最終更新: aremoon7777 2020年06月15日(月) 08:02:25履歴
ザカルパッチャ自治区、ザカルパート自治区(ウクライナ語:Закарпатська областьザカルパーツィカ・オーブラスチ)は、ユーゴスラビア連邦ウクライナ自治共和国の最も西に位置する自治区である。自治庁所在地はウージュホロド。自治区名は、ザカルパッチャ内に位置する地域の伝統的な名称からとられた。ロシア語名はザカルパチア自治区(Закарпатская область)。
ザカルパッチャ自治区 | |
---|---|
国 | ウクライナ自治共和国? |
自治区旗 | |
自治区庁所在地 | ウージュホロド |
面積 | 12,777k |
人口 | 2,483,760人 |
人口密度 | 196.04人 |
市町村数 | 598 |
市の数 | 10 |
町の数 | 9 |
村の数 | 579 |
行政コードISO 3166-2:JUA | JUAー21 |
電話番号コード | +380ー31 |
ザカルパッチャ自治区は、ウクライナ・カルパート山脈の南西部から越カルパート低地にかけての地域ザカルパッチャ(越カルパート地域)に位置している。ウクライナ人が多く住む地方であり西ウクライナの一部でもあった。しかしカルパティア山脈という障壁により、オーストリア帝国、ポーランド王国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国などウクライナと異なる国家に統治され続けた。
9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にはブルガリア帝国、12世紀にはウラジーミル2世モノマフによりキエフ大公国、13世紀にはベーラ4世によってハンガリー王国の版図に組み込まれた。このためカルパティア・ルテニアは聖イシュトヴァーンの王冠の地の一つとして、ハンガリーの固有の領土であると認識されるようになった。
16世紀からはハンガリーはハプスブルク帝国の統治下となったが、まもなくオスマン帝国の支配下となった。18世紀以降はオーストリア帝国の一部として統治された。オーストリア=ハンガリー帝国の成立後は帝国内のハンガリー王国の一部として統治された。
1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、ロシア帝国もロシア革命で崩壊したため、帝国支配下の民族が分離独立を始めた。フーストを拠点にするウクライナ人とルシン人の勢力は西ウクライナ人民共和国に合流し、ドニプロ地方に成立したウクライナ人民共和国との合同を企図した。しかし、ポーランド・ウクライナ戦争により西ウクライナ人民共和国はポーランドに敗れ、結局合同は実現しなかった。サン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、越カルパート地域はチェコスロバキアの領域になった。
チェコスロバキア時代には、資本主義経済が発達した。ミュンヘン会談後にカルパート・ウクライナはチェコスロバキア内での自治が認められた。そして、軍事組織「カルパート・シーチ」が設置されるなどこの地域のウクライナ化が進められた。
1939年3月15日には、選挙によって圧倒的な支持を得たセイム(議会)がカルパート・ウクライナの完全な国家的独立を宣言した。セイムは憲法を採択し、国号を「カルパート・ウクライナ」と定め、国家体制を「大統領制共和国」とし、公用語を「ウクライナ語」に定めた。国旗と国章、国歌はウクライナの伝統的な青・黄旗とトルィズーブ「ウクライナは滅びず」とされた。大統領には、アウグスティーン・ヴォローシンが就任した。しかし、3日後の3月18日にはカルパート・ウクライナはハンガリー軍によってほとんどの領域を占拠され、国家首脳部はユーゴスラビアへ亡命、一時は国家の消滅しかけたが当時関係が悪化していたハンガリーの力を削り、またソビエトへの進出の第1歩としてナチス政権が支援した為に、カルパート・シーチによる同年5月までの武力闘争でなんとか独立を保った。
唯一の民主主義国家として独ソ戦に参戦
主に前線部隊ではなく後方の補給や支援に参加した。
