シャツを脱がせると、彼女の上半身が露わになった。
れいなはその姿を見て自分が欲情していることに気付く。
その首筋に舌を這わせ、その胸にしゃぶりつきたくなる。
れいなは彼女に、ありったけの愛を注ぎたかった。
れいなは軽くキスをしながら、右手で改めて胸を揉んでやる。
決して大きいとは言えないが、形の良い胸がれいなの手で潰れる。

「やっ…あ…」

甘い甘い声が暗い室内に響く。
それは麻薬のようにれいなの脳を刺激し、理性とか常識とかを一気に排除させる。
すべてが欲しくなる。彼女のすべてを、一挙一動を、動かない芸術にしておきたくなる。
カメラを取り出して、この被写体を収めたかったが、まずは彼女を愛したかった。
胸の突起を指で弾くと彼女はビクッと体を震わせた。

「可愛いっちゃよ、さゆ」

そうしてれいなが微笑むと、さゆみは恥ずかしそうに、それでも美しく笑った。
さゆみはれいなに両腕を伸ばすと、そのまま頬を包み込み、ふたりはキスをした。
甘い香りに誘われたれいなは、目を閉じながら、さゆみの唇を貪り、全神経を彼女の舌に集中させた。
美しくて、甘くて、優しくて、何処までも彼女は完璧なのに、それなのにれいなの心の中には、真黒い染みがぽつんと浮かんでいた。




れいなは閑静な住宅街に車をゆっくりと走らせる。
自宅から此処まで距離にして、実に10キロはあったと思うが、よくそんな距離を、目の見えない中で絵里は歩けたものだと感心した。
れいなは目的地を発見し、そこから少し進んだところで車を止める。
伊達メガネをかけ、バックミラーで髪を整えた。
一応、昨晩にシュミレーションはしたのだが、慣れない経験にボロが出ないか緊張する。
れいなは、スーツの両ポケットに入れたある物を確認し、車を降りた。


れいなが絵里を『拾って』3週間が経ったが、その間に状況は少しだけ変わった。
絵里を盲学校に入学させたことが、最も重要な出来事であるとれいなは考えていた。
中途であれ先天性であれ、彼女の目が見えない以上、このままにしておくわけにもいかない。
れいなは自宅近辺にある盲学校を調べ、手当たり次第に電話をかけた。
その中のひとつである「朝陽盲学校」は、施設内に寮を併設しており、
かつ絵里の事情に寛容であったため、れいなはそこに入学させることに決めた。

最初は絵里も見慣れぬ世界に放り込まれることに多少なりとも不安を感じていた。
しかも、暫くは寮生活を送らなければいけないと伝えると特に、である。
絵里も、自分自身を変えなくてはいけないことは分かっていたが、れいなから離れて生活することは恐怖であった。
れいなな入学する直前まで絵里を宥め、必ず夜には会いに行くことを約束すると、絵里は漸く入学することを決意した。
絵里が朝陽盲学校に入学した後、れいなは約束通り、夜になると面会に行った。
帰らなくてはいけない時間が迫ると、絵里はまるで子どものような顔をれいなに見せた。
それはさながら親から離れられない幼稚園児のようで、れいなは困ると同時に、絵里を愛しく想った。

そんな絵里も漸く寮生活と盲学校に慣れて来たのか、徐々に笑顔になり、真っ直ぐに授業にも取り組んでいると職員は話していた。
職員の話を聞き、れいなは安心するとともに、何処か寂しさも生まれてきた。
これじゃまるで、子離れできない親だなとれいなは苦笑した。


次にやるべきは、絵里の叔父家族から養育費という名の保険金を取り戻すことだった。
どちらにせよ、叔父家族の家に絵里の保険証や必要な荷物があるため、それを取りに行く必要があった。
そのためにれいなは、さゆみからの提案を基にした書類を作り上げ、今日、此処へ来ていた。
演劇なんてもう何年もやっていないが、バレるわけにはいかなかった。れいなは息をひとつはき、家の前まで歩く。

チャイムを押すと、ピンポーンという小気味良い音が広がった。
数秒の沈黙のあと、扉が開かれた。出てきたのは女性だった。
化粧はしているが、40代後半と言ったところだろうか。
恐らくこの女性が、先日電話に出た絵里の叔母だろうと推測した。

