさら。ダメだなぁ。こんなんじゃ就職もできたもんじゃないよ。
いくらそう思っても、温かい布団が蔓となって私を縛って離さないのだ。私を責めるのはお門違い。
そこまで言うのなら、あの魔の布団をどうにかしてみなさいよ。それこそあなたの研究している、人間行動学みたいなものを駆使して。
私はそんなことを考えながら、「いやいや、これは失敬。不承不承」という険しい表情を作って、講義室へと入場を果たす。教授だけではなく、退屈を持て余した学生たちの視線も私に注がれることとなる。
なんで前にしか出入り口のない講義室を使うんだよ！
見当違いの怒りを胸に、席に着く。当然ながら後ろの席は埋まっているから、一番前の席に座るよりほかない。
教授、そんなに睨まないでください。私だって後ろの目立たない席に引っ込みたいと心から思っているんですから。
退屈な講義の時間。どうして私はいまこんなところにいて、こんなことをしているのだろう。
道重さんもこんな風に大学時代を過ごしたのだろうか。いや、道重さんのことだから、要領よく必要最低限だけの出席日数を稼いで、あとは自分の好きなように時間を使ったはずだ。
私みたいにとりあえず、遅刻をしてでも何とか授業に足を運んで退屈をむさぼり、そしてテスト前になれば、慌てて勉強を始めるなんて非効率的なこと道重さんがするはずもない。
道重さんが今の私を見たら、いったいどんなことを思うだろうか。きっと呆れてしまうに違いない。
最近、また道重さんと話す機会があって、そのときに道重さんは自分の大学時代を思い返してこんなことを言っていた。
「あんまり大学時代の記憶ってないな。ただただ毎日を消費するだけだったように思う。まぁ、今でもあんまりそれは変わらないんだけどね。
前も話したと思うけど、さゆみは本当に疲れていたの。高校時代にあまりにも色んなことがあって、そのせいでもう指一本も動かせないような、そんな感じ。
見える景色も全部モノクロに見えたし……なんて、流行りのラブソングみたいなことを、どこまでも無感動な心の中でぼんやりと唱えているような……本当に何も目的だとか意志だとかそういうのがまるでなかった。
日々はただ通り過ぎて行くだけのものだったの。気がつけば公務員試験を受けて、大学も卒業してた。それはそれで面白味もあることだと思うの。
意外とね、人間ってのは生きようと思わなくても生きていけるものなんだ、って。自慢でもないし、全然嬉しくもなんともないんだけど、『あぁ、さゆみって意外と器用なんだな』みたいなことを思ったりもしたな。
だって、何の意志もないのに、気がついたら公務員になってたんだから。さゆみのこと羨ましがる大学の同期もいたけど、それもなんだか面白かったな。
さゆみのいったい何を羨んでいるんだろう、って。無気力に生きることがどれだけ辛いかなんてきっと知らないんだろうな。
希望がどこにもないことがどれだけ寂しいことなのかなんて考えたこともないんだろうな。
あぁ、でも、心配しないでね、リホリホ。別にさゆみは死にたいだとかそういうことは思ってないから。そういう負の考えに捕らわれることすらできないほど、疲れていたの、さゆみは。
だから、リホリホが頑張って東京で一人で大学生してたり、フクちゃんが綺麗な女子大生になっていたり、まーちゃんがとんでもないことになってたりするのを見るとね、とても嬉しくなるの。
なんていうか、さゆみの分まで大学生してるなー、生きてるなーって。さゆみは自分でそういう経験ができなかったけど、さゆみが大好きな皆を見ていると、なんて言うか疑似的にそういう経験ができているような気がするの。
不思議だよね。だからさ、色々と思うようにいかないこともあるだろうけど、挫けそうになることもあるだろうけど、精一杯頑張ってほしいの。
さゆみはそれこそ挫けることすらできなかったわけだから」
どれくらい本気で道重さんがそんなことを言っているのかわからないし、当時大学生の道重さんが感じていたものの恐ろしさを私はきちんと理解もできないけれど、
それでも道重さんが手放しで私たちの人生を応援してくれていることはよくわかる。そういうのが一つあると確信できるだけでも、随分と人は救われるのだということも。
講義は何も面白くないし、恥をかくことも多いけど、それでもきっとこんな私のどうしようもない大学生活だって、道重さんは愛してくれるだろう。だから、私は私なりにきちんと大学生活を全うしなきゃ。
そんな風にして自分を慰めながら、私は講義室の１番前の席で眠ってしまう。教授に睨まれながら。
ほんとうにどうしようもない人間だな……
フクちゃんに初めて会ったのは、私が大学生でフクちゃんが中学生の時だ。
お金のために個別指導塾講師のアルバイトを始めて、ようやく仕事に慣れた頃に私が担当したのが女子中学生フクちゃんだった。
彼女はとても上品な家……もっと端的に言うのならば、経済的な豊かさのある家庭の娘だった。
中学生にもなってアンパンマンが好きだとか、女性アイドルが好きだとか、エレベーターの押し釦が好きだとか、お嬢様には似つかわしくない変わった趣味も色々とあったけれど、
ざっくり言って彼女は素直で物分かりが良く、教え子としては理想的な子と言えた。
しかしながら、そんなフクちゃんに私は振り回されてしまうことになる。いや、「フクちゃんに」と言うよりは、「フクちゃんの家庭に」という言葉の方が正確だろう。
ある日、私がいつものように個別ブースの中でフクちゃんに勉強を教えていると、彼女はほんの少し辺りを憚るような雰囲気で私に喋りかけてきた。
「先生、ちょっと良いですか？」
「うん、なに？」
「あの……急なんですけど、先生は家庭教師とか興味ありますか？」
「え、家庭教師？」
「いや、その、たぶん塾的にはルール違反だと思うんですけど、先生さえ良ければ私の家庭教師になってもらえたらって……」
「つまり、こうやって塾で勉強を教えるんじゃなくて、フクちゃんのお家で勉強を教えるってこと？」
私は自分でそんなことを聞き返しながらも、急に不安になって周りを見渡す。
ブースを区切るパーテーションのせいであまり状況はつかめなかったけれど、今日はたしか人が少なかったことを思い出す。おそらく講師は私を入れて3人。
互いが互いに気を遣い合って、できるだけ距離が離れるようにブースを確保しているはずだった。
フクちゃんは「どこまで直接的な言葉を使うべきか」ということで女子中学生なりに頭を悩ませているみたいだったが、私はおおよその話の展開を推測することができた。
「その、具体的なお金のこととかはパパと話してもらってって感じなんですけど……」
そう言って、フクちゃんは電話番号の書かれたメモを私に渡して来た。カムフラージュのつもりなのか、そのメモは女子中学生がよく手紙交換で使うような形に可愛らしく折られていた。
労働契約の交渉連絡先という実務的機能とそのファンシーな外見のミスマッチが少しだけ不気味に見える。
こういう話は「あるある〜」とまではいかないけれど、たまにあることはあるらしい。つまり、塾に勤めている講師は、実際の授業料の半分以下も貰うことができない。
塾の運営にお金がかかるため、生徒の保護者は実際に授業を教える講師にお金を払うというよりも、その塾のシステムに対してお金を払っているのだ。
それを無駄だと考える人間がたまに、いま私がされているような提案を持ちかけてくることがあるそうだ。
そして、余計なトラブルを回避するためにアルバイトの塾講師はそういう申し出を受けてはならないルールになっている。
しかし、保護者からのそういった申し出はアルバイトの塾講師にとってはかなり美味しい話になる。
具体的な金額の話になるけれど、生徒の保護者が月謝という形で月に2万円支払っていたとする。これを月4回の授業料と考えると、1回あたり5千円の出費だ。
対して、アルバイトの塾講師に会社から支払われるお金は1回あたり多く見積もっても1〜2千円程度となる。
これを仮に個人的な家庭教師として直接雇うことになる場合、例えば1回3千円という契約にすれば、これによって保護者側もアルバイト側もWin-Winの状況が生み出される。
損をするのは……というか、収入が減るのは塾を経営する会社側であり、当事者間には利益しかない。
もちろん、塾に属することで色々とメリットはある。受験の情報、授業のノウハウ、ほかテキストや自習スペースなど諸々の付加価値は、生徒側にも講師側にも存在している。
が、上手くやればそれらの付加価値は自らの工夫で損なわずに済ませることだってできる部分も大きい。
例えば、週に1回の授業を塾で契約しておき、追加の分は個人的な家庭教師スタイルで行えば、塾に籍を置き、その恩恵を受けながらも安上がりに済ませることができるし、単発で授業のスケジュールも組むことができるため非常に効率的と言える。まぁ、そういった事態を想定して、塾側も週2回目からの授業料はかなり安く設定していることが多いが。
と、かなり細々とした塾講師アルバイトの裏話をしたけれど、最終的にその後の直接の交渉によって、フクちゃんは塾を辞めることとなり、私は私で塾に籍を残しながらも、秘密裏にフクちゃんの家庭教師を務めることとなった。
そして、さすがは経済的に恵まれた家の一人娘というだけあって、塾に払っていた授業料と同額で譜久村家は私を雇ってくれることになった。
交通費はそこから自分で支払うよう言われたが、それを差し引いても私の時間あたりの稼ぎは倍以上になった。
「ほら、塾だと帰りが遅くなるでしょう。もちろん、帰りは塾に迎えに行きますし、ミズキも私たちに嘘をついて塾をサボるようなことはしないと信じていますが、
それでもやはり一人娘が遅くまで家の外にいるというのは気掛かりなものです。最初から家庭教師というのも考えてはいたんですが、
こちらの塾であれば何人か色々な講師の方と授業を行ったうえで担当を決めさせていただけるということでしたから。
できることならミズキが好きになった先生に教えていただいた方が良いでしょう？ で、素敵な先生が見つかったので、だったら最初の私の希望通り、ウチで教えていただければと思ったわけですよ」
父親に溺愛されているお嬢様は、「パパは大袈裟だから」と困ったような顔をしていたけれど、「でも、道重先生を独り占めできるみたいで、悪くはないよね」とそんな可愛らしいことを言ってくれた。
そうして私はお嬢様住まう瀟洒な邸宅でそのお嬢にお勉強を教え、たわいもない話をし、美味しいお菓子と紅茶、それからたまには夕食、いや晩餐をご馳走になった。
高貴なお家で高貴なお食事を頂いていると、自分までその高貴な一族の一員になったみたいでなかなか面白かったのを覚えている。
もちろん、ペルシャ絨毯が敷かれた馬鹿でかいリビングに20人も並んで腰かけられそうなこれもまた馬鹿でかいテーブルがあって、その中央にはキャンドルが……みたいな、とんでもない豪邸というわけではない。
ただ、テーブルは私を入れて6人が囲ってもまだ広々としていたし、壁を覆いつくさんばかりのでかいテレビは食事中には消されていたし、食後には必ずフルーツかスイーツのデザートが優しそうなお母さんの手で運ばれてきた。
フクちゃんの弟は好物が出て来ると「やった！」と無邪気に喜び、私と同い年だという兄は甘いのが苦手なのか「ミズキ、やるよ」とデザートをフクちゃんに渡し、フクちゃんはフクちゃんで「わーい、ありがとう！」とこれまた無邪気に喜ぶ。
そんな様子を見ていると、私までその美しい家庭の一部になれたような気がして、幸福感を感じることもできた。
しかし、絵に描いたような素晴らしい家庭に、私のような薄汚れた人間が入り込んでいることに対して時々申し訳なく感じることもあった。
たまたま私はこの愛らしい女子中学生に見初められて、こんな温かい場所にいることができるけれど、言ってしまえば私は卑しい家の出の小娘だ。
未だ辛酸を舐めているであろう親兄弟（つまるところ、それは私にとっては絵里やれいなのことなのだけれど）を想うと、少し胸が痛んだ。
そして、当然ながらそんな汚らしい痛みを感じている人間がこの温かい空間に紛れ込んでいること自体、フクちゃんの家庭に迷惑をかけているようで気が引けた。
とは言うものの、私は自分の根に染みついた「良い子ぶりっ子」が抜けないせいで、無意識ながらもこの家庭に徐々に馴染んでいき、存在を認められるようになっていった。
そんなとある日のこれもまた晩餐会の場で、私はまたフクちゃんのパパからとある提案を受けることになった。
「道重先生。今度、こいつ（そう言ってパパはフクちゃんの兄を指さす）が何やらよくわからない会社を作るらしいんですが、そこで働いてみませんか？」
私はフクちゃんのお兄さんの方をちらっと見やる。たしか彼はまだ大学生のはずだったけれど……
「よくわかんないなら口出すなよ」そう言って、兄は照れたようにかぶりを振る。
「まぁ、簡単に言うとイベントをプロデュースするようなことをしたくて。例えば、夏に大学でミスコンを開くとします。そういう人が集まる場所に、流行りのアイスショップを誘致するんです。
そして、紹介料として稼ぎの一部を頂く。と、そんな感じの会社です。
まぁ、ミスコンみたいな学生が手作りで行う文化祭みたいな場所ではなかなか難しいですけど、それでも大学生ってのは何かとイベントみたいなものが好きですからね。
この間もクラブを貸し切って10サークル合同の飲み会を取り仕切ったんですが、先輩の勤めている会社を誘致したらそれなりにお小遣いを貰えたんで、これは、と思ったわけです」
兄は私の方を見ながらそうプレゼンを行った。クラブを貸し切って10サークル合同の飲み会……とても私の大学生活からでは想像ができなかったが、
目の前のこの大人しそうなフクちゃんのお兄様がそれを取り仕切っているのも上手く想像ができなかった。
「お兄ちゃん、別にチャラい訳じゃないのに、ミズキも不思議なんです」
可愛い妹がそう弁解し、父母ともに頷いているのを見ると、「裏じゃどんな顔をしているのかわかったものじゃない」という疑念は飲み込むよりほかなかった。
しかし、実際問題としてフクちゃんの兄に裏で浮ついたところがあるにせよ、ないにせよ、こうして家庭ではきちんと真面目な好青年の役割をこなしている。
それと同時に、面倒ごとを快く引き受け、それをそつなくこなせてしまう才覚のようなものも彼からは感じることができた。
顔や喋り方は全然違ったが、そういった感じがどこか絵里を思い出させ、私はつい「考えてみます」と答えてしまっていた。
「あの、ほんとに気が向いたらで良いんで」フクちゃんの兄は申し訳なさそうに何度も頭を下げながら言う。
「ただ、ミズキから聞いていると道重先生は要領も良いし、真面目そうだから一緒に手伝ってもらえると非常に心強いと思ってるんです。
それにこうやってお話ししていても、言い方はあまり良くないかもですけど、愛想も良いし……色々な人に会って信頼してもらうところから始まる仕事ですから、そういうのも大切だと思っているんです。
あ、ただ稼げるかどうかは本当にわからないんで、文化祭実行委員に立候補するぐらいの気持ちだとありがたいです。父は『働く』と言っていましたけど、『働く』というよりは『ちょっと面白そうだし、やってみるか』みたいな感じで……」
そのようにして、その日の晩餐会は終わり、毎度ありがたいことに私はフクちゃんとお母さんに駅まで車で送ってもらい、電車で帰る。
譜久村家で温かい食卓を囲んでいるときはどんなことでも前向きに考えられるが、こうして1人になるとどうしても捻くれた私が顔を覗かせる。
金にならない面倒ごとを引き受けて何になる？
会社を作る、なんてカッコつけてるだけで、私を含めて複数の女と関係を持ちたいだけなんじゃないか？
そんな人間を家族全員で信頼してるんだから、これはもうどうしようもないんじゃ？
いっそのこと家庭教師からも身を引かせてもらうべきでは？
と、そんないい加減な批判が頭の中で渦巻く。そして、一通りの悪態が頭の中で渦巻いた後で、そんな風に考えてしまうことに自己嫌悪してしまい、嫌な気分でシャワーを浴び、嫌な気分で眠りにつく。
翌朝、目が覚めてカーテンを開ける。美しい青空が広がっている。そして、ふと思う。
いつまでも高校の頃の思い出に囚われていても仕方ないじゃないか。そう、いつだって私は何か新しいことが始まるきっかけを心の底では望んでいたはずだ。そのチャンスが目の前にあるんだ。
具体的にそれがお金になるか、とか、自分のやりたいことかどうか、なんてことはどうだっていい。まずは「始める」んだ。「始めて」、「変わる」。それこそが私が唯一望んでいることなんだ。
私は心を決めて、そうして次のフクちゃんの授業がある日までをとても前向きな心持で過ごした。
大学の授業が終わり、私はその足で譜久村家へと向かう電車に乗る。帰りは車で送ってもらえるのだが、行きはどうしても歩きになる。
とは言え、別に駅からそう遠いわけでもなく、歩いて10分というところ。少なくとも陽が長いうちは車でのお迎えはないだろう。
なぜならば送ってくれる名目というのも「夜道は危ないから」だった。こんな私でもそうやって気にかけてくれる相手がいるというのは嬉しいものだ。たとえそれが儀礼的に為された気づかいであっても。
この世界の全ての道が動く歩道になればいいのに、と私はそんなことを考えながら譜久村家までの道程を歩く。
電車の兼ね合いで、余裕を持って譜久村家まで行こうと思うと、授業開始の30分前に着いてしまう。
最初の内は高級住宅街の街並みを散策することが面白く、色々と歩き回って時間を潰していたが、それにも飽きると譜久村家の裏手にある公園で時間を潰すようになっていった。
ときどき可愛らしい子供たちが遊んでおり、それを見ているだけで心が癒された。
今日も今日とてその公園で時間を潰していると、1人の小学生女児が声をかけてきた。小学5，6年生というくらいか。
彼女は2，3歳離れた妹と花を摘んでいたようで、無邪気にも自分が摘んだ花の名前を知りたかったようだ。
「ごめんね、お姉さんも知らないなぁ」
「大人なのに知らないの？」
「大人じゃないよ。これでもまだ14歳だよ」
「うっそだー。20歳くらいでしょ」
勘のいいガキは……という定型文が頭を過ったけれど、私は笑顔を崩さず、「ところでお名前は？」と話題を変えてみた。
「知らない人に名前を教えちゃダメだって。あ、お喋りするのもダメって言われたから」
「いや、あんたが先に話しかけてきたんでしょ」
「…………」
「……私はさゆみお姉さんって言うの。これでもう知らない人じゃないでしょ？ あなたのお名前は？」
「さとうまさきこと、佐藤優樹です！」
「どこでそんなアイドルみたいな自己紹介の仕方を勉強したの？ そして、使い方も間違ってるし」
「？？」
ここまで会話の成り立たない相手と喋るのもなかなか珍しい。
が、ころころと表情を変えて、わけのわからない言葉を喋る彼女のことをとても可愛らしく思ってしまう。
すっと定規を当てて作ったみたいな鼻筋は美しく、ぱっちりとした目はまるで世界を照らしているように見えた。
これが私と佐藤優樹ことまーちゃん……いや、私も使い方を間違えてしまった。そう、まーちゃんこと佐藤優樹との出会いだった。
彼女は初対面の女性に年齢を聞くという失礼を通り越して、初対面の女性の年齢を言い当てるという珍しい失礼を働いたけれど、いま思えばこのときからまーちゃんには何らかの不可思議な能力があった。
彼女は明らかに公園の管理者が栽培していると思しき黄色い花を摘んで、私に渡して来た。
公園のものを摘んじゃダメだよ、と注意した方が良かろうかと悩んでいると、彼女は「ヒペ、ヒペ……」と花の名前を示す看板を読むのに苦労しているようだったので、「ヒペリカム」と私はその名前を読んであげた。
小学生高学年にもなってカタカナも読めないのか……私は自分の教え子じゃなくて良かったと呆れながらも、無邪気に「ヒパリカメ！」と発音する彼女を愛らしく思いながら腕時計に視線を落とした。
もう、良い時間だった。私は彼女に「お花、ありがとね」とお礼を言って譜久村家へと向かった。
花弁の内側で長く伸びた雄しべが私の歩調に合わせて軽やかに踊る。どこか小学生の通学帽を思わせる懐かしみのある黄色が美しい。
玄関のチャイムを押し、出迎えてくれたフクちゃんに「それ、どうしたんですか」と尋ねられ、私は事の経緯を話した。
授業前のアイドリングとして、ヒペリカムの花言葉を調べて見ると、「悲しみは続かない」というメッセージがその花には込められていた。
フクちゃんは「なんかいい言葉ですね」と顔を綻ばせていたが、私は少し泣きそうになってしまったのを覚えている。
が、しかし、その日は晩餐会にご招待預かることもなく、フクちゃんのお兄さんに会うこともなく、普通に授業をして普通に帰ることになった。
みんなして先週の晩餐会での話をすっかり忘れてしまったみたいだった。私は「じゃ、また来週ね」と笑顔を取り繕って、フクちゃんと別れ、そして宙ぶらりんになった気持ちを抱えて帰りの電車に乗り込む。
鞄の中を広げて見ると、小学生女児から貰った黄色い花はすっかり萎れてしまっていた。
結論から言うと、私は結局フクちゃんの兄と一緒に働くことはなかった。
彼から話を持ち掛けられ、私は気持ちを固めていたにもかかわらず、その申し出から数週間後、彼の方からあの話はなかったことにしてくれ、と断られてしまった。
まるで商店街のくじ引きで２等を当てたのに、何故か既に景品はもう出払っていて、しかも残念賞のポケットティッシュまで貰えなかったような気分だ。
瞬間的な憤りと後に残る落胆。そして、こんな訳のわからない比喩を持ち出さなくてはならないほど、咀嚼しきれない曖昧な感情が胸に渦巻いた。
ある日の授業終わり、譜久村家の廊下で彼とすれ違いざまに、突如としてその断りの話をされることとなった。
フクちゃんは「お兄ちゃん、勝手すぎ！」と怒ってくれたが、「いや、本当に申し訳ないと思ってます。ただ、この仕事のパートナーが急に『やっぱり２人でやろう』と言い出して……道重先生は素晴らしい人だから会うだけでも、と僕も言ったんですが譲らないんです」と彼はつらつらと言い訳を並べ立てるばかりなので、私としても「そんな。謝らないでください」と言うしかなかった。
ただ、私は私で新しい生活に馬鹿みたいに希望を感じちゃってたりしたので、私は少し困らせるつもりで「もしかして、そのパートナーというのはカノジョさんですか？」と冷やかしてみたが、彼は目を丸くして首を横に振る。
「いやいや。カノジョどころか男ですよ。あ、もちろんそっちの気があるというのでもなくてですね。まぁ、この会社立ち上げの案も彼が出してくれたものだったし、
正直に言えばきっかけのイベントも僕が矢面に立っただけで、実務の部分ではほとんど彼が動いてくれていたんです。ですから、彼の意見は尊重せざるを得なくて……」
「それなら仕方ないです」
「僕としては本当に道重先生に手伝ってもらえたらもっと良い会社にできると思っていて。彼にもそう提案して、ついこの間まで賛成もしてくれていたんです。
それで実際に道重先生にオファーしたわけなんですけど、オファーした後になって急に駄々をこねだして。もともとちょっと変わったところがある人だったんですが、今回ばかりは僕も困りました」
「そのパートナーさんは大学の同級生とか……？」
「いや、バイト先の先輩で。歳は僕の一つ上なだけなんですけど、頼れる兄貴分みたいな存在なんです。兄貴分と呼ぶにはちょっと捻くれていて、面倒くさい性格なんですが」
どうしてか私を追い払われる原因となった人物の「良い話」を、私を追い払う張本人から聞かされそうな雰囲気になって来たので、私は「そうですか」とだけ言って澄ました笑顔を作り、フクちゃんを引き連れて階段から降りた。
私が玄関で靴を履いていると、後ろからフクちゃんパパに声を掛けられ、「息子の件、申し訳ない」と頭を下げられた。
私が慌てて「そんな」と両手を振ると、「よくわからないんですが、あいつも珍しく真剣みたいなんで許してやってください」と再び頭を下げられてしまう。
「私も息子も道重先生のことは本当に素晴らしい方だと思っているんです。だから、どうぞこれからもミズキの良い先生でやってください」
「はい。もちろんです。これからもよろしくお願い致します」
そんな言葉をかけてもらえているだけ、私には身に余る幸福というものだ。
事実、私は就活中もフクちゃんの家庭教師を務め上げ、彼女が無事高校に合格するのを見届けてから、私も大学を卒業した。
結局、私の大学生活はその一件の後も何事もなく通り過ぎて行き、アルバイト先の塾のルールを破って、個人家庭教師の仕事をしていたというのが最もエキセントリックな大学時代のエピソードとして残ることになった。
フクちゃんは私にとって良い生徒であり続けたけれど、そのお兄さんとの一件があってからは２人の間には微妙な空気が流れることが多くなったように私は感じていた。
フクちゃんは妹として居心地の悪い部分もあったのだろうけれど、原因の主たる部分は私にある。私は自分が必要以上に落ち込んでいる……思いのほか落ち込んでいることを自覚していた。
もともとやりたいとも思っていなかったことに対して、さてやってみるか、と重い腰を上げたところでそれが破綻してしまっただけのことだ。
言ってみれば、宿題をやろうと思ってたところに母親から「宿題やりなさい」と言われ、やる気が削がれてしまったようなものだ。いや、違うか。
私はそもそも変わるきっかけを探していたのだ。ずっと待っていたと言っても良い。けれど、変わるのは恐ろしい。それでも変化を求めて、恐怖をかなぐり捨て、足を踏み出そうとしたのだ。
そして足を持ち上げた瞬間、目の前の橋が崩れ去った。こんな状況で失望し、落ち込んでしまわない人間などいるだろうか。
しかし、そんな私の中の心のことなんて、私にしかわかりようがない。周りから見れば、応募したアルバイトが店員オーバーとなってしまったのと何ら変わらない。
そんなことで一々、人生がダメになってしまったみたいにへこんでいたら、人生がいくつあったって足りはしない。
けれど、優しく勘の良いフクちゃんは、私が不必要に落ち込んでいることを察知して、気まずいと思ってしまう。
私が彼女を具体的な力を持たないただ女子中学生などと見下さず、自分の感じていることをきちんと伝えてあげれば、フクちゃんにもそれを理解して私を励ますようなこともできたかもしれない。
いや、もちろん見下してなんかいない。ただ、もし私の気持ちをきちんと伝えようということになれば、それは必然的に絵里やれいなのことを喋らなければならなくなる。
けれど、私にはそんなことはできなかった。教育上良くもないし、また私にはまだそれを１つの物語として話すだけの準備はできていなかった。
溺れている最中にその水の冷たさを説明できないのと同じだ。
ただ勘違いして欲しくないのは、私は別にフクちゃんやその家族を恨んだりなどは全く以ってしていないということだ。
私はいわば私自身に失望しているのであり、そこには他人に対する怒りのようなものはもはや微塵もない。私は私の宿命のようなものを呪っているだけなのだ。
人生、そううまくはいかないよね。と苦笑いを浮かべて言ってのけられるくらいにでも、私に強さがあればいいのに、と思う。でも、そんなことすらできないほどに、私は弱い。
そんな私を守ってくれるのは良い子ちゃんぶりっ子の私だけだった。ずっとそうだった。
そう考えると、私はそれでも充分に恵まれている方だと思う。
その一件があって、少し気まずくなったとはいえ、私は毎週のフクちゃんの授業が楽しみだった。
物分かりが良く、育ちも良い彼女と会話をし、そんな彼女を作り上げてくれた家族とたまに食卓を囲めるというのは私に随分とたくさんの幸福を与えてくれた。
それから授業が始まる前の３０分程度の時間。まだ小学生のまーちゃんと無邪気に遊ぶ時間もまた、私を多くの意味で癒してくれた。
一緒になって遊ぶ時間は純粋に楽しいし、彼女が毎週毎週成長していく様には、何か希望の光みたいなものを感じることができた。
まーちゃんが中学に上がり、いつの間にかフクちゃんと親交を深めていたということを私はある日の授業中に聞かされることになる。
「道重先生って、優樹ちゃんに『みにしげさん』って呼ばれているんですか？」とほんの少し小馬鹿にしたような感じで、フクちゃんが聞いてきたときは随分と驚いた。
が、面倒見の良さそうなフクちゃんと、奔放なまーちゃんの組合せというのは、意外としっくり来るものがあり、同時に２人を知る私からしたらその関係性は単純に微笑ましく、
「あの手のかかる後輩が……」とフクちゃん経由で聞かされるまーちゃんのぶっ飛びエピソードは私の１つの楽しみであった。
そのようにして、私は私の中に広がる暗闇と戦いながらも、時にはそういった温かい陽の光を感じ、無味乾燥な大学生活を何とか乗り切ることができた。
高校の頃のあれやこれやというものを吹っ切れたわけではないけれど、それはそれでもういいのかもしれない。私の好きなドラマの中で「辛い記憶をいつか消せるものですか？」と尋ねられた主人公がこう答えていた。
「消せはしないかもしれないけど、うまく閉じ込めておくことはできるようになるかもしれないです」
私の世界は真っ暗だった。でも、そこに２人の光が射し込む。
生み出された光と影の境界線。私は、できるだけその影の方に入らないように、光に身を浸し、疲れた心を癒した。だから私は彼女たちに感謝してもしきれない。
そういったことが私とフクちゃん、それからまーちゃんとの経緯だった。
身支度を整える。流行りには疎い僕だけれど、音楽は好きだ。
あの子がいったい何を持ち出してくるのか想像もつかないけれど、しかし、今日はせっかくの音楽ライブだ。
音楽を楽しもう。変な企みとかなしで、彼女もまた音楽を楽しんでくれることを願う。
コンサート会場の前には既に多くの人が集まっていた。みんな今晩のライブに期待を膨らませているようで、笑顔を堪え切ることができず、高揚感が辺りを漂っているのがよくわかった。
ここまで緊張しているのは私くらいのものだろう。腕時計に視線を落とす。約束の時間までまだ２０分もある。早く着きすぎてしまった。
大学の授業もバイトも、いつも時間ぎりぎり（前者は時間を過ぎることもしばしばだけれど）で到着する私からしたらこれはなかなかの快挙だ。
けれど、そうなってしまうのも仕方ない。なんて言ったって、今日は亀井さんとのデートなのだ。目一杯のお洒落をしてくるつもりだったけれど、悩み過ぎたせいで少し化粧が適当になってしまった。
「リホリホはちょい薄めくらいが可愛いの」
いつだったか道重さんが言ってくれた言葉を胸に、自信を取り戻そうと試みる。息を吐き出し、笑顔の練習。私、うまく笑えてるかな、なんて。
空はあいにくの曇天。雨は降っていなかったけれど、予報ではこの後で一降りあるらしい。その頃にはきっと私たちはコンサート会場の中で、優樹ちゃんのギターと歌を楽しんでいるのだろうけれど。
分厚い雲の向こうで太陽が高度を落としているのか、徐々に辺りは暗くなっていく。まるで私の不安が空に乗り移っているかのように。
本当であれば、楽しいライブデートになるはずだった。
もちろん、今でも私はそうできるように精一杯頑張るつもりだ。けれど、このライブには色々と意味がある。
これはむしろ私と亀井さんのためというよりも、道重さんと亀井さん、それから私の会ったことのない田中さんのために仕組まれたものと言っても良いかもしれない。
３人を再会させる。それがこのライブにおける目的だった。
私が道重さんから聞いた話によると、３人の間には複雑な事情があったらしく、高校卒業と同時にそれらの関係性は無理やり清算されてしまったようだった。
そのことに対して、少なくとも道重さんは今も苦しんでいる。亀井さんも飄々とした態度を取りながらも、その話をちらっと話してくれた時には何かしら後悔があるような微妙な表情をしていたように思う。
私の勘違いでなければ。そして、これも私の勘違いである可能性も十分にあるけれど、未だに道重さんと亀井さんはお互いのことを想い合っている。
だから、今や私と道重さんは恋敵ということになるけれど、私はその戦いにほとんど負けてしまっている。
１か月半前、私は亀井さんに自分の恋心を告白した。彼は、返事を先送りにしたいと言ったけれど、そんな彼に対して私は無理やり今日のコンサートチケットを渡した。
こんなことは惨めであまり言いたくはないけれど、私には告白する前から彼が良い返事をくれることは正直期待していなかった。
あくまで自分の勘に過ぎなかったけれど、亀井さんは道重さん、あるいは田中さんを除いては誰とも男女交際をしないと決めているように私には思えた。
それだけの覚悟を決めるに足る何らかの出来事があの３人にはあったのだろう。
けれども、そういったことが私が自分の恋心を告白しなくて良いという理由にはならない。
私には私自身の感情を清算する必要があったし、たとえそれが彼を多少なりとも悩ませることになったとしても、自分の気持ちをきちんと知っておいてほしかった。
何なら、私の想いを実感しさえすれば、彼もまた過去を忘れて、１人の人間として自由に、あわよくば私と一緒に生きてくれるのではないか、という淡い期待もあった。
もちろんそんな期待など成就するはずもなかったけれど。
というか、私にも私の本当の気持ちが良くわからないのだけれど、私は確かに亀井さんのことが好きで、最初は道重さんを待たせてでも自分の恋を成就させようという想いがあった。
いや、「待たせても」なんて言葉を使っている時点で、私には私自身の恋を成就させるつもりなってなかったのかもしれない。
亀井さんから道重さんの名前が出て、道重さんから道重さんたちの高校時代の話を聞かされた段階で、私の中の恋心は純粋な色彩を失い、微妙な色合いが混ざってしまったようだった。
私の中には２人を何とかしてあげたい、という想いが芽生えてしまっていた。恋心なんて抜きにしたって、私は亀井さんのような人が好きだったし、道重さんにはずっと親しみと感謝を感じ続けてきた。
そして、その２人を少しでも幸福にできる手段が私の手元にあるのであれば、それを実行しなくてどうするんだ。私はただダンスをするためだけに東京に来たのか。そうじゃないだろう、と自分で答える。
だから、私は亀井さんに告白するときに、１枚のコンサートチケットを持っていった。
もしフラれたら……いや、十中八九フラれるだろうけれど、フラれる女の子の最後の我儘として一緒にライブに行ってもらうのだ。
そして、そのライブを使って、道重さんと亀井さん、そして私自身が会ったことはないけれど、田中さんという３人を再会させる。
道重さんはフクちゃんに誘ってもらう。田中さんは優樹ちゃんが。そして、亀井さんは私が誘う。
優樹ちゃんのソロライブだ。フクちゃんが誘えば、道重さんは何とか都合をつけてくれるだろう。
田中さんは優樹ちゃんのスタイリングを担当している人らしいし、２人はとても仲が良いらしく、優樹ちゃんなら誘うのはそう難しいことじゃないだろう。
というか、今日のライブのスタイリストもやはりその田中さんということなので、確実にこの会場に来ている。
一番難しいと思われた亀井さんを誘うのも、私がフラれることで、良いのか悪いのか彼の優しさに付け込むような形で何とかなりそうだ。亀井さんならドタキャンしたりしないだろう。
いつだってバイト先では、彼はドタキャンする人の割を食って来た。そんな人がドタキャンなんてするはずがない。
私は自分の計画が思いのほかうまく進んでいることに満足感を覚えながらも、「それでも亀井さんにはフラれるのだろうな」ともう何回目かになる溜息をついた。
とは言いながらも、今日こうして大好きな亀井さんとライブデートができるということは純粋に楽しみでもある。
楽しみが６、悲しみが３、優しい気持ちが１。そう思った１０秒後には、楽しみが２、悲しみが４、優しい気持ちが２になる。
私自身、私の気持ちに整理がつけられないまま、亀井さんとの約束の時間を待つ。
１つだけ、今回の事で私は我儘を言わせてもらった。それは、ライブが終わるまでは亀井さんとのライブデートを楽しませてもらうということだった。
亀井さんは有難いことに告白の返事を先延ばしにしてくれた。そして、約束をしたわけではないけれど、おそらくはこのライブが終わった後で正式な返事をくれることだろう。
亀井さんはそういう気づかいのできる人だった。私たちはこのライブが終わるまでは、明確な線引きがなされていない、ただの仕事仲間だ。せめてその関係性にある間だけでも、私は残された幸福を感じていたかった。
ただ、そうなるとそもそもの計画の発端も含めて、私も私の恋心をフクちゃんや優樹ちゃんに打ち明けないわけにはいかない。
それは随分と恥ずかしい想いのすることだったけれど、結果的に私の計画に２人は快く賛同してくれた。
私は自分の気持ちを２人に打ち明けるにあたって、できるだけ道重さんの過去については触れないようにしたけれど、どうやらフクちゃんはフクちゃんで、道重さんに対して何か思うことがあったらしい。
詳しいことは教えてくれなかったし、フクちゃんは「私が責任を感じることなんかじゃないかもしれないんだけど」とそんなことを言って少し悲しげな顔をするので、私としてもあまり深くは追及することができなかった。
よくよく考えてみれば、道重さんとの付き合いは私よりもフクちゃんの方が長いのだ。そして、フクちゃんと道重さんが出会ったときは、まだ道重さんは大学生で、きっと高校時代の傷をより深く引きずっていたはずだ。
であれば、多分２人の間にはうまく言葉にはできないような微妙な出来事があったのだろう。
優樹ちゃんも「たなさたんには前を向いて欲しい」といつもの天真爛漫な感じで言ってくれた。
それから「だいたい、やっさんは失礼ですよ。これはまーちゃんのライブなんです。色々とやるのはライブが終わってからにしてください！」と私は怒られてしまった。
にっこりと笑いながら言う優樹ちゃんを見ると、それは怒っているというよりは、優樹ちゃんなりの気遣いのようなものであることが伝わって来る。
つくづく私は素敵な後輩を持った、と改めて実感させられる。
そういうわけで、私たちの計画はライブ終演後に、優樹ちゃんのもとへ挨拶にいくという形で達成されることになっていた。
久しぶりに地元の恩人とゆっくり話したいということで、スタッフの人たちも一度楽屋から出て行ってもらい、まずは道重さんとフクちゃんの２人を楽屋に招く。私はそれから遅れて合流する。
優樹ちゃんがデビューする時のことで、私はそのマネージャーと知り合いだったし、優樹ちゃんから私と亀井さんを通すように話をつけておいてもらう。
田中さんは優樹ちゃんがそれとなく引き留めておいてくれるということになっていた。
優樹ちゃんの負担が大きい計画だし、あのトンチンカンな優樹ちゃんが上手いこと事を運んでくれるか不安もあったけれど、ここは優樹ちゃんに頼むしかない。
最初は、偶然レストランなどで会わせることも考えたけれど、食事という何だかかしこまった場で再会というのも堅苦しくなりそうだったので、
「じゃあ、まーちゃんの楽屋で再会させましょーよ」という彼女の案を採用させてもらうことにした。
上手くいくのかわからないし、仮にうまく３人が再会したところでそれでどうなるのか、ということも全くわからなかったけれど、それでもとにかくやってみるしかない。こればっかりは練習のできないことなのだ。
段取りを反芻していると向うから亀井さんの姿が見える。
後のことは一旦すべて忘れて、今を楽しもう。亀井さんもきっと、「私とは違う意味で」ということになるのだろうけれど、このライブを楽しむつもりでいるはずだ。
私の隣で道重さんが優樹ちゃんのライブに期待を膨らませ、子供のようにはしゃいでいる。
道重さんは私の中ではずっと「ザ・大人の女性」という感じだったけれど、意外にも子供と遊ぶのが好きだったり、可愛らしいところも沢山ある。
何と言っても、優樹ちゃんが小学生の頃から道重さんは彼女と無邪気に遊んでいたりしたのだ。そんな風に可愛がってきた子のステージで興奮しない方がおかしいというものだろう。
私もずっと後輩として優樹ちゃんを可愛がってきたし、もちろんテンションは上がっている。
けれど、それ以上に不安がまるでこの曇り空のように私の心を覆い尽くしている。電車での移動中も、何度か道重さんから体調を心配されてしまった。
「なんか私の方が緊張しちゃって」と私は言い訳したけれど、もう何度も優樹ちゃんのライブには行っているのだし説得力はない。
「何回行っても慣れないものですね」という言い訳もまた苦しいのを承知しながらも、そう言うよりほかにないのだから仕方ない。
私はあの楽しかった中学時代のことを思い出す。兄が変なことを道重さんに持ちかけるまでは本当にただただ楽しかった。
大好きな道重先生。道重先生が私の部屋で、２人きりの空間で私に優しく勉強を教えてくれる時間を私は毎週々々楽しみにしていた。
私には男兄弟しかいなかったから、本当にお姉ちゃんができたみたいで嬉しかったのだ。塾という環境でなく、自分の家の自室という環境。
ある種の倒錯みたいなものが入っていることは否めないけれど、それでもそういったことが非常に重要で、道重先生が私の家庭教師になってくれてからは、
取り繕いとか無しで正直に話せば、何かぞくぞくしたような嬉しさがそこには生まれたように思う。まぁ、変態だとは思われたくないので、口が裂けてもそんなことは言えないけれど。
そんな道重先生が兄との一件があってから、どこか心を失ったみたいになってしまった。
当時の私はそのことに当惑して、どういう風に表情を作ればいいのかわからなくなってしまった。
もしかしたら道重先生は兄のことが好きだったのかもしれない、とありきたりな推測をしたこともあったけれど、きっとそういうことじゃない。
あの一件の前後で道重先生の兄に対する視線には何ら変化がなかった。もちろん、道重先生は何につけても取り繕うのが上手であったけれど、珍しく中学生の私にもわかるぐらいへこんでいた。
その原因の主たる部分が私の兄にあったのだとすれば、もう少し兄に対する視線や態度に変化が生まれるはずだろう。
兄という人間そのものというよりは、単純に兄の持ち掛けた話に強い興味を持っていたと考える方が私にはしっくりと来た。
しかし、実際問題として、兄の持ち掛けた話に道重先生が興味を抱く理由が私にはよくわからない。道重先生はチャラついたサークルを取り仕切ったりすることに向いている人間とは言えないはずだ。
少なくとも私はそう思う。兄の性格も決してそういうことに向いているようには思えなかったけれど、元来兄はミーハーなところがあったし、あれで自信過剰な性格もしていた。
だから、兄がそういった突飛なことをやり始めるということ自体には納得がいっていたが、道重先生はそんな兄とは違う。
むしろ、兄とは逆で派手よりは地味を好み、良く言えば淑女、悪く言えば根暗な性格だと私は考えている。
だから、私は兄の持ち掛けた仕事自体に道重先生が興味を持っていたとは思えない。道重先生はおそらくそういった仕事をしてみることで、何か得られるものがあると考えていたはずだ。
道重先生が何を得ようとしていたのか、それまでは私にはわからない。ずっとわからないから、そんなことはずっと忘れたフリをしてきた。
あの公民館で道重先生と再会して、「もう先生じゃないから、さゆみんって呼んで」と言われて、なくなく「道重さん」と呼び始めてからも、
あの一件の真相（真相といっても、道重先生がどう考えていたのか、ということだけではあるけれど）はわからないままだった。
思えばあれからもう８年になる。
私が優樹ちゃんと出会い、優樹ちゃんの話を道重先生とするようになった辺りからは、道重先生も少しずつ明るくなって、前のような……
いや、前よりもずっと明るくて優しいお姉ちゃんのようになってくれたけれど、私にはその一件のことがずっと引っかかっていた。
実際には私の兄のせいで、という部分が大きいのかもしれない。けれど、私は兄を庇いたいとかそういうことでなく、単純に私と出会ったことが道重先生を不幸にしたのではないかと考えるのが辛かった。
私は私が大好きな道重先生には幸せになって欲しいとずっと思っていた。気持ち悪いと思われたって別に良い。私にとって道重先生は先生であり、唯一の姉のようなものだったのだから。
だから私は道重先生を喜ばせるために勉強も頑張ったし、色々な話をたくさんした。
学校であった楽しいこと、悲しいこと、怒ったこと、困ったこと、驚いたこと、退屈だったこと、そういう全部の話を道重先生はうん、うんと聞いてくれ、どんな話をしても優しく応えてくれた。
