※このテンプレはあくまで例です
レゴ
企業のロゴとかでも貼れば
種類公開会社では無い株式会社
本社所在地デンマーク
ビルン
設立1934年
代表者ヨアン・ヴィー・クヌッドストープ(会長)
売上高36.4億ドル
利益10.8億ドル
従業員数17,000人

概要

玩具の製造

事業

玩具の製造販売

製品

LEGO

事業拠点

工場がどこにあるかを書く。
書かなくてもいい。

歴史

・始まり

1916年にビルンに開いた木工所で、オーレ・キアク・クリスチャンセンは地域の農家向けに家と家具を作って生活していた。助けは少数の見習い社員だけだった。1924年、2人の幼い息子が木の削り屑に火をつけたために木工所が火事で焼失したが、オーレ・キアクは災難にもめげず、木工所を大きくする機会だととらえてさらに仕事に励んだ。しかし、まもなく世界恐慌が生活に影を落とすようになった。制作費を切り詰める方法を探すうち、設計支援として製品の縮小模型を作り始めた。このときに作った梯子やアイロン台の模型が、のちに玩具を作るきっかけとなる。
オーレ・キアクは、引き回して遊ぶ木製玩具や豚の形の貯金箱、自動車やトラックの玩具を作り始めた。ささやかな成功を手にしたオーレ・キアクであったが、当時多くの家庭は貧しくて玩具を買う余裕がなく、地域の農民たちの中には食物と引き換えに玩具を買う者さえいた。このような情勢の中では、収益を得るためには玩具だけでなく実用的な家具も作り続ける必要があった。1930年中ごろ、ヨーヨーの流行により一時的に仕事が活発になったが、流行はあっという間に過ぎ去ってしまった。ここでオーレ・キアクは再び不利を利点に変える。ヨーヨーの未使用部品を玩具のトラックに流用したのだ。このころ息子のゴッドフレッドが一緒に働き始める。
1934年、社名を、デンマーク語で「よく遊べ」を意味する「Leg Godt」からオーレ・キアクが考えた造語LEGOとした。LEGOにはラテン語で「組み立てる」の意味がある。プラスチックの使用が広がる時代の流れに合わせ、オーレ・キアクはプラスチック製の玩具を作り始めた。最初の組み立て式玩具のひとつは、部品を組み替えられるトラックだった。
1947年、オーレ・キアクとゴッドフレッドは、キッディクラフト(Kiddicraft)社が制作したプラスチック製結合ブロックの型見本を入手した。これは自動結合組み立てブロック(Kiddicraft Self-Locking Building Bricks)といって、イギリス人のハリー・フィッシャー・ページがデザインし特許を取得したものであった[1]。1949年、レゴ社はこれに似たブロックを、自動結合ブロック(Automatic Binding Bricks)と名付けて発売した。このアセチルセルロース製のブロックは、積み上げて遊ぶ伝統的な木製ブロック(積み木)の精神で開発された相互に結合するプラスチック製ブロックである。ブロックの上部には数個の突起(スタッドまたはポッチという)が、底は長方形の空洞になっており、互いにくっつくが、外すことができないほどきつくはない。1953年、ブロックに新しい名前が与えられた。LEGO Mursten、すなわちLEGO Bricks(レゴブロック)である。しかし玩具にプラスチックを採用する試みは、当時の小売り業者や消費者には受け入れられず、売れ行き不振で返品の山となった。「プラスチック製玩具が木製玩具と置き換わることはない」という批判もあったが、オーレ・キアクは気を変えることなくやり通した。
1954年までにゴッドフレッドはレゴ社の常務取締役になっていた。彼は海外の玩具業者と話し合いをした際に、玩具システムの改良案を考え出した。ゴッドフレッドは、創造的な遊びのシステムになる大きな可能性をレゴブロックに見ていたが、ブロックには結合力に限界があり、作れる形に限りがある技術的な面の問題があった。1958年、今日見られるブロックのデザインができ上がった。ブロックの裏側に改良を加え、空洞部分に円筒を配置することにより底面の結合力が増し、さまざまな形を作れるようになった。同年、オーレ・キアクが死去し、ゴッドフレッドが会社を引き継いだ。
・成長
レゴ社は年々着実に成熟して来た。1959年、社内に「フーツラ(Futura)」と呼ばれる製品開発部門が設立され、少数の社員が配置された。1960年、倉庫が火事になり木製玩具の在庫がほとんど失われたが、幸運にもレゴブロックの製造設備は火災に耐えた。レゴ社はこれを期に木製玩具の生産中止を決定する。その年の末までにレゴ社の社員は450人にまで増えていた。
1961年から1962年にかけて新しい部品としてタイヤが登場し、自動車、トラック、バスなどの乗り物をレゴブロックで作ることができるようになった。このときまでに、レゴのシステム・オブ・プレイ(遊びのシステム)には50以上のセットができていた。1962年、販売代理店となった朝日通商が日本でレゴブロックの販売を開始する。
レゴブロックは少しずつ改良されている。古いブロックは歪んでいる場合がある。
