その日、母が朝食にと私に作ってくれていたのは、色とりどりの具材がちりばめられていて、見た目からして美味しそうな炒飯だった。
私の大好きなテーマパークのマスコット・キャラクターの顔を模して、皿の上に盛りつけられている。

そのことが余計に、私がそれを口に入れるのを躊躇わせた。

食欲がなかった。
母に心配をかけさせたくなかったので、自分の部屋へ運び、こっそりとごみ袋に捨てた。
すぐに罪悪感が込み上げてきて、私はその場の何もかもがいたたまれなくなり、生温くなった袋を手にとって、足早に家を出た。

外は真夏だった。
じりじりと肌を差すような日差しが、衰弱しきった私の身体を照り付ける。
次第に気分が悪くなり、目眩というほどではないが、軽い立ち眩みを起こしたときのような感覚に見舞われた。
その場に座り込んでしまうような真似は何とか避けられたが、よろけて、近くの建物の壁にもたれかかってしまった。
周囲にいた通行人たちが、私に好奇の目を向けては、何事もなかったように通り過ぎていく。
しばらくして、気の良さそうな老婆が近付いてきて、私に、大丈夫、と声をかけてくれたけど、私は何も答えずにその場から離れた。

今は、誰の優しさにも触れたくなかった。


男を殺す。

昨晩、それが私の出した答えだった。
男に犯された、あの日の恨みだとか、私から大切な人を奪ったことへの復讐だとか、そういうことじゃない。
もっと根源的で、単純で、原始的な理由だった。
私と、男だけが知っている真実があった。

案の定、男は私に言ったのだ。

そろそろ、来る頃だと思っていたよ。君は、僕に会いに来たんだね。

手が白くなるくらい強く握りしめていたナイフの感触が、一晩を過ぎてもまだこの手に残っている。

そうね。あなたを殺すためよ。

そう言いながら、男に向けているナイフの切っ先が震えていることに気が付いて、私は両手で柄を握り直した。
それを見た男の口の両端が、にわかに持ち上がって。

ホントに僕を殺すつもりだったのなら、僕が振り向くまで待ったりしないはずだよ。

男の言葉が、昨日の私に容赦なく降りかかる。
前置きも段取りも、心の整理をする暇なんて、少しも与えてはくれなかった。

君は、僕を殺すという名目で、ただ僕に会いたかっただけだ。
君はあのとき、僕のペニスを受け入れて、すごく感じていた。あの快感が忘れられないんだよ。

違う、と私が叫ぶ。
あれは、あのとき嗅がされた、得体の知れない薬のせい。
そうに決まってる。

まだ自分に嘘を吐くの?

男が声を上げて笑いながら近付いてくる。

都合の悪いことに目を瞑れば、生きることも出来るんだ。
快楽に身を委ねて、涎を垂らして拭う必要もない。

男の指先が、私の頬に、そっと添えられる。

大多数の人間が、そうやって生きているよ。
でも君は気が付いてしまった。
自分が、最低で、低俗で、低能で、淫乱なだけの、人の面を被った獣だってことを知ってしまった。
もう戻ることは出来ないんだ。

男が私に顔を寄せて、口付けをしてきた。
私はそれを拒まない。
脳髄が体内から空間に溶け出していく感覚を、私は拒めなかった。
それは、あの日以来、ずっと待ち焦がれていた快感だったから。

だから私は、自ら舌を出して男を受け入れた。



男にどこかへ連れて行かれた。
そこがどこだかわからない。わかる必要もない。
ただ後ろから、男が覆い被さってくる。

獣には、獣みたいな体位が相応しいよ。

私は、また犯された。ブラウスを剥かれ、四つん這いにさせられると、スカートなどあってもなくても同じだった。

前戯などなしに、男の肉棒が侵入してくる。
火傷しそうなくらい熱い、男の性器。
奥まで一杯に満たされると、自分の意志では制御しきれない快感の波がやってきて、背筋が思い切り震え上がった。
男の言う通りだった。私は、男を殺すどころか、こうなることを望んでいたのだ。