中でもお気に入りだったのが、優樹ちゃんの話だったのは少し優樹ちゃんに嫉妬してしまうけれど、それでも道重先生が喜んでくれれば私は嬉しかった。
それから私たちはリホちゃんのおかげで再会することができた。
先生を辞めて公民館のお姉さんになった道重さん。随分と明るくなったし、そして大人びて、より綺麗になっていた。
あの魂の抜けたような一時の事なんてもう微塵も感じさせなかったけれど、どうしてか私にはあのほんの数週間ばかりの道重さんのことが忘れられない。
でも、今さら掘り返すのも気まずいのでずっとそのまま放置してきた。それで何か問題が持ち上がるということもない。私たちは常に良好な関係を保って来たように思う。
ただ、別の問題がそこでは待ち受けていた。道重さんではなく、リホちゃんのことだった。リホちゃんは将来のことで随分と悩んでいるようだった。
私の前では強がっていたけれど、それでも道重さんの前ではきっと弱みを見せることも多かったのだと思う。日増しにリホちゃんは道重さんと親密になっていき、とても私が間に入り込む余地などなかった。
私は私の道重先生がリホちゃんに取られたみたいで悔しかったし、同時に中学の時は私のことを大好きと言ってくれていたリホちゃんが道重さんに取られたみたいで、それはそれで悔しかった。
同時に、リホちゃんとは違うけれど、やはりあの才能溢れる優樹ちゃんを目の当たりにして、何にも持っていない自分を酷く情けなく思ってしまっていた。
だから、私もまた道重さんに甘えたかったけれど、それはできなかった。なぜなら、私はあの心がくじけそうになっている道重さんを見ていたから。
私はもう道重さんを困らせてはいけない。それが第一の感情だった。それから、あのとき道重さんが何かを克服したように、私もまたいま目の前にある状況を克服しなければならない、という想い。
そして、私はリホちゃんを助けたいとも思ったけれど、おそらくリホちゃんを助けられるのは私じゃなく、道重さんだ。
道重さんは何かを乗り越えた人で、私は何も乗り越えていない。そういった様々な感情が綯い交ぜになり、私は私で私の抱えるちょっとした孤独な気持ちと戦うことに決めた。
その戦いに勝てたのかどうかはよくわからない。
でも、結果的に私は道重さんに甘えたりしなくてよかったのだと思う。無事、リホちゃんは元気を取り戻したし、道重さんも変わらず優しく綺麗なお姉さんで私たちを包み込んでくれていた。
私は私で、私なりに強くなれたとも思う。そして、何よりも私はあの心を閉ざしていた道重先生の感情にも少しだけ寄り添うことができたように思う。
細かい事情までは相も変わらず私には想像もできなかったけれど、きっと道重先生はあのとき自分という人間を前に進めようとしていたのではないだろうか。
兄の申し出を足掛かりに、新しい自分になろうとしていたんじゃないだろうか。私が「強くなろう」と思ったのと同じように、道重先生も「強くなろう」と思っていたんじゃないだろうか。
それが兄の身勝手でふいになってしまった。そう思うと私は申し訳なさとやり切れなさで辛くなる。
道重さんはきっと私には及びもつかないような辛い経験があったのだろう。私の兄があんな意味の分からない申し出をするまでは、そこから立ち直ろうとする気力さえ湧いてこないほどに。
そして、立ち直ろうと思った矢先、また突き放される。そうして道重先生は心を失ったようになってしまう。ただ、そこから道重先生は自分の力で立ち直ったのだ。本当に強い人だと思う。
そして、その後で道重さんはリホちゃんをも立ち直らせた。それがあってからは、私はよりあの一件のことを知りたいと思うようになった。
道重先生はいったい何から立ち直らなきゃいけなかったのだろう。道重さんは何を克服したのだろう。あの一件は私にとってはとにかく申し訳なさが先に立つものだったけれど、そういう興味も私の中には生まれていった。
ただ、そんなことを聞くわけにもいかず、気がつけば随分と時が流れてしまっていた。そうして、もう忘れよう、と思うようになっていたところでリホちゃんから思いも寄らぬ話を聞かされる。
それは、あの道重さんがあの亀井さんと実は関係があったということだ。
私自身、亀井さんの事はあまり良く知らない。ただ、あの一件で道重さんと共に働くことを拒否したのは間違いなく亀井さんだった。
私はリホちゃんから、亀井さんのことを聞いて、ようやくあの一件に納得がいった。
亀井さんは兄のバイト先の先輩だった。ある時兄は大学のサークルで貧乏くじを引かされて、サークルの合同イベントの幹事を任され、そのことを亀井さんに相談したらしい。
亀井さんは「どうせやるなら色々やってみたらいいじゃないか。どうせ学生のやることなんだから、責任なんてあってないようなもんだろう。失敗したって、それが笑い話にもなるし」という具合に兄を焚きつけて、その言葉通り色々なことをやらせた。
そうしてまた亀井さんは兄の相談に乗り、提案をするだけでなく、自らも色々と行動を取ってくれたらしい。
その過程で、「もう少し人手があってもいいんじゃないか」ということになり、兄の周りで最もしっかりとしていて優秀と思われた道重さんに白羽の矢が立ったというわけだ。
途中まではそれで上手く話がまとまるはずだったけれど、兄がその新メンバーの名を亀井さんに告げる段になって、おそらくは亀井さんは手のひらを返したのだろう。
きっと亀井さんは何らかの理由で道重さんと会いたくなかったのだ。私にはずっとその理由がわからなかったけれど、リホちゃんから道重さんの過去の話を聞いて、何となく察しをつけることができた。
リホちゃんはあまり当時のことを詳しくは話してくれなかった。しかし、それでも「道重さんと亀井さんは高校の頃に色々あった」と聞かされればある程度のことは想像できる。
男女関係のもつれ、とありきたりなことを考えたって、様々なことに納得がいく。もちろん、あの道重さんが何年間も心を痛めるくらいの事なのだから、そう単純なことでもないのかもしれないけれど、失恋は何よりも人を苦しめると聞く。
高校時代、それから大学時代、と道重さんは２回もその亀井さんに苦しめられてきたのだ。
私は勝手に亀井さんに対して怒りのようなものを感じていただけれど、リホちゃんが言うには、道重さんも亀井さんもお互いにお互いのことを未だに想っているらしい。
リホちゃんが嘘を言ったり、勘違いをしたりしている訳ではないとは思う。けれど、私にはやはりよくわからない。
ただ、道重さんは、私の道重先生だったときから時々遠い目をして、どこか違う世界、あるいは時間軸について思いを馳せているような雰囲気を見せることがあった。
仮にその遠い世界が亀井さんのいる世界だとするなら、私はやはりその世界を壊してしまうべきなんじゃないかと思う。何年もお互いを想い続けるのは素敵なことかもしれない。
でも、その想いが道重さんを不幸にするのであれば、それはただの呪縛でしかない。
少なくとも今までのように何も行動を起こせずに、ただただ時間を後ろに送っていくだけの人生を過ごすくらいならそんな想いはさっさと捨ててしまうべきだろう。
捨ててしまうまではいかなくとも、早く過去の「想い出」にしてしまうべきだ。
だから、区切りをつけるという意味でも、道重さんは亀井さんに一度会うべきだと思う。
会えば何かが変わるはずだ。あの時、変わろうとしていた道重先生の決意を私の兄が取り去ってしまった。
だからこそ、あのとき道重先生の前にあったチャンスを私が取り戻すのだ。今日、うまく道重さんを亀井さんに会わせる。それができればきっと道重さんは変われる。
塞がった傷口をまた広げてしまうことになるかもしれないけれど、私もリホちゃんも優樹ちゃんもいる。たとえ、そういうことになったとしても、私たちで道重さんを救うことができるはずなのだ。
もちろん、お互いに気持ちを確かめ合って、よりを戻し、おとぎ話みたいに「そのあと２人は幸せに暮らしましたとさ」となればそれに勝ることはないのだけれど……
曇り空が不安を煽る。隣の道重さんは「楽しみだね」と無邪気にはしゃいでいる。
何があろうと私が道重さんを守る。私は決意を胸に会場に足を踏み入れる。ともあれ、まずは優樹ちゃんのコンサートがうまくいきますように。
まーちゃんのライブは圧巻の一言だった。登場のSEが鳴り止むと暗いステージにピンスポットが輝き、ギターを提げたまーちゃんが照らされる。
そのピンスポットを受けたまま、まーちゃんはギターをかき鳴らし、歌うこともなく、皮膚が粟立つような緊張感の中、ギター１本で１曲を演奏しきった。
歓声と拍手が巻き起こる一歩手前で、ドラムのカウントが始まり、一気に照明が明るくなり、ノリの良い楽曲が始まる。
まーちゃんの煽りも相まって、会場の熱気が一瞬で最高潮に達する。そんな劇的な演出でライブはスタートした。
これは私だけでなく、色々な口うるさい批評家の人たちも言っていることだけれど、まーちゃんには自然に人の目を惹く力がある。
ほんの一瞬の音に対して、彼女が顎をくいっと傾けるだけで会場が沸く。歌い終わりに眉を顰めるだけで、歓声が巻き起こる。
後ろを振り向いてにっと笑うと、それに応えるようにドラムが音を大きくする。ピックを持った手を挙げると、ベースが複雑なフレーズを弾いてみせる。
囁くように歌う。会場が静まり返り、彼女の吐息の音までがはっきりと聴こえる。がなるように歌えば、床が震え出す。一挙手一投足が会場の全ての人間を魅了する。
MCではいつものまーちゃんが見られる。一応ステージに立つ人間らしく、話をまとめるようなこともあるのだけれど、
どちらかと言えば、ケーキを突っつきながら私に話すように客にも話しかけるので、パフォーマンスとのそのギャップに虜となっているファンも多い。
こういう言い方を私は全く失礼だとは思わないが、彼女にはアイドルらしい魅力が溢れているのだ。そもそもの顔立ちやスタイルが素晴らしい。
これは私がまーちゃんの大親友だから言うことだけれど、頭のネジがぶっ飛んでいるということを差し引いても、神様はまーちゃんに色々なものを与え過ぎだと思う。
そんなまーちゃんが終盤に、「カバーしました」と言って１曲歌ってくれた。いつだったか私が好きだと言った楽曲で、「春なのに……」と春でもないのに彼女は歌う。
そう言えば、今年の春、フクちゃんと車の中でリホリホを待っている間にラジオで流れていたっけ。色々なことを思い出しながら、私はつい涙を流してしまった。
隣を盗み見ると、フクちゃんも目を潤ませているので、少しだけ恥ずかしさが紛れる。
次の曲でまーちゃんはギターを持ち変えると、「これはまーちゃんの師匠から教えてもらった曲です」と言いながらチューニングを直し始めた。
「師匠の方がめちゃくちゃギター上手なんです。でも、この曲はまーちゃんに似合うね、って言ってくれたから弾きます。
あ、間違ったら最初からやり直すんで。あ、それからこの曲はライブのチケット代には含まれてないです。だから、聴きたくなかったら耳を塞いでいてください」
会場が優しい笑い声で包まれる。急に卑屈になるのもまーちゃんらしいけれど、そんなことはファンの皆も承知済みのようで、当然ながら誰も耳を塞ぐことなく、彼女の生み出す一音に耳を澄ませている。
まーちゃんは椅子に座り、何度か深呼吸を繰り返す。
「フォーコ」
と短く曲名を宣言して、彼女は弦をはじく。
あまりに変則的で、しかも歌がない、おそらくはクラシックギターの楽曲だ。師匠から教わったということは、リホリホから教わった楽曲なのだろう。
演奏後は皆ぽかんとしたまま、パラパラという拍手が会場を包んだ。どこかで熱心なファンが１人頑張って盛大な拍手を捧げているのが聞こえてきたので、私とフクちゃんも目を合わせ、一生懸命拍手を送った。
リホリホが来られないのは残念だけれど、恥ずかしがり屋のまーちゃんのことだ。よっぽどのことがない限り、こういうステージでリホリホにクラシックギターを聴かせるようなことはしないだろう。
ただ、おそらくは私が来ていることを嗅ぎつけて、２曲もいわゆる「私信」をしてくれたことに、私はついつい嬉しくなってしまう。
みんな、これが私のまーちゃんだよ。小学生の頃から何一つ変わらないミラクルガール。どう、凄いでしょ？ って、みんなもう知ってるか。
そんな言葉が頭の中を駆け巡った。
最後の曲です、と短く言った後で最近発売された新曲を彼女が演奏する。会場は喝采に包まれ、曲が終わってからはアンコールを求める拍手が鳴りやまない。
しばらくしてラフなTシャツ姿に着替えたまーちゃんがステージに戻って来る。彼女はどこか恥ずかしそうで、バンドメンバーとマイクに乗らないじゃれ合いをしてから、センターへとゆっくり歩いて来る。
「アンコールありがとうございます」
彼女はこんなときばかりは礼儀正しく、深々と頭を下げた。けれども、舞台などで良く見る「いかにも」なお辞儀でなく、募金活動をしている中学生のような愛らしいお辞儀だった。
そんなまーちゃんのちょっとした雰囲気のおかげか、会場全体がキャンプファイヤーの終盤のような楽しく切ない空気に包まれていく。
「今日はごめんね。知らないカバー曲とか、ギターだけの曲とか演奏しちゃって。実はね、地元から、お世話になった大切な人が見に来てるの。もう、なんか恥ずかしいからホントは来てほしくなかったんだけど。
でも、まーちゃんがこうやってステージに立っているのはその人たちのおかげだから。ねぇ、みんな知ってる？ まーちゃんが初めて撮った動画とか見たことある？
あのとき撮影してくれた人。そう、だからね。なんていうか、人間ってみんな成長してくじゃないですか。まーちゃんも最初はこんな風にライブなんてするつもりなくて。
って、みんな知ってるよね。でも、成長してー……少しずつだけど、こうやってライブもできるようになったわけですよ。あぁ、なんか上手く言えないけど、とにかく。
過去を大切に生きていれば、きっと変われるよ、ってことをまーちゃんはゆいたい。ギターも歌もまだまだ下手っぴだけど、良くしてもらった人たちのことをまーちゃんはずっと大切にしてきたんです。
だからさ、こうやって、まぁ、みんなは知らなかったけど、新しい曲とかもできたし、そういう挑戦がまた新しい自分を作ってくんだなぁーって今日思いました。
って、ちょっと真面目っぽい話しちゃったけど、アンコールの曲やりますね。ね、チューニングするからちょっと待って」
照れくさそうにまーちゃんはMCを閉めて、宣言通りチューニングをする。隣で鼻を啜る音がするので目線を向けると、フクちゃんが目尻から涙を流していた。
私もかつては変わらなくちゃと思いながら生きていた時期もあったけれど、結局のところ自力じゃ何も変わることができなかった。
私を変えてくれたのは、フクちゃんであり、まーちゃんであり、リホリホだった。そして、同時に良い子ちゃんぶりっ子の私を徹底的に変えたのは、絵里とれいなだ。
いつだって私の周りの人が私を変えてくれた。だから、まーちゃんの言っていることは私は身に染みて良く理解することができた。
フクちゃんもきっと就活やらなにやらの中で、苦しんでいるのかもしれない。そうだ。私がまさに変わらなくちゃと考えていたのは、ちょうど今のフクちゃんくらいの歳の頃だ。
あの頃は私も大学生で、フクちゃんは中学生だった。私は、フクちゃんの家庭教師をする中でひょんなことから変わるきっかけを手に入れられそうだったけれど、結局それはダメになってしまった。
でも、今さらながら思う。それはそれで良かったのかもしれない。
あの時の私はうまく気づくことができなかったけれど、私はフクちゃんとまーちゃんに出会い、心を立ち直らせ、そして社会人になってからはリホリホと出会うことができた。
リホリホを何とかして救おうと頑張る中で、私もまた成長できた。そういう不思議な縁の中で、人間というものは成長し、まーちゃんの言う通り、変わっていくのだろう。
いつも突拍子もないことばかり言うまーちゃんだったけれど、たまに良いことを言うから面白い。
アンコールのまーちゃんもまた飛びっきりだった。無邪気に笑顔を振りまきながらステージを駆けまわる姿は、あの小さな公園で蝉を取ろうと躍起になっていた姿と何ら変わらない。
あれほどにも輝かしく、人を明るい気持ちにできる存在は世の中を見渡してもかなり稀有なものだろう。
そんな人が私のすぐ側にいるのだ。それが私にはうまく信じられなかったけれど、いくらステージの上にあがって綺麗な衣装を着てみたところで、そこにいるのは紛れもなく佐藤優樹だった。
そのことが私を安心させ、同時に心強いという気持ちにしてくれる。私は周りのファンの人と一緒になって、まーちゃんの名前を呼び、手を振った。
まーちゃんは私を見つけることはできないみたいだったけれど、その笑顔には一点の曇りもなく、太陽のように輝いていた。
ライブの終了を告げるBGM、そしてアナウンス。ぞろぞろと人が列を成して帰っていく。まーちゃんはこれからスタッフや関係者、はたまた芸能人などと楽屋で挨拶をするらしい。
私とフクちゃんも楽屋に招かれていたが、まーちゃんの要望で「ゆっくり話したいから、順番は最後で」と事前に言われている。
フクちゃんが「このままここでちょっと座って待ってましょう」と言う。私は芸能人をちらっとでも見たいなぁ、なんて考えていたけれど、大人しくフクちゃんに従うことにした。
さすがは上品なフクちゃんだけある。私みたいにみっともないミーハーみたいな行動はとらない。
それにしても素晴らしいライブだった。歌って、ギターを弾くまーちゃんは、まさに水を得た魚。太陽を得た向日葵。風を得たしだれ柳。オートメイルを得たエドワード・エルリック。と、そんなつまらない冗談を言ってしまうくらい最高だった。
隣に座るフクちゃんと「あの曲が良かったね」みたいなことを話し、「あのまーちゃんがねぇ」と親にでもなったような気持ちを分かち合う。
そして会場に漂う空気を今一度確かめようと何気なく後ろを振り向いたときだった。一瞬だけれど、２階席の方にリホリホに似た後姿の女の子が視界に入る。
それが本当にリホリホの後姿なのか私は見定めようとしたけれど、彼女はすぐに姿を消してしまった。
私はフクちゃんに今日リホリホも来ているのかと問いただそうと口を開きかけたが、あとちょっとのところで言葉を飲み込んだ。何か確固たる理由があってそうしたわけじゃない。
ただ今日フクちゃんと話す中で、リホリホが来られないということを確かめ合う場面が何度かあった。
別にフクちゃんがリホリホが来ているということを隠そうとしているとか、そういうことを思っているわけではなかったけれど、問いただすことに関してあまり意味はないような気がした。
まず私の見間違いである可能性があまりに高い。次に、仮にフクちゃんがリホリホが来ていることを私に隠している（全く以ってそんなことをする理由は思いつけないが）ということも考えられるけれど、
仮にそうだとしたら私が問いただしたところで「見間違いじゃないですか」と一蹴されて終わりだ。
ほかにも、確かにリホリホが来ているとして、それをフクちゃんも知らされていなかった場合、フクちゃんとしてもこれはあまり気分の良いものじゃないだろう。
無駄に彼女たちの間に溝を作ってしまうことになりかねない。いや、フクちゃんがリホリホは来ないと思っているのだとしたら、私の見間違いであっても、フクちゃんはほんの一時嫌な気分になるかもしれない。
そんなようなことがざっと頭の中で巡って、結局のところ私は一人で立ち上がり「ちょっとお手洗い行ってくるね」とフクちゃんに告げるよりほかなかった。
フクちゃんは一人で残されるのが心細いのか「かなり混んでそうですけど」と不安げな表情で私に忠告をくれたが、私は「ごめんね。すぐに戻るから」と言って席を離れた。
少し歩いてそれとなく振り返ると、フクちゃんがやはり不安そうな表情のままこちらを見ていて、少し申し訳なくなる。
そして、私と目が合って慌てて視線を逸らすフクちゃんを見て、「もしかして……」と私の中で疑念が少しだけ生まれる。
ホールの外はまだグッズを買うファンの群れでごった返していた。連れ立って今日のライブに参加している人たちは興奮した声で感想を語り合っている。
そこに雑踏、係員の決まり文句が混じり合って、一種のカオスが生まれていた。
確かにあの後姿がリホリホだったとして、ここから彼女を見つけ出すのは至難の業だろう。
しかし、彼女が２階から階段を使って降りてくることは確実だ。幸い、階段は２か所しかなく、リホリホのいた位置から考えると、彼女が使うと思われる階段は１つに絞ることができた。
私は柱の影に隠れるようにして、リホリホらしき女の子が降りてくるのを待った。
もし本当に私が見たのがリホリホだとして、こうして待ち伏せしているけれど、実際にリホリホを見つけたところで私は彼女にどう声をかけたらいいのだろう。
というか、声をかけるべきだろうか。そもそも私は何のためにここに来ている？
私が自問を繰り返し始めたあたりで、私の視界に予想もしなかった人物の姿が目に飛び込んでくる。
「絵里……？」
この喧騒の中で私が漏らした声なんて届くはずもなかったのに、絵里は私の声に反応するかのように私の方に視線を向けてきた。目が合う、そして動けなくなる。
「ちょっと……！」
階段のど真ん中で立ち止まった絵里を押しのけるように何人かの人が苛立った声を上げた。
私の網膜の上で揺れる絵里が、はっと我に返ったように歩みを再開する。そして、私は絵里の隣で目を見開いて驚いた表情を浮かべるリホリホの姿を認めた。
どれくらいの時間が経ったかわからない。けれど、きっとものの数秒のはずだ。階段にしてほんの１０段もないくらいなのだから。
にもかかわらず、私には絵里が階段を降りて目の前にやって来るまでの時間が、１０年くらいにも感じられた。いや、実際に１０年かかったのだ。
１０年。それはあまりにも長く、あまりにも切ない時の流れだ。
久しぶり、という挨拶をする間もなく、リホリホが「外、出ましょう」と言ってくるので、私たちはそれに従った。
リホリホの後ろを絵里が追い、その後ろを私がついていく。茶髪。伸ばされた髪。男にしては華奢な身体つき。絵里がいる、と思った。これが私が待ち続けていた男なのだ。本当に私は待ち続けていた……？
コンサートホールの外。小さな広場があって、そこにも人がたくさんいた。
けれど、自転車置き場と自動販売機が並んでいる一角には誰もいないようで、リホリホは真っ直ぐそこに私たちを連れて行った。
幸いにも雨はもう止んでいた。街には雨の匂いが染みついていて、アスファルトの上には街路樹の葉が落ちていた。
自動販売機の明かりで見る絵里の顔は酷く不健康そうに見えた。青白い光のせいだ。きっと私の顔も同じくらい不健康そうに彼には見えているだろう。
たいして遠くまで来ていないのに、辺りはとても静かに感じられた。絵里が足を動かすと、スニーカーがじゃりっと音を立てるのも聞き取れる。
「久しぶり」絵里がまずは口を開く。私もとりあえず「久しぶり」と返す。こんな声だったっけ、と思う。
「あの、道重さん、すみません」リホリホが慌てたように私たちの間に入って来る。
「えっと……」
「本当のこと言うと、今日私はお２人を合わせるつもりだったんです。前に道重さんには話しましたよね。私が亀井さんと同じバイト先で働いているって」
「絵里は……絵里は知ってたの？」
「知って……」
「あ、ごめん。知ってた？、ってのは今日ここでこうした会うことを知ってたか、ってこと」
「いや、知らなかったよ」絵里が自ら私の問いに答える。
「僕は今日、鞘師さんとデートのつもりで来ただけだよ。ただ、鞘師さんはそういうつもりじゃなかったみたいだけれどね」
絵里の喋り方はほとんど昔のようだった。相も変わらず、丁寧な口ぶりでありながら、どこか厭世的な、皮肉を若干帯びたような話し方をしている。
「いえ、私もデートのつもりでした」
「じゃあ、いったいどういう……」
「あの、すみません。ちゃんと一から説明します。少しだけ私に時間をください」
リホリホはとても困ったような表情を浮かべている。
おそらく何も知らなかった私と絵里の方がずっと困っているはずだったけれど、しかし、目の前の可愛らしい子が頑張って何かを話そうとしているのだ。私も絵里も、それを遮るような大人ではない。
「もともと私は亀井さんのことが好きで、それは１か月半前に告白した通りです。道重さんには告白したことまでは言ってませんでしたけど。
で、当たり前ですけど、亀井さんは私の告白にその場ではOKを出してはくれませんでした。ちょっと考えさせてほしいと言われたので、私は今日まで待っていたわけです。
ただ、こんなことは言いたくないんですけど、きっと亀井さんは私の事なんて好きじゃない。きっと亀井さんが好きなのは私じゃなくて道重さんだと私は勝手に思っています。
そして、私は道重さんもまた亀井さんのことがまだ忘れられていないということを感じていました。だから、２人を会わせようと思ったんです。
ただ、どうやって会わせればいいかわかりませんでした。わからなかったから、優樹ちゃんのライブに誘うことにしたんです。
告白する前から私はきっと亀井さんにはフラれてしまうってわかってましたから、もう告白の場で無理やりこのライブに誘ったんです。
優しい亀井さんなら、きっと私の最後の我儘としてデートくらいしてくれるだろう、っていう算段もありました。そして、道重さんも優樹ちゃんのライブと言えばきっと来てくれる。
だから、道重さんはフクちゃんに頼んで誘ってもらったんです。私は最初からお２人を会わせるつもりでした。それでも私は亀井さんのことが好きなんです。
だから、せめてライブが終わるまでは……楽しいデートにしたかったんです。せっかく亀井さんが私の我儘を聞いてくれたんですから。でも、もういいんです。
私はもう充分幸せな気分を味わわせてもらいました。本当は優樹ちゃんの楽屋でお２人には会ってもらうつもりでした。それなのに、まさかこんな形で再会させてしまうなんて……」
そこまでリホリホはまくしたてるように喋っていたが、不意に息を呑み、そして深く溜息を吐き出す。それから、まるでにわか雨の降り始めのように、泣き出した。
子供みたいに嗚咽交じりに泣く。私と絵里は顔を見合わせる。こんなにも長い間離れていたのに、私は言葉もなく絵里と意思を交わし、そしてリホリホの頭を撫でてやった。
絵里はリホリホの身体に触れないようにしながらも、傍に立って人目のある方を自らの背で隠してやった。
リホリホの説明はところどころ理解できない部分もあったけれど、それでも彼女が何かしらの強く、そして複雑な想いを持って私と絵里を再会させようとしていたことはよくわかった。
しばらくリホリホが泣き止むのをそのまま待つ。私はいつまでも彼女の頭を撫で続け、絵里は傍で立ち続けた。
「ひっく……ごめんなさい。泣く……つもりなんて、なかった、んです」私が背を撫でてやると、それに促されるようにリホリホはゆっくり深呼吸をする。
落ち着いたところで、再び彼女は言葉を紡ぎ始める。
「私も自分で自分がよくわからないんです。こんなに……泣いてしまうくらい亀井さんのことが好きなのに、２人を会わせようとするなんて」
「さゆみが悪いの。さゆみがリホリホに絵里のことしつこく聞いたりしたから……リホリホは優しいからさゆみのために自分の気持ちを殺して私たちを会わせようとしてくれたんだよね」
リホリホは首を横に振る。何度も。最初は私の言葉に対する否定のはずだったけれど、彼女自身が言っていた通り、そのうちに自分でも何が正解かわからなくなって、すべてを投げ出してしまいたい、という風に私には見えた。
私は困って絵里の方を見やる。彼もまた困った表情をしていた。そして、私の視線に気がつくと、じっと私を見つめたまま眉をしかめ、しばらくしてから不意に顔を逸らす。
深く息を吐く。何かを喋ろうと、彼は口を数秒開き、言葉を探すがうまく出てこない。が、それでも何とか声を作る。
「僕は……僕はまずお礼を言うべきなんだろうな。まずは、鞘師さんが僕を好きだと言ってくれたことに対して。それから、こうやってさゆと再会させてくれたことに対して。
あと、さゆが僕のことを忘れないでいてくれたことに対して。あまりにも感謝するしかなくて、自分が惨めに思えてくるほどに、本当にありがたいことだよ。
ただ、僕としてはこんな風に女の子を泣かせたくはないんだ。もう、そういうことはしない……というか、起こさないように気をつけて生きてきたつもりなんだけど、なかなかうまくはいかない。
そして、一旦こうなってしまうと、僕にはもう自分がどうしたら良いのかわからなくなってしまう。何とか誰も涙を流したりしないようにしたいとは思うんだけど……」
「絵里」
絵里の言葉を遮るように、自然と私の口から彼を呼ぶ声が零れた。いったい私は何を言葉にするのだろう。
「絵里は何も変わってない。あの頃と同じなの。ぜんぶ自分で考えて、自分で答えを見つけようとする。だから、うまくいかないのよ。絵里は確かに頭が良いのかもしれない。
けど、人間が１人でできることなんてたかが知れてるの。だいたい、絵里に泣かされたさゆみを救ってくれたのは、絵里じゃないしね。
絵里は勝手にさゆみたちの前からいなくなって、長ったらしい手紙を残しただけ。置いてけぼりにされたさゆみと、それかられーなは自分たちで何とかするしかなかった。
でも、少なくともさゆみは自分１人じゃ何もできなかった。長い時間をかけて、リホリホとかほかの色んな子に助けてもらってこうやって生きているの。
今日、ライブで歌ってたまーちゃんも私を助けてくれた子の１人なの。だから、あまり思い上がらないで、絵里はまずリホリホに対して、自分の正直な気持ちで答えればいいのよ」
久しぶりの再会というのに、私の口から零れたのは、どうしてかこんなにも辛辣な言葉だった。
そんな言葉が私の口から吐き出されるなんて、ぜんぜん思ってもみなかった。私の中では未だに絵里のことを許せないでいるんだ。
そして、そのことは必然的に私が絵里に対してまだ執着の心があることを示している。
「さゆ、悪かった」
絵里は悲しいのか嬉しいのか、眩しそうに顔を歪める。一陣の風が吹いて、雨に濡れた草の香りを巻き上げる。
遠くの喧騒。ずっと向うの景色には電車が走っていくのが見える。夜を貫くように。
「フクちゃん？」
ふと顔を上げたリホリホが声を漏らす。
私たちも遅れて彼女の視線を追うとそこにはじっとこちらを見つめる品の良い女の子が立ち尽くしていた。
「そうか……そうだな。フクちゃんっていうのは君だったんだな」
「お久しぶりです。亀井さん」
どうして２人に面識があるのか、私にはわからない。私とリホリホが困惑の表情を浮かべると、徐にフクちゃんが口を開く。
「リホリホが道重さんと会う前に、私は道重さんに家庭教師をしてもらってたって言ってたでしょ。そのときに、私は亀井さんと会っているの。お兄ちゃんのバイト先の先輩だった。
お兄ちゃんと亀井さんでちょっとした会社を作ろうとしていたときに、お兄ちゃんは道重さんも誘っていたの。でも、それを亀井さんが拒否した」
まさか、と私は狼狽えながら絵里を振り返る。彼は何も言わず私にちらっと視線を向けて、それから逸らす。
また自分は失敗したのだと悟って、後悔に顔を暗く染める。私の瞳の中で彼はどんどん小さく、力と輝きを失っていくように見えた。
フクちゃんの説明を聞いても、リホリホはいまいち事情を理解しきれないみたいだった。当然だ。絵里がしたことで私が囚われた失望の檻を理解するには、もう少し私の感情の経緯と言うものを知る必要がある。
しかし、この場でフクちゃんが、ただの兄の知人というだけでなく、絵里が私にしたことまで口にするということは、彼女の方はその私の感情の経緯というものにある程度の察しがついているということになる。
それはそうかもしれない。彼女は気配りができて、何よりも優しい子だった。彼女の瞳の中できらりと絵里に対する怒りの切っ先が光っている。私のためにフクちゃんは絵里に怒ってくれているのだ。
「すべて」絵里は言葉の断片を、私たちのちょうど真ん中に放り込む。
「すべて僕が悪かったと言って開き直れたらきっと楽なんだろう。でも、そんな簡単に放り投げてしまえる類のことでもない。僕は何をして償えばいいだろう。
僕はどう言って君たちに謝ればいいだろう。僕にはそれがわからない。そして、決して言い訳したいというのでもないし、僕は僕のやってきたことの結果をいま必死に受け入れているけれど、
それでも、僕は僕なりにベストを尽くしたかった。結果的にそれらはすべて間違いになってしまったけれどね」
言葉は自嘲気味だったが、彼の表情からは自嘲するほどの余裕は見られなかった。１０年前も同じように彼はこういう弱り切った表情を浮かべていた。
思えば、絵里は何も悪いことをしていない。それは中学生のときに１人の女の子と駆け落ちをしたときから変わらない。
いつだって我儘を言って彼を傷つけるのは、私みたいな身勝手な女なのだ。
絵里の優しさに付け込んで、あまりにその優しさが私たちのちっぽけな理不尽さを大きく包み込むので、時としてその強大さ故に忌むべき敵のように見えてしまうのだ。
実際には彼のことをこれっぽっちも嫌っていないのにも関わらず。
自分だって絵里を責め立てたにも関わらず、フクちゃんが自分のために絵里に怒っているのだと思うと、私は自分の方が悪かったんだという気持ちになってくる。
絵里は悪くない、悪いのは私なんだから。と、絵里を庇いたい衝動があふれ出す。自分で自分の理不尽さが恨めしい。
「あのね、フクちゃん―」
「リホちゃん。優樹ちゃんが待ってるよ」
ちょうど私の言葉を掻き消すようなタイミングでフクちゃんがリホリホに声をかける。はっとするリホリホ。涙を拭いて、フクちゃんの方に２，３歩近寄り、それから私たちの方へと振り向いた。
「亀井さん、道重さん。優樹ちゃんのところに行きましょう」
私と絵里は困惑したように顔を合わせる。確かにまーちゃんのところには挨拶に行くことになっていたけれど、彼女には申し訳ないが、いまはそれどころではないというのが正直なところだった。
「田中さん……田中れいなさんもそこにいます」
れいなが……？
何が見えるというのでもないのに、私たちはそろってコンサート会場を見上げた。
ライブが終わり、関係者の楽屋訪問に備えて、私が佐藤のメイクを直してやっているとき、「今日、ちょっと最後までここにいてもらってもいいですか？」と佐藤から頼まれる。
私が「それは個人的な頼みごとったい？」と聞くと、「そうです。個人的です！」とライブ後の疲れも見せず無邪気に佐藤が答える。
「疲れたけん、はやく帰りたいっちゃけど」という私のへそ曲がりな答にも佐藤はめげずに、いつもの如く「ダメですよぅ！ たまにはまーちゃんのお願い聞いてください」と比喩でも何でもなく、私の腕に縋りついて来る。
なんだかんだいつも佐藤の言いなりになっているのだから、「たまには」なんて心外だと思ったけれど、かと言って「いつも言いなり」ということを佐藤に対して認めるのも嫌なので「仕方ないっちゃね。たまには、ね」と佐藤の希望を聞き入れてやる。
子供の我儘に付き合うのが大人の役割というものだ。
私は彼女のことを「佐藤」と呼び、彼女は私のことを「たなさたん」と呼ぶ。「たなさたん」という呼び方に関して、私からは特に言うべきことはない。
「まーちゃん、気を許した人はあだ名で呼ぶんです」と言われてしまえば、私としてはそれを受け入れるよりほかなかった。
それに「サタン（悪魔）」と入っているのは何というかなかなか可愛らしいではないか、と私はそのあだ名を少し気に入っている。
むしろ問題なのは、私が彼女のことを「佐藤」と呼んでいることだ。
本来であれば、私のお客さまである相手に「佐藤」なんて呼び捨てをすべきではないし、こういった関係性はアーティストとスタイリストとしては適切ではないのだろうけれど、出会いが出会いだったから仕方がない。
私と佐藤はとある洋服店で偶然出会い、偶然仲を深めることになった。私が手に取ろうとした洋服を佐藤もまた手に取ろうとしたのだった。
「あ、ごめんなさい」私は手を引っ込め、ついそう謝る。
「これ、可愛いですね！」
「え、あぁ」初対面で気軽に話しかけてくる彼女に私は少し面を喰らう。
「あの、かごの中身見てもいいですか？」
「かご？」
「まーちゃんたち、趣味が似てると思うんです。だから、参考にしたいと思って」
図々しい。
これでもこちとら高校時代は不良少女と呼ばれて……みたいなことを言いそうになるけれど、あまりにはしたないので止めることにする。
きっと私がそう言ったところで、目の前の無邪気なガキは「え、嘘だー！ ぜんぜん怖くないですよ！」などと言いそうだったし。
それからも彼女は図々しく、馴れ々れしく私に付き纏ってきて、挙句の果てには「まーちゃんに服、選んでください」とプライベートなのにスタイリングの仕事をさせられてしまった。
しかも、その１店舗で済むかと思いきや、あそこの店に行ってみたいだとか、私がその日に着ていた服の出所を聞き出し、そこへ私を引っ張っていった。
「まるでスタイリストさんみたいですね！」と彼女が言うので、「や、スタイリストやし」と冷静に私は返してやる。
「じゃあ、今度のライブでまーちゃんのスタイリストしてください！」
「は？（コイツほんとうに頭がおかしいのか……？）」
私が狼狽えているところに、１人の女子高生が恐る々る近寄って来て佐藤に握手を求める。
佐藤に握手をしてもらったその子は気が狂ってしまうほどにはしゃぎ、まさかの佐藤によって「しーっ」と宥められるという失態をしでかしていた。
や、お前も今さっきまで私にきゃっきゃとちょっかい出してたやん、というツッコミを何とか飲み込む。
思い返してみると、本当に奇跡的な出会いだと思う。
偶然同じ服を手に取ろうとし、急に業界人ぶる彼女を訝しがっていたら、１人のファンが彼女が業界人であることを証明してきた。
神様がベタベタの台本を佐藤のために用意していたと思ってしまうほどだった。いや、もしかしたらそれは佐藤ではなく、私のための台本だったのかもしれないが。
しかし、私が呆気に取られながらも何となく彼女の我儘に付き合って、何店舗も一緒に回ってやったのは、何も彼女の我儘だけのせいにはできない。
それよりもむしろ、私のスタイリストとしての血が騒いだからというのが本音だろう。彼女はほとんどどんな服でも着こなすことができた。
モデルみたいに長身でスラリとした体形というのではないけれど、充分に女性らしく、それでいて無駄のないスタイルをしていた。
笑えば子供のようで、澄ましてみれば凛と美しい。露出の多い服を着せると、それに合わせて彼女は妖艶な表情を作って見せる。
けれど、そんなのはそこら辺のモデルにも沢山いる。ただ、彼女の凄いところはどんな格好、表情をしていても、それが「佐藤優樹」というスタイルに集約されることだった。
最初は彼女に子供のようにせがまれるがまま連れ回されていたけれど、気づかぬうちに私が次々と色々な服を着せ替えるので、最後には佐藤の方が「まーちゃん、お腹減った」と泣き言を言い出す始末だった。
しかし、それを私は「お腹膨れたら似合う服も似合わなくなると」と無視し、彼女を着せ替え人形にして休日を謳歌してしまった。
そのようにして、私は「１日じゃ足りないな」と彼女の連絡先を聞き出した。そこから私たちの付き合いは始まり、そして最初に彼女が提案したように私は佐藤のほとんど専属のスタイリストとなるに至った。
彼女は私の雇い主であったけれど、そのような経緯から私は「佐藤」と呼び、彼女は「たなさたん」と呼ぶ関係が続いている。
そんな関係だったから、私は佐藤が急に「ライブ後、残ってくれ」と言ってきても、また何か私に甘える気だな、くらいにしか思っていなかった。
現にこれまで何度もそうやって彼女には最後まで残され、そしてネイルやヘアアレンジを無償でさせられた。
まぁ、最高の素材を使って私の好きなように実験ができるので、私としては困るというよりもむしろ大助かりだったのだけれど（とは言え、佐藤で似合ったからといって、そこら辺の凡庸な人間に同じようなスタイリングが通用するはずもないので、実利は少なかった）。
それに、まぁ、自分でも認めるくらいには私はミーハーだったし、たまに佐藤の楽屋には結構有名な業界人もやって来るので、細々とした片づけをしているフリをして、彼らを盗み見るのは私にとってはなかなか胸躍ることだった。
今日はどんな有名人がくるかな、なんて考えながら汗で湿った彼女の髪をドライヤーで乾かしてやっていると、佐藤は不意に私の服の裾を掴んできた。
「なん？」私が聞き、佐藤が答える。しかし、ドライヤーの風音にかき消されて私のところまでは届かない。私はドライヤーを止めて、もう一度彼女に尋ねる。
「たなさたん。今日は、まーちゃんの師匠が挨拶に来るんです」
「あぁ、ライブのMCでも言いよったと。すごい人ったい？」
「……やっさん」
「え？」
「やっさん、って言うんです。師匠」
「なんか凄そうやね」
「……」
佐藤にしては珍しく喋りにくそうだ。私が「なんね、どうしたと？」と何度か聞いてやると、彼女はやっと口をまた開く気持ちになってくれた。
「師匠が２人連れてきます。たなさたんの知ってる人です」
２人？ 私は佐藤が何を言おうとしているのかよくわからなかった。
しかし、深く追求する時間もない。後ろから「佐藤さんそろそろ良いですか？」とスタッフの声がかかったので、私は再びドライヤーのスイッチを入れて大急ぎで応急処置を施す。
そうして、いつものように私は幾人もの関係者が佐藤の楽屋を訪問するのを横目で眺め、「今日はハズレやね」と失礼なことを考えて時間を潰した。
しかし、ハズレで良かったとも思う。私には考えなきゃいけないことがあった。佐藤が言った「たなさたんの知っている２人」という言葉だ。
「２人」という言葉には、何かしら私の心を惑わすものがあった。いや、もし今日という日でなければ私は「２人」と聞いてもそんなに気を動転させることもなかっただろう。
私と佐藤の間には共通の知人が何人かいたし、そこから２人を選び取るだけでも相当数のパターンが考えられた。
しかし、佐藤の「師匠」が連れて来る「２人」となれば話は違ってくる。ましてや、今日のあのMCを聞いた後では。
どうして私が今の今まで今日のあのMCについて、何も感じずにいたのか、今となっては到底信じられない。
ライブ中は色々と衣装の準備や何やらが忙しいし、ステージ裏で佐藤のパフォーマンス映像を見ている間も、彼女の化粧やらヘアスタイルに綻びがないか、という目線で気を張っていなきゃいけない。
そのせいだと言ってしまえばそれまでだけれど、たしかに佐藤は今日のMCで彼女がミュージシャンとなるきっかけを作ってくれた人が今日は見に来ていると言っていた。
たしか以前に聞いた彼女の話では、地元の学校の先輩２人ともう１人、小さい頃から優しくしてくれていた近所のお姉さんが、その恩人たちということだった。
私はずっとその３人のことをあまり気にかけないでいた。しかし、今になって思えば、そのお姉さんはあの道重さゆみだったのではないか、という気がしてくる。
佐藤には何回かさゆの話をした記憶があった。
自分には高校の頃にとても仲の良かった子がいたけれど、大学進学と同時に疎遠になってしまった。
東京で１人暮らしをしない佐藤を応援するために、「地元の友達は大事にした方が良い」ということを言って聞かせようと、私自身を反面教師としてその話をしたのだ。
私はその時、たしかにさゆの名前を口にしたと思う。
佐藤は困ったような表情をしていた。話の内容がそもそもの悩み相談のようなものだったから、困っていて当然と思っていたけれど、何となく違和感みたいなものもあった。
あの時もたしか佐藤は喋りにくそうにしていた。「ですよね。やっぱりまーちゃんは東京で１人暮らしなんてしません」と即決していたにもかかわらず。
話せば同郷ということだし、私のことを「２人目のお姉ちゃん」呼ばわりするので、もしかしたら「１人目」は私の知り合いかもしれないな、なんてことを考えたこともあった。
私がさゆの名前を出した後で、佐藤が「１人目」の正体がさゆであることを隠そうとした理由についてはわからない。
ただ、私はさゆを放り出して自分勝手に東京に出てきた手前、さゆには会わせる顔が無いと考えていたし、その想いが私の口ぶりから漏れ伝わっていたとしたら、佐藤が口を噤む理由にもなるかもしれない。
佐藤はこれで勘が良いやつなのだ。時折、本当は野生の動物なんじゃないかと思う時があるくらい。