第二次世界大戦末期の1944年11月にはソビエト連邦軍がナチス・ドイツとハンガリーを破り、かつてのカルパート・ウクライナ共和国を占領し、ザカルパート・ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の国号の下、独立を宣言した。しかし、この国家はソヴィエト・ウクライナ社会主義共和国と合併することになり、1945年7月には消滅した。1946年には、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に併合された。
1960年のソ連崩壊に伴い同地は新しく成立したウクライナの一部となり、ザカルパッチャ州となり、当初はウクライナを離脱し東ドナウ連邦への再併合を求める声もあったが、東ドナウ併合の過激派が各地でテロ行為を起こした為に、民心が離れていき、やがて議論されなくなった
だがユーゴスラビアによるウクライナ自治共和国設立後は再びテロ活動が再発し、東ドナウ連邦に併合されそうになったが、ザカルパッチャ自治区としてある程度の自治を現地住民に約束し、また多数の優遇政策(税の軽減や手厚い社会保障)を行った為に併合運動は低迷化した。
しかし2008年にはムカーチェヴェにて、ルシン人の民族主義政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言する(非公認)など、現在でも「ウクライナ人」と異なる民族意識を持つ勢力が多く存在する特異な地域となっている。
なお東ドナウ連邦内部では、ザカルパッチャ自治区でハンガリー人が多く住む自治体へ財政支援を行っており、ハンガリーの国旗が掲揚されている地域もある
9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にはブルガリア帝国、12世紀にはウラジーミル2世モノマフによりキエフ大公国、13世紀にはベーラ4世によってハンガリー王国の版図に組み込まれた。このためカルパティア・ルテニアは聖イシュトヴァーンの王冠の地の一つとして、ハンガリーの固有の領土であると認識されるようになった。
16世紀からはハンガリーはハプスブルク帝国の統治下となったが、まもなくオスマン帝国の支配下となった。18世紀以降はオーストリア帝国の一部として統治された。オーストリア=ハンガリー帝国の成立後は帝国内のハンガリー王国の一部として統治された。
1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、ロシア帝国もロシア革命で崩壊したため、帝国支配下の民族が分離独立を始めた。フーストを拠点にするウクライナ人とルシン人の勢力は西ウクライナ人民共和国に合流し、ドニプロ地方に成立したウクライナ人民共和国との合同を企図した。しかし、ポーランド・ウクライナ戦争により西ウクライナ人民共和国はポーランドに敗れ、結局合同は実現しなかった。サン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、越カルパート地域はチェコスロバキアの領域になった。
チェコスロバキア時代には、資本主義経済が発達した。ミュンヘン会談後にカルパート・ウクライナはチェコスロバキア内での自治が認められた。そして、軍事組織「カルパート・シーチ」が設置されるなどこの地域のウクライナ化が進められた。
1939年3月15日には、選挙によって圧倒的な支持を得たセイム(議会)がカルパート・ウクライナの完全な国家的独立を宣言した。セイムは憲法を採択し、国号を「カルパート・ウクライナ」と定め、国家体制を「大統領制共和国」とし、公用語を「ウクライナ語」に定めた。国旗と国章、国歌はウクライナの伝統的な青・黄旗とトルィズーブ「ウクライナは滅びず」とされた。大統領には、アウグスティーン・ヴォローシンが就任した。しかし、3日後の3月18日にはカルパート・ウクライナはハンガリー軍によってほとんどの領域を占拠され、国家首脳部はユーゴスラビアへ亡命、一時は国家の消滅しかけたが当時関係が悪化していたハンガリーの力を削り、またソビエトへの進出の第1歩としてナチス政権が支援した為に、カルパート・シーチによる同年5月までの武力闘争でなんとか独立を保った。
唯一の民主主義国家として独ソ戦に参戦
主に前線部隊ではなく後方の補給や支援に参加した。
