第1次ユーゴスラビア独立戦争
戦闘期間:1944年6月13日〜1947年1月22日
場所:バルカン半島
結果:フィンランドの割譲 オデッサ条約の締結
交戦勢力
大ユーゴスラビア及び黒海共和国ギリシャ共和国アルバニア共和国
指揮官
大ユーゴスラビア及び黒海共和国 書記長 ユーゴ・グリゴロヴィッチ 総司令官 ケレン・タチファスキー元帥ギリシャ共和国 大統領兼最高司令官 ファルキス・ターネルアルバニア社会主義共和国総統 グーズ・デカリオス
兵数
大ユーゴスラビア及び黒海共和国初期部隊 127万人 車両 13450両 火砲 11020門 航空機 2380機 戦争後期 628万人 車両 88500両 火砲 74500門 航空機 18540機ギリシャ共和国 223万人 車両 8470両 火砲 1980門 航空機 3240機 アルバニア共和国 兵員 47万人 車両 570両 火砲 380門 航空機 880機
戦力
1944年 127万人
1945年 347万人
1946年 408万人
1947年 628万人
1944年 270万人
1945年 218万人
1946年 221万人
1947年 101万人
損害
大ユーゴスラビア及び黒海共和国死者748万人
負傷者1084万人
ギリシャ共和国 死者450万人
負傷者 775万人アルバニア共和国 死者98万人
負傷者108万人
第1次ユーゴスラビア独立戦争は1944年から1947年までのユーゴスラビアとギリシャ アルバニアと行われた戦争である。
一般的にユーゴスラビアでは大祖国戦争と呼ばれている。



概要

当時のバルカン半島においてはヨーロッパの超大国であるユーゴスラビアが政変により共産主義国家となり、ドミノ倒しにバルカン半島全体が共産化する可能性があり、またギリシャやアルバニアはユーゴスラビアとの歴史的な経緯により革命後は幾度も衝突しており戦争は免れなかった。
結果1944年にユーゴスラビア領内に侵攻 第1次ユーゴスラビア独立戦争が勃発し、双方に1320万人の死傷者を出して休戦した。

開戦まで

1944年の2月にギリシャ・アルバニアにおいて対ユーゴスラビアのクラウツ計画が立案され、3月から戦争計画の準備が行われるようになる。ユーゴスラビアの情報局や友好国はこの情報を掴んでいたが当時の首脳部はこの情報を敵対国の欺瞞情報として放置していた。
しかし6月に入ってから国境地帯においてギリシャ軍とアルバニア軍の活動が活発化した旨の報告を各所で受けた為に6月13日の午前6時30分に準戦時体制に移行するはずであった

開戦から1944年の終わりまで

準戦時体制が発令される前の1944年の6月13日の午前4時から6時までの準備砲撃の後に大量の航空機を伴ってアドリア軍集団 アルバニア西方軍集団 南方A・B軍集団 マケドニア軍集団の5個軍集団 220万人が全国境地帯からユーゴスラビア国内に侵攻し第1次ユーゴスラビア独立戦争が勃発した。
10日間でユーゴスラビアが南部に展開していた航空機1280機の内の7割にあたる900機が地上撃破され、また6月22日にはアドリア軍集団に所属する第8軍 第14軍 第1装甲軍によりポドゴリツァが包囲
6月31日には陥落

またマケドニア方面においては7月1日から9月17日までマケドニア包囲戦が勃発
ギリシャ軍7個軍104万人によってユーゴスラビア南方方面軍の主力部隊34万人が包囲 包囲網を突破したのはたった後方に配置されてた4個師団で構成される第38戦車軍を中心とする5万人で11万人が死傷 20万人が捕虜となりユーゴスラビア軍は大打撃を受けた
しかしギリシャ軍もかなりの兵力をマケドニアに拘束され、その間に民間人やユーゴスラビアの工業地帯の後方疎開等が行われた。

8月14日にはマケドニア地域の制圧が完了

9月17日からはユーゴスラビア南部の完全な制圧をめざしたクラウツ作戦と呼ばれる2回目の攻勢作戦を行い9月31日にはプリシュティナが陥落

10月1日には先遣部隊であるギリシャ第38軍がカルパチア盆地に到達
また10月3日には3ヶ月間持ち堪えていたチャチャクが陥落
10月11日から28日まではヘルツェゴノビを巡ってユーゴスラビア第7軍・第14軍がアルバニア軍4個軍と攻防戦を繰り広げ、アルバニア軍3個軍を壊滅させたがユーゴスラビア第7軍が壊滅
ユーゴスラビア軍はモンテネグロ地域から撤退
国境地帯において防衛線を建築 アドリア方面戦線においては膠着した。
10月22日にはユーゴスラビアの突出した場所であるチュプリャナを巡ってユーゴスラビア軍31万人とギリシャ軍114万人が衝突 しかし11月1日には25万人が首都防衛の為に撤退 5万人規模の部隊がチュプリャナに立て篭り30万人のギリシャ軍と9ヶ月間に渡る凄惨な市街戦が始まる。
10月24日にはドナウ川沿いのコストラク橋頭堡を巡りコストラスの戦いが勃発 3万人の人的資源を損失しながらギリシャ軍のドナウ川への渡河を阻止した。