私は諸々の整理をするフリをしながら、訪問してくる業界人を横目に、「２人」について考え続けた。右手で取り上げたボディクリームを左手に持ち変え、そのまま元あった場所に戻す。
一向に後片付けは進んでいかない。「２人」……佐藤には劣るし、今までたいして信頼を寄せてはこなかったけれど、このときばかりは私は自分の勘というものを無視することはできない。
私と同い年の、佐藤の「１人目のお姉ちゃん」が「２人」のうちの１人だとする。道重さゆみ。となれば、もう１人は必然的に亀井絵里になるだろう。
まさかそんな、とは思いつつも私はその僅かな可能性を無視することができない。
あの自分の世界の中で自由奔放に生きている佐藤が神妙な面持ちで「たなさたんの知っている人が２人来ます」と言ってきたことからも、これは並大抵のことではない。
ますます、私はその可能性に囚われていく。
挨拶がひと段落する。いつも周囲に世話をされるがままの佐藤が、不慣れな様子でスタッフに楽屋から出て行くように指示を出している。
マネージャーには小声で何かをお願いし、私も周囲に倣って楽屋を出て行こうとすると引き留められた。
「たなさたん、会ってほしい人が……」
「誰？ れーなの知ってる人って、さっき言っとったっちゃけど」
「……とにかくもう少し待ってください」
私は急にこの場から逃げ出したくなる。楽屋には私と佐藤だけ。ほんの１分前まではあれだけガヤガヤとしていたのに、今ではお通夜の如くしんみりと静かだった。
佐藤のマネージャーが楽屋の廊下の先で、咳をする音が微かに聞こえるほどだった。
いっそのことさゆと絵里ならはっきりとそう言って欲しい。しかし、私が問い詰めたところで佐藤は口を割らないだろう。
いつだったか佐藤が「好きだよ、って歌詞で書いちゃうと全部ウソになっちゃうから」と言っていたことを何故か思い出す。
もしかしたら、佐藤は今もまたそれと同じように、明言することを恐れているのかもしれない。いや、明言されることを恐れているのは、私の方かもしれない。
廊下を誰かが……複数人が歩いて来る音が聞こえてきた。心臓を握り潰され、肺に釘が打ち込まれているような痛みが襲ってくる。こん、こんと楽屋をノックする音。
これが運命の音か、とくだらない言葉が脳裏に浮かぶのも束の間、佐藤が客人を招き入れる。
見たことのない女の子が２人。そして、恐れていた姿が２つ。さゆと絵里がそこにはいた。
「１０年ぶり、ということらしい、どうやら」亀井さんが挨拶のつもりかそんなことを言う。
「れーな久しぶり」道重さんがそう言うと、田中さんも「久しぶり」と緊張した面持ちで答えた。田中さんは私が勝手にイメージしていたよりもずっと可愛らしく、そして綺麗な人だった。
私とは比べ物にならないほど、顔の一つひとつのパーツがくっきりしていて派手だ。
「詳しい経緯については僕もよくわからない。ただ、ここにいる鞘師さんという……彼女こそが今日のライブで佐藤さんが言っていたギターの師匠ということらしいんだけど、
その彼女が色々と裏で動いてくれたみたいだ。僕たちがあれから１０年も経っているのに、ウジウジしているのを見かねてね」
ウジウジしてるなんて、と私は反論しようとしたけれど、田中さんの方が僅かに早く口を開く。
「さゆと絵里は―」
「ううん、さゆみと絵里も今日があの時以来。さゆみもよくわからないの。でも、まーちゃんを含めたこの子たち３人がさゆみたちの為に今日という日をセッティングしてくれたみたいなの。
さっき、それを聞かされたばっかりで、私もまさかこんな日が来るなんて思ってもみなかったから戸惑ってはいるんだけど……」
「ねぇ、僕はこういう意地悪を言いたくはないんだけれど……こうして僕たちは鞘師さんたちが考えた通り、再会を果たすことができた。そのこと自体には感謝するけど、これから僕たちはいったいどうすれば良いのかな？」
「どうすれば、って……」フクちゃんが少し棘のある声音で困ったように答える。
「私たちはただ、道重さんたちがちゃんと話し合う機会を作ってあげたかっただけで……」
「そうかい。それで僕たちは何を話し合ったらいいんだろう」
「絵里、そんなイジワルしないで」道重さんがフクちゃんを庇うように言った。
「ねぇ、れーな。れーなはいま元気にやってる？」
「元気って……まぁ、元気やけど……なんかそういう話をする場なん？ これ？」
「さゆみにもよくわかんないけど。まぁ、元気かどうかって結構大事なことだし、一応。とりあえず、元気ならよかった」
道重さんらしくない、的を射ない言葉。それを受けてなのか、亀井さんが口を開く。
「僕はあまり元気じゃないかな、さゆ」
「ねぇ、絵里、ふざけないでよ」
「ふざけてなんかいないさ。ところで、さゆは元気？」
「さゆみ？ まぁ、それなりに」
「そうかそうか、それなら良かった」
「絵里も言葉の割には元気そうったい」
「そんなことはないよ。どうやら僕は色々な人を傷つけてしまったみたいだ。昔みたいに性懲りもなく。そのことを僕は知らされて、いまとても苦しんでいる」
「本当に苦しい人は『苦しい』なんて口にはしよらんと思うっちゃけど」
「ところで、れーなちゃんは僕がどのようにして、いったい誰を傷つけたか聞きたいと思わない？」
「別に。何となく想像はつきよーし」
「被害者は語る、ってやつかい？」
「れーなは別に自分を被害者だと思ったことはないと。むしろ、れーなは加害者側やけん」
「ようやく僕の味方が現れたみたいだね、さゆ」
「れーなは加害者なんかじゃない」道重さんが亀井さんを無視して、田中さんに言う。「１番傷ついていたのはれーなでしょ」
「もう１０年も前のことやけんね。昔のことは忘れたと……でも、これだけは覚えとうよ。
絵里がいなくなった後、れーなはもっとさゆに優しくすべきやった。いや、違う。もっとさゆのことを大切にすべきやったと。
れーなには、れーながさゆを置いて東京に行った後、さゆがどんなことを考えて生きてきたか、そんなことはわからん。
でも、少なくとも、もしれーながさゆを大切にできていたら、れーな自身がこんなに困ってはいなかったと思うとよ。
今でこそこうやって人並みに生きてはいようけど、正直、１人でここまで生きてくるのはしんどかったけんね。
離れて生活してたとしても、せめ て時々連絡を取ったり、たまには会って近況報告しあったり、そういうことができてれば、もっとマシだったと思うと」
「じゃあ、どうして……」道重さんは悲しげな表情をして田中さんを問いただす。
その様子からでも、道重さんが心底田中さんとの結びつきを求めていたことが伺い知れる。
「れーなにも本当のところはわからん。やけど、れーなは多分、あそこから逃げ出したかったんだって思うと。
なんていうか、今でこそ、れーな達は多少まともになった気がしようけど……こんな久しぶりの再会でも、思ったより落ち着いて喋れよーしね。
でも、あの時はさゆとおっても、なんていうか底無し沼みたいな感じがしよったちゃね。さゆもそう思わん？
なんていうか、もしあのままれーな達が自立することを諦めて、ぐずぐずお互いに依存しながら関係を引きずっていたら、何もかもが台無しになっとった気がすると。
せっかくさゆが止めさせてくれたのに、きっとれーなは……いや、れーなだけやなくて、きっとその時はさゆも一緒に……身体を売って生きることしかできなっとったかもしれん。
まぁ、身体を売って生きていくことが悪いことだとも、今ではもう思わんけどさ。ただ、れーなが言いたいのは……今よりももっと死んだように生きていたんじゃないか、ってことったい」
「口を挟んで悪いけれど」亀井さんは頭を指で掻きながら言う。
「これは揚げ足を取るつもりでも、れーなちゃんを批判するつもりでもなく、話がこじれてきたから整理して言うんだけど、結局のところれーなちゃんは、さゆと一緒にいるべきだったと思ってるのかな。
それとも、やっぱり一緒にいなくて良かったと思ってるのかな？」
田中さんは亀井さんに視線を向けたまま、少し黙っていた。怒っているのかと思ったけれど、次に田中さんの口から零れた言葉は意外にも穏やかで、怒っているというよりは自分自身に呆れたような響き方をした。
「さぁ。ただ、れーな達が１回離れたのは良かったこと、というか、仕方のないことだったとは思うと。もっとうまくやれたかもしれんっちゃけど。
やけん、れーな達が離れたとこまでは良しとしても、その後またれーな達はちゃんとお互い歩み寄るべきやったかもしれん。
れーなはずっとさゆがれーなことを恨んでると思ってたけん、そんなことは怖くて絶対できんかったっちゃけど。でも、今日こうしてさゆと久しぶりに会って、ちょっと話してみただけでも、よくわかったと。
もうさゆもれーなもあの頃の子供じゃないし、お互いの傷を舐め合うとかそういうんじゃなく、普通の大人がそうするように、お互いを尊重し合いながら支え合えたんやないかな。
やけん、もっとれーな達は早くに再会すべきやったと。こんなに色んな人に迷惑をかけるんやなくて、自分たちの力で。そのためにも、れーなはもっとさゆに優しくしとくべきやった。
少なくとも、罪悪感からさゆに連絡を取るのが怖くなるようなことは避けるべきやった。いま話しとうみたいに、高校の頃にきちんと喋る力があれば……今さら昔のことを言っても仕方ないっちゃけどね」
道重さんはいつだったか、田中さんのことを話してくれた時、「どこまでも純粋で、それでナイーブで傷つきやすくて」と言っていた。
ギターを諦めるかどうかの狭間で弱っていた頃の私と似ている。だから、私はそういう田中さんを想像していた。
けれど、落ち着いて喋る田中さんの言葉を聞いていると、とても大人な人だと思った。むしろ、私が大人びていてカッコイイと思っていた亀井さんの方がずっと子供っぽく見える。
恩人である道重さんよりも、しっかりとした芯のある人だとさえ思う。
と、同時に少しばかり前に道重さんが言っていた、「１番傷ついていたのはれーなでしょ」という言葉にも納得がいく。
ずっと離ればなれだった道重さんには、本当に田中さんが１番傷ついていたのかなんてわかるはずもない。そもそも人の痛みには順番なんて付けられない。
それでも、痛みは人を成長させると私は思っている。だから、そういう意味では、確かに田中さんは１番傷ついていたのかもしれない。
「ねぇ、僕もれーなちゃんに賛成だよ。さゆもそう思わない？」
「賛成とか反対とかそういう話なの？」道重さんが訝し気に答える。
「そういう話さ。きっと。というか、僕はそういう話にしたいと思う。さっき外で僕は色々と失敗続きでとてもしょんぼりしてしまっていた。
これだけ大勢の手前、強がってみてはいるものの、やっぱり今でもとても落ち込んでいる。僕は鞘師さんを傷つけたし、さゆもれーなちゃんも傷つけてきた。
これは僕が捲いた種であるし、全ての責任が僕にあるということを否定するつもりもない。償えと言われなくても、僕は償いたい気持ちでいっぱいだよ。
ただ、それでも僕はれーなちゃんの話にとても共感している。君たちが女子高生だったとき、力のない僕は君たちをとことん傷つけてしまった。
そして、逃げるように君たちの前から去って、そのまま二度と会うつもりはなかった。僕なんかに関わってしまったら、また君たちが傷つく羽目になるって思っていたからね。
そう自分に言い訳をしてこれまで生きてきた。そうやって逃げてきたせいで、結果的に、僕は今となってもこうして鞘師さんを傷つけてしまう、成長のない体たらくを晒してしまうことになった。
でも、そうは言っても、僕だって完全にあの時のままというでもない。ましてや、さゆもれーなちゃんもあれから苦しみを乗り越えて、僕なんかが及びもつかないくらいに強くなっているんだろう。
だから、僕ももう恐れることはないんだと、いま、わかった。外でさゆが言ったように、僕はずっと思い上がっていたんだよ。自分の毒が、周りの人を殺すんだろう、なんていう風に思い上がっていた。
でも、もうそうじゃないんだ。僕なんかの力じゃもう君たちを傷つけることはできない。そう思えばこそ、僕は安心して君たちにお願いができる」
亀井さんは、私が一度も見たことのない表情で―屈託のない、子供のような表情で―笑った。不格好な涙を零しながら。
「僕とお友達になってください」
オチから話すのであれば、私は亀井さんにフラれてしまった。そして、亀井さんの申し出は見事受理され、道重さんと田中さんと亀井さんは友達になった。
そこに恋愛感情のようなものがあるのか……私はあるとき道重さんに尋ねてみたけれど、「さゆみにもよくわかんない」と返されてしまった。
笑って一蹴するようであれば、その言葉が嘘であるという可能性もあったけれど（道重さんは嘘が上手だ）、本当に困ったように「よくわかんない」と言うので、嘘ではないのだろう。
年末、私とフクちゃんと優樹ちゃんは、例の如く、優樹ちゃんの家に集合し、鍋を囲んだ。私は道重さんの許可を取って、道重さんから聞いた道重さんたちの話を２人に聞かせた。
「私たちの誰かが男だったら、私たちもそうなってたのかな？」とフクちゃんが零す。
「まさ、春菊の入ったお鍋、好きです！」
「それはわかんないけど、何となく……そうはならなかったんじゃないかな？」
「ねぇ！ 無視しないでくださいよう！」
「そうかもね」
私たちには道重さんがいた。
もしかしたら、道重さんがいなければ、私のせいで３人の関係性は破綻してしまっていたかもしれない。
それを、主に私を救うという方法で、道重さんは私たち３人を救済してくれたのだと思う。
それから鍋を突きつつ、私たちは道重さんたちに起こった話を色々と妄想し合った。
道重さんから大まかな話の流れは聞いていたけれど、ディティールまではわからない。まるで、中学生に戻って、流行りの少女漫画の今後の展開を推測し合っているみたいな楽しさがそこにはあった。
いくらでも話は広がったし、深くなった。これまで読んできた色々な話のどのキャラクターよりも、あの３人は魅力的だと私は思う。
私はまるで自分がその話のストーリーテラーになったような心地で、道重さんから聞いた話と、道重さんと私の間にあったことを（まぁ、食卓を汚してしまわない程度の範囲に収めて）話す。
フクちゃんもそこに補足と彩を添える。優樹ちゃんは自ら何かを語って聞かせるということはしなかったけれど、ときどきハッとすることを言って、私たちを唸らせた。
理屈っぽく、どこか皮肉屋めいた亀。
博多弁で派手な見た目、でも芯が強い猫。
そして、憂いを帯び、知恵と優しさを持った兎。
物語のキャラクターとしては、充分魅力的で、同時に不可思議な３人だ。
こうやって鍋を囲む私たち３人もまたそれくらい魅力的な人間になれればいいな、と私たちは道重さんたちの苦労も知らずに、そんなことを考える。
「結局さ、私たちのしたことはよかったのかな？」私は尋ねてみる。
「３人を再会させたこと？」
「そう」
「まぁ、よかったんじゃないかな？」フクちゃんは上目遣いで考えながら答える。
「たなさたん、元気になりましたよ！」優樹ちゃんは箸を振りながら真っ直ぐ答える。
「それなら、よかった……よかったよ……」
「カメさんにフラれたやっさんだけ残念です」
「優樹ちゃん！」
よくある物語みたいに後日談を語ることは私にはできない。
優樹ちゃんが言った「たなさたん、元気になりましたよ」ということだけをこの話の後日談として添えることにしたい、と私は思う。
なぜならば、やはり未来というのはわからないし、わからないからこそ、そこには希望が存在できる。
フクちゃんは見事就活を成功させられるのか。優樹ちゃんは武道館公演を果たせるのか。私はギターとどう向き合い、ダンスで生きていくことができるのか。
そして、私たちの関係性……そうだ。後日談と言うならば、これを付け足しておかなくちゃ。
あれから少しして、フクちゃんが道重さんと私の間で起こったことを詳しく話すよう迫って来た。若干目を潤ませてにじり寄って来るので、私はあらかたのところを白状してしまう。
「そう、そんなことが」と言うフクちゃんの表情には、何か鋭く尖ったものが見え隠れしていた。
ずっと慕って来た大切な道重先生を取られたことに対する嫉妬なのか、あるいは……私はフクちゃんにベタベタしていた中学生の頃のことを思い出す。
「ねぇ、リホちゃん。もう１つ聞いていいかな」
「な、なに……？」
「優樹ちゃんとは何もないよね？」
「えっ、な、ないよ！ なんにも！」
脳裏に１つの映像がよぎる。私の家のソファの上。「まさもやっさんとなら、別にいいですよ」と彼女は大きな瞳で私を見つめて言っていたっけ……
未来はわからない。そして、そこに希望はあるのだろうか。
終
兎
春一番が吹いた。
こうやって、日々なんてことのない時間をうしろに送り続けていると、ときどき自分が何かの小説の中に閉じ込められた人間のように思えてくる。
本を開けば、そこにはいつもと同じ文章が書かれてあって、登場人物は決められた会話を繰り広げる。
同じ暗示に、同じ伏線。同じ衣装に、同じ笑顔。
最初に読んだ時のあの胸を締めつける感じはもうないけれど、少しずつ麻痺していく感覚が今度は感傷性を纏って私の中に降り積もっていく。
造花の桜吹雪みたいに、それは決して朽ち果てることはない。
「道重さん、お待たせしました」
髪を染め、白いイヤリングをつけた彼女は初めて見たときよりもずっと大人びていて、ずっと洗練されている。
イヤリングの色と合った白い上品なワンピースの裾を風に靡かせ、譜久村聖は小さく頭を下げた。
私は「フクちゃん、久しぶり」と笑顔を投げかけ、「大人っぽくなったね」と目を丸くしてみせた。
そんなことを口にすると、まるで自分がひどく歳をくったように思えるけれど、それは私の勝手な思い過ごしなどではなく、たしかに、現実的に私は歳をくっているのだ。
たとえ日々が同じ一節の繰り返しだとしても、ページをめくる度に時間は目の前を通り過ぎてゆく。
コーヒーカップを持ち上げ、口をつける。そういうふうにして、いつの間にか時間が過ぎてゆくんだろう。
「久しぶりって言っても、先月会いましたよね」
「そうだっけ？」
「ほら、優樹ちゃんが商店街の福引で豪華鍋セット当てて、鍋パーティーして……」
「あぁ、そっか。さゆみは鍋パ行けなかったけど、フクちゃんがおすそ分けでカニ持って来てくれたっけ」
あのカニは結局、市販の「鍋の素」とその辺のスーパーで買った野菜とで、鍋にして食べた。録画していたお笑い番組を見ながら、ひとりで楽しく。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「いえいえ。優樹ちゃんが、どうしても持って行かせようとするんです。自分で持って行けばいいのに、なんか照れちゃったみたいで」
「まーちゃんらしい。でも、ああいう福引って、さゆみ当てたことないんだよね」
「私もいつもポケットティッシュばっかりです」
「なんていうか、持っている子って、やっぱり持っているんだね」
「不思議ですよね。でも、優樹ちゃんの場合、当たるのがあたり前みたいな感じ」
「人生、得だよねー」
「ですねー」
譜久村聖と佐藤優樹は中高と同じ学校に通い、先輩後輩の関係にあたる。
学年は２つ離れていたから実際の絡みは多くないはずなのに、どうしてかとても仲が良さそうだった。
譜久村聖（フクちゃん）はよく「あの手のかかる後輩が―」と私に話していたが、そんな話を聞く度に私はフクちゃんを憐れまずにはいられなかった。
私自身、佐藤優樹（まーちゃん）と接するようになり、なぜか強烈な懐かれ方をするようになってからは、彼女の持つ野生児的なパワーに振り回されることもしばしばだった。
私は「じゃあ、いこっか」と声をかけ、そしてフクちゃんを助手席に乗せると、駅に向かって車を走らせた。
私とフクちゃん、それからまーちゃんの関係性を説明するのは少しだけ骨が折れる。
私が大学生の頃にアルバイトをしていた家庭教師の生徒がフクちゃんで（彼女は当時まだ中学生だった）、ここまでは非常に話が簡単なのだけれど、そこから先はやや込み入った事情があった。
まーちゃんとの関係性は、フクちゃんの後輩とだけ考えれば、これもまた非常にわかりやすいけれど、彼女がフクちゃんの後輩になる前から、私たちには微妙な関わり合いがあった。
いずれも「運命的な」というほどではないにせよ、しかしながら年の差のある私たちがこうして関係性を保っているのは、きっとそこに不可思議な結びつきが張り巡らされているからだろう。
私はよく昔のことを思い出す。
そもそもは私が高校生のときの話が発端だ。いや、発端と言うよりは根幹と言った方がより正確な表現になるだろうか。
どんな綺麗な花を咲かせる植物にも根っこはあり、ときどきその根っこには毒があったりする。
その毒は少しずつ身体を蝕み、気づかないうちに私の血液を毒液に変えてしまう。
だから、私は血を流すことはもうできない。
私から流れ出た赤い液体が、ほかの誰かに触れたとき、その相手をも私の毒に感染させてしまうからだ。
大学時代の私はその持病＝毒に侵された身体を隠し、平穏に過ごそうと決めていた。
高校時代のことはできるだけ考えないようにした。
考えるとしても、それは一人きりの孤独な夜に少し部屋を静かにして「想う」だけで、私の周りに広がる社会（それは世間知らずの大学生の周りに広がる小さな世界にしか過ぎなかったけれど、たしかに一つの社会ではあった）に対しては、私は常に大人しい健常者を装った。
まるで、その花言葉の意味通りのシクラメンのように。根に毒を抱えながら。
「道重さんは、リホちゃんには全然会ってないんですか？」
信号待ちの間に、フクちゃんはさりげなく私に尋ねてきた。うん、全然会ってないな。
連絡も取ってない―うん―じゃあ、３年ぶりくらいですか―そうだね。
信号が青に変わり、私はまた軽自動車を駅に向かって走らせる。
ラジオからは新生活に対する不安を抱えたリスナーのメールを読み上げるDJの声が聞こえてきた。
DJの女性は何よりも早くに、リスナーへの共感を示し、８割の同意と２割の警告を与える。
ラジオDJの専門学校では、この比率が黄金率であると習うのかもしれない。
私は、そんなことを漠然と頭に思い描きながら、久しぶりのリホリホとの再会についてはできるだけ考えないようにしていた。
考えたところでどういう顔をして会ったらいいか、わかる訳もないのだから。
鞘師里保を駅に迎えに行く。私の役目はただそれだけのはずだった。
鞘師里保（リホリホ）は県外の大学に進学し、今日は久しぶりの帰省ということだった。
いつもなら彼女のご両親が駅まで迎えに行くのだけれど、生憎今日は二人とも仕事があるらしい。当然だ。大学生はすでに春休み期間かもしれないが、今日は平日だった。
私の職場はたまたま土日出勤がある不定休の職場で、さらに偶然なことにリホリホが帰省してくる日は私が休みの日だった。
フクちゃんがリホリホと連絡を取り、迎えがないという事情を聞き、そしてたまたま私がその事情を知るに至った。
どのような経緯で私がその事情を知るに至ったか。まーちゃんからスタンプだけのメッセージがスマホに送られてきて、私は何の気なしにトーク画面を開いた。
開いてから「あっ。しまった」と小さく声を漏らしたが、時はすでに遅く、私からの＜既読＞のついたことを確認したまーちゃんからすぐに電話がかかってくる。
そして、「ふくぬらさんと一緒にやっさんを迎えに行ってください。ほら、ふくぬらさんからも頼んでください」と甲高い声がスピーカーから漏れてきた。
「提案した本人が来ないってどういうことだろうね」
私が苦笑い混じりにそう言うと、フクちゃんも「ですよね」と私よりも苦みの強い笑みを浮かべて答えた。
そりゃそうだ。年上の相手に無理やり、自分の同級生の送迎をさせるのだから。
とは言え、今のまーちゃんは何かと忙しい身だろうし、仕方がないと言えば仕方のないことかもしれない。
ちなみに、フクちゃんとリホリホは高校の同級生で、私が個人的にリホリホと知り合ってからしばらくするまでは、フクちゃんと彼女が同級生であるということも私は知らなかった。
私がリホリホと知り合った頃、私はすでに大学を卒業して、家庭教師のアルバイトも辞めていた。
駅前のロータリーに車を止めて、窓の外で街路樹を撫ぜる春一番に目を細めている。
ラジオは短い曲フリに入り、そしてイントロに重なるように曲名が告げられる。「あの日に戻りたい」。2人組の女性ユニットの織りなす甘い歌声。「春なのに……」と柔らかい陰影に包まれた歌詞が、今の季節にぴったりだった。
私とフクちゃんは特に会話も無く、それぞれ別の情景を思い浮かべながらラジオから流れる音楽に耳を傾けていた。
窓から差し込む陽射しが温かい。暖房を少し弱くする。
曲の中盤で助手席側の窓から、電車がホームに到着する様子が見えた。何人かの人が降りてくるが、リホリホの姿は見つけられなかった。
この列車ではなかっただろうか？
フクちゃんとそんなようなことを口にして、なおも駅の方に目を向けていると、曲が終わる前にリホリホが駅の階段を降りてくるのが見えた。
重たそうなスーツケースを両手で持ち上げ、一段々々足元を確かめるように降りる姿が、どこか子供っぽく、私は心の中で「転ばなきゃいいけど」と呟く。
フクちゃんは「あぁ、落ちないでね」と実際に小さく声に出していた。何かにつけてよく転ぶ子だった。
リホリホが東京に行くと知ったときも、真っ先に思ったのは「東京駅の階段で転ばなければいいけど」ということだった。
「お久しぶりです」
下ろした助手席の窓から、リホリホが小さくお辞儀をしてくる。
前髪を流して、黒色のブラウスに色褪せたブルージーンズ。ブラウスの袖はシースルーになっていて女性的だったが、それにラフなジーンズを合わせるというスタイルがどこか都会っぽさを感じさせる。
「後ろのトランクに荷物入れて」
「あ、はい。ありがとうございます」
リホリホがスーツケースを載せ、後ろの席に乗り込むのを待って、私は車のエンジンを入れる。
「長旅お疲れさま」私は後部座席に声をかける。
「ずっと寝てただけなんで、疲れてはないですよ」リホリホは笑いながら言う。
「リホちゃん、どこでも眠れるもんね」フクちゃんも笑いながら言った。
車を発進させて、とりあえず行きつけのイタリアンレストランへと向かった。
「道重さんの車に乗るの初めてです」
「あれ、そうだっけ？」
「いつから乗ってるんですか？」
「いつからだっけね」私はフクちゃんに視線を向けて、尋ねてみる。
「2年前とかですかね。まぁ、私も乗せてもらったのは数回ですけど」
「みんな最初は私が車を運転することに反対してたの。お前は、ぜったい事故る、って。酷いと思わない？」
「まぁ、ちょっとだけわかるような気はしますね」
リホリホは悪戯っぽい笑顔で言う。
フクちゃんも首を傾げながら小さく頷くので、私はあからさまに溜息を吐いた。3人の笑い声がラジオの音をかき消す。
ものの5分でレストランに着き、予約していた席に案内してもらう。
リホちゃんはここ初めて？とフクちゃんが尋ねるが、リホリホは首を横に振る。「何回か道重さんと一緒に」。
素っ気なく答えるリホリホの表情はどこか強張っていて、一瞬私と視線が交錯する。「ふうん」とフクちゃんは無関心を装って椅子に腰かけるが、私とリホリホの態度に何かを感じている様子だった。
何種類ものオリジナルのパスタが美味しいお店だったので、それぞれメニュー選びに時間がかかる。
ようやく全員のメニューが決まり、注文を終えると、フクちゃんがお手洗いに席を立った。
目の前には大人びたリホリホただ1人（なぜか少しだけ緊張する）。愛らしい口元は昔のままだったけれど、目元の涼し気な感じはより強まり、何よりも長く流した前髪が大人っぽさを演出していた。
喋り方も少し落ち着いたかもしれない。まぁ、喋り方に関しては、久しぶりの再会に、お互いまだ少し緊張しているということもあるだろうか。
「久しぶりだね、リホリホ」
「ご無沙汰していました」
「そんなにかしこまらないでよ」
「私も少しは大人になったんです」
「うん。本当に大人びたよね」
「なんでちょっとがっかりした感じなんですか」
「がっかりなんてしてないの。ただちょっと寂しくなっただけ」
こういう言い方をすると犯罪者めいて聞こえるが、私は小さな子が好きだ。
幼稚園児とか小学生とか、まぁ、中学生とかも。リホリホとは何度かそういう話をしたことがあったし、だからこそ、リホリホはそういうからかい方をしたんだろう。
けれど、私がリホリホのことを好いている理由と、小さな子が好きだという事実はリンクしているようで、どこかリンクしていない。
コップの中、水に浮かぶ氷のように、それは見た目としてははっきりとした境界線を持ちながらも、哲学的には曖昧な境界線を持った設問だった。
「今日はお仕事お休みだったんですか？」リホリホが聞いてくる。
「そう。土日働いたご褒美……って言われるけど、ご褒美でも何でもなくてそういう勤務体系なだけ」
「社会人はやっぱり大変なんですね」
リホリホの言葉に「うん、まぁね」と返して私は少し考える。
わざわざ言うことではないのだろうな、と思いながらも会話の隙間を埋めるように私はつい口を開いて、昔の謝罪をしてしまう。
「そういえば連絡、返さなくてごめんね。せっかく、リホリホ連絡くれたのに」
「連絡……あぁ、それってもう1年とか2年とか前の話じゃないですか」
「あのときは色々とバタバタしてて……」
「フクちゃんから聞きましたよ。もうあの公民館辞めちゃったんですね」
「辞めるというか、公務員なんていずれ異動するものだから」
「でも、その公務員だって」
「さゆみにはもともとあんまり向いてなかったの。さゆみはどんなところに行ってもある程度やっていける自信はあって、だから異動の多い公務員になってみたんだけど、でもそれが間違いだった。同じところに腰を落ち着ける方が、さゆみに向いてた」
「今は駅南の図書館で働いているんでしたっけ？」
「そう。異動もないし、あんまり変わり映えもしないけど、比較的平和に過ごしているよ」
私は笑って見せる。私の言葉には若干の嘘が混じっていたけれど、時と場合によってはある程度の嘘も仕方のないことだった。
私の血が毒に侵されていることが知られてしまったら、みな私を遠ざけ、すぐに遠くへ消え去ってしまうだろう。あるいは、その毒を分かち合い、一緒に腐り果てるか。
私はお手洗いの方をちらっと見やる。まだフクちゃんが戻って来る様子はない。
「ねぇ、リホリホ。１つだけ聞いておきたかったんだけど」
「はい」
「フクちゃんは、さゆみとリホリホのことどれくらい知ってるの？」
「私からは何も話してないです。あの公民館でお世話になっていたお姉さんみたいな人としか」
「そう」
でも、たとえリホリホが何も話していなくても、フクちゃんが実際にどう思っているかまではわからない。
とは言え、リホリホが何も言っていないのであれば、きっと本当のことまでは辿り着かないだろう。
フクちゃんは上品で常識的な家庭で育ってきた。思いやりのある子だったから、人のことはよく見ているけれど、非常識的な話には疎いはずだった。
そう、フクちゃんはまさに今日着てきたワンピースのように純白な心を持っている。
私やかつてのリホリホが抱いていた鬱屈とした想いに対しては、何かを感じこそすれ、そこに確かな意味を見出すことはできないだろう。
私はその純白さを羨ましく思う。そういう意味では、まーちゃんも純白な心の持ち主だった。リホリホだって、本来はそんな純白の心を持っている子だ。
ただ周囲の期待や、彼女の責任感の強さがその純白の心を踏みにじっただけで、彼女はそんな風に踏みにじられたときですら笑顔を振りまいていた。
逃げたのではなく、自ら決断をしたのだと周囲にアピールする姿に当時の私は胸を締め付けられたものだ。
「私も道重さんに聞きたいことがあったんです」
「なに？ なんでも聞いて？」
「道重さんは、亀井さんっていう方をご存知ですか？」
「えっ――」
そのときフクちゃんがこちらに戻って来るのが見えた。私は居住まいを正し、コップの水を飲む。冷たさが少しだけ心を落ち着かせてくれる。
リホリホも何かを察したように先ほどの話題を切り上げて、そこからは至極普通の近況報告をしあった。
フクちゃんは来月には地元の大学の４年生になり、いま現在は就職活動に勤しんでいる。
私は自分が公務員試験を受けたときの話と、図書館に転職したときの話をして、さらに自己PRのコツについて色々と言って聞かせると、フクちゃんは「私には就活無理かもしれません」とうなだれてしまった。
「まぁ、そんな気負わないでも大丈夫だって」と私は励まし、「結局、熱意と誠実さが伝わればいいんだから。
御社に採用されるために私はこんなに頑張りましたよ、って態度で示すの。そのために企業研究とか面接練習をしっかりやっておく。
そういう努力はちゃんと伝わるし、フクちゃんの人柄なら絶対大丈夫」と肩を叩いた。
パスタが届き、口々に「美味しい」と感想を言い合いながら、またお喋りが始まる。
リホリホはフクちゃんと同学年だったが、ダンスに打ち込むために大学を1年間休学していたこともあり、フクちゃんの就活の話はどうも実感が湧かないみたいだった。
それに、そもそもリホリホはダンスで生きていくことを決めていた。「ダンサーとして、っていうのは難しいかもしれないです」とリホリホは言う。
私などは安直に「じゃあ、アイドルとかやってみれば？」と提案してみるが、リホリホは笑いながら首を横に振り、「歌うのは苦手なんです」と答える。
何度か一緒にカラオケに行ったことがあるけれど、リホリホは私より何十倍も歌が上手かった。
私がそう言おうとしているのを察してか、彼女は一足早く、「たしかに道重さんよりは上手く歌えるかもしれませんけど」と茶化してくる。「失礼しちゃうわぁ、ほんと」。
「ギターはもう弾いてないの？」フクちゃんがリホリホに尋ねる。
「たまに気晴らしで弾いたりするけど」リホリホは目を細めながら言う。「指の皮がすっかり薄くなっちゃったから、難しくて長いのはあんまり」
「あれはもう弾かない？」
「ソルの主題による変奏曲？」
「そう、それ。相変わらず覚えにくい名前だね」
「クラシックなんだから仕方ないじゃん」
「でも、さっき聞いたばかりなのにもうどんな曲名だったか思い出せないよ。ソルってのだけは覚えたけど」
「それでいいよ。フクちゃんが言えば、それでわかるから」
「ありがと。あ、それでそのソルはもう弾かないの？」
「弾けないよ、あんな難しいの」
私がその「ソルのなんちゃら」という曲が思い出せないでいると、フクちゃんが「あの公民館でリホちゃんが弾いてくれたやつですよ。私たちが高校3年生になる春休みに」と教えてくれた。
あぁ、あの曲か。あれはたしかに凄かった。
リホリホはもともとクラシックギターをずっと習っていて、コンクールで賞を取ったりするくらいには優秀なギタリストだったそうだ。
しかし、私がそのことを知ったのは、リホリホと出会って1年近くも経った後のことだった。
彼女は当初、単なる勉強スペースとして私が勤めていた公民館によく訪れていた。
そのうちに、ときどき体育館でダンスの練習もするようになり、バレエレッスンで使っている鏡をいつも貸し出していたから、そこで私とリホリホは言葉を交わすようになった。
彼女はいつも1人で鏡を借りていき、1人で踊る。
体育館を予約するようなことはなく、予約の入っていない時間帯に、小学生がボール遊びや縄跳びをしている横で勉強の気晴らしに踊っているという感じだった。
だから、リホリホが体育館の予約をしたいと言って来たときは少し驚いたのを覚えている。
リホリホは、少し恥ずかしそうに「予約したいんですけど」と言った。私と目を合わせられないといった感じの仕草がとても可愛らしい。
今すぐでも抱きしめたい衝動に駆られたけれど、さすがにそうするわけにもいかない。私はそうは言っても、いっぱしの公務員なのだ。
「ダンスの練習？」私はためしに聞いてみる。
リホリホは首を横に振り、「ちょっと学校の友達と後輩に頼まれて」とだけ答える。
「ちゃんと使用用途を明かさないと予約させるわけにはいかないなぁ」
私がそう言うと、あれだけ目を合わせるのを恥ずかしがっていたリホリホが驚いたようにぱっとこちらを見上げ、いつぞやの消費者金融のCMに出てきたチワワみたいに潤んだ瞳を見せつけてくる。
私は「しかたないなぁ」という言葉を何とか喉元に押し留め、リホリホが訳を説明するのを待った。
「はぁ」リホリホの溜息。
「私、実はずっとクラシックギターをやっていて」
「え、初耳なんだけど」
「小さい頃から習い事でやっていたんですけど、あまりクラシックギターってやってる人って多くなくて、いつの間にかコンクールとかで優勝とかしちゃってて」
「なんか、すごい天才の人みたいだね……いや、実際天才なのか」
「そんなことないんです。本当にやってる人が少ないだけなんです。オーケストラとかにもギターってほとんど入り込むことないですし。
ただ、親心としては子供がコンクールで優勝とかしたら、『この子には才能があるんじゃないか？』とか思っちゃうじゃないですか。
だから、結構しっかりとレッスンとか受けさせられてて……大学も音大に行ったらいいじゃないかみたいに言われてて」
「なんか本当は別世界の人だったんだね。ちょっと寂しい」
「ぜんぜん、別世界なんかじゃないです。音大だって行けるのかどうかわからないですし、それにそもそも私の本心としては音大なんて行きたくないんです」
「どうして？ コンクールとかで優勝してたら、音大にも楽勝で行けるんじゃないの？」
「私、ギターよりもダンスをしたいんです」
一瞬だけだが、リホリホの瞳に強い光が宿るのが見えた。
たしかに、ときどき体育館で踊っているリホリホはとても楽しそうで、生き々きとしていた。私はダンスのことなんてほとんどわからなかったけど、彼女が踊っている姿はまるで燃え盛る焚火の炎のように見えた。
人間は生存競争における遺伝子の淘汰により、元来、火というものを愛する性質が備わっている、というようなことを何かの本で読んだことがある。
だから、暖炉の火や焚火をいつまでも眺めていられるのだ、と。リホリホのダンスには何かそういった遺伝子レベルで心を惹きつけるものがあった。
それは私だけの勝手な思い過ごしなどではなく、縄跳びをしていた小学生も、バレーの個人練習に励んでいたおばさんも、リホリホが踊るのを我も忘れて眺めているということがあった。
彼らはふと我に返ると、それぞれの活動に戻ったが、それでもまだリホリホのことが気になるみたいで、ちらちらと彼女の方を盗み見たりしていた。
「そういうわけで、私、進路に悩んでいて」リホリホは恥ずかしそうに声のボリュームを落として口を開いた。
「それで友達に相談したんです。そしたら、友達が私のギターを聴きたいって言い出して。だから、この公民館の体育館でちょっと弾かせてもらおうかな、と」
「その友達にも、リホリホがギターをやってたことは言ってなかったの？」
「言ってはいなかったんですけど」そう言いながら、リホリホは私に両手を裏返しにして、その小さく愛おしい手の甲を見せてきた。
「右手の爪は長くて、左手の爪は短いですよね？」
私はじっとリホリホの爪を見つめる。確かに、詰めの長さが左右でぜんぜん違った。1年もリホリホとは一緒にいたのに、まるで気がつかなった。女子失格だな、と思う。
「ギターをやっていると、どうしても弦を弾く右手は爪を長くしなきゃいけないんですけど、反対に左手は弦を押さえるために短くする必要があるんです。
その友達は、それをずっと不思議に思ってたみたいなんですけど、私が何も言わなかったから、聞かないようにしてたみたいなんです。変に気をつかっちゃう子で」
「さゆみだったら何の気なしに聞いちゃうな」
「道重さんはぜんぜん気づいてすらなかったですもんね」
「ごめんね。さゆみ、こう見えて自分にしか興味ないタイプの人間だから」
「あはは。その割に色んなところに気を配っている感じもするんですけどね」
「ぜんぶ自分を守るための気配りだからね。でも、おかげ様で今度からは他人の爪にも気を配らなきゃいけないことを学びました。こうして私が生きる世界はどんどん息苦しくなっていくのです」
「ごめんなさい。別に責めるつもりはなかったんですよ？ ただ私がギターをやっていたことを証明したかっただけで」
「わかってる、わかってる。意地悪してごめんね。で、その友達はリホリホがギターをやってるってのを知って、聴かせてよ、って言い出したわけね」
「その辺のデリカシーはなかったわけです。人間って不思議ですよね」
「もしかしたら、その友達はリホリホが何か中二病的なノリで、左右で爪の長さを変えてると思ってたのかも」
「まさか」
「でも、万が一にそういう痛い可能性があったから何も言えなかったけど、ギターをやっているせいだってわかって安心したんじゃないかな。それで、つい気分が弾んで『聴かせて！』って言っちゃったとか？」
「だとしたら、やっぱり恥ずかしい、って言えば引き下がってくれますかね」
「ダメよ。もう、さゆみが聞いちゃったから。予約のキャンセルは不可です」
そんな経緯があって、公民館での「鞘師里保ギターリサイタル」は決行されたわけだが、そこで私はフクちゃんとまーちゃんに出会う。
いや、正確には２人とも「再会」だった。フクちゃんは私のことを「道重先生」と呼び、まーちゃんは「みにしげさん！」と呼んだ（まーちゃんの場合、本当に感嘆符がついているのだ）。
2人との再会についてはまたきちんと説明する必要があると思うが、その公民館でのリサイタルにて、リホリホが弾いてくれたのがその「ソルのなんちゃら」という曲だった。
10分弱もある楽曲で、途中片手だけで弾くパートがあったりと、素人目に見てもかなりテクニカルな内容だった。
しかし、リホリホはいつにも増して涼し気な表情のままそれを弾き切り、公民館の体育館には淡い味わいの残響が染みついた。
あの騒がしさの塊みたいなまーちゃんが黙り込み、そして小さな声で「まーちゃんもギターする」と零していた。
今や注目の現役女子大生シンガーソングライターとなった佐藤優樹誕生秘話の目撃者となった私も、リホリホの演奏を聴き終わってからは、あまりの衝撃に黙り込むよりほかなかった。
ダンスを踊っているときのリホリホからは言わば、健全で若々しい炎のような熱情を感じたが、ギターを弾くリホリホからはどこか作り物めいた静謐さを感じた。
どちらも同じだけ魅力的に思えたが、あまりに相反する性質であったため、より生命力に溢れるダンスに対してリホリホ自身が惹かれてしまうのも無理はないように思えた。
これだけ真逆のベクトルの美しさを抱える少女とはいったいどんな気分のするものなんだろう。私は、まるで空を飛ぶ鳥を見上げるような心持でリホリホを見つめるしかなかった。
レストランを後にして、リホリホを家まで送り届ける。フクちゃんとリホリホは、「また明日ね」とまるで子供みたいに遊ぶ約束を交わしていた。
風は相変わらず強く吹き荒れ、景色の向こうから懸命に春を引きずり込もうとしているように見えた。
今度はフクちゃんを家まで送り届ける。道すがら、2人きりの車内でリホリホについて話した。まだ2年生なんて羨ましい。さゆみからしたら、まだ大学生なんて羨ましい。そんなことを言い合ったりもした。
しかし、私の頭の中にはずっとリホリホの発した1人の名前がぐるぐると回り続けていた。
亀井絵里。男なのに、絵里なんて馬鹿げた名前。
どうして彼の名前がリホリホから出てくるのだろうか。
東京で偶然会って、私の話になったとか？
いや、絵里にしろリホリホにしろ、わざわざ私の名前を出す理由なんてないはずだ。
なぜなら、2人にとって私という存在は、なかったことにしたいとまではいかなくとも、あちらこちらに言いふらすようなものではないからだ。
私だって何もなければ、絵里やリホリホのことは誰にも言うつもりはない。実際に絵里に関しては、リホリホにも、そしてもちろんフクちゃんにもまーちゃんにも言っていない。
フクちゃんは助手席から降りると、「忙しいのに、色々とありがとうございました。ご飯まで御馳走になっちゃって」と頭を下げた。さすが育ちが良いだけはある。品も良い。
フクちゃんに手を振って、車を発進させる。
初春の気持ちの良い午後。車を運転していてもつい眠たくなってしまう。ぼんやりとした頭で絵里とリホリホのことを順番に考えていた。
さて、午後は何をしようかな。
鞘
久しぶりに帰省をしたというのに、家には誰もいない。まぁ、そりゃそうだ。今日は平日で、両親は駅まで迎えに来てすらくれなかった。
代わりに道重さんが迎えに来てくれたけれど、どういう経緯（いきさつ）でそうなったのかはわからない。