そうして、私は獣になった。
あのとき、男に犯されたとき、愛に電話をかけたときに、我慢していた喘ぎ声をあげて。
男の抽送を受け続けた。
数え切れないくらい、何度も何度も絶頂に達した。

その間、私の耳には、男の声だけが聞こえていた。
それはなぜか、子供の声のようにも思えた。



ぼくのおかあはんはね、やさしくて、すごくきれいなんだ。
がっこうのともだちからも、えりくんのおかあさん、びじんだね、なんていわれた。
そのことがうれしくて、うれしくて。
なんのとりえもないぼくにとって、じまんのおかあはんだった。

そんな母も、夜を迎えると、一匹の雌だった。
美しい声で毎晩、獣のように喘いでいた。今日の君のように。
耳を塞いだって、隣の寝室から漏れてくるんだ。
でも、まだ小学生で、それの意味を知らなかった僕は、ある夜、思い切って聞いてみたんだ。
お母さんは、どうして夜がくると獣になるの、って。
母は一瞬、困ったような顔をしたけど、すぐにいつもの母の顔を取り戻した。
凛々しい声だった。僕の大好きな、母の声だった。
こう言ったんだ。

愛しているからよ。絵里、あなたのことも愛しているわ。

おかあはんは、ぼくをあいしてた。
そのしょうこに、ぼくとおかあはんは、セックスをしたよ。
ぼくはそのとき、うまれてはじめて、せーしをだした。
これがあいのあかしなんだって、おかあはんにそうきかされた。

私だけじゃ、子供は産めないの。
愛がなければ、絵里、あなたは生まれなかったわ。
あなたは、私とあの人が愛し合っていた証なのよ。

でも、僕には、母の言葉の意味が分からなかった。
混乱していた。
ペニスから排出される、尿とはまた違った、粘々として、生臭い液体。
それが愛だなんて、到底理解できなかった。

ぼくはただ、きもちがよかったんだ。

相手が、血の繋がった最愛の母であることを忘れて、目の前にあった乳房を夢中になって揉んで、柔らかな太ももにペニスを擦り付けた。

それがきもちよかった。めのまえがまっしろになって、おちんちんからせーしがでた。

僕には、それだけだったんだ。

あれが、あいなのかな。

僕には、分からない。

ぼくにも、わからない。

僕にも。

ぼくにも。

ボクニモ。

私にも。

ワタシニモ。



そのとき、すれ違った人と肩がぶつかって、男の呪詛から、ようやく私は解放された。
どう辿り着いたのかは定かではないが、気が付けば、私は駅の前に立っていた。

改札を通り過ぎて、丁度ホームへと滑り込んできた電車に、行き先も確認せずに乗る。
乗り慣れた電車だった。

その窓に映る、私の顔。
それは人間ではなかった。
獣に身も心も蹂躙されて、それでも感じてしまっていた私は、もはや獣以下の何かだった。
人間として生まれて、人間として生きることが出来ないのなら、もう生きている意味はないのかもしれない。

だから、目的地は決まっていた。

私は、愛のことが好きだった。
間違いなく、私は彼を愛していたのだ。

それこそが、今や私が人間だと言える唯一の証拠だった。

彼は、私を愛してくれていたのだろうか。
汚れきった私を、もう一度愛してくれるだろうか。
考えるまでもない。彼なら、きっと、私の望む答えを返してくれるはず。

もう一度、私も彼を愛したい。
今度はしっかりと、自分の気持ちに素直になって、無理なおねだりも、ワガママも言わない。
ちょっとだけ長い、彼の好きな劇団の話もちゃんと聞いて、彼の描いてる夢にだって反対しない。

愛。
私は、あの日に戻りたい。
私を、あの頃に戻らせて。
お願い。

愛。





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