「先日お電話させていただいた、鈴木法律事務所の佐藤と申します」

れいなが頭を下げると彼女も頭を下げた。
れいなは用意しておいた名刺を彼女に差し出した。

―――鈴木法律事務所 弁護士 佐藤恵美

それがれいなの肩書であった。
彼女は名刺を見ると、なんの疑いもなくれいなを家へと上げた。
れいなはグレーのパンツスーツに白のワイシャツと、いかにも『弁護士』らしい格好をしていた。
多少背は低いが、それはヒールの高い靴を履けばごまかせる。
髪をアップにし、それ相応の化粧をすれば、カメラマンのれいなでも、弁護士になれる。
れいなは2階のある部屋へと案内された。
光りの入らない薄暗いそこは、その様子から絵里の部屋だったことが分かる。

「ある程度の荷物はまとめておりますので…」
「お時間のない中ありがとうございました。あとはこちらでやらせていただきます」

れいなの丁寧な言い方に気を良くしたのか、それとも興味がないのか、叔母は「下におりますので」と言い、部屋を出ていった。
れいなはそれを確認すると、伊達メガネを外し、室内を見た。
ベッドに机があるだけの狭い部屋。本棚やクローゼットも一応はあるが、ほとんど使われた形跡はない。
先ほど「荷物はまとめた」と言っていたが、あれは単に、絵里を引き取ってから荷物を解いていないのではないかと推測する。
実際、部屋の隅に置かれ、封がしてある段ボールは埃をかぶっていた。
れいなが此処に電話をしてわずか1週間も経っていないのにこの埃のかぶり方は不自然だった。
自分の推測が当たっていることは嬉しいのだが、正直、当たってほしくない推測だったなとれいなは思う。


れいなは1週間ほど前、『佐藤恵美』名義でこの家に電話をかけた。
電話に出たのは女性であり、れいなは叔父が出なかったのは好都合だと思い、話を始めた。
それは、自分は絵里の後見人であり、そちらに絵里の荷物を取りに行きたいのだがいつの都合が良いかという単純なものであった。
彼女は最初こそれいな、いや佐藤恵美の存在を怪しんでいたものの、そちらに迷惑は一切かけないと言うと、快く了承した。
単純なものだなと思い、れいなは電話を切った。

れいなは再び室内を見回す。
本当にこの段ボール以外に、持っていくほどの荷物はなさそうだった。
段ボールは全部で3つだが、この3つが絵里のこれまでの人生のすべてなのかと思うとれいなは哀しくなった。
1番上にある封の開いた段ボールの中を覗くと、そこには通帳と印鑑、
そして保険証と絵里がかつて通っていたであろう高校の生徒手帳が出てきた。
保険証には、1988年12月23日生まれと記されている。間違いなく絵里はれいなのひとつ上だった。
通帳を見ると、名義は亀井絵里になっていた。
開いて残高を確認すると、6000万円ほどあった残高が一気に引き出されていることが分かった。
この6000万円こそが、絵里の両親の残した保険金であり、遺産のはずだった。
いまの絵里の通帳残高は、まさに雀の涙程度しかない。
この通帳を此処に置いていることや、れいなをアッサリと家に入れたことを考えると、叔母はほとんど絵里に対する興味はなさそうだ。
たぶん、絵里自身に対しても、絵里の持っている金に対しても。
そう考えると、絵里に執着しているのは、恐らく叔父の方であり、彼が保険金を奪い取ったと考える方が自然だった。
そうであるならば、叔父と会って直接話した方が良さそうだとれいなは思った。

れいなは通帳を段ボールに戻し、フタを閉める。
室内に置かれた机を見ると、そこにはいくつかの本と、ひとつの写真立てが置いてあった。
オレンジ色の写真立てのなかでは、ある家族が笑顔で立っていた。
恐らくそれは、絵里の家族であり、絵里が最良にシアワセだったころの写真であろう。
絵里はだらしないくらいの笑顔をこちらに向けている。その両脇にいる両親も、絵里に釣られてか、柔らかく微笑んでいる。
母親も父親も、何処となく絵里に似ている気がした。
それは何処にでもある家族の肖像で、当たり前のことなのだろうけど、れいなには無性に愛しく感じられた。
れいながそれを何冊かの本とともに先ほどの段ボールに仕舞うと荒々しい物音がした。
どうやら黒幕の登場らしいとれいなは伊達メガネを再びかけた。