おおよそ、優樹ちゃんが無理やりなことを言って、道重さんが迎えに来るなんてことになってしまったんだろう。
誰もいない静かな家は、どことなく居心地が悪くて、それでいて懐かしさがあった。なぜだか小学生の頃の春休みを思い出す。
電気の点いていないリビングには、薄いフィルム一枚分の影が貼りついていて、太陽がまだ高い位置にあることを感じさせた。壁には高校生の頃に撮った家族写真がかけられている。
遠くから写真を見ると、意外と私って可愛いんじゃないかな、なんて思う。どれどれ、と近づいて見ると、自分ってなんでこんなブスなんだろう、とへこむ。
いつだって私のことを可愛いね、美人だねと言ってくれるのは母だけで、その言葉を頼りにこれまで生きて来たけれど、さすがに二十歳を超えてみれば、それがただの親馬鹿に過ぎないのだという事実を受け入れられるようにもなってくる。
彼氏でもいれば、私のことを毎日可愛いと言ってくれるんだろうか。
けれど、大学に入ってからというものダンスに打ち込んでばかりで、男の子と関わり合う機会なんてほとんどなかった。
ダンス仲間にいる男の子も、恋愛対象というよりはライバルに見えたし、それに昔から私は男の子よりも女の子に魅かれる性癖があった。
フクちゃんともそういう関係になりかけたし、道重さんとはもう完全にそういう関係だった。あ、そう言えば、道重さんはいつも私のことを可愛いって言ってくれていたっけ。
道重さんの方が私なんかよりも圧倒的に可愛くて美人なのに、どうして私なんかのことを好いてくれているのか。
それは長年にわたり、私にとっての疑問であったけれど、道重さんは幼い子にめっぽう弱いらしいから、きっとその一環で私のことも好いていてくれているだけに違いない。
自分で言うのもなんだけれど、私は童顔な方だし（「私、童顔ってよく言われるんです〜」と言う女がキツいことは重々承知しているけれど、むしろそれくらいしか私が道重さんに好かれる理由が見つけられないのだから仕方がない）。
私は別に自分がレズであるという自覚もあまりない。
正しい言葉遣いではないと思うけれど、私は「レズ」なのではなく、「レズができる」と言った方がより実態に近い表現だと思う。
コミュ障というほどコミュ障でもないけれど、たしかに他人とのコミュニケーションがあまり得意ではない私にとって、男の子よりも女の子の方がまだコミュニケーションが取れるというだけのこと。
だから、気がつけば女の子に、女性に甘えてしまい、その一環でちょっぴり性的な関係になってしまうのだ。道重さんが小さい子を好きな一環で童顔の私を好いているように。
そんな私の性癖も、さすがに男性経験がないまま二十歳を超えれば、「レズができる」ではなくて、「レズ」なのだと自覚せざるを得ない状況になったのだろう。
しかしながら、19歳のときに亀井さんと出会って、そして私は亀井さんに恋をした。
年齢を聞けば道重さんの1個上だという彼は、私がアルバイトをしているファミレスの先輩だった。
いい歳してバイトなんてさ、と彼は自虐に走るけれど、彼が何か訳あって未だにアルバイトであることは明白だった。
頭がよく、人当たりの良い亀井さんみたいな人が、就職活動で上手くいかないはずがない。それくらいは就活未経験の私にもわかった。
ファミレスでのバイト経験は長いらしく、キッチンでもホールでも何でも上手くこなしたし、たまには店長の事務作業を手伝ったりもしていた。
しかし、出勤日は少なく、どうしても人が辞めたりなどの関係で人手が足りなくなると、どこからともなく現れて何とか店を回していた。
なかなか会話をする機会がなかったが、それでも何かのきっかけで話をすることができた。
彼いわく、色々なバイトを掛け持ちでやっているらしいが、主にヘルプ的な立ち位置で籍を置いていることが多いらしい。
「苦しいときに手を差し伸べる方が、効率良く他人から感謝されるだろう。
当然感謝の度合いに応じて時給も良くなるからね。常にその場にいるわけじゃないから責任もないし、美味しい立場ってわけさ。
その点、例えばインフラ系の会社で働いている人なんて、本当に尊敬するよ。感謝されないわりに責任は重いからね」
亀井さんの自虐はもう出会った時から、という感じだったけれど、自分以外のことについて喋るときはとても公平で面白いものの見方をする人だった。
「金は天下の回り物ってよく言うけど、ストレスが賃金換算されるような世の中にあっては、ストレスもまた天下の回り物であるはずだよね。
そういう意味では、さっきのお客さんが理不尽に怒鳴っていたのも、まぁ、あのお客さんだけのせいにするのは忍びない。
きっとあのお客さんが抱えていたストレスはどこかから回り回ってあの人のところまでやってきたものなんだろう。
ただ、ストレスの厄介なところは、お金だったら日銀みたいに取りまとめているところがあるけど、ストレスの場合、それを取りまとめる機関がないことなんだよね。
だから、政府もストレスの緩和施策を取ることができない」
そんな亀井さんに対して徐々に惹かれていき、それが恋心であることを実感して私は自分が単なるレズビアンではないことの証明に成功した。
しかし、よくよく思い返してみれば、優樹ちゃんの旦那役を務めていた工藤君とかにもちょっと心惹かれるところがあったし、テレビに映る男性アイドルを純粋に応援していた時代もあった。
だから、男性に対して憧れや漠然とした好意というのは何度も感じたことがあったわけだけれど、身近な男性に対して交際相手になってほしいという感情を抱いたことは亀井さんが初めてであり、
当然そこには性的な衝動というのもある程度は付随していた。そのことが私をほんの少しだけ安心させる。
ソファに横になり、実家のテレビのハードディスクに録画されていた映画を観ているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めた時には、リビングは夕闇の中にあって、寝ぼけた頭の中にふと「逢魔が時」という言葉がリフレインする。
脈絡もない、浮遊感。それに絡み合うように、フクちゃんの「リホちゃん、どこでも眠れるもんね」という声も脳裏に現れる。
実家のソファっていう最高の環境だから眠れて当然！
と、誰に言い訳しているのかもわからないまま、身体を起こし大きく身体を伸ばした。夕暮れ時の寂しく澄んだ空気が辺りには漂っている。
テレビは録画一覧の画面を写したまま静止している。コップに一杯の水を飲み、乱れた髪を軽く梳かして、それから家を出た。
枝葉のように広がる住宅街。その幹となる道路に沿ってしばらく歩く。いつもの散歩道。久しぶりの感覚。
取り立てて美しいとは思わないし、東京という街を経験してからこの景色を見ると、「自分はこんなところで18年も生きてきたのか」とちょっぴり呆れてしまう。
けれども、この温度、この湿度、この静けさ。ただただ懐かしく、親密で、薄汚れたスニーカーで踏むアスファルトがどうしてかとても柔らかく感じられる。
車通りは少なく、15分程度歩いていたにもかかわらず、ほんの5，6台が無感情に走り去っていっただけだった。夕焼けの赤は熾烈を極め、まるで世界がこれで終わってしまうのではないかというほどだった。
目を細めて眺める西の空。家々の屋根は暗い影のシルエットを炎の煌めきに映し、時の流れと感傷性を切に訴えかけている。
これが私の住んでいた町だったんだ。懐かしさのビター味の中に、ほんのりと新鮮な甘味を感じる。
そして、私はあの公民館へとやって来る。
不思議と寂しさみたいなものはない。私のすべてはここから始まったようにも思うのだけれど……どうしてだろう。
あんなにも胸を締め付けたあの時間たちを私は過去に残し、今では何食わぬ顔をしてダンスに打ち込む日々が目の前には横たわっている。
もしも私に人格なんてものがあるのであれば、それはこの公民館を発端にして生まれ、育ったもののはずなのに、今の私はこの小さな公民館と無関係な日々を送る。
それは浜辺に寄せる波が、まるで素知らぬ顔をして引き返していくのに似ているかもしれない。
それはあの甘く吹き寄せる春風が、ほんの少し時間が経っただけで、切ない秋風に変わるのとも似ているだろう。
私にすべてを教えてくれたのは道重さんだった。もちろん、フクちゃんや優樹ちゃんにも感謝はしている。
けれど、そんなすべての出来事が意味を持ち始めたのは、道重さんが私の心の隙間に何かを植え付けたからだと思う。
それまでの私は、求められることと好きなことをただ何の考えも無しに選び取るだけの人生だった。
スーパーに入って、カゴの中に生活用品と好きなお菓子を放り込む。そんな人生。
自分の人生が空虚だと感じたことはなかったけれど、それは私が空虚を感じる感覚器官を持っていなかったからで、今となっては過去の私が何をどう考え、生きていたのか、それすらよくわからない。
私は変わった。そう思う。でも、種の進化における適応と淘汰。その洗礼を受けた私はもう後戻りすることはできない。
私は私の抱えた重みを、このまま一生引きずりながら生きていかなければならないのだと思う。
けれど、表面的に見れば私という存在はほとんど変わっていないのかもしれない。
強いて言うのあれば、クラシックギターを軸に生きていくのを辞めて、ダンスを軸に生きていくことにしたという点は、周囲からも見て取れる変化かもしれない。
確かにその選択をした背景には、この公民館での出来事も少なからず関係しているけれど、でも、直接的な関係ではないと思う。
私の心の中に占めるギターとダンスの比率はすでに決定づけられていたし、たとえこの公民館での一連の出来事がなかったとしても、私はギターを捨て、ダンスの道に進んだかもしれない。
ただ、私にとっては、道重さんと過ごしたあの時間があったからこそ、私は変わり、そしてそれによってダンスの道に進むことを決めたと思うのだ。
私自身の変化と、進路の選択。それらはとても自然に私の中で結びついている。
ダンスをやろう、と決めた私は東京に行くことにした。これもまた私の中ではとても自然なことだった。
きっと生まれたばかりの傷つきやすい心を、遠く離れた場所でひっそりと匿ってやりたかったんだと思う。この町からも、ギターからも遠く離れることを選択した。
留まっていると、ようやく知った心の重さで沼の底まで沈んでいってしまいそうだった。
もう一度、公民館を外から眺める。
あの中に私と道重さんはいたんだ。そして、フクちゃんと優樹ちゃんが、まるで忠義を尽くす惑星のように私と道重さんの周りを飛び交っていた。
＊
窓の外はシルバーブルー。雨粒は妖精の挨拶のように細やかで、世界をモノトーンで色鮮やかに描き出す。
私は公民館の小さな図書室で学校の宿題を進めていた。数学�供０嫐Ｉ毀世併鯵儡愎堯Ｃ�が何のために三角関数なんてものを考え出したのか。
核爆弾のもととなる理論を考え出したのは、あの天才科学者と言うし、頭の良い人間というのはロクなものを考え出さない。
溜息をついて、静かに降り続ける雨を眺める。誰もいない一人きりの図書室には、ほんのりと黴臭い本の匂いが充満していた。
何となくだけれど、ギターの匂いと似ているような気もする。湿った樹の匂い。雨音は書架に並べられた本たちの持つ無限の言葉のように聞こえた。
何億もの登場人物が各々に自分の想いを静かな声で語り合っている。
私はじぶんの左手のひらを開き、そして分厚く固まった指先の皮に視線を落とした。指先を擦り合わせてみる。
もし、私が雄弁な作家だったら、今のこの気持ちをどのように表現するのだろう。
迷い。
私はそれくらいの言葉しか知らない。2か月前の、あの春休みの出来事が私を余計に迷わせていた。この公民館の体育館でやったささやかなリサイタル。
フクちゃんにギターをやっていることがバレて、道重さんにも私のギターを聴きたいとせがまれた。コンクールの度に死ぬほど練習して、そして張りつめた緊張感の中、審査員に向けて曇りのない演奏をする。
この公民館で演奏をすることになってしまったとき、私はコンクール出演が決まったときと似たような胸の苦しさを感じていた。
ギターは私にとっては究極の責任だった。
物心ついたときから私はギターが上手な子であり続けなければならなかった。
両親は私がギターをやるように無理強いはしなかったけれど、週に3回も先生に個人レッスンをつけてもらっていたし、私がギターのコンクールで良い成績を出せばこれ以上にないくらい喜んでくれた。
私自身、両親や先生が喜んでくれれば嬉しかったし、それにギター自体も嫌いではなかった。
ギターに真剣に打ち込むことで得られる達成感は、学校で勉強していることがただのお遊びに感じられるくらい激しく強いものだった。
私のこれまでの人生は昨日よりもギターが上手くなることで前に進んできたようにさえ思う。
だから、ギターに打ち込むことが私の想いに反していたかというと決してそんなことはない。
私は両親と先生、それから私自身に対して、ギターという責任をある意味では好んで負い続けていた。
なぜなら、それが私の存在意義であり、周囲の人たちとは、言うなればギターの弦によって結びついていたからだ。
けれど、私はギターを弾くロボットではなかったし、私はまごうことなき1人の人間だった。
いま思えば、学校でギターをやっていることを隠していたのは、気恥ずかしさという理由もあるだろうけれど、深層心理ではギターとは無関係なところで私という人間の立ち位置を確立したかったからもしれない。
中学生の頃は、フクちゃんと香音くんと生田とずっと一緒にいた。香音くんと生田は男の子で、傍から見たら常にダブルデート状態のように見えたかもしれない。
けれども、どうしてか私が好きになったのは女の子のフクちゃんだった。好き、といっても果たしてそれが世間一般で言うところの恋愛感情であったかはわからない。
私が思うに、私のフクちゃんへの想いは恋愛感情よりももう少し穏やかで、友情よりはもう少し色めいているものだった。
私はフクちゃんと一緒にいることでとても安心できたし、同時に彼女の身体に触れていることで鼓動を早めた。
何回かキスもしたりしたし、一緒にお風呂に入って身体を触り合ったりもした。けれど、私はフクちゃんの性器に指を触れることはかなわなかった。その分、胸や二の腕はたくさん触らせてもらったけれども。
香音くんはいつも優しく、フクちゃんと同じくらい包容力があったけれど、フクちゃんよりもずっと常識人だった。
私が香音くんに言い寄れば、それは単純な男女交際の形を成して、私の求めている穏やかなものとは少し違うものになったかもしれない。
生田はつまらないのが逆に面白いといった感じの奴だったけれど、気の良い奴だし、外見もよかった。
黙っていればモテるだろうに、と私はいつも思っていたが、彼の場合喋り散らしていてもそれなりにモテていたからタチが悪い。
身近な私からしたら恋愛感情なんて微塵も持てなかったけれど、遠くから眺めていたら憧れのカレになっていたかもしれない。
と、私はこんな風に他人を評価できるほどの人間ではないけれど、ともかく私は私の普通ではない性的趣向を受け入れるために、そういったことをよく考えていた。同時に、ギターからの逃げという部分も意識の外に追い出して。
ふと我に返って手元のプリントに視線を落とす。何一つ手が付けられないまま、図書室の蛍光灯に照らされて白い輝きを放っている。
まるで、私が消耗していることを見越して、「もう疲れたのかい？ まだまだ何も始まってやしないぜ」とでも煽っているかのようだった。私は溜息を吐き出す。
長くしつこい雨だった。午前中は晴れていたのに、昼前くらいからぽつぽつと降り出して、今や世界の果てまで雨雲で覆われているかのような雰囲気さえ漂っている。
けれど、あまり嫌な感じはしない。雨は世界に静けさを捧げ、すべての存在の輪郭をぼんやりと滲ませている。それはある種、崇高な天の行為のようにさえ思えた。
きぃ、と扉が開く音が1人きりの図書室に響く。
時計に目を向ける。17時4分。道重さんがやってくる時間だった。
図書室の入り口は書架に囲まれていて、その書架たちは窓側に面した読書スペースとの境界線を引いてもいる。
だから、私の座っている座席からは誰が入って来たのかが直接確認できない。けれど、この時間帯にコツコツというハイヒールの音が聞こえてきたということは間違いなく道重さんだった。
「雨、やまないね」
挨拶もなく、道重さんが私に喋りかけてくる。「朝は晴れてましたけど、ちゃんと傘持ってきました？」と私は質問で返す。
「リホリホに心配されるような、さゆみじゃありません。もちろん、持って来てるよ」
「愚問でしたね」
「とあるCM、田舎バージョン。ぐもん、いっぐもん♪」
「こんなこと言うの失礼ですけど、めちゃくちゃつまんないですね。そして音痴です」
「あらあら、随分と言ってくれるの。最近、どんどん私への敬意が少なくなってきてる気がするんだけど、どう？」
「そんなことありませんよ。親しくなっているが故の、こう……やり取りなわけじゃないですか。私は尊敬してますよ、道重さんのこと」
「例えば、どんなところを尊敬しているのかな？」
「頭が良くて、美人で、可愛いところです」
「うーん、嬉しいけど80点。可愛くて、美人で、頭の良いところ、っていう順番だったら100点あげたんだけどな」
「順番ですか」
「順番って大事なものだよ。食事の席、タクシーの席、色んなものに上座、下座があってね。男の人とお付き合いするにしても、自分が何番目の女なのか、ちゃんと序列を把握しておかないと大変なことになるから要注意」
「道重さんはヒドイ男性としか付き合ってこなかったんですね」
「基本、ディスりのスタンスだよね」
「そんなことないですよ。道重さんが自虐スタンスのボケをしてくるから、それに律義にツッコんでるだけです」
「ふふふ」
「何ですか……？」
「あぁ、今日も可愛いな、と思って」
「やめてくださいよ……」
「あらあら、違うよ。窓ガラスに映る自分が、可愛いな、って」
「……」
「リホリホもさゆみの次に可愛いよ」
「例の『順番』ってやつですね」
「正解」
道重さんと話すのは楽しい。私がふと笑みを零してしまうと、それを見て道重さんは小さな声でまた「可愛い」と口に出した。私は恥ずかしくなって、視線を落とす。
「宿題、ぜんぜん進んでないね」
「あぁ」私は嫌なことを思い出してしまって、思わず溜息をついてしまう。
「若者が溜息とはいただけませんなぁ」
「なんていうか、こんなことしてる場合じゃないのに、って思っちゃうんですよ」
「じゃあ、何をしてる場合なのかな？」
「それがよくわかんないんです。でも、きっとそれは宿題なんかじゃなくて。もっと大事なことがあるような気がするんです」
「うーん、リホリホの場合だとギターとか？」
「それはそれであるんですけど。でも、ちょっと違うんです。ギターを練習する時間はちゃんと確保してありますし、ギターも勉強もおろそかにしない、ってのはもうずっと習慣でやってきてることで……」
「すごいよね、リホリホは。さゆみなんて、宿題は手っ取り早く終わらせるものとしか考えてなかったのに。やっていさえすれば誰も口を出してこないし、さゆみがさゆみの好きに時間を使うための免罪符でしかなかったように思う」
「そういう考え方をできる、道重さんの方がすごいと思いますけどね」
頭の良い道重さんはきっと私とは別次元でものを考えているのだろう。だから、きっと私のように将来の進路について悩むことなんてなかったに違いない。
私はそう思って、「道重さんは自分の進路ってどうやって決めました？」と聞いてみる。
私とは次元が違い過ぎて参考になるとは思えなかったけれど、単純に道重さんみたいな人がどうやって自分の将来を見定めているのか興味があった。
「さゆみ？ さゆみはまだ何にも決めてないよ？」
「え？」
「まぁ、一応公務員にはなってみたけど、将来についてはまだ何も決めてないの。決めてないからこそ、色んなことをやらされる公務員がいいんじゃないかな、って。
自信過剰に聴こえるかもしれないけど、さゆみは割とどこでもある程度やっていける自信があるし」
「かっこいいですね」
「かっこよくなんてないよ。可愛いだけ」
「あはは」
「そこ、笑うとこじゃないんだけど」
「でも、それじゃあ、ある意味では色んなことを経験してみたいから、公務員になったってことですか？」
「うーん、そうと言えばそうなんだけど、改めて聞かれるとちょっと違うような気もするんだよね。
もっと漠然と、適当に生きているって言えば良いのかな。たまたま公務員っていう選択肢が目の前にあって、『あれ、これって美味しい話なんじゃないか？』って思って、公務員になっただけって感じ。
自分って何なんだろう、って常に考えてるんだけど、それがよくわかんないからこそ、決断を先延ばしにするために大学に行って、さらに先延ばしにするためにとりあえず公務員になってみたってとこだね」
「道重さんも自分って何なんだろう、って考えたりするんですね」
「誰だって考えるんじゃない？ リホリホもそういう感じのことで悩んでるから、宿題に手をつけられないのかな？」
私はもう何度目か数えられないほどだけれど、再び宿題のプリントに視線を落とした。
道重さんの言う通り、宿題はやれば終わる。でも、私が本当に知りたい答は宿題をやり遂げても得られない。
「リホリホはさ、これまで真面目にギターをやり続けてきたわけでしょ。でも、ダンスも始めてみて、違う世界があることを知った。
そこでようやく、『私って何だろう？』って初めて疑問を感じるようになる。だから、とても困っているんだと思うけど、普通の人はね、そういうことを漠然とずぅっと考えながら生きてきてるわけ。
もうそんな疑問なんて当たり前すぎて、今さら考える気なんておきなくて、ただ何となく目の前の選択肢から気になるものを手に取って、それが自分の生き方になってるの」
「本当にそんなものなんでしょうか」
「まぁ、違う人もいるけどね。でも、それだって程度の差でしかないと思うよ。
自分の選択に対して、どれだけ理由付けをしたいか、っていうだけの差であって、結局は手に取ってみて身体に馴染むまでは、本当にそれが自分の求めていたものなのかはわからない」
「洋服を選ぶみたいに」
「さゆみ的には洋服よりももっと馴染みのないものかな。例えば、そうだな……お祭りの金魚すくいみたいなものかな。
遠目から見ればほとんど同じものに見えるもののなかから、たまたま目についた一匹を選ぶようなものだと思うの」
「金魚すくい」
「そう、金魚すくい。人生は金魚すくい」
「なんかお洒落な格言みたいですね」
「でしょ。絶対に『人生は山登り』よりは素敵と思うの」
道重さんはそう言って笑った。
道重さんみたいに頭が良くても、自分の生き方を決めるのが難しいと言うんだから、私なんかに決められるはずもなかった。でも、今の私はもっと混乱している。
「私、本当はギタリストになんてなりたくなかったんです」
「いまはダンスの方がやりたい、ってこの間言ってたもんね」
あれは春休みのことだった。私はフクちゃんに「ギターを聴かせてほしい」とせがまれて、仕方なくこの公民館の体育館で披露することに決めた。
そして、体育館の予約をするときに、何故だか道重さんに「ギターよりもダンスをしたい」と打ち明けてしまった。しかし……
「たしかに、私はギターよりも今はダンスをしたいと思っています。というか、私はずっとギターからは逃げたいと思って来たんです。正直、私には演奏の才能がないんです」
「そんなことないよ！ この間のギターめちゃくちゃすごかったもん！」
「！ ……ありがとうございます」
「あぁ、急に大きな声出して、ごめんね。でも、ほんとにすごいと思ったよ、さゆみ」
「あれは、いわば訓練の賜物なんです。本気で訓練して、やり続けてきたからこそ、複雑な曲も正確に弾けるようになりましたし、表現したい世界も表現できるようになってきたと思います」
「それは良いことでしょ？」
「そうですね。でも、私には演奏で表現したいことそのものが欠けているように思うんです。
自分でわかるんです。感情よりも先に指が動いてギターを弾こうとするんです。プレッシャーとか責任感みたいなものが、私がギターを弾く一番最初の動機なんです」
「プレッシャーと責任」道重さんはそう範唱しながら何かを考えているようだった。
もしかしたら何か思うことがあったのかもしれないが、何も口にすることなく、私の次の言葉を待った。
「ダンスはもっと私の純粋な気持ちと近いところで繋がっているように思うんです。踊りたいから踊る。
ダンスをするようになって、こんなに素敵なことが世の中にあったんだと思いました。ただギターが上手くなるだけの人生とは違う道があるんだって、その時気づいたんです。
だから、さっき道重さんが言ったように、私は初めて違う生き方について考えるようになって、それで少しは悩んだりもしたんですけど、
結局のところ、私はもうギターを辞めてダンスで生きていくって心の中では無意識のうちに決めていたんです」
「でも、ダンスで生きていくことについても今は悩んでる？」
私は頷いた。
「この間の春休み。フクちゃんと優樹ちゃんと道重さんの前でギターを弾いてみて、なんて言うか、とても楽しかったんです。いつもみたいに強いプレッシャーはあったんですよ？
でも、なんかいつもとは違くて……あぁ、ギターやってて良かったな、と初めて思えました。良い結果を残せて良かったな、じゃなくて、ギターが弾けて良かったな、と思ったんです」
あの時の感触はとても不思議で、未だによく思い出せる。
あれからコンクールにも出たけれど、あの体育館での小さなリサイタルのときのような幸福感は得られなかった。
当然、迷いのある演奏が評価されるはずもなく、先月のコンクールは酷い結果になってしまった。
「私自身、ギターには限界を感じてもいて。普通、私くらいの年齢のギターを真剣にやっている子は、普通の高校に通ったりしないもんなんです。
音楽専門の学校に行って、毎日朝から晩まで音楽漬けで。私よりも上手い子が私よりも練習をしているわけです。
それでも、もともと私が短期集中型の性格ってこともあって、表現の鮮烈さよりも技術の正確さを求められるコンクールでは何とか結果を残すことはできていたんです。
でも、そろそろそれも限界が来ていることは、私もギターの先生もわかっています。ただ両親だけはいつも励ましてくれて……」
「それが逆に重しになってるってことね」
「そういうことです」
「だから、ギターとは決別するつもりだったけど、この間の演奏会でまたギターの良さに気付いてしまって、その決心が揺らいでいるのが今のリホリホっていうことね」
「はい」
不思議と喋り出してみると、思ったよりも私は私の気持ちをしっかりと理解できているように思えた。
けれども、じゃあどうすればよいのか、ということに関しては、もはやどうして良いのかわからない。
どうして雨が降るのか仕組みがわかっても、私たち人間には雨を止ませるためにどうすれば良いのかわからないように。
「傘をさせばいいと思うの」
道重さんの言葉に私はドキっとする。
もしかして、私は心の声を零してしまっていただろうか、と焦るけれど、どうやらそういうことではなかったみたいだ。
「今のリホリホの頭の中はこの雨降りと一緒。雨が止むのを待っていようか、それとも濡れるのを覚悟で走って帰るか。
その2択で迷っているのかもしれないけど、でも、傘があれば雨に濡れずに無事帰ることができる。
もちろん、ちょっとは靴の中が濡れたりして気持ち悪いかもしれないけど、でも、それだって家に帰ってから乾かすことだってできる」
「雨降りの話はわかりましたけど、私はそれをどう解釈すればいいんでしょう……？」
「つまりね。そんなに真剣にギターとダンスのどちらかを選ばなくたって良いと思うの。
それこそ、さゆみをはじめ、周りの皆がやっているように、のらりくらりと選択を先延ばしにしちゃえばいいってこと。
何か傘みたいなものがあれば、とりあえずはたいして濡れなくて済むんだから、それでいいじゃない。
さゆみが聞いてる感じだと、一流のギタリストになるのは難しいのかもしれないけど、一流のギタリスト以外にもギターと一緒に生きていく道はあると思うし、
逆にダンスが好きだからと言って、ダンスの道に進まなきゃいけないってこともないと思うの。
じゃあ、どういう道を選択すればいいのかってのはわからないけど、だからこそ時間を稼ぐためにも、とりあえず傘でも差しながら前に進むのもありなんじゃない？
もちろん、傘をさして歩くのだって、1つの選択肢でしかないわけだから、傘をささずに雨に濡れるの覚悟で走り出す方が正解だったということもあるかもしれないけどね」
道重さんの言葉を聞きながら私は余計にどうしていいのかわからなくなってしまった。
ただ、道重さんは「どうしていいかわからないままで良い」ということを何とかして伝えたかったんだということくらいはわかる。
ほんの少しだけ心が軽くなったように思えるけれど……相も変わらず、窓の外からは柔らかな雨音が聞こえてくる。
「何となく、道重さんの言いたいことはわかりました」
「さゆみは自分で話しながら、自分が何が言いたいのかよくわかんなくなってきたけどね」
「でも、1つだけ聞いても良いですか？」
「いいよ、上手く答えられるかわからないけど、何でも聞いて？」
「私にとっての傘って何になるんでしょう？」
道重さんは首を傾げて、窓の外を見た。私もつられて窓を見る。すっかり暗くなって、外の景色はよくわからない。私と道重さんが窓ガラスに映っているだけだ。
そして、そんな曖昧な道重さんの像がゆっくりと私を覆うように降りて来て、次の瞬間には、私の耳元には道重さんの温かい息がかかった。
全身に痺れるような感覚が走る。背中から腕を回されて、その繊細な指先が私の肩を撫でた。
「これからはさゆみお姉さんがリホリホの傘になってあげる。だから、何でも隠さずに話してね。さゆみが雨から守ってあげるから」
そう言って、道重さんは私のほっぺに口づけをした。心臓がバクバクいってる。恥ずかしさで顔が紅潮していくのがわかる。どうしよう、ぜんぶ道重さんに伝わっちゃう。
が、私が固まっているうちに道重さんは身体を起こし、窓ガラスの中で一体となっていた私たちはまた穏やかな2つの存在に分裂してしまった。
化学反応みたいな何かが起こったという感触だけが腰骨の辺りに残るだけで、いま起こった出来事が現実のものなのか、短い夢の中のできごとだったのかうまく判別ができなくなる。
「明日もおいで」
道重さんはたぶんそう言って、私を図書室に残し、去っていった。
遠く、図書室の扉の外から雨の音に混じって、階段を降りていく道重さんのハイヒールの音が聞こえてくるような感じがした。
しばらく私は固まったまま、心拍が落ち着くのを待っていた。雨が降っていてよかった。柔らかな雨音が火照った全身を少しずつチルアウトしていってくれた。
＊
「んっ、はぁ、はぁ、だめっ……」
「乳首だけでそんなに感じるの？ ふふ、かぁわぁいぃっ」
道重さんの指がブラウスの上から私の乳首を容赦なく摘まみ上げる。
きゅうっという痺れが心臓の裏あたりに収縮していって、道重さんが指を離すと、それがふわっと全身にとろけていき、私は息苦しさを思い出して、粗い呼吸を空中に浮かべる。
今日は平日。だから、私も制服で道重さんもお仕事中。小さな公民館の図書館、この時間はいつも私と道重さんしかいない。
最初のうちは誰かに見られるのが怖くて、思わず道重さんの手を払いのけたりしてしまっていたが、今では道重さんの説明に身を委ねてしまっている。
「まず、1つ目に図書室のドアは立て付けが悪いから開くと『きぃ』って大きな音がする。
そして2つ目に入口は書棚に隠れて、入って来た人がすぐにはこっちを覗けないようになっている。だから、ドアが開く音がしたらすぐにやめればバレることはないの」
そういうわけで、私たちが図書室でするときは、一切服を脱がない。
「でも、せっかくだからブラはトイレで外しておいてね」
私は道重さんの教えを守り、ブラジャーを事前にトイレで外し、ついでにキャミソールも脱いでおく。せっかくだから、と私が言うと道重さんはとても喜んでくれた。
道重さんも私が来る日は脚を広げやすいフレアスカートを履くようになった。
図書室に来ると道重さんはまず最初にパンツを脱ぎ、それを自分のブラウスの中に仕舞い込む。だから、道重さんは大抵白いパンツを履いてきていた。
何度かキスをして、私の乳首を摘まむ。舌を絡ませたり、私の耳に舌をねじ込んだり、首筋に舌を這わせたり、道重さんは主に口を使って私を気持ちよくしてくれる。
一度だけ道重さんは私のスカートの中に手を入れてくれたけれど、私が声を我慢できなかったせいで、それからは絶対に手を下に伸ばすことはしなくなってしまった。
「さすがに声出すのはダメ。さゆみも気分が乗って来て、ぜんぶどうでもよくなりそうだし」
そう言ってくれるのは嬉しかったけれど、下を触ってもらえないのは最初のうちかなりの苦痛だった。
けれども、それも数回続くと、より様々な刺激を味わおうとする私の貪欲な身体のおかげで、耳や首筋への愛撫と、乳首への刺激だけで、私は果てることができるようになってしまった。
恥ずかしがる私を見て、嬉しそうにぎゅうっと抱きしめてくれた道重さんの柔らかい身体が忘れられない。
そして、私が果ててしまうと、道重さんは私の制服のスカートをたくし上げる。露わになった私の太ももに跨り、そこにこすりつけるのが道重さんは好きなようだった。
パンツを脱いで直接肌に触れる道重さんのぬるぬるとした性器は、唇よりも柔らかく、何かを吸い取るように私の皮膚にひっついた。
切なそうな表情を浮かべる道重さんの目の前に私は指を差し出し、それを咥えさせる。
私の指先の動きに合わせて腰を振る道重さんがこの上なく愛らしい。このときばかりはまるで主従関係が逆転したような心地がする。
時間があるときは、最後にきちんと指でしてあげる。道重さんは声が出ないように頑張っていたけれど、実際はかなり淫靡な水音が図書室中に反響し、ひどくうるさかった。
が、道重さんはまるでその事には気づいていないみたいで、必死に唇を噛みながら、私の身体にしがみついたまま果てた。
いつからこんな関係になったのか。私は初夏のまだ明るい夕闇の中、家路につく途中で考えていた。
たぶん、私がフクちゃんとの関係について、道重さんに喋ってからこうなったのだと思う。
「隠さずに何でも話してね」という言葉を鵜呑みにし、私はつい口を滑らせてしまった。
けれど、道重さんが最初から私という女の子に興味を持っていたのは何となく感じていたし、私がなし崩し的にこのような関係になってしまうことを、心の底では本当に求めていなかったかと問われると、返答に窮してしまう。
中学生の頃のフクちゃんならまだしも、高校生になったフクちゃんに言い寄るのは難しい。中学生なら冗談やじゃれ合いで済んだかもしれないことが、高校生ともなれば全然話が変わってくる。
だからこそ、私はフクちゃんはフクちゃんで好いていながらも、ふつふつと煮える性衝動の捌け口を道重さんに求めたのかもしれない。
いや、性衝動の捌け口というのは少し違う。これは何も自分を正当化しようとか、美化しようとかそういうのではなく、結果的に性衝動の捌け口として道重さんを利用していることは間違いないのだけれど、
それ以上に私には私を受け止めてくれる存在が必要だったのだ。そして、私はそのような私を受け止めてくれる相手に対して、どうも肉体的な交流を求めてしまう性質らしい。
まぁ、そんなことはちょっと考えれば、中学生の頃の経験からすぐにわかりそうなものだけれど。
そんな私の中の自然な原理に従って、私は道重さんとの関係性を深めていった。悪いことをしているという自覚はまるでなかったけれど、他人に言うのが憚れるというくらいはわかる。
そして、誰かにこのことを相談したらすぐにやめるべきだ、と言われるであろうこともわかっていた。
そして、その時期は間が悪いことに、優樹ちゃんがとてつもなく眩しかった。
いや、今でも眩しいのだけれど、その優樹ちゃんの輝きが私の影を浮かび上がらせて、私はまるで自分がどんどん醜い存在になっていくように感じていた。
私は次第にふさぎ込むようになっていったけれど、できるだけそれを周囲には見せないようにした。
それが私のできる精一杯で、そのために私は受験勉強に打ち込む振りを続け、道重さんを傘代わりに雨降りの道を訥々と歩き続けるしかなかった。
兎
リホリホが帰省して来た日の翌日の朝。今日も私は休みだった。
もし、リホリホに会うのだとしたら今日しかない。リホリホがどうして亀井絵里なんて名前を出したのか、それを究明しなければならない。たぶん。
もう絵里のことなんて忘れてしまったはずだった。けれど、絵里は私の原点であり、もしも絵里がいなかったら今頃私は……いや、そんなに変わらないか。
きっと絵里と出会わなかった人生の私もまたこうやって図書館で働いていたかもしれない。
でも、おそらくもう少しは世の中に対して真っ直ぐ向き合っていたんじゃないかと思う。れいなを助けるためにあのラブホテルに駆け込み、そこで絵里と出会う前の私のように。
そう言えば、れいなは今頃何をしているんだろう。もう売春みたいなことなんてしていなければいいけれど。
絵里との関係というのも、まぁ不可思議なものだったけれど、れいなとの関係性はもっと不可思議なものだった。
あれだけ互いに依存し合っていたのに、れいなはあっさりと東京の専門学校を受験して、私のもとから離れていってしまった。
「れーな、東京に行って、美容師になると」
美容師なんてここでもなれるんじゃない、と私が正論を言う前に、れいなはにっこりと笑って私のもとから去っていった。高校3年の夏休み前の何の変哲もない休み時間のことだった。
夏休みに入ると各々の受験に向けた予定で時間を合わせるのが逆に難しくなってしまい、いつの間にか私とれいなの間には「進路を異にしている」という事実が出来上がってしまっていた。
だから、夏休みが終わった後は、もはやその点を掘り返すこともなく、互いに目標に向けた進捗はどうだとか、そういうことを話すようになった。
たまに昔のようにれいなと抱き合っていると、「あと半年したら離ればなれやね」なんて感じの言葉がれいなの口からも零れてきたが、だからと言ってその現実を覆すほど力は私たちの間には残っていなかった。
絵里がいたときの一連の出来事の中で、私たちはきっと力を使い果たしてしまったんだろう。
勝手に東京に行くことに決めて、勝手に別れを寂しがっているれいなの理不尽さに私は少し当惑したけれど、怒りが湧いてくるというほどでもなかった。あの頃は私もまた、それくらい疲弊していた。
だから気が付けば、バラバラの道を進んでいた。
でも、いま思うとあれだけ互いを求めあっていた2人が別々の道に進んだというのは、やはり不思議なことだった。
互いに疲弊していたという理由だけでは足りない何かがあるように思えてならない。けれど、その「何か」を知ることは私にはかなわなかった。
私は洗面台に向かい、顔を洗い、髪をとかし、それから朝ご飯を食べた。テレビを点けて、見たくもないニュースを見ながら、無機質な世界に軽蔑と羨望を同じ分量だけ捧げる。
女性一人暮らしの８畳の部屋。辛うじて女性専用のアパートだったけれど、虚しさを噛み締めるのには十分な広さと言えた。
転職する前から住んでいるけれど、どうしてこんなところに住むことに決めたのか。もちろん、金銭的な理由が大きい。
けれど、こうやって得も云えぬ哀しさが漂う小さな部屋に身を委ねていると、どうしてもあの絵里の姿が思い出されてくる。
17歳にして寂れたラブホテルの一室を自分の生活スペースとしていた彼の苦労を思えば、私がこうやって女性専用のアパートで暮らしていることなんて、ずいぶんと贅沢なことではないか。
今の絵里が暖かい家で暮らしていてくれれば、と想う。
さて。
私は気持ちを固めて、リホリホにメッセージを送ってみる。あえて絵里の名前は出さなかったけれど、昨日の話の続きができないかな、と遠回しに聞くスタイルだ。
それだけでわかるはずだし、何となく私にとってもリホリホにとってもデリケートな話に思えたから、そのような言い方にしてみた。
しばらくすると、なぜかまーちゃんから電話がかかってきた。あぁ、またろくでもないことが始まる、と思いながらも、私はその電話を無視することができない。
まーちゃんは、推理ドラマで主人公の探偵にいつもそれとなくヒントを指し示す忠犬みたいな存在だった。
「どうしたんだ、パトラッシュ。そんなオモチャのしゃもじなんて咥えてきて……ん？ しゃもじ？ はっ！ そういうことか！」
炊飯器のタイマーを利用して自分のアリバイを作り上げた知能犯を捕まえるような心持で、まーちゃんからかかってきた電話を取る。
まさか、お米の炊き上がり時の蒸気と化学反応を起こして毒になる物質があったなんて……なんてね。
「みにしげさん、やっさんがギター持ってきました！」
「え？ リホリホとまーちゃんがこれからギター弾くから、まーちゃんの家に来いって？」
「ふくぬらさんも良い匂いです！」
「フクちゃんが美味しいケーキも持ってきたのね。わかった。今から行くね」
我ながらどうしてまーちゃんの言っていることがここまで理解できるのか不思議だったけれど、私はさっと化粧を済ませると、車を走らせた。
まるでコメディだな、と青い空の下、国道を走りながら思う。
フクちゃんの家のような瀟洒な豪邸ではないが、まーちゃんの家もなかなか立派なものだった。伝統的な日本家屋。
平屋ではなく2階建てだったが、庭には小さな池もあったし、思わず四つん這いになって雑巾がけをしたくなるような長い縁側もあった。
引き戸の木製の門扉を開け、敷石の道を渡り、玄関へ。チャイムを押すと広い家にすぅーっと染み渡るようにその音が浸みていく。
少しあって、どたどたと子供のかけてくるような音が聞こえてきた。
たしかまーちゃんには妹がいたっけ？
私の予想に反してやってきたのは、妹ではなく長女のまーちゃん本人だった。「みにしげさん、おっそいですよ！」と楽しそうに私の腕を引っ張る。
まぁ、予想通りと言えば、予想通りか。私はなんとなく感慨深い気持ちになる。
手を引かれていった先は佐藤家自慢の縁側で、フクちゃんがこちらを向いて立ったままお辞儀をした。リホリホはギターを抱えながらチューニングをしている。
「やっさん、できました？」
「ん、っと……はい。できたよ」
リホリホがチューニングを終えたギターをまーちゃんに手渡す。まーちゃんは嬉しそうにそれを受け取ったが、リホリホは「自分でもできるでしょ」と呆れたような様子だった。
「ケーキ食べますか？」
「あ、ありがとう」
フクちゃんが呆然と立ち尽くす私に気をつかって、ケーキの入ったお皿を手渡してくれた。
リホリホがまーちゃんにギターを手渡し、フクちゃんが私にケーキを手渡すという構図は、少し離れたところから見たらちょっと面白い光景だったかもしれない。
「みにしげさん、まーちゃんが弾くんで歌ってくださいね」
「は？ そんなの無理だよ」
「ダメ、歌うの！」
「優樹ちゃん、さっき新曲できたから道重さんに聴かせるんだって言ってたでしょ」フクちゃんがたしなめるように言う。
それでも恥ずかしいのか、自分で言い出したことなのに嫌がるまーちゃんをフクちゃんとリホリホの2人で何度も説得する。
天才ギター少女と注目されている佐藤優樹という人間が、私の前で演奏するのを恥ずかしがるというのは不思議な光景だった。
とは言え、そんなあまのじゃくなところは昔から変わらず、もはや芸能人・アーティストと言って過言ではない彼女にも関わらず、そういった部分を失っていないのは喜ばしいことだった。
漠然と、これからもそんなまーちゃんらしさを失わないで欲しいと思う。
まーちゃんこと佐藤優樹はもともとピアノやドラム、乗馬にバレエなど小さい頃から様々な習い事をしてきたようだった。
明らかに勉学の苦手そうな彼女にそのような多方面の習い事をさせた彼女の両親の目は賞賛に値するが、それ以上に彼女自身が持っている伸び々びとした才能はとてつもないものがあった。
リホリホのクラシックギターをあの公民館の小さな体育館で聴いて、それに感動したまーちゃんは両親にねだってクラシックギターを買ってもらった。
ねだってすぐに買ってもらえる辺りが、佐藤家の経済状況を物語っている。
私は少し羨ましく思うけれど、それよりもむしろすぐにギターに挑戦したいと思えるまーちゃんの積極性の方が、経済的な裕福さよりも稀有なものだとも思う。
