国名インド諸州連合
国の略称USI
公用語英語、ヒンディー語、アッサム語、ベンガル語、ボド語、ドーグリー語、グジャラート語、カンナダ語、カシミール語、コンカーニー語、マイティリー語、マラヤーラム語、マニプル語、マラーティー語、ネパール語、オリヤー語、パンジャーブ語、サンスクリット語、サンタル語、シンド語、タミル語、テルグ語、ウルドゥー語、ゾンカ語、バルーチ語、ラダック語、バルティ語、パシュトゥーン語、ハザーラ語、ボージュプリー語、マガヒー語、チャッティスガリー語、ダッキニー語、ポルトガル語、フランス語
国教なし
国の標語सत्यमेव जयते
国歌जन गण मन
首都ニューデリー
最大都市ムンバイ
国家元首アクバル4世
政治体制立憲君主制
憲法インド憲法?
人口17億5339万
GDP3兆3443億億米ドル
通貨インド・ルピー
首相ディピカ・カウル




概要

インド連合は南アジアに位置する国。
ムガル帝国の帝室を受け継ぐ立憲君主制国家であり、世界最大の人口を持つ経済大国である。首都はニューデリー。
非常に多様な民族と文化、宗教を持ち、四大文明のうちのインダス文明にまだ遡る非常に長い歴史を持つ。「インドは国というより大陸」という言葉もあるほど、あらゆる面において多様な国である。
現在はカースト問題や環境問題に苦しんでいるものの、世界のパワーバランスに巨大な影響を与える主要プレイヤーである。
近年の国際的な緊張の高まりからカシミール連合?シッキム王国?ブータン王国?ネパール王国モルディブ王国?チャゴス共和国?(現在のチャゴス州?)などを吸収した。
フィジー王国ロツマ共和国サモア独立国を保護下に、ポリネシア連邦ウォリス・フツナ連邦をそれぞれスラとイタリアの共同保護国としている。

歴史

先史時代

インドにおける人類の歴史は古く、化石人類にまで遡ればナルマダ渓谷にあるホモ・エレクトス、またはホモ・ハイデルベルゲンシスのもので、約50万年前に遡る。
インド亜大陸のヒトによる居住は約70万年前まで散発的であり、約250,000年までに広がっていったことが示唆されている。
解剖学的な現代人、つまりホモ・サピエンス・サピエンス種は73,000年から55,000年前にアフリカからインド亜大陸に到着した。

初期食料生産期


メヘルガル出土の像。

インドにおける定住と食糧生産の歴史は紀元前7000年に遡る。バルチスタン地方カラート王国のメヘルガル遺跡など、数は少ないものの非常に古い遺跡が見つかっている。
当時のインド人は泥レンガの家に定住しており、紀元前5500年から紀元前2600年ごろには、石器製作、皮革なめし、金属加工などの手工業が盛んになるなど、自力で多くの技術を発展させていった。
手術の跡が見つかるなど、同時代では非常に高度な文明であったことが分かっている。
この時代の遺跡は、紀元前2000年ごろにインダス文明と入れ替わるように消えていった。

インダス文明


インダス文明の勢力と遺跡。
一部はアフガニスタンにも及んだ。

モヘンジョダロ遺跡。

インドにおける文明の歴史は紀元前2600年のインダス文明に遡る。
インダス文明はインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川を中心に発展した文明であり、現在までにインドでは143の遺跡が発見されている。
インダス文明はバルチスタンやシンド、パンジャーブ、カティヤワール半島、一部はアフガニスタンにまで広がっていたと考えられ、モヘンジョダロやハラッパー、ロータル、ドーラビーラなどの非常に多くの高度な文明を窺わせる遺跡が発見されている。
この文明の担い手はおそらくドラヴィダ系民族と見られ、恐らく表語文字と考えられている未解読のインダス文字などが生み出された。
この文字は系統不明の言語(ドラヴィダ系?)のハラッパー語などを記述していると考えられている。
インダス文明は結局衰退し滅亡してしまうが、その原因には諸説ある。
・砂漠化説
・河流変化説
・気候変動説
・アーリア人侵入説
等…
しかし、滅亡原因に関する、はっきりとしたことはわかっていない。

前期ヴェーダ時代


この時代は今のインドを特徴付けるヴェーダ系の宗教が形成されたと見られる時代である。
インダス文明崩壊後に火葬を伴う文化が発生しており、旧インダス文明地域のみならず、ラジャスターン、ヒンドゥスターン平原などに広がっていった。前期ヴェーダ期、紀元前1500年前後にインド・アーリア人はカイバル峠を越え侵入、影響力のある社会階級の階層制度、つまりカースト制度が形成された。彼らはサバー、サミティなどと呼ばれる部族集会によって選ばれたラージャン(rajan)に率いられていた。
侵入後、その後、バラタ族・トリツ族など諸部族の間で戦争が勃発した(十王戦争)。バラタ族は先住民を圧倒し支配する一方、先住民の文化や技術を受容し同化していった。

後期ヴェーダ期


十六大国の地図。

紀元前1000年頃らバラタ族はガンジス川流域へと侵入し定住、本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生は商工業の発展も促進し、諸勢力が台頭して十六大国が興亡を繰り広げる時代へと突入した
(一部の国は国家の体裁を為しておらず、そのため特に強力な国家であったマガダ、コーサラ、ヴァンサ、アヴァンティを四大国と指す場合もある)

・Kamboja(カンボージャ)
・Gandhara(ガンダーラ)
・Kuru(クル)
・Panchala(パンチャーラ)
・Shurasena(シューラセーナ)
・Kosala(コーサラ)
・Matsya(マツヤ)
・Malla(マッラ)
・Vrijji(ヴァッジ)
・Kashi(カーシー)
・Vatsa(ヴァンサ)
・Anga(アンガ)
・Avanti(アヴァンティ)
・Chetiya(チェーディ)
・Magadha(マガダ)
・Assaka(アッサカ)

こうした戦乱の時代はマハーバーラタにも記述されている(クルクシェートラの戦い等)
この時期には、相次ぐ戦の中で祭司階級であるバラモンはその絶対的地位を失い戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。

ウパニシャッド哲学と四大宗教の時代


紀元前5世紀頃には、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教としての完成系となった。ガンジス川流域で諸国の戦乱の中、バラモン階級の凋落はクシャトリヤやヴァイシャの勢力拡大を促した。こう言った変化の時代はウパニシャッド哲学を生み出し、その影響下にマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、釈迦(シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって初期仏教が、それぞれ創始された。
当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生し、

・無道徳論者、道徳否定論者であったプーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那(不蘭)迦葉)

・要素集合説を説くパクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩馱迦旃延)

・唯物論、感覚論、快楽主義を説くアジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅)

・アージーヴィカ教(邪命外道と呼ばれた)の開祖にして運命決定論(宿命論)者、マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利)

・懐疑論、不可知論を説くサンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子)

・ジャイナ教の開祖で相対主義、苦行主義、要素実在説を説くマハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ Nigantha Nataputta 尼乾陀若提子、本名ヴァルダマーナ)

などの「六師外道」(仏教側から異端と捉えて呼ばれた名称である)とも呼称された自由思想家たちが活躍した。

アレクサンドロス大王の遠征


ギリシャに位置するアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウスであるアレクサンドロス大王は、ペルシア王国やソグディアナ(中央アジア)、ゲドロシア(バルチスタン)を征服したアレクサンドロス大王は次にインドへの遠征を開始し、スワート渓谷でコフェン戦争に勝利。アオルノスで生涯最後の包囲戦に勝利した。
その後、紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、5月にヒュダスペス河畔の戦いではパウラヴァ族の王ポロスを破った。更に周辺の諸部族を平定しながら進軍し、インドにおいて最も勇猛とされるカタイオイ人も制圧した。
大王はよりインド深部への侵攻を望んだが、部下の反対により諦めた。
その後、インダス川流域やバルチスタンはディアドコイ国家であるセレウコス朝シリアの支配下となった。
この遠征の衝撃は大きく、インドはヘレニズムの影響を受けることとなった(グレコ・仏教美術、インド・グリーク美術)
バクトリア(アフガニスタン)のギリシャ系国家であるグレコ・バクトリア王国がインドに侵入したことにより、ギリシャ人国家のインド・グリーク朝が興った。
その後のインダス川流域やバルチスタンの歴史はペルシャやアフガニスタン地域との一体性を持ち続いていくこととなる。

古代インド


チャンドラグプタの像。

十六大国の時代より続くマガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダ国がコーサラ国を撃破することで決着した。紀元前4世紀後半にナンダ朝マガダ国をチャンドラグプタが打倒し、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝マガダ国が成立した。

紀元前3世紀、アショーカ王の時代にはマウリヤ朝は最盛期を迎える。南端部を除いたインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。しかし、アショーカ王の死後には弱体化が進んでしまい、紀元前2世紀後半に滅亡した。その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。
クシャーナ朝


カニュシカ一世の金貨。

マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したイラン系王朝、クシャーナ朝(呼称が一定せず、クシャン帝国など様々な呼び名がある)が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。この頃には仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。
しかし、クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下においては「クシャーン・シャー」(クシャーナ王)と称するサーサーン朝の王族によって統治されたため、クシャーナ朝の権威は長く残り続けることとなる。この国家の事をクシャーノ・サーサーン朝と呼ぶ。
インド・スキタイ王国

インド・スキタイ人は中央アジアからインドに降りたサカ人の集団であり、紀元前1世紀に紀元前2世紀半ばからアラコシアなどに勢力を築いていた。彼らはインド・グリーク朝を追い出し、ガンダーラからマトゥラまで広がる王国を支配した。2世紀にスキタイの力は減少し始め、サカ族は南インドのサータヴァーハナ朝皇帝ガウタミープトラ・シャータカルニに敗北した。その後サカ族の王国は4世紀、東インドより勢力を広げたチャンドラグプタ2世のグプタ朝に完全に破壊された。
サータヴァハーナ朝

