雨の海辺にはだれもいなかった。
そんな中で波打ち際に佇む私はずいぶん物好きかもしれない。
寄せては返す波の音を聞きながらふっと目を閉じた。


「ねぇ、似合う?」

ふいに、彼女が訊ねてきた。
眩しいくらいの太陽の下、肩にかけていたタオルを、胸元を見せつけるように広げて見せた。
私は思わず息を呑み、それと同時に彼女の両手を握って改めて胸元を隠させた。

「やめて下さい。男性のスタッフの方も多いんですから」
「へー。キミはスタッフを信用してないわけ?」
「そうじゃありませんけど……やっぱり、どうかと思います。撮影の合間に、そうして、見せびらかすのは」

しどろもどろになる私を見て、彼女は「ふーん」とつまらなさそうに唇を突き出した。
海辺の彼女が纏った水着は、今回の撮影でもう3着目だ。これは絶対カメラマンの趣味だと思うが口には出さない。
1着目は赤、2着目は白、そして3着目が青だ。実にシンプルでわかりやすいが、徐々に布の表面積が小さくなっている気がする。
そんな姿、あまり人には見られたくない。というか見せたくない。
写真集が売れてほしいとは思いつつも、見せたくないと願う気持ちは、かなり矛盾している。
この仕事は私が取ってきたものではない。事務所の意向だ。
仕方のないことだとは分かっている。分かっているけど、納得はできない。

「でも、似合ってるでしょ?」

そんな思考を遮るように、彼女はまた、私の前に立ち、胸元を軽く見せてきた。
もうこれは注意しても無意味だなと確信し、わざとらしくため息をついて目を逸らした。
それが不満だったのか、「みーてーよぉ〜」と彼女はぐいぐいと私に近づいてくる。
ああ、もう。真っ白で柔らかい肌が触れるたびに理性が飛んでいきそうになるからやめてほしい。
私はぐっと彼女の肩を持って押し返した。それが私にできる精一杯の抵抗だ。

「……可愛すぎるから、やめて下さい」

気付いたときには本音が滑り出ていた。
ハッと口を噤んだが、その時すでに彼女はきょとんとした顔をくしゃりと崩し、おもちゃを貰った子どものように笑った。

「フフ、やーっぱり私って可愛いんだぁ。良かったー。自信持てた」
「……そうしてすぐからかうの、やめて下さ―――」

精一杯の苦言を返そうとしたとき、私の体はふわりと彼女に抱きしめられていた。
周囲のスタッフが不思議そうな顔をしたが、特に声をかけることもせずに次の撮影準備をしていた。
私はといえば、突然抱きしめられたことに脳の処理能力は一時的にスパークし、
「ななななななにしてるんですかっ!」と子どものように慌てた。
が、私が押し返すのにも動じずに「嬉しいんだよ、すごく」と彼女は柔らかく返す。

「だれよりも、キミからそう言われるのが、いちばん、嬉しいの」

その声に、私は思わず押し返す力を弱めた。

「ありがと。元気、出た。行ってくるね」

それだけ云うと、彼女は私を解放し、踵を返してカメラマンたちの元へと戻っていった。
凛とした背中と真っ黒な髪が揺れる姿を、私はただじっと見ていた。
あの人がその瞬間に抱えていた悩みを、あの人が真に言いたかったことを、私はそこで汲み取ることができなかった。
唐突な寂しさと後悔を浮かべながら、ざざーんと寄せては返す波が静かに、彼女の姿を呑み込んでいった。


私はふっと目を開けた。
そこには先ほどと同じ海が静かに広がっている。
やっぱり私は、あの人の傍に居るのに相応しくないのだと思い知らされた気がして、自嘲気味に笑った。
傘を閉じ、歩き出す。
あの日と同じように、今日も此処は静かな雨だと天を仰いだ。


 -------


新垣里沙はパソコンを操作する手を止めてマグカップを傾けた。が、中身は既に空だったことを思いだして舌打ちする。
連日の寝不足が祟って作業能率は低い。先週仕事を休んでいたこともあり、今日も残業だ。
上司には「体調不良」と報告していたが、体調が悪いのは自分ではなく彼女だ。
その彼女の面倒を見るために休むなんて、献身的というよりも、ただの重苦しい偽善だと苦笑せざるを得ない。

「もう10日、なんだよねぇ……」

「あの事件」があってから既に10日が経過していた。
その10日の間に事態はいろいろと進展している。それは、どう考えても良好な事態とは言えない。
道重さゆみが倒れたことがその最たるものだ。
過労だと医者は話しているが、もっと根深い問題があるのではないかと里沙は考えていた。
所詮それは「勘」でしかないから、なんの根拠もないのだけれど。