そして、それ以上に稀有なのは、クラシックギターを買ってもらったにもかかわらず、ギターの教則本として買ったのがなぜかブルースのもので、そのことにも気が付かずあっという間にブルースを習得した佐藤優樹の天然さと天才さだろう。
私もクラシックとブルースの違いなんてよくわからなかったけれど、リホリホが言うには、座って黙々と弾くのがクラシックギターで、マイクに向かって歌いつつギターも弾くのがブルースということらしかった。
わかるようでわからない説明だな、と思ったが、実際にリホリホが弾いたギターとまーちゃんが弾くギターを比べてみるとその違いがよくわかった。
「なんで私のギターを聴いて、ブルースに辿り着くんだ！？」とリホリホはまーちゃんの演奏を初めて聴いたときに愕然としたそうだった（残念ながら私はその場にはいなかった）。
「やっさん、ギター教えてください」と頼まれたのに、リホリホはしばらく何も口が聞けなかったらしい。
それはまーちゃんがブルースを弾いていたことに驚いたというのも1つの理由だったけれど、それ以上に、始めてたった1か月とは思えないほどにまーちゃんのギターが上手だったというのも大きな理由と言えた。
初めて演奏した時の動画をフクちゃんが撮っていて、私に見せてくれたが、たしかに素人とは思えないほど上手かった。
何よりも歌いながら全く別の動きをする手がまるでもう1つの生き物のように見え、それでいて歌とギターが1つに交わって全体で1つの生き物として成立しているのが不思議で堪らなかった。
「それで、これがリホちゃんに1週間つきっきりで教えてもらった後の動画です」
フクちゃんはそう言って、2つ目の動画を見せてくれたが、そこでも私は衝撃を受けた。
1つ目の動画では確かにとてつもなくギターが上手いというのがわかったけれど、そこにはかなり荒々しさがあり、まだギターの上手い素人という感じが強かった。
が、リホリホの指導を受けた後の動画では、まるでプロのミュージシャンのように見えたのだ。
「たった1週間、基本的な音の出し方とか、丁寧に弾くことを教えただけですよ？ こういう子がいるんだって思うと、私は本当にギタリストって目標を諦めた方が良いと思い知らされます」
リホリホは悔しそうだったけれど、どこか嬉しそうに眉を下げた。
佐藤優樹という規格外の才能に背中を押され、やっと肩の荷が下りたというような安堵感さえリホリホからは感じた。
それからフクちゃんの提案で、動画サイトにアップしてみようよ、という流れになり、軽い気持ちで初めて披露した時の演奏動画をアップしてみる。
そう簡単に注目されるはずもないか、とちょっと肩透かしを食らったような気分でいると、1時間後くらいに「ギターうまっ！」というコメントがついた。そして、その15分後には、「うまっ！ そして可愛い！」というコメントがつく。
面白くなって、翌日にリホリホの指導を受けた後の動画をさらにアップロードすると、「え、めっちゃうまくなってるやん！」というコメントがすぐについて、あれよあれよという間に再生回数が100回を超えた。
そこからはとても早かった。休日が来ると、一気に再生回数が伸び、ゆうに1000回を超え、別の動画を上げると全部の動画の再生回数がさらに伸びた。
翌週にはまーちゃんがオリジナルで楽曲を作って、ほんの2分くらいのオリジナルだったけれど、それもあっという間に1000回再生を超え、私をはじめ、多くの人間がまーちゃんの才能に驚いた。
それからもオリジナル楽曲を作る度に、その完成度と演奏技術が上がっていくので、「これはすごいものを見ているのでは……」というような感じのコメントが多くなり、
1月も経たないうちに、「まーちゃんのギターチャンネル」はすべての動画が1万回再生を超えてしまった。
まーちゃん以上に、私とフクちゃんが舞い上がってしまい、「どうしよう、どうしよう」とお互いの汗まみれの手を握り合って混乱していると、私でも聞いたことがあるような音楽事務所からスカウトの連絡が来る。
そこからもまーちゃんの快進撃は続くが、アーティスト写真が出来上がって、初めてのミュージックビデオが出来上がった辺りで、急な失速を見せる。
というのも、まーちゃんが突如として「人前で弾くのは嫌だ」と言い出したからだった。
「もともと、やっさんとかふくぬらさんとかみにしげさんに聴かせたくて始めたんです。だから知らない人の前で弾くのは嫌なんです」
「でも、音源制作とかミュージックビデオ制作では知らない人の前で弾いたわけでしょ？」
「あれは演奏じゃないですもん」
「演奏じゃない？」
「いま、『せーさく』って言ったじゃないですか。ものづくりです。演奏じゃないんです」
まーちゃんの言い分はよくわからないところもあったけれど、ミュージシャンたるものどんな理由があっても、ライブをしなければ評価をされない。
音楽事務所側も頭を抱えたが、「もっと上手に弾けるようになったら、人前でライブしてもいいですよ」とまーちゃんが言うので、その時を待つよりほかなかった。
ただそんなときにリホリホが1つ提案をする。
事務所との話し合いの場に、まーちゃんの推薦で「まーちゃんの師匠」として招待されたのだけれど、リホリホはその時まで自分が場違いであることに気が引けて1つも発言をしていなかったらしい。
しかし、さすがのリホリホもここでまーちゃんの活動が止まるのはよくないと思ったらしく、「今までみたいに、私たちが演奏動画を取る分にはいいんでしょ？」とまーちゃんに尋ねてみる。
「それはオーケーです。やっさんたちだけの前でだったら演奏できます」
「じゃあさ、ライブができるようになるまでの間の成長記録みたいな感じで、動画形式で発信していくのもアリかな？」
「ライブじゃなきゃいいです。まーちゃんは知らない人からお金取って演奏したくないだけなんです。だから、本当に上手になるまではお金取りません！」
結局、そのリホリホの提案通りに、音楽事務所は「まーちゃん、初ライブへの挑戦！」という企画を打ち出すことになった。
そして、これまたそれが斬新な企画だと注目を集め、テレビなどでも取り上げられるようになってしまった。
現に、まーちゃんが初めてテレビに出たときはまだライブをする前で、せっかく注目の女子高生ギタリストとしてテレビ出演を果たしたのにもかかわらず、ギターには指一本触れなかった。
ギターを始めるきっかけと、ケサランパサランが白粉（おしろい）を食べるという話をして、その30分番組は幕を引いた。
当時、まーちゃんはまだ高校1年生の16歳だったけれど、あれからもう4年が経ち、今年はもう成人式を迎える。
無事、16歳のクリスマスに初ライブを成功させてからは順調にミュージシャンとして身を立てているまーちゃんではあったけれど、未だに実家に住んでいるし、CDならまだしも、ライブとなるとお金を取るのを嫌がっていた。
「だって、まーちゃんより、やっさんの方がギター上手いですもん。なのに、まーちゃんがライブしてお金貰うのは間違ってると思いません？」
「それじゃあ、この世界で1番上手い演奏家以外、音楽で食べていくことはできなくなっちゃうよ」
リホリホはそう正論を言って宥めるけれど、まーちゃんはへそを曲げるばかりで、未だにライブでは会場費とスタッフの賃金以外は取らず、破格の安値でライブを開催している。
「じゃあ、やっさんよりもギターが上手くなったら、お金取ります！」
良い子であるのは間違いではないのだけれど、もう少し一般的な考え方を身に着けて欲しい、と誰もが思う子であった。
そんなまーちゃんの弾き語りを聴きながらケーキを食べ、そのまーちゃんの師匠であるリホリホの演奏を聴きながら紅茶を啜った。
まーちゃんの演奏は確かにエキセントリックで人を魅了するものがあったが、リホリホの方がギターが上手いというまーちゃんの言葉も嘘ではないと感じた。
リホリホはもう本格的にはギターを弾いていないみたいだったけれど、一音一音がくっきりと聞こえ、その強弱が実に見事にコントロールされていた。
「私のギターはただ技術的に上手なだけなんですよ。だから、優樹ちゃんに教えることができる部分はあるんですけど、私が優樹ちゃんからその爆発的な表現力を学ぶことはできないんです」
芸術には疎い私だったけれど、リホリホがそう言うのも何となくわかった。
「だから、やっさんよりも上手にギター弾くのが今の目標です！」
「何年かかることやら」リホリホは小馬鹿にしたように笑った。
素敵な子たちだな、と思う。まーちゃんの真っ直ぐさも素敵だと思うけれど、リホリホがまーちゃんに嫉妬したりしていないことが凄い。
リホリホが高校3年生の年明け頃（クリスマスにまーちゃんが初ライブを成功させてからすぐの頃）に、私はリホリホに尋ねてみた。
「リホリホはまーちゃんにもう嫉妬したりしないの？」
「最初の頃より……今までも何度かコンクールで私よりもミスした子が金賞を取ったことがあったんです。あの時の気持ちに近いものが私の中にはずっとありましたね。
でも、どうしてあの子が金賞で私が銀賞だったのか。考えてみれば、結構明白にわかるもので、私にはないものをその子は持っていたんです。
だから、そういう意味で言えば、私は優樹ちゃんには完敗なんです。技術の正確さ、高度さで全てが決まる世界だったらもっと悔しかったんでしょうけどね」
「でもさ、そもそも世の中が技術の正確さや高度さで優劣が決まる世界じゃないことに嫌気はささないの？」
「そんな世界、私だって嫌に決まってるじゃないですか」
リホリホが眉を潜めながら笑うのを見て、私は本当に素敵な子だな、と思う。
逞しいと思うけれど、リホリホの中にあった様々な葛藤がそういう考え方をリホリホに身につけさせたのだと思うと、少し悲しくもなった。
周囲の期待のためにギターを頑張り続けたリホリホ。でも、そういうやり方じゃ上には行けないと悟りながらも、それでもリホリホはギターを辞めるわけにはいかなかった。
そんなときにダンスに出会って、ギターでは足りないと思っていた部分が、ダンスによって補完されていく。
けれど、それはギターには還元できるものではなく、リホリホは周囲の期待を裏切る形でギターから逃げるしかなかった。
ギターじゃダメなんだ、と思うためにまーちゃんの才能は背中を押してくれたけれど、でも、本当に悔しくないと言ったら嘘になる。
悔しいから頑張る。きっとそれが情熱というものなのかもしれない。
けれど、そのときのリホリホにはもう悔しさを情熱に変えるだけの力は残っていなかった。私が、れいなとの関係性をやり直す力が残っていなかったように。
だから、私はリホリホを放っておくことができなかった。
あの春休みの小さなリサイタル以来、ギターに希望を見出しかけていたにもかかわらず、まーちゃんという凄まじい光が、リホリホの希望を焼き尽くす。
私はその凄まじい光からリホリホを守るための日傘であり、そして裏切りの血の雨を受け止める雨傘の役目を務めなければならなかった。
ギターという大きな質量を持つ惑星の重力に引きずり込まれるリホリホを救うために、私は兎にも角にもリホリホの近くにいるようにした。
万有引力は距離の二乗に反比例すると言う。私は高校時代に学んだ物理の授業を信じて、とにかくリホリホの近くにいて、私の引力とギターの重力を相殺させるようにしたかった。
ケーキと小さな演奏会が終わり、私たちはそれぞれ帰途につく。
私がさりげなくリホリホを手招くと、フクちゃんは何かを察したように「それじゃあ、私は先に帰りますね」と手を振って背を翻した。
私とリホリホは2人でその背中を見送り、声も届かないくらいにその背中が遠ざかったところで顔を合わせる。
「亀井さんのことですよね」とリホリホが小さく言う。
私が頷くと、「少し長い話になるかもしれません」とリホリホは眉間にしわを寄せた。
「とりあえず、車乗って。うちで話そう」
私の提案に今度はリホリホがこくりと頷いた。
たった8畳しかない自分の部屋にリホリホを案内するのは少し恥ずかしいような気もした。ともすれば、いまリホリホが東京で一人暮らししている部屋よりも小さいだろう。
私がそんなことを気にしてると、助手席に乗ったリホリホが「道重さんのお家に行くの久しぶりです」と言う。そうだ。リホリホは何度か私の家に来たことがあるんだった。
彼女はまだ高校生で、そして小さく寒い部屋の中で私たちは裸で抱き合った。一瞬にして性的な記憶が思い出され、私は少しだけ頬が上気してしまう。
ちらりと横目でリホリホの方を見やると、言った本人もまた頬を赤らめているので、私もより緊張してしまう。
家に着き、リホリホを部屋に案内するが、緊張のせいかまるで自分の家に帰ってきた気がしない。とりあえず、座椅子をすすめ、紅茶を入れる準備をする。
「お構いなく」なんて言葉を覚えたリホリホを可愛らしく思い、「リホリホはさゆみに構ってほしくないの？」なんて軽口をたたいていると、ほんの少しだけ昔に戻れたような気がした。
今もリホリホは私に抱かれることを求めているだろうか、とふと思う。
私はまたリホリホと裸で抱き合いたいという気持ちがあったけれど、どちかと言えばそれは2次的な動機だった。
私の当面の望みは、あの頃のもっと親密だった空気感をまた作り上げるということだった。
しかし、何よりもまずは絵里のことだ。私たちは絵里のことを話すためにここにいる。物事には名目と優先順位というものがあるのだ。
熱い紅茶をテーブルの上に２つ置き、私とリホリホは向かい合って座った。
「リホリホはどこで絵里に会ったの？」私はティーカップの取っ手に指をかけながら尋ねる。
「バイト先です。私はいま向うのファミレスでバイトをしているんですけど、そこで偶然亀井さんが働いていたんです」
「絵里、まだフラフラしてるんだ」彼らしいと言えば彼らしいが、何というか少し残念でもある。絵里はただのフリーターなんかで収まっているような人間ではないはずなのに……
「亀井さんなりの考えがあるんだと思いますけど……」
「まぁ、そうだろうね。絵里はなんて言うか普通とはちょっと違ったところがあるし」
「そうですね」リホリホは私に同意しながら少し嬉しそうに微笑を浮かべた。
「なんでリホリホは絵里とさゆみが知り合いだってわかったの？」
「普通に出身地の話をして、そして亀井さんが昔この街にいたって話をしてくれたんです。そして、どうして私が上京したのかとか話してるうちに、
私が『公民館にいたお姉さんの影響ですかね』みたいなことを言ったんです。そしたら、亀井さん、急に顔色が変わって、『それってもしかして道重さゆみという女じゃなかったか？』って」
驚いた。私は絵里に公民館で働いているなんて教えていなかった。というか、そもそも連絡を取る手段もなかったし、彼がどこにいるかだって知らなかった。
私たちは完全に分断されていたのだ。もしかしたら、彼は私のことを気にしていて、どこかから私の足取りを追ってくれたのかもしれない。
私の人生はわかりやすい道筋を辿っていたし、調べようと思えばいつだって誰だって簡単に調べられてしまうだろう。しかしながら、彼がそんなことをするとは思えなかった。
それにしても「道重さゆみという女」って。ずいぶんな物言いだ。
「それでリホリホは絵里とどんな話をしたの？」
「それは……」
リホリホは何か言いにくそうな表情を浮かべる。
私が「無理して言わなくてもいいんだよ」と謝ると、リホリホは首を横に振って「どう整理したらいいかよくわからなくて」と溜息交じりで答えてくれた。
私はとりあえずリホリホに紅茶を勧め、私もティーカップをようやく持ち上げた。
私はリホリホが紅茶を飲みながら頭を整理している様子を眺めていた。眺めているうちに、何となくリホリホの戸惑いの正体が見えてくる。
人の心でも読み取る超能力が身に付いたかしら、なんて場違いな言葉を頭の中で唱え、私も切り出し方を考えた。
リホリホが口を開く一瞬手前、私の方が早く切り出しの言葉を見つけ出したようだった。
「もしかしてリホリホは絵里のことが好きなの？」
リホリホは黙り込んだ。しかし、その黙り込みが質問に対する肯定であることを、私もリホリホも承知していた。
そりゃあ、リホリホも言いにくいだろう。かつて、愛に引き寄せられ身体を重ねた相手に対して、新しい恋の話をするというのはなかなかに心苦しいことだ。
しかも、かつての女に、新しい男の話をするというような場合は特に。
「まぁ、リホリホが絵里とどんな話をしてるのかはどうでもいいの。何となく聞いてみただけだから、気にしないで。ちなみに、絵里はどうしてさゆみが公民館で働いていることを知っていたんだろう。何か絵里は言ってた？」
「え、道重さんが自分で教えたんじゃないんですか？」
「ううん。さゆみは絵里の連絡先も知らないし、それどころかこうしてリホリホから話を聞くまで、東京にいるということさえ知らなかったの」
「そうなんですか？」
「絵里は何も言ってなかった？」
「道重さんの制服姿を知っている、くらいのことしか言ってなかったんで……」
「やっぱり絵里は変人だ……」
「そういうの、ちょっと羨ましかったですけどね」
「リホリホが正式に頼んでくれるなら、いくらでもコスプレするよ」
「そういう意味じゃないです」
リホリホが少し肩の力を抜いて笑うので、私も少しだけ緊張を和らげる。いつの間にか緊張している私がいたことに、ようやく気付いた。
どうも話だけ聞いていると、リホリホは絵里とそこまで私に関する話をしていないようだった。
リホリホがそれを避けたのか、絵里がそれを避けたのかまではわからない。おそらく両方が私の話を避けたに違いない。
リホリホは恋した相手に自分には同性愛の気があるのだと悟られたくはないだろうし、絵里にしたって私のことを説明しようとしたらあの混濁した一連のことを語らなければならない。
仮に、私やれいなについて話すことに躊躇いがなかったとしても、こんな幼気なリホリホに対して自分かつて17歳という年齢でラブホテルで働いていたことを聞かせなくてはならない。
変なところに気を遣う絵里のことだ。案外、私のことを喋らなかった理由はそんなところにあるのかもしれない。
仕方がないので、私はかつての私たちについてリホリホに聞かせてやることにした。絵里には悪いけれど。
何せ、私とリホリホはあの冷たい時期を2人で身体を寄せ合って耐えた仲なのだ（リホリホは私が一方的に彼女を救っていたと思っているかもしれないが、あの時期は私にとっても辛い時期だった）。
「私が高校2年生のころ、絵里と会ったの。とても不思議な出会いでね、それを説明するのはかなり面倒だし、ちょっと教育上よろしくない部分もいくらかある。もし、時間があればだけど話してもいいかな？」
「ぜひ聞きたいです」
リホリホは切実な目を私に向ける。リホリホのまっすぐな瞳には、絵里と私の姿が（幾分か絵里の割合の方が多いように私は感じたけれど）映っているように思えた。
「まずは絵里との出会いを話すためには、田中れいなって女の子について話す必要があるんだけど。リホリホは絵里かられーなのことを聞いてたりするかな？」
「あ、はい。一度だけ、ほんの少し」
「ほんとに？ どんなこと言ってた？」これはちょっと驚きだった。
「いえ、ほんとに名前が出た程度で。道重さんの話が出たときに、『道重さゆみと田中れいなっていう2人に自分は随分と救われた』って言ってました。
深くは話してくれなかったんですけど、何となく話し方からすると、道重さんとその田中さんという方は親友だったのかな、って思ってます」
「親友ね……まぁ、親友っちゃ親友なのかな。学生時代の友達と言って思い出せるのは、れーなくらいなもんだし」
そのれいなとも今となってはほとんど連絡も取っていない。自分が随分と孤独な人間であることを私は改めて実感する。
「さゆみとれーなは同じ高校で、たまたま同じ図書委員になったの。さゆみは良い子ちゃんぶりっ子の優等生。対して、れーなはいわゆる不良少女だったんだけど、いつの間にかよく話すようになってね。
で、あるときれーなが援助交際でお金を稼いでいることを知ったの」
「え、援助交際ですか……」
「一応、れーなの面目を守るために言っておくと、れーなは自分の身体を触らせはしなかった。手と口でしてあげるだけ。ま、こんなんで面目が保たれるとも思わないけどね。
ただ、そのころのれーなは色々と遊びたい盛りだったし、お金が必要だった。お金を稼いで、それを使うことでしか、れーなの中で渦巻く何か黒いものを発散することができなかったんだと思う。
ただ、そんなことを言われても、さゆみはまだ純真無垢な高校生だったし、当然『援交なんてダメだよ』って口うるさく止めに入った」
「道重さんも常識的なところがあるんですね」
「この話を聞いてそんな感想が言えるリホリホは非常識だと思うよ。まぁ、話を戻すけど、当然れーなはいわゆるヤンキーだからね。
さゆみの忠告なんて聞かずに、援交のためにラブホテルに向かった。私は心配半分、好奇心半分って感じでその後をつけていって、そして運悪く、いや、結果的には良かったのか。
さゆみは偶然、れーなが襲われそうになっているところに遭遇したの。こんなのは当たり前だと今になって思うけど、男の人が手と口だけで満足してくれるなんてそんな平和な世界は存在しない。
それまでの相手が手と口だけで済んでいたのは本当に運が良かっただけ。
れーなの後をつけていったさゆみは鍵の閉まったドアの向こうから聞こえるれーなの悲鳴を聞いて、何とか助けなくちゃって思ってドアを叩いたんだけど、そしたら中から男の人に怒鳴られてね。
『お前もおかすぞ』みたいなことを言われたような気がする。それで、さゆみ怖くなっちゃって、その場に立ち尽くしてたんだけど、そこにたまたま通りかかったのが絵里だったんだ。
絵里はその時まだ17歳だったけど、わけあってラブホテルで働いていた。
後々、その理由をさゆみは絵里から教えてもらったけど、これはあまりにも絵里だけのプライベートに関することだから、もし知りたければ絵里から聞いて。
絵里は高校にも通ってなくて、そのラブホテルで働いていた。
そして、さゆみから事情を聞くと、マスターキーを使って部屋の中に入って、一本背負いでその男の人をとっちめたの。今でもあの時の光景はよく覚えてる」
「亀井さん、凄いですね」
「ほんと凄かったし、格好良かったよ。ま、そんな経緯があって、さゆみは絵里と知り合って、それから何回かデートをしたの」
「急な展開ですね。付き合ってたんですか？」
「わかんない。結局、付き合ってはなかったんじゃないかな。それでも、さゆみは幸せだったけどね。平和な青春時代……まぁ、れーなさえいなければ、だけどね」
「田中さんがまた何かしたんですか？」
「これだけは言っておくけど、別にれーなは悪い子なんかじゃないの。本当はどこまでも純粋で、それでナイーブで傷つきやすくて。
れーなはその一件があってから、援交をやめたんだけど、それまで援交で稼いだお金でストレスの発散をしていたからね。
それが無くなってしまって、やり場のないモヤモヤした気持ちをさゆみにぶつけるようになったの。いわば、代償としてさゆみを求めたってわけ。
さゆみもれーなのことは好きだったから、れーなを受け入れて、まさしくかつてのさゆみとリホリホみたいな関係性になった」
私の言葉にリホリホは複雑そうな顔をした。それも当然と言えば当然だ。
いま現在好きな亀井絵里という人と、かつて関係があった相手である私が半ば恋愛関係のようなものにあって、しかもその私が絵里とは別に同性の相手と乳繰り合っていたと知らされたのだから。
「さゆみは絵里と健全な交際を続ける裏で、れーなとグズグズの関係を始めた。絵里は男で、れーなは女。だから浮気とかそういうんじゃないんだと自分に言い聞かせてね。
でも、そんなことを続けられるような能力はさゆみにはなかったの。そもそもれーな1人だってあの時のさゆみには救うことができなかった。
リホリホと一緒にいたときは、さゆみも歳を取っていたし、絵里とれーなとのことから少しは学んでもいた。
だから、個人的にはそんなに酷いことにはならなかったと思ってるんだけど、その時のさゆみはもう最悪だった。結果的に、絵里もれーなも傷つけたし、絵里とれーなにも傷つけられた。
そして、絵里はさゆみたちの元から去って、さゆみとれーなの関係も大学進学と同時に消滅してしまった。そういうことがね、さゆみと絵里の間にはあったの」
随分と間を省略したように思うけれど、とりあえずは私と絵里の関係について、リホリホに説明することができた。
リホリホはこんなことを聞かされても、いったいどうすれば良いんだ、とわかりやすく当惑の表情を浮かべている。
私も何がしたかったんだろうと自分で首を捻りながら、それでも言いたいことを言い終えてすっきりとした思いで紅茶を啜った。
「道重さんは、私と一緒にいたとき、やっぱりその時のこと……亀井さんや田中さんのことを思い出したんですか？」
「そうね……やっぱりれーなのことは思い出した。れーなのときもとにかく近くにいてあげることしかできなかったけど、
それでも近くにいるということがどれだけ支えになるのかということはれーなから学んだしね。リホリホもあの時は何か支えが必要だったように、さゆみには思えたから」
そう言えば、絵里も似たようなことをしていたっけ。かつて駆け落ちした相手を救えず、その経験から私とれいなを救おうとしてくれた。
「どうして、そのときに亀井さんたちの話を私にしてくれなかったんですか？」
私が昔のことを思い出そうと視線を逸らしているうちに、リホリホの表情は厳しいものに変わっていた。怒っている。リホリホの怒りは確かに私に向けられていた。
「私は道重さんに対して、できうる限りすべてを打ち明けました。私が今までどんな経験をしてきて、その度にどんなことを感じ、どんなことを思ってきたか。
なのに、道重さんは体の良さそうな聞き心地の良い言葉だけを並べて、私を窘めるようにしていただけってことだったんですか？」
「違うの。そういうわけじゃないの。さゆみにとって絵里とれーなの話は本当に誰にも言ってこなかった、さゆみの核についての話。
だから、本当はそれを誰かに話して受け入れてもらいたかった。ずっとそう思って生きてきた気がする。でも、あの時のリホリホには話すことができなかった。それはさゆみのせいなの。リホリホに嫌われたくなかったの」
「今は嫌われてもいい、ってことですか？」
「今のリホリホなら受け入れてくれる。そう思ったから、いま話したんだと思う」
「答えになってません」
「嫌われてもいいか、ってことなら、嫌われてもいいと思ってる。ううん、違う。やっぱり嫌われるはずがないっていう魂胆があるから、嫌われてもいいなんて言えたんだと思う。
ねぇ、リホリホ。リホリホは気づいてないかもしれないけど、本当にリホリホは変わったと思うの。とても穏やかになったし、懐も深くなって、大人になった。
別段色々と話したわけじゃないけど、そういうのってしっかり伝わって来る。これは話を逸らすわけじゃないんだけど、１つ聞いてもいいかな。リホリホはもうギターとダンスで迷うことはなくなったんだよね？」
「……昨日も話した通りです。私はダンスと関わる仕事に就きたいと思ってます。ギターも今日みたいに時々は弾き続けていきたいです。とりあえず、優樹ちゃんが私より上手くなるまでは私も下手になるわけにはいかないと考えています」
「うん。やっぱりリホリホはさゆみといたときのリホリホじゃない。1人で東京に行って、そしてその中でこんなに成長して、またこうしてさゆみの目の前にいる。
なんだかさゆみはタイムスリップでもしたような気分なの。そして、不思議な巡り合わせでリホリホは絵里を連れて来た。比喩的にだけどね。
さゆみがまだあの公民館にいたとき、絵里とのことはリホリホには言えないと思った。れーなのことは尚更ね。言ったら、リホリホを傷つけるだろうし、傷つければ当然嫌われちゃうから。
でも、今はむしろちゃんと言わなきゃいけないな、って気持ちなんだ。
大人になったリホリホはきっと打ち明けてもさゆみを拒絶しないだろうし、なんて言うか、今はさゆみとリホリホで絵里の話をするべきなんだと思ったの。ねぇ、リホリホはどう思う？」
「私は……私はそれでも傷つきました。むかし好きだった人、もちろん今でも道重さんのことは大好きです。
でも、それとは違った温度感で今はまた亀井さんのことも好きになってしまったんです。そんな2人がむかしは恋人みたいな関係で、しかもそのとき道重さんは亀井さん以外にも別の人と関係があった。
それがかつての私と道重さんみたいな関係性にあったなんて……そんなことを今さら聞かされても、私はどうしていいかわからないんです」
「傷つけたことは謝るの。ごめんなさい。でも、いつかはリホリホに言うべきことだったし、こうして絵里の話がリホリホの口から聞けたタイミングだったから、今しかないかなって思ったの。
それにこう言っちゃなんだけど、リホリホも聞きたいって言ってくれたでしょ？」
「あんな風に、話してもいいかな？なんて言われたら、聞きたいって言うしかないじゃないですか」
リホリホはそう言って、溜息をついた。私は苦笑いを浮かべて、「そうだよね、ごめんね」と謝るしかない。カップに残った紅茶は既にかなり冷めてしまっているようだった。
リホリホは「ちょっと疲れました」と言って、テーブルの上で腕を組み、その上に顎を乗せた。
上目遣いで私の方を見上げる。すらりとしなやかな奥二重の三日月目。小動物のような愛らしい口元。顎を腕に乗せているせいで、可愛く皺が寄っている。
「誘ってるの？」と私が言うと、彼女は「違いますよ」と笑って身体を起こし、今度は座椅子の背もたれに体重を預けた。まっすぐ伸びた黒髪が輪郭を隠す。
リホリホは膝を立て、内股気味に静かに膝をこすり合わせた。口を軽く緩ませ、無気力に放り出された腕の先で、幼げな指先が意味深にこちらに向けられている。
私もいくらか話過ぎて頭が疲れていた。前頭葉に軽い痺れを感じる。あぁ、かどわかされているなぁ……そんな言葉が瞼の裏を這った。
私は膝立ちになってリホリホに近づき、覆いかぶさる。天井から降り注ぐ蛍光灯の明かりがリホリホの身体をキャンバスに私の影を描く。
両手でリホリホの頬を包み込み、緩く開かれた唇の隙間を私の唇で埋める。あぁ、愛しい。愛を確かめる方法が、こんな粘膜の接触であることがもどかしく感じられるくらいに、私はリホリホの唇にむさぼりついた。
道重さん、私、傷つきました。息継ぎの合間に、リホリホはそう小さく零す。慰めてください。あらあら、いつの間にこんなに色っぽいことができるようになったのかしら……
時間にすればほんの僅かなものだったかもしれない。濃密な口づけは、ふとした瞬間には終わっており、後にはほとんど何も残らなかった。
ある種の衝動のようなものもまるで霧が晴れるように、ほとんど瞬間的に消え去っていた。
静かな部屋の中、時計の秒針の音だけが聞こえる部屋の中で、私とリホリホはほんの数十センチの間を隔てて意図もなく見つめ合っていた。
「私は亀井さんが好きです。道重さんはいま好きな人はいますか？」
鞘
道重さんに車で家まで送ってもらった。亀井さんと道重さんのことを聞くことができて、私はそれなりに満足だったけれど、道重さんはどこか物足りなさそうに見えた。
それは決して、私と久しぶりに身体を重ねられなかったからとかそういう理由ではなく、おそらくは私から亀井さんの話があまり聞けなかったからだろう。
道重さんは「もう昔の話だし」というような感じで喋っていたが、心の中では未だに亀井さんのために取っておかれているスペースがあるに違いない。
それはきっと私のために取っておかれているスペースよりも、道重さんの心の奥深く、底の方にあるに違いない。
道重さんに1つだけ言わなかったことがある。
それは亀井さんが「さゆに会うことがあったらよろしく伝えておいてくれ」ということだった。亀井さんはきっとまだ道重さんのことを想っている。おそらくは、道重さんが亀井さんのことを想うよりも強く。
そんな2人がもし再会することになんてなったら……きっと私が2人の間に入り込む余地など無くなってしまうだろう。自らの手でそんなことをすることは、どうしたって私にはできなかった。
せめて、私が私の想いを亀井さんに打ち明けるまでは。それまでは、道重さんにもう少し待ってもらわなければならない。
もう何年も待てたんだ。あと数か月くらい、何とか待ってもらおう。とても卑怯な手ではあるけれど、私にはそうするよりほかにできることはなかった。
陽が沈む前から静かに雨が降り出した。風も少し出てきたようだ。オレンジ色のノスタルジックな夕焼けを期待していたのに、深い灰色の空が私の願いに取って代わって表れた。
そらから降りつける雨はいかにも冷たそうで、庭の花木を暗く染めた。千切れた葉が土の上を転がり、窓の額縁の外へと消えていった。
私の今の気持ちにおあつらえ向きの天気だ。
私の心は確かに傷ついていた。私のことを見つめて欲しいと願っていた2人が、実は私を通して、お互いのことを見つめ合っていたようなものだ。
私は自分が透明なガラス窓か、中身をくり貫かれた空洞にでもなったような気分だった。バカな子どもがふざけて駆け抜ける、俺は空洞。でかい空洞。
たしか、そんな歌詞の曲があったっけ。私という空洞の中を亀井さんと道重さんが手を繋いで駆け抜けていくイメージがふと頭に浮かんでしまった。私は部屋の窓を開けて、手を伸ばしてみた。
雨はちゃんと冷たく、私の心の温度にしっかりと同化してくれた。
身体が冷えて来た。私は窓を閉め、部屋に戻る。いつの間にか髪や服を濡らした私がガラス窓にぼんやりと浮かび上がっている。
ガラス窓が鏡になるくらいには、陽も暮れてしまったようだった。寒い。私は溜息を吐いて、シャワーを浴びることに決めた。
髪をドライヤーで乾かしながら、子供向けテレビ番組を眺める。実家でこうして1人でそんなものを見ていると、どこか子供返りしたような感じがした。
温かく、家庭という檻で守られていた小さな頃の私。ずっとその中で、温かい毛布に包まって眠っていられたら。いったいいつ私がそれ以外のことを求めただろう。
しかし、それはいつの間にか奪い去られ、冷たい雨が降り注ぐ、荒涼たる大地のうえに私は放り出されてしまった。
両親や子供向けテレビ番組、毛布やぬいぐるみに代わって私を温めてくれる人は誰だろう。ドライヤーの風の音で、テレビからの音は何も聴き取れない。
カラフルな映像だけが、網膜の上を通り過ぎていく。すっかり髪は乾いてしまったが、どうしてだかテレビの音を聴くのが怖くて、ドライヤーのスイッチを切ることができない。
しばらくそうしているうちに眠気が襲ってくる。あぁ、やっと私は優しい眠りの中へと逃げることができる。テレビがニュース番組に代わり、私はドライヤーのスイッチを切って、目を閉じる。
ニュース番組の雑然とした言葉、言葉、言葉。柔らかなノイズの中で、私は意識を閉ざし、眠りへと落ちていく。
最後に私の中で、道重さんの優しい口づけのイメージがふわりと広がり、そしてすべてが薄暮の中に飲み込まれた。
朝起きて、仕事へ向かう両親を見送る。1人残された家の中で久しぶりに真面目にギターの練習をする。
タンゴ・アン・スカイ、フェリシダージ、フォーコと、ローラン・ディアンスの曲を一通り、時間をかけて反復演奏してみた。
一時間くらいで少しずつ指が動くようになってきたような感覚があり、二時間もすると指が痛くなってきた。
指の腹の皮が痛むのはもちろんだが、関節に疲れが溜まりそれが痛み出すところを見ると、どうやら変な力が入ってしまっていたらしい。
あれだけ毎日練習していたというのに、時間というのは辛辣だ。どれだけ身を捧げてもほんのわずかしか振り向いてもらえない。
なのに、ほんのちょっとこちらが視線を外してしまうと、もう彼の背中すら見えなくなってしまう。そして、あっという間に私以外の人間の味方に付いて、私を嫉妬の渦の底に沈めてしまうのだ。
昔はそのことがとても辛かった。もちろん、私は自分の才能にどこか欠落した部分があることを知っていたし、表面的にはそのことを受け入れている風に振舞ったりもしていた。
しかし、本当は割り切れてなどいなかったし、だからこそ私は進路に悩み、そして佐藤優樹という才能に追い込まれ、救いを年上の女性に求めた。そう、道重さんだ。
指が疲れた。コップに水道の水を汲み、それを飲み干す。ふう。指を広げて、仔細にそれを眺めてみる。この細く短い指が、私という人間の半分近くの価値を占めているのか。
そう思うと何だか不思議な気がした。音もなく風に揺れる庭の木の葉が、なんだか懐かしい。
けれど、その緑の葉は冬に落ち、この春に灯り始めたものであって、かつて私が見て来たものとは確実に違うものなのだ。やはり不思議な気持ちになる。
確かなことなど何もないのだろう。私は変わり、この庭も変わった。傍目にはそんなに変わったとも思えないだろうけれど、確実に変わっていくんだ。
何かの本で読んだけれど、人間の細胞は2か月で丸々入れ替わってしまうらしい。遺伝子という設計書に則って、私という人間が何度も何度も複製されているだけに過ぎない。
繰り返し、繰り返し、コピー。コピーの度に少しずつ色が薄まっていく。テロメアが０となったとき、私は真っ白な無意味の紙になってしまう……はて、私はいったい何を考えていたんだっけ。
そう言えば、昨日の雨はすっかりどこかに消えてしまったみたいだ。相変わらず風は吹いているけれど。
午前10時を回った頃、家のチャイムが鳴り、宅配便かと思いインターフォンに出ると、そこにはギターケースを担いだ佐藤優樹が立っていた。
彼女のことは好きだけれど、私は少しだけ気後れしてしまう。優樹ちゃんは「ギター教えてください」と子供のような声で叫んだ。断るわけにもいかず、彼女を家に招き入れる。
ふわり。さっぱりとした匂いの香水がかおる。柔らかそうなパーカーにダメージジーンズというラフな格好だったけれど、どうしてか品が良く見える。ふと彼女に触れてみたくなる自分がいる。
しかし、彼女はこんなに可愛らしく美しい身体の中に、触れるものを切り裂くような鋭い才能を秘めているのだ。
下手な喩えになってしまうけれど、よくある通販番組。そこに出てくる良く切れる包丁。色々なものをスパスパと切っていくその様に爽快さを感じる人間は多いだろう。
でも、私はまるで咬ませ犬のような感じで引っ張り出されては身を刻まれていく野菜や肉を想うと、胸が苦しくなった。
ただの見世物として切り刻まれる彼らに自分を重ねてしまうからだと気づいたのは、大学に入学して一人暮らしを始めてからだった。
飲み会から帰って来て、ひとりで深夜の通販番組を見ているときに、ふとそんなことが頭を過ったのだ。今、テレビ画面に映るあれは、まさに自分だ、と。
さっそく私は優樹ちゃんからギターを手渡されて、せがまれるままに先ほど練習していたタンゴ・アン・スカイとフォーコを弾いてやる。
うっとりしたような面持ちで私のギターに聴き入ってくれるのは嬉しかったけれど、どちらもわずか３〜４分の曲ながら集中を欠かすことはできない。どちらもタイプの異なる集中力、そして筋力が必要になる楽曲だ。
タンゴ・アン・スカイの方は1つひとつのストロークを切れ味鋭く、歯切れよく。リズムの揺れ、ビブラートのかけ方1つをとっても緻密に計算通りに。
それでタンゴらしい気品や優雅さ、さらに艶やかさのようなものを感じさせなければならない。
ポイントは強弱の付け方と、細かいパッセージの中で少しだけ気怠さを見せること。ハンマリングとプリングのタイム感でそれを演出する。そしてゴルペ。つまり、ギターのボディを叩く強さとタイミングはジャストでなければならない。
叩く位置によっても、音が変わるから細心の注意を払って。最後は跳ねるように、チャン、チャン。この2音の長さや音量のバランスで楽曲の出来が決まる。
私の演奏が終わると優樹ちゃんは目を細め、秋の木漏れ日に金木犀の香りを嗅いだときのような笑顔を綻ばせた。
こんなことを言うと自画自賛になってしまうけれど、きちんと音楽がわかっている人に、こうやって素敵な表情を見せられると、私も心の底から嬉しくなってしまう。
惜しむらくは今の私の演奏技術が錆び付いてしまっていることだ。これもまた変な言い方だけれど、全盛期の私の演奏をきちんと優樹ちゃんに聴かせてやりたいと思った。
私がそう言うと、優樹ちゃんは「今のやっさんだからこそ、まさの心をきゅってさせてくれるんだと思います」と誉めちぎってくれる。
「昔のやっさんの方が、もっと綺麗に上手に弾けたのかもしれないですけど、そういうんじゃなくて〜……もっと技術の繊細さじゃない、心の繊細さみたいなのがたぶん演奏に必要なんですよ」。
わかったような口を利くけれど、まぁ、実際優樹ちゃんはわかっている側の人間なんだろう。
そして、そういう言い方をされると、長年私が悩んできた「演奏の個性」について、ギターを辞めた今更になってその個性が出てきたのだと思えて、少しだけ悲しくもなった。
次に私はフォーコを演奏する。イタリア語で炎を意味するこの楽曲。作曲者のローラン・ディアンス自身が生死の境をさまよったときに作った楽曲。
人間の命を炎に見立てて、生々しく有機的な、つまり予測不能なパッセージと曲展開がこの楽曲の肝となっている。
が、何といっても難しい。よくエレキベースの奏者が手数、指数の多い楽曲を「ベラベラ弾く」というような言い方をするが、まさにこのフォーコは「ベラベラと弾き」続けなければならない。
しかも、ベース音の踏み込むタイミングが特殊で、リズムも取りにくい。クラシックギターには珍しくチョーキングを取り入れたりもしており、不安定な音色が楽曲を支配している。
ポイントは、トレモロやアルペジオの強弱の付け方で、炎が揺れる様をどこまで表現できるか。
最後のスラップ奏法を用いたカッティングのフレーズではありったけの情熱を込めて、命を燃やし尽くすように弾く。そして、暖炉の最後の薪がことりと首を折るように終わる。
曲を弾き終わると額には汗が滲んでいた。カロリーの高い楽曲だ。優樹ちゃんも息を止めて聴いていたような感じで、終曲後、静けさの中で2人の抑え込むような呼吸の音だけが聴こえた。
「まさ、この曲好き」
確かに、タンゴ・アン・スカイよりはこっちのフォーコの方が優樹ちゃんらしい。独創的で、情熱的で生々しい。肉感的な魅力がある。
炎のような揺らめきは確かに計算ずくで演出できなくもないが、計算されたものよりはその場の空気感なども踏まえて、臨機応変に自分の感性で描いていく方が美しくなるだろう。悪魔的な力強さは優樹ちゃんらしい。
対して、タンゴ・アン・スカイはどちらかと言えば、私向きの楽曲かもしれない。きっちりと、それでいて大胆に。技術と基礎体力を極限まで高めて弾き切る。厳しさの中に柔軟性を込める。
どこまで行っても感性が先に立つ優樹ちゃんよりは、やはり私らしい楽曲だ。
最後に私はまたせがまれて、ソルの主題による変奏曲を弾いた。あの公民館の体育館で演奏した楽曲だ。それまでの2曲で波に乗れたおかげだろうか。
ほとんど練習していないにもかかわらず、8分以上にも及ぶ大曲を、私は何とか最後まで弾き切ることができた。弾き終わると、指の皮が剥け、喉もカラカラになっていた。
両手の指の関節がじんじんと鈍く痛み、頭もぼうっとする。優樹ちゃんが家に来てから、30分ほどしか経っていない。が、私はもうヘトヘトになってしまっていた。
「何か飲み物と甘いものでもどうですか？」優樹ちゃんが笑顔でそう言う。
「いいね。でも、私の家だよ」
「遠慮しなくていいですよ。まさが持ってきますから」
「いや、だから私の家なんだけど」
家主の私がおもてなしをするべきところ、客人である自分が代わりにもてなしてやる、というのが優樹ちゃんの考えなのだろう。
私は、勝手に他人の家の冷蔵庫やら戸棚やらを開けるのは失礼だろう、という想いだったのだけれど。
会話は噛み合わないけれど、でも、これまでも音楽以外のことで優樹ちゃんと話が噛み合ったという覚えがない。だから、今さらそんなことを口に出してもしょうがない。
私は優樹ちゃんが持ってきてくれたオレンジジュースとカントリーマームを受け取り、礼を言う。
私はソファに移動して、優樹ちゃんを隣に侍らせた。目鼻立ちがはっきりとしている彼女が隣にいるだけで、何か世界が華やかになったような気がする。
どちらかと言えば、薄味の顔をしている私は、そんな彼女の外見もまた羨ましく思ってしまう。
「さっきの2曲目に弾いてた、ジャラジャラジャラ〜って曲、まさも弾いてみたいです」
「フォーコっていう曲で、イタリア語で炎って意味なんだよ」
「へぇ。でも、なんか炎っていうよりは、川って感じがしました」
「川？」
「次々、音が溢れて、どんどん流される〜みたいな」