2世紀になった南インドではデカン高原のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)をはじめとする諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄した。南インドではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。このころはまた、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教が広がっていった時期でもあった。
サータヴァハーナ朝は3世紀に入ると中央政府の統制力は弱まり、地方に派遣されていた王族や諸侯達が各地で自立して急速に自壊する形で崩壊した。
ライ朝

シンド地方ではライ朝が独立を保っていた。

ライディワジ(Devaditya)の時代になると、カシミール、マクランとデバル(カラチ)の港、北のカンダハール、スィスターン、スレイマン、フェルダン、キカナンに影響を与えていた。
大乗仏教の誕生

マウリヤ朝の崩壊からグプタ朝の成立までの時期の北インドは、政治的には混乱しきっており、戦乱が繰り返されたが、文化的には仏教やバラモン教の教義が発展し、すぐれた彫刻などの文化が生まれた時期でもあった。

西暦1世紀はじめには大乗仏教がおこり、2世紀にはナーガールジュナ(龍樹)が現れて「空」の思想を説いた。現代の大乗仏教は、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した(北伝仏教)。インドでの仏教は衰退するが、これらの地で大乗仏教は受け継がれていく。
また、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間の土俗信仰とがさかんに混淆し、ヒンドゥー教の原型が構成されいった、

古典文化の完成


4世紀前半になると、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、4世紀後半から5世紀にかけて北インド地域を統一した。チャンドラグプタ2世の時代には最盛期を迎え、官僚制度・軍事制度が整理され、サンスクリットを公用語に定めた。
軍事的にも成功し、インド・スキタイ王国にも勝利した。
4世紀から5世紀にかけて時代は、インド古典文化の黄金時代となった。宮廷詩人のカーリダーサが戯曲『シャクンタラー』や『メーガ・ドゥータ』などの作品を残した。
宗教も発展を見せ、バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典などが広く普及していったのもグプタ朝の時代になってからである。
ヒンドゥー教の勃興にも負けず、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀にはナーランダ僧院が建てられ、インドはもとより東南アジアやチベットなどの各地から多数の学僧を集めて教典研究が進められた。
医学・天文学・数学なども発展していった。「ゼロ」を発見したのはこの時代だと言われている。

グプタ朝は、5世紀以降「白いフン族」と呼ばれたエフタルの中央アジアからの侵入に悩まされてしまい、6世紀半ばには滅亡へと追い込まれてしまった。貴族や都市民の寄進などによって成り立っていた仏教教団は、グプタ朝の弱体化・分権化と共にその保護者を失っていってしまった。

エフタルはその後、ゲドロシアやバクトリアの支配に成功、北東インドに影響力を持つこととなる。

ヴァルダナ朝、そしてラージプート時代の到来


6世紀後半、北インドは何カ国にも分裂し、戦乱の時代が続いていた。
その中で7世紀初頭にハルシャ・ヴァルダナ王(戒日王)が現れ、カナウジを都としたヴァルダナ朝を創始した。
ハルシャ王は、仏教とヒンドゥー教を保護し、地方有力者には領土を封ずる形で緩やかな統治を推進した。
また、カナウジはその後北インドの政治の中心となったため、大きく発展した。ハルシャ王の時代、唐僧の玄奘が河西回廊を経て高昌に至り、西域の商人らに混じりながら、天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続けた。
その後、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに訪れ、ナーランダ僧院で教典研究に勤しみ、多数の仏典を持ち帰ってその後の漢訳仏教の基礎が固められた。

ヴァルダナ朝はハルシャ王一代で瓦解してしまい、7世紀半ば以降はラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び戦乱の時代となった。ラージプートは、中央アジア方面から北西インドに侵入した異民族の子孫だといわれている。彼らは軍事的に優れていたため、各地を支配し、その下に大小領主層がいて、地主や農民を支配した。
ラージプート諸国の中で最も強力であったプラティハーラ朝は、イスラム勢力の侵入を11世紀初頭まで食いとめたことで知られている。
また、10世紀から12世紀頃にかけてチャンデーラ朝の歴代君主は、世界遺産にもなっているカジュラーホーの寺院群を建設するなど、文化的な発展も続いた。
こうしたなかで文明が複雑化していくと、多くの職能集団が形成され、それぞれ世襲化されるようになり、今日のカーストにつながる「ジャーティ」と呼ばれる集団単位が成立していったとみられている。

南インド諸王朝

強力であったヴァルダナ朝と、その王であるハルシャ・ヴァルダナだったものの、デカン高原地域を本拠とするチャールキヤ朝に勝利することは叶わなかった。そのため、ヴァルダナ朝の南インド進出は阻まれることとなる。
6世紀から8世紀にかけての前期チャールキヤ朝には、7世紀のプラケーシン2世や8世紀のヴィクラマーディティヤ2世などの優秀な君主が現れた。
この時代はとくにヒンドゥー教建築の隆盛は顕著であり、チャールキヤ朝のさらに南にあり、チャールキヤ朝と対峙したタミル人王朝パッラヴァ朝の建築は高水準をほこった。パッラヴァ朝時代の建築としてはマハーバリプラムの建造物群が著名で、その技術はヴィクラマーディティヤ2世によってチャールキヤ朝に伝えられたため、その後に首都バーダーミや「戴冠の都」パッタダカルに数多くの寺院建築を生んだ。

前期チャールキヤ朝は封臣の1人であったダンティドウルガに王位を追われ滅亡してしまい、ダンティドウルガはラーシュトラクータ朝を創始した。
ラーシュトラクータ朝はプラケーシン2世の弟から分かれた東チャールキヤ朝と対峙した。ダンティドウルガには子がなかったため、叔父であったクリシュナ1世が継ぎ、エローラ石窟群のカイラーサナータ寺院を建設した。その一方で、パッラヴァ朝もさらに南方にあったパーンディヤ朝と抗争し、台頭するチョーラ家などとも合従連衡を繰り返したが、最終的にはヴィジャヤラーヤに創始されたチョーラ朝によって滅ぼされてしまった。

中世と大航海時代のインド


10世紀後半、中央アジアにあったイラン系王朝、サーマーン朝のテュルク系マムルークであるアルプテギーンがアフガニスタンで独立、ガズナを中心にガズナ朝を建て、ペルシャや中央アジア、パンジャーブを領有する大帝国を打ち立てた。彼らは北インドへの侵入を繰り返した。

ガズナ朝にかわり、フィールズクーフで台頭してきたイラン系王朝、ゴール朝も北インドに進出し、この地の統治を図って北インドのラージプート諸王国の連合軍と対峙した。ラージプート諸王国は内部の結束が整わず、大敗してしまった。
ゴール朝の征服はガズナ朝の旧領のみならず、ビハール地方やベンガル地方にまで及んだ。
デリー・スルターン朝

ゴール朝のマムルークであったアイバクは、ゴール朝の軍とともに北インドにとどまり、1206年にデリーを都に奴隷王朝を建てて独立した。
これより約300年間、デリーを都としたムスリムの5王朝が興亡を繰り広げた。この時代を総称してデリー・スルターン朝と呼ぶ。

デリー・スルターン朝の全ての王朝(奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝)の君主はいずれもスルターンの称号を用い、デリーに都を置いたため、デリー・スルターン朝と総称される。

5王朝は北インドを支配し続け、14世紀初頭のハルジー朝君主であるアラー・ウッディーン・ハルジーと14世紀前半のトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルクの治世時には、デカンや南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。最後のローディー朝のみアフガン系であるが、他はいずれもテュルク系王朝だった。
モンゴル帝国やティムール朝の侵入

デリース・ルターン朝時代にはモンゴル帝国やティムール朝の侵入もあった。一時はインダス川流域を支配されたが、ヒンドゥスターン平原は守り抜かれ、モンゴル帝国もティムール朝も大きな損害を受けた。
モンゴル帝国は1221年から1327年にかけて、複数回インド亜大陸へと侵攻し、侵攻後にカラウナスと呼ばれるモンゴル系民族が誕生するなど大きな影響を与えた。

マー・ワラー・アンナフルで勃興したティムール朝はイルハン朝後の混乱したイラン高原を統一し、矛先をインドに向けた。1398年にインドへ侵攻し、デリー・スルタン朝の都デリーなどを一時、占領することとなった。

この時代の北インドではイスラームの征服を受けても、インド在来の社会組織を利用して統治する現実的で融和的な方法がとられたため、イスラームへの改宗が強制されることはなかった。
しかし、イスラーム神秘主義者スーフィーの活動などもあって、都市を中心に徐々にイスラーム教とイスラーム文化が普及していった。
中世南インド

南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のヒンドゥー王国チョーラ朝がインド洋貿易で繁栄していた。
11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行し、勢力下に置いた。
チョーラ朝の勢力は領土である南インドとセイロン島のみならず、オリッサとベンガル地方やアンダマン諸島、ペグー、スマトラとマレー半島にまで及んだ。
チョーラ朝は12世紀末に再建されたパーンディヤ朝(後期パーンディヤ朝)によって13世紀後半に滅ぼされた。
ヴィジャヤナガル王国

時代が進むと、北インドのデリー・スルターン朝の勢力が南下し、南インドの王朝は次々と滅ぼされてしまったが、1336年ハリハラとブッカの兄弟がヴィジャヤナガルを都にトゥグルク朝から独立した。

これ以降の14世紀前半から17世紀半ばにかけて、サンガマ朝、サールヴァ朝、トゥルヴァ朝、アーラヴィードゥ朝の4つのヒンドゥー王朝が繁栄し、これらは総称してヴィジャヤナガル王国と呼ばれている。ヴィジャヤナガル王国支配下の南インドは、北インドとは対照的にヒンドゥー文化の隆盛と爛熟がみられた。ハンピ(ヴィジャガナガルの現代の呼称)の都市遺跡などで、当時の繁栄を見ることができる。

ヴィジャヤナガル王国はトゥルヴァ朝期のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の治世下で最盛期を迎えたが、彼の死後には1565年ターリコータの戦いでムスリムの5王国に敗れ、衰退の道へと向かった。

その後のアーラヴィードゥ朝のヴェンカタ2世は同国最後の名君と呼ばれる人物であり、再び復興しつつあったヴィジャガナガル王国であったが、1614年彼の死後に王国は瓦解してしまった。
デカン高原の諸王国