また、さゆみだけでなく、絵里までも過労で倒れそうになっている。この状態でまだ倒れていないことが不思議なほどだ。
れいなの所属する事務所の寺田は、れいなの病状を考えつつ、仕事の振り分けに奔走している。
彼女の後輩である愛佳も仕事をこなしているが、あまり身が入っていないらしい。

そして里沙は、絵里の様子を見にいきつつ、自らの仕事をこなしている。
いい加減にこの重苦しい片想いという名の偽善を捨てなくてはいけないと分かっているが、どうも放っておけないらしい。
これは「恋」とかいう感情を超えた、あの夜の「贖罪」も含まれているのかもしれない。
彼女の気持ちが自分に向いていないと知りながら、自らの溢れる想いを抑えきれずに口付けた、あの夜の。

「眠い……」

思考が段々と鈍くなっていくのが分かった。
考えたくないことばかり浮かんでくる。
里沙は腕枕をつくって机に伏した。カタンという音がしたが、なにも倒れてこなかった。
そのまま素直にやって来た睡魔と手を取り、ゆっくりと夢の世界へと泳いで行った。


 -------


どれくらい眠っていただろう。里沙の鼻腔は仄かに珈琲の香りを掠めとった。
ゆっくりと頭を擡げる。壁にかかった時計の長針は先ほどより半周走ったらしい。ああ、寝すぎてしまったと腕を伸ばす。
マグカップに目をやると、そこには湯気の立った珈琲が淹れてあった。
あれ、私新しく淹れてから寝たんだっけと考えていると、なにかが肩からすとんと落ちる気配を感じた。

「なにこれ?」

床に落ちたのは、だれかの上着だったようだ。
こんな派手な紫色の上着なんて、里沙は持っていない。持ち主がだれかなんて、すぐに分かった。

「アイツ……」

里沙は苦笑せざるを得ない。
いったいいつの間に来て、いつの間に帰ったんだ。妙なところで気を遣う奴だな、気持ち悪い。
机上の携帯電話に手を伸ばし、履歴の中からその番号を呼び出した。
3コールで出た相手に対し、里沙は「あんたいま何処よ?」と訊ねた。

「あと5分以内に来なさい、此処に」
「えっ、えー?ご、5分はさすがにムリですよー!」
「どうせ近くにいるんでしょーが!来ないと私帰るからね。はいバイバ〜イ」

電話口で相手がなにか叫んでいた気がするが、無視して切ってやった。
果たして彼女が泣きそうな顔をしているのか、それとも破顔しているのか、そのどちらもありそうな気がした。
まあそれもどうでも良いことだ。どうせ彼女はあと5分以内に確実に此処に来るのだし。

「可愛いなぁ、もう」

いま、絵里が大変な状態であることには変わらないのに、里沙はそうやって想ってしまう。
それが罪深いことだとは分かっていたのに、心の色が優しく変わっていくのを感じざるを得なかった。
マグカップに手を伸ばし、口づけた。

「まずいよ、生田」

里沙はそうして、困ったように、だけど何処か優しく笑った。
都合の良い人間だとは分かっていた。絵里が苦しんでいるのに、絵里を想いながらも、彼女に惹かれている自分に嫌気も差した。
それでも、この一瞬だけは、不器用で真っ直ぐで鬱陶しい生田と珈琲が飲みたいと、思った。


―――――――


世界は静かな夜を迎えていた。
都会でも、空に浮かぶ星はこうしてちゃんと見えるのだと思いながられいなは車を降りた。
沖縄で見た夜空の星はとても綺麗だった。また撮影でも良いから行きたいものだ。
さゆみのマンションを下から見上げた。夜の街に佇む高層マンションはまるで摩天楼だ。


―――れーな


そのときふいに、自分を呼ぶ声がした。
思わず振り返るが、そこにはだれもいなかった。
まったく、幻聴なんて自分らしくもない。疲れているのだろうかと苦笑しながらエントランスへと向かった。
合鍵を取り出して開ける。オートロックの扉が開き、れいなを招き入れた。
エレベーターへ乗り込み、階数ボタンを押す。静かな箱がゆっくりと昇りだす。

先ほど聞こえた声が妙に気になった。
それは、れいながよく聞き慣れた声だった気がしたが、その人物の顔も名前も、分からない。
れいなはその声の主を、知っている気がした。分からないのではなく、思い出せないような、感覚。

―なんで?

