あらゆる架空国家が併存するモザイク世界


合戦前に会議をする守護大名と家臣たち

扶桑擾乱(ふそうじょうらん)とは、扶桑国の歴史のひとつで、扶桑国建国以前にイタリア半島で発生していた内戦の総称である。約10年に渡り各地で合戦が繰り返されたほか、征夷大将軍を擁した室町幕府内をはじめとした各武士団の領地でも、血で血を洗う壮絶な内ゲバが繰り返されたため「擾乱」という言葉が使われている。扶桑国の歴史における暗黒時代であり、多くの血が流された。当事者にとってはあまりに壮絶な出来事だったため、今でも「扶桑擾乱」について語る扶桑国民は少ない。

歴史

扶桑擾乱は概ね3つの時期に分けられる。

経過1.転移直後〜「大乱時代」

 第二地球のイタリアには、かつてローマ帝国とも呼ばれるある国家が存在していたが、転移により国民のみがどこかの世界線へ飛ばされ、反対に飛ばされてきたのが日本の鎌倉時代から江戸時代末期の武士たちであった。彼らは突然の転移により当然戸惑うが、死ぬのが怖いので互いに小競り合いを始め、離合集散を繰り返した。
 一方、半島西部のサルディーニャ島には半島と同時代の公家が転移した(正確には公家と、その警護をしていた武家)。彼らは内部抗争でいくつかの騒動があったものの、その結果ある程度ひとつにまとまって、一緒に転移してきた室町時代の後南朝の帝を奉じ、サルディーニャ島を「蓬莱」と名づけて朝廷を作った。これを蓬莱朝廷と呼ぶ。
 イタリア半島での、小規模武士団による終わりのない無間地獄のような戦い…この扶桑擾乱の前半は「大乱時代」と呼ばれている。

経過2.室町幕府成立〜「戦国六雄時代」


「戦国六雄時代」の地図

 大乱時代から数年を経たイタリア半島は、武士団が争いと離合集散を繰り返した結果、6つの武士団で分国統治がなされていた。それらの統率者を「守護大名」(ただし後述する室町幕府は「将軍」)と呼び、これを「戦国六雄」と呼ぶ。
 さて、イタリア半島で最大の勢力を持っていた武士団で、室町時代から転移した足利家は、自身の本拠地(ラツィオ州ローマ付近)を「室町」と称した。そして当主の足利義氏は、征夷大将軍を名乗って幕府を開いた。当初蓬莱朝廷より勅許(帝の許可)を得る、という手続きを経ていなかった(事後承諾)ので自称に近い。

 室町幕府宣言に対しての諸国武士団の反応は、3つに分かれる。
  • 1.幕府に恭順する者
  • 2.蓬莱朝廷に恭順しようとする者
  • 3.「転移したのだから旧来の制度は意味がない」として幕府に従わず、天下統一を狙う者
 なお、このうち「2」については、蓬莱朝廷は室町幕府以外の特定の武士団に関与することはなく、半島の争いを静観したため、交渉が無駄と判った武士団は幕府に恭順するか、従わないかの1と3に分かれた。
 また、各武士団は当然先祖以来の強固な主従関係がなかったため、寄せ集めに過ぎず、一枚岩ではなかった。室町幕府も同様であった。その結果封建社会故の様々な問題が吹き出し、それは政争という名の血で血を洗う骨肉の争い、泥沼の権力闘争へとつながっていく。各国は他国との合戦と、武士団内部での内部抗争という言わば「内憂外患」に悩まされた。特に内部抗争は深刻だったようで、「あの頃は、内輪揉めのついでに他国と合戦をしていた」と当時を回想する者もいる。