1963年、ブロック素材をアセチルセルロースから、より安定したABS樹脂に変更した。ABS樹脂には毒性がないほか[要出典][7]、アセチルセルロースに比べて変色・変形が少なく、熱、酸、塩、その他の薬品に強いという特性があった。ABS樹脂は2018年現在も採用されており、1963年にABS樹脂で作られたレゴブロックと、50年以上の年月を経ても正常に結合させることができる。
1964年、レゴセットに初めて組み立て説明書が同梱された。
1966年、もっとも成功したシリーズのひとつとなるトレインシステムが発売された。トレインセットには4.5Vモーターとレールが同梱され、2年後には12Vモーターが登場した。
1968年6月7日、レゴランドがビルンで開園した。このテーマパークの目玉は、すべてレゴブロックで作られた町の精巧な縮小模型である。広さは3エーカー(1万2,000m2)で、初年度だけで62万5,000人の入場者があった。その後の20年間で面積は8倍以上になり、1年あたりの有料入場者数は100万人近くになった。1968年には1,800万個以上のレゴセットが売れた。
1969年、1歳半以上の子ども向けの新システム、デュプロ(duplo)の販売が始まった。デュプロブロックは、幼児が飲み込まないようにレゴブロックより大きくなっているが、従来のレゴブロックとの互換性を持たせるように設計されている。そのため子供が成長してデュプロブロックを卒業してもそれらを捨てる必要はなく、むしろ「新しいレゴブロックの大型ピース」としてそのまま使い続けられるのである。
・拡大
1970年、従業員数は900人を超えた。その後の数十年は玩具作りにおいても、市場においても、未開拓分野に大きく進出した。
1971年、女の子向けに家具部品とドールハウスを発表。1972年、実際に水に浮かべて遊べるボートと船のセットを出し、レゴ世界の交通分野の可能性を広げた。
この間、ゴッドフレッドの息子ケル・キアク・クリスチャンセン(Kjeld Kirk Kristiansen)が、スイスとデンマークで経営学の学位を取得後、会社の管理職に就いた(ケルの姓が親と違うのは、出生証明書でChをKと書き間違えたのをそのまま使い続けたためである)。会社でのケルの最初の業績は、製造法を最新の状態にし続けるための研究開発部門の設立と製造工場の建設だった。
1974年、腕が可動する人形を同梱した「ホームメーカー」シリーズが初登場し、当時もっとも売れたセットになった。このころからレゴ世界のミニチュア人間が登場しているが、現在の「ミニフィグ」とは違ってどこも可動せず、頭部には顔が印刷されていなかった。また、レゴの生産工場がアメリカ合衆国コネチカット州エンフィールドに建設された。
1975年、対象年齢を高く設定し、細かい部品が多くリアルな車やバイクを作ることのできるホビーセットシリーズが発表される。1977年、1970年から販売されていたギアーセットをより精緻にしたエキスパートビルダーセットが登場する。これは、歯車、差動歯車、レバー、車軸、自在継ぎ手といった動く部品が特徴で、機能するラック&ピニオン式のステアリングや本物そっくりなエンジンの動きを備えた自動車といった精巧な構造模型を作ることができた。
1978年、レゴの世界に「ミニフィグ」が追加された。手足が可動し、顔には笑顔が印刷されている人形である。以降、ミニフィグに大きさを合わせた建物や道路、乗り物、鉄道、ボートなどを揃えて、笑顔の市民が住んでいる精巧な町を作れるようになった。試作段階のミニフィグは肌の色や表情が多様だったが、採用されたのは黄色い肌と標準的な笑顔のみであった。黄色が選ばれたのは人種差別などないニュートラルと幸せ感とを表現するためという理由である。のちのスター・ウォーズやハリー・ポッターなどの版権商品では特定の登場人物を現すミニフィグが登場するようになり、2003年のレゴ・バスケットボールの登場とともに肌の色が増えた。同年、日本法人の日本レゴが設立された。
1979年、宇宙シリーズが発表された。宇宙飛行士のミニフィグ、ロケット、月面探査車、宇宙船が登場し、人気シリーズとなった。また、低年齢層を対象にしたファビュランド(FABULAND)と、小さな女児を対象に宝石要素を取り入れたSCALAシリーズが登場した。ケルがレゴ社の社長になり、引き続きレゴ社の強さが維持された。
1980年、レゴブロックは有益な教材となりうると判断した教師たちは、1960年代からレゴブロックをさまざまな形で授業に取り入れてきた。その結果、この年に教育製品部門(のちのLEGO DACTA)が設立された。この年、梱包・組み立て用の工場がスイスに、タイヤ部品を製造する工場がデンマークのユトランド半島に建設された。
1981年、レゴトレインの第2世代が登場。従来通りの4.5V(電池式)と12V(コンセント式)のほかに、作業灯や、リモコン式のポイント、信号機、連結解放器など、さまざまな小物が追加された。1982年、エキスパートビルダーシリーズが発達してテクニックシリーズとなる。
1982年8月13日、レゴ社は50周年を迎える。これを記念して、『遊びの50年(50 Years of Play)』という本を出版した。
