テヘラン
基本情報
イスラーム・ペルシア社会主義共和国
地方テヘラン州
面積市域730㎢(都市圏18814㎢)
総人口市域12,223,598人(都市圏13,413,348人)
人口密度10,327.6人/㎢
市長モハンマドアリー・アフシャーニー



概要

テヘランはイスラーム・ペルシア社会主義共和国の都市。同国の首都でもある。人口密度は1㎢あたり10000人を超えている。イランの文化的中心でもあり、多数の博物館、美術館、宮殿、文化センター、高等教育機関を擁する。宗教的中心でもあり、イスラム教のモスクのみならず、キリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグも各所にみられる。住民の大多数はシーア派イスラム教徒。20世紀から21世紀にかけて、イラン各地から大量の人口流入があり人口が急増した。

歴史

発掘調査からは紀元前6000年に住居跡が見つかっている。1220年にモンゴル帝国が大都市レイを破壊すると、レイの人々はテヘランに避難し、この時から都市としてのテヘランの歴史が始まった。当時は「レイ人のテヘラン」などといわれた。1553年から1554年にかけて、タフマースブ1世はバザール(市場)と城壁を作り、商業機能と防衛機能を強化されたテヘランは次第に発展し、大きな町となっていく。しかしアッバース1世がこの地で病気にかかったため、テヘランは町としては発展していたものの王族に嫌われる町となってしまい、イラン最大級の都市になってもしばらく首都にはならなかった。
ガージャール朝の時代に入ると、1795年初代皇帝アーガー・モハンマド・シャーはテヘランで戴冠した。この時代になるとすでにテヘランでは人口の大規模流入が始まっており、タフマースブ1世時代に建設された城壁では増大するテヘランの人口を収容しきることはできず、北部城外には富裕層の、南部城外には手工業者たちの居住地が建設されるようになっていた。ガージャール朝4代国王であるナーセロッディーン・シャーはこの状況を改善するため1869年より城壁の大拡張を行い、8角形で全長16km、12の門を持つ新たな城壁が完成した。旧城壁は撤去され、1889年にその跡地に鉄道馬車の路線が敷設された。1892年にはテヘランから南のレイまで鉄道が開通し、徐々に近代化が進んでいった。ガージャール朝の衰退とともにテヘランには革命の空気が漂うようになり、1905年には物価高騰から商人を中心とした抗議活動が起き、やがてテヘランから全国へと波及してイラン立憲革命が起こった。その後1921年にはレザー・シャーがテヘランでクーデターを起こして政権を奪取し、1925年には議会によって皇帝に推挙され、ここにパフラヴィー朝がはじまった。
イランでは伝統的に王朝の交代とともに遷都が行われていたが、レザー・シャーは首都をテヘランのままにし、逆に大規模な改造を次々と行っていった。1934年には城壁が撤去され、跡地には北のシャー・レザー通り(現在のエンゲラーブ通り)、東のシャバーズ通り、南のシューシュ通り、西のネザミ通りの4つの大通りが整備された。また、旧市街を貫通する直線の大通りを建設し、旧城壁の環状道路と直線道路の交点には円形の広場が設置された。現在のテヘランの基本構造はこの時期によって完成した。第二次世界大戦中、レザー・シャーは親ドイツの立場をとり、ナチス・ドイツに侵攻されているソヴィエト連邦への支援ルートとしてイラン縦貫鉄道を使用することを拒否したため、ソ連軍とイギリス軍によって1941年に イラン進駐が引き起こされ、レザー・シャーは退位。9月17日には両軍がテヘランに入城した。王位は息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーが継いだ。1943年には連合国首脳がテヘランに集まり、テヘラン会談を行った。
モハンマド・レザー・パフラヴィーの独裁と急進的な西欧化は市民の反発を買い、1979年にはイラン革命が起きて皇帝は失脚し、ルーホッラー・ホメイニーによる革命政権が誕生した。革命政権は、パフラヴィーに基づく通りや建物の名前を改名させたものの、都市開発の方向性自体はパフラヴィー時代を踏襲した。しかしシャーがアメリカ合衆国へと亡命したため両国間の緊張が高まり、1979年11月4日にはテヘランのアメリカ大使館を占拠してシャーの身柄引き渡しを求めるという、イランアメリカ大使館人質事件が起きた。1980年代テヘランにはソ連式の集合住宅が無計画に作られ、テヘランはさらに歴史的建造物を失った。現在では50階を越えるアパートなど超高層建築のビルが増えている。2007年には高さ435mの新しいランドマーク・ボルジェ・ミーラードも完成した。