経緯3.蓬莱朝廷と室町幕府の発展的解散〜「公武合体」

群雄割拠の時代から数年を経たが、国内はまとまらなかった。室町幕府は蓬莱朝廷に使者を派遣して話し合いを行うが、良い案は浮かばなかった。将軍の足利義氏は、この終わらない争乱は武家社会(封建社会)の弊害によるものと考え、単純に室町幕府の軍事支配では戦いは後を引く。政治の仕組みを変えなければいけないと感じていた。蓬莱朝廷の帝を除くとトップであった関白・九条通高は、江戸時代末期からの転移者であったため開明的であった。彼は、それならば他国の政治の方法を調査しようと合同での特使を派遣することを提案、両者は合意した。
 国境を隔てている神聖フランス帝国とロイヘン帝国のうち、神聖フランス帝国の方が蓬莱島から海路では行きやすかったので、特使は帝と将軍の親書を持ち、出向した。かなり無謀ではあったが、コルシカ島近海で神聖フランス帝国海軍に発見され、秘術を介した会話にて特使の言葉を訳し、イタリア半島の事情を推察した海軍は内閣に連絡した。特使は帝都ルーテティアで様々なことを学び、帝国の軍艦にて蓬莱島に帰還した。立法、行政、司法、その他のいわゆる「民主主義」的な政治に一同は驚嘆し、国の戦乱を収めるにはこれしかない、と、幕府と朝廷は新たなる政治体制の検討を行なっていった。
 次に室町幕府と蓬莱朝廷は、帝と関白、将軍の連名で、「惣無事令」という文書を送った。これは、他国との戦争の速やかな停止と、封建主義を超えた新たなる民主主義的政治体制への参加を呼びかけるものであった。他国との合戦と内部抗争に疲弊していた各武士団は、これに乗っかる形で全ての合戦を停止した。武士団の中では恭順と抵抗で意見が割れ、一部の人間が粛清されるという悲劇もあった。
 これは室町幕府内でも例外ではなかった。当時幕府では将軍義氏と、その弟である副将軍・足利興氏による二頭政治が行われていたが、民主主義的な政治体制を考えていた義氏と、旧来型の室町幕府による半島の統一を考えていた興氏は次第に対立するようになった。
 最終的にこの対立は、義氏自らが蓬莱島で交渉している最中、興氏を中心とした一派が謀反を起こし、幕府の本拠地「室町館」で挙兵するという内乱に発展した。興氏は幕府の正当性と兄の義氏追討の檄文を各国に送ったが、既に惣無事令が出た後であり、これに従う者はいなかった。知らせを受けた義氏は直ちに帰国し、室町館はあっという間に幕府軍によって包囲された。義氏は興氏に降伏を勧告するが、興氏はこれを拒否し、自分の意志が受け入れられなければ徹底抗戦をすると訴える。やむを得ず幕府軍の総攻撃が開始され、足利興氏は家臣の介錯により自刃。またその他の者も自害するか戦って討死、また一部降伏した者は逮捕された。これを「室町館の乱」と呼ぶ。イタリア半島での事実上最後の内乱であり、これをもって「扶桑擾乱」は終結した。この後、幕府と5名の守護大名は蓬莱朝廷と会合を重ね、ついに新たな政治体制が発足した。公家と武家が一体になった政治という意味で、この出来事を「公武合体」と呼ぶ。

「扶桑擾乱」の終結と、新たなる政治体制の確立

 やや蛇足ではあるが、その後の歴史を記す。
 その後、各法律の検討、各省の成立など国の仕組みが出来上がっていく。イタリア全土は20の「藩」に区分けされ、それぞれの藩を代表する「公方」が投票で選ばれた。関白・九条通高と将軍・足利義氏は現職を辞任し、九条通高は太閤として引き続き政治に関わったが、足利義氏は諸事の引継ぎを行った後に政から離れた。彼はなぜ引退したのかについて、自身の弟を死に追いやったことに責任を感じていたと回顧録に記している。その後多くの公方の中で、彼らを代表する関白・二条業平が投票で任命された。理由は、年長者であること、下々の意見をよく聞き、開明的であること…等である。その後、二条は建てられたばかりの清涼殿で、扶桑帝が「扶桑国建国宣言」を祝詞の形で天神地祇へ奉告する祭典「建国祭」を国民代表として参列した。以上をもって、扶桑国は建国されたのである。

扶桑擾乱時の各地の戦乱・政変

戦乱の影響

  • 当然のことであるが、10年も続いた戦乱で国土は疲弊し、田畑は荒れ果て、何より転移した武家たちの間に多くの血が流された。武家のほとんどは、この戦乱もしくは武士団内での権力闘争で親兄弟、その他親族間で敵味方に分かれて争った経験を持っている。
  • 擾乱の結果、年代ごとに転移した武家たちが入り混じり、価値観や物の考え方などがある程度統一されたという。
  • 建国後に扶桑国軍が編成されたが、なお一部の武家や寺社が伝統的に私兵的な家臣、軍事組織を残したままとなっている。その扱いに軍部は腐心することとなった。
 

後世の評価と研究

原因

 戦乱がここまで拡大した理由はよくわかっていないが、当時武家のある特定の年代までは「物事を解決する手段として殺し合いが普通だった」という認識があった模様で、小さな争いが拡大していったのではないかという見方が有力視されている。

研究その他

 建国から数年後、扶桑国の公式見解として、当時と現在の関係者、有識者の意見をまとめた「扶桑擾乱白書」が出版された。各地の合戦や各大名家の内部抗争などが包み隠さず記されている。
 また同時期に民間では、扶桑擾乱を物語形式でまとめた「扶桑擾乱記」が記された。そこでは様々な出来事が、多少の誇張と叙情あふれる物語として生き生きと記されている。海外でも出版されており、それを事実と信じる者も多いが、あくまでも事実を基にした小説である。
 また武家は先祖の武功を(多少の美化と誇張をもって)代々物語風に記録する習慣があることから、各武家毎に軍記物が存在すると言っても過言ではない。

 誇張の例として、惣無事令を守護大名たちが受け入れたことについて、「扶桑擾乱記」では「恒久平和を求めていた守護大名たちは、終わりのない合戦に終止符を打つべく、惣無事令を受け入れた」などと書かれている。しかし「白書」では当時の大名家当主にインタビューし、

  • 一時の停戦と考えていた
  • 話し合いに乗ったふりをして、天下を取る機会を伺うつもりだった
  • 不本意だったが家臣たちに促され渋々同意した

などと発言している。「平和な世を作るため」などという単純な理由ではなく、諸々の「大人の事情」、むしろ打算的考えの武家が多かったことがわかるが、これだけ野心を剥き出しにしていた彼らも、扶桑国建国後は政治体制に納得し、誰も謀反の行動を起こしていない。
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