「アホやろ、この学校」

補習授業、最終日。
れいなが呟いた声は、夏休みの期間もグラウンドで練習をしている各運動部員たちの威勢の良い掛け声に掻き消された。

「どうしたの、れいな」

そんな声も、れいなの隣にいる、この男にだけは聞こえてしまったようだった。
男のことは無視して、れいなが続ける。

「確かに実技テストはサボってしまったけど、補習に体育がある高校なんて聞いたことないっちゃん」

学校指定の、所謂『イケてない』Tシャツにハーフパンツ、スニーカーという格好の自分に嘆息する。

「まあ、いいじゃん。足りない頭を使わされるよりは、さ」

一週間という補習期間の間、辺りが暗くなってしまう前に課題を終わらせようと、
知らない英単語の意味を教え合ったりして二人で共同作業を進めている内に、
男はれいなの独り言に対し、許可もなく合いの手を入れてくるようになっていた。

それが鬱陶しく思え、れいなが黙って会話を切り上げると、男は前方の一点を見つめ、真剣な顔になった。

二十メートルほど前方で待機している女の体育教師が、ぴっ、と短く笛を鳴らす。
男は、その笛を合図に颯爽と走り出した。
軽い足取りで助走を付け――力強く足を踏み切って、身体を捻りながら跳躍する。
男の背中は宙に高く浮かび、目の前のバーを軽々と飛び越えた。

「それに、これが終わったら、家に帰れるんだし」

男が着地したグリーンのマットから立ち上がり、涼しい顔で、れいなに言う。

走り高跳びである。
男が飛び越えた高さは、一メートルと七十センチに達していた。

お前が失敗せんと、帰れんやろ。

れいながそう思いながら周りに目を向けると、
いつの間にか、サッカー部はパスの練習を、陸上部はトラックの周回をそれぞれ止め、
男の高跳びの記録を見守っているようになっている。
それから、どこから湧いて出たのか、尻の軽そうな女子の連中が男を見て悲鳴に近い声を上げている。
このときばかりは、男を格好良いと思ってしまう気持ちも分からないではなかったが。

れいなは、そんな自分の思考と男に冷や水を浴びせてやろうと、
男が戻ってきたところへ「人気者やね」と、皮肉をたっぷり込めて言った。

「あいつらが、お前が実はレイプ魔だってこと知ったら、どんな顔するっちゃろうね」

れいなが無表情のまま言うと、男はそれよりも無表情になった。

「本当に、悪かったと思ってるよ」

男はそう言ったきり黙りこくってしまった。
男がしたことを忘れたわけではないが、男の悲しそうな様子を見て、
今は言うべきじゃなかったとかいな、とれいなは少しだけ後悔した。

「提案があるんだ」しばしの間を置いて、男がぼそりと、ため息を吐くように。

「賭けをしようよ、れいな。僕が一八〇センチを跳べるか、跳べないか。
 れいなが当てるんだ。もしれいなが正解したら、僕はれいなの言うことを何でも聞く」

「何でも?」れいなが聞き返す。

「金輪際、僕の顔を見なくて済むようにすることだってできる」

なるほど、とれいなは頷いた。それは悪くない。

「その代わり、不正解だったら、僕とデートをしてほしい。どこへ行くかは、れいなが決めていいからさ」

ふん、と、れいなはわざとらしく鼻で笑ってみせる。

「賭けにならんね。れいなは、お前が失敗するほうしか選べんし。
 お前が失敗して、背中の骨でも折ってくれれば、家に帰れるし、それで十分っちゃん」

男は両手を腰に当て、またしばらく黙っていたが。

「それじゃ、こうしよう。れいなは、れいながさっき失敗した一三〇センチを跳ぶ。
 成功したら、れいなの言う通りにする」

れいなが再度拒否するよりも速く、男が続けた。

「失敗したら、改めて僕が提案した勝負を受けて欲しい」

つまり、れいなが先に跳び、成功したられいなの勝ち、
そこで失敗しても、次に男が跳べなければ、それでもれいなの勝ちだと、男はそう言っているのだ。

「…随分と、れいなに分の良い賭けやね」

しかし、運動はそれほど得意でもない自分が一三〇センチなど跳べるわけない、とれいなは思った。

れいなが悩んでいるところに、笛の音がもう一度鳴り響く。
男は駆け出し、バーへ近付いていく。
空中で華麗にしなる、男の身体。
男が飛び越えたバーは、ぴくりとも動かなかった。
今度の高さは、一七五センチメートル。
そこかしこで拍手が起こり、女子達の歓声。