特徴的な条例

テヘラン歴史的建造物保護法
テヘランでのソ連式住居の粗製乱造を防止し貴重な文化財を保護するのために制定された。景観条例の役割も兼ねており、市域の一部はこの条例で「歴史地区」に認定され、建造物の階層制限や外観の塗装の制限などが行われる。

行政

テヘラン市の政治は21人の評議員からなるテヘラン市評議会が担当している。市長は評議会によって選出される。1908年から1920年までは内務大臣が、1920年から1988年まではテヘラン州知事が市長を任命していたが、1988年に現行の方式に改定された。任期は5年である。現在の市長モハンマドアリー・アフシャーニーは改革派で、歴史建造物などの保護にも精力的であり、広く支持を集めている。

産業

テヘランはペルシアの経済の中心地であり、大企業の本社の45%がテヘランに集中している。テヘランの労働者の半分は政府関連の仕事についており、もう半分は商店主、工場労働者、交通労働者である。主な産業は、自動車製造、電子機器および部品製造、武器製造、繊維、砂糖、セメント、化学などである。伝統的なカーペット製造と家具製造も盛んである。

交通

鉄道

テヘランはペルシア国内のほぼすべての主要鉄道路線の起点となっており、ペルシア縦貫鉄道もテヘランを通過する。これらの鉄道網はペルシア共和国統一鉄道によって運行されており、その子会社であるイラン旅客鉄道がテヘラン近郊および長距離の旅客輸送を担当している。テヘラン・メトロと呼ばれる5つの路線を持つ地下鉄と、路線が公開されていない緊急時に政府首脳の脱出路となる地下鉄が存在する。

空港

テヘランには市の西部にあるメヘラーバード国際空港と、市の南にあるホメイニー国際空港の二つの主要空港がある。以前のメイン空港はメヘラーバード国際空港であったが、周辺が市街地化し拡張が難しくなったことやメヘラーバード国際空港を首都防衛の要として空軍基地に転用したことなどから、2004年にホメイニー国際空港が開港した。以後、段階的に移転が進められ、2007年にはサウジアラビアへの巡礼便以外のほとんどの国際線がホメイニー空港へと移転された。

道路

基本的に区画はレザー・シャー時代から変化していない。市には古くから複数の大通りが存在しており、それに沿う形で開発が行われてきた。しかし近年人口増加が著しいことと郊外での住宅建設が盛んであることなどから渋滞が頻繁に発生するようになった。

地理

テヘランはイラン高原の北西部のペルシアの最高峰であるダマーヴァンド山から南西に66kmはなれた山麓の扇状地の先端に位置する。テヘラン北部にはアルボルズ山脈がそびえる。南には中央砂漠が広がっている。

観光名所

サーダーバード宮殿

パフラヴィー朝の時代に夏の離宮として建てられた豪華絢爛な宮殿。

アーザーディ・タワー

テヘランのシンボルタワー。市街地を一望できる。

トチャル山のロープウェイ

全長3200mのロープウェイ。トチャル山山頂からはアーザーディ・タワーとまた違った景色を見ることができる。

ゴレスターン宮殿

世界遺産。現在では王宮博物館として美術品などが展示されている。

中央銀行地下金庫宝石博物館

イラン王家の象徴である孔雀の玉座や、182カラットあって世界最大のダイヤモンドの一つであるダルヤーイェ・ヌール、レザー・シャーの王冠や5万1千個の宝石をちりばめた地球儀など、イラン王家の所蔵していた非常に貴重な宝石類が収められている。

友好都市・姉妹都市

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