1983年、デュプロに、さらに対象年齢を下げた幼児向けセット(Primo)が加わる。ガラガラと手足が可動する人形つきのセットである。1984年、レゴ・お城シリーズが登場し、ミニフィグに騎士や馬が加わった。
1986年、ライトやブザーなど、新たな遊びを提供する「ライト&サウンド」が登場。レゴ社の教育部門から、テクニック・コンピューター・コントロールが発表された。これはテクニックシリーズのロボットやトラックなどのモーター付きモデルをコンピューターで制御できる教育システムである。ブラジルのマナウスにレゴの工場が建設された。テクニックシリーズに空気圧シリンダーが追加された。
1988年8月、第1回レゴ・ワールドカップ・ビルディング・コンテストがビルンで開催され、17か国から38人の子供が参加した。
1989年、レゴ・南海の勇者シリーズとして海賊が登場した。海賊船・総督軍との戦い・絶海の孤島や財宝を主題にしたシリーズで、ミニフィグの表情が海賊風になっている。標準の笑顔ではないミニフィグが採用されたのはこれが初めてである。レゴ社の教育製品部門が、 レゴ・ダクタ(LEGO DACTA)と名を変えた。名前の由来はギリシャ語の「Didactic」で、大まかに言えば「学習過程の研究」というような意味の言葉である。MIT(マサチューセッツ工科大学)のコンピュータ学習研究所のセイモア・パパート(Seymour Papert)博士が、プログラミング言語 Logoとレゴ製品を連動させる研究にちなんで、レゴの学習研究教授(LEGO Professor of Learning Research)に任命された。日本法人の日本レゴがレゴジャパンに社名変更。
1990年、上級者向けの新シリーズとしてモデルチームシリーズが登場した。レーシングカーやオフロードカーなどを、それまでのレゴシリーズにはなかった微細さと写実性で再現しているのが特徴である。テクニックシリーズが機械的精密さを追求したシリーズだとすれば、モデルチームシリーズは見た目・造形の精密さを追求したシリーズであると言える。この年レゴ社は、ヨーロッパで唯一の、世界10大玩具会社のひとつになった。ビルンのレゴランドの入場者数が100万人を超えた。初のレゴの経営力学教授(LEGO Professor of Business Dynamics)であるザビエル・ギルバート(Xavier Gilbert)が、 スイスのローザンヌにある経営開発国際研究所(International Institute for Management Development)で冠講座を任された。
・新事業と経営不振
1980年代後半に各国でレゴの基本特許が切れたため、値段の安い類似のブロックを製造するメーカーが次々と出てきた。またテレビゲームの登場により、レゴで遊ぶ平均年齢が下がっていった。このような環境変化に対応することができず、1990年代後半からレゴの売り上げとシェアは落ちていった[8][9]。
1998年、創業家3代目のケル・キアク・クリスチャンセンCEOは、かつてデンマークの高級音響機器メーカー、バング&オルフセンを再建したポール・プローメンをCOOに招いて難局打開を託した[9]。プローメンは「脱ブロック」を号令に多角化を指示し、テレビゲーム開発、教育事業強化、テレビ番組制作、直営店経営、レゴランド事業の拡大に乗り出した。さらに、従来のレゴブロックとは互換性のない新シリーズを投入した[9]。そのうち、映画『スター・ウォーズ』シリーズはレゴ史上最大のヒットとなり、以後も『ハリー・ポッター』などの人気映画との提携を続けることとなる。しかし大半は失敗に終わり、さらに互換性のない新シリーズ投入は固定ファンを怒らせ、ブランドの信頼を落とす結果となった[9]。
2002年12月期は「スター・ウォーズ」シリーズによって営業利益で8億デンマーク・クローネ(当時で約140億円)と過去最高を記録したが、映画公開のない年は業績が大きく落ち込み、2004年12月期には損益18億デンマーク・クローネ(当時で約310億円)の赤字となり、自己資本比率は5.9%と危険水域まで下がり、身売りの噂が流れるようになった[9][8]。
1991年 - 電気部品と電気システムの標準化を行う。トレインシリーズのモーターをテクニックシリーズと同様に9Vにして、他のレゴシリーズにも合うようにした。
1992年 - デュプロに螺旋回し、レンチ、ナット、ボルトが特徴のツーロ(Toolo)シリーズが追加。また、女の子向けにふんだんにパステルカラーを用いたパラディサ(Paradisa)シリーズが登場。
1993年 - デュプロトレインと、レゴブロックを床から回収するブロック掃除機(Brickvac)が登場した。
1995年 - 生後6か月から2歳向けのレゴ・プリモが発売された(当初はレゴ・デュプロのプリモシリーズとして登場し、1997年にレゴ・プリモとして独立。2000年にレゴ・ベビーに改称)。ブロックのポッチの部分が丸くなっており、踏んでも怪我をしにくくなっている。専用のジョイントパーツを用いることでデュプロブロックとつなぐこともできた。

