尾形君は、溜息を吐きながらシューズをぶら下げて歩き出した。
……今日はもうエントリーの1週間前だ。なのに、いきなり種目変更などされたら、士気が上がる筈も無い。


この学校では、ウィンター競技の部員は、体力づくりを兼ねて、他の部活に合流して活動することが多い。
尾形君の所属するスケート部は、アイスホッケー部と共に、陸上部に合流していた。
陸上部の顧問は、それぞれの競技の特性を考え、種目を振り分ける。
少々スタミナに難がある尾形君は長距離の5000mに、瞬発力に欠けるアイスホッケー部のクラスメートは短距離の400mに。

「やっぱり俺等、マイナーな種目やな」
「そうだけどさ、マイナーだからこそ記録残せる目があるんじゃね?」
「せやろか?」
「そうだよ。んでさ、関東とかインハイとかのでっかい大会に出ちまったりしてよ」
「なんや、【目指せ!橋本聖子】かいな」
「そうそう。ま、夢くらいは大きく持とうぜ」

口ではおちゃらけているものの、ジャンル違いとはいえ元々アスリート達だ。
ふたり共、練習が始まれば、キッと眼光が鋭くなる。
ストレッチや柔軟体操で体をほぐし、ジョッグや腿上げで体を温める。
そして尾形君は、ひたすら外周を走る。時計を見ながら、ペースを保ちながら。
最初のうちはバラバラだったペースも、最近は随分安定してきた。その所為か、後半にバテることも無くなったようだ。
そして、トラック1周ごとのペースも少しずつ上がってきていて、先月の記録会では自己最高を更新したばかりだ。
記録が伸びるにつれて、面白さが増していくのもむしろ当然のこと。
弱点だったスタミナも徐々についてきて、陸上部の臨時顧問をしているスケート部の顧問が目を細めるまでに成長していた。


いつものように、シューズを片手にグラウンドに向かう途中に、

「尾形」
「あ…先生」
「ちょっと話があるんだ。部活に出る前に教員準備室に来てくれ」
「分かりました」

嫌な予感が、ちくりと胸に刺さった。

教員準備室に入ると、例のアイスホッケー部のクラスメイトが、ソファーに暗い顔で座っていた。
嫌な予感が、ますます強くなってくる。
苦虫を噛み潰すような顔をしたスケート部の顧問とアイスホッケー部の顧問が腕を組んで立っている。
普段は殆ど汗をかかないが、氷の様な嫌な汗が首筋を流れる気がする。
空気が凍り付く中、ふと、一緒に入ってきた陸上部の顧問が尾形君の肩を叩き、ソファーに座るよう勧めた。
おずおずと、ソファーに浅く腰掛けると、デスクチェアに腰を沈めた陸上部の顧問が、おもむろに口を開く。

「尾形」
「はい」
「今度の予選会のことなんだが」
「ああ、エントリーはもう5000mで決めてます」
「それなんだが…1500mに転向して欲しいんだ」
「はぁ?」

声の調子からして、恐らく、これ以上ない間抜け面を晒していたことだろう。

「俺、中距離はやったこと無いんですけど」
「だからな、これから記録会まで走り込めばいいだろ?」

陸上部の顧問は、目を伏せたまま言葉を継ぐ。
……どうも、不自然だ。

たまりかねたように、スケート部の顧問が口を開く。

「理事長の知り合いの双子の息子が編入してくるんだそうだ」

ホッケー部の顧問が続ける。

「400mと5000mはエントリーが少ないから、結果を出して大会に出られる可能性が高いからそっちに行きたいんだと」
「な…何やねん!それ!!」

陸上部の顧問が眼を上げた。すがるような眼差しで、尾形君とクラスメイトを交互に見る。

「部費を……タテに取られたんだ」
「へ?」
「奴らを希望の種目にエントリーしないのなら、今年度分の部費を返却しろ、と、な………」
「新しく買った砲丸は?マットは?バーは?」
「……体育の用具として、学校に物納の状態で返却だそうだ」

じゃあ、あのガタガタのスターティングブロックは?運ぶだけでバーが外れるハードルは?それから………
尾形君は頭がくらくらしてきた。

「今度の予選会は……上に行けるかもしれない奴らが何人もいてな……」
「それは俺も知ってます」
「200mでようやく上位が狙えそうなんだ……」

その先輩のことは尾形君も知っている。中学からずっと短距離を走っている先輩が、漸く良いタイムが出始めたことも。

「あいつも最後のチャンスだし……万全を期して狙わせてやりたいんだ……………」

ドン!

