パフラヴィー朝の時代

パフラヴィー朝初代皇帝レザー・シャーは軍事力を背景にして中央集権化を推し進め、近代国家形成を目指して法制を西欧化する改革を行うなどして、1928年に英露との不平等条約の撤廃に成功した。第二次世界大戦で、レザー・シャーは英ソによる支配からの脱却を目指して親ナチス・ドイツ政策に転換。しかし逆に連合国軍によるイラン進駐を招いて失脚させられ、1941年9月16日、第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーが即位した。1945年12月、クルド人活動家のムッラー・ムスタファ・バルザーニーがソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人の独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立した。クルディスタン共和国は1946年12月15日、イラン軍の侵攻にあい崩壊。バルザーニーはソ連に亡命し、ソ連で1946年8月16日にクルディスタン民主党を結成した。これに対抗すべく1949年に反植民地主義のイラン共産党が非合法化された。1951年にモハンマド・モサッデクが首相に就任した。モハンマド・モサッデクはアングロ・イラニアン石油会社を国有化。1953年にはソ連・イラン合同委員会を創設し、親ソ政策を推進していった。このことはアメリカを中心とする西側諸国からの反感も買うことになり、1953年に英国諜報機関「MI6」とアメリカのCIAの協力のもと、「アジャックス作戦」が発動。モサッデクは失脚し、親米英的なモハンマド・レザー・シャーが権力を回復した。1955年にはCENTOに加盟し、西側陣営に加わった。モハンマド・レザー・シャーは、アメリカの支援を受けて「白色革命」と呼ばれる石油利潤を元にした工業化と近代化を進めたが、原油価格の下落と急速な近代化改革の影響から深刻な経済危機を招いた。ルーホッラー・ホメイニーは、白色革命を批判しなかったが皇帝の独裁的な性格を非難して抵抗運動を呼びかけたため、反皇帝運動が激化した。1964年、ルーホッラー・ホメイニーは危険人物として国外追放を受け、亡命した。その後秘密裏に帰国した1979年にルーホッラー・ホメイニーを指導者としてイラン革命が勃発。モハンマド・レザー・シャーはエジプトに亡命してパフラヴィー朝は崩壊し、イスラーム・ペルシア社会主義共和国が成立した。

イスラーム・ペルシア社会主義共和国の時代

イスラーム・ペルシア社会主義共和国初代最高指導者ルッホラー・ホメイニーは親米英的なモハンマド・レザー・シャーを追い出して権力を掌握したために米英からの人気はなかった。イスラームを国教としながらも、共産主義的な改革を推し進めることで、ソ連に接近、軍縮中のソ連から旧式の装備などを買い付けるなどして軍事力の拡大を図った。ホメイニーは「現実に適わせたイスラーム」を唱え、「公益のための改革」を実施した。1984年、1986年にはホメイニー暗殺未遂事件が発生。アメリカやイギリスは関与を否定しているが、ホメイニーは名指しでCIAとMI6を批判した。1989年、ホメイニーは急死。後任に現最高指導者アリー・ハーメネイが就任した。ハーメネイはソ連の内部の混乱を知るとホメイニーの改革を一部停止。西側にも歩み寄りを見せた。1991年、長年の友好国であったソ連が崩壊。ハーメネイは西側との友好を望んでいたものの米国や英国からは「国営企業の民営化」「民主制への転換」などといった要求を突きつけられた。ハーメネイは米英との平和共存を諦めると、再びホメイニー時代の改革を再開。中国などに歩み寄りを見せた。ハーメネイも幾度となく暗殺されそうになったが、奇跡的に生き残った。1990年代後半からは米国との対立は激化。革命軍(革命防衛隊)による国内の米国軍人の拘束などを受け、米国は革命軍を「テロ組織」、ペルシアをイラクや北朝鮮と並べて「悪の枢軸」と認定した。ハーメネイはロシアや中国から技術提供を受けてABC兵器の製造を開始。ペルシアと米国の関係は極限まで悪化した。米国はアラビア湾に海軍を展開、これに対してペルシアは幾度となく攻撃を行なった。2001年には旅客機を改造したペルシアの攻撃機が米国駆逐艦にミサイル攻撃を行い、2002年にはペルシアのチープキル艦3隻が米国巡洋艦に夜間に自爆攻撃を行なった。その後幾らかの交渉を経て関係は改善したものの、最近では革命軍副司令官ソレイマニが米軍の無人攻撃機の攻撃で殺害され、報復として米軍基地へミサイル攻撃が行われるなど再び緊張が起きている。

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