「ほ、本物の道重さんですかっ?」

聖は里保が連れてきたさゆみを認めると、アイスをつくるその手を止めた。
実は聖は、さゆみの大ファンであり、彼女の出る雑誌はいつもチェックしているのだとか。

「あ、す、すみません取り乱して……あ、あの、なにになさいますか?」
「フクちゃん落ち着いて。私はとりあえずバドワイザーで」
「じゃあさゆみはソルティードック」

聖はぺこりと一礼すると早速グラスを取り出してカクテルをつくり始めた。

「此処、よく来るの?」
「さっきの彼女がマスターです。フクちゃんと香音ちゃん。行きつけなんです、このバー」

紹介された香音もにこっと笑うと、後ろの棚からグラスを取り出した。
さゆみは感心したように「へー」と呟き、「珍しいね」と言った。

「めぐめぐ、こういうとこ来るんだ」
「なんかつい来ちゃうんです。落ち着くんですよ、ここ。静かですしね」

店内は平日だからか、里保たち以外に客はいなかった。
もともと席数もさほど多くなく、駅から少し遠いこともあり、静かに飲むには最適の場所だった。
しかし、その静寂の空間を突き崩す客が現れた。

「新垣さーん、可愛いですっ!」
「あんたはホントにうるさいから!」

その声に聞き覚えがあり里保は振り返り、驚愕した。
入口から歩いてきたのが、同僚の衣梨奈と、調査対象者の周辺人物である里沙だったからだ。

「お、里保も来とったと?」

往来で本名で呼ぶなとあれほど……と思うがもう手遅れだ。
里保は深くため息をつくと、苦笑した聖からバドワイザーを受け取った。
本名をさゆみに聞かれていないか、里保がハラハラしたのを察したのか、聖は衣梨奈に話しかける。

「えりぽん、今日も飲んでたの?」
「へへー。今日は新垣さんといっしょやったと!」
「あんたが無理やり連れまわしたんでしょーが。あ、すみませんなんかね」

里沙はこちらに気付いたのかぺこりと頭を下げた。
さゆみも同じように頭を下げると、衣梨奈は「おっ」と声を出し、里保の肩をぽんと叩いて耳打ちする。

「なんね、いっしょに飲みに来たと?」
「うっさい、バカ」
「ば、バカとはなんね!」

里保はいよいよ肩を落とした。
衣梨奈が里沙の勤める盲学校の職員として潜り込んだ話は聞いていたが、まさかいっしょに飲みに来るとは想定外だった。
いつの間にそんな仲に発展したんだと頭を抱える。

「あのー、知り合い?」

ぎゃあぎゃあと騒ぐ連れのもとに里沙が近づいてきた。
そこで漸く彼女は、「あれ?もしかして…」とモデル・道重さゆみという存在に気付いた。

「初めまして。えーっと…」
「あ、新垣ですどーも。このうるさいバカは後輩です」
「フフ、初めまして、道重さゆみです。一応モデルやってます。あの子は私のマネージャーなんです」
「そうなんだー。あ、すみません邪魔して…ほら、生田!あんた知り合いなの?」

里沙は衣梨奈の肩を掴むと強引に端の席に持っていった。
この様子だと、里沙から衣梨奈と里保の関係性を深くつっこまれそうだが、そこはもう仕方ない。
漸く脅威が去った里保は深くため息を吐く。さゆみはクスッと笑いながら、聖からソルティードッグを受け取った。

ふたりは静かに乾杯する。さゆみの口内に塩のしょっぱさとカクテルの甘さが広がった。
何処となくそれは、れいなのキスの味に似ていた。

「ねぇ、めぐめぐ……」

バドワイザーを煽る手を止め、里保は「はい?」と返す。


「さゆみになにを隠してるの?」


その言葉に里保の心臓が鷲掴みにされる。
どうして急にそういうことを言うのか、里保にはわからない。
まさか先ほどの衣梨奈の「里保」という呼び名だけでバレたのだろうか。
なんて返すべきか逡巡していると、彼女はグラスを置いた。