「だからって!」

アイスホッケー部の顧問が机に拳を打ち付け、声を荒げる。

「よせ!先生!」
「でも!」
「あいつだって頑張ってるんだ!」
「こいつらが頑張ってないとでも言うんですか!」
「それこそこの子達だけを見てどうするんだ!」

………そうだよな。
それだけは、心から思う。
0.7秒差が縮められなくて、記録会から学校に帰った後、声を殺して泣いたのを見て衝撃を受けたことを覚えてる。
朝練で誰よりも早く来たと思ったのに、もうボロボロのスターターブロックで何度も何度もスタートの練習をしていたのも。
あれを見て、陸上にも本気で打ち込むようになったんだった……………。

「すまん。ふたりとも、本当にすまない………」

「エントリーは、1週間後ですよね」
「………ああ」
「じゃあ、今日は休んで考えさせて貰ってもいいですか?」
「……………そうだな」
「勿論、そうしろ」
「お前も今日は休め」

顧問達が、それぞれ、ふたりに言う。
ふたりは、言葉も出ずに、のろのろと立ち上がった。
陸上部の顧問が手で顔を覆う様子を背中に見て、尾形君とクラスメイトは教員準備室を出た。
クラスメイトは、準備室を出ると同時に、真っ赤な顔で壁をドン!と殴り、無言でその場にへたり込んだ。


今日は、陸上部の練習など見たくは無い。
が、下駄箱にシューズを置きに行かなければならない。
そうすると、嫌でも陸上部の練習が目に入る場所を通らなければならない。
長距離の練習は外周ですることが決まりなのに、嬉々としてトラックを走り続けて顔をしかめられている部員が居る。
400mはトラックを走るのに、100mのコースを無駄に往復しながら走る部員が居る。
多分、そいつらが横車を押した張本人なのだろう。
尾形君は、目を背けながら、そしてある種の視線を感じながら、ふらふらと下駄箱への方向を逸れて歩き出した。


………どれだけ歩いたんだろう。
フッと気が付くと、校舎の裏側に、尾形君は居た。

(俺、何しとんねん………)

壁に背をもたれ、ズルズルと座り込んだ。
目頭に熱いものを感じる。それが零れ落ちないように上を向く。
動くとそれが流れ落ちてしまいそうで動けない………。

……………あれ?
上の方の階から何かが聴こえる……………。

タララララ……と、軽快なピアノの音が聴こえる。
ピアノなんて、フィギュアの伴奏としてしか聴いたことが無かったから、こうやって耳に入ることなんて無かったのに。
今日は、心が弱っている所為か、体中に染み込むように音が流れてくる………。

シューズをぶら下げたまま、ふらふらと渡り廊下から校舎に入り、階段を上った。
そのまま、音楽室へ、吸い込まれるように向かう。
音楽室の扉は、拳ひとつ分ぐらいの隙間があった。
そこからピアノの音は流れ出てきていたのだろう。
軽快なピアノの音は、相変わらず楽しそうに流れ続けている。
この曲は何だったっけ?聴いたことがある筈なのに思い出せない。
それよりも、これは誰が弾いているのだろう?
ふと、興味が湧いてきた。

ピアノの音が止まると同時に、静かにドアを引き開ける。

「ひゃ!ふ…Who you are!」

そこに居たのは、意に反して、目をこぼれそうに大きく見開いた、同い年くらいの女子。

「今のピアノ…自分が弾いてたん?」
「え?ま、まぁ、そうだけど」
「何て曲なん?今の」
「こ…『仔犬のワルツ』。ショパンの」
「そうか。ええ曲やな」
「……で、どうして泣いているの?」

……………それまで、自分の涙に、少しも気が付かなかった。

「ちょっと心が折れただけや」
「嫌なことが、あったの?」
「そうや」

尾形君は、窓の外を見た。
普段は意識などしたことが無い白い雲が視界に入って来る。

「雲って…あんなに白かったんやな」
「何、それ」

笑いを含んだ声で答えが返ってくる。

「俺、雲なんてゆっくり見たこと無いんや」

拗ねた口調で尾形君が返す。

「いっつもな………コンディション見るんで地面とにらめっこや。走ってるときは目線の高さやな」
「へぇ」
「んで…冬は屋内で氷とにらめっこや」
「ふうん」

そっけない返事だが、しっかりと目を見詰めて返す。

「…自分、人の目ェ見て話するんやな」
「あ…Sorry」
「何で英語が混じるん?」
「アメリカにしばらく住んでいたから」
「ふーん」

「ところでさ……今晩、寝る?」
「は?」

コイツは、突然、何を言い出すんだ?