北インドへのイスラーム支配は14世紀頃になるとデカン高原までおよび、1347年にトゥグルク朝の臣下であった地方長官が自立し、ムスリム政権のバフマニー朝を建国した。

その後もバフマニー朝は2世紀近く存続したが、1527年に滅びた。
バフマニー朝の旧領にはベラール王国、ビーダル王国、アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国の5つの王国が割拠する形となった。これらの諸国はデカン・スルターン朝と総称される。

デカン・スルターン朝は当初、互いに他の諸王国と領土を争い、南のヴィジャヤナガル王国もこれらに介入していたものの、やがて5王国は同盟を結んで、1565年にターリコータの戦いで諸王国の連合軍はヴィジャヤナガル王国の軍を破った。

しかし、その後は再び争いを続けるようになり、ベラール王国、ビーダル王国は他のスルタン国に滅ぼされ、アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国は後に勢力を拡大してきたムガル帝国に滅ぼされた。
バクティ信仰の広がりとシク教の創始

イスラム諸王朝の支配下であった北インドでは都市と商工業が発展し、ムスリム商人の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。
当時のイスラム教の勢力は非常に強く、南インドやヒマラヤ、アッサムなどをを除く殆どの地域はイスラム王朝の支配下であり、イスラム国家に支配され続けてきたインダス川流域は完全にイスラムに染まりきっていた。
イスラームの平等主義的な一神教の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心に平等主義的なバクティ信仰がひろまった。身分の低い人々のあいだではイスラームに改宗する人も増えていった。
やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れを組むグル・ナーナクによってシク教がイスラムとヒンドゥーが混じり合い、ぶつかるパンジャーブ地方で創始されることとなった。
西欧諸国の進出

レコンキスタをいち早く終え、セウタをモロッコから割譲させたポルトガル王国はエンリケ航海王子に率いられ、ジル・エアネスがボジャドール岬を越えることに成功すると、アフリカ航路を急速に開拓。ディオゴ・カンによるコンゴ探検などののち、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪。
これを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部に拠点を築いた。ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となっていった。
1580年にスペイン王フェリペ2世によってポルトガルはスペインに併合され、その海上の覇権と領土はスペインに継承された。

ムガル帝国


1483年2月23日にティムールの曾孫であり、ムガル帝国の創始者となるバーブルは、中央アジアのフェルガナに生まれ、アフガニスタンで勢力を拡大していたが、、1525年11月にバーブルは12000兵をもってインダス川を越えて北インドに侵入。
1526年4月にバーブルの軍はローディー朝の軍とデリー付近の第一次パーニーパットの戦いで勝利した。これによりローディー朝とデリー・スルターン朝の時代は終わりを迎えた。ティムールの流れをくむ新王朝が樹立された。この王朝はバーブルがモンゴルの血を引いていたことに由来し、ペルシア語でモンゴルを意味するムガールが訛って、ムガル帝国(ムガル朝)と呼ばれた。
バーブル帝の統治


バーブル帝はムガル帝国を樹立したが、その規模はまだ小さく弱かった。
1526年の夏には慣習として大勝利を祝った際に貢献した家臣へ贈り物を送ったが、勝利に貢献したもののみならず、バーブルの家族や、軍に随行した商人や一般人に対しても褒賞を与えだし、さらにはイラクにまであたる地域のすべての聖者に対し、金銀や奴隷を送ったため、国内の統治が危うくなってしまった。
また、中央アジアとは気候の全く違うインドに家臣たちは帰ろうとしてしまったが、なんとか引き留めた。
バーブル帝の統治下では適切な徴税制度は定められなかった。
フマーユーン帝の治世

バーブル帝の跡を継いだフマーユーン帝の統治下ではローディー朝復古の動きやスール朝の勃興を受け力を失い、一時滅亡に近い状態となったがフマーユーン帝の奮闘により何とか立て直された。
アクバル帝の治世


1556年1月27日にフマーユーンは事故が原因でデリーにて死亡すると、その息子のアクバルが皇帝となった。帝国が還元に復興し巨大な勢力を築き上げるのはアクバル帝の治世である。
アクバル戴冠時には13歳という若さだったため、インド奪還で功のあったバイラム・ハーンが摂政となった。
アクバル帝治世の当初は非常に不安定であった。
スール朝の武将であったヘームーはその混乱に乗じて挙兵し、デリーとアーグラを占領したが、第一次パーニーパットの戦いにより奪還した。

摂政統治の期間が終了し、アクバル帝が自身の地位や統治に責任を持つようになると、バイラム・ハーンとの対立が鮮明になった。アクバル帝はバイラム・ハーンを「バーバー・ハーン」(父なるハーン)と呼びつつも、皇帝を凌ぐ権力を持っていたバイラム・ハーンを内心では恐れ、その掣肘を煩わしく思うようになってしまっていた。
そして、1560年3月にはバイラム・ハーンを追放し、アクバル帝自ら親政を始めた。

アクバル帝はより権力基盤を強化し、インドという多様な土地を統治するために様々な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底を図った。
アクバル帝統治下のムガル政府にはシーア派のペルシア人、アラブ人、インド出身のムスリム、ラージプート、バラモン層、さらにはマラーターまでもが参画していた。
また、ラージプートなどヒンドゥー教徒の在地勢力を自らの支配層に取り組むために、ヒンドゥー教徒が所有する領地からの収入を認めるとともに、アクバル帝自身、ラージプート出身の女性を妻とした。
さらにジズヤを廃止し、よりヒンドゥー教徒との融和を進め、ザプト制という定額地租制度を導入して、帝国財政を安定させるなど経済政策においても成功を見せた。
アクバルは行政改革も実施し、32段階(当初は33段階)の官位をが定め、この官位に応じて俸禄が支給されるマンサブダーリー制を導入した。マンサブダーリー制はアクバル帝の末期になると、俸禄高に応じて等級付けされるザート数と、保有するべき騎馬部隊の規模・維持費に応じて等級付けされるサワール数が、その地位を表すようになった。
アクバルの治世終了時には帝国の領土は大きく広がり、東はベンガル地方、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定する事に成功した。アクバル帝の他宗教への寛容性と完成された官僚制は、彼の息子や孫の治世に引き継がれ、ムガル帝国を真に偉大な国とした。
ジャハーンギール帝の統治



アクバル帝を引き継いだジャハーンギール帝はラージャスターン全域を支配するなど北インドでは多くの活躍を見せたものの、アフマドナガル王国に敗北するなど、デカンにおいては領土を喪失してしまった。
シャー・ジャハーン帝の統治、最盛期


ジャハーンギール帝の後継者争いに勝利した皇族のフッラムは「世界の皇帝」を意味する「シャー・ジャハーン」を名乗った。シャー・ジャハーン帝の治世は帝国の最盛期であった。
シャー・ジャハーン帝は領土の拡大に成功し、前帝の時代に領土を奪われてしまったアフマドナガル王国を併合、デカン地方で領土を拡大した。
さらにビジャープル王国とゴールコンダ王国に宗主権を認めさせた。
ペルシャに興ったサファヴィー朝との衝突では劣勢に立たされ、ムガル・サファヴィー戦争で敗北しカンダハールを帝国の領地から永遠に失ってしまった。
シャー・ジャハーン帝の時代は現代にも受け継がれるインド・イスラーム文化の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーン帝は彼の妃であるムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルの建造者としても有名な人物である。彼は7年の歳月をかけて孔雀の玉座を作成し、王座の表面にはダイヤモンド、ルビー、サファイア、エメラルドなどの宝石を惜しまなく使った。当時、ヨーロッパからムガル帝国を訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」として称えた。
しかし、重病に倒れたシャー・ジャハーン帝の下で後継者争いに勝利したアウラングゼーブが皇位を継承し、シャー・ジャハーンはアーグラ城のタージ・マハルの見える部屋に幽閉された。
アウラングゼーブ帝の治世、最大領域


シャー・ジャハーン幽閉後、アウラングゼーブ帝が帝位を継承した。
アウラングゼーブ帝は即位後、尽く兄弟を抹殺、反対する者は滅ぼしていった。
アウラングゼーブ帝の治世は実に49年の長きにも渡り、その治世の前半においては曾祖父アクバル以来の繁栄が続いた。アウラングゼーブ帝は若年より厳格なスンナ派の信者であったため、曾祖父アクバルから受け継がれてきた宗教融和を否定し、シャリーア(イスラーム法)による統治を行った。アウラングゼーブ帝は帝国の宗教政策を変え、ヒンドゥー教など異教徒の寺院を破壊したばかりか、1679年にはジズヤを復活したため多くの異教徒の反感を招き、帝国の属国や属領は反発した。
ヒンドゥー教の復興を掲げるマラーター王国の指導者シヴァージーがデカンに進出しゲリラ戦を展開し続け帝国領へ襲撃し続けるなど、アウラングゼーブを苦しめた。1674年にシヴァージーはマラーター王国を創始し、1680年に死ぬまで王座にあった。さらに、アクバル以来臣従してきたラージプートも離反し、帝国は分裂し始めた。
1689年2月にアウラングゼーブ帝はマラーター王サンバージーを破り、捕らえたのち処刑した。
そしてマラーター勢力を追いやったアウラングゼーブ帝はアッサムや南インドの南端以外の全てのインドを制圧し、アフガニスタンやバダフシャーンまでもを支配下に置いた。
治世の後半になると全土で反乱が起こり続け、国土は分断され力を急激に失っていった。
1707年3月3日にアフマドナガルでアウラングゼーブ帝が死亡するとデカン高原を放棄せざるをえなくなり、その後の帝国は深刻な衰退に悩まされた。
その後のムガル帝国
アウラングゼーブ死後の皇帝であるバハードゥル・シャー帝が戦死したり国家が底を尽きるなど、衰退を極め皇帝は何度も入れ替わった。
1708年にマラーター王国がマラーター同盟として再建され、1737年には王国宰相バージー・ラーオに率いられた軍勢がデリーを攻撃するまで勢力を拡大した。