MINDSTORMS RCX
1998年 - プログラム可能なブロック「RCX」をシステムの中心に据えたマインドストーム(MINDSTORMS)シリーズが発売された。RCXは光センサーなどの入力端子とモータなどを動かす出力端子を持ち、内蔵するマイコンによる制御が可能で、自立的なロボットを作ることもできる。RCXのプログラムはパソコンを使用し赤外線を使って転送する。
1999年 - レゴブロック初のライセンス商品としてレゴ・スター・ウォーズ・シリーズが登場、デュプロからはくまのプーさんが登場した。
2000年 - テクニックシリーズから男の子向けアイテム「バイオニクル(BIONICLE)」が発売。それまで導入されてきた「スライザー」「ロボライダー」といったテクニックシリーズ規格のニューアイデアをより洗練させたもので、おもに人型の機械生命体を主人公とし、球体関節を用いたさまざまなポーズでの固定が最大の特徴だった。バイオニクルシリーズが大きなヒットとなったことを受け、DVDや漫画、ゲーム、文庫本など様々なメディアでも展開された。
2002年 - ベビーとデュプロの統合新ブランドとしてレゴ・エクスプロアの展開を開始。
・リストラと再生

2004年、クリスチャンセンCEOは入社3年目、35歳の元コンサルタント、ヨアン・ヴィー・クヌッドストープをCEOに抜擢した。クヌッドストープは全社員の3分の1である1,200人をカットし、製品も3割削減、直営店も閉鎖し、ゲームやテレビ番組制作事業から撤退するとともに、レゴランドを投資ファンドに売却した[9]。その後、創業者の理念「子どもたちには最高のものを」をもとに、新しい価値観として「最大ではなく最高を目指す」と定め、高級玩具市場をターゲットに絞って高いシェアを獲得することを目指した[9]。最後にレゴが手掛ける中核事業をブロックの開発・製造を改めて定義し、収益管理を徹底するため、製品毎に利益やコストの目標を定める数字を伴ったルールを導入するとともに、製品開発にも使えるパーツを制限する、顧客との対話を徹底するなどのルールを導入した[9]。
同年、レゴ・エクスプロアを終了し従来のベビー、デュプロにブランドを戻した。またデュプロシリーズより低年齢層向けのクワトロ(Quatro)シリーズが追加された。このブロックは乳幼児向けのため素材も通常製品より柔らかく、デュプロシリーズより一回り大きくなっている。従来製品よりも外れやすい反面、怪我をしにくいように改良されている。またデュプロシリーズとは互換性があり混在可能となっている。
2006年より製品の企画・開発時にすべての要素を可視化する「イノベーション・マトリクス」を導入した。製品開発の全工程が一覧できるようになり、ノウハウが可視化されて全社員に共有されることにより、新製品の展開に伴う戦術が立てやすくなった[10]。
2010年、ミニフィグ同士をスピナーにセットし回転させバトルするレゴ・ニンジャゴーが登場。同時に、レゴ社初のアニメーションテレビ番組『スピン術の使い手 レゴ・ニンジャゴー』も制作された。この年、『Working Mothers magazine』誌において、「働く女性のための会社上位100」にレゴ社が選ばれた。
2012年、女の子向けの新シリーズ、レゴフレンズが登場した。
2013年12月期は売上高営業利益率32%、ROE58%を達成し、2014年上期の業績ではマテル(バービー人形などを制作)を抜き、玩具世界一となった[11]。
2016年の売り上げ額は約380億クローネ、従業員数は1万8,200人となっており、売上額は10年前の約5倍、従業員数は4倍強と成長した。この間、工場の所在地もメキシコやハンガリー、デンマークにも開設している
・レゴの現在