「嫌なこと、あったんでしょ。寝ること、出来る?」
「………ああ、そういう意味やったんか」
「そういう意味って?」
「……もうええわ」

〜〜〜自分が変わってるのは自覚してるが、コイツも変なヤツなのかもしれない〜〜〜

「ま、そうやな………寝られんかもしれんな。今夜は」
「Shockだったの?そんなに」
「まぁ、な」

自分を否定されたような気分は、未だに心にこびり付く様に残っている。
このまま悶々として、今夜は恐らく眠れないだろう。と、思う。
たった今だって、目を閉じてさえいないのに、あの横槍を入れた連中の得意げな顔が浮かんでくるのだから。

「眠れるんかな?俺……………」

ぼんやりと、焦点の合わぬ目で、尾形君は呟く。
それを見て、彼女は、立ち上がったばかりの椅子に、再び腰を下ろした。

「じゃあ、聴いて」
「何を?」
「ノクターン」

尾形君の返事も聞かず、彼女は、ピアノに向かい、指を鍵盤に落とした。
静かで、胸に沁みる曲が、紡ぎ出される。
曲に吸い込まれるように、眼を閉じてそれを聴く。
心に刺さった棘が、ゆっくりと抜け落ちていくようだ。

「ええ曲やな。これも、ショパンか?」
「うん」

家に帰った尾形君は、部屋に篭り、もどかしげにスマホで検索をかける。
『夜想曲(ノクターン)』の動画は、幾つも見つかった。
次々に再生してみるが、同じ曲ではあるものの、彼女が演奏したのと同じようなものはなかなか見つからない。

(なんか違うんやけどなぁ……何でやろ?)

そう思いながら、指が吸い込まれるように、次の動画をタップした。
年配の女性ピアニストが現れ、ゆったりと演奏を始める。

「これや!」

今までの動画とは違い、技巧を凝らす訳では無く、ゆっくりと、武骨なまでに音をたどるようなピアノ。
聴いていると、彼女の真剣な横顔が浮かぶ。
動画には、フジ子・ヘミングと、演奏者の名が表示されていた。
動画を聴く毎に、彼女の横顔が浮かぶ。
食事や風呂もそこそこに、またも自室へ駆け戻る。
見つけた動画を幾度も見るうちに、スマホを握ったまま眠ってしまっていた。



翌日の放課後、顧問の先生に断わって、音楽室へ足を運んだ。
彼女はまた違う曲を真剣な眼差しで弾いていた。
今度は、昨日と違い、普通に扉を引き開ける。
昨日と同じ驚いた顔が、尾形君を見ると、ほころんだ顔に変わる。

「また、ショパンか?」
「ううん、リスト。指が6本なんて言われるリストの曲は難しい」
「指6本?それ、奇形やんか」
「それだけ難しい曲ってこと」
「ふーん」

当たり障りのない話の筈なのに、何だか、ちょっとだけ嬉しい。
それに、何となく、くすぐったいような、妙な気分がする。

「そう言えば、自分の名前、聞いて無かったな」
「尾形さんでしょ?スケートの」
「ちゃうちゃう。えーと、君の名前や」
「わたし?野中。野中美希」
「それやったら、野中氏やな。ちょっと頼みがあるんやけど」
「頼み?What?」

首をかしげる彼女…美希に、尾形君は言う。

「俺な、来週陸上の予選会があるねん」
「うん」
「でな、今回は種目替えがあってな」
「うん」
「今までやったこと無い種目に出なあかんのや」
「うん」
「でな、昨日の子犬のナントカとノクターン、録音してデータが欲しいねん」
「Why?」
「レース前に聴きたいんや。安心してレースが出来るように、やな」
「良いけど……どうやって?」
「同じクラスの佐藤と小田さんがスタジオがどうのとかって話をしてたんや。野中氏が良けりゃ詳しい話、聞いてみるわ」



