(国旗)
スラ社会主義共和国連邦の構成国
ズールー人民共和国
公用語ズールー語
国歌ズールー人民共和国国歌
国の標語なし
首都ウルンディ?
国家元首グッドウィル・ズウェリティーニ・カベクズル
政治体制民主社会主義
人口約1,000万人
通貨スラ・マナト
領域

概要

スラ社会主義共和国連邦の構成国。かつてはズールー王国であったが、ズールー戦争の結果滅亡した。

政治

ズールー人民党が与党。
野党は、ズールー国民党、ズールー立憲党、ズールー共産党と続く。

国家元首

国家元首は、ズールー王の世襲が続いている。
事実上の立憲君主国となっている。


国家元首 グッドウィル・ズウェリティーニ・カベクズル

歴史

ズールー王国の台頭

ズールー族は南部アフリカの一部族に過ぎなかったが、1816年に首長センザンガコナが死去した翌年、シャカがムテトワ帝国皇帝であるディンギスワヨの庇護を受けてズールー王に即位し、王国が成立した。
ズールー王国の指導者シャカ・ズールーにより強大な軍事力を背景に周辺の部族を次々と征服していった。
軍備の近代化や中央集権体制を進めたシャカはムテトワ帝国、ンドワンドウェ王国に侵攻し、支配下に置いた。しかし、シャカは国内では恐怖政治を行なったことから、異母弟のディンガネによって暗殺された。

ボーア人の侵入

この頃、英領ケープ植民地ではボーア人が英国の統治を嫌い集団で北上を始めた。1835年から始まったこの大移動で、ボーア人たちの集団は入植地を求め、原住諸部族と衝突を繰り返した。1838年、ウィーネンの虐殺でディンガネは、250人のボーア人を虐殺した。ボーア人は、ズールー族を撃破し、この地にナタール共和国を建国した。戦いに敗れたディンガネ王は威信を失い1840年に退位させられ、ムパンデが即位する。
第四代国王セテワヨ・カムパンデがズールー戦争で敗北したことによって王国は崩壊し、イギリスの植民地となった。
一方、イギリスはボーア人の独立を許さず、ナタール共和国へ軍を送り併合した。不満を持ったボーア人たちはトランスヴァール共和国を建国する。オレンジ川にもオレンジ自由国が建国された。費用の掛かる内陸奥地の統治を嫌った(つまり面倒だった)イギリス政府はこれを承認した。

セテワヨの治世

1856年、ズールー王国ではムパンデ王の息子ムブヤジとセテワヨが内戦を起こし、セテワヨが勝利して正式な王位継承者となった。1872年にムパンデ王が崩御しセテワヨが即位する。
ズールー国王となったセテワヨはシャカの戦術を可能な限り復活させ、軍の装備を近代化させた。
ズールーと英国との関係は比較的平穏だったが、ヨーロッパからやって来る宣教師たちの活動はセテワヨにとっては不愉快なものだった。彼は宣教師たちには危害を加えなかったが、改宗者を殺害している。宣教師たちは英国とズールーの敵対の原因の一つだった。
1876年、ズールー王国での女子の大量虐殺に対してナタール行政府は強い抗議を行うが、現地行政府は管轄のアフリカ諸国の問題に対して横柄な態度を取る傾向があった。セテワヨとトランスヴァール共和国との国境問題も続いていた。1877年にトランスヴァールは大英帝国に併合された。

対立

1878年、トランスヴァールとズールー王国との国境問題について報告書が提出された。それはズールー側の主張に沿ったものだった。この報告を「一方的でボーアに対して不正である」と考えズールーに与えられる土地において、ボーア人が退去するならば補償を行うべきこと、またもしも残留するならば保護させるべきことを要求した。セテワヨは英国側の挑発的な態度に気がつき、トランスヴァール及びナタール国境でのズールーによる違法行為を認めた。
同年、フレアは、二人のズールー戦士が二人のナタール女性と駆け落ちして連れ出した些細な国境侵犯を口実として、ズールーに対し賠償として500頭の牛を要求した。セテワヨは50ポンド相当の金を送っただけだった。二人の測量技師がズールーに捕らえられる事件が起き、フレアはより一層の賠償を要求するがセテワヨは再び拒否した。フレアは使者を送り彼の要求を伝えた。
フレアはズールーとの紛争を引き起こすことを望んでいたと信じられており、そしてその目的は達せられた。1879年1月11日に本国政府からの承認が与えられ、開戦は不可避となった。

第一次侵攻 - イサンドルワナの戦い

1879年1月11日にチェルムスフォード中将の率いる17,000人のイギリス軍がズールー王国へ侵攻した。
ズールー軍は約4万の兵力で、1500から4000人の連隊から成っていた。戦士の集団はインピと呼ばれる。
ズールー王国の建国者シャカ王は「猛牛の角」と呼ばれる戦術を考案した。インピは三つの集団に分かれる。
角 - 敵を取り囲み押さえる。これは若い戦士で構成される。
胸 - 最大の集団で、敵を正面から攻める。
獅子 - 予備部隊で、敗走した敵を追跡する。これはベテラン戦士で構成される。

ズールー戦士は大型の槍を装備しており、戦争の初期には銃器を装備した戦士は僅かしかいなかった。これらの銃は主に旧式の雷管式かマスケット銃であり、しかもズールー国内では整備ができないために、これらの銃器の状態は悪かった。開戦以降は鹵獲した英国の最新式銃を用いている。
ズールー軍は兵数と士気、指導力そして機動性によって兵器の劣勢を補っていた。