この調子なら、男は一八○センチなど軽々と跳んでしまうだろう。
れいなは思案してから言った。

「一九○」

れいなの言葉に、男はにやりと笑みを浮かべて応えた。


体育教師の手によって、バーの高さが下げられる。
まずはれいなが跳ぶ、一三○センチ。
つい先程れいなが失敗した高さだが、それでも男が跳んでいた高さに比べれば随分低いように見える。

もし、この賭けに勝てれば見返りは大きい。
男の存在を疎んじる必要もなくなれば、男のストーカー行為に頭を抱えることもなくなるのだ。

勝負を受けた以上、もうあれこれ悩んでも仕方ないことだと、れいなはスタート位置についた。

「チャンスは一回。僕みたいに、背面跳びがいいよ。その方が高く跳べる」

れいなは男の方を見なかった。
だが、男の言う通り、ただ跨いで跳ぶのは難しい高さのように思える。
背面跳びなど試したこともないが、勝つためには挑戦する必要があるのかもしれない。

「こつは、ジャンプをするときの踏切位置だよ。バーに近過ぎても、遠過ぎてもダメなんだ。
 それから、背中を向けて跳ぶのを怖がらないことと、集中力とイライラしないのと、いっぱいいっぱいにならないことと…」

男がぐだぐだと、運動の得意な人間にしか通じないようなアドバイスをし始めた。

「れいなが跳べてしまったら、困るのはお前やろ」

「そうだね」と男が即答する。「それでも、僕はれいなを応援するよ。れいなに跳んでほしいんだ」

どうして、とれいなは思った。れいなは、男の失敗を願っているのに?

「僕は、れいなのことが好きだからさ」

れいなのことが、好き。もう何度聞かされたことだろう。

「お前みたいなやつ!」れいなは言った。「れいなにそんな気はないって、何回言ったらわかるとよ!」

男に言い放ち、勢いはそのまま、れいなは走り出した。
助走のスピードから足で踏み切るタイミング、それから男の助言も全て頭の中から消し去っていた。
脳裏に浮かんでいたのは、これ以上この男と一緒にいるのはもう耐えられない、というただ一つの感情だけ。

跳ぶ。
絶対に跳んでみせる。

足に力を漲らせ、地面を蹴る。
意気を込めたれいなの身体が、今日一番というくらい高く舞い上がった。
頭にも背中にも、バーが触れた感覚はない。
空中で足を持ち上げたときに、れいなはこの跳躍が成功したことを確信した。

しかし、自分の身体が浮いてからマットに落ちるまでの時間が今までの跳躍に比べるとほんの少しだけ長い、とも思った。

その異変に気が付いたとき、右の肩口に衝撃が訪れた。
視界に映る天と地が目まぐるしく入れ替わる。

「うっ…痛ぁ…」

思わず呻き声を上げてしまう。
土埃に塗れながら、れいなは自分の身体が着地用マットから大きく外れて地面に叩き付けられたことを知った。

意識はある。頭を打たなかったのが幸いしたらしい。
揺れる視界のまま、手と足を順番にゆっくりと動かし、身体機能の無事を確認した。
痛みはあるものの、これといって大きな怪我はしていないようだ。
準備運動として柔軟体操を念入りにやっておいたおかげかも知れない。

その目の前を、暗い影が覆った。

「れいな、大丈夫!?」

顔を上げると、太陽の光を遮って、男が立っていた。
事実としては、事象としては、単にそれだけのことだったのに。
地面に落下したことでショックを受けていたのかも知れない。

れいなの目には、現実とは違ったものが映っていた。

れいなの身体に男が手を伸ばす。
それに合わせて、男の口がぱくぱくと動くのが見える。

腕から血が出てる。れいな、傷口を見せて。

そう言ったはずだが、れいなには聞こえていなかった。
右腕か、左腕のどちらかを掴まれる感覚があった。
いや、掴まれたのは、その両方だっただろうか。
両腕を、頭の上で押さえつけられている。
それから、無理矢理にキスをされた。
服の上から乳房を鷲掴みにされ、乱暴に揉みしだかれていく。
痛い。嫌だ。怖い。助けて。
そう思っても、ガラス玉のような男の目に睨まれ、すくんでしまって声が出せない。
服を剥かれ、男の舌がれいなの体中を這い。
身体を、犯される。


