そろそろ今日のお昼ご飯を考えないと、そう思っていた時刻に、スマホがLINEの着信を知らせる音が鳴った。
テーブルに置いてあったスマホを取り上げて見てみると、去年の夏にID交換をした、ヤ◯トの小田ちゃんからだった。

『さゆみさん、今ご在宅ですか?』

とだけ書いてあったので、

『うん。いるよ』

返信する。するとすぐに、

『では伺わせていただきます』

そう返ってきた。
荷物かな、と思ってハンコを用意して少しだけ待っているとチャイムが鳴った。
玄関のドアの先にいたのは、予想通り小田ちゃん。
 ̄ ̄ ̄ ̄ただ、制服姿じゃなくてラベンダー色のワンピースにニットカーディガンという私服姿だった。
面食らっているさゆみを他所に、にこやかに、

「今日610号室に引っ越してきた小田です! これからお世話になります」

言いながら引っ越し蕎麦を渡される。
さゆみは今朝の記憶を遡って、あることを思い出した。

「午前中にヤ◯トのトラックが長くマンションの前に止まっていたから、なにかと思っていたんだけど……
 そっか、去年の夏に『引っ越ししたい場所がある』って言ってたもんね。まさかこのマンションだとは思わなかったけれど」

そう答えると、

「はい。実はここだったんです」

小田ちゃんは悪戯っこい笑みを浮かべて言った。

「元々、皆さんにはご挨拶するつもりでしたが、
 大家さんに『なにかあったら大家の自分より1105号室の田中家のさゆみさんに相談したほうがいいかも』とも言われまして。
 それで、これから他の皆さんにもご挨拶したいのですが……」

皆さんご自分のお部屋にご在宅でしょうか? と尋ねてきたので、

「吉澤さんなら、今日は仕事で隣の1104号室の『Y・H』に、れーなと小春クンていう男の子といるよ。
 フクちゃんや香音ちゃんも、それぞれ家にいるんじゃないのかな」

と推測半分で答えてみる。

「そうですか。ありがとうございます」

深々とお辞儀をされたので、さゆみは軽く会釈を返す。

「でも……610号室かぁ……」
「?」

さゆみが遠い目をして言うと、小田ちゃんは不思議そうな表情をしたので、

「あ・さゆみね、独身のときにその隣の609号室に住んでいたの」

あっさり答えると、小田ちゃんは「そういえば……」と話を続けた。

「609号室は今日の午後に新しい方が入居するらしいですよ」
「そうなんだ。いい人だといいね」
「はい」

たとえ人間関係が希薄になった現在とは言え、隣人がいい人に越したことはない。
小田ちゃんは、もう一度深々と頭を下げて、

「では吉澤さんにご挨拶をしてきます」

そう言って去って行った。
ドアを閉めて鍵をかける。それから貰ったお蕎麦をマジマジと見た。

……昨日、フクちゃんから鴨肉を貰ったから、お昼ご飯は鴨南蛮でも作ってみようかな。

そんなことを考えながら、優樹のいるリビングに戻った。




わたし、こと小田さくらは、さゆみさんへの挨拶を済ませた後、隣の1104号室のチャイムを鳴らした。
ドアにはプレートが掛けられ、確かに『Y・H』と書いてある。
部屋の中から、

「小春、客やけん。玄関に行けっちゃ」

聞き覚えのある声が聞こえてくる。

「小春は今練習中なんです〜、田中さんが出てくださいよ」
「アホ。れーなは仕事で彫り中なのが見えんと? いいから行け」

そんなやり取りとドスンバタンと音が聞こえ。
キイ、と音を立ててドアが開いた。

「いや〜お待たせしてスミマセンねえ。えっとご予約の方ですか?」

そんな声と共に顔立ちは整った男の人が出てくる。

「いえ……お客さんじゃないんですけれど。今日このマンションに引っ越してきたのでご挨拶をしていまして。あの、吉澤さんは?」
「あ・吉澤さんの知り合いっすか。へー……」