「ちゃんとさゆみは見てるんだよ?めぐめぐ、いっつも何処か遠く見てて、なんか寂しそうな顔してる。
 普通のマネージャーさんって、そんなことないのに、あなただけ、いつも。それに、さっきもあの子がリホって呼んだし…」

痛みが胸を貫く。
まさか気付かれていたなんて思いもよらなかった。
たぶん、本当の職業が探偵であることは気付かれていないだろうけど。

「さゆみは、あなたを信頼してる」

真っ直ぐに彼女は里保を見ていた。
グラスの中の氷がカランと音を立てて落ちる。汗をかいたグラスが光りに反射して綺麗だった。

「あなたは、だれなの?」

それはまるで矢のように、胸を射抜いた。
里保はいままでなんども、自分を隠し、調査としていろいろな企業に潜り込み、その度に偽名を使い、その人物になりきった。
鞘師里保だとバレたことはないし、自分から話したこともない。本名を知っているのは、探偵と衣梨奈、そして聖と香音だけだ。
調査対象者の周辺人物、しかも特に親しい人間に自分の名前を話すなど以ての外だ。
分かっている。分かっている。分かっているのに、言葉が滑り出そうになる。
なぜだろう?こんなにも真っ直ぐな瞳で、信頼していると言われたからだろうか?

「なにを、言ってるんですか?」
「ねぇ、誤魔化せてないよ、全然」

バドワイザーですべてを流し込もうとするが、なにかが喉に引っかかって取れない。
背中にかいた汗が腰まで降りてくる。真っ直ぐな彼女の瞳からは、逃れられない。
いままでなんども掻い潜ってきたことなのに、どうしてか、言ってしまいたくなる。
好きな人まで、欺きたくないと、想ってしまう―――

「……フクちゃん、銀滴ある?」
「水割り?」
「……ロックで」

里保はバドワイザーの瓶を叩きつけるように飲み干した。急に酒が回ったのか頭の中がぐあんぐあんと揺れ始める。
ああ、もう。なんでじゃ。なんでこんなに……こんなに、好きじゃって思ったんじゃ……

「私ももらえるかな、その…焼酎?」
「…かしこまりました」

さゆみの言葉に里保も、そして聖も一瞬だけ驚く。しかし聖は素直に頷き、新たなグラスをつくり始めた。
先ほどまでの浮かれた表情とは打って変わった真剣な瞳は、バーテンそのものだった。
衣梨奈と里沙にカクテルをつくりながら話をしている香音も、ちらちらとこちらの様子を盗み見る。

「むぎ銀滴のロックとチェイサーになります」

聖からそれを受け取ると、さゆみはクスッと笑い「かんぱい」と里保のグラスに当てた。
小気味の良い音のあと、さゆみはくいっとそれを煽った。麦の香りがいっぱいに広がり、あとから深みのある味が追ってくる。
飲み慣れない焼酎なのに、彼女はグラスの半分を飲み干した。
里保はそんな彼女の姿を見たあと、自分も銀滴に口づけた。優しくて甘い、それでいて深みのある銀滴が喉から胃へと向かう。

素直に、ただ単純に美味しいと思えて、里保は泣きそうになりながらも笑って見せた。

「……迷惑は、かけません」

グラスをカウンターに置き、里保はそう呟いた。

「道重さんには、絶対に迷惑をかけません。全部終わったら、お話しします、必ず」
「……さゆみは信頼できない?」
「裏切っていると感じても構いません。でも、私にはどうしても、やるべきことがあるんです」

やるべきことと言ったが、それはいったいなんだ?
田中れいなを脅迫すること?亀井絵里を叔父のもとに返すこと?
それが果たして、さゆみを裏切ってまでするべきことなのか?
好きな人を欺いてまで、人を傷つけることが仕事なのか?