英蘭による進出


17世紀のスペインやポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界へのヨーロッパ人進出はイギリスとオランダが中心となった。1612年にはオランダ東インド会社がチェンナイの北プリカットに商館を構えていたが、1623年、英蘭両国が東南アジアで衝突してアンボイナ事件が起こり、イギリス東インド会社は東南アジア交易から駆逐されてしまい、その代わりにインドへの進出を推し進めた。
1639年、イギリス東インド会社はチェンナイ領主のヴァンダヴァーシの知事からプリカットとポルトガルの根拠地サン・トメ要塞の中間にあたるチェンナイの地を取得し、その地をマドラスと称して1640年にはセント・ジョージ要塞を建設した。いっぽうのオランダは1651年にポルトガル領セイロンを支配、1663年にはインド南部のコーチンに進出した。

英仏の植民地抗争


インド産の手織り綿布であるキャラコがヨーロッパに持ち込まれるとヨーロッパ中で大流行となり、各国は対インド貿易を重視した。
その過程で3次にわたる英蘭戦争が勃発、オランダは北米大陸とともにインドでも根拠地を失っていった。イギリスはマドラスに続き、1661年ボンベイを、1690年にカルカッタを獲得、一方、フランスも徐々にインド進出を図り、コルベールがフランス東インド会社を再建し、1673年シャンデルナゴル、1674年ポンディシェリーを獲得した。
利害が対立していた英仏両国は18世紀になると、新大陸など他の植民地と同様にインドでも抗争を続け、1757年にベンガル地方のプラッシーにおいて、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社がベンガル太守軍とフランス東インド会社の連合軍をプラッシーの戦いで打ち破り、インド植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。

英国による植民地化の推進


18世紀後半に七年戦争の帰趨を定めた1763年のパリ条約によってフランス勢力がインドから駆逐されると、1765年にベンガル地方の徴税権を獲得したイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争やマラーター戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立していった。
1813年からイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから大量の機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は打撃を受け徐々に衰退していってしまう。しかし、19世紀半ばになりジャムシェトジー・タタによって近代的な綿業がインドでも勃興しはじめると、資本金100万ルピーでボンベイにスワデシ・ミルを設立。この会社は従来のインドの機械製綿工業が国内市場向けの低級綿布と中国市場向けの綿糸の生産に特化してきた慣例を打破し、イギリスが独占的に手がけてきた上級綿布の生産にインド人経営企業として初めて参入した点において画期的であった。
1793年のザミーンダーリー制、19世紀前半のライーヤトワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させてしまった。
19世紀になるとイギリス東インド会社は茶やアヘン、インディゴなどのプランテーション農業を拡大させインドや中国と独占貿易を行った。イギリス東インド会社が活動停止した後の19世紀後半には、灌漑事業よりも鉄道建設事業を最優先とした。当初これらは産地と港湾を結ぶためのものが多く、軌道の幅もまちまちで欠損が多かった。開発資金として、インド帝国の税収やロンドン市場の鉄道公債をもとに投資されたが、これから得られる利益の多くはイギリス本国に流出していった。

英国による植民地化


インドのジャンヌダルクとも呼ばれるラクシュミー・バーイーはジャーンシー藩王国の王妃だった。

インドの困窮化と経済的従属化に対し、インドのイギリス支配に対する不満は各地で高まり、1857年、デリーに近いメーラトの兵営でシパーヒーが蜂起すると、それは全インドにひろがるインド大反乱となった。
徹底的な鎮圧を図ったイギリスであったが、ラクシュミ・バーイーの活躍などもあり、苦戦を強いられた。
一時はインド沿岸の一部を除く支配権すら失い、表向きには英国側であった藩王国も反乱の支援をした。鎮圧の翌年にムガル皇帝を廃したが、藩王たちの尽力もあり各藩王国を転々としながらムガル皇帝は自らの地位を主張し続けた。
結局アワド、ジャーンシー、マラーターなどは廃止されてしまったが、英国を動揺させる事に成功した。英国は東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。インド帝国は直轄領と藩王国から成っていた。
インド大反乱は大きな衝撃を与え、藩王国の取り潰しは行われなくなった。

インド国民会議の設立


イギリスはインド統治に際して分割統治の手法を選んだ。インド人知識人層を懐柔するために、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。国民会議は当初、年末の4日間ほど活動するものであったが、やがてインド人の地位向上をめざす政治運動を開始した。国民会議派の中心を占めたのはヒンドゥー教徒の知識人・官吏・地主など比較的めぐまれた階層の人々が多く、その主張や活動は穏健なものであった。彼らはサティーなど古い因習を廃止してインドの近代化を推進しようとした。そのため、イギリスも円滑な統治の安全弁としてこれを活用していった。
独立に向けた動き

当初は安全弁であった国民会議であったものの、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したことや、1905年の日露戦争における日本の勝利やベンガル分割令への憤りなどから反英機運はより一層強まり、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。ベンガル分割令は過激な民族運動をひきおこし、1906年のカルカッタ大会ではボイコット、スワラージ、スワデーシー、民族教育の急進的な4大綱領が採択された。こうした状況でイギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。ムスリム連盟は、人口でヒンドゥー教徒に対し劣位にあるイスラーム教徒の政治力が国民会議派の運動によってさらに弱まると考えて分割支持にまわった。しかし結局、1911年には分割令は撤回された。
世界大戦とインド


第一次世界大戦のインド兵

1907年にはタタ鉄鋼が興り、国内産業が発展し工業大国化に至った。しかし、第一次スワラージ運動に端を発し、財政自主権獲得の要求が高まっていった。第一次世界大戦に際して、イギリス本国は英領インド帝国から2個師団100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。この頃より英領インド帝国の植民地的財政負担は頂点に達し財政状態は窮迫していた。1919年のインド統治法によって財政改革を行い、植民地制度のもとで部分的地方自治制は承認される。しかし州政府は財政困難に陥り、第二次スワラージ運動が起きた。これはウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて反英抗争に発展した。イギリスはこれに対し、1919年3月に出版物の検閲、令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を認めるローラット法を制定しら反英抗争の弾圧を強化した。
同年4月、この法に対する抗議のため集まった非武装のインド人に対して、グルカ族からなるインド軍治安部隊が無差別射撃するアムリットサル事件が起き、独立運動は新しい段階に入った。
マハトマ・ガンディー



マハトマ・ガンディーの登場はいままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させていった。マハトマ・ガンディーによって1919年4月により始められた非暴力・不服従の運動であるサティヤーグラハは、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。数百万の人びとがデモや集会に参加し、多くの地方では商店も店を閉じ、交通機関もとまった。ガンディーは、サティヤーグラハ運動を指導し、インドの各階層の人びとをイギリス製品排斥や地税不払いなど多様な反英運動に組み入れていった。他方、全インド・ムスリム連盟は同じイスラーム国家であるオスマン帝国との関係を強化しながら反英闘争をおこなった。
塩の行進



1929年、ラホールでジャワハルラール・ネルーを議長に開かれた国民会議派大会では、ガンディーやネルーの指導のもと、プールナ・スワラージを決議され、その後も粘り強い反英・独立運動が展開されていった。
1930年3月にマハトマ・ガンディーは「塩の行進」を開始した。イギリスは塩を専売とし、貧しいインド民衆から搾取していた。「塩の行進」は、それに対する抗議であり、海水から塩をつくることを反英独立運動のシンボルとして、アフマダーバードからダンディの海岸までの360 km を29日かけて行進したものである。このような第2次非暴力・不服従運動に対し、イギリスは民族運動の指導者を英印円卓会議にまねいて懐柔をはかったが、成功しなかった。1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めた。その後、国民会議派と全インド・ムスリム連盟との対立は深まってしまった。
こうした民族運動家は時々追われる身となってしまったが、藩王達は彼らを匿った。
インド国民軍



第二次世界大戦では、国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも生まれた。インド国民軍は、日本軍が1942年に英領マラヤやシンガポールを占領した後、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。
日本軍のインドへの侵攻とともにインド国民軍は戦ったものの、独立を達成することはできず、日本も負けてしまった。
独立へ向けて

第二次世界大戦の結果、かつての超大国イギリス帝国の国力は失墜し、世界各地の植民地が独立へ向けて動き始めていた。
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立は深刻であったものの、ムハンマド・アリー・ジンナー、ジャワハルラール・ネルー、マハトマ・ガンディーなどが団結し、それぞれの派閥の主要なメンバー同士が結びつきを強めると、インド国民会議と全インド・ムスリム連盟は団結した。
イスラム教徒にも配慮したムスリム議席の設置などの政策の約束も行われた。
独立闘争における藩王国の功績を認めた暫定政府は藩王国を象徴的な地域の君主として、認めた。
また、インド独立の象徴としてムガル皇帝をインド皇帝の地位に置いた。ムガル皇帝は象徴的な君主で、憲法でもインド統合の象徴としての活動が求められた。
一時はパキスタン構想などの結果から分離の動きも起こったものの、ムガル皇帝を象徴とする事でイスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和は進んだ。
(その後もパキスタンは北西インドを指す地名として使われ、緑と月と星の旗はインドのムスリムの象徴とされている)

独立後のインド


独立後のインドは貧しかったものの、他国での戦争を利用した特需などによって莫大な工業生産力を持つ大国として世界に君臨することとなった。
南アジアの盟主となったインドは存在感を発揮し、独立後分離してしまっていた藩王国であるカシミール連合や、独立国であったネパール、シッキム、ブータン、モルディブ、ディベヒ、ココス、クリスマスと国家連合を結成し、その後インド諸州連合に取り込んだ。
南極付近の島々をシーランド帝国に占領された英国から受け継いだ。
その後の核開発などは世界から批判されたものの、現在では世界情勢を左右する強大な力の一つとなった。

地理


インドの地理は非常に多様性に富み、その景色も天を貫くような巨大な山岳地帯や砂漠、平野、雨林・丘陵、高原地帯、乾燥地、環礁とさまざまである。インドはゴンドワナ大陸のインド・オーストラリアプレートの北側が分離移動したインドプレート上に位置するインド亜大陸のほぼ全域を占める。
インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて非常に長い海岸線をもつ。
北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドゥスターン平野がひろがり、南インドのほぼ全域はデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インド最高点は世界で最も高い山であるエベレストである。
気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。
インドは北西部でスラ社会主義共和国連邦と国境を接し、北部では中華帝国、東部ではミャンマーと国境を接する。インド南方のセイロン島を領有するシーランド帝国?東南アジア諸王連合とは領海を接する。セイロン島とはは狭いポーク海峡とマンナル湾でインドと隔てられる。
また、インド諸州連合はブーベ島やクローゼー諸島などの亜南極圏にも領土を保有している。

言語

方言も含むと何千にも及ぶ多様な言語が話されており、回答も様々である。

公用語

公用語は英語、ヒンディー語、アッサム語、ベンガル語、ボド語、ドーグリー語、グジャラート語、カンナダ語、カシミール語、コンカーニー語、マイティリー語、マラヤーラム語、マニプル語、マラーティー語、ネパール語、オリヤー語、パンジャーブ語、サンスクリット語、サンタル語、シンド語、タミル語、テルグ語、ウルドゥー語、ゾンカ語、バルーチ語、ラダック語、バルティ語、パシュトゥーン語、ハザーラ語、ボージュプリー語、マガヒー語、チャッティスガリー語、ダッキニー語、ポルトガル語、フランス語と非常に多く更なる追加も検討されている。この様な多様な公用語を持つ背景には複雑な歴史や大量の民族がある。

政党

立法

行政

司法

行政区分

バルチスタン州?
  • カラン王国?
  • カラート王国?
  • ラス・ベラ王国?
  • マクラン王国?
カイバル・パクトゥンクワ州?