……なぜか首と視線が上から下まで動いて、わたしを見る。
そして、

「石川さんに知られたら、吉澤さん、また殺人バックドロップをかけられるかも……」

……なんだか縁起の悪いことを呟かれてしまった。

「あ、あのー」

男の人は誠実感の無い笑顔を浮かべながら、

「あ、吉澤さんっすね。今ちょっと出かけてますよ」

と言った。

……それなら仕方ない。引っ越し蕎麦の袋を掲げて、

「これを吉澤さんに渡しておいてください」
「これはこれは。わざわざ、すみませんねぇ」

軽薄そうに袋を受け取った。

「お仕事中に失礼しました」

頭を下げて、ドアを閉める。
踵を返して、次の部屋へと向かう途中、今会った、小春クン、とやらを考えてみる。
印象としては、 ̄ ̄ ̄ ̄へらへらして軽そうな人、それだけだった。


階段を一階分だけ下りて、のんびり歩く。
着いたドアは1002号室。表札は『生田』と『譜久村』の二枚がある。
ピン・ポーン♪ とチャイムを押すと、しばらくしてから、はーい、と中から聞こえた。
ドアが開けられ、出てきた人は……譜久村さん。

「あれ、小田ちゃん。宅配便?」

そう言ってハンコを取りに戻ろうとするので、慌てて、

「違います、違います」

と制す。

「今日、このマンションに引っ越してきたんです。ですのでご挨拶を、と」

お蕎麦を渡すと、

「わざわざありがとう」

と笑顔を返してくれた。
……思わず譜久村さんの姿をマジマジと見る。

「お風呂、入っていたんですか?」

バスローブ姿だし、髪は濡れているし、全身がほんのりピンク色になっていて、……すごく色っぽい。
湯上り美人、って言葉がすごく似合うなぁ、と感心と感想が半々の思いを抱いていると、

「うん。早めのお昼ご飯を食べてからシャワー浴びたの。……まぁ休憩も兼ねて、というか」
「?」

最後のほうは言葉が小さく、早口になっていた。心なしかピンク色の頬が更に色を濃くさせたような……?

少し恥ずかしそうにしている譜久村さんと、大きな疑問符が浮かんでいるわたし。
そんなわたしたちの空気を破ったのは、部屋の奥から、

「聖ぃ、なにやっとるとー?」

という声と、その声の主だった。

「昼メシも済んだし、早く8ラウンド目をするっちゃ」

言いながら現れたのは、譜久村さんのパートナーの生田さん。

……全裸で。
……すっぽんぽんで。
……前も隠さず、ぶーらぶら。

「す、す、すみませんっ!」

顔を真っ赤にして、なぜかわたしが謝った。
生田さんは意に介さず後ろから譜久村さんを抱き締め、

「湯上りの聖は、ばりエロかぁ。俺、あと10ラウンドはヤレそうたい。……ってあれ? 小田ちゃん、おったと? 宅配便?」

生田さんはようやくわたしに気付いたようで視線を向けてくれるけれど、こっちは、お二人の姿を見れません!

「い、いえ、ちょっとご挨拶を……わ、わたし失礼します!」

慌ててドアを閉める。
……閉めたドアの向こうから、なんだか艶っぽい声が聞こえてくるけれど、心に耳栓をする。
……えーと。
取り敢えず……。
……お楽しみ中に失礼しました……。