「じゃー、待ってる」

ぐちゃぐちゃになる頭の中に響いたのは、彼女の言葉だった。
顔を上げると、さゆみはにこっと笑ってグラスを傾ける。

「全部話してくれるの、待ってる。だから、そんな泣きそうな顔しないで」
「道重さん……」
「ほらー、これおススメの焼酎なんでしょ?さゆみ飲んだことないから頭クラクラしちゃって…めぐめぐは強いんだねお酒」

さゆみは優しく笑ったあと、銀滴を飲み干した。グラスの中で氷が音を立てて崩れ落ちる。
くるくるとグラスを回すその仕草に見とれてしまう。

私はいったい、だれのために動いているんだろうとぼんやり思う。
次になにを飲もうか考えながらリキュールの並んだ棚を楽しそうにさゆみは見ていた。その横顔がとても、とても綺麗だった。
里保はさゆみの頬に唇を持っていく。キスをしてしまいたくなる衝動を堪え、その耳元で「里保です」と呟いた。

さゆみはきょとんとした顔で振り向く。

「本名は鞘師里保です。いまは、それだけしか言えなくて、ごめんなさい」

里保は精一杯の笑顔を見せて、そう告げた。
いま自分にできる誠意とは、たったのこれぐらいしかない。裏切っても、傷つけても、これが里保にできる限界だった。
彼女の名前を聞いたさゆみは柔らかく表情を崩し、メニューで顔を覆った。
まさか泣いてしまったのだろうかと一瞬心配したが、さゆみはメニューから顔を出し、「そっか」と微笑む。

「じゃあ、ふたりっきりのときは、りほりほって呼ぶね」

それはあまりにも優しい声で、さゆみはやはり、泣いていたのかもしれないとぼんやり思う。
里保自身、彼女の呼ぶ名前を聞いて、胸が痛み、瞳が涙を携えそうになった。
誤魔化すように、「……その呼び名、どうにかなりませんか」と苦笑するのがやっとだった。

「いーじゃん、りほりほって可愛いし。あ、なんかおススメある?」

そうして里保はメニューを渡された。
正直、自分も酒には詳しくないので困ってしまうが、なんだかこうやって悩むのも楽しい。
銀滴を煽って飲み干した。爽やかな麦焼酎の香りが口内に広がって心地良い。
なにを飲もうか、久しぶりに聖に聞いてみようかと思った。

「……やっぱ里保には向いとらんよ」
「んー?なによ、生田ぁ」
「なーんでもないです新垣さぁん」

衣梨奈はジントニックを飲み干して里沙に笑いかけた。
さて、これからどうしようかとぼんやり考えた。


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「田中さん、ホンマにだいじょうぶですか?」
「んー、らぁいじょ〜ぶやってぇ!博多らめんらぁ!」
「言えてませんやん……」

れいなは愛佳とともに自宅マンションのエレベーターに乗り込んだ。
あれかられいなは浴びるように酒を飲み、もう意識は半分夢の世界へと落ちかけていた。
吐かない分だけマシかもしれないが、呂律は回らず、ひとりでは歩くことも叶わなかった。
愛佳はれいなをタクシーで送り、そのまま部屋まで肩を貸している状態だ。

「部屋どこです?」
「れにゃはぁ……じゅーっとしゅきやったんゃって…」

会話が成立しないことにため息を吐く。
確か702とかだったようなと思い出しながら愛佳は表札を見る。

「はい、ビンゴ」

もう脚が動かなくなったれいなを強引に歩かせ、702の前にやってきた。
そういえば鍵はあるのだろうかと愛佳はれいなの腰ポケットに手を入れる。

「んにゃぁ〜、えっちぃ〜」
「えっちとかそういうことやないでしょ!田中さん鍵!」
「ん〜ぅ、だ・い・た・ん」
「アホかっ!!」

現在時刻、午前3時過ぎ。
そんな時間帯に玄関先で騒ぐなど学生のやることだと自覚していたが、れいなのこの酔い方に愛佳も振り回される。
普段は先輩を立てる愛佳だが、自分だって早く帰りたい。とにかくさっさと鍵をよこせと乱暴にポケットを荒らす。