「…だれだ、お前は」

扉を開け、鼻息を荒くして部屋に入ってきた男は、れいなを見下ろして聞いた。
人に名前を尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀だろうがと言い返したくなるが、れいなは努めて冷静に返した。

「初めまして。私、鈴木法律事務所の佐藤と申します」

型どおりの挨拶のあとに名刺を差し出すが、彼は受け取ろうとしなかった。
名前を名乗ったのにその態度はどうなんだと思うが、れいなは我慢する。
左のポケットに手を入れ、ボイスレコーダーの電源を入れた。
たぶん、ちゃんと音声は録音されているはずだ。

「絵里の、後見人だと?」
「はい。亀井絵里さんはいま、私どもが保護しております」

名刺を仕舞いながられいなは言った。
こんな奴に敬語なんか使いたくないのだが、うっかりすると方言が出そうになる。
れいなは故郷が好きで、上京してからも一貫して博多弁を使う。
最近では東京の言葉に慣れてきたからか、中途半端であるものの、それでも『標準語』ではない。
れいなはそれを、勝手に『れいな弁』と呼んでいるのだが、その『れいな弁』をこいつに聞かれたくはなかった。
顔をさらしている上に、福岡出身だということが発覚すれば、そこから自分の素性がバレてしまう可能性もあった。
それだけは避けなくてはならない。

「いますぐ返せ。絵里はうちの子どもだ」
「…失礼ですが、あなたは亀井絵里さんのご親族の方で?」
「俺は絵里の叔父だ!あいつの両親が死んだあと、俺が引き取ったんだ!」

声を荒くして叔父は言う。
その割に盲学校にも入れず部屋に閉じ込めて保護責任を放棄していたのは何処の誰ですかと言いたくなる。
本音が口をつきそうになるのをれいなは堪えるしかなかった。
まだいまは言うべきではない。まだ、我慢が必要だった。

「絵里さんはあなた方と住むことは望んでおりません。その旨は奥様にもお伝えしたはずですが」
「アレのことなどどうでも良い!とにかく絵里を返してもらうぞ」

れいなはふうと息を吐いた。
覚悟はしていたが、この人とはまともに会話が成立しそうもない。
早めに話を切り出した方が得策だとれいなは感じた。
れいなは昨晩のシュミレーションを思い出す。大丈夫、なんとかなるはずだ。

「とにかく絵里さんは此処へは戻りません。それよりも、絵里さんの相続するはずだった遺産、保険金もろもろを渡していただけますか?」

金の話を始めると、絵里の叔父は再び目の色を変えた。こちらを睨みつけるような視線を送ってくる。
れいなは自慢ではないが、その目つきの悪さは折紙つきであり、中学・高校となんども因縁をつけられては喧嘩をしてきた。
これくらいの睨みではビクともしない。
生まれて初めて、この目つきの悪さにれいなは感謝をした。

「絵里さんの通帳には、多額の保険金が振り込まれ、その後すぐに引き落とされています。
 絵里さんからは、あなた方が養育費として自分の口座へと振り替えたと聞いていますが、
 それを実際に養育費に使っていた形跡はありません。
 これは法律違反であり、立派な犯罪です。一刻も早く絵里さんの口座に保険金を」
「ふざけるなっ!」

叔父はれいなの言葉を遮り壁を激しく叩いた。
一気にまくし立てはしたが、れいなは事実しか話していない。
それなのにこれほど怒るということは、絵里の話は嘘ではないようだ。

「そんなの出鱈目だ、俺は遺産など知らん!」
「とにかく早めに返して下さい。事が公になると面倒なのはあなたですよ?」

れいなの言葉が癇に障ったのか、叔父はカッと目を見開き、れいなに襲いかかった。
れいなは一瞬のことに虚をつかれ、抵抗する間もなく叔父に組み敷かれた。
ああ、絵里もこんな風に、こいつに抱かれたのだろうかとげんなりした。