11月6日にはドナウ川 ベオグラード サヴァ川 ドリーナ川 ヴァリェヴォ ボスニアにて戦線が膠着
11月11日はベオグラード市内にて大規模砲撃が開始される
11月12日にはベオグラード周辺においてドナウ川渡河作戦を実施 数箇所でドナウ川の渡河を許してしまう。
11月15日にはベオグラード市郊外にギリシャ軍が侵攻を開始するが頑強な抵抗により進軍が停止してしまう。
11月19日にはベオグラード周辺のドナウ川両岸にてギリシャ軍により橋頭堡が作られる。
11月24日 ベオグラードがドナウ川とサヴァ川に面している所を除きギリシャ軍に半包囲されてしまう。

12月1日 欺瞞攻撃としてアドリア方面 ヴァリェヴォ周辺にて1週間に渡り合計30万人規模の攻勢作戦が行われる。
12月18日 ベオグラードを包囲するギリシャ軍47万人を二重包囲するコロナ作戦を実施
オモリュイツァやゼムンの下流から南部方面軍等を引き抜いて編制されたベオグラード正面軍104万人がドナウ川等を渡河 ギリシャ軍への包囲を行った為に、ギリシャ軍上層部はベオグラード攻略部隊40万人に対して死守命令を発令
抗命して撤退した1部の部隊を除き包囲され、3週間の包囲戦の末に17万人が死亡し、25万人が捕虜になってギリシャA軍集団が消滅

1945年


1月3日 ドナウ川の橋頭堡陥落 またベオグラードから80kmの地点までの前線の押し上げに成功
1月24日臨時疎開先の兵器工場が一斉に本格稼働を開始する

2月〜5月まではドナウ川 ベオグラード サヴァ川 ドリーナ川 ヴァリェヴォ ボスニアのラインで膠着し、お互い物資の集積や部隊の再編成などを行っていた。

6月3日 ギリシャ・アルバニア軍夏季攻勢を実施
壊滅したA軍集団を再編成したセルビア軍集団等によりギリシャ軍の前線全てで大規模攻勢が行われ、一部では前線から80km程度の後方地域まで突破しドナウ川河畔まで到達した部隊もあったが、暫く後にはユーゴスラビア軍の方面軍から抽出した予備部隊等により進撃が食い止められ、1部の部隊では前の年にギリシャ軍が何度も行った包囲戦術をお手本にしてユーゴスラビアが運用する鶴翼機動運動戦術により各所で攻勢部隊が包囲された為に攻勢は中止され、進出地域からの撤退が命令されたがヴァリェヴォ突出部等の1部地域ではユーゴスラビア軍の攻撃が激しく撤退出来なくなっていた。
6月5日 ギリシャ軍上層部はヴァリェヴォ突出部にてユーゴスラビア軍の包囲殲滅を計画 ヴァリェヴォ突出部とその周辺にセルビア軍集団などの主力部隊の集結が命令される。
6月11日 ユーゴスラビア側に突出したヴァリェヴォ周辺にチュプリャナ開放のための助攻勢としてユーゴスラビア軍が突出部に対して47個師団で攻撃で行うが、ギリシャ・アルバニア軍の頑強な抵抗により進軍が頓挫してしまう。
しかし当該戦域の霧が晴れたことにより航空支援を受ける事が可能になり近接航空支援を受けながらギリシャ・アルバニア軍の陣地を突破 防衛線に壊滅的な打撃を与えて突出部からギリシャ・アルバニア軍を撤退させる。
しかし情報の伝達ミスによりギリシャ・アルバニア軍上層部には伝わらず、先の作戦の為に用意したギリシャ・アルバニア軍の部隊が各所で孤立 包囲された この戦闘でユーゴスラビア軍は7個師団が壊滅したが、ギリシャ軍は30個師団程度の兵力を消費してしまい、今年中の大規模攻勢は不可能になってしまった
6月20日 チュプリャナの解放のためにベオグラード方面軍による大規模反攻作戦が行われる
先のベオグラードの解放と同様に二重包囲を敢行
ギリシャ第7軍 アルバニア独立親衛装甲軍団を包囲
その後2週間かけて殲滅した。