パンジャーブ州?

  • バハワルプル王国?
シンド州?
  • カイルプル王国?
カリスタン州?
  • ファリドコット王国?
  • カプルタラ王国?
  • ナバ王国?
  • パティアラ王国?
ハリヤーナー州?
  • ジンド王国?
  • カルシア王国?
  • ロハル王国?
  • マレコトラ王国?
ラジャスタン州?
グジャラート州?
ヒマーチャルプラデシュ州?
  • ビラースプル王国?
  • カングラ王国?
  • マンディ王国?
  • ラージガル王国?
  • シルムル王国?
  • スケット王国?
  • シバ王国?
ウッタラカンド州?
  • ガルワール王国?
ウッタルプラデシュ州?
  • ランプル王国?
  • ヴァラナシ王国?
グワーリヤル州?
  • グワーリヤル王国?
  • ガラ王国?
  • カニヤダナ王国?
  • ラムガディ王国?
  • ラージガル王国?
  • カニヤダナ王国?
マハーラーシュトラ州?
ベラール州?
中央州?
ビハール州?
ベンガル州?
  • クチビハール王国?
アッサム州?
  • トリプラ王国?
  • マニプル王国?
  • カシ王国?
オリッサ州?
アーンドラプラデシュ州?
ゴア州?
カルナータカ州?
  • マイソール王国?
ケーララ州?
  • コーチン王国?
  • トラヴァンコール王国?
コールグ州?
タミルナードゥ州?

州の下にない王国、自治国、部族地域

カシミール連合?
ブータン王国?
ミャンマー王国?
  • カレンニー地域?
  • シャン地域?
ハイデラバード王国?
モルディブ王国?
チャゴス共和国?
ナガ部族地域?

連邦直轄地域

グワダル市?
ディウ市?
ダードラー及びナガル・ハヴェーリー?
ダマン市?
マヘ市?
カリカル市?
ポンディシェリ市?
ヤナム市?
シャンディナゴル市?
ラクシャディプ諸島?
アンダマン・ニコバル諸島?

海外領

インド領南極・南方地域?

ココス諸島?

クリスマス島?

共同統治領

保護領

外交

外交方針

植民地支配を受けてきた歴史から反植民地、反帝国主義的な外交を展開している。

締結条約

なし

加盟組織

治安

軍事

インド軍は陸海空軍と戦略核兵器部隊で構成されている。正規兵約132万5000人と、予備役が約110万人、準軍事組織約1,293,300人の人員を抱える。
また、政府武装警察部隊と、国境警備部隊、中央予備警察等を含む中央武装警察部隊(約77万人)や、民兵組織のホーム・ガード(約135万人)などは軍事組織に含まない。
さらに、各藩王国や部族地域の軍隊も存在している。
シク教徒の隊員はターバンの着用を認められるなど、それぞれの宗教に配慮された軍隊となっている。

軍事技術

近年、インド軍は近代化を加速させ、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triadすなわちICBMとSLBM、戦略爆撃機)の整備、ミサイル防衛システムの開発など、多岐にわたる。国防費は2012年度で461億2500万ドルで、年々増加傾向にある。
インド政府は、国防省傘下の防衛研究開発機構(DRDO)を中心として兵器の国産化や輸出に力を入れる方針を表明しているが、その技術力はまだ高いと言えない。
DRDOが開発した、地対空ミサイル「アカッシュ」の購入をインド陸軍が2016年に拒否したするなど、国軍すらもインド製品を信頼していない。2018年にチェンマイで開催された防衛装備品の展示会「ディフェクスポ」で、国防相は「インド軍に必ずインド製を買うよう説得できるとは今は思えない」と吐露してしまった。
インドは防衛装備品の約6割を輸入に頼っており、毎年30億-50億ドルの国富が海外に流出している。輸入の半分以上は東側諸国が占めてきた。外国に源流を持つ兵器を調達する際にも、インド国内での製造や技術移転を促すため2014年、インド国内の防衛産業に対するでの外資の出資比率上限を26%から49%へ緩和した。

交通

産業

農畜産業

インドは莫大な農業生産量を誇る国である。
バナナ、マンゴー、グアバ、パパイヤ、レモン等の多くの果物、ヒヨコマメ、オクラ等の野菜、牛乳、唐辛子、生姜等の香辛料、ジュートのような繊維作物、多くの雑穀やヒマシ油といった多種多様な作物が栽培されている。
小麦と米の生産も世界最大級であり、非常に強力である。
現在のインドはドライフルーツ、農業により生産される繊維原料、根や塊茎作物、豆類、卵、ココナッツ、サトウキビ、多数の野菜においても上位の生産量を誇り、コーヒーや綿などの換金作物の生産も上位の莫大な生産量を誇る。
ベジタリアンの数が世界一であるインドだが、家禽肉の生産においても世界で5本の指に数えられる。
五種類もの蜜蜂が利用されるインドは養蜂大国でもある。ヒマラヤなどで作られる貴重な蜂蜜は世界で珍重されている。
インドは茶生産においても大国であり、ヒマラヤやケーララ、アッサムは世界中で飲まれている高級茶葉の産地である。

漁業


インドは大規模な漁業産業を持っている。
インドでは冷凍エビが最上位の輸出品で、養殖されたコイや、モルディブフィッシュと呼ばれる鰹節の様なものも重要である。
インドが持つ巨大な排他的経済水域の多くは利用されていない状況にあり、インドの漁業は今後の成長が期待される分野である。
とくにインド領南極・南方地域などの漁業は近年までほぼ手付かずであったため、成長が期待されている。

林業


インドは林業や関連産業の盛んな国である。インドでは年間3,000トンの紙製品が生産され、莫大な量の飼料や薪にも木材が使用される。さらにインドの林業は木材と燃料だけではなく非木材林産物産業が盛んであり、ラテックス、ゴム、樹脂、エッセンシャルオイル、香料、香料、アロマケミカル、線香、手工芸品、茅葺き材料、薬用植物などの生産も行われている。

鉱業


インドは世界最大の板状マイカ生産国であり、トリウムの採掘量も世界最大である。鉄鉱石、アルミナ、クロマイト、ボーキサイト、石炭の生産量は世界4位である。
天然ガスの埋蔵量も非常に多く、石油にも恵まれているが、石油の国内需要が莫大すぎるために賄い切れていない。
これら以外にも銅や金、鉛、亜鉛、マグネシウム、マンガン、ダイヤモンド、石膏、石灰岩、燐鉱石、硫黄にも恵まれている。
また、ウランの埋蔵も確認されている。
非常に多くの種類の宝石が採取されていることでも有名であり、これらの産業も莫大な利益を生んでいる。
西部を中心に岩塩の採掘も盛んである。

工業


ムンバイ産業地区の夜

インドは巨大な工業国家であり、様々な面でその力を発揮している。
防衛産業


核搭載能力のあるAgni-II弾道ミサイル。

インドは世界最大の民間軍事会社国家であり、その人員は500万人を優に超える。
兵器の主要な生産国の一つでもあるが、技術は高いとは言えない。しかし研究開発は日々続けられており、技術は年々向上している。
電力産業


NTPCラマガンダム

インドは非常に強力な電力生産国であり、一位の座を争う立場にある。莫大な発電量を誇るインドだが、異常なまでに巨大な電力需要のために常に大量の発電に追われているものの、近年は余剰電力を多く発生させる事も可能となっており、発電量は急激に上昇している。
エレクトロニクス産業と半導体製造業
世界最大の需要を誇るインドは今までその多くを輸入に頼ってきたが、近年では国内生産も拡充している。2015年時点での輸入量は半分ほどであり、国内で賄える量は多くなっている。
インド政府は未来を見据えてエレクトロニクス産業に投資しており、多くの企業が育ち始めている。
また、安い賃金を利用した工場の誘致も行われており、先進各国のスマートフォン工場を大量に抱えている。
インドは半導体製造も拡充させており、グジャラートを中心に大量の工場が建設されている。
研究開発に置いても存在感を発揮し始めている。
導体チップ設計サービスエンティティであるSoCtronicsは、インドで開発された最初の28 nm設計チップを完成させた。
バンガロールに拠点を置く会社であるNavika Electronicsは、独自のブランド名でARMコアプロセッサをベースにしたGNSS / GPS SoC(システムオンチップ)チップセットを、GPSおよびGalileo信号の受信/ダウンコンバージョンや増幅などのポータブルアプリケーション用に設計した。
インド宇宙研究機関(ISRO)とインド自動車研究協会(ARAI)は、ISROの設備を使用して、アートセルテクノロジーの1つである電気自動車に使用するリチウムイオンバッテリーの開発と検証を行っている。
インド工科大学-ボンベイ(IIT-B)の研究者は、ISROのチャンディーガルにある半導体研究所(SCL)と共同で、Bi-CMOSで機能する固有のバイポーラジャンクショントランジスタ(BJT)を開発した。 (バイポーラ相補型金属酸化膜半導体)
これらのアナログ又は集積アナログ高周波BJTベースアンプ各種デジタルのBi-CMOS技術に基づく混合チップはフォームファクタ、電力消費、重量、サイズ寸法及びコストを低減するために、高周波通信等のIoTと空間アプリケーションに必須である。
この様にインドの電子産業はすでに巨大に成長しており、もはや無視できる存在ではない。
他にもcpuの国産化を進めている。
自動車産業