「俺は、なにも知らんと言っているだろうが」
「…どっちでも構いませんが、このままだとあなた、暴行罪で訴えますよ?」

れいなは冷めた目で叔父を見つめる。
叔父はれいなの手首をギリギリと締め付けるが殴りかかる気配はなかった。その代わり、苦虫を噛み潰したような顔をし、「女のくせに」と呟いた。
れいなからすれば、力で無理やりなんとかしようとする発想は、「男のくせに」というよりも、人間の屑としか思えなかった。
わざとらしく大きな溜息をつき、れいなは1枚のカードを切った。本来ならばこのカードは切りたくなかったが、仕方がなかった。

「…血液型は何型ですか?」
「あぁ?」
「あなたの血液型は何型ですか?と聞いています」

ニコッと笑って質問するが、叔父はなにも答えない。こんな質問をされるなんて思ってもいなかったのだろうから当然と言えば当然の反応だった。
れいなはその顔を崩さずに言葉を繋ぐ。

「絵里を保護したとき、絵里の膣内から精液が検出されました」

その言葉に、叔父の目に明らかな動揺が走ったがれいなは気にせずに続ける。絶対に、目を逸らしてはいけないと、必死に叔父と話を続ける。

「最近の科学捜査はずいぶん進んでいます。昔は精液から血液型くらいしかわからなかったのですが、最近ではDNA鑑定で、本人を特定できるようになっているそうですよ」

れいなのセリフに叔父の手が震える。手首を掴んでいた力が弱くなっているのが分かる。
いまならするりと逃げられそうだが、億劫だったのでもう少しこのまま会話を続けることにした。

「絵里の体中に、無数の歯形や傷痕が残っていました。まあ精液だけでも十分なのですが、だれのものかはっきりしますよ、その内に、ね」

叔父はれいなの言葉に愕然とし、手首を離した。それが答えだとは分かっていたが、れいなは改めてうんざりする。
れいなが体を起こすと叔父が素直にそこから退いた。まさかセックスをして中出しまでしておいてなんの問題もないと思っていたのだろうか、この男は。
れいなはスーツについた埃を払い落しながら言葉をつなげる。決して、決して逃げてはいけない。

「…あの日から絵里には月経が来ていません」
「なっ」
「だいたい3週間ですからねぇ、まだなんとも言えませんが…着床していないと良いですね、だれかさんの精子が」

その言葉を聞いた途端、叔父はれいなを殴り飛ばした。
鈍い音が室内に響いた後、れいなはベッドに頭からダイブした。
左頬に痛みが走るが、れいなは変わらずに言葉を繋ぐ。

「…この上で絵里も泣いたんでしょうね」
「っ…黙れ」
「見えないだれかと闘いながら、必死に嫌だと叫んだんでしょうね」
「黙れっ!」

叔父は再びれいなに馬乗りになり、腕を振り下ろした。口内に鉄錆の味がした。何処か切れてしまったようだ。
ああ、もう、殺してやりたいと思った。こうやって絵里にも暴力をふるって自分の欲望をぶつけたんだろうな。
なあ、殺して良い?良いっちゃろ?

れいなはほぼ無意識のうちに、右ポケットに手を入れた。



―――やめてっ!


そのとき、声が聞こえた気がした。れいなの頭の中に、彼女の声がハッキリと聞こえた。

れいなは右ポケットから手を出す。はあと息を吐くと、その態度が癪だったのか、叔父は再び拳を振り上げた。
3発目を入れられそうになったとき、れいなは左ポケットの中からボイスレコーダーを取り出した。

「あなたの暴行現場とその音声、しっかり録音させていただきました」

叔父は愕然とした表情でその黒いレコーダーとれいなを見る。振り上げた拳が行き場をなくし震えていた。

「絵里に対する性的暴行、及び私に対する暴行を警察に通報されたくなかったら、明日までに保険金を返して下さい」
「貴様…脅迫か!」
「脅迫?勘違いせんでくださいよ、先に人間として最低の行動をとったのはだれかということを」