「にゅ〜あぁぁー。ふぅ」
「変な擬音語使わんで下さい!つか鍵どこ!?」
「んふぅ、こっちぃ」

そうしてれいなは手品のように手から鍵を出した。
ああ、もう面倒くさい!と愛佳はそれを受け取ると鍵を回そうとする。

「あの……すみません」

瞬間にドアの向こうから女性の声が聞こえた。
愛佳は思わずぴんと背筋を伸ばす。まさか部屋を間違えたかと確認するが、表札は「田中」になっている。
確かに「田中」なんて苗字、日本に溢れているのだが。

「……れーなと、愛佳ちゃん?」

自分の名前が呼ばれたことに愛佳はハッとする。
そしてその声の持ち主を、彼女は知っていた。

「……亀井さん?」
「あ、愛佳ちゃんだね。待って、開けるから」

え、え?なんで亀井さんが此処に?待って、は?なん?と愛佳の頭は混乱していた。
しかし、整理がつかぬ間に扉は開き、部屋からはパジャマ姿の絵里が顔を出した。

「へへ、こんばんは愛佳ちゃん。れーなも、いっしょ?」
「え、あ、ああ、はい。飲みすぎたみたいでお連れしました」

未だに寝言のようにぶつぶつ呟くれいなを横目で見やりながら愛佳は言う。
絵里は困ったように笑ったあと、「ごめんね。あ、入って」と促した。愛佳は素直に従う。
壁に手をやって室内を歩く絵里の後を愛佳は追う。

「亀井さん、なんで此処に……?」
「ふえ?私れーなといっしょに住んでるの。最近だけどね。愛佳ちゃんはれーなの知り合い?」
「あ、じ、自分は職場の後輩です。田中さんにはお世話になってます……」

与えられた情報を必死に整理する。
絵里とれいなが知り合いだったこと以上に、いっしょに住んでいたことはショックだった。
確かに愛佳は、絵里の写真を見せたことはなかったが、まさか知り合いだったとは…
ハナからこの恋の勝負がついているような気がして、愛佳はがっくりと肩を落とすと同時に、ベッドにどさっとれいなを捨てた。

「んにぃー、っふぁぁぁ〜!」

普段は気を遣う自分なのに、こんなにぞんざいに扱うなんて珍しいなと思いながら愛佳はれいなを見る。
ベッドの上で楽しそうに声を上げるれいなは、普段の彼女からは想像もつかない。

「……れーな、なんで今日はこんなに黄色発散してるの?」
「は?黄色?」
「ん、なんか、色がさ……」

絵里は指で輪をつくると、「パッてさ」と声とともに弾けさせる。
全く要領を得ない発言に愛佳は眉を顰めるが、もうあまり考えないことにした。
実際、れいなは極端に酔うとこのように意味不明な言葉を羅列する傾向にあることを愛佳は知っていた。
こうなったときは放っておくしかない。たいてい彼女は、今日の記憶を忘れているのだし。

「酔ってるんです田中さん。放っておいて下さい。じゃあ、私はこれで」
「あ、愛佳ちゃん、もう遅いし、泊まっていけば?」
「ハハ、だいじょうぶですよ。ご迷惑はかけられませんから」

そうして愛佳はぺこりと頭を下げ玄関に向かう。絵里もゆっくりと玄関に歩いた。

「じゃあ、亀井さん……この前の話も、考えといて下さい」
「あ……うん、ぼちぼち」

絵里が困ったように返したので愛佳はくすっと笑い、外へと出た。
冷たい夜風が頬を撫でた。「複雑な夜やぁ」なと呟いたあと、愛佳はひとり、自宅へと歩き出した。


 -------


絵里は再び室内に戻り、ベッドでシアワセそうに寝転がるれいなへ近づいた。
酔っ払ったらみんなこうなっちゃうのかなぁと絵里は彼女の髪を撫でた。柔らかい髪に指を通すと、心臓が高鳴る。
もう、認めざるを得なかった。