非常に低い価格を実現したインド車タタ・ナノ

インドの自動車産業は巨大であり、世界上位の自動車製造国である。
海外の会社による工場は多いが、自動車企業のタタ・モーターズやマヘンドラ&マヘンドラ、ヒンドゥスタン・モーターズ、アトゥル・オート、タラ・インターナショナルなど、インド企業も自動車産業で力を見せつけている。旧来の自動車のみならず、電気自動車や自動運転車も開発されており、ATIモーターズなどのインド企業が開発に参加している。
宝石産業


コ・イ・ヌールやホープダイヤモンドと言った有名な宝石の多くはインド産である。

インドは宝石産業に於いて世界最大の国家である。金、貴金属、貴石、宝石、宝飾の輸出入はインドのGDPの大きな割合を占め、数千万人もの巨大な雇用を生んでいる。
インドの都市部は宝石の研磨、切断、精密仕上げ、供給、貿易の中心地である。他国の宝石産業と異なりインドの宝石産業は主に職人主導である。彼らは高度に細分化された手作業で宝石を加工しており、ほぼすべてが家族経営の事業によって運営されている。
インフラ


ベンガル湾に位置するヴィシャーカパトナム港

インドは世界最大の道路網と世界最大級の鉄道網を保有する国である。インドの巨大な道路網は全て舗装されているわけではなく13%は未舗装である。
しかし舗装は急激に進んでおり、主要な地域は軒並み舗装されていると言っていい。
グジャラートに位置するムンドラ港はインド最大の民間港である。
石油製品産業、化学製品産業



インドはジャムナガールの1日あたり124万バレルの原油を処理する世界最大の製油所複合施設を含む、多くの石油精製および石油化学事業を主催している。
インドの化学産業はアジアで2番目に大きな生産国であり、国のGDPの5%を占めている。
インドは、農薬、ポリマー、プラスチック、染料、さまざまな有機および無機化学品の5大生産国の1つである。
医療産業


PCV13ワクチン

インドの製薬業界は近年成長し、世界のヘルスケア製品の主要生産国になっている。
インドの企業は、医薬品を低コストで製造するための新しいプロセスをリバースエンジニアリングする専門知識により、インド国内と世界の両方の市場でニッチを切り開いており、インド製薬業界が世界市場を戦う上での利点となった。
バイオテクノロジー部門においても世界で10位内に入る大国である。
繊維産業 


カラチの布業者

インドの繊維産業は近年、衰退する産業から急速に発展する産業へと変化している。
2004年から2005年にかけて、主に財政的な制約から業界を解放した後、政府は国内および国外への大量の投資の流入を許可した。
2004年から2008年にかけて、繊維部門への総投資額は270億ドル増加した。
ルディアナはインドでウーレンの90%を生産しており、インドのマンチェスターとして知られている。
ティルプルは、靴下、ニット衣料、カジュアルウェア、スポーツウェアの主要な供給源として世界的に認められているりイカルカランジなどの繊維産業の拡大する地域では、国内で最も高い一人当たりの収入の1つを享受している。
紙・パルプ産業


インドの製紙業の歴史は非常に古い。

紙・パルプ産業においてインドは主要な生産国の一つである。新たな製造技術の導入により、紙の製造量は倍以上に伸びている。

サービス業


ハイデラバードはインドの主要なIT産業地域である。

サービス業は、インドのGDPで最大のシェアを占める重要な産業である。
航空産業


エア・インディア

インドは世界最大級に大きい民間航空市場であり、乗客数は二億人を遥かに超える。
現在、インド国内では30以上の民間航空会社が活動しており、今後の発展も望まれる業界である。
情報通信業



現代の世界経済では、インドがITの最大の輸出国である。輸出はインドのIT産業を支配し、産業の総収入の約79%を占めている。しかし、国内市場も非常に重要で、収益が大幅に伸びてきている。
保険業

インドは2013年に世界で10番目に大きな保険市場となった。インドの保険市場は、2017年の世界の保険事業の2%を占めていた。生命保険は保険市場の75.41%を占めており、残りは一般保険です。インドの52の保険会社のうち、24が生命保険事業に従事している。
小売業

卸売業を除く小売業界は、労働力の57%を雇用している。この業界は農業に次いでインドで2番目に大きな雇用主である。
インドの小売業界は、主に地元の、ママパパ店舗、有人店舗、露天商で構成されいる。
小売スーパーマーケットは拡大しており、2008年の市場シェアは4%であった。
観光業

雄大な自然と広大な国土、悠久の歴史を持つインドの大地は巨大な観光市場を生み出しており、世界から観光客がインドに訪れる。
観光業はGDPの9%を占める巨大産業である。
インドは急成長している医療観光産業を持ち、低コストの医療サービスと長期ケアを提供している。2015年10月、医療観光セクターの価値は30億米ドルと推定されました。それは2020年までに70〜80 億ドルに成長すると予測されている。2014年には、184,298人の外国人患者が医療を求めてインドを訪れた。
メディア、エンターテイメント業

インドのメディアは、テレビ、ラジオ、映画、新聞、雑誌、インターネットベースのウェブサイト /ポータルなどマスメディアのさまざまな種類のコミュニケーションで構成されている。
インドのメディアは18世紀後半から活発であった。印刷メディアは1780年にインドで始まり、ラジオ放送は1927年に始まった。インドのメディア史は世界で最も古いものの一つであり、アショカの治世以前にもさかのぼる。
メディアの多くは、営利目的の大企業によって管理されており、広告、購読、著作権で保護された素材の販売から収益を得ている。
他にもインドは強力な音楽および映画産業がある。
映画はインドが世界に誇るべき偉大な産業であり、世界で最も多くの映画が作られ輸出されている。
インドは世界最大級の新聞市場も持つ。
医療

インドの医療業界は巨大な市場を持つ。
インドは無料の公的医療を実現しており、貧困線以下の人々のために助成金を受けている。
中産階級以上の所得を持つ人々は公的医療よりも民間医療を好む傾向にある。インドは抗生物質の最も大きな消費国である。
インドは2000万人以上の医師を抱える国ではあるものの、医療格差は大きく、農村において顕著である。また、カースト制も医療格差を広げている原因である。
インドの歴史の長い民間療法は世界で知られており、医療観光のために世界中から人々が訪れる。
印刷業

インドの印刷業界は成長している。インドの人々は今、印刷業に強い関心を示している。インドには45以上の印刷機関があり、これらのいくつかは大学院教育までも提供している。毎年5000人以上の新しい印刷工学の卒業生が業界に参加しているが、それでもなお遥かに多くの人がプリントショップで現場教育を受けている。
 1989年以降、パッケージ印刷業界も含め、印刷の成長率は14%を超えているとされている。
2001年の国勢調査によれば、インドの識字率の伸びは66%近くに達しており、識字能力の驚くべき成長と、インドの教育レベルの上昇および急速に進歩している貿易と産業は、印刷業の状況もより良いものとしている。識字率の向上は、地域紙の発行部数の増加に直接プラスの影響を及ぼしている。
印刷メディアにおけるインドの市場の高い可能性について疑いの余地がなく、新聞や雑誌の読者数は1998年から15%増加するなど、急速に拡大している。
インドの電気通信業

インドの通信ネットワークは、2019年5月31日現在で電話ユーザー数(固定電話と携帯電話の両方)が世界最大級であり、14億830万人の加入者を抱えている。
2018年7月31日現在、インドのインターネットユーザー数は電話と同様に巨大で、7億6,424万人のインターネット利用者を抱えている。
テレビ業界の巨大さもこれらと同様であり、衛星テレビの利用者も2億人ほどにのぼる。

通信

メディア

インドのメディアは、テレビ、ラジオ、映画、新聞、雑誌、インターネットベースのウェブサイト /ポータルなど、マスメディアのさまざまなタイプのコミュニケーションで構成されている。インドのメディアは18世紀後半から活発であった。活字メディアは1780年にインドで始まった。ラジオ放送は1927年に始まりまった。インドのメディアは世界で最も古いものの1つであり、その歴史はアショーカ王の治世以前にもさかのぼる。インドのメディアは、その歴史のほとんどを通じて自由で独立してきた。

教育

インドの教育は非常に古い伝統を持つが、現在の教育は伝統的なものからかなり離れている。インドには、インド工科大学などの世界でも一定の評価を得ている大学がある一方で、識字率100%を目指した初等教育の試みは長い間、課題として立ちはだかってきた。貧しい子供たちを学校に継続して通わせる努力、そして非都市部における教育の水準を保つ努力はインド国内で常に継続されてきたが、初等教育における国民皆教育は、これをほぼ達成しているケーララ州を除き、全インド的に見れば達成は未だ困難な状況にある。このため、初等教育から高等教育まで、すべての水準の教育に政府が強力な財政的支援を行っている。
近年での教育の躍進は凄まじく、教育された人口の増加はインドの新時代を支える原動力となっている。
インドは初等教育の達成率の向上に進展を見せている。2011年には、7〜10歳の人口の約75%もの識字率があった。インドの改善された教育システムは、その経済発展への主要な貢献者の1つとしてしばしば引用されている。特に高等教育と科学研究における進歩の多くは、さまざまな公的機関に貢献している。高等教育は、2013年に24%の就学率に達し、過去10年間に着実に増加している。低い高等教育の就学率は、現代インドの最も改善すべき点の一つであり、政府はこの課題に真摯に取り組んでいる。