れいながはっきりそう言いきると、叔父が行き場をなくした拳で壁を叩いた。
れいなは荒々しく上半身を起こし、再び埃を払った。
お気に入りのスーツでもなかったが、それでも汚れるのは不快だった。
れいなは先ほど渡しかけた名刺の裏に銀行の口座番号をかき、床に置いた。

「明日まで待ちますので、お忘れなく」

そしてれいなは、半ば自棄になっている叔父を尻目に、荷物を持って1階へと降りて行った。
その途中で叔母であろう女性と会ったが、彼女はれいなの頬を見て何事かと血相を変えた。
れいなは「なんでもないですよ」と返し、そして「上にある荷物を持ってくるのを手伝っていただけますか?」と付け加えた。


れいなは3つの段ボールを車に詰め込み、玄関先に立つ叔母に挨拶をした。
叔母は最後まで心配そうな顔をこちらに向けていたが、れいなは大丈夫だと返し、車に乗り込んだ。
車を発進させ、ルームミラーで確認すると、叔母はずっとこちらを見つめていた。
まさか彼女がDVでも受けていなければ良いなと思うがそこまで心配したところで、れいなは彼女を助ける力も、義理もなかった。
ハンドルを切り、完全に家が視界から消えたところでれいなはブレーキを踏み、車を止めた。一応、ハザードを出しておく。
ミラーで確認すると、ものの見事に左頬は赤く腫れあがっている。口を開けると、そこは血だらけだった。
うんざりするが、代償としては安いものだと考え直した。
もう一度車を発進させようとハンドルを握り直したところで、先ほど、自分で発した言葉が頭をよぎった。


―――精液が検出されました


―――着床していないと良いですね、だれかさんの精子が


れいなは胃から逆流してくるなにかを感じた。
慌ててシートベルトを外し、外に出る。
我慢できなくなり、近くの水路に嘔吐した。
朝からなにも口にしていないせいか、嘔吐されたものは胃液だった。
胃が捩じ切れそうだった。ギリギリと痛むそれがれいなを苦しめた。
精液のことも、歯形のことも、月経のことも嘘だった。
絵里を拾ったあの日、絵里は一刻も早く叔父の痕跡を消そうと、自分の膣に指とタオルを突っ込んでそこをなんども洗った。
すべてを掻爬しようとするその姿が痛々しく、れいなは無力だと痛感した。
警察にも通報していないし、今後もする予定はない。
どのような状況で、どんなことを強要されたかなど、もう一度話す必要はない。絵里もそんなことは望んでいない。
月経は実際のところどうかわからないが、もし妊娠の可能性があるのなら、れいなは堕胎させようと考えていた。
絵里がどうしても生みたいというのなら話は別だが、れいなはそんな絵里の子どもを愛せる自信は、なかった。

嘘にせよ誠にせよ、絵里の味わった苦しみを切り札として使うことは気が引けた。
しかもよりによって、最も触れてはいけない部分を、である。
セックスとは、あんなにも汚らわしいものだっただろうか?とれいなは考えた。
れいな自身、なんどか人と肌を重ね合わせたことはある。数は少ないものの、自分でするときもある。
だが、それは快楽を伴うもので、多少の痛みはあるが、汚らわしいものではなかったはずだ。
それなのに、いま、絵里のことを思い出し、絵里の叔父のした行為を考えると、再び吐き気が襲ってきた。
それは、セックス云々というよりも、強姦が問題なのだろうとは分かっている。
だが、それでもその根底にある性行為それ自体を、れいなは空しく感じた。
再び胃液が逆流してきた。れいなは涙を流しながらそれを吐きだし、運転席へと戻った。
あんな男に抱かれたことが絵里を一生苦しめるというのなら、れいなはあいつを殺しても良いと思った。
真っ黒で純粋な殺意がれいなの心に浮かんでいた。
必死に殺さないよう、手を上げないように我慢したが、あんな屑野郎は、この世には必要ないと思った。


―――やめてっ!


あのとき、絵里の泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。
それは彼女があの日襲われたときのものだったのだろうか。
それとも、殺意に満ちたれいなを止めようとした声だったのだろうか。
れいなはハンドルに頭を押し付けた。