再び階段を上がって、今度は1106号室へ。表札が『鞘師』になっていることを確認してから、チャイムを鳴らす。
すぐに「はーい!」と返事が来て、ドアが開けられる。

「さくらちゃん? 宅配便……じゃないよね、その格好は」

元気よく出て来た、お腹の大きな香音さんに、笑顔で「今日このマンションに引っ越してきたんです」と答えた。

「そうなんだぁ、何号室?」
「610号室です」
「ちょっと遠いけれど、それでもご近所さんだね。これからよろしくね」

無邪気な笑顔で言われて、こっちも「よろしくお願いします」素直に返事する。
お蕎麦を渡すと、

「わざわざいいのに……」

そう言われてしまったけれど、こういう礼儀は大切だと思いますので。

「散らかっているけれど、良かったら中に入ってよ」

誘われたので、ここは遠慮せずに、

「じゃあ、お邪魔させていただきます」

と中に入る。

…………。

よく「散らかっているけれど」というのは謙遜の言葉として使うものなんだけれど。
今。鞘師家は……段ボール箱やら衣服やらで、本当に散らかっていました。
言葉が出て来ず、床に転がっているバットを無言で跨いでリビングの椅子に座る。

「ここまで散らかっているなんて思わなかったでしょ?」

香音さんが笑顔でキッチンで紅茶を淹れてくれている。

「いえ、そんな……えっと……生活感がよく出ているお部屋じゃないですか」
「無理しなくていいから。今ね、里保ちゃんが単身渡米の準備でこの有様なんだよね。
 あたし、綺麗好きだから、早く片付けてよ、って何度も言ってるんだけれど、
 里保ちゃんのポンコツぶりだと、これでも精一杯に荷物を纏めているみたい」
「そうなんですか……」
「あたしも手伝っているんだけれど、里保ちゃん、あれもこれも持って行きたいらしいから、なかなか荷物が纏まらなくてねー」

はい、と出されたダージリンの受け皿には小袋入りのクッキーが二枚添えられていた。
お互いに向き合って紅茶を飲みながら、ゆっくり他愛もない話をする。

「旦那さまの渡米はいつ頃ですか?」
「んー、里保ちゃんが言うには『はよ行きたいが、お腹の子が産まれるまでは日本におるんじゃ』……だってさ」
「予定日は……」
「たしか、2月の頭だったよ」
「じゃあ、もうすぐですね」
「うん。さくらちゃんは引っ越してきたってことは、今日はお休みなの?」
「はい、それと荷解きのために明日は有給をもらいました」
「だろうね、引っ越した翌日からお仕事ってキツいしね」
「わたしもそう思いましたので」
「でも……荷解きや整理が今日明日するつもりなら、それまでのご飯はどうするの?」
「簡単な調理器具やお皿とかはすぐに出すつもりですけれど……このマンション、1階がコンビニじゃないですか。ですのでコンビニ飯にも頼るつもりです」
「それだと栄養が偏らない?」
「まあ少しの間だけですので」

少しおどけて言ってみると、香音さんは立ち上がってキッチンに向かう。

「それじゃあダメなんだろうね」

そう言って冷蔵庫と冷凍室を開けて、幾つかのタッパーを取り出した。

「里保ちゃんのために作り置きしておいた料理があるからさ、少し持っていきなよ」

言いながら、トン・トン・トン、とタッパーをテーブルに置く。

「そんな……悪いですよ」
「いーのいーの。困ったときはお互い様なんだろうね」

小鯵の南蛮漬け・豚肉の生姜焼き・温野菜サラダ・カレー……次々と置かれていく。

「下の新垣マートでレトルトご飯を買って、あとはレンジで温めればいいから。ね」
「香音さん……。ありがとうございます……」

頭を下げると、ひらひらと手を振られた。気にしないで、という意味みたい。

「ちょっと待って。都合のいい紙袋に入れるから」

言いながら部屋を移動する香音さん。と、手が当たってキャビネットに積んであった本が崩れて床に落ちた。

「あ、わたしが拾います」

屈もうとする香音さんを手で制して、本を拾う。
その本たちは……どれもスポーツ医学の関連書ばかりだった。

「これも旦那さまの物ですか?」

顔を上げて尋ねると、

「ううん。それはあたしの」

香音さんは恥ずかしそうに言った。
本を全部拾って渡すと、

「……里保ちゃんが渡米して、もし怪我をしたときに、あたしに少しでも知識があれば支えになってあげられるかな、と思ってさ。
  ̄ ̄ ̄ ̄将来、お腹の子が産まれて、手がかからなくなったら、本格的に勉強するつもり」
「それは……素敵なことですね」