7月12日 ユーゴスラビア軍の戦闘機により前線視察のために参謀総長の乗った航空機が撃墜 パルチザンにより捉えられ暗号等の機密情報が流失してしまう。

8月14日 セルビアの解放を目的としたイシュタル作戦が発動 全戦線での240個師団による大規模な攻勢により消耗しきったギリシャ軍の微弱な抵抗を粉砕して8月31日にセルビアを解放し、その時にはもう完全にセルビアに展開しているアルバニア・ギリシャ軍は編成から消滅してしまった。

9月2日 モンテネグロの解放を目的としたグダニスク作戦発動 イシュタル作戦に参加した兵力も使用し103個師団によりモンテネグロ内でアルバニア軍を包囲 緒戦により有能な指揮官や古参兵等が消耗していた事や、死守命令しか出されなかったためにアルバニア軍は有効な防衛戦闘が行えなえず、ユーゴスラビア軍により殲滅された

9月28日 クマノヴォ郊外にてギリシャ軍によりマケドニア人が虐殺されるクマノヴォ事件が発生する。

10月〜1946年の6月までスロベニア セルビアの南方国境地域において国際社会の介入により停戦協定が結ばれる

1946年


1946年6月1日は停戦協定の効力が切れる

1946年6月13日 ユーゴスラビア軍の大規模攻勢作戦 ブジョンヌイ作戦が発動
セルビア国境からユーゴスラビア軍204万人がギリシャ軍の抵抗を排除して北マケドニアを占領
アルバニアを北方と西方から包囲する事に成功

7月30日 ギリシャ・アルバニア軍の方針が攻勢から防衛に転換される

8月24日 アルバニアへの侵攻が開始される

9月1日 レジェまでユーゴスラビア第1親衛戦車軍が進出
レジェ市街地戦が発生 アルバニア第3軍とユーゴスラビア第1親衛戦車軍が3週間に渡って攻防戦が行われる。なおその間に14回も都市の所有者が変わり、最終的には市街地の7割が壊滅し住民が1割程度まで減ってしまった。
9月18日 ドゥラス ヴロラ ケルキラの3箇所にてユーゴスラビア軍35個師団が強襲揚陸
9月20日 エルバサンがユーゴスラビア軍に占領された。
9月29日 アルバニアの沿岸地帯の殆どを占領

10月11日 ティラナ周辺において包囲網が完成
首脳部は包囲網が完成される寸前に脱出
パトラスに政府機能を移転させる
10月24日ティラナが降伏

11月5日 ゴルチャか陥落 アルバニア領が全土陥落
アルバニア軍は自由アルバニア軍としてギリシャに逃亡するかユーゴスラビア軍に降伏する。
12月 ギリシャ側と秘密裏に和平交渉が始まる

1947年

1月1日 ユーゴスラビア軍最後の攻勢 ランブル作戦が開始される。
1月 14日 イオニア・テッサロニキまで進出した所で進軍が停止する
22日 ギリシャ・アルバニアとの停戦協定が締結される。

戦場としてのユーゴスラビア

対ユーゴスラビアの戦闘においてはギリシャ軍等は事前の情報不足により初期の短期決戦による戦争の集結が出来ず、またユーゴスラビアは資源・生産力・人口においてギリシャ等を圧倒していた。そのため戦争が長引けば、国力の差が日々ギリシャを圧倒してユーゴスラビアとの戦争に負けてしまうのは明白だった。
しかしギリシャ首脳部はユーゴスラビアに対する認識はあくまでも過小評価であり、独立戦争開始時だけでなくベオグラード攻略開始後においても、ソビエト赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。確かにユーゴスラビア人民軍の革命後の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独立戦争初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。だが、ユーゴスラビア軍の予備兵力はギリシャ・アルバニア軍が想定するよりもはるかに膨大であった
またユーゴスラビア陸軍は1944年の10月頃から当時から見ればオーパーツとも言われる数々の優秀な兵器を戦線に投入する事により兵士の質の差を武器の質で補ったりしていた。

交通事情

ユーゴスラビアと違いギリシャにおいては特殊な狭軌間を運用していた為に前線への鉄道による補給も難しく、また現地のパルチザンや空からの浸透攻撃により補給は困難を極めた。
また焦土作戦なども行われた為に物資の現地調達が難しく道路の質も悪かった為に自動車化部隊の進出も困難を極めた。

戦争犯罪

両国とも民間人の虐殺や捕虜の虐殺が行われた為に戦後は両国において重大な国際問題に発達したが、その後のギリシャの併合によりこの問題は終結した。

影響

この戦争によりユーゴスラビアはバルカン半島に軍事大国として君臨するようになり、周辺諸国から1目置かれる存在となった

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