「へぇ。不思議だね。私はもう炎のイメージしか頭に浮かばないけど」
「もちろん、炎っていうのも感じますけど、まさにとっては川でした。あの、あれです。なんて言うんでしたっけ？」
「いや、ノーヒントでは無理だよ」
「あれですよ、あれ。何とか川」
「信濃川？ 最上川？」
「違いますー、違います」
「天の川とか？」
「うーん、違いますって。あれですよ。ジャズ、みたいな」
「ジャズ？」
「ジャズじゃなくて、ジャズ川、みたいな感じのやつです」
「いや、全然わかんないよ」
「あぁ、もう。いいですよ、やっさんのわからずや」
「こういうタイプの『わからない』は『わからずや』とは言わないんだよ、優樹ちゃん」
「もう、やだ」
優樹ちゃんはそれからも少しばかりの間、言葉が喉元まで上がっているんだけど、みたいなもどかしさを浮かべていたが、カントリーマームを何枚か食べるとあっさりと気持ちを切り替えて、持って来たギターを手に取った。
私は動画サイトで、何人かの演奏家によるフォーコの演奏動画を見せてやった。人によって表現の仕方が全然違って面白い。
自分の弾き方と似た弾き方をしていれば上手いと感じ、そうでないと下手だと感じるのはどうしてだろう。客観的に見れば、絶対に私よりも上手なのだけれど。
いくつかの演奏動画を見た後で、私はフォーコをゆっくりと弾いてやった。１つひとつのフレーズを何回も一緒に弾き、それを繋ぎ合わせていくことで気がつけば1曲が完成している。
とびっきり耳が良く、指も柔らかい優樹ちゃんは、およそ2時間でこの難曲を一通り弾けるようになった。
まだまだテンポも遅いし、細部はマチマチになってしまうけれど、とりあえずは楽曲としての体を為すようにはなった。
最後に、優樹ちゃんが通しで弾いた後に、私も弾いて聴かせてやる。「やっぱりダメだー！」と叫ぶ優樹ちゃんだったけれど、その表情はどこか楽しそうでもあった。
気がつけばもう午後1時を回ろうとしている時分。午後の温かい空気が街を満たしていた。対して、私たちのお腹はぺこぺこでさもしい。
近くに蕎麦屋があるから、と私は優樹ちゃんを引き連れて、昔からよく行っていた蕎麦屋に行った。
歩いてものの五分。暖簾をくぐり、席に着くと、「あら、久しぶり」と女将さんがお茶を運んできてくれ、私はざるそば二人前を注文する。
「やっさんはもうギターやらないんですか？」
「どうだろう……でも、ギターで食べていくつもりはないかな。今はダンスの方が好きだし」
「えー、もったいなーい。あ、じゃあ、今度はやっさんが踊る動画作りましょーよ」
「ムリムリムリ！ 人に見せられるようなものじゃないし！」
「でも、ギターは一緒に動画撮ってくれたじゃないですか」
「そりゃ、ギターはまだ一応人前で見せられるように練習してきてるし……」
「なのに、ギター辞めてダンスやるんですか？」
「だって、ダンスの方が好きだし」
「へんなのー」
私でも変だとは思う。けれど、実際その通りなのだから仕方がない。
ギターはずっと人前で演奏するために技術を磨いてきたものだし、一応コンクールとかでもそれなりの成績は出しているから、自信だってそれなりにはある。
プロのギタリストと自分の現在地の距離感だってよくわかっているし、セミプロを名乗っても差し支えないくらいの自負もある。
対して、ダンスはまだ素人に毛が生えたくらいのもの。プロのダンサーなんてまだその背中すら見えていないし、まずは身の回りのダンスサークルにいる誰よりも上手くなるというのが自分の今の目標なのだ。
そんな人間のダンスを人前に晒すわけにはいかない。ましてや佐藤優樹なんていう有名人の名前の下で。
私がそう説明すると、「まさがライブでお金取らないこと怒るくせに」と優樹ちゃんには珍しく、正論で返されてしまう。たしかに、と私は首肯せざるを得ない。
「なんか、やっと優樹ちゃんの心境がちゃんと理解できた気がする」
「理解なんかいいですから。ね、一緒にやりましょー！」
ざるそばが運ばれてくると、腹をすかせた私たちは、無言でそれを一息に啜った。
「あ〜、美味しかった」
幼いころからの行きつけの蕎麦屋に満足してもらえて、私は嬉しくなる。そう言えば、大学生になり上京したけれど、東京で蕎麦を食べたという記憶がない。
おそらく私は別に蕎麦が好きというわけじゃないんだろう。蕎麦なんて別に好んで食べるものじゃない。
それでも、こうして帰省して来て、家の近くで何かをご馳走するとなったら、この蕎麦屋にやって来るのだ。人間というのは不思議なものだ。
家に戻ると、帰りがけにコンビニで買って来たシュークリームを食べる。蕎麦の後のデザートとしてシュークリームが妥当かどうかは甚だ疑問ではあるけれど……紅茶を入れて、ソファに並んで座る。
「そう言えば、優樹ちゃんは一人暮らししないの？」
「しませんよー」
「でも、仕事の度に東京まで出ていくの大変じゃない？」
「うーん、でも、そんなに仕事多くないですし。レコーディングとライブ以外はこっちでできますもん」
「事務所の人と打ち合わせがあったりするんじゃないの？」
「ネット会議で済ませてるんで」
あの優樹ちゃんから「ネット会議」という言葉が飛び出して来て私は少しうろたえるけれど、この天然っ子は意外とパソコンとかが使えるタイプの天然っ子だったことを思い出す。
最近、彼女が配信リリースした楽曲も、彼女が音楽制作ソフトの打ち込みで作ったらしい。打ち込みのリズムの上で12弦ギターの煌びやかな音色が鳴る、不思議な質感の楽曲だったけれど、評判は良かった。
何よりも「佐藤優樹は打ち込みもできるのか！」というところが話題をさらった。
「逆にやっさんはなんで東京に行っちゃったんですか？」
「私？ 私はダンスをするため」
「ここじゃできないんですか？」
「そう。ここじゃダメなんだ。1回、ひとりになって、そこでダンスだけに打ち込んでみたかったんだ」
「ふうん……まさの……いないところがよかったですか？」
優樹ちゃんは、じっと私の瞳を覗き込んできた。私はどう答えてよいかわからず、つい目を逸らしてしまう。胸が苦しくなる。
けれど、私は何かの主人公みたいに「逃げちゃだめだ」と自分に言い聞かせ、優樹ちゃんの方に向き直る。彼女はまだ私の方をじっと見つめていた。
「そうかもしれない……でも、そういうことじゃない」
「どういうことですか？」
「優樹ちゃんがいたから、私もいつまでもぐずってないで、一生懸命ダンスに打ち込まなきゃって想えたんだとおもう」
優樹ちゃんは軽く首を傾げる。
「優樹ちゃんの才能が羨ましかった。でも、優樹ちゃんの才能を目の当りにするずっと前から私はギターをいつ辞めればいいのか、って考えてた。
ダンスに逃げ道を求めていたわけじゃないけど、ダンスが好きになって、好きなダンスに没頭する人生を夢見るようになった。
でもね、優柔不断な私はギターを捨てきることもできずに、ギターを隠れ蓑にダンスをすることしかできなかったの。
それだけじゃなくて、道重さんやフクちゃん、そして優樹ちゃんの前で、あの公民館で演奏して、改めてギターが好きになって、自分の人生を迷ってしまった。
その後、優樹ちゃんがギターを始めて、とんでもない才能で瞬く間に有名になって、そこでまた私はギターが嫌いになって……で、そんな時期に道重さんが私を支えてくれた。
正直ね、もう私には何が何だかわからなかった。優樹ちゃんを応援したいって気持ちもあったし、逆に優樹ちゃんを妬ましく思う気持ちもあった。
ギターが好きで、それでいて嫌いで、ダンスは好きだけど、逃げ道にはしたくないし。道重さんは優しいからずっと甘えていたかったけど、でも、ずっとそこに甘えていたくはなかった。
それで、なんだかよくわかんないけど、いったん1人になって、もう1回ゆっくりと自分で自分を立て直さなくちゃって思って、それで東京に行ったの。
そして、行ってみてやっぱり私はギターよりもダンスをして生きていきたいって思えるようになったし、それからは優樹ちゃんが頑張っているのもとても励みになった。
だから、最初から前向きに『ダンスをするぞ！』っていう風に上京したわけじゃないけど、
結果的に私はダンスとしっかり向き合えるようになるために東京に行くことにしたようなものだったんだ。まぁ、後になって思えばってことだけど」
どうしてかわからないけど、私の話を聞きながら優樹ちゃんは涙を流していた。
目じりで綺麗な玉になった透明な涙が、まるで魔法が解けるみたいにして、すっと筋になって滑らかな頬を落ちていく。
まーちゃん、やっさんのこと傷つけちゃったのかな、ってずっと思ってて。
そう言うと、優樹ちゃんは私に抱きついてきた。
私は彼女の柔らかな身体を抱き止め、頭を撫でてやる。かつて、道重さんがそうしてくれたように。そして、道重さんが昨日話してくれたことを思い出す。
リホリホは大人になったよ。
大人になった私はこうして、あの佐藤優樹を抱きしめてやることができている。
自分で傷つけておいて、それを慰めてやるというのもおかしな話だけれど。それでも、私は自分がやはり少しは成長したのだなとも感じる。
当時、田中さんを救ってやることができなかった道重さんが、その何年後かに私を救ってくれたように。
しばらく私は優樹ちゃんを抱きしめていたが、そのうちに彼女は泣き止んで、私から身体を離した。鼻をずるずるとすすり、そしてガハハと優樹ちゃんらしい大雑把な笑い声をあげた。
何がおかしいのかよくわからなかったけど、とにかく彼女が笑うので私も笑わずにはいられなかった。
「やっさん、大好き」
「私も優樹ちゃんのこと好きだよ」
「ほんとに？」
「ほんとに」
「どれくらい好きですか？」
「これくらい！」そう言って、私は優樹ちゃんに抱きつく。
「ぎゃー、やっぱりやっさん嫌い！」
私をはねのけようとする優樹ちゃんの腕を掴んで、なおも抱きついてやろうとすると、何かの弾みでバランスが崩れ、ソファの上で優樹ちゃんを押し倒すような格好となる。
艶やかな髪が扇のように広がり、朝方彼女が部屋に入って来たときに鼻腔をくすぐった爽やかな香りがふわっと舞う。
ぱっちりとした二重。煌めく瞳。定規を当てて描いたようなすらっとした鼻筋。なんて可愛い顔をしているんだろう。
私は思わず、顔を寄せてしまう。半分だけ開かれた優樹ちゃんの唇。色っぽく実った厚い唇だ。
「やっさん、女の子のことが好きなんですか？」
「えっ」
「まさ、知ってますよ。みにしげさんとやっさんのこと」
息が詰まる。鼓動の音が鼓膜の辺りで聞こえる。背筋に冷や汗が流れる。
なんで優樹ちゃんがそんなことを知っているんだ。フクちゃんだって知らないはずなのに……道重さんがあえて優樹ちゃんに私との関係を話すはずもない。
「別にまさはそういうこと気にしないですよ。そんなことでみにしげさんややっさんのこと嫌いになったりもしないです」
「気にしない、って……」
「まさもやっさんとなら、別にいいですよ」
涼しい顔をして、優樹ちゃんはそんなことを言う。私の頭は展開についていけず、ただただ自分の鼓動がうるさい。
「でも、やっさん。いま、別に好きな人がいるんじゃないですか？」
「なんでそんなこと……」
「だって、やっさん、みにしげさんと喋りにくそうにしてるから」
その言葉を聞いて、私はどうしてかすべてのことに納得がいってしまった。私はやはりまだ佐藤優樹という人間のことをちゃんとは理解できていない。彼女は、天然で天才なのだ。
言語能力が乏しく、喋り方が幼いだけで、彼女の感性は猫の髭のように鋭敏だし、頭で考えるよりも先に、そこにあるものが何であるのかを感じてわかってしまうのだろう。
「東京で好きな人ができたんですか？」
私は相変わらず優樹ちゃんの上に覆いかぶさったまま、「そうだよ」と答える。
「今度はちゃんと男の人のことを好きになれた」
「安心しましたか？」
「そうだね。でも、それも結局ダメになりそう」
「ダメっていうのは、もうその人のことが好きじゃなくなったってことですか？」
私は反射的に首を横に振る。でも、私は本当にまだ亀井さんのことが好きなのだろうか。
「わかんない。道重さんからね、その人の話を聞いたんだ。どうやら、私が好きになった人は、むかし道重さんが好きだった人みたい。道重さんが高校生の頃のこと」
「そのことが何かやっさんに関係あるんですか？」
「関係ないと言えば、関係ない。でも、まだ道重さんには言ってないけど、その人はまだ道重さんのことが好きかもしれない」
「やっさんはそう思ってる」
「そう」
私は溜息を吐いて、身体を起こした。元の位置に座り直し、優樹ちゃんも後に続いて起き上がって来る様子を見つめる。
「ずるいよね。そういう大事なこと言わないで、隠しておくなんて」
「まさもみにしげさんに内緒にしてることありますよ」
「それは大事なこと？」
「やっさんにも言いづらいですけど、まさは、やっさんの他にもみにしげさんのこと好きな女の人知ってるんです」
「女の人？」
「まさのメイクとか髪の毛とかやってくれるスタイリストさんが、たまたまみにしげさんのこと知ってて。ちゃんと聞いたわけじゃないんですけど、絶対みにしげさんのこと好きだと思います。たなさたん、っていうんですけど……」
「たなさたん？」
兎
リホリホは、絵里のことを好きだと言った。
好きだ、と宣言するくらいだから、もちろんまだ2人が特別な関係にはあるはずがない。
そして、いくら相手があの可愛らしいリホリホだからと言って、絵里がリホリホのことを好きになるとは考えにくかった。
窓の外はすっかり暗くなっていて、いつの間にか雨が降り始めていた。風も吹いているようだった。
こんな天気のせいなのか、やけに心が寂しい。
心の中にはいくつか部屋があって、几帳面な私はその１つひとつの扉にきちんと鍵をかけて閉めている。それぞれの部屋の中には、私の記憶が眠っている。
早く捨ててしまいたいけれど、捨てることのできない不燃ゴミみたいな記憶をそこに入れているのだけれど、どうしてかそういう記憶はたまに取り出して手に取ってみたくなる。
まるで小さい頃に遊んでいた着せ替え人形を、大掛かりな掃除のときに見つけてつい手に取ってしまうみたいに。
私はあの17歳の頃の記憶をずっと意図的に心の角部屋の中に閉じ込めて来た。部屋の鍵は机の引き出しの一番奥に押し込めて。
私の心の暗い廊下には、時折その部屋から明るい光が零れ落ちて来て、いやでもその部屋の存在を思い出さずにはいられなかったけれど、
そんなのは大学時代の最初の数年くらいのもので、気がつけば大学も卒業し、働き始め、転職だって1回経験しているし、最近ではほとんどその部屋の存在を意識することはなくなっていた。
もちろん、廊下の角にはその部屋が存在しているということはずっと頭の中にあったけれど。
しかし、それにしたって少なくともその部屋の中の様子をあえて思い浮かべるようなことはもうほとんどしていなかった。
そういうのは人間として、特に人間の女として至極当然のことだったし、何だったら女の割には長くその記憶に苦しめられてきた方だと思う。
もちろん、今でだって絵里のことは好きだし、絵里と再会してやり直すことができたら素敵だとも思う。
都合の良いことに、私はあれ以降「男」とは交際してこなかったし、だから私の心はずっと絵里のために取っておくことができた。
もし別の男と交際していたら、絵里のことはきっぱりと忘れられていたかもしれない。他の女と同じように。生憎、私にはそんなことは起こらなかったけれど。
だから、私は不思議なのだけど、どうして今更こんなにも寂しいのだろう。
リホリホが絵里のことを思い出させたから？ もちろんそれもある。
けれど、リホリホは「道重さんの心の奥には、亀井さんがいる部屋があるんですよね」と聞いてきただけに過ぎない。
そこで私は「あぁ、そんな部屋もあったね」とだけ言って、しばらく掃除してないなぁ、なんてちょっとした罪悪感に駆られるくらいにしておけば良かったのだろう。
でも、頭の悪い私は、リホリホに黴臭い昔話を聴かせるために、部屋の鍵を開けてしまった。部屋の鍵を開けて、そこにあったものをまた手に取ってしまった。
けれども、手に取ったものはすべて薄汚れていて埃まみれで、まさに幼い頃の着せ替え人形を見つけたときのような、そんな心持にさせられてしまった。
部屋の中にあるのは、もはやそういった冷たくなった過去の感情だけで、その部屋の中には絵里もれいなも誰もいなかった。部屋の暗い窓ガラスにはひとりきりの私が映っているだけだった。
リホリホもいなくなった現実の8畳間で、私は目を瞑る。まだ6時を回ったばかりだけど、やけに眠かった。そして、何もする気が起きない。
あぁ、しかも明日は仕事だ。
ベッドに寝転がり、布団を首元まで引き上げる。たったそれだけが、私に残された最後の力だった。自分の呼吸音さえ聞こえないけれど、私はまだちゃんと生きているのだろうか。
雨降るアパート前の通りを車が走り抜けていく。水溜まりを踏む音。意識のちょうど皮下組織で、隙間風がうなる音が聞こえたような気がした。
あぁ、お腹減ったな。
亀
夏の気配も薄れ、すっかり街は秋色。年々秋は短くなっていくが、この調子だとこれから生まれてくる子供たちは、春と秋という存在を知らずに大人になっていくかもしれない。
と、そんな季節のことをあえて考えているのは、きっと気持ちを落ち着かせるためだろう。
僕は終電間際の電車に揺られながら、今日のバイト終わりの出来事について考えまいとしている自分がいることを否定できない。
とは言え、いつまでもこんなことを放っておくわけにもいかない。
僕にとっては、意表を突かれ、どうにも手を付けることすら憚られるような手に余る一件だったけれど、彼女にとってはきっととても大切なことだ。
そんなことわかっているくせに、こうやって季節のことなんて考えているのだから、僕はまったく以って薄情なやつだ。
高校生、いや中学生の頃から何も進歩しちゃいない。むしろ、中学生の頃と比べたら退化していると言ってもいいくらいだ。
しかし、こういうことがこれまでも全くなかったというわけではない。色々なアルバイトを転々としているが、そこで様々な女性からこれまで言い寄られてきた。
不思議と僕は彼女たちに対して何も愛着を持てなかった。それは僕が仕事での付き合いとしてしか彼女たちを見られなかったからだろう。
僕はそれほど仕事に真面目という性格ではないと自分では思っているが、浮ついた感情を仕事場に持ち込まれることが苦手だった。
僕がずっと定職に就かないのは、職場での馴れ合いみたいなのがあまり好きではないからかもしれない。いや、もちろんそんな仕様もない理由が通るはずもないが。
アルバイトであれば、与えられたタスクを与えられた権限の中で、効率良く処理していくだけでいい。大きな判断や信念というのも必要とされない。
僕は大きな責任を負う必要もないし、ただ手の届く範囲内で細やかな判断を積み重ね、目の前のタスクを終わらせるだけだ。
さて、そんな僕のフリーター観について改めて考え直している場合でもないか。
これまでと同じように、6つも年下の女の子に告白をされてしまった。
彼女のことは「好きでも嫌いでもないねぇ」なんて、ナンバーガールのMCみたいな言葉が頭を過るけれど、どうしてか今回の彼女だけはそう簡単に捨て置くこともできなそうだ。
彼女はあの道重さゆみと接点があるそうだ。いったいどういう接点なのか。
かつての道重さゆみと田中れいなの関係性を思えばこそ、あまり深く追求したくはないけれど、まぁ、彼女は道重さゆみにそれなりに恩のようなものを感じているようだし、それならそれで良いではないか。
ともかく重要な点は、僕に愛の告白をしてきた鞘師という女の子が、道重さゆみを慕っているという事実だ。
いったいこの事実に対して、僕はどういう対処をしたら良いのだろう。
ずっとアルバイトで食いつないできた僕にとって、これほどに大きな問題は、つまり大きな判断はまさに手に余るタスクと言えた。
僕の対処できる範疇を優に超えている。しかしながら、今回の件についても幸いなことに僕は判断というものをする必要はないのだ。
なぜならば結論は何よりもはっきりしていたし、だからこそそこには僕があえてしなければならない「判断」なんてものは存在しない。僕は自明の結論について彼女にそのまま伝えてやれば良い。
僕は彼女と男女交際するつもりはない。
それは何よりもはっきりしている事実だった。
その理由について問われると僕は困ってしまうが、しかし、名目上の理由ならいくらでも付けることができそうだ。
例えば、先に説明したように、僕の仕事観……いや、アルバイト観のようなものを理由として表明することもできよう。
「悪いけど、僕は職場恋愛はしない主義なんだ」
そう言えば良い。
しかしながら、まぁ、彼女の熱量にもよるけれど、僕がそんなことを言えば、「じゃあ、私がこのバイトを辞める」なんてことを言い出すかもしれない。
少しくらい頭の切れる子であれば、「どっちにしてもフラれたらこのバイトは続け辛くなるし、辞める覚悟で告白したのよ」なんて横暴なロジックを準備している可能性だってある。
では、この場合、この理由は適当ではない。
じゃあ、次に僕が表明できる理由は何だろう。
「年齢が違い過ぎる。僕と君は6つも歳が離れているよ」
あぁ、もうこの段階で、この理由はあまり効果が無いように思えてしまう。
「じゃあ、何歳からならいいの？ 3歳？ それは学年として3年ってこと？ それともあなたの誕生日から起算して？ あるいは年号だから、早生まれはOKみたいなこと？
ちなみに私は未熟児として生まれたんだけれど、その場合は私が母の子宮から取り上げられた日から考えればいいのかしら、それとも病室から出た日から考えるべき？」
そんな話をされたら中学までしか出ていない僕の頭はこんがらがってしまって、不本意ながら「わかった、いいよ。付き合おう」なんてことを口走ってしまうかもしれない。
そうして、僕はまた1人の女の子を不幸にしてしまうのだ。
だから、年齢を持ち出すのはやめよう。
そもそも「サバを読んでいたの。あなたはてっきり若ければ若いほど良いって考え方の人だと思っていたものだから」なんてことを言われてしまったら僕にはもはやどうすることもできない。
ならば、いっそのこと「タイプじゃないんだ。僕は君に惹かれていない」とはっきりと言ってやれば良いか。
「じゃあ、あなたはどんな子がタイプなの？」
「物分かりが良い子かな」
「ふうん、私は物分かりが悪いってわけね」
「わかったよ。外見の好みの問題なんだ。こればっかりはどうしようもない」
「整形という手だってあるわよ」
「僕は整形という行為が好きになれないんだ。何かを偽っているような気がするからね」
「あら、じゃあ、あなたは化粧している女性は嫌いなのね。そうなると、あなたが好きになれるのはこの世の女性のうち、女子小学生くらいしかいないんじゃないかしら」
さて、僕はいったい何と言って彼女の申し出を断ればよいのだろう。
そんなことを考えているうちに電車は僕の家の最寄り駅までたどり着いてしまう。僕は重い腰を上げて、ほかの数人の乗客とともに列車から降りる。
一日中同じところを回り続けるエスカレーターに対し「ご苦労様」と肩に手を置き、前のサラリーマンの皺のついたジャケットの裾を見つめ、自分が今こうして立ち尽くしている無意味について漠然と想いを馳せる。
ただ立ち尽くしているだけなのに、何秒後かには僕は別の場所に運ばれていて、また自分の足で歩きださなければならない。すべての道が動く歩道だったらいいのに。
いつだったか道重さゆみがそんなことを言っていたっけ。彼女ほど「運動」というものが嫌いな人間も珍しい。溜息交じりに僕は口元をほころばせる。
思考をリセットしてセーブポイントまで戻ろう。
とにもかくにも、僕は彼女の申し出を断るための論理上正しいと思われる理由を見つけ出すことはできなそうだ。しかし、得てして現世、うつしよは論理的正確性のみで左右されるわけではない。
ましてや、ここは「曖昧の国、日本国」である。どんな理由であろうと、僕が彼女を拒否する姿勢さえきちんと見せることができれば、彼女は大人しく引き下がってくれるに決まっている。
あの鞘師という子はしっかりとした自分の考えを持っている子ではあるが、それを他人に強要したりするほど不躾な子ではない。きちんと和の国の民的な謙虚さで身を引いてくれるはずだ。
だったら、もはや僕が悩む理由なんてないじゃないか。
その通り。僕もその考えに同意する。なんて言ったって、主張も同意も判決もすべて僕の一人芝居なのだから。
話が逸れるけれど、自分で言うのもなんだが、僕は他人を見る目が意外とある方だと思っている。
だから、あの鞘師という子がどういう考えで、どういう行動を取るのかということは手に取るようにわかる。
これはあの鞘師という子に限った話ではなく、普通に一緒に仕事をしている相手ならだいたいのことが僕にはわかってしまう。
「だいたいわかってる」なんて言葉を使うと、どうしてもあの愛おしい田中れいなのことを思い出してしまうが。
これは僕が色々なアルバイトを転々として、色々な人と一緒に仕事をして、色々な客の対応をしてきた中で培われた「能力」と言っても良いかもしれない。
だからまぁ、鞘師が僕に愛の告白をしてきたというのも、ある程度予測できることではあった。
あの子にしてはやや性急すぎる、積極的過ぎるという気もしたけれど、人間というものはどこでどんな「きっかけ」を拾ってくるかわからない生き物なのだ。
きっとあの子の身の回りで、急ぎ足で僕に告白しなければならない理由でもできたのだろう。
「誤差の範疇」という言葉よりは、あくまで「確率的に十分起こり得ることだった」と言った方が正しい。もともとが確率的挙動を示す量子の集合体なのだ。
我々物質世界の住民はいくらその体が巨視的な視野に立とうとも、その根源的性質を払い除けることはできないのだと僕は考えている。
だから僕は僕がいま置かれてしまっているこの状況に対して驚いてなどいない。というか驚くべきではないはずなのだが……しかし、1点だけ解せないことがある。
ある意味では、彼女が僕に対して愛の告白をしてきたことよりも、この1点こそが僕の混乱の種であり、すべてと言えよう。
僕が返答を先送りにさせてほしい旨を彼女に伝えると、まるで彼女は何かの取引上の代償を求めるように、僕に1枚のコンサートチケットを手渡して来た。
「とにかくこのライブに一緒に来てください。1か月半も先だから、まだ予定の都合はつけられますよね。返事はそのときで大丈夫ですから、とにかくライブ、お願いします」
彼女は2回も「とにかく」という言葉を使った。「とにかく」という言葉は「兎にも角にも」の略語であり、仏教語の「兎角亀毛」から考えられたとされている。
兎角亀毛……兎に角はなく、亀に毛はない。つまり、現実にはあり得ないことの喩えらしいが、どうしてそんな言葉が「いろいろな事情はさておいて」なんて意味になったのだろう。
色々と可能性の話についておっしゃいましたが、そんなものは兎に角が無く、亀に毛が無いように現実にはあり得ないことでございます。つまり、兎にも角にも……という具合に、話を先に進めさせていただきたく存じます。
はい。その通りでございます。話を先に進めてくださいませ。
鞘
季節は初冬。すっかり寒くなって、これからまだ寒くなるのだと考えるだけで気が滅入ってくる。
私はこの冬の寒さに耐えられるのか。生きて春を迎えることができるのか。
ついついそんなことを考えてしまうけれど、なんだかんだ言いながら毎年何とかなっているのだから、今さらそんなことを心配する必要もないか。
そこまでがワンセットのルーティーンになっていて、ある意味ではそれが最初の冬支度の儀式とも言えた。
私はマフラーに口元までうずめながら、ひと気のないキャンパス内を足早に歩いていた。どうしてひと気がないのか。それは私が今日も今日とて遅刻をかましているからである。
どれだけ頑張っても私の遅刻癖は治らない。特に寒い季節ならなおさら。ダメだなぁ。こんなんじゃ就職もできたもんじゃないよ。
いくらそう思っても、温かい布団が蔓となって私を縛って離さないのだ。私を責めるのはお門違い。
そこまで言うのなら、あの魔の布団をどうにかしてみなさいよ。それこそあなたの研究している、人間行動学みたいなものを駆使して。
私はそんなことを考えながら、「いやいや、これは失敬。不承不承」という険しい表情を作って、講義室へと入場を果たす。教授だけではなく、退屈を持て余した学生たちの視線も私に注がれることとなる。
なんで前にしか出入り口のない講義室を使うんだよ！
見当違いの怒りを胸に、席に着く。当然ながら後ろの席は埋まっているから、一番前の席に座るよりほかない。
教授、そんなに睨まないでください。私だって後ろの目立たない席に引っ込みたいと心から思っているんですから。
退屈な講義の時間。どうして私はいまこんなところにいて、こんなことをしているのだろう。
道重さんもこんな風に大学時代を過ごしたのだろうか。いや、道重さんのことだから、要領よく必要最低限だけの出席日数を稼いで、あとは自分の好きなように時間を使ったはずだ。
私みたいにとりあえず、遅刻をしてでも何とか授業に足を運んで退屈をむさぼり、そしてテスト前になれば、慌てて勉強を始めるなんて非効率的なこと道重さんがするはずもない。
道重さんが今の私を見たら、いったいどんなことを思うだろうか。きっと呆れてしまうに違いない。
最近、また道重さんと話す機会があって、そのときに道重さんは自分の大学時代を思い返してこんなことを言っていた。
「あんまり大学時代の記憶ってないな。ただただ毎日を消費するだけだったように思う。まぁ、今でもあんまりそれは変わらないんだけどね。
前も話したと思うけど、さゆみは本当に疲れていたの。高校時代にあまりにも色んなことがあって、そのせいでもう指一本も動かせないような、そんな感じ。
見える景色も全部モノクロに見えたし……なんて、流行りのラブソングみたいなことを、どこまでも無感動な心の中でぼんやりと唱えているような……本当に何も目的だとか意志だとかそういうのがまるでなかった。
日々はただ通り過ぎて行くだけのものだったの。気がつけば公務員試験を受けて、大学も卒業してた。それはそれで面白味もあることだと思うの。
意外とね、人間ってのは生きようと思わなくても生きていけるものなんだ、って。自慢でもないし、全然嬉しくもなんともないんだけど、『あぁ、さゆみって意外と器用なんだな』みたいなことを思ったりもしたな。
だって、何の意志もないのに、気がついたら公務員になってたんだから。さゆみのこと羨ましがる大学の同期もいたけど、それもなんだか面白かったな。
さゆみのいったい何を羨んでいるんだろう、って。無気力に生きることがどれだけ辛いかなんてきっと知らないんだろうな。
希望がどこにもないことがどれだけ寂しいことなのかなんて考えたこともないんだろうな。
あぁ、でも、心配しないでね、リホリホ。別にさゆみは死にたいだとかそういうことは思ってないから。そういう負の考えに捕らわれることすらできないほど、疲れていたの、さゆみは。
だから、リホリホが頑張って東京で一人で大学生してたり、フクちゃんが綺麗な女子大生になっていたり、まーちゃんがとんでもないことになってたりするのを見るとね、とても嬉しくなるの。
なんていうか、さゆみの分まで大学生してるなー、生きてるなーって。さゆみは自分でそういう経験ができなかったけど、さゆみが大好きな皆を見ていると、なんて言うか疑似的にそういう経験ができているような気がするの。
不思議だよね。だからさ、色々と思うようにいかないこともあるだろうけど、挫けそうになることもあるだろうけど、精一杯頑張ってほしいの。
さゆみはそれこそ挫けることすらできなかったわけだから」
どれくらい本気で道重さんがそんなことを言っているのかわからないし、当時大学生の道重さんが感じていたものの恐ろしさを私はきちんと理解もできないけれど、
それでも道重さんが手放しで私たちの人生を応援してくれていることはよくわかる。そういうのが一つあると確信できるだけでも、随分と人は救われるのだということも。
講義は何も面白くないし、恥をかくことも多いけど、それでもきっとこんな私のどうしようもない大学生活だって、道重さんは愛してくれるだろう。だから、私は私なりにきちんと大学生活を全うしなきゃ。
そんな風にして自分を慰めながら、私は講義室の１番前の席で眠ってしまう。教授に睨まれながら。
ほんとうにどうしようもない人間だな……
兎
フクちゃんに初めて会ったのは、私が大学生でフクちゃんが中学生の時だ。
お金のために個別指導塾講師のアルバイトを始めて、ようやく仕事に慣れた頃に私が担当したのが女子中学生フクちゃんだった。
彼女はとても上品な家……もっと端的に言うのならば、経済的な豊かさのある家庭の娘だった。
中学生にもなってアンパンマンが好きだとか、女性アイドルが好きだとか、エレベーターの押し釦が好きだとか、お嬢様には似つかわしくない変わった趣味も色々とあったけれど、
ざっくり言って彼女は素直で物分かりが良く、教え子としては理想的な子と言えた。
しかしながら、そんなフクちゃんに私は振り回されてしまうことになる。いや、「フクちゃんに」と言うよりは、「フクちゃんの家庭に」という言葉の方が正確だろう。
ある日、私がいつものように個別ブースの中でフクちゃんに勉強を教えていると、彼女はほんの少し辺りを憚るような雰囲気で私に喋りかけてきた。
「先生、ちょっと良いですか？」
「うん、なに？」
「あの……急なんですけど、先生は家庭教師とか興味ありますか？」
「え、家庭教師？」
「いや、その、たぶん塾的にはルール違反だと思うんですけど、先生さえ良ければ私の家庭教師になってもらえたらって……」
「つまり、こうやって塾で勉強を教えるんじゃなくて、フクちゃんのお家で勉強を教えるってこと？」
私は自分でそんなことを聞き返しながらも、急に不安になって周りを見渡す。
ブースを区切るパーテーションのせいであまり状況はつかめなかったけれど、今日はたしか人が少なかったことを思い出す。おそらく講師は私を入れて3人。
互いが互いに気を遣い合って、できるだけ距離が離れるようにブースを確保しているはずだった。
フクちゃんは「どこまで直接的な言葉を使うべきか」ということで女子中学生なりに頭を悩ませているみたいだったが、私はおおよその話の展開を推測することができた。
「その、具体的なお金のこととかはパパと話してもらってって感じなんですけど……」
そう言って、フクちゃんは電話番号の書かれたメモを私に渡して来た。カムフラージュのつもりなのか、そのメモは女子中学生がよく手紙交換で使うような形に可愛らしく折られていた。
労働契約の交渉連絡先という実務的機能とそのファンシーな外見のミスマッチが少しだけ不気味に見える。
こういう話は「あるある〜」とまではいかないけれど、たまにあることはあるらしい。つまり、塾に勤めている講師は、実際の授業料の半分以下も貰うことができない。
塾の運営にお金がかかるため、生徒の保護者は実際に授業を教える講師にお金を払うというよりも、その塾のシステムに対してお金を払っているのだ。
それを無駄だと考える人間がたまに、いま私がされているような提案を持ちかけてくることがあるそうだ。
そして、余計なトラブルを回避するためにアルバイトの塾講師はそういう申し出を受けてはならないルールになっている。
しかし、保護者からのそういった申し出はアルバイトの塾講師にとってはかなり美味しい話になる。
具体的な金額の話になるけれど、生徒の保護者が月謝という形で月に2万円支払っていたとする。これを月4回の授業料と考えると、1回あたり5千円の出費だ。
対して、アルバイトの塾講師に会社から支払われるお金は1回あたり多く見積もっても1〜2千円程度となる。
これを仮に個人的な家庭教師として直接雇うことになる場合、例えば1回3千円という契約にすれば、これによって保護者側もアルバイト側もWin-Winの状況が生み出される。
損をするのは……というか、収入が減るのは塾を経営する会社側であり、当事者間には利益しかない。
もちろん、塾に属することで色々とメリットはある。受験の情報、授業のノウハウ、ほかテキストや自習スペースなど諸々の付加価値は、生徒側にも講師側にも存在している。
が、上手くやればそれらの付加価値は自らの工夫で損なわずに済ませることだってできる部分も大きい。
例えば、週に1回の授業を塾で契約しておき、追加の分は個人的な家庭教師スタイルで行えば、塾に籍を置き、その恩恵を受けながらも安上がりに済ませることができるし、単発で授業のスケジュールも組むことができるため非常に効率的と言える。まぁ、そういった事態を想定して、塾側も週2回目からの授業料はかなり安く設定していることが多いが。
と、かなり細々とした塾講師アルバイトの裏話をしたけれど、最終的にその後の直接の交渉によって、フクちゃんは塾を辞めることとなり、私は私で塾に籍を残しながらも、秘密裏にフクちゃんの家庭教師を務めることとなった。
そして、さすがは経済的に恵まれた家の一人娘というだけあって、塾に払っていた授業料と同額で譜久村家は私を雇ってくれることになった。
交通費はそこから自分で支払うよう言われたが、それを差し引いても私の時間あたりの稼ぎは倍以上になった。
「ほら、塾だと帰りが遅くなるでしょう。もちろん、帰りは塾に迎えに行きますし、ミズキも私たちに嘘をついて塾をサボるようなことはしないと信じていますが、
それでもやはり一人娘が遅くまで家の外にいるというのは気掛かりなものです。最初から家庭教師というのも考えてはいたんですが、
こちらの塾であれば何人か色々な講師の方と授業を行ったうえで担当を決めさせていただけるということでしたから。
できることならミズキが好きになった先生に教えていただいた方が良いでしょう？ で、素敵な先生が見つかったので、だったら最初の私の希望通り、ウチで教えていただければと思ったわけですよ」
父親に溺愛されているお嬢様は、「パパは大袈裟だから」と困ったような顔をしていたけれど、「でも、道重先生を独り占めできるみたいで、悪くはないよね」とそんな可愛らしいことを言ってくれた。
そうして私はお嬢様住まう瀟洒な邸宅でそのお嬢にお勉強を教え、たわいもない話をし、美味しいお菓子と紅茶、それからたまには夕食、いや晩餐をご馳走になった。
高貴なお家で高貴なお食事を頂いていると、自分までその高貴な一族の一員になったみたいでなかなか面白かったのを覚えている。
もちろん、ペルシャ絨毯が敷かれた馬鹿でかいリビングに20人も並んで腰かけられそうなこれもまた馬鹿でかいテーブルがあって、その中央にはキャンドルが……みたいな、とんでもない豪邸というわけではない。
ただ、テーブルは私を入れて6人が囲ってもまだ広々としていたし、壁を覆いつくさんばかりのでかいテレビは食事中には消されていたし、食後には必ずフルーツかスイーツのデザートが優しそうなお母さんの手で運ばれてきた。
フクちゃんの弟は好物が出て来ると「やった！」と無邪気に喜び、私と同い年だという兄は甘いのが苦手なのか「ミズキ、やるよ」とデザートをフクちゃんに渡し、フクちゃんはフクちゃんで「わーい、ありがとう！」とこれまた無邪気に喜ぶ。
そんな様子を見ていると、私までその美しい家庭の一部になれたような気がして、幸福感を感じることもできた。
しかし、絵に描いたような素晴らしい家庭に、私のような薄汚れた人間が入り込んでいることに対して時々申し訳なく感じることもあった。
たまたま私はこの愛らしい女子中学生に見初められて、こんな温かい場所にいることができるけれど、言ってしまえば私は卑しい家の出の小娘だ。
未だ辛酸を舐めているであろう親兄弟（つまるところ、それは私にとっては絵里やれいなのことなのだけれど）を想うと、少し胸が痛んだ。
そして、当然ながらそんな汚らしい痛みを感じている人間がこの温かい空間に紛れ込んでいること自体、フクちゃんの家庭に迷惑をかけているようで気が引けた。
とは言うものの、私は自分の根に染みついた「良い子ぶりっ子」が抜けないせいで、無意識ながらもこの家庭に徐々に馴染んでいき、存在を認められるようになっていった。
そんなとある日のこれもまた晩餐会の場で、私はまたフクちゃんのパパからとある提案を受けることになった。
「道重先生。今度、こいつ（そう言ってパパはフクちゃんの兄を指さす）が何やらよくわからない会社を作るらしいんですが、そこで働いてみませんか？」
私はフクちゃんのお兄さんの方をちらっと見やる。たしか彼はまだ大学生のはずだったけれど……
「よくわかんないなら口出すなよ」そう言って、兄は照れたようにかぶりを振る。
「まぁ、簡単に言うとイベントをプロデュースするようなことをしたくて。例えば、夏に大学でミスコンを開くとします。そういう人が集まる場所に、流行りのアイスショップを誘致するんです。
そして、紹介料として稼ぎの一部を頂く。と、そんな感じの会社です。
まぁ、ミスコンみたいな学生が手作りで行う文化祭みたいな場所ではなかなか難しいですけど、それでも大学生ってのは何かとイベントみたいなものが好きですからね。
この間もクラブを貸し切って10サークル合同の飲み会を取り仕切ったんですが、先輩の勤めている会社を誘致したらそれなりにお小遣いを貰えたんで、これは、と思ったわけです」
兄は私の方を見ながらそうプレゼンを行った。クラブを貸し切って10サークル合同の飲み会……とても私の大学生活からでは想像ができなかったが、
目の前のこの大人しそうなフクちゃんのお兄様がそれを取り仕切っているのも上手く想像ができなかった。
「お兄ちゃん、別にチャラい訳じゃないのに、ミズキも不思議なんです」
可愛い妹がそう弁解し、父母ともに頷いているのを見ると、「裏じゃどんな顔をしているのかわかったものじゃない」という疑念は飲み込むよりほかなかった。
しかし、実際問題としてフクちゃんの兄に裏で浮ついたところがあるにせよ、ないにせよ、こうして家庭ではきちんと真面目な好青年の役割をこなしている。
それと同時に、面倒ごとを快く引き受け、それをそつなくこなせてしまう才覚のようなものも彼からは感じることができた。
顔や喋り方は全然違ったが、そういった感じがどこか絵里を思い出させ、私はつい「考えてみます」と答えてしまっていた。
「あの、ほんとに気が向いたらで良いんで」フクちゃんの兄は申し訳なさそうに何度も頭を下げながら言う。
「ただ、ミズキから聞いていると道重先生は要領も良いし、真面目そうだから一緒に手伝ってもらえると非常に心強いと思ってるんです。
それにこうやってお話ししていても、言い方はあまり良くないかもですけど、愛想も良いし……色々な人に会って信頼してもらうところから始まる仕事ですから、そういうのも大切だと思っているんです。
あ、ただ稼げるかどうかは本当にわからないんで、文化祭実行委員に立候補するぐらいの気持ちだとありがたいです。父は『働く』と言っていましたけど、『働く』というよりは『ちょっと面白そうだし、やってみるか』みたいな感じで……」
そのようにして、その日の晩餐会は終わり、毎度ありがたいことに私はフクちゃんとお母さんに駅まで車で送ってもらい、電車で帰る。
譜久村家で温かい食卓を囲んでいるときはどんなことでも前向きに考えられるが、こうして1人になるとどうしても捻くれた私が顔を覗かせる。
金にならない面倒ごとを引き受けて何になる？
会社を作る、なんてカッコつけてるだけで、私を含めて複数の女と関係を持ちたいだけなんじゃないか？
そんな人間を家族全員で信頼してるんだから、これはもうどうしようもないんじゃ？
いっそのこと家庭教師からも身を引かせてもらうべきでは？
と、そんないい加減な批判が頭の中で渦巻く。そして、一通りの悪態が頭の中で渦巻いた後で、そんな風に考えてしまうことに自己嫌悪してしまい、嫌な気分でシャワーを浴び、嫌な気分で眠りにつく。
翌朝、目が覚めてカーテンを開ける。美しい青空が広がっている。そして、ふと思う。
いつまでも高校の頃の思い出に囚われていても仕方ないじゃないか。そう、いつだって私は何か新しいことが始まるきっかけを心の底では望んでいたはずだ。そのチャンスが目の前にあるんだ。
具体的にそれがお金になるか、とか、自分のやりたいことかどうか、なんてことはどうだっていい。まずは「始める」んだ。「始めて」、「変わる」。それこそが私が唯一望んでいることなんだ。
私は心を決めて、そうして次のフクちゃんの授業がある日までをとても前向きな心持で過ごした。
大学の授業が終わり、私はその足で譜久村家へと向かう電車に乗る。帰りは車で送ってもらえるのだが、行きはどうしても歩きになる。