香音さんは本を、今度はちゃんと本棚に収めた。

「あの。……お腹、触っていいですか?」

「うん、いいよ。触ってあげて」

 ̄ ̄ ̄ ̄わたしは慎重にゆっくりと香音さんのお腹に手を当てて、かるくさすった。

「元気な子が産まれるといいですね」
「元気で、あとは里保ちゃんみたいに変態じゃなかったら、それでいいんだろうね」

愚痴のような惚気を、わたしは口角を上げて笑っただけで、なにも言わなかった。

 ̄ ̄ ̄ ̄どうか、パパとママみたいに元気な子でありますように。



すっかり長居してしまった鞘師家を後にして、わたしは自分の部屋へと戻る。
隣の609号室は、引っ越しの最中らしく、ライバル業者の制服に身を包んだ男性たちが家具や段ボール箱を運んでいる。
わたしは香音さんから戴いたお料理を冷蔵庫や冷凍室に入れてから、今度はエレベーターを使って1階へと下りた。
コンビニ、新垣マートに入ると、いらっしゃいまへ〜、と半分寝ているような声が出迎えてくれた。
わたしはレトルトのご飯パックと紙パックのお茶だけ選んで、すぐにレジに行き、会計を済ませて店を後にする。

ガサガサとコンビニ袋を鳴らして、再びエレベーターで6階へ。
お隣さんは、荷物が運び終わったらしく、さっきまで出入りしていた業者はいなくなって、ドアは閉められていた。
……今ならお隣さんは部屋にいるだろうし、挨拶するチャンスかな。
そう考えて、お茶を冷蔵庫に閉まってから、引っ越し蕎麦の袋を掴んで部屋を出る。
隣の部屋のチャイムを鳴らすと、すぐに中から「はーいっ」と元気な声が返ってきた。
声からして男性かぁ、なんて考えながら、

「あの、わたし、今日隣に引っ越してきた者ですけれど、ご挨拶をと思いまして」

準備していた口上をドアに向かって伝える。
中からバタバタと忙しい足音が聞こえてくる。

「あ、僕もさっき引っ越してきたんです。奇遇ですねっ!」

言いながらドアを開けたのは、 ̄ ̄ ̄ ̄。


「石田っ!?」
「小田ぁ!?」


お互い、揃って相手の名前を叫んだ。

「な、なんで小田がいるんだよ! お前は僕のストーカーか!?」
「相変わらずの馬鹿ですね。さっき今日引っ越してきた、と言ったじゃありませんか!」
「僕も今日、っていうか、さっき引っ越し作業が済んで……ってことは」

お互い、相手に向かって、すごく嫌そうな顔をする。

「石田……」
「小田……」

揃ってビシッと指を差し、

「「アンタがお隣さん!?」」

同時に叫んだ。
わたしは露骨に顔を歪める。

「うわ、最悪……」

そう言うと石田も顔を歪める。

「隣に住むのは可愛い女の子、ってのがお約束なのに、それを覆す僕の運の悪さってなんだよ。 ̄ ̄ ̄ ̄小田、今すぐ引っ越しをし直せよ」
「それはこちらの科白です。だいたい数時間の差でも、わたしのほうが早く越してきたんですから、アンタが出て行くのが常識だと思いますけど?」
「うっわー! 相変わらず可愛くない女だな!」
「アンタに可愛いなんて思ってもらいたくないです!」