小学校及び中学校では、インド政府が運営する学校を補完する大規模な私立学校制度があり、29%の学生が6〜14歳のグループの私立教育を受けている。特定の中等専門学校も私立であることが多い。インドの私立教育市場の収益は2008年に4億5000万ドルであったが、今後400億ドルの市場になると予測されている。

2012年の教育の現状報告(ASER)によると、6〜14歳の農村部の子供たちの96.5%が学校に在籍している。インドは2007年から2014年まで、この年齢層の学生の平均在籍率を95%に維持している。結果として、学校に在籍していない6〜14歳の学生の数は、2.8%に減少している。 2013年の別の報告によると、クラスIからXIIまで、インドのさまざまな認定された都市部と農村部の学校には2億2900万人の生徒が在籍しており、2002年の総入学数を超えて23万人の生徒が増加し、女子生徒の入学は19%増加した。量的にインドは普遍的教育に近づいていますが、その教育の質は、特に政府が運営する学校システムで疑問視されている。95%以上の子供が小学校に通う一方で、インドの青年のわずか40%が中等学校に通っている(学年9- 12)。2000年以降、世界銀行は20億ドル以上をインドの教育に費やしてきた。質の低い理由のいくつかには、毎日約25%の教師が欠席していることが含まれている。インドの州は、そのような学校を特定して改善するためにテストと教育評価システムを導入している。

インドには多くの私立学校があるが、教えることができる内容、運営できる形態(認定された教育機関を運営するには非営利団体である必要がある)および運営のその他すべての側面について、非常に規制されている。したがって、公立学校と私立学校の違いは誤解を招く可能性がある。

インドの高等教育制度では、かなりの数の入学枠が、歴史的に不利な立場にある予定されたカーストと予定された部族と他の後方階級のための積極的行動政策の下で指定されている。連邦政府に加盟している大学、カレッジ、および同様の機関では、これらの不利な立場にあるグループに適用される入学枠の最大50%があり、州レベルで異なる場合がある。マハラシュトラ州は、2014年に73%の入学枠を設置した。これは、インドで最も高い入学枠の比率である。

教育の歴史

タクシャシラは、紀元前8世紀頃のインドで最も早く記録に残された高等教育の中心地であり、そこに住んでいる教師が公的なものを持っていなかった可能性があるため、大学と見なすことができるかどうかは議論の余地がある。特定の大学のメンバーシップであり、インド東部のナーランダ大学とは対照的に、タクシャシラには専用の講堂や住宅地は存在していなかった。ナーランダは、現代の大学という意味で、世界で最も古い教育システムであった。ナーランダではすべての科目がパーリ語で教えられた。

その後は世俗的な制度が仏教の僧院に沿って出現した。これらの機関は、医学などの実践的な教育を行った。紀元前500年から西暦400年までの期間から、多くの都市型学習センターが目立つ。学習の重要な都市の中心は、ナーランダとナグプールのマナッサなどだった。

サンマナとブラフマンの教祖は歴史的に、料金を請求したり、学生や保護者から資金を調達したりするのではなく、寄付によって教育を提供していた。その後、仏舎利塔、寺院も教育の中心地となった。宗教教育は義務だったが、世俗的な科目も教えられた。学生はブラマカリスまたは独身者である必要がありました。これらから提供される知識は、社会の一部が実行しなければならない仕事に関連することが多かった。司祭階級のサンマナは、宗教、哲学、およびその他の補助的な枝についての知識を与えられ、戦士階級のクシャトリヤは、戦争のさまざまな側面について訓練を受けた。ビジネス階級、ヴァイシャは彼らの貿易と労働者階級を教えられた。シュードラは一般的に教育上の利点を奪われてきた。

こうした教育以外にも、イスラームの侵攻以降はさまざまなイスラム教育、マドラサの建築とマドラサでの教育が行われてきた。

文化

インドは驚くべき深みのある多様な文化を持つ国である。
その文化史は世界最古級に遡り、常に東洋や中東のみならず、世界中に巨大な影響を与えてきた。
インドの言語、宗教、ダンス、音楽、建築、食べ物、習慣は、国内のそれぞれ場所によって異なる。インドの文化は、しばしばいくつかの文化の融合としてラベル付けされており、インド亜大陸全体に広がっており、数千年前の歴史の影響を受けている。インドの宗教、哲学など、インドの多様な文化の多くの要素である料理、言語、ダンス、音楽、映画は現在もインド亜大陸のみならず世界に大きな影響を与えている。

宗教


インド原産の宗教であるヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、およびシーク教は、すべてダルマとカルマの概念に基づいている。非暴力の哲学であるアヒムサは、インド人の信仰の重要な側面であり、その最も有名な支持者はマハトマガンジーであり、マハトマガンジーは、市民の不従順によってインドをイギリスからの独立に導いた。アブラハムの宗教を含む、外国の宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教などもインドに存在し、ゾロアスター教、バハイ信仰の両方がイスラム教による迫害から逃れてインドにやってきた。また、カラシュ人やキラント人などのいくつかの民族は独自信仰を持つ。
インドの歴史を通じて、インドの文化はダルマ宗教に大きく影響されてきた。彼らはインドの哲学、文学、建築、芸術、音楽の多くを形作ったと信じられている。旅行者や海上貿易はインドのダルマ宗教より芽生えた文字システムを含む多様な文化をシルクロードやその他の貿易路を通じて世界中に影響を与えた。インドでは何世紀にも渡り仏教徒、ヒンズー教徒、イスラム教徒、ジャイナ教徒、シーク教徒、およびインドのさまざまな部族の集団の間で、文化の重要な融合があった。

インドはヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教、その他の宗教の発祥の地である。彼らはインドの宗教として集合的に知られている。インドの宗教は、アブラハムの宗教と並んで、世界の宗教の主要な形態の一つである。今日、ヒンドゥー教と仏教はそれぞれ世界で3番目と4番目に大きな宗教であり、全体で20億人以上の信者がいる。インド系宗教の信者、つまりヒンドゥー教徒、シーク教徒、ジャイナ教徒、仏教徒がインドの人口の多数を。
インドは、世界で最も宗教的および民族的に多様な国の1つであり、いくつかの最も深い宗教社会および文化がある。宗教は、多くの人々の生活において中心的かつ決定的な役割を果たしている。インドは世俗的なヒンドゥー教の大多数の国ですが、イスラム教徒の人口は非常に多い。カシミール、パンジャブ、シンド、バルーチスターン、ベンガル、カイバル・パクトゥンクワ、ブータン、メガラヤ、ナガランド、ミゾラム、ラクシャディープ諸島、ミャンマーなどを除き、ヒンドゥー教は多数派である。イスラム教徒はインド全土に存在し、西部と北部、ハイデラバード、ベンガルに大規模な人口がいる。シーク教徒とキリスト教徒は、インドにおける重要な少数派である。

無神論と不可知論はインドで長い歴史があり、アラマチャ運動の中で栄えた。シャルバカの学校は紀元前6世紀前後にインドで始まりまった。これは古代インドにおける唯物論的および無神論的運動の初期の形態の1つである。沙門、仏教、ジャイナ教、アージーヴィカ教が存在したにもかかわらず、ヒンドゥー教は無神論が有効であることを考えるとのコンセプトを拒否した。インドは多くの著名な無神論者の政治家や社会改革者を生み出した。 2012年のWIN-ギャラップ世界宗教および無神論グローバルインデックスレポートによると、インド人の81%は宗教的であり、13%は宗教的ではなく、3%は無神論者であると確信し、3%は不確実であるか応答しなかった。

哲学


インドの哲学(ダルシャナ)は、哲学の中でも特にインドを中心に発達した哲学を指し、さらにその中でも古代インドを起源にするものをいう。インド亜大陸においては、宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学に内包されるわけではない。しかし、伝統的に宗教的な人々は哲学的な議論をしてその宗教性を磨いている伝統がある。
こうしたインド哲学の多くはヒンドゥー教の様々な学派やジャイナ教、仏教、アージーヴィカ教などから生まれ、進化してきた。

古来の伝統と思われる宗教会議が現在も各地で頻繁に行われている様子で、会議では時には宗派を別にする著名な人々が宗教的な議論を行う。これは数万人の観衆を前にして行われることもあり、白熱した議論が数日にかけて、勝敗が明らかになるまで行われることもある。この場合、判定をする人物がいるわけではなく、議論をする当人が議論の成行きをみて、自らの負けを認める形を取るようである。

インドの宗教、哲学はこのような伝統の中で磨かれたものと思われる。

料理

インド料理はインドと言う国家と同じくらい多様である。インド料理は多くの食材を使用し、幅広い調理方法、調理技術、料理のプレゼンテーションを展開している。サラダからソース、ベジタリアンから肉、スパイスから官能的なもの、パンからデザートまで、インド料理は常に複雑である。
インド料理は食べ物とスパイスへの愛で知られている。インド料理は地域ごとに異なり、地元の食材、文化的多様性、国のさまざまな人口構成を反映している。一般的に、インドの料理は、北部、南部、東部、西部、極西部、北東部、バルーチスターン料理、パシュトゥーン料理、ミャンマー料理、ネパール料理、ブータン料理、チベット料理、モルディブ料理、チャゴス料理の14のカテゴリに分類でき、その数はある程度前後する。インド料理の多様性は、多くのスパイスとハーブのさまざまな使用法、幅広いレシピと調理技術を特徴としている。インド料理のかなりの部分はベジタリアンですが、多くのインド料理には、鶏肉、羊肉、牛肉(牛と水牛の両方)、豚肉などの肉も含まれてる。魚、卵、その他のシーフード。魚ベースの料理は、インドの東部州、特に西ベンガル州と南部のケララ州とタミルナードゥ州で一般的である。
インドの料理文化は深く宗教と結びついており、それぞれの進行する宗教によって料理も変わる。

これらの多様性にもかかわらず、いくつかの統一された要素も存在する。スパイスのさまざまな用途は、特定の食品の調製に不可欠な部分であり、料理の風味を高め、独特の風味と香りを生み出すために使用される。インド中の料理は、中央アジア人、アラブ人、ムガル人、ヨーロッパの植民者など、歴史を通じてインドに入ってきたさまざまな文化グループの影響も受けている。