「じゃあ、始めるよ」

そう言って、佐藤君は、指でカウントを始めた。
緊張の面持の後、美希は静かにスタジオのピアノに指を落とす。

「佐藤君が使っているスタジオで美希のピアノを録音したい」

こう言ったとき、佐藤君は少々不服そうな顔をした。

「おだんごとふたりで居られなくなっちゃう……」
「でもでも、ステキじゃないですか?」

さくらは、佐藤君の隣で目をキラキラさせる。

「音楽がお守りみたいになるんでしょう?」
「まぁ、そやな」
「でさ、どーすんの?そのデータ」
「ウォークマンに落として、レース前に聴きたいんや」
「ステキ!」

さくらは、ますます目をキラキラ輝かせた。

「ねぇ、佐藤さん、協力してあげましょうよ!」
「……………おだんごがそう言うなら」

と、佐藤君は折れた。そうなると、完璧を求めてありったけの機器を使い、録音に挑む。
マイクが高性能すぎて、ちょっとした物音も拾ってしまうと聞き、尾形君は、別室とはいえ微動だに出来ずにいた。
美希のピアノの音は、スタジオの反響もあってか音楽室で聴いたときよりもくっきりとした音のような気がする。
美希自身も、緊張してほんの少し強張ったような表情でピアノを奏でている。

『仔犬のワルツ』を引き終わると、一旦録音が止められた。
美希は、ホッとしたような顔で椅子を立つ。
同時に、尾形君も席を立つ。

「あれ?どっか行くの?」
「うん。俺、練習に行かな」
「最後まで見ていかないの?」
「残念やけどな。エントリー変更したんで少しでも多く走り込まなあかんねん」
「えー、残念。こんなにキレイでステキなピアノなのに」
「えー、おだんご、まさのピアノは?」
「佐藤さんのピアノもステキですけどね。チェルシーのは違うステキさがあるじゃないですか」

さくらは、美希がポーチにチェルシーの箱を入れているのを見て、チェルシーと呼ぶことに決めたようだ。

「俺、行くわ。楽しみにしてるで。ほなな」



アップが終わり、ウインドブレーカーとジャージを脱ぐ。
シューズのひもを締め直してから、足慣らしに軽くジョッグする。

「尾形。時間までもう少しあるから、ちょっとでも休んでおけ」
「はい」

体を冷やさないように、脱いだばかりのウインドブレーカーを羽織り、ベンチに腰掛ける。
ウインドブレーカーのポケットに忍ばせておいたウォークマンをそっと取り出し、イヤホンを着ける。
先ず流れ出てきたのは『夜想曲』。
逸る気持ちを押さえ、ゆったりとした雰囲気が尾形君を包む。
目を閉じ、しばし、曲に没頭する。
そこに、フッと、影が落ちた。イヤホンを外し、影の方を向く。
影の主は、尾形君と同様、エントリー変更をしたクラスメイトだ。

「よう、何聞いてるんだ?」
「ピアノの曲や。頼んで録音して貰ってん」
「フィギュア選手だとそんなの聴くんだ。俺じゃアタマ痛くなりそうだぜ」
「で、どうやったん?一次は」
「何とか通過。レース中の位置取りなんかはホッケーに通じるモンがあるから良い練習になったぜ」
「そうか」
「尾形はそろそろなのか?」
「もう少し後やな」
「そうか。お前も頑張れよ」
「おう」

そう答えると、尾形君は、再びイヤホンを着けてウォークマンを再生した。
『仔犬のワルツ』が、軽快に奏でられ始める。
体がうずうずしてくる。
早く、走りたい。



「それで、どうだったんですか?結果は」
「俺もあいつも二次進出までや。200mの先輩はファイナリストになって5位入賞やて」
「なぁんだ。勝てなかったの?」
「佐藤、そら、無理ゲーやっちゅうねん。俺等以外はずーっと中距離走り込んできた奴らばっかりやで」
「でも、チェルシーのピアノがあったじゃないですか」
「小田さんまで何言うとるんや。言っとくけどタイムは自己ベスト大幅に更新してんで」

美希は、口を挟めずにちょっとだけおろおろした様子を見せたが、それでも、ニコニコしながら尾形君の様子を見ている。

「そうや、野中氏」
「What?」
「もうじきスケート部に戻るから、またピアノの録音データが欲しいねん」
「ピアノ?」
「そう。大会で使いたいんや。今度は指6本の怪物の曲がええな」
「No!あれは難しいんだから!」
「そう言わんと、頼むわ」

シーズンに入ったら、美希のピアノで滑れたらいいな。
そして、スケート部のトレーニングに入れられたダンスの相方も頼めないかな……などと、尾形君は考えていた。





君の、ワルツを。       了
 

ノノ*^ー^) 検索

メンバーのみ編集できます