 ̄ ̄ ̄ ̄他の住人への迷惑、なんてものを考えずに、マンションの廊下で喧々囂々と醜い口争いをする。

「とにかく、僕は仲良くする気なんてないからな」

胸の前で両腕を組んで、軽く睨んでくる。

「それは嬉しいです、わたしもそうですから」

わたしは眉間に力を込めて深くシワを寄せる。

「 ̄ ̄ ̄ ̄それでは引っ越し挨拶は無かったことにしてください」

お蕎麦の袋を掴んだまま、ひらりと踵を返し、 ̄ ̄ ̄ ̄。
がしり、と右腕を掴まれた。
その力強さに、一瞬だけ心臓が跳ね上がる。

「 ̄ ̄ ̄ ̄待てよ小田」
「な、なんですか……」

 ̄ ̄ ̄ ̄おかしい。なんで自分はこんなに弱々しい声を出しているんだろう。
なんで振り向いたとき、目が合った石田の眼光の鋭さにドキドキしているんだろう。
自分のことなのに……訳が分からない……。

「……てけよ」

ぼそっと聞こえた声。

「はい?」

意味が分からなくて、思わず聞き直す。
石田は少し困った顔で、 ̄ ̄ ̄ ̄。

「……挨拶はいらないから蕎麦は置いてけよ」

 ̄ ̄ ̄ ̄わたしの頬の筋肉が引きつった。

「い、石田……アンタ……」
「ぶっちゃけると、引っ越し費用で今月の給料日まで、かなりのピンチなんだ。だから、蕎麦は寄こせ」

こ、この、デリカシーゼロ男!!

バシン!!
蕎麦の入った袋を振り上げて、思いきり石田の顔面に叩きつける。

「ほらっ! 確かに渡しましたから!!」

袋で眼前が見えないであろう石田に向かって、力いっぱい、ベー! と舌を出して、頭から湯気を立てながら、わたしは部屋に戻った。



もう片方の隣室、611号室は空室だったので、自分でも理由の分からない怒りに身を任せながら、荷解きをしていく。
空気の入れ替えの為に窓を網戸にしていると、隣にいる人間の、聞きたくもない声が風に流されながら聞こえてくる。

「あ、はい……明日は午後からの勤務ということで……はい、お願いします……」

……引っ越しの翌日に仕事を入れているなんて、本物の馬鹿ですね。
衣類をタンスに入れたり、プチプチで包んだ食器を戸棚に入れたり、ダンボール箱を潰していると、
電気を付けていなかった部屋はいつの間にか暗くなっていて。
タイミング良くお腹もクウ〜、と鳴ったので、夕ご飯にすることにした。
電気を点けて、乱雑にガスや電気などの書類が置かれているテーブルの上を片付ける。
もう換気も充分だろう、と思って窓を閉めようとすると、 ̄ ̄ ̄ ̄。

ぐう〜っ。

……盛大な腹の虫が隣から聞こえた。つい、窓を閉める手が止まる。

今の……アイツのお腹の音ですよね。
……そういえば引っ越し費用のせいで、今月ピンチだって言ってましたよね。
…………。
昔と変わらなければ。……アイツの金銭感覚ってかなり変なんですよね、マイナスの意味で。
その……普通の人なら三日分の食費で、アイツは一ヶ月は大丈夫なんですよね。
……新聞を取る余裕が無い、と言って激安スーパーのチラシをわたしから貰っては、食い入るように見ていましたっけ。
…………。
……………………。
まあ……知っている人間が、しかも隣室で餓死されると、物凄く後味が悪いですし。