インド料理は世界中で最も人気のある料理の1つである。インド国外のほとんどのインド料理レストランでは、メニューは豊富な種類のインド料理にの状況を反映していない。メニューで提供される最も一般的な料理はパンジャブ料理である。チキンティッカマサラはイギリスで非常に人気のある料理である。インドの他の地域の料理を提供するレストランも存在しない訳ではないが、これらのレストランはあまりみられない。歴史的に、インドのスパイスとハーブは、最も人気のある貿易商品の1つだった。インドとヨーロッパの間のスパイス貿易は、バスコ・ダ・ガマやヨーロッパの探検家などのアラブ人貿易業者の台頭と支配につながった。クリストファー・コロンブスは、発見の時代につながるインドとの新しい貿易ルートを見つけるために着手した。インドを起源とするカレーのアジア全体での人気により、この料理は今や「汎アジア」料理と呼ばれるようになった。

インドの地方料理は進化を続けている。インドの主要な都市では、東アジア料理と西洋料理の方法と伝統的な料理の融合、およびファーストフードの地域的な適応が顕著である。

インド諸州連合構成国のハイデラバード王国にはテルグ人の食べるテルグ料理とムスリムの食べるハイデラバード料理がある。ハイデラバード料理の食品は非ベジタリアンの食材に大きく基づいているのに対し、テルグ人の食品はベジタリアンと非ベジタリアンの両方の食材のミックスである。テルグ料理はスパイスが豊富で、唐辛子が豊富に使われている。食品はまた、酸味料としてたっぷりと使用されるタマリンドとライムのジュースが一般的で、辛味が強い傾向があります。米はテルグの人々の主食です。でんぷんは、さまざまなカレーとレンズ豆のスープ、ブロスとして消費される。 ベジタリアン料理と非ベジタリアン料理はどちらも人気がある。ハイデラバードでよく食べられる料理には、諸外国で人気の高いビリヤニも含まれる。

国民

インドは世界最大の巨大な人口を抱える国家である。
宗教、カースト、民族、言語、その他の文化によって特徴づけられる様々な人々が暮らしており、民族の数は分け方によれば二千にも三千にも、そしてそれ以上にも登る。
インド国内ではこの世界の主要な宗教の全てが、ある程度の規模で信仰されている。
インドではインド・ヨーロッパ語族、シナ・チベット語族、オーストロアジア語族などの主要な語族の多くが話されているほか、アンダマン諸語や孤立した言語のニハリ語、ブルシャスキー語なども話される。
インドの人口の50%以上が25歳未満、65%が35歳未満である。2020年のインドの平均年齢は29歳である。インドの子供の数は10年以上前にピークに達し、現在は減少している。5歳未満の子供の数は、2007年にピークに達した。それ以来、その数は減少している。15歳未満のインド人の数はやや遅く2011年にピークに達し、現在も減少している。

民族集団

主なものをここに記述する。
インド・アーリア系民族
  • アッサム人
  • アワディ人
  • バンジャラ人
  • ボージュプリー人
  • ベンガル人
  • ビル人
  • バゲリ人
  • ブンデリ人
  • チャクマ人
  • ディベヒ人
  • ドグラ人
  • ガルワリ人
  • グジャラート人
    • クッチ人
  • ハリャンビ人
  • カムルピ人
  • カシミール人
  • ハス人
  • コンカニ人
  • クマオニ人
  • マイティリー人
  • モルディブ人
  • マラーティー人
  • マガヒ人
  • ナグリ人
  • オディア人
  • パンジャブ人
  • パハリ人
  • パールシー
  • ラージャスターン人
  • マルワリ人
  • ロヒンギャ人
  • シンド人
  • メモ人
  • サライキ人
  • サウラシュトラ人
  • シンハラ人
  • シレティ人
  • タル人
イラン系民族
  • バローチ人
  • ハザラ人
  • イラニ人
  • パシュトゥーン人
ヌリスターン系
  • ヌリスターン人
ダルド系民族
(インド・アーリア系の一部とすることもある)
  • チトラル人
  • カラシュ人
  • カシミール人
  • シナ人
ドラヴィダ系民族
  • バダガ人
  • ブラフイ人
  • コンダ
  • ゴンド人
  • イルーラ人
  • カンナダ人
  • コンド人
  • コダバ人
  • クルク人
  • マラヤール人
    • シリアマラバルナスラニ
  • マルト人
  • サウリア・パハリア人
  • タミル人
  • テルグ人
  • トダ人
  • トゥルバ人
オーストロアジア系民族
  • ブミジ人
  • ハシ人
    • プナー人
  • マーレ人
  • ムンダ人
    • ボンダ人
    • ホー人
    • ユアン人
    • ハリア人
    • コルク人
    • ムンダ人
    • サンタル人
    • ソラ人
  • ニコバル人
  • ションペン人
チベット・ビルマ系民族
  • チベット人とチベット系言語話者
    • クキ人
    • ラダック人
    • ウッタラーカンドボティヤ人
    • シッキム人
      • ブティア人
    • モンパ人
      • タクパ人
      • シャングラ人
    • シェルパ人
    • ボティヤ人
    • シェルドゥクペン人
    • アカ人
    • ミジ人
    • チベット系ムスリム民族
      • ブリッグ人
      • バルティ人
  • ボードカチャリ人
    • ボードー人
    • ディマサ人
    • ガロ人
    • ハジョン人
    • ソノワール人
    • スティヤ人
  • チェパン人
  • グルン人
  • コワ人
  • キラント人
    • ライ人
    • リンブ人
    • ヤッカ人
  • レプチャ人
  • メイガー人
  • メンバ人
  • ナガ人
  • ネワール人
  • ニシ人
  • タマン人
  • タカリ人
  • メイテイ人
  • カルビ人
  • タミ人
  • トリプラ人
  • ゾ人
    • バアム人
    • チン人
    • クキ人
      • ハラム
      • フランクホル
    • ミゾ人
アンダマン系民族
  • 大アンダマン人
    • アカ・カリ人
    • アカ・コラ人
    • アカ・ボ人
    • アカ・ジェル人
    • アカ・ケデ人
    • アカ・コル人
    • オコ・ジュウォイ人
    • ア・プチクワール人
    • アカル・ベール人
    • アカ・ベア人
  • ジャンギル人
  • ジャラワ人
  • オンゲ人
  • センチネル人
セム系民族
  • インドのアラブ系
    • グジャラート・アラブ人
    • セイロン・ムーア人
    • イラク・ビラドリ人
    • ラブベイ人
    • ロウサー・ムスリム
    • ボラ人
    • チャウシュ人
  • インドのユダヤ人
    • コーチンユダヤ人
    • ベネ・イスラエル
    • バグダディ・ユダヤ人
    • ベネ・メナシュ
    • ベネ・エフライム
    • パラデシユダヤ人
タイ系民族
  • アーホーム人
  • タイ・アイトン
  • タイ・カムティ
  • タイ・パケ
  • タイ・トゥルン
  • タイ・カムヤン
テュルク系・モンゴル系
  • ハザラ人
  • トルコ・インド人
  • ムガル人
    • チャガタイ・タタール
    • バルラ人
    • チャンゲズィ人
    • ガルダ人
アフリカ系住民
  • ショーシュ人
  • シド人
  • セイロン・カフィール
ヨーロッパ人
  • アングロ・ビルマ人
  • アングロ・インド人
  • ベンガル・がアルメニア人
  • ダカイヤ・アルメニア人
  • バーガー人
  • フレンチ・インド人
  • ルソ・インド人
  • ロマニ人
中華系
  • ベンガル・チャイニーズ
  • インド・チャイニーズ
  • セイロン・チャイニーズ
オーストロネシア人
  • セイロン・マレー人
系統不明の民族
  • フンザ人
  • クスンダ人
  • ナハリ人
  • ヴェッダ人

スポーツ

インドは非常にスポーツの盛んな国の一つである。
クリケットはインドで最も人気のあるスポーツであり、インドはクリケットワールドカップを主催して優勝した国でもある。フィールドホッケーは、オリンピックで最も成功したスポーツである。インドの男子チームは8個オリンピック金メダルを獲得した。カバディはインド国内で最も人気のある土着のスポーツである。インドの他の人気のあるスポーツは、バドミントン、サッカー、射撃、レスリング、ボクシング、テニス、スカッシュ、重量挙げ、体操、陸上競技、卓球、バスケットボール、バレーボール、サイクリングなどが挙げられ、人気のある土着のスポーツにはインドのチェス、コーコー、カイトファイティング、レッグクリケット、ポロ、スヌーカー、ギリダンダなどがある。

自然

インドの自然は非常に多くの多様性に富み、その景色も冠雪した巨大な山岳地帯や高原、砂漠、サバナ、様々な種類の乾燥した森林や温帯林、山岳性の気候の地域、熱帯雨林、巨大な乾燥地や岩山、砂漠、広大な三角州、南洋に浮かぶ環礁群などとさまざまである。インドはゴンドワナ大陸のインド=オーストラリアプレートの北側が分離移動したインドプレート上に位置するインド亜大陸の全域を占める。インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾にくぎられ非常に広大な海岸線を持つ

北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドゥスターン平野がひろがり、南インドのほぼ全域はデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠やバルーチスターンの乾燥した山岳地帯などがあり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。最も西はジャングルやサバナと山岳地帯に覆われたミャンマー地域である。インドの最高点は世界最高峰でもあるエベレストである。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。

インドの生物多様性


インドには世界で最も生物多様性の高い地域があるりインドの政治的境界には、砂漠、高山、高地、熱帯および温帯林、沼沢地、平野、草原、川の周辺地域、そして島群島など、幅広いバイオームが含まれる。ヒマラヤ、西ガーツ山脈、インドビルマ地域、スンダランド(ニコバル諸島を含む)の4つの生物多様性ホットスポットがインドにはある。これらのホットスポットには多数の固有種が生息している。

インドはほとんど東洋区内にあり、ヒマラヤ山脈の上流が旧北区圏の一部を形成してる。2000〜2500mの等高線は、東洋区と旧北区帯の間の標高境界と見なされる。インドは全土において重要な生物多様性を示している。

注釈

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脚注

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