イギリス軍の第三縦隊はイサンドルワナ近くに野営した。この日の早朝、チェルムスフォードは偵察隊を支援するため彼の部隊を分割して出動した。チェルムスフォードが野営地を去った後は ヘンリー・プレイン中佐が野営地の指揮を執った。ダンフォード中佐の第二縦隊の一部500人が到着し、野営地の兵力はヨーロッパ兵800、アフリカ兵900になった。だが、チェルムスフォードは野営地に防御陣地を構築しないよう命令を与え、そしてズールー軍の接近情報も無視してしまっており、全ては手遅れとなった。
ズールー軍2万がイサンドルワナの野営地に突撃をかけた。「猛牛の角」と呼ばれるズールー軍の三方向からの猛攻を英軍は支えきれずに蹂躙され壊滅する。英軍は全滅、イサンドルワナの戦いはこの戦争中にズールーが得た最大の勝利となった。
イサンドルワナの敗報は白人植民者の間に急速に広まった。彼らはより安全なピーターマリッツバーグやダーバンへ逃亡した。

イギリス軍の第三縦隊が交戦している間、海岸沿いを進むチャールズ・ピアソン大佐指揮の第一縦隊はトゥゲラ川を越えニャーザン川で襲撃を試み待ち構えていたズールー軍と小競り合いの後に前進を続け、エショーヴェの放棄された伝道所まで到着するとここに陣地を構築した。イサンドルワナでの惨敗を知ったピアソンはトゥゲラ川までの後退を計画したが、これを実行するか否か躊躇っている間にズールー軍は英軍の補給路を断ち、エショーヴェを包囲してしまった。
一方、ユトレヒトを出発したエブリン・ウッド大佐の第四縦隊はズールーラント北西部のズールー族を制圧してウルンディ占領を目指す中央縦隊の前進を援護することが本来の任務だった。この目的のためにウッドはズールー軍4,000人が布陣しているフローベン山から南方10マイルのティンタンズ村に野営地を構築した。しかし、イサンドルワナの敗報を聞いて後退した。この結果、英軍の侵攻開始から1ヶ月後には戦力が不足してしまった。
軍内でのチェルムスフォードへの非難は強く、5月22日にチェルムスフォードに代わりガーネット・ウルズリー(英語版)中将が後任の南アフリカ軍司令官になることが決定された。

第二次侵攻

侵攻の再開は英軍にとって必ずしも成功は約束されていなかった。だが、チェルムスフォードは自らの軍事的名声と軍歴を守るためにウルズリーが到着するよりも前にセテワヨの軍隊を決定的に撃滅する必要があったのである。より多くの増援部隊が到着するとチェルムスフォードは部隊を再編し、侵攻を開始した。初期の戦闘での英軍の戦死者の一人がフランス帝位請求者ナポレオン・ウジェーヌ皇太子だった。英軍に志願し従軍していた彼は偵察部隊に加わって出動した際に戦死している。セテワヨは新たに増強された英軍が非常に強力な敵であることを認識しており、和平条約の交渉を打診してきた。だが、ウルズリー将軍の到着が迫っており、チェルムスフォードには交渉の意思は全くなかった。彼はズールー軍主力を打ち破るべく王都ウルンディへ可能な限り早く前進した。
砲兵隊とガトリング砲を擁する第二師団とウッドの別働隊の将兵5317人がウルンディ前面に到着。英軍と1万2千から2万のズールー軍が衝突し、最後の決戦ウルンディの戦いが行われた。英軍は歩兵を2列、騎兵と原住民補助兵を内側に置いた方陣を組んでズールーの攻撃を待ち構えた。方陣はウルンディへ向けて前進し、ズールー軍が突撃をかけた。ズールー戦士たちの波状攻撃は小銃射撃によってなぎ倒される。ズールー軍が混乱したところへ騎兵隊が方陣から出撃して蹴散らした。戦闘は2時間で終わり、英軍の完勝だった。英軍は戦死12人、負傷70人だったのに対して、ズールー軍の犠牲者は1,500人に及んだ。ズールー軍は潰走し、ウルンディは焼き払われた。

終戦とセテワヨの廃位

ウルンディでの敗戦によりズールー軍は四散し、セテワヨは逃亡する。現地に到着したウルズリー将軍がチェルムスフォードから指揮権を引き継ぎ、チェルムスフォード、ブラーそしてウッドは本国へ帰還した。
主だった部族長達は英軍へ帰順を申し出てきた。セテワヨは捕らえられ、ケープタウンへ送られた。ズールー族に対して彼の廃位が宣言され、ウルズリーはこの国の政府の新たな仕組みを作り上げた。
分割されたズールー王国の故地では争いが絶えず、1883年、英国に渡っていたセテワヨの懇願が受け入れられて復位が実現した。だが、ジヘブはこれを受け入れずにセテワヨとの間で内戦となる。ジヘブはウルンディに攻め込んで焼き払い、セテワヨは逃亡しイギリスの庇護に入り、翌1884年に死亡した。
同年、セテワヨの息子ディヌズールー・カセトシュワヨがジヘブに勝利した。しかし、ディヌズールーの国はボーア人のトランスヴァール共和国に併合されてしまった。そして残りのズールーラントも1887年にナタール植民地に合併された。ディヌズールーは英国に逮捕され、セントヘレナ島に流された。こうして、ズールー族の独立は失われた。

独立

1927年 南アフリカ人民共和国の民族自立により、ズールー人民共和国が独立。ズールー人民党のソロモンが国家元首となった。彼はズールーの王でもあった。当初はダーバンが首都であったが、王宮のあるウルンディに遷都した。

行政区分


ズールーの行政区分
  • アマジュバ郡
  • ズールーランド郡
  • ウトゥングル郡

軍事

スラ連邦軍に委託しているが、伝統的なズールー軍を持つ。これは戦力として入らないが、儀礼的な軍である。

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