国名神聖グルキリア王国(Kingdom of Holy Gruchiria)
公用語グルキリア語
国歌国王賛歌
国の標語
首都トヴィリ(Tvilli)
政治体制立憲君主制
通貨ロレ

概要

神聖グルキリア王国は、1762年から2003年まで東ヨーロッパに存在した国家。2004年にグルキリア労働者共和国になった。

歴史

前史

18世紀のグルキリアは3つの王国と4つの公国に分裂し、トルコとイランに支配されていた。東部のカルタ、カフの2王国は1762年に連合し、イランの混乱に乗じて自立を高めた。

統一国家の成立

1810年にカルタ・カフ王国がイングレル王国と合邦したのを皮切りに、1829年にゴルジ、1858年にスウェツィア、1864年にアフォスクリア、1867年にメルキアの各公国を順次併合し、グルキリア全土を支配する神聖グルキリア王国が誕生した。

立憲君主制への移行

第一次世界大戦後の自由化の空気の中で、1918年に当時の国王が神聖グルキリア王国憲法を制定、王国議会の開催を宣言した。

第一回王国議会選挙

1919年に第一回王国議会選挙が行われた。立憲王政党、臣民党、中央党、社会党、立憲革命党、労働者党が参加し、社会民主主義を掲げる社会党が勝利を収めた。

軍事クーデタと独裁体制の成立

社会党の社会民主主義的な政策は伝統的な王国の統治と衝突を引き起こした。1921年、国王周辺の画策した軍事クーデタにより社会党政権は転覆された。1922年には王子が首相に任命され、国内の混乱を理由に出された非常事態宣言により選挙は停止された。独裁体制は1936年まで続き、グルキリアは国際社会から孤立化した。

民政復帰と戦時体制

1936年、独裁体制は支持を失い民政への復帰が宣言された。1938年の第二回王国議会選挙では中央党が勝利し、初の選挙による政権交代が実現した。第二次世界大戦がはじまると戦時体制として中央党政権の任期延長が認められた。

二大政党制の確立

1947年には第三回王国議会選挙が行われ王国党が政権を回復した。以後、王国党と中央党の保守二大政党が交互に政権を担う体制が確立した。1956年には労働者党などが首都で政権に反対する街頭デモを行うが弾圧される事件が発生した。

二大政党制の瓦解

1978年、中央党政権は国家の権力を拡大する新憲法案を作成する。しかし、これに反発する市民の抗議運動が全国に広がり、憲法は撤回された。この事件を機に中央党は急速に支持を失っていった。かわって、市民運動の中心となった農民党が支持率を伸ばした。

民主化の進展

1989年、アフォスクリア州の自治運動に端を発した自由化を求める運動が全国に広がった。1990年の第十三回王国議会選挙では左派の農民党が勝利し、およそ70年ぶりの中道左派政権となった。農民党政権は選挙の自由化を推し進めた。

反動体制

農民党の急進的な改革に反発を抱いた軍部は1992年に軍事クーデタを起こし、農民党は政権を追われた。農民党党首は故郷のメルキアに戻り態勢を立て直そうとするが、1993年に死亡した。農民党ではより保守的な勢力が指導部となった。1995年の第十四回王国議会選挙では農民党は議席を減らし、王国党が第一党となった。過半数をとる政党はなく、王国党と中央党の保守大連立が成立した。

無血革命

王国党・中央党連立政権は腐敗により国民の支持を失っていった。2003年の第十六回王国議会選挙では労働者党がはじめて議会第一党となった。労働者党を首班に農民党、地域党などとの連立政権が成立し、初の極左政権となった。しかし、王政解体の党是を推し進める労働者党と王政維持派の農民党、地域党が内部対立し、両党が連立を離脱、少数与党となり議会は解散に追い込まれた。

労働者共和国へ

2004年の第十七回王国議会選挙では労働者党やそれに賛同する勢力が過半数を占めた。憲法改正の国民投票が可決され、王制解体。

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