「好き……なの……」

思わず口をついた言葉に絵里は顔を紅潮させた。
いつからなんて分からないが、絵里は知らない間に、れいなのことを好きになっていた。
あの雨の夜、濡れていた絵里に傘をさしてくれた瞬間から、変わらぬ愛を降り注いでくれたれいなのことを。

「んぅ〜……」

れいなはごろんと寝返りを打つとそっと目を開けた。
とろんとしたその瞳は果たして絵里を捉えているかは定かではなかった。
絵里は困ったような泣きそうな瞳のまま、れいなの髪を撫でる。
すると、急にその手首を掴まれた。
「え?」と思うのも束の間、ぐいっと力を込められ、そのまま絵里はベッドにダイブした。

「やっ…!」

絵里はすっぽりとれいなの腕の中に納まった。
酔った勢いで抱きしめられているのだと冷静に判断することはできなかった。
ベッドが軋むたびに心臓がどくどくと脈打つ。頭の中が真っ白になりそうになった。体が震え、呼吸が浅くなる。

「れ、れーな……?」
「むぅ〜……ふぁ……えりぃ?」
「う、うん。絵里、だよ?」
「んふふぅ〜。絵里っちゃ〜。絵里がおるっちゃ〜」

耳に熱い吐息を受ける絵里はびくっと反応する。どうしようもなく苦しくなる。
なんで?なんで?と絵里は口にしようとするが声にならない。
酔っているのだ、れいなは本心じゃないんだと必死に言い聞かせる。
それなのに、絵里の心は揺れる。期待している、自分がいる。

「えーりぃ〜……絵里ぃー。えーりっ」
「……はい、絵里、だよ、れーな」
「ニシシ、んぅー、絵里バリ可愛かねぇ……いー匂いがしゅるっちゃぁ」

れいなは絵里の肩口に顔埋め、肺に酸素を入れる。
甘い香りが鼻腔をつくのか、目を細めてれいなは笑うが、絵里はそれどころではない。
れいなのひとつひとつの動作に絵里は揺れ、惑い、少しだけ照れる。

「絵里ぃー、しゅきっちゃー」

瞬間に口から放たれた言葉に絵里は顔を上げた。
視線は絡まない。だが、確かにれいなの瞳は絵里を捉えていた。

「れなは絵里が好きっちゃ」

意味を求めて言葉がさまよい、羽根を得たあと、絵里へと届いた。
それは、いままで絵里が受け止めてきたどんな言葉よりも、重かった。
なにか言おうとするが声にならず、絵里は口をただパクパクさせる以外にない。

「ニシシ、えーーりぃぃー」

れいなはそう言うと目を閉じ、顔を傾けた。
彼女の色が明らかに変わったのを絵里は感じ取った。
それは楽しくて明るい黄色ではなく、彼女の本来の持つ水色でもなく、確かな情熱を秘めた紅色だった。

れいなの唇が絵里に優しく舞い降りた。
口内に侵入することも、舌で舐め上げることもせず、ただ重ねるだけのキス。それはたっぷり10秒はつづいた。
拒絶することもできず、絵里はただ黙ってそれを受け入れた。
あまりの出来事に、理性も欲望も失われた。驚愕と喜びと、そして微かな哀しみが入り混じってギターのようにかき乱す。

甘い音を残して唇が離れた。
れいなはそれを最後にベッドに深く沈むと、規則的な寝息を立て始めた。
夢の世界に落ちて行ったれいなと対照的に、絵里は現実の世界でただ唇を震わせた。
人差し指で唇をなぞり、そこに存在したれいなの唇を確かめる。

「っ……なんで……?」

絵里は眉を顰め、れいなにそう聞いた。彼女は答えることなく夢の世界を泳ぐ。
心臓がどうしようもないほどに早鐘を打つ。絵里はいつの間にか、泣いていた。

「れーなぁ………なんで……?」

絵里はれいなの腕の中、抜け出すこともできず、だが抱きしめることも叶わずに泣いていた。
もうすぐ太陽が朝を連れてくる午前4時過ぎ、絵里は体を丸め、自分を守るように深く深く、落ちて行った。

涙が枕に伝うのを止めることは、叶わなかった。





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