とは言え、別に駅からそう遠いわけでもなく、歩いて10分というところ。少なくとも陽が長いうちは車でのお迎えはないだろう。
なぜならば送ってくれる名目というのも「夜道は危ないから」だった。こんな私でもそうやって気にかけてくれる相手がいるというのは嬉しいものだ。たとえそれが儀礼的に為された気づかいであっても。
この世界の全ての道が動く歩道になればいいのに、と私はそんなことを考えながら譜久村家までの道程を歩く。
電車の兼ね合いで、余裕を持って譜久村家まで行こうと思うと、授業開始の30分前に着いてしまう。
最初の内は高級住宅街の街並みを散策することが面白く、色々と歩き回って時間を潰していたが、それにも飽きると譜久村家の裏手にある公園で時間を潰すようになっていった。
ときどき可愛らしい子供たちが遊んでおり、それを見ているだけで心が癒された。
今日も今日とてその公園で時間を潰していると、1人の小学生女児が声をかけてきた。小学5，6年生というくらいか。
彼女は2，3歳離れた妹と花を摘んでいたようで、無邪気にも自分が摘んだ花の名前を知りたかったようだ。
「ごめんね、お姉さんも知らないなぁ」
「大人なのに知らないの？」
「大人じゃないよ。これでもまだ14歳だよ」
「うっそだー。20歳くらいでしょ」
勘のいいガキは……という定型文が頭を過ったけれど、私は笑顔を崩さず、「ところでお名前は？」と話題を変えてみた。
「知らない人に名前を教えちゃダメだって。あ、お喋りするのもダメって言われたから」
「いや、あんたが先に話しかけてきたんでしょ」
「…………」
「……私はさゆみお姉さんって言うの。これでもう知らない人じゃないでしょ？ あなたのお名前は？」
「さとうまさきこと、佐藤優樹です！」
「どこでそんなアイドルみたいな自己紹介の仕方を勉強したの？ そして、使い方も間違ってるし」
「？？」
ここまで会話の成り立たない相手と喋るのもなかなか珍しい。
が、ころころと表情を変えて、わけのわからない言葉を喋る彼女のことをとても可愛らしく思ってしまう。
すっと定規を当てて作ったみたいな鼻筋は美しく、ぱっちりとした目はまるで世界を照らしているように見えた。
これが私と佐藤優樹ことまーちゃん……いや、私も使い方を間違えてしまった。そう、まーちゃんこと佐藤優樹との出会いだった。
彼女は初対面の女性に年齢を聞くという失礼を通り越して、初対面の女性の年齢を言い当てるという珍しい失礼を働いたけれど、いま思えばこのときからまーちゃんには何らかの不可思議な能力があった。
彼女は明らかに公園の管理者が栽培していると思しき黄色い花を摘んで、私に渡して来た。
公園のものを摘んじゃダメだよ、と注意した方が良かろうかと悩んでいると、彼女は「ヒペ、ヒペ……」と花の名前を示す看板を読むのに苦労しているようだったので、「ヒペリカム」と私はその名前を読んであげた。
小学生高学年にもなってカタカナも読めないのか……私は自分の教え子じゃなくて良かったと呆れながらも、無邪気に「ヒパリカメ！」と発音する彼女を愛らしく思いながら腕時計に視線を落とした。
もう、良い時間だった。私は彼女に「お花、ありがとね」とお礼を言って譜久村家へと向かった。
花弁の内側で長く伸びた雄しべが私の歩調に合わせて軽やかに踊る。どこか小学生の通学帽を思わせる懐かしみのある黄色が美しい。
玄関のチャイムを押し、出迎えてくれたフクちゃんに「それ、どうしたんですか」と尋ねられ、私は事の経緯を話した。
授業前のアイドリングとして、ヒペリカムの花言葉を調べて見ると、「悲しみは続かない」というメッセージがその花には込められていた。
フクちゃんは「なんかいい言葉ですね」と顔を綻ばせていたが、私は少し泣きそうになってしまったのを覚えている。
が、しかし、その日は晩餐会にご招待預かることもなく、フクちゃんのお兄さんに会うこともなく、普通に授業をして普通に帰ることになった。
みんなして先週の晩餐会での話をすっかり忘れてしまったみたいだった。私は「じゃ、また来週ね」と笑顔を取り繕って、フクちゃんと別れ、そして宙ぶらりんになった気持ちを抱えて帰りの電車に乗り込む。
鞄の中を広げて見ると、小学生女児から貰った黄色い花はすっかり萎れてしまっていた。
結論から言うと、私は結局フクちゃんの兄と一緒に働くことはなかった。
彼から話を持ち掛けられ、私は気持ちを固めていたにもかかわらず、その申し出から数週間後、彼の方からあの話はなかったことにしてくれ、と断られてしまった。
まるで商店街のくじ引きで２等を当てたのに、何故か既に景品はもう出払っていて、しかも残念賞のポケットティッシュまで貰えなかったような気分だ。
瞬間的な憤りと後に残る落胆。そして、こんな訳のわからない比喩を持ち出さなくてはならないほど、咀嚼しきれない曖昧な感情が胸に渦巻いた。
ある日の授業終わり、譜久村家の廊下で彼とすれ違いざまに、突如としてその断りの話をされることとなった。
フクちゃんは「お兄ちゃん、勝手すぎ！」と怒ってくれたが、「いや、本当に申し訳ないと思ってます。ただ、この仕事のパートナーが急に『やっぱり２人でやろう』と言い出して……道重先生は素晴らしい人だから会うだけでも、と僕も言ったんですが譲らないんです」と彼はつらつらと言い訳を並べ立てるばかりなので、私としても「そんな。謝らないでください」と言うしかなかった。
ただ、私は私で新しい生活に馬鹿みたいに希望を感じちゃってたりしたので、私は少し困らせるつもりで「もしかして、そのパートナーというのはカノジョさんですか？」と冷やかしてみたが、彼は目を丸くして首を横に振る。
「いやいや。カノジョどころか男ですよ。あ、もちろんそっちの気があるというのでもなくてですね。まぁ、この会社立ち上げの案も彼が出してくれたものだったし、
正直に言えばきっかけのイベントも僕が矢面に立っただけで、実務の部分ではほとんど彼が動いてくれていたんです。ですから、彼の意見は尊重せざるを得なくて……」
「それなら仕方ないです」
「僕としては本当に道重先生に手伝ってもらえたらもっと良い会社にできると思っていて。彼にもそう提案して、ついこの間まで賛成もしてくれていたんです。
それで実際に道重先生にオファーしたわけなんですけど、オファーした後になって急に駄々をこねだして。もともとちょっと変わったところがある人だったんですが、今回ばかりは僕も困りました」
「そのパートナーさんは大学の同級生とか……？」
「いや、バイト先の先輩で。歳は僕の一つ上なだけなんですけど、頼れる兄貴分みたいな存在なんです。兄貴分と呼ぶにはちょっと捻くれていて、面倒くさい性格なんですが」
どうしてか私を追い払われる原因となった人物の「良い話」を、私を追い払う張本人から聞かされそうな雰囲気になって来たので、私は「そうですか」とだけ言って澄ました笑顔を作り、フクちゃんを引き連れて階段から降りた。
私が玄関で靴を履いていると、後ろからフクちゃんパパに声を掛けられ、「息子の件、申し訳ない」と頭を下げられた。
私が慌てて「そんな」と両手を振ると、「よくわからないんですが、あいつも珍しく真剣みたいなんで許してやってください」と再び頭を下げられてしまう。
「私も息子も道重先生のことは本当に素晴らしい方だと思っているんです。だから、どうぞこれからもミズキの良い先生でやってください」
「はい。もちろんです。これからもよろしくお願い致します」
そんな言葉をかけてもらえているだけ、私には身に余る幸福というものだ。
事実、私は就活中もフクちゃんの家庭教師を務め上げ、彼女が無事高校に合格するのを見届けてから、私も大学を卒業した。
結局、私の大学生活はその一件の後も何事もなく通り過ぎて行き、アルバイト先の塾のルールを破って、個人家庭教師の仕事をしていたというのが最もエキセントリックな大学時代のエピソードとして残ることになった。
フクちゃんは私にとって良い生徒であり続けたけれど、そのお兄さんとの一件があってからは２人の間には微妙な空気が流れることが多くなったように私は感じていた。
フクちゃんは妹として居心地の悪い部分もあったのだろうけれど、原因の主たる部分は私にある。私は自分が必要以上に落ち込んでいる……思いのほか落ち込んでいることを自覚していた。
もともとやりたいとも思っていなかったことに対して、さてやってみるか、と重い腰を上げたところでそれが破綻してしまっただけのことだ。
言ってみれば、宿題をやろうと思ってたところに母親から「宿題やりなさい」と言われ、やる気が削がれてしまったようなものだ。いや、違うか。
私はそもそも変わるきっかけを探していたのだ。ずっと待っていたと言っても良い。けれど、変わるのは恐ろしい。それでも変化を求めて、恐怖をかなぐり捨て、足を踏み出そうとしたのだ。
そして足を持ち上げた瞬間、目の前の橋が崩れ去った。こんな状況で失望し、落ち込んでしまわない人間などいるだろうか。
しかし、そんな私の中の心のことなんて、私にしかわかりようがない。周りから見れば、応募したアルバイトが店員オーバーとなってしまったのと何ら変わらない。
そんなことで一々、人生がダメになってしまったみたいにへこんでいたら、人生がいくつあったって足りはしない。
けれど、優しく勘の良いフクちゃんは、私が不必要に落ち込んでいることを察知して、気まずいと思ってしまう。
私が彼女を具体的な力を持たないただ女子中学生などと見下さず、自分の感じていることをきちんと伝えてあげれば、フクちゃんにもそれを理解して私を励ますようなこともできたかもしれない。
いや、もちろん見下してなんかいない。ただ、もし私の気持ちをきちんと伝えようということになれば、それは必然的に絵里やれいなのことを喋らなければならなくなる。
けれど、私にはそんなことはできなかった。教育上良くもないし、また私にはまだそれを１つの物語として話すだけの準備はできていなかった。
溺れている最中にその水の冷たさを説明できないのと同じだ。
ただ勘違いして欲しくないのは、私は別にフクちゃんやその家族を恨んだりなどは全く以ってしていないということだ。
私はいわば私自身に失望しているのであり、そこには他人に対する怒りのようなものはもはや微塵もない。私は私の宿命のようなものを呪っているだけなのだ。
人生、そううまくはいかないよね。と苦笑いを浮かべて言ってのけられるくらいにでも、私に強さがあればいいのに、と思う。でも、そんなことすらできないほどに、私は弱い。
そんな私を守ってくれるのは良い子ちゃんぶりっ子の私だけだった。ずっとそうだった。
そう考えると、私はそれでも充分に恵まれている方だと思う。
その一件があって、少し気まずくなったとはいえ、私は毎週のフクちゃんの授業が楽しみだった。
物分かりが良く、育ちも良い彼女と会話をし、そんな彼女を作り上げてくれた家族とたまに食卓を囲めるというのは私に随分とたくさんの幸福を与えてくれた。
それから授業が始まる前の３０分程度の時間。まだ小学生のまーちゃんと無邪気に遊ぶ時間もまた、私を多くの意味で癒してくれた。
一緒になって遊ぶ時間は純粋に楽しいし、彼女が毎週毎週成長していく様には、何か希望の光みたいなものを感じることができた。
まーちゃんが中学に上がり、いつの間にかフクちゃんと親交を深めていたということを私はある日の授業中に聞かされることになる。
「道重先生って、優樹ちゃんに『みにしげさん』って呼ばれているんですか？」とほんの少し小馬鹿にしたような感じで、フクちゃんが聞いてきたときは随分と驚いた。
が、面倒見の良さそうなフクちゃんと、奔放なまーちゃんの組合せというのは、意外としっくり来るものがあり、同時に２人を知る私からしたらその関係性は単純に微笑ましく、
「あの手のかかる後輩が……」とフクちゃん経由で聞かされるまーちゃんのぶっ飛びエピソードは私の１つの楽しみであった。
そのようにして、私は私の中に広がる暗闇と戦いながらも、時にはそういった温かい陽の光を感じ、無味乾燥な大学生活を何とか乗り切ることができた。
高校の頃のあれやこれやというものを吹っ切れたわけではないけれど、それはそれでもういいのかもしれない。私の好きなドラマの中で「辛い記憶をいつか消せるものですか？」と尋ねられた主人公がこう答えていた。
「消せはしないかもしれないけど、うまく閉じ込めておくことはできるようになるかもしれないです」
私の世界は真っ暗だった。でも、そこに２人の光が射し込む。
生み出された光と影の境界線。私は、できるだけその影の方に入らないように、光に身を浸し、疲れた心を癒した。だから私は彼女たちに感謝してもしきれない。
そういったことが私とフクちゃん、それからまーちゃんとの経緯だった。
亀
身支度を整える。流行りには疎い僕だけれど、音楽は好きだ。
あの子がいったい何を持ち出してくるのか想像もつかないけれど、しかし、今日はせっかくの音楽ライブだ。
音楽を楽しもう。変な企みとかなしで、彼女もまた音楽を楽しんでくれることを願う。
鞘
コンサート会場の前には既に多くの人が集まっていた。みんな今晩のライブに期待を膨らませているようで、笑顔を堪え切ることができず、高揚感が辺りを漂っているのがよくわかった。
ここまで緊張しているのは私くらいのものだろう。腕時計に視線を落とす。約束の時間までまだ２０分もある。早く着きすぎてしまった。
大学の授業もバイトも、いつも時間ぎりぎり（前者は時間を過ぎることもしばしばだけれど）で到着する私からしたらこれはなかなかの快挙だ。
けれど、そうなってしまうのも仕方ない。なんて言ったって、今日は亀井さんとのデートなのだ。目一杯のお洒落をしてくるつもりだったけれど、悩み過ぎたせいで少し化粧が適当になってしまった。
「リホリホはちょい薄めくらいが可愛いの」
いつだったか道重さんが言ってくれた言葉を胸に、自信を取り戻そうと試みる。息を吐き出し、笑顔の練習。私、うまく笑えてるかな、なんて。
空はあいにくの曇天。雨は降っていなかったけれど、予報ではこの後で一降りあるらしい。その頃にはきっと私たちはコンサート会場の中で、優樹ちゃんのギターと歌を楽しんでいるのだろうけれど。
分厚い雲の向こうで太陽が高度を落としているのか、徐々に辺りは暗くなっていく。まるで私の不安が空に乗り移っているかのように。
本当であれば、楽しいライブデートになるはずだった。
もちろん、今でも私はそうできるように精一杯頑張るつもりだ。けれど、このライブには色々と意味がある。
これはむしろ私と亀井さんのためというよりも、道重さんと亀井さん、それから私の会ったことのない田中さんのために仕組まれたものと言っても良いかもしれない。
３人を再会させる。それがこのライブにおける目的だった。
私が道重さんから聞いた話によると、３人の間には複雑な事情があったらしく、高校卒業と同時にそれらの関係性は無理やり清算されてしまったようだった。
そのことに対して、少なくとも道重さんは今も苦しんでいる。亀井さんも飄々とした態度を取りながらも、その話をちらっと話してくれた時には何かしら後悔があるような微妙な表情をしていたように思う。
私の勘違いでなければ。そして、これも私の勘違いである可能性も十分にあるけれど、未だに道重さんと亀井さんはお互いのことを想い合っている。
だから、今や私と道重さんは恋敵ということになるけれど、私はその戦いにほとんど負けてしまっている。
１か月半前、私は亀井さんに自分の恋心を告白した。彼は、返事を先送りにしたいと言ったけれど、そんな彼に対して私は無理やり今日のコンサートチケットを渡した。
こんなことは惨めであまり言いたくはないけれど、私には告白する前から彼が良い返事をくれることは正直期待していなかった。
あくまで自分の勘に過ぎなかったけれど、亀井さんは道重さん、あるいは田中さんを除いては誰とも男女交際をしないと決めているように私には思えた。
それだけの覚悟を決めるに足る何らかの出来事があの３人にはあったのだろう。
けれども、そういったことが私が自分の恋心を告白しなくて良いという理由にはならない。
私には私自身の感情を清算する必要があったし、たとえそれが彼を多少なりとも悩ませることになったとしても、自分の気持ちをきちんと知っておいてほしかった。
何なら、私の想いを実感しさえすれば、彼もまた過去を忘れて、１人の人間として自由に、あわよくば私と一緒に生きてくれるのではないか、という淡い期待もあった。
もちろんそんな期待など成就するはずもなかったけれど。
というか、私にも私の本当の気持ちが良くわからないのだけれど、私は確かに亀井さんのことが好きで、最初は道重さんを待たせてでも自分の恋を成就させようという想いがあった。
いや、「待たせても」なんて言葉を使っている時点で、私には私自身の恋を成就させるつもりなってなかったのかもしれない。
亀井さんから道重さんの名前が出て、道重さんから道重さんたちの高校時代の話を聞かされた段階で、私の中の恋心は純粋な色彩を失い、微妙な色合いが混ざってしまったようだった。
私の中には２人を何とかしてあげたい、という想いが芽生えてしまっていた。恋心なんて抜きにしたって、私は亀井さんのような人が好きだったし、道重さんにはずっと親しみと感謝を感じ続けてきた。
そして、その２人を少しでも幸福にできる手段が私の手元にあるのであれば、それを実行しなくてどうするんだ。私はただダンスをするためだけに東京に来たのか。そうじゃないだろう、と自分で答える。
だから、私は亀井さんに告白するときに、１枚のコンサートチケットを持っていった。
もしフラれたら……いや、十中八九フラれるだろうけれど、フラれる女の子の最後の我儘として一緒にライブに行ってもらうのだ。
そして、そのライブを使って、道重さんと亀井さん、そして私自身が会ったことはないけれど、田中さんという３人を再会させる。
道重さんはフクちゃんに誘ってもらう。田中さんは優樹ちゃんが。そして、亀井さんは私が誘う。
優樹ちゃんのソロライブだ。フクちゃんが誘えば、道重さんは何とか都合をつけてくれるだろう。
田中さんは優樹ちゃんのスタイリングを担当している人らしいし、２人はとても仲が良いらしく、優樹ちゃんなら誘うのはそう難しいことじゃないだろう。
というか、今日のライブのスタイリストもやはりその田中さんということなので、確実にこの会場に来ている。
一番難しいと思われた亀井さんを誘うのも、私がフラれることで、良いのか悪いのか彼の優しさに付け込むような形で何とかなりそうだ。亀井さんならドタキャンしたりしないだろう。
いつだってバイト先では、彼はドタキャンする人の割を食って来た。そんな人がドタキャンなんてするはずがない。
私は自分の計画が思いのほかうまく進んでいることに満足感を覚えながらも、「それでも亀井さんにはフラれるのだろうな」ともう何回目かになる溜息をついた。
とは言いながらも、今日こうして大好きな亀井さんとライブデートができるということは純粋に楽しみでもある。
楽しみが６、悲しみが３、優しい気持ちが１。そう思った１０秒後には、楽しみが２、悲しみが４、優しい気持ちが２になる。
私自身、私の気持ちに整理がつけられないまま、亀井さんとの約束の時間を待つ。
１つだけ、今回の事で私は我儘を言わせてもらった。それは、ライブが終わるまでは亀井さんとのライブデートを楽しませてもらうということだった。
亀井さんは有難いことに告白の返事を先延ばしにしてくれた。そして、約束をしたわけではないけれど、おそらくはこのライブが終わった後で正式な返事をくれることだろう。
亀井さんはそういう気づかいのできる人だった。私たちはこのライブが終わるまでは、明確な線引きがなされていない、ただの仕事仲間だ。せめてその関係性にある間だけでも、私は残された幸福を感じていたかった。
ただ、そうなるとそもそもの計画の発端も含めて、私も私の恋心をフクちゃんや優樹ちゃんに打ち明けないわけにはいかない。
それは随分と恥ずかしい想いのすることだったけれど、結果的に私の計画に２人は快く賛同してくれた。
私は自分の気持ちを２人に打ち明けるにあたって、できるだけ道重さんの過去については触れないようにしたけれど、どうやらフクちゃんはフクちゃんで、道重さんに対して何か思うことがあったらしい。
詳しいことは教えてくれなかったし、フクちゃんは「私が責任を感じることなんかじゃないかもしれないんだけど」とそんなことを言って少し悲しげな顔をするので、私としてもあまり深くは追及することができなかった。
よくよく考えてみれば、道重さんとの付き合いは私よりもフクちゃんの方が長いのだ。そして、フクちゃんと道重さんが出会ったときは、まだ道重さんは大学生で、きっと高校時代の傷をより深く引きずっていたはずだ。
であれば、多分２人の間にはうまく言葉にはできないような微妙な出来事があったのだろう。
優樹ちゃんも「たなさたんには前を向いて欲しい」といつもの天真爛漫な感じで言ってくれた。
それから「だいたい、やっさんは失礼ですよ。これはまーちゃんのライブなんです。色々とやるのはライブが終わってからにしてください！」と私は怒られてしまった。
にっこりと笑いながら言う優樹ちゃんを見ると、それは怒っているというよりは、優樹ちゃんなりの気遣いのようなものであることが伝わって来る。
つくづく私は素敵な後輩を持った、と改めて実感させられる。
そういうわけで、私たちの計画はライブ終演後に、優樹ちゃんのもとへ挨拶にいくという形で達成されることになっていた。
久しぶりに地元の恩人とゆっくり話したいということで、スタッフの人たちも一度楽屋から出て行ってもらい、まずは道重さんとフクちゃんの２人を楽屋に招く。私はそれから遅れて合流する。
優樹ちゃんがデビューする時のことで、私はそのマネージャーと知り合いだったし、優樹ちゃんから私と亀井さんを通すように話をつけておいてもらう。
田中さんは優樹ちゃんがそれとなく引き留めておいてくれるということになっていた。
優樹ちゃんの負担が大きい計画だし、あのトンチンカンな優樹ちゃんが上手いこと事を運んでくれるか不安もあったけれど、ここは優樹ちゃんに頼むしかない。
最初は、偶然レストランなどで会わせることも考えたけれど、食事という何だかかしこまった場で再会というのも堅苦しくなりそうだったので、
「じゃあ、まーちゃんの楽屋で再会させましょーよ」という彼女の案を採用させてもらうことにした。
上手くいくのかわからないし、仮にうまく３人が再会したところでそれでどうなるのか、ということも全くわからなかったけれど、それでもとにかくやってみるしかない。こればっかりは練習のできないことなのだ。
段取りを反芻していると向うから亀井さんの姿が見える。
後のことは一旦すべて忘れて、今を楽しもう。亀井さんもきっと、「私とは違う意味で」ということになるのだろうけれど、このライブを楽しむつもりでいるはずだ。
聖
私の隣で道重さんが優樹ちゃんのライブに期待を膨らませ、子供のようにはしゃいでいる。
道重さんは私の中ではずっと「ザ・大人の女性」という感じだったけれど、意外にも子供と遊ぶのが好きだったり、可愛らしいところも沢山ある。
何と言っても、優樹ちゃんが小学生の頃から道重さんは彼女と無邪気に遊んでいたりしたのだ。そんな風に可愛がってきた子のステージで興奮しない方がおかしいというものだろう。
私もずっと後輩として優樹ちゃんを可愛がってきたし、もちろんテンションは上がっている。
けれど、それ以上に不安がまるでこの曇り空のように私の心を覆い尽くしている。電車での移動中も、何度か道重さんから体調を心配されてしまった。
「なんか私の方が緊張しちゃって」と私は言い訳したけれど、もう何度も優樹ちゃんのライブには行っているのだし説得力はない。
「何回行っても慣れないものですね」という言い訳もまた苦しいのを承知しながらも、そう言うよりほかにないのだから仕方ない。
私はあの楽しかった中学時代のことを思い出す。兄が変なことを道重さんに持ちかけるまでは本当にただただ楽しかった。
大好きな道重先生。道重先生が私の部屋で、２人きりの空間で私に優しく勉強を教えてくれる時間を私は毎週々々楽しみにしていた。
私には男兄弟しかいなかったから、本当にお姉ちゃんができたみたいで嬉しかったのだ。塾という環境でなく、自分の家の自室という環境。
ある種の倒錯みたいなものが入っていることは否めないけれど、それでもそういったことが非常に重要で、道重先生が私の家庭教師になってくれてからは、
取り繕いとか無しで正直に話せば、何かぞくぞくしたような嬉しさがそこには生まれたように思う。まぁ、変態だとは思われたくないので、口が裂けてもそんなことは言えないけれど。
そんな道重先生が兄との一件があってから、どこか心を失ったみたいになってしまった。
当時の私はそのことに当惑して、どういう風に表情を作ればいいのかわからなくなってしまった。
もしかしたら道重先生は兄のことが好きだったのかもしれない、とありきたりな推測をしたこともあったけれど、きっとそういうことじゃない。
あの一件の前後で道重先生の兄に対する視線には何ら変化がなかった。もちろん、道重先生は何につけても取り繕うのが上手であったけれど、珍しく中学生の私にもわかるぐらいへこんでいた。
その原因の主たる部分が私の兄にあったのだとすれば、もう少し兄に対する視線や態度に変化が生まれるはずだろう。
兄という人間そのものというよりは、単純に兄の持ち掛けた話に強い興味を持っていたと考える方が私にはしっくりと来た。
しかし、実際問題として、兄の持ち掛けた話に道重先生が興味を抱く理由が私にはよくわからない。道重先生はチャラついたサークルを取り仕切ったりすることに向いている人間とは言えないはずだ。
少なくとも私はそう思う。兄の性格も決してそういうことに向いているようには思えなかったけれど、元来兄はミーハーなところがあったし、あれで自信過剰な性格もしていた。
だから、兄がそういった突飛なことをやり始めるということ自体には納得がいっていたが、道重先生はそんな兄とは違う。
むしろ、兄とは逆で派手よりは地味を好み、良く言えば淑女、悪く言えば根暗な性格だと私は考えている。
だから、私は兄の持ち掛けた仕事自体に道重先生が興味を持っていたとは思えない。道重先生はおそらくそういった仕事をしてみることで、何か得られるものがあると考えていたはずだ。
道重先生が何を得ようとしていたのか、それまでは私にはわからない。ずっとわからないから、そんなことはずっと忘れたフリをしてきた。
あの公民館で道重先生と再会して、「もう先生じゃないから、さゆみんって呼んで」と言われて、なくなく「道重さん」と呼び始めてからも、
あの一件の真相（真相といっても、道重先生がどう考えていたのか、ということだけではあるけれど）はわからないままだった。
思えばあれからもう８年になる。
私が優樹ちゃんと出会い、優樹ちゃんの話を道重先生とするようになった辺りからは、道重先生も少しずつ明るくなって、前のような……
いや、前よりもずっと明るくて優しいお姉ちゃんのようになってくれたけれど、私にはその一件のことがずっと引っかかっていた。
実際には私の兄のせいで、という部分が大きいのかもしれない。けれど、私は兄を庇いたいとかそういうことでなく、単純に私と出会ったことが道重先生を不幸にしたのではないかと考えるのが辛かった。
私は私が大好きな道重先生には幸せになって欲しいとずっと思っていた。気持ち悪いと思われたって別に良い。私にとって道重先生は先生であり、唯一の姉のようなものだったのだから。
だから私は道重先生を喜ばせるために勉強も頑張ったし、色々な話をたくさんした。
学校であった楽しいこと、悲しいこと、怒ったこと、困ったこと、驚いたこと、退屈だったこと、そういう全部の話を道重先生はうん、うんと聞いてくれ、どんな話をしても優しく応えてくれた。
中でもお気に入りだったのが、優樹ちゃんの話だったのは少し優樹ちゃんに嫉妬してしまうけれど、それでも道重先生が喜んでくれれば私は嬉しかった。
それから私たちはリホちゃんのおかげで再会することができた。
先生を辞めて公民館のお姉さんになった道重さん。随分と明るくなったし、そして大人びて、より綺麗になっていた。
あの魂の抜けたような一時の事なんてもう微塵も感じさせなかったけれど、どうしてか私にはあのほんの数週間ばかりの道重さんのことが忘れられない。
でも、今さら掘り返すのも気まずいのでずっとそのまま放置してきた。それで何か問題が持ち上がるということもない。私たちは常に良好な関係を保って来たように思う。
ただ、別の問題がそこでは待ち受けていた。道重さんではなく、リホちゃんのことだった。リホちゃんは将来のことで随分と悩んでいるようだった。
私の前では強がっていたけれど、それでも道重さんの前ではきっと弱みを見せることも多かったのだと思う。日増しにリホちゃんは道重さんと親密になっていき、とても私が間に入り込む余地などなかった。
私は私の道重先生がリホちゃんに取られたみたいで悔しかったし、同時に中学の時は私のことを大好きと言ってくれていたリホちゃんが道重さんに取られたみたいで、それはそれで悔しかった。
同時に、リホちゃんとは違うけれど、やはりあの才能溢れる優樹ちゃんを目の当たりにして、何にも持っていない自分を酷く情けなく思ってしまっていた。
だから、私もまた道重さんに甘えたかったけれど、それはできなかった。なぜなら、私はあの心がくじけそうになっている道重さんを見ていたから。
私はもう道重さんを困らせてはいけない。それが第一の感情だった。それから、あのとき道重さんが何かを克服したように、私もまたいま目の前にある状況を克服しなければならない、という想い。
そして、私はリホちゃんを助けたいとも思ったけれど、おそらくリホちゃんを助けられるのは私じゃなく、道重さんだ。
道重さんは何かを乗り越えた人で、私は何も乗り越えていない。そういった様々な感情が綯い交ぜになり、私は私で私の抱えるちょっとした孤独な気持ちと戦うことに決めた。
その戦いに勝てたのかどうかはよくわからない。
でも、結果的に私は道重さんに甘えたりしなくてよかったのだと思う。無事、リホちゃんは元気を取り戻したし、道重さんも変わらず優しく綺麗なお姉さんで私たちを包み込んでくれていた。
私は私で、私なりに強くなれたとも思う。そして、何よりも私はあの心を閉ざしていた道重先生の感情にも少しだけ寄り添うことができたように思う。
細かい事情までは相も変わらず私には想像もできなかったけれど、きっと道重先生はあのとき自分という人間を前に進めようとしていたのではないだろうか。
兄の申し出を足掛かりに、新しい自分になろうとしていたんじゃないだろうか。私が「強くなろう」と思ったのと同じように、道重先生も「強くなろう」と思っていたんじゃないだろうか。
それが兄の身勝手でふいになってしまった。そう思うと私は申し訳なさとやり切れなさで辛くなる。
道重さんはきっと私には及びもつかないような辛い経験があったのだろう。私の兄があんな意味の分からない申し出をするまでは、そこから立ち直ろうとする気力さえ湧いてこないほどに。
そして、立ち直ろうと思った矢先、また突き放される。そうして道重先生は心を失ったようになってしまう。ただ、そこから道重先生は自分の力で立ち直ったのだ。本当に強い人だと思う。
そして、その後で道重さんはリホちゃんをも立ち直らせた。それがあってからは、私はよりあの一件のことを知りたいと思うようになった。
道重先生はいったい何から立ち直らなきゃいけなかったのだろう。道重さんは何を克服したのだろう。あの一件は私にとってはとにかく申し訳なさが先に立つものだったけれど、そういう興味も私の中には生まれていった。
ただ、そんなことを聞くわけにもいかず、気がつけば随分と時が流れてしまっていた。そうして、もう忘れよう、と思うようになっていたところでリホちゃんから思いも寄らぬ話を聞かされる。
それは、あの道重さんがあの亀井さんと実は関係があったということだ。
私自身、亀井さんの事はあまり良く知らない。ただ、あの一件で道重さんと共に働くことを拒否したのは間違いなく亀井さんだった。
私はリホちゃんから、亀井さんのことを聞いて、ようやくあの一件に納得がいった。
亀井さんは兄のバイト先の先輩だった。ある時兄は大学のサークルで貧乏くじを引かされて、サークルの合同イベントの幹事を任され、そのことを亀井さんに相談したらしい。
亀井さんは「どうせやるなら色々やってみたらいいじゃないか。どうせ学生のやることなんだから、責任なんてあってないようなもんだろう。失敗したって、それが笑い話にもなるし」という具合に兄を焚きつけて、その言葉通り色々なことをやらせた。
そうしてまた亀井さんは兄の相談に乗り、提案をするだけでなく、自らも色々と行動を取ってくれたらしい。
その過程で、「もう少し人手があってもいいんじゃないか」ということになり、兄の周りで最もしっかりとしていて優秀と思われた道重さんに白羽の矢が立ったというわけだ。
途中まではそれで上手く話がまとまるはずだったけれど、兄がその新メンバーの名を亀井さんに告げる段になって、おそらくは亀井さんは手のひらを返したのだろう。
きっと亀井さんは何らかの理由で道重さんと会いたくなかったのだ。私にはずっとその理由がわからなかったけれど、リホちゃんから道重さんの過去の話を聞いて、何となく察しをつけることができた。
リホちゃんはあまり当時のことを詳しくは話してくれなかった。しかし、それでも「道重さんと亀井さんは高校の頃に色々あった」と聞かされればある程度のことは想像できる。
男女関係のもつれ、とありきたりなことを考えたって、様々なことに納得がいく。もちろん、あの道重さんが何年間も心を痛めるくらいの事なのだから、そう単純なことでもないのかもしれないけれど、失恋は何よりも人を苦しめると聞く。
高校時代、それから大学時代、と道重さんは２回もその亀井さんに苦しめられてきたのだ。
私は勝手に亀井さんに対して怒りのようなものを感じていただけれど、リホちゃんが言うには、道重さんも亀井さんもお互いにお互いのことを未だに想っているらしい。
リホちゃんが嘘を言ったり、勘違いをしたりしている訳ではないとは思う。けれど、私にはやはりよくわからない。
ただ、道重さんは、私の道重先生だったときから時々遠い目をして、どこか違う世界、あるいは時間軸について思いを馳せているような雰囲気を見せることがあった。
仮にその遠い世界が亀井さんのいる世界だとするなら、私はやはりその世界を壊してしまうべきなんじゃないかと思う。何年もお互いを想い続けるのは素敵なことかもしれない。
でも、その想いが道重さんを不幸にするのであれば、それはただの呪縛でしかない。
少なくとも今までのように何も行動を起こせずに、ただただ時間を後ろに送っていくだけの人生を過ごすくらいならそんな想いはさっさと捨ててしまうべきだろう。
捨ててしまうまではいかなくとも、早く過去の「想い出」にしてしまうべきだ。
だから、区切りをつけるという意味でも、道重さんは亀井さんに一度会うべきだと思う。
会えば何かが変わるはずだ。あの時、変わろうとしていた道重先生の決意を私の兄が取り去ってしまった。
だからこそ、あのとき道重先生の前にあったチャンスを私が取り戻すのだ。今日、うまく道重さんを亀井さんに会わせる。それができればきっと道重さんは変われる。
塞がった傷口をまた広げてしまうことになるかもしれないけれど、私もリホちゃんも優樹ちゃんもいる。たとえ、そういうことになったとしても、私たちで道重さんを救うことができるはずなのだ。
もちろん、お互いに気持ちを確かめ合って、よりを戻し、おとぎ話みたいに「そのあと２人は幸せに暮らしましたとさ」となればそれに勝ることはないのだけれど……
曇り空が不安を煽る。隣の道重さんは「楽しみだね」と無邪気にはしゃいでいる。
何があろうと私が道重さんを守る。私は決意を胸に会場に足を踏み入れる。ともあれ、まずは優樹ちゃんのコンサートがうまくいきますように。
兎
まーちゃんのライブは圧巻の一言だった。登場のSEが鳴り止むと暗いステージにピンスポットが輝き、ギターを提げたまーちゃんが照らされる。
そのピンスポットを受けたまま、まーちゃんはギターをかき鳴らし、歌うこともなく、皮膚が粟立つような緊張感の中、ギター１本で１曲を演奏しきった。
歓声と拍手が巻き起こる一歩手前で、ドラムのカウントが始まり、一気に照明が明るくなり、ノリの良い楽曲が始まる。
まーちゃんの煽りも相まって、会場の熱気が一瞬で最高潮に達する。そんな劇的な演出でライブはスタートした。
これは私だけでなく、色々な口うるさい批評家の人たちも言っていることだけれど、まーちゃんには自然に人の目を惹く力がある。
ほんの一瞬の音に対して、彼女が顎をくいっと傾けるだけで会場が沸く。歌い終わりに眉を顰めるだけで、歓声が巻き起こる。
後ろを振り向いてにっと笑うと、それに応えるようにドラムが音を大きくする。ピックを持った手を挙げると、ベースが複雑なフレーズを弾いてみせる。
囁くように歌う。会場が静まり返り、彼女の吐息の音までがはっきりと聴こえる。がなるように歌えば、床が震え出す。一挙手一投足が会場の全ての人間を魅了する。
MCではいつものまーちゃんが見られる。一応ステージに立つ人間らしく、話をまとめるようなこともあるのだけれど、
どちらかと言えば、ケーキを突っつきながら私に話すように客にも話しかけるので、パフォーマンスとのそのギャップに虜となっているファンも多い。
こういう言い方を私は全く失礼だとは思わないが、彼女にはアイドルらしい魅力が溢れているのだ。そもそもの顔立ちやスタイルが素晴らしい。
これは私がまーちゃんの大親友だから言うことだけれど、頭のネジがぶっ飛んでいるということを差し引いても、神様はまーちゃんに色々なものを与え過ぎだと思う。
そんなまーちゃんが終盤に、「カバーしました」と言って１曲歌ってくれた。いつだったか私が好きだと言った楽曲で、「春なのに……」と春でもないのに彼女は歌う。
そう言えば、今年の春、フクちゃんと車の中でリホリホを待っている間にラジオで流れていたっけ。色々なことを思い出しながら、私はつい涙を流してしまった。
隣を盗み見ると、フクちゃんも目を潤ませているので、少しだけ恥ずかしさが紛れる。
次の曲でまーちゃんはギターを持ち変えると、「これはまーちゃんの師匠から教えてもらった曲です」と言いながらチューニングを直し始めた。
「師匠の方がめちゃくちゃギター上手なんです。でも、この曲はまーちゃんに似合うね、って言ってくれたから弾きます。
あ、間違ったら最初からやり直すんで。あ、それからこの曲はライブのチケット代には含まれてないです。だから、聴きたくなかったら耳を塞いでいてください」
会場が優しい笑い声で包まれる。急に卑屈になるのもまーちゃんらしいけれど、そんなことはファンの皆も承知済みのようで、当然ながら誰も耳を塞ぐことなく、彼女の生み出す一音に耳を澄ませている。
まーちゃんは椅子に座り、何度か深呼吸を繰り返す。
「フォーコ」
と短く曲名を宣言して、彼女は弦をはじく。
あまりに変則的で、しかも歌がない、おそらくはクラシックギターの楽曲だ。師匠から教わったということは、リホリホから教わった楽曲なのだろう。
演奏後は皆ぽかんとしたまま、パラパラという拍手が会場を包んだ。どこかで熱心なファンが１人頑張って盛大な拍手を捧げているのが聞こえてきたので、私とフクちゃんも目を合わせ、一生懸命拍手を送った。
リホリホが来られないのは残念だけれど、恥ずかしがり屋のまーちゃんのことだ。よっぽどのことがない限り、こういうステージでリホリホにクラシックギターを聴かせるようなことはしないだろう。
ただ、おそらくは私が来ていることを嗅ぎつけて、２曲もいわゆる「私信」をしてくれたことに、私はついつい嬉しくなってしまう。
みんな、これが私のまーちゃんだよ。小学生の頃から何一つ変わらないミラクルガール。どう、凄いでしょ？ って、みんなもう知ってるか。
そんな言葉が頭の中を駆け巡った。
最後の曲です、と短く言った後で最近発売された新曲を彼女が演奏する。会場は喝采に包まれ、曲が終わってからはアンコールを求める拍手が鳴りやまない。
しばらくしてラフなTシャツ姿に着替えたまーちゃんがステージに戻って来る。彼女はどこか恥ずかしそうで、バンドメンバーとマイクに乗らないじゃれ合いをしてから、センターへとゆっくり歩いて来る。
「アンコールありがとうございます」
彼女はこんなときばかりは礼儀正しく、深々と頭を下げた。けれども、舞台などで良く見る「いかにも」なお辞儀でなく、募金活動をしている中学生のような愛らしいお辞儀だった。
そんなまーちゃんのちょっとした雰囲気のおかげか、会場全体がキャンプファイヤーの終盤のような楽しく切ない空気に包まれていく。
「今日はごめんね。知らないカバー曲とか、ギターだけの曲とか演奏しちゃって。実はね、地元から、お世話になった大切な人が見に来てるの。もう、なんか恥ずかしいからホントは来てほしくなかったんだけど。
でも、まーちゃんがこうやってステージに立っているのはその人たちのおかげだから。ねぇ、みんな知ってる？ まーちゃんが初めて撮った動画とか見たことある？
あのとき撮影してくれた人。そう、だからね。なんていうか、人間ってみんな成長してくじゃないですか。まーちゃんも最初はこんな風にライブなんてするつもりなくて。
って、みんな知ってるよね。でも、成長してー……少しずつだけど、こうやってライブもできるようになったわけですよ。あぁ、なんか上手く言えないけど、とにかく。
過去を大切に生きていれば、きっと変われるよ、ってことをまーちゃんはゆいたい。ギターも歌もまだまだ下手っぴだけど、良くしてもらった人たちのことをまーちゃんはずっと大切にしてきたんです。
だからさ、こうやって、まぁ、みんなは知らなかったけど、新しい曲とかもできたし、そういう挑戦がまた新しい自分を作ってくんだなぁーって今日思いました。
って、ちょっと真面目っぽい話しちゃったけど、アンコールの曲やりますね。ね、チューニングするからちょっと待って」
照れくさそうにまーちゃんはMCを閉めて、宣言通りチューニングをする。隣で鼻を啜る音がするので目線を向けると、フクちゃんが目尻から涙を流していた。
私もかつては変わらなくちゃと思いながら生きていた時期もあったけれど、結局のところ自力じゃ何も変わることができなかった。
私を変えてくれたのは、フクちゃんであり、まーちゃんであり、リホリホだった。そして、同時に良い子ちゃんぶりっ子の私を徹底的に変えたのは、絵里とれいなだ。
いつだって私の周りの人が私を変えてくれた。だから、まーちゃんの言っていることは私は身に染みて良く理解することができた。
フクちゃんもきっと就活やらなにやらの中で、苦しんでいるのかもしれない。そうだ。私がまさに変わらなくちゃと考えていたのは、ちょうど今のフクちゃんくらいの歳の頃だ。
あの頃は私も大学生で、フクちゃんは中学生だった。私は、フクちゃんの家庭教師をする中でひょんなことから変わるきっかけを手に入れられそうだったけれど、結局それはダメになってしまった。
でも、今さらながら思う。それはそれで良かったのかもしれない。
あの時の私はうまく気づくことができなかったけれど、私はフクちゃんとまーちゃんに出会い、心を立ち直らせ、そして社会人になってからはリホリホと出会うことができた。
リホリホを何とかして救おうと頑張る中で、私もまた成長できた。そういう不思議な縁の中で、人間というものは成長し、まーちゃんの言う通り、変わっていくのだろう。
いつも突拍子もないことばかり言うまーちゃんだったけれど、たまに良いことを言うから面白い。
アンコールのまーちゃんもまた飛びっきりだった。無邪気に笑顔を振りまきながらステージを駆けまわる姿は、あの小さな公園で蝉を取ろうと躍起になっていた姿と何ら変わらない。
あれほどにも輝かしく、人を明るい気持ちにできる存在は世の中を見渡してもかなり稀有なものだろう。
そんな人が私のすぐ側にいるのだ。それが私にはうまく信じられなかったけれど、いくらステージの上にあがって綺麗な衣装を着てみたところで、そこにいるのは紛れもなく佐藤優樹だった。
そのことが私を安心させ、同時に心強いという気持ちにしてくれる。私は周りのファンの人と一緒になって、まーちゃんの名前を呼び、手を振った。