わたしは意を決して、ベランダに出る。

「……ちょっと、石田ー」

…………。
無反応。
少しだけイラッとしながら、さっきより大きい声を出す。

「馬鹿石田っ、聞こえてるでしょ!」
「……なんだよ馬鹿小田」

ようやく弱々しい声が返ってきた。

「喋ると体力消耗するんだよ……これ以上腹を減らせるなよな、アホアホ小田」

カチン、と頭にきたものの、ここは広い心で……。

「ご飯を恵んであげる、と言ってもそんな口がきけますか?」
「……は?」
「30秒、待ってあげます。今すぐわたしの部屋に来なさい。夕ご飯をご馳走しますから」

それから15秒後。
顔は渋面ながらも、瞳を輝かせた石田がドアから入ってきた、 ̄ ̄ ̄ ̄。

夕ご飯をご馳走する、なんて言っても。わたしも今日はスーパーに行けていないので。
一人で美味しくいただこうと思っていたから、勿体ないなあ、なんて思いながらも香音さんから戴いたお惣菜をレンジで温める。
コンビニで買ったご飯も温めて。
カレーライスと温野菜サラダ、それに特別にアイツにだけ豚の生姜焼きを付けてあげた。
……あのお腹の虫の鳴き具合を考えると、絶対にカレーだけじゃ足りないと、知っているから。
封印したいと思っていた昔の記憶が、こんなところで役に立つなんて……。

テーブルに料理を盛った皿を置くと、アイツは「いただきます」もなにも言わずにがっつき始めた。
……もしかして、三日ぐらいコイツは水道水だけで生きていたのかも。有り得ない話じゃないところが怖い。

元々一人暮らしを予定していたつもりだったので、わたしは不承不承にもアイツと向かい合って食べることになる。
いただきます、と手を合わせて温野菜サラダにフォークを伸ばす。
少し酸味のあるドレッシングがかかっていて、引っ越しと荷解きで疲れた身体に染み渡る。
カレーライスをスプーンで掬って口に入れると、ホロリとお肉が崩れる。
 ̄ ̄ ̄ ̄これ、ビーフカレーだ。きっとアイツの心の中は狂喜しているんだろうな。
わたしが半分食べたところで、石田は全て平らげて、グビグビとお茶を飲んでいる。
げふ、と大きなゲップをして満足そうに椅子の背もたれに体を預けている石田と目を合わさず、わたしはカレーに集中する。

「あー食った食った。こんなに食べたのは一週間振りだよ」

大きな独り言を無視して、わたしは温野菜サラダのカリフラワーを咀嚼した。

…………。

黙っておいてもいいけれど、言っても問題ないよね。
わたしはコップのお茶を一口飲む。それからまた、カレーライスに集中するフリをして、

「ちょっと石田」

声をかけた。

「ん? なんだよ」
「引っ越し祝いに、一つ良いこと教えてあげる」
「またメシ奢ってくれるのか?」
「ばーか。それは今日だけの特別です」
「じゃあ勿体ぶらずに教えろよ」

偉そうに頬杖をついてるけれど、無視無視。

「アンタが引っ越した部屋、 ̄ ̄ ̄ ̄」
「それがどうした」

「 ̄ ̄ ̄ ̄以前はさゆみさんが住んでたんだってさ」

だから大事に使いなさいよ。そう続けようとした途端、 ̄ ̄ ̄ ̄、
ガタンッ、と大きな音を立てて石田が椅子から立ち上がった。

「そ、それ、マジ!?」
「アンタと違って、わたしはつまらない嘘はつきませんから」
「オマエは相変わらず可愛くないな……」
「ですからアンタに可愛いなんて思ってもらいたくないです」
「まあ小田のことは置いといて。そっかー……田中さんが使ってた部屋かぁ」
チラリ、石田の顔を盗み見るとデレデレと締まりのない表情をしていた。
わたしが、はあ、と深いため息をつくのと、石田が、

「メシごっそさん、サンキュー!」

そう言って、わたしの部屋から出て行くのは同時だった。

……今、「サンキュー」って……。
アイツがわたしにお礼を言うの、久し振りかも……。

心にほんのりと温かいモノができたことを、隠すように、

「……食器をシンクに片付けるくらいしなさいよ……馬鹿石田」

小さく、悪態をついた。



 ̄ ̄ ̄ ̄それから。
時折、深夜にアイツの部屋から変な声が聞こえてくることがあって。
それを不思議に思っていた矢先に、石田の部屋を挟んで知り合った保育士の飯窪さんから、ナニをしているのか、ぼかされながらも知らされて。

あの馬鹿を思いっきり軽蔑して、さらに大嫌いになったことは言うまでもない。





お隣さん 終わり。
 

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