プラスチックのブロックが世に出て以来、数千ものセット商品が販売されて来た。その題材は多岐にわたり、銀河、ロボット、海賊、中世の城、恐竜、街、郊外、西部開拓時代、北極調査隊、船艇、レーシングカー、鉄道、スター・ウォーズシリーズ、ハリー・ポッター、スパイダーマン、バットマン、インディ・ジョーンズ、トイ・ストーリー、パイレーツ・オブ・カリビアンなど、さまざまである。
こうしたテーマの広がりの中、1990年代中盤以降の一時期、製品の部品構成の簡素化が進み、車なら車の形状がある程度できあがっているようなセットすら登場したこともあったが、2000年代に入ってからはこうした製品は影をひそめ、きちんと段取りを踏んで形を作る製品が復活している。また、ミニフィグ基準のスケールでできた製品にとどまらず、小さく精密なセットやかつてのモデルチームシリーズの流れを汲むような複雑なセットが多くラインナップされるようになった。
日本のレゴブロック愛好者のなかには、年々増えるブロックの種類によって写実性のある表現が可能になる満足感を持つ一方で、過去の製品の現実的過ぎない記号性への憧憬という相反する思いを持つ者もいる。また、その固さから、幼児でも容易に扱えない難点が指摘される。
造形に用いられるブロック部品以外にも、モーター、歯車、ライト、音が出る装置、カメラなどの部品があり、ほかのレゴ部品と一緒に使うことができる。前述のようにMINDSTORMSでは、パソコンでプログラミングを行えば、非常に複雑な動作をさせることもできるようになった。2016年6月、レゴ・エデュケーションはレゴ マインドストームよりも対象年齢を下げ、小学生から使える子ども向けのロボットプログラミングキット「Lego WeDo 2.0」を日本で発売した。それまでの「Lego WeDo」はレゴの教育用セットとして教育機関や法人向けで、かつPCからの制御のみであったが、Lego WeDo 2.0」は一般向けで、Windows、MacのほかにAndroidとiOSのタブレットでも制御可能となっている。
女の子向けの路線もいくつか強化を受け、旧来のレゴ部品の範囲で、テクニックシリーズのような大きな可動人形が特徴の女の子向けのシリーズのBelville、 さまざまなパーツのつけ替えが楽しめるアクセサリーセットのClikitsなどが発売された。
2014年現在、「スター・ウォーズ」や「レゴムービー」など、何らかのストーリーに沿って開発された「プレイテーマ」が年間400近く開発され、その新商品の売り上げが年間収益の約6割を支えている[10]。
2020年現在販売されているブロックは、対象年齢が小さい順に大まかに分けるとレゴ・デュプロ、レゴブロック(4+)、レゴブロック、レゴ・テクニックである。レゴ・デュプロはサイズが2倍大きな1.5〜5歳向けのシリーズである。デュプロの穴2個分でレゴブロックの穴8個分となり、互換性がある。レゴブロック(4+)は普通のレゴブロックと同じサイズであるが、ある程度形になった大きなパーツが含まれており、シール貼りの作業も工程にない、「組立」を学び始める4歳向けのシリーズである。レゴブロック、レゴ・テクニックの対象年齢はセットによって異なっている。

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