まーちゃんは私を見つけることはできないみたいだったけれど、その笑顔には一点の曇りもなく、太陽のように輝いていた。
ライブの終了を告げるBGM、そしてアナウンス。ぞろぞろと人が列を成して帰っていく。まーちゃんはこれからスタッフや関係者、はたまた芸能人などと楽屋で挨拶をするらしい。
私とフクちゃんも楽屋に招かれていたが、まーちゃんの要望で「ゆっくり話したいから、順番は最後で」と事前に言われている。
フクちゃんが「このままここでちょっと座って待ってましょう」と言う。私は芸能人をちらっとでも見たいなぁ、なんて考えていたけれど、大人しくフクちゃんに従うことにした。
さすがは上品なフクちゃんだけある。私みたいにみっともないミーハーみたいな行動はとらない。
それにしても素晴らしいライブだった。歌って、ギターを弾くまーちゃんは、まさに水を得た魚。太陽を得た向日葵。風を得たしだれ柳。オートメイルを得たエドワード・エルリック。と、そんなつまらない冗談を言ってしまうくらい最高だった。
隣に座るフクちゃんと「あの曲が良かったね」みたいなことを話し、「あのまーちゃんがねぇ」と親にでもなったような気持ちを分かち合う。
そして会場に漂う空気を今一度確かめようと何気なく後ろを振り向いたときだった。一瞬だけれど、２階席の方にリホリホに似た後姿の女の子が視界に入る。
それが本当にリホリホの後姿なのか私は見定めようとしたけれど、彼女はすぐに姿を消してしまった。
私はフクちゃんに今日リホリホも来ているのかと問いただそうと口を開きかけたが、あとちょっとのところで言葉を飲み込んだ。何か確固たる理由があってそうしたわけじゃない。
ただ今日フクちゃんと話す中で、リホリホが来られないということを確かめ合う場面が何度かあった。
別にフクちゃんがリホリホが来ているということを隠そうとしているとか、そういうことを思っているわけではなかったけれど、問いただすことに関してあまり意味はないような気がした。
まず私の見間違いである可能性があまりに高い。次に、仮にフクちゃんがリホリホが来ていることを私に隠している（全く以ってそんなことをする理由は思いつけないが）ということも考えられるけれど、
仮にそうだとしたら私が問いただしたところで「見間違いじゃないですか」と一蹴されて終わりだ。
ほかにも、確かにリホリホが来ているとして、それをフクちゃんも知らされていなかった場合、フクちゃんとしてもこれはあまり気分の良いものじゃないだろう。
無駄に彼女たちの間に溝を作ってしまうことになりかねない。いや、フクちゃんがリホリホは来ないと思っているのだとしたら、私の見間違いであっても、フクちゃんはほんの一時嫌な気分になるかもしれない。
そんなようなことがざっと頭の中で巡って、結局のところ私は一人で立ち上がり「ちょっとお手洗い行ってくるね」とフクちゃんに告げるよりほかなかった。
フクちゃんは一人で残されるのが心細いのか「かなり混んでそうですけど」と不安げな表情で私に忠告をくれたが、私は「ごめんね。すぐに戻るから」と言って席を離れた。
少し歩いてそれとなく振り返ると、フクちゃんがやはり不安そうな表情のままこちらを見ていて、少し申し訳なくなる。
そして、私と目が合って慌てて視線を逸らすフクちゃんを見て、「もしかして……」と私の中で疑念が少しだけ生まれる。
ホールの外はまだグッズを買うファンの群れでごった返していた。連れ立って今日のライブに参加している人たちは興奮した声で感想を語り合っている。
そこに雑踏、係員の決まり文句が混じり合って、一種のカオスが生まれていた。
確かにあの後姿がリホリホだったとして、ここから彼女を見つけ出すのは至難の業だろう。
しかし、彼女が２階から階段を使って降りてくることは確実だ。幸い、階段は２か所しかなく、リホリホのいた位置から考えると、彼女が使うと思われる階段は１つに絞ることができた。
私は柱の影に隠れるようにして、リホリホらしき女の子が降りてくるのを待った。
もし本当に私が見たのがリホリホだとして、こうして待ち伏せしているけれど、実際にリホリホを見つけたところで私は彼女にどう声をかけたらいいのだろう。
というか、声をかけるべきだろうか。そもそも私は何のためにここに来ている？
私が自問を繰り返し始めたあたりで、私の視界に予想もしなかった人物の姿が目に飛び込んでくる。
「絵里……？」
この喧騒の中で私が漏らした声なんて届くはずもなかったのに、絵里は私の声に反応するかのように私の方に視線を向けてきた。目が合う、そして動けなくなる。
「ちょっと……！」
階段のど真ん中で立ち止まった絵里を押しのけるように何人かの人が苛立った声を上げた。
私の網膜の上で揺れる絵里が、はっと我に返ったように歩みを再開する。そして、私は絵里の隣で目を見開いて驚いた表情を浮かべるリホリホの姿を認めた。
どれくらいの時間が経ったかわからない。けれど、きっとものの数秒のはずだ。階段にしてほんの１０段もないくらいなのだから。
にもかかわらず、私には絵里が階段を降りて目の前にやって来るまでの時間が、１０年くらいにも感じられた。いや、実際に１０年かかったのだ。
１０年。それはあまりにも長く、あまりにも切ない時の流れだ。
久しぶり、という挨拶をする間もなく、リホリホが「外、出ましょう」と言ってくるので、私たちはそれに従った。
リホリホの後ろを絵里が追い、その後ろを私がついていく。茶髪。伸ばされた髪。男にしては華奢な身体つき。絵里がいる、と思った。これが私が待ち続けていた男なのだ。本当に私は待ち続けていた……？
コンサートホールの外。小さな広場があって、そこにも人がたくさんいた。
けれど、自転車置き場と自動販売機が並んでいる一角には誰もいないようで、リホリホは真っ直ぐそこに私たちを連れて行った。
幸いにも雨はもう止んでいた。街には雨の匂いが染みついていて、アスファルトの上には街路樹の葉が落ちていた。
自動販売機の明かりで見る絵里の顔は酷く不健康そうに見えた。青白い光のせいだ。きっと私の顔も同じくらい不健康そうに彼には見えているだろう。
たいして遠くまで来ていないのに、辺りはとても静かに感じられた。絵里が足を動かすと、スニーカーがじゃりっと音を立てるのも聞き取れる。
「久しぶり」絵里がまずは口を開く。私もとりあえず「久しぶり」と返す。こんな声だったっけ、と思う。
「あの、道重さん、すみません」リホリホが慌てたように私たちの間に入って来る。
「えっと……」
「本当のこと言うと、今日私はお２人を合わせるつもりだったんです。前に道重さんには話しましたよね。私が亀井さんと同じバイト先で働いているって」
「絵里は……絵里は知ってたの？」
「知って……」
「あ、ごめん。知ってた？、ってのは今日ここでこうした会うことを知ってたか、ってこと」
「いや、知らなかったよ」絵里が自ら私の問いに答える。
「僕は今日、鞘師さんとデートのつもりで来ただけだよ。ただ、鞘師さんはそういうつもりじゃなかったみたいだけれどね」
絵里の喋り方はほとんど昔のようだった。相も変わらず、丁寧な口ぶりでありながら、どこか厭世的な、皮肉を若干帯びたような話し方をしている。
「いえ、私もデートのつもりでした」
「じゃあ、いったいどういう……」
「あの、すみません。ちゃんと一から説明します。少しだけ私に時間をください」
リホリホはとても困ったような表情を浮かべている。
おそらく何も知らなかった私と絵里の方がずっと困っているはずだったけれど、しかし、目の前の可愛らしい子が頑張って何かを話そうとしているのだ。私も絵里も、それを遮るような大人ではない。
「もともと私は亀井さんのことが好きで、それは１か月半前に告白した通りです。道重さんには告白したことまでは言ってませんでしたけど。
で、当たり前ですけど、亀井さんは私の告白にその場ではOKを出してはくれませんでした。ちょっと考えさせてほしいと言われたので、私は今日まで待っていたわけです。
ただ、こんなことは言いたくないんですけど、きっと亀井さんは私の事なんて好きじゃない。きっと亀井さんが好きなのは私じゃなくて道重さんだと私は勝手に思っています。
そして、私は道重さんもまた亀井さんのことがまだ忘れられていないということを感じていました。だから、２人を会わせようと思ったんです。
ただ、どうやって会わせればいいかわかりませんでした。わからなかったから、優樹ちゃんのライブに誘うことにしたんです。
告白する前から私はきっと亀井さんにはフラれてしまうってわかってましたから、もう告白の場で無理やりこのライブに誘ったんです。
優しい亀井さんなら、きっと私の最後の我儘としてデートくらいしてくれるだろう、っていう算段もありました。そして、道重さんも優樹ちゃんのライブと言えばきっと来てくれる。
だから、道重さんはフクちゃんに頼んで誘ってもらったんです。私は最初からお２人を会わせるつもりでした。それでも私は亀井さんのことが好きなんです。
だから、せめてライブが終わるまでは……楽しいデートにしたかったんです。せっかく亀井さんが私の我儘を聞いてくれたんですから。でも、もういいんです。
私はもう充分幸せな気分を味わわせてもらいました。本当は優樹ちゃんの楽屋でお２人には会ってもらうつもりでした。それなのに、まさかこんな形で再会させてしまうなんて……」
そこまでリホリホはまくしたてるように喋っていたが、不意に息を呑み、そして深く溜息を吐き出す。それから、まるでにわか雨の降り始めのように、泣き出した。
子供みたいに嗚咽交じりに泣く。私と絵里は顔を見合わせる。こんなにも長い間離れていたのに、私は言葉もなく絵里と意思を交わし、そしてリホリホの頭を撫でてやった。
絵里はリホリホの身体に触れないようにしながらも、傍に立って人目のある方を自らの背で隠してやった。
リホリホの説明はところどころ理解できない部分もあったけれど、それでも彼女が何かしらの強く、そして複雑な想いを持って私と絵里を再会させようとしていたことはよくわかった。
しばらくリホリホが泣き止むのをそのまま待つ。私はいつまでも彼女の頭を撫で続け、絵里は傍で立ち続けた。
「ひっく……ごめんなさい。泣く……つもりなんて、なかった、んです」私が背を撫でてやると、それに促されるようにリホリホはゆっくり深呼吸をする。
落ち着いたところで、再び彼女は言葉を紡ぎ始める。
「私も自分で自分がよくわからないんです。こんなに……泣いてしまうくらい亀井さんのことが好きなのに、２人を会わせようとするなんて」
「さゆみが悪いの。さゆみがリホリホに絵里のことしつこく聞いたりしたから……リホリホは優しいからさゆみのために自分の気持ちを殺して私たちを会わせようとしてくれたんだよね」
リホリホは首を横に振る。何度も。最初は私の言葉に対する否定のはずだったけれど、彼女自身が言っていた通り、そのうちに自分でも何が正解かわからなくなって、すべてを投げ出してしまいたい、という風に私には見えた。
私は困って絵里の方を見やる。彼もまた困った表情をしていた。そして、私の視線に気がつくと、じっと私を見つめたまま眉をしかめ、しばらくしてから不意に顔を逸らす。
深く息を吐く。何かを喋ろうと、彼は口を数秒開き、言葉を探すがうまく出てこない。が、それでも何とか声を作る。
「僕は……僕はまずお礼を言うべきなんだろうな。まずは、鞘師さんが僕を好きだと言ってくれたことに対して。それから、こうやってさゆと再会させてくれたことに対して。
あと、さゆが僕のことを忘れないでいてくれたことに対して。あまりにも感謝するしかなくて、自分が惨めに思えてくるほどに、本当にありがたいことだよ。
ただ、僕としてはこんな風に女の子を泣かせたくはないんだ。もう、そういうことはしない……というか、起こさないように気をつけて生きてきたつもりなんだけど、なかなかうまくはいかない。
そして、一旦こうなってしまうと、僕にはもう自分がどうしたら良いのかわからなくなってしまう。何とか誰も涙を流したりしないようにしたいとは思うんだけど……」
「絵里」
絵里の言葉を遮るように、自然と私の口から彼を呼ぶ声が零れた。いったい私は何を言葉にするのだろう。
「絵里は何も変わってない。あの頃と同じなの。ぜんぶ自分で考えて、自分で答えを見つけようとする。だから、うまくいかないのよ。絵里は確かに頭が良いのかもしれない。
けど、人間が１人でできることなんてたかが知れてるの。だいたい、絵里に泣かされたさゆみを救ってくれたのは、絵里じゃないしね。
絵里は勝手にさゆみたちの前からいなくなって、長ったらしい手紙を残しただけ。置いてけぼりにされたさゆみと、それかられーなは自分たちで何とかするしかなかった。
でも、少なくともさゆみは自分１人じゃ何もできなかった。長い時間をかけて、リホリホとかほかの色んな子に助けてもらってこうやって生きているの。
今日、ライブで歌ってたまーちゃんも私を助けてくれた子の１人なの。だから、あまり思い上がらないで、絵里はまずリホリホに対して、自分の正直な気持ちで答えればいいのよ」
久しぶりの再会というのに、私の口から零れたのは、どうしてかこんなにも辛辣な言葉だった。
そんな言葉が私の口から吐き出されるなんて、ぜんぜん思ってもみなかった。私の中では未だに絵里のことを許せないでいるんだ。
そして、そのことは必然的に私が絵里に対してまだ執着の心があることを示している。
「さゆ、悪かった」
絵里は悲しいのか嬉しいのか、眩しそうに顔を歪める。一陣の風が吹いて、雨に濡れた草の香りを巻き上げる。
遠くの喧騒。ずっと向うの景色には電車が走っていくのが見える。夜を貫くように。
「フクちゃん？」
ふと顔を上げたリホリホが声を漏らす。
私たちも遅れて彼女の視線を追うとそこにはじっとこちらを見つめる品の良い女の子が立ち尽くしていた。
「そうか……そうだな。フクちゃんっていうのは君だったんだな」
「お久しぶりです。亀井さん」
どうして２人に面識があるのか、私にはわからない。私とリホリホが困惑の表情を浮かべると、徐にフクちゃんが口を開く。
「リホリホが道重さんと会う前に、私は道重さんに家庭教師をしてもらってたって言ってたでしょ。そのときに、私は亀井さんと会っているの。お兄ちゃんのバイト先の先輩だった。
お兄ちゃんと亀井さんでちょっとした会社を作ろうとしていたときに、お兄ちゃんは道重さんも誘っていたの。でも、それを亀井さんが拒否した」
まさか、と私は狼狽えながら絵里を振り返る。彼は何も言わず私にちらっと視線を向けて、それから逸らす。
また自分は失敗したのだと悟って、後悔に顔を暗く染める。私の瞳の中で彼はどんどん小さく、力と輝きを失っていくように見えた。
フクちゃんの説明を聞いても、リホリホはいまいち事情を理解しきれないみたいだった。当然だ。絵里がしたことで私が囚われた失望の檻を理解するには、もう少し私の感情の経緯と言うものを知る必要がある。
しかし、この場でフクちゃんが、ただの兄の知人というだけでなく、絵里が私にしたことまで口にするということは、彼女の方はその私の感情の経緯というものにある程度の察しがついているということになる。
それはそうかもしれない。彼女は気配りができて、何よりも優しい子だった。彼女の瞳の中できらりと絵里に対する怒りの切っ先が光っている。私のためにフクちゃんは絵里に怒ってくれているのだ。
「すべて」絵里は言葉の断片を、私たちのちょうど真ん中に放り込む。
「すべて僕が悪かったと言って開き直れたらきっと楽なんだろう。でも、そんな簡単に放り投げてしまえる類のことでもない。僕は何をして償えばいいだろう。
僕はどう言って君たちに謝ればいいだろう。僕にはそれがわからない。そして、決して言い訳したいというのでもないし、僕は僕のやってきたことの結果をいま必死に受け入れているけれど、
それでも、僕は僕なりにベストを尽くしたかった。結果的にそれらはすべて間違いになってしまったけれどね」
言葉は自嘲気味だったが、彼の表情からは自嘲するほどの余裕は見られなかった。１０年前も同じように彼はこういう弱り切った表情を浮かべていた。
思えば、絵里は何も悪いことをしていない。それは中学生のときに１人の女の子と駆け落ちをしたときから変わらない。
いつだって我儘を言って彼を傷つけるのは、私みたいな身勝手な女なのだ。
絵里の優しさに付け込んで、あまりにその優しさが私たちのちっぽけな理不尽さを大きく包み込むので、時としてその強大さ故に忌むべき敵のように見えてしまうのだ。
実際には彼のことをこれっぽっちも嫌っていないのにも関わらず。
自分だって絵里を責め立てたにも関わらず、フクちゃんが自分のために絵里に怒っているのだと思うと、私は自分の方が悪かったんだという気持ちになってくる。
絵里は悪くない、悪いのは私なんだから。と、絵里を庇いたい衝動があふれ出す。自分で自分の理不尽さが恨めしい。
「あのね、フクちゃん―」
「リホちゃん。優樹ちゃんが待ってるよ」
ちょうど私の言葉を掻き消すようなタイミングでフクちゃんがリホリホに声をかける。はっとするリホリホ。涙を拭いて、フクちゃんの方に２，３歩近寄り、それから私たちの方へと振り向いた。
「亀井さん、道重さん。優樹ちゃんのところに行きましょう」
私と絵里は困惑したように顔を合わせる。確かにまーちゃんのところには挨拶に行くことになっていたけれど、彼女には申し訳ないが、いまはそれどころではないというのが正直なところだった。
「田中さん……田中れいなさんもそこにいます」
れいなが……？
何が見えるというのでもないのに、私たちはそろってコンサート会場を見上げた。
猫
ライブが終わり、関係者の楽屋訪問に備えて、私が佐藤のメイクを直してやっているとき、「今日、ちょっと最後までここにいてもらってもいいですか？」と佐藤から頼まれる。
私が「それは個人的な頼みごとったい？」と聞くと、「そうです。個人的です！」とライブ後の疲れも見せず無邪気に佐藤が答える。
「疲れたけん、はやく帰りたいっちゃけど」という私のへそ曲がりな答にも佐藤はめげずに、いつもの如く「ダメですよぅ！ たまにはまーちゃんのお願い聞いてください」と比喩でも何でもなく、私の腕に縋りついて来る。
なんだかんだいつも佐藤の言いなりになっているのだから、「たまには」なんて心外だと思ったけれど、かと言って「いつも言いなり」ということを佐藤に対して認めるのも嫌なので「仕方ないっちゃね。たまには、ね」と佐藤の希望を聞き入れてやる。
子供の我儘に付き合うのが大人の役割というものだ。
私は彼女のことを「佐藤」と呼び、彼女は私のことを「たなさたん」と呼ぶ。「たなさたん」という呼び方に関して、私からは特に言うべきことはない。
「まーちゃん、気を許した人はあだ名で呼ぶんです」と言われてしまえば、私としてはそれを受け入れるよりほかなかった。
それに「サタン（悪魔）」と入っているのは何というかなかなか可愛らしいではないか、と私はそのあだ名を少し気に入っている。
むしろ問題なのは、私が彼女のことを「佐藤」と呼んでいることだ。
本来であれば、私のお客さまである相手に「佐藤」なんて呼び捨てをすべきではないし、こういった関係性はアーティストとスタイリストとしては適切ではないのだろうけれど、出会いが出会いだったから仕方がない。
私と佐藤はとある洋服店で偶然出会い、偶然仲を深めることになった。私が手に取ろうとした洋服を佐藤もまた手に取ろうとしたのだった。
「あ、ごめんなさい」私は手を引っ込め、ついそう謝る。
「これ、可愛いですね！」
「え、あぁ」初対面で気軽に話しかけてくる彼女に私は少し面を喰らう。
「あの、かごの中身見てもいいですか？」
「かご？」
「まーちゃんたち、趣味が似てると思うんです。だから、参考にしたいと思って」
図々しい。
これでもこちとら高校時代は不良少女と呼ばれて……みたいなことを言いそうになるけれど、あまりにはしたないので止めることにする。
きっと私がそう言ったところで、目の前の無邪気なガキは「え、嘘だー！ ぜんぜん怖くないですよ！」などと言いそうだったし。
それからも彼女は図々しく、馴れ々れしく私に付き纏ってきて、挙句の果てには「まーちゃんに服、選んでください」とプライベートなのにスタイリングの仕事をさせられてしまった。
しかも、その１店舗で済むかと思いきや、あそこの店に行ってみたいだとか、私がその日に着ていた服の出所を聞き出し、そこへ私を引っ張っていった。
「まるでスタイリストさんみたいですね！」と彼女が言うので、「や、スタイリストやし」と冷静に私は返してやる。
「じゃあ、今度のライブでまーちゃんのスタイリストしてください！」
「は？（コイツほんとうに頭がおかしいのか……？）」
私が狼狽えているところに、１人の女子高生が恐る々る近寄って来て佐藤に握手を求める。
佐藤に握手をしてもらったその子は気が狂ってしまうほどにはしゃぎ、まさかの佐藤によって「しーっ」と宥められるという失態をしでかしていた。
や、お前も今さっきまで私にきゃっきゃとちょっかい出してたやん、というツッコミを何とか飲み込む。
思い返してみると、本当に奇跡的な出会いだと思う。
偶然同じ服を手に取ろうとし、急に業界人ぶる彼女を訝しがっていたら、１人のファンが彼女が業界人であることを証明してきた。
神様がベタベタの台本を佐藤のために用意していたと思ってしまうほどだった。いや、もしかしたらそれは佐藤ではなく、私のための台本だったのかもしれないが。
しかし、私が呆気に取られながらも何となく彼女の我儘に付き合って、何店舗も一緒に回ってやったのは、何も彼女の我儘だけのせいにはできない。
それよりもむしろ、私のスタイリストとしての血が騒いだからというのが本音だろう。彼女はほとんどどんな服でも着こなすことができた。
モデルみたいに長身でスラリとした体形というのではないけれど、充分に女性らしく、それでいて無駄のないスタイルをしていた。
笑えば子供のようで、澄ましてみれば凛と美しい。露出の多い服を着せると、それに合わせて彼女は妖艶な表情を作って見せる。
けれど、そんなのはそこら辺のモデルにも沢山いる。ただ、彼女の凄いところはどんな格好、表情をしていても、それが「佐藤優樹」というスタイルに集約されることだった。
最初は彼女に子供のようにせがまれるがまま連れ回されていたけれど、気づかぬうちに私が次々と色々な服を着せ替えるので、最後には佐藤の方が「まーちゃん、お腹減った」と泣き言を言い出す始末だった。
しかし、それを私は「お腹膨れたら似合う服も似合わなくなると」と無視し、彼女を着せ替え人形にして休日を謳歌してしまった。
そのようにして、私は「１日じゃ足りないな」と彼女の連絡先を聞き出した。そこから私たちの付き合いは始まり、そして最初に彼女が提案したように私は佐藤のほとんど専属のスタイリストとなるに至った。
彼女は私の雇い主であったけれど、そのような経緯から私は「佐藤」と呼び、彼女は「たなさたん」と呼ぶ関係が続いている。
そんな関係だったから、私は佐藤が急に「ライブ後、残ってくれ」と言ってきても、また何か私に甘える気だな、くらいにしか思っていなかった。
現にこれまで何度もそうやって彼女には最後まで残され、そしてネイルやヘアアレンジを無償でさせられた。
まぁ、最高の素材を使って私の好きなように実験ができるので、私としては困るというよりもむしろ大助かりだったのだけれど（とは言え、佐藤で似合ったからといって、そこら辺の凡庸な人間に同じようなスタイリングが通用するはずもないので、実利は少なかった）。
それに、まぁ、自分でも認めるくらいには私はミーハーだったし、たまに佐藤の楽屋には結構有名な業界人もやって来るので、細々とした片づけをしているフリをして、彼らを盗み見るのは私にとってはなかなか胸躍ることだった。
今日はどんな有名人がくるかな、なんて考えながら汗で湿った彼女の髪をドライヤーで乾かしてやっていると、佐藤は不意に私の服の裾を掴んできた。
「なん？」私が聞き、佐藤が答える。しかし、ドライヤーの風音にかき消されて私のところまでは届かない。私はドライヤーを止めて、もう一度彼女に尋ねる。
「たなさたん。今日は、まーちゃんの師匠が挨拶に来るんです」
「あぁ、ライブのMCでも言いよったと。すごい人ったい？」
「……やっさん」
「え？」
「やっさん、って言うんです。師匠」
「なんか凄そうやね」
「……」
佐藤にしては珍しく喋りにくそうだ。私が「なんね、どうしたと？」と何度か聞いてやると、彼女はやっと口をまた開く気持ちになってくれた。
「師匠が２人連れてきます。たなさたんの知ってる人です」
２人？ 私は佐藤が何を言おうとしているのかよくわからなかった。
しかし、深く追求する時間もない。後ろから「佐藤さんそろそろ良いですか？」とスタッフの声がかかったので、私は再びドライヤーのスイッチを入れて大急ぎで応急処置を施す。
そうして、いつものように私は幾人もの関係者が佐藤の楽屋を訪問するのを横目で眺め、「今日はハズレやね」と失礼なことを考えて時間を潰した。
しかし、ハズレで良かったとも思う。私には考えなきゃいけないことがあった。佐藤が言った「たなさたんの知っている２人」という言葉だ。
「２人」という言葉には、何かしら私の心を惑わすものがあった。いや、もし今日という日でなければ私は「２人」と聞いてもそんなに気を動転させることもなかっただろう。
私と佐藤の間には共通の知人が何人かいたし、そこから２人を選び取るだけでも相当数のパターンが考えられた。
しかし、佐藤の「師匠」が連れて来る「２人」となれば話は違ってくる。ましてや、今日のあのMCを聞いた後では。
どうして私が今の今まで今日のあのMCについて、何も感じずにいたのか、今となっては到底信じられない。
ライブ中は色々と衣装の準備や何やらが忙しいし、ステージ裏で佐藤のパフォーマンス映像を見ている間も、彼女の化粧やらヘアスタイルに綻びがないか、という目線で気を張っていなきゃいけない。
そのせいだと言ってしまえばそれまでだけれど、たしかに佐藤は今日のMCで彼女がミュージシャンとなるきっかけを作ってくれた人が今日は見に来ていると言っていた。
たしか以前に聞いた彼女の話では、地元の学校の先輩２人ともう１人、小さい頃から優しくしてくれていた近所のお姉さんが、その恩人たちということだった。
私はずっとその３人のことをあまり気にかけないでいた。しかし、今になって思えば、そのお姉さんはあの道重さゆみだったのではないか、という気がしてくる。
佐藤には何回かさゆの話をした記憶があった。
自分には高校の頃にとても仲の良かった子がいたけれど、大学進学と同時に疎遠になってしまった。
東京で１人暮らしをしない佐藤を応援するために、「地元の友達は大事にした方が良い」ということを言って聞かせようと、私自身を反面教師としてその話をしたのだ。
私はその時、たしかにさゆの名前を口にしたと思う。
佐藤は困ったような表情をしていた。話の内容がそもそもの悩み相談のようなものだったから、困っていて当然と思っていたけれど、何となく違和感みたいなものもあった。
あの時もたしか佐藤は喋りにくそうにしていた。「ですよね。やっぱりまーちゃんは東京で１人暮らしなんてしません」と即決していたにもかかわらず。
話せば同郷ということだし、私のことを「２人目のお姉ちゃん」呼ばわりするので、もしかしたら「１人目」は私の知り合いかもしれないな、なんてことを考えたこともあった。
私がさゆの名前を出した後で、佐藤が「１人目」の正体がさゆであることを隠そうとした理由についてはわからない。
ただ、私はさゆを放り出して自分勝手に東京に出てきた手前、さゆには会わせる顔が無いと考えていたし、その想いが私の口ぶりから漏れ伝わっていたとしたら、佐藤が口を噤む理由にもなるかもしれない。
佐藤はこれで勘が良いやつなのだ。時折、本当は野生の動物なんじゃないかと思う時があるくらい。
私は諸々の整理をするフリをしながら、訪問してくる業界人を横目に、「２人」について考え続けた。右手で取り上げたボディクリームを左手に持ち変え、そのまま元あった場所に戻す。
一向に後片付けは進んでいかない。「２人」……佐藤には劣るし、今までたいして信頼を寄せてはこなかったけれど、このときばかりは私は自分の勘というものを無視することはできない。
私と同い年の、佐藤の「１人目のお姉ちゃん」が「２人」のうちの１人だとする。道重さゆみ。となれば、もう１人は必然的に亀井絵里になるだろう。
まさかそんな、とは思いつつも私はその僅かな可能性を無視することができない。
あの自分の世界の中で自由奔放に生きている佐藤が神妙な面持ちで「たなさたんの知っている人が２人来ます」と言ってきたことからも、これは並大抵のことではない。
ますます、私はその可能性に囚われていく。
挨拶がひと段落する。いつも周囲に世話をされるがままの佐藤が、不慣れな様子でスタッフに楽屋から出て行くように指示を出している。
マネージャーには小声で何かをお願いし、私も周囲に倣って楽屋を出て行こうとすると引き留められた。
「たなさたん、会ってほしい人が……」
「誰？ れーなの知ってる人って、さっき言っとったっちゃけど」
「……とにかくもう少し待ってください」
私は急にこの場から逃げ出したくなる。楽屋には私と佐藤だけ。ほんの１分前まではあれだけガヤガヤとしていたのに、今ではお通夜の如くしんみりと静かだった。
佐藤のマネージャーが楽屋の廊下の先で、咳をする音が微かに聞こえるほどだった。
いっそのことさゆと絵里ならはっきりとそう言って欲しい。しかし、私が問い詰めたところで佐藤は口を割らないだろう。
いつだったか佐藤が「好きだよ、って歌詞で書いちゃうと全部ウソになっちゃうから」と言っていたことを何故か思い出す。
もしかしたら、佐藤は今もまたそれと同じように、明言することを恐れているのかもしれない。いや、明言されることを恐れているのは、私の方かもしれない。
廊下を誰かが……複数人が歩いて来る音が聞こえてきた。心臓を握り潰され、肺に釘が打ち込まれているような痛みが襲ってくる。こん、こんと楽屋をノックする音。
これが運命の音か、とくだらない言葉が脳裏に浮かぶのも束の間、佐藤が客人を招き入れる。
見たことのない女の子が２人。そして、恐れていた姿が２つ。さゆと絵里がそこにはいた。
鞘
「１０年ぶり、ということらしい、どうやら」亀井さんが挨拶のつもりかそんなことを言う。
「れーな久しぶり」道重さんがそう言うと、田中さんも「久しぶり」と緊張した面持ちで答えた。田中さんは私が勝手にイメージしていたよりもずっと可愛らしく、そして綺麗な人だった。
私とは比べ物にならないほど、顔の一つひとつのパーツがくっきりしていて派手だ。
「詳しい経緯については僕もよくわからない。ただ、ここにいる鞘師さんという……彼女こそが今日のライブで佐藤さんが言っていたギターの師匠ということらしいんだけど、
その彼女が色々と裏で動いてくれたみたいだ。僕たちがあれから１０年も経っているのに、ウジウジしているのを見かねてね」
ウジウジしてるなんて、と私は反論しようとしたけれど、田中さんの方が僅かに早く口を開く。
「さゆと絵里は―」
「ううん、さゆみと絵里も今日があの時以来。さゆみもよくわからないの。でも、まーちゃんを含めたこの子たち３人がさゆみたちの為に今日という日をセッティングしてくれたみたいなの。
さっき、それを聞かされたばっかりで、私もまさかこんな日が来るなんて思ってもみなかったから戸惑ってはいるんだけど……」
「ねぇ、僕はこういう意地悪を言いたくはないんだけれど……こうして僕たちは鞘師さんたちが考えた通り、再会を果たすことができた。そのこと自体には感謝するけど、これから僕たちはいったいどうすれば良いのかな？」
「どうすれば、って……」フクちゃんが少し棘のある声音で困ったように答える。
「私たちはただ、道重さんたちがちゃんと話し合う機会を作ってあげたかっただけで……」
「そうかい。それで僕たちは何を話し合ったらいいんだろう」
「絵里、そんなイジワルしないで」道重さんがフクちゃんを庇うように言った。
「ねぇ、れーな。れーなはいま元気にやってる？」
「元気って……まぁ、元気やけど……なんかそういう話をする場なん？ これ？」
「さゆみにもよくわかんないけど。まぁ、元気かどうかって結構大事なことだし、一応。とりあえず、元気ならよかった」
道重さんらしくない、的を射ない言葉。それを受けてなのか、亀井さんが口を開く。
「僕はあまり元気じゃないかな、さゆ」
「ねぇ、絵里、ふざけないでよ」
「ふざけてなんかいないさ。ところで、さゆは元気？」
「さゆみ？ まぁ、それなりに」
「そうかそうか、それなら良かった」
「絵里も言葉の割には元気そうったい」
「そんなことはないよ。どうやら僕は色々な人を傷つけてしまったみたいだ。昔みたいに性懲りもなく。そのことを僕は知らされて、いまとても苦しんでいる」
「本当に苦しい人は『苦しい』なんて口にはしよらんと思うっちゃけど」
「ところで、れーなちゃんは僕がどのようにして、いったい誰を傷つけたか聞きたいと思わない？」
「別に。何となく想像はつきよーし」
「被害者は語る、ってやつかい？」
「れーなは別に自分を被害者だと思ったことはないと。むしろ、れーなは加害者側やけん」
「ようやく僕の味方が現れたみたいだね、さゆ」
「れーなは加害者なんかじゃない」道重さんが亀井さんを無視して、田中さんに言う。「１番傷ついていたのはれーなでしょ」
「もう１０年も前のことやけんね。昔のことは忘れたと……でも、これだけは覚えとうよ。
絵里がいなくなった後、れーなはもっとさゆに優しくすべきやった。いや、違う。もっとさゆのことを大切にすべきやったと。
れーなには、れーながさゆを置いて東京に行った後、さゆがどんなことを考えて生きてきたか、そんなことはわからん。
でも、少なくとも、もしれーながさゆを大切にできていたら、れーな自身がこんなに困ってはいなかったと思うとよ。
今でこそこうやって人並みに生きてはいようけど、正直、１人でここまで生きてくるのはしんどかったけんね。
離れて生活してたとしても、せめ て時々連絡を取ったり、たまには会って近況報告しあったり、そういうことができてれば、もっとマシだったと思うと」
「じゃあ、どうして……」道重さんは悲しげな表情をして田中さんを問いただす。
その様子からでも、道重さんが心底田中さんとの結びつきを求めていたことが伺い知れる。
「れーなにも本当のところはわからん。やけど、れーなは多分、あそこから逃げ出したかったんだって思うと。
なんていうか、今でこそ、れーな達は多少まともになった気がしようけど……こんな久しぶりの再会でも、思ったより落ち着いて喋れよーしね。
でも、あの時はさゆとおっても、なんていうか底無し沼みたいな感じがしよったちゃね。さゆもそう思わん？
なんていうか、もしあのままれーな達が自立することを諦めて、ぐずぐずお互いに依存しながら関係を引きずっていたら、何もかもが台無しになっとった気がすると。
せっかくさゆが止めさせてくれたのに、きっとれーなは……いや、れーなだけやなくて、きっとその時はさゆも一緒に……身体を売って生きることしかできなっとったかもしれん。
まぁ、身体を売って生きていくことが悪いことだとも、今ではもう思わんけどさ。ただ、れーなが言いたいのは……今よりももっと死んだように生きていたんじゃないか、ってことったい」
「口を挟んで悪いけれど」亀井さんは頭を指で掻きながら言う。
「これは揚げ足を取るつもりでも、れーなちゃんを批判するつもりでもなく、話がこじれてきたから整理して言うんだけど、結局のところれーなちゃんは、さゆと一緒にいるべきだったと思ってるのかな。
それとも、やっぱり一緒にいなくて良かったと思ってるのかな？」
田中さんは亀井さんに視線を向けたまま、少し黙っていた。怒っているのかと思ったけれど、次に田中さんの口から零れた言葉は意外にも穏やかで、怒っているというよりは自分自身に呆れたような響き方をした。
「さぁ。ただ、れーな達が１回離れたのは良かったこと、というか、仕方のないことだったとは思うと。もっとうまくやれたかもしれんっちゃけど。
やけん、れーな達が離れたとこまでは良しとしても、その後またれーな達はちゃんとお互い歩み寄るべきやったかもしれん。
れーなはずっとさゆがれーなことを恨んでると思ってたけん、そんなことは怖くて絶対できんかったっちゃけど。でも、今日こうしてさゆと久しぶりに会って、ちょっと話してみただけでも、よくわかったと。
もうさゆもれーなもあの頃の子供じゃないし、お互いの傷を舐め合うとかそういうんじゃなく、普通の大人がそうするように、お互いを尊重し合いながら支え合えたんやないかな。
やけん、もっとれーな達は早くに再会すべきやったと。こんなに色んな人に迷惑をかけるんやなくて、自分たちの力で。そのためにも、れーなはもっとさゆに優しくしとくべきやった。
少なくとも、罪悪感からさゆに連絡を取るのが怖くなるようなことは避けるべきやった。いま話しとうみたいに、高校の頃にきちんと喋る力があれば……今さら昔のことを言っても仕方ないっちゃけどね」
道重さんはいつだったか、田中さんのことを話してくれた時、「どこまでも純粋で、それでナイーブで傷つきやすくて」と言っていた。
ギターを諦めるかどうかの狭間で弱っていた頃の私と似ている。だから、私はそういう田中さんを想像していた。
けれど、落ち着いて喋る田中さんの言葉を聞いていると、とても大人な人だと思った。むしろ、私が大人びていてカッコイイと思っていた亀井さんの方がずっと子供っぽく見える。
恩人である道重さんよりも、しっかりとした芯のある人だとさえ思う。
と、同時に少しばかり前に道重さんが言っていた、「１番傷ついていたのはれーなでしょ」という言葉にも納得がいく。
ずっと離ればなれだった道重さんには、本当に田中さんが１番傷ついていたのかなんてわかるはずもない。そもそも人の痛みには順番なんて付けられない。
それでも、痛みは人を成長させると私は思っている。だから、そういう意味では、確かに田中さんは１番傷ついていたのかもしれない。
「ねぇ、僕もれーなちゃんに賛成だよ。さゆもそう思わない？」
「賛成とか反対とかそういう話なの？」道重さんが訝し気に答える。
「そういう話さ。きっと。というか、僕はそういう話にしたいと思う。さっき外で僕は色々と失敗続きでとてもしょんぼりしてしまっていた。
これだけ大勢の手前、強がってみてはいるものの、やっぱり今でもとても落ち込んでいる。僕は鞘師さんを傷つけたし、さゆもれーなちゃんも傷つけてきた。
これは僕が捲いた種であるし、全ての責任が僕にあるということを否定するつもりもない。償えと言われなくても、僕は償いたい気持ちでいっぱいだよ。
ただ、それでも僕はれーなちゃんの話にとても共感している。君たちが女子高生だったとき、力のない僕は君たちをとことん傷つけてしまった。
そして、逃げるように君たちの前から去って、そのまま二度と会うつもりはなかった。僕なんかに関わってしまったら、また君たちが傷つく羽目になるって思っていたからね。
そう自分に言い訳をしてこれまで生きてきた。そうやって逃げてきたせいで、結果的に、僕は今となってもこうして鞘師さんを傷つけてしまう、成長のない体たらくを晒してしまうことになった。
でも、そうは言っても、僕だって完全にあの時のままというでもない。ましてや、さゆもれーなちゃんもあれから苦しみを乗り越えて、僕なんかが及びもつかないくらいに強くなっているんだろう。
だから、僕ももう恐れることはないんだと、いま、わかった。外でさゆが言ったように、僕はずっと思い上がっていたんだよ。自分の毒が、周りの人を殺すんだろう、なんていう風に思い上がっていた。
でも、もうそうじゃないんだ。僕なんかの力じゃもう君たちを傷つけることはできない。そう思えばこそ、僕は安心して君たちにお願いができる」
亀井さんは、私が一度も見たことのない表情で―屈託のない、子供のような表情で―笑った。不格好な涙を零しながら。
「僕とお友達になってください」
＊
オチから話すのであれば、私は亀井さんにフラれてしまった。そして、亀井さんの申し出は見事受理され、道重さんと田中さんと亀井さんは友達になった。
そこに恋愛感情のようなものがあるのか……私はあるとき道重さんに尋ねてみたけれど、「さゆみにもよくわかんない」と返されてしまった。
笑って一蹴するようであれば、その言葉が嘘であるという可能性もあったけれど（道重さんは嘘が上手だ）、本当に困ったように「よくわかんない」と言うので、嘘ではないのだろう。
年末、私とフクちゃんと優樹ちゃんは、例の如く、優樹ちゃんの家に集合し、鍋を囲んだ。私は道重さんの許可を取って、道重さんから聞いた道重さんたちの話を２人に聞かせた。
「私たちの誰かが男だったら、私たちもそうなってたのかな？」とフクちゃんが零す。
「まさ、春菊の入ったお鍋、好きです！」
「それはわかんないけど、何となく……そうはならなかったんじゃないかな？」
「ねぇ！ 無視しないでくださいよう！」
「そうかもね」
私たちには道重さんがいた。
もしかしたら、道重さんがいなければ、私のせいで３人の関係性は破綻してしまっていたかもしれない。
それを、主に私を救うという方法で、道重さんは私たち３人を救済してくれたのだと思う。
それから鍋を突きつつ、私たちは道重さんたちに起こった話を色々と妄想し合った。
道重さんから大まかな話の流れは聞いていたけれど、ディティールまではわからない。まるで、中学生に戻って、流行りの少女漫画の今後の展開を推測し合っているみたいな楽しさがそこにはあった。
いくらでも話は広がったし、深くなった。これまで読んできた色々な話のどのキャラクターよりも、あの３人は魅力的だと私は思う。
私はまるで自分がその話のストーリーテラーになったような心地で、道重さんから聞いた話と、道重さんと私の間にあったことを（まぁ、食卓を汚してしまわない程度の範囲に収めて）話す。
フクちゃんもそこに補足と彩を添える。優樹ちゃんは自ら何かを語って聞かせるということはしなかったけれど、ときどきハッとすることを言って、私たちを唸らせた。
理屈っぽく、どこか皮肉屋めいた亀。
博多弁で派手な見た目、でも芯が強い猫。
そして、憂いを帯び、知恵と優しさを持った兎。
物語のキャラクターとしては、充分魅力的で、同時に不可思議な３人だ。
こうやって鍋を囲む私たち３人もまたそれくらい魅力的な人間になれればいいな、と私たちは道重さんたちの苦労も知らずに、そんなことを考える。
「結局さ、私たちのしたことはよかったのかな？」私は尋ねてみる。
「３人を再会させたこと？」
「そう」
「まぁ、よかったんじゃないかな？」フクちゃんは上目遣いで考えながら答える。
「たなさたん、元気になりましたよ！」優樹ちゃんは箸を振りながら真っ直ぐ答える。
「それなら、よかった……よかったよ……」
「カメさんにフラれたやっさんだけ残念です」
「優樹ちゃん！」
よくある物語みたいに後日談を語ることは私にはできない。
優樹ちゃんが言った「たなさたん、元気になりましたよ」ということだけをこの話の後日談として添えることにしたい、と私は思う。
なぜならば、やはり未来というのはわからないし、わからないからこそ、そこには希望が存在できる。
フクちゃんは見事就活を成功させられるのか。優樹ちゃんは武道館公演を果たせるのか。私はギターとどう向き合い、ダンスで生きていくことができるのか。
そして、私たちの関係性……そうだ。後日談と言うならば、これを付け足しておかなくちゃ。
あれから少しして、フクちゃんが道重さんと私の間で起こったことを詳しく話すよう迫って来た。若干目を潤ませてにじり寄って来るので、私はあらかたのところを白状してしまう。
「そう、そんなことが」と言うフクちゃんの表情には、何か鋭く尖ったものが見え隠れしていた。
ずっと慕って来た大切な道重先生を取られたことに対する嫉妬なのか、あるいは……私はフクちゃんにベタベタしていた中学生の頃のことを思い出す。
「ねぇ、リホちゃん。もう１つ聞いていいかな」
「な、なに……？」
「優樹ちゃんとは何もないよね？」
「えっ、な、ないよ！ なんにも！」
脳裏に１つの映像がよぎる。私の家のソファの上。「まさもやっさんとなら、別にいいですよ」と彼女は大きな瞳で私を見つめて言っていたっけ……
未来はわからない。そして、そこに希望はあるのだろうか。
終
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