ふいに浮かんだ疑問に眉をひそめた。なぜ急にそんなことを考えたのか、分からない。
れいなが困ったようにこめかみを掻くと、箱は目的の階にたどり着いた。
思考を振り払うように大股で歩き、彼女の部屋の前でインターホンを2回押し、合鍵を回した。

「いらっしゃい、れいな」

ドアを開けると同時に降ってきた声にれいなは笑って返した。
ああ、やっぱり彼女の笑顔を見ると落ち着くと肩を下ろす。

「ご飯食べたと?」
「もう何時だと思ってるの?とっくに、だよ」
「れなンこと待っとってよー」
「待ってたってどうせそんなに食べないくせに」

さゆみは苦笑しながられいなの前を歩く。
風呂上がりなのか、彼女からは微かにシャンプーの香りがした。まとめ上げた髪からは湯気が立ち上っている気もする。
思わず生唾を呑み込むが、さゆみは気にせずにソファーに腰を下ろした。

「なんね、飲んでたと?」
「まーね。れいな待ってる間、暇だったし」

さゆみは飲みかけのグラスを傾ける。
透明な液体にいくつか氷が浮かんでいる。見た感じはただの水だが、匂いはアルコール特有のものだった。
焼酎とはさゆらしくもない、と、れいなはそのグラスを彼女の手から受け取った。
そして匂いをかぎ、思い切り顔を歪めた。やっぱれなは下戸っちゃ。
れいなはグラスをテーブルに置き、彼女の隣に座った。
彼女もそれを分かっていたのか、グラスには手を触れず、れいなの手を握った。
OKってことやろ?と解釈したれいなはさゆみと向き合い、「さゆ……」とその名を呼んだ。

「っ……待って」

口付けようとした直前、さゆみはれいなを拒んだ。
なぜ?という想いが強くてれいなは眉をひそめたが、彼女は「シャワー、浴びて?」と促した。

「待てん。いまシたい」
「えっち…ばか。ちゃんと浴びてくれないとヤダ」

さゆみはそれだけ言うとグラスを持って自室へと歩いて行った。
普段はそんなこと気にしないくせに、とれいなは頭を掻いたが素直に立ち上がり、浴室へと向かった。


服を脱ぎ、蛇口を捻った。
温かいお湯を体に掛けると浴室が湯気に包まれていく。まるで幻想的なその世界に少しだけ見とれる。
温泉というものがれいなは好きだった。この仕事をしていると、よく地方に行くことがある。
その際、できるだけれいなは温泉に入るようにしていた。
まあ自分の貧相な体を見てげんなりすることもあるのだが、疲れを癒してくれる場所が大好きだった。
だからシャワーを浴びるだけでも、お風呂は嫌いじゃない。
もっとも、いまは、これから始まるであろう行為に対して胸を膨らませているから、という理由もあるのだけれど。

シャワーを止めてボディソープに手を伸ばし、そういえば風呂場で自慰行為をすることもあったっけと過去を思い起こす。
幻想的な空間、周囲に反響する音に脳を支配され、指先は胸や下腹部を忙しく弄る。
あれ。あのときは、だれを想って指を伸ばしたんだっけ?


―――「――――」


そのとき、まただれかの声が聞こえた気がした。
顔を上げるが、当然此処にはだれもいない。今度はなにを言っているかまでは、分からなかった。
なんども幻聴が聴こえるほど疲れているのだろうか。そういえば偏頭痛のように頭が重い。
確かに最近は仕事が忙しい。後輩の愛佳の個展も決まっているし、れいなも新しい仕事が入っている。

「……なんやっけ?」

そこまで考えて、体を洗う手を止めた。
ここ数週間、確かに会社は忙しい。愛佳には個展の仕事、れいなには新しい仕事、寺田はその調整で奔走している。
れいなの新しい仕事って、なんだっけ?

「れいなー。着替え置いとくね」

そんなさゆみの声が脱衣場から聞こえたが、生返事をする。
風呂場は霧に包まれたような空間を演出する。頭の中の靄がまだ晴れない。それどころかすべてを覆うように濃くなっていく。
妙にそれが不快だった。
自分に対して腹が立つ。なんだというのだ、この感情は。
れいなは荒っぽく髪を掻き毟り、頭からシャワーを被った。
さゆみのことを、すぐにでも抱きたかった。


「早かったねー。ちゃんと体洗った?れいな時々飢えてるみたいだからなー」

ベッドの上で雑誌を読んでいたさゆみはれいなを見てからかうように笑った。
れいなはまだぽたぽたと髪から水滴が垂れているので、なにも返せない。返そうとも思わなかった。
タオルを床に落とすと、「彼女のお望み通り」にベッドに上がり、彼女を押し倒した。
さほど力をくわえなくても、さゆみは背中をベッドに預ける。ぼふっという音のあと、れいなはさゆみにキスをした。

「んっ……」

彼女から抜けるような吐息を感じた。
唇をぺろりと舐めると、彼女もゆっくりと口を開く。
するっと滑り込んで歯列をなぞった。

「んっ…ん。……ふっ…」

さゆみの内頬を舐めたあと、舌を絡めた。
彼女が先ほどまで呑んでいたであろう焼酎の味に眉を顰める。不快ではないが、酔っ払いそうになる。
だけどこのまま、酔いしれてしまいたい。さゆみにすべてを委ねて、溺れてしまっても構わない。
れいなは彼女のシャツの中に手を滑り込ませる。下着をつけていない胸元に触れると、「んっ!」と微かに高い声を漏らした。