第二次世界大戦末期の1944年11月にはソビエト連邦軍がナチス・ドイツとハンガリーを破り、かつてのカルパート・ウクライナ共和国を占領し、ザカルパート・ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の国号の下、独立を宣言した。しかし、この国家はソヴィエト・ウクライナ社会主義共和国と合併することになり、1945年7月には消滅した。1946年には、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に併合された。
1960年のソ連崩壊に伴い同地は新しく成立したウクライナの一部となり、ザカルパッチャ州となり、当初はウクライナを離脱し東ドナウ連邦への再併合を求める声もあったが、東ドナウ併合の過激派が各地でテロ行為を起こした為に、民心が離れていき、やがて議論されなくなった
だがユーゴスラビアによるウクライナ自治共和国設立後は再びテロ活動が再発し、東ドナウ連邦に併合されそうになったが、ザカルパッチャ自治区としてある程度の自治を現地住民に約束し、また多数の優遇政策(税の軽減や手厚い社会保障)を行った為に併合運動は低迷化した。
しかし2008年にはムカーチェヴェにて、ルシン人の民族主義政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言する(非公認)など、現在でも「ウクライナ人」と異なる民族意識を持つ勢力が多く存在する特異な地域となっている。
なお東ドナウ連邦内部では、ザカルパッチャ自治区でハンガリー人が多く住む自治体へ財政支援を行っており、ハンガリーの国旗が掲揚されている地域もある
ヴィノフーラジウ(Виноградів) / (ナジセーレーシュ)(Nagyszőlős) / Vinohradiv
ウージュホロド(Ужгород) / (ウングヴァール)(Ungvár) / Uzhhorod(自治区庁都)
ベーレホヴェ(Берегове) / (ベレクサース)(Beregszász) / Bergsoß / Berehove
()
ムカーチェヴェ(Мукачеве / (ムンカーチ)(Munkács) / Mukacheve
フースト(Хуст) / (フスト)(Huszt) / Khust
ウージュホロド(Ужгород) / (ウングヴァール)(Ungvár) / Uzhhorod(自治区庁都)
ベーレホヴェ(Берегове) / (ベレクサース)(Beregszász) / Bergsoß / Berehove
()
ムカーチェヴェ(Мукачеве / (ムンカーチ)(Munkács) / Mukacheve
フースト(Хуст) / (フスト)(Huszt) / Khust
2018年ユーゴスラビア連邦国勢調査によるデータ。
総人口:2,516,600人
都市人口:932,000人(37%);農村人口:1,584,600人(63%)
性別人口:男性は1211,000人(48%);女性は1,305,600人(52%)
ウクライナ人の他、ハンガリー人、ルーマニア人、ロシア人、ロマ、スロヴァキア人、ドイツ人、ルシン人などが居住する。かつてはユダヤ人の人口も多かった。なお、ルシン人はウクライナ人と合わせてルテニア人とも呼ばれる多数民族である。このほか、同じく古来からのウクライナ人の一派であるフツル人も山岳地域を中心に居住している。
総人口:2,516,600人
都市人口:932,000人(37%);農村人口:1,584,600人(63%)
性別人口:男性は1211,000人(48%);女性は1,305,600人(52%)
ウクライナ人 | 2,020,200人 (80.5%) |
ハンガリー人 | 303,000人 (12.1%) |
ルーマニア人 | 64,200人 (2.6%) |
ロシア人 | 62,000人 (2.5%) |
ロマ人 | 28,000人 (1.1%) |
スロバキア人 | 11,200人 (0.5%) |
ドイツ人 | 7,000人 (0.3%) |
ウクライナ人の他、ハンガリー人、ルーマニア人、ロシア人、ロマ、スロヴァキア人、ドイツ人、ルシン人などが居住する。かつてはユダヤ人の人口も多かった。なお、ルシン人はウクライナ人と合わせてルテニア人とも呼ばれる多数民族である。このほか、同じく古来からのウクライナ人の一派であるフツル人も山岳地域を中心に居住している。
コメントをかく