「…っ!」

ぱし、と乾いた音がして、れいなの見た悪夢はそこで途絶した。

「あ…」

みるみるうちに男の左頬が赤くなっていく。
れいなはそれを、ただぼうっと見ていた。
それから、じん、と手の平に痛みが湧いてきて、ようやく状況を認識した。
右手。
どうやら、実際には掴まれてなどいなかった右手の平で、男の頬をはたいてしまったらしい。

「…保健室で消毒をした方がいいよ」

男。

「お、お前に言われんでも、そうするっちゃん」

男への罵倒も、このときはしどろもどろになってしまった。
全身に付着した土を払いながら立ち上がり、グラウンドを歩いて保健室へ向かう。
まだ宙を舞っているかのように、足取りがおぼつかなかった。
れいなを心配して駆け寄ってきたのは、れいなの一番近くにいた体育教師よりも、あの男の方が速かったということに、
れいなは気が付いていたからだった。

それから、れいなが保健室で簡単な治療を受けている間に競技測定は終了したらしく、
再び合流したれいなと男は、体育倉庫にて、使用した用具の後片付けをすることになった。

「怪我の方は、大丈夫?」

男と、静かな倉庫内で二人きり。
れいなを不安にさせないよう気遣っているのか、男がやや饒舌になって話しかけてくる。

「れいなはその辺に座って、休んでて。ここは僕がやっておくから」

れいなは何も応えず、手際よく片付けを進める男の背中を見ていた。
いきなり叩かれて、男はれいなのことをどう思っただろうか。
れいなに対して、れいなを強姦しようとしたあの日のことを負い目に感じているのだろうとはいえ、
男はこのときも怒っている素振りすら見せなかった。

だかられいなは、男の背に向かって、ありがとう、と言った。

「それから、さっきはごめん。れいな、頭が何だかよう分からんくなったけん、思いっきり叩いてしまったと」

男は振り向かずに言った。

「いいんだ。自業自得だよ。
僕が変な賭けを始めなければ、れいなが怪我をすることはなかったし、あんなことにもならなかったんだから。
 れいなが無事なら、僕はそれでいいよ」

男が片付けをする手を止めた。

「でも、最後にれいなからありがとう、って言ってもらえて、僕は嬉しいな」

「最後?」れいなが首を傾げる。男は背を向けたまま頷いた。

「賭けだよ。れいなは見事、一三○センチを跳んだ。れいなは、僕との勝負に勝ったんだよ」

れいなは、あぁ、と返事にもならない返事をした。
とうに忘れかけていたが、跳躍には成功していたのだ。
男はれいなとの別れを覚悟しているようだった。

「れいなは信じられないかも知れないけれど、僕はこの一週間、本当に楽しかった。
 正確には、れいなと出会ってから、ずっとかな」

「その出会いは、最悪やったケドね」矛盾している、と言わずにはいられなかった。

「…うん。そうだね」

男のことを、男がしたことを赦したわけではない。
ただ、れいなを好きになったと言うこの男を、この男の気持ちの真意を、れいなは知りたくなった。
傷付け、傷付けられても、一人の異性を愛する情熱。
それは、今まで一度も、誰にも恋をしたことがないれいなには、遠く憧れの感情だったから。

「…デート、してあげてもいいよ」

「えっ?」男がようやく振り向いた。

「れいなの言うこと、何でも聞くって言ったやろ。
 もうれいなに、これからは絶対あんなことしない、って誓ってくれるなら――」

目と目が合うと、何だか恥ずかしくなってくる。やっぱり、やめておけば良かった。

「一回だけ。デートしてあげるっちゃん」

「誓う、誓うよ!」れいなが言うなり、男が興奮気味に、れいなに駆け寄ってきた。

「ねえ、いつ?どこ行く?ショッピングでもする?」

子犬のようにすり寄って来られても、悪い気はしなかった。

「うーん。今は欲しいもの、特にないけんね」

「それじゃ、遊園地は?ディズニーランドはどうかな?」

れいなとの初デートの場に、うれしそうに夢の国を提案する男の無邪気な笑みに、
子供っぽいところがあるんだな、と、れいなは笑ってしまいそうになった。

「そうやね。今は夏やし、れいなはディズニーシーがいいな」





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