「さゆっ……」

べろんと舌で唇を丹念に舐め上げ、顔を離した。
呆けたような蕩けた表情にぞくぞくしながらシャツの中の手をゆっくりと動かす。
さゆみはれいなの手の律動に合わせるように「んっ…」と甘く声を弾ませ、恥ずかしそうに顔を逸らした。

いつの間にか部屋の電気は消えていて、彼女を照らすのはカーテンから漏れる月明かりだけだった。
今日は満月なのか、下弦の月なのかも、れいなには分からない。ただ彼女は綺麗にその白い肌をシーツの上に晒している。
シャツを首元まで捲りあげると、さゆみの真っ白な裸体が浮かび上がった。
月とさゆみはよく似合う。まるで満月から舞い降りてきた女神のようだ。
れいなはさゆみの胸元に顔を埋めた。彼女はびくっと体を震わせる。舌を突き出し、柔らかな乳房を舐め上げる。

「あっ…あ、あっ……ん」

甘い声を漏らすさゆみに欲情していく。
耳朶を甘噛みし、乳房を揉みし抱くと彼女は甘い吐息を夜の中で漏らしていく。
切なそうに脚をもじもじさせ腰を揺らす姿にどうしようもなく胸が締めつけられた。
彼女を抱きたい。抱きしめたい。この指で彼女の奥まで、貫いてしまいたい。もっと彼女を乱したい。そう、心から、願う。

「んっ、ん…」

闇に切なげな声が浮かんでは消える。
呼んでほしい。もっとその甘い声で、れいなの名前を。

「さゆっ…」
「んっ…あっ……れいな……」

れいなは左手で形の良い胸を弄りながら、右手でなんども脇から腰のラインを撫でる。

「あっ!!」

指先でぴんと乳首を弾いた。
爪を立てるようにしてそこを弄ると、さゆみは短く息を漏らし、頬を紅潮させて目を逸らした。
そんな彼女を逃さないように強引に口付ける。
さゆみは嫌がるように押し返すも、自然と口内の舌は絡み合い、互いを求めていた。
カリカリと音がするほどに突起を弾くと「ふっ…んっ、ん!んん!」という彼女の声が口の端から垂れた。
れいなは唾液を抽挿しながら右手を彼女のズボンの中に入れた。

「んっ―――!」

下着の上からそこをなぞると、既に熱を帯びていることが分かった。中を見なくても、どれほど愛液が溢れているか想像がつく。
すぐにでも触れたかったれいなは唇を離し、「さゆ…」と見つめ合った。
だらりと太い唾液が橋のように互いの唇を繋ぐ。
さゆみもまた、真っ直ぐにれいなを見つめ返し「れいな……」と名を呼ぶ。

「可愛いっちゃよ、さゆ……」

素直な、とても真っ直ぐな想いを、れいなは口にした。
さゆみは、驚いたように目を開け、そして何処か寂しそうに、切なそうに目を伏せた。
その反応は少し意外だったが、れいなは意に介さずに下着の中に手を入れた。が、その手首を、さゆみに捕まれた。
彼女の予想外の行動に今度はれいなが目を丸くする番だった。

「さゆ……?」

愛撫が足りなかっただろうかとか、焦らしプレイだろうかとかいろいろと考えるが、そのどれでもないことは、彼女の目を見れば分かった。
あまりにも切なそうな色を携えた瞳に、息を呑む。
彼女はそっと上体を起こし、れいなを尻目にベッドから降りた。
そのままカーテンを開ける。
大きな月が真っ直ぐにれいなたちを見降ろしていた。怖いくらいの輝きに、れいなは目を細めた。

「……ダメだよ、れいな」
「えっ?」
「やっぱり、私たちの居場所は、此処じゃないんだよ」

静かに、まるで言い聞かせるように言葉を紡ぐ彼女に、れいなは眉を顰めた。
彼女の真意が分からない。なにを言いたいのかが、理解できない。
だが、彼女に腕を伸ばす前に、「忘れちゃダメだよ」と彼女が言った。
瞬間、ズキッと鋭い痛みが後頭部を襲った。


「れいなも、私も、逃げちゃ、ダメなんだよ」


その言葉が胸に、頭に、心に、突き刺さった。
さゆみの瞳は真っ直ぐにれいなを射抜いている。
だけどその視線の先に居るのはれいなでなかった。
さゆみが見ているのはいったいだれなのだと、れいなはカラカラになった喉で、聞きたくなった。





第42話へ...
 

ノノ*^ー^) 検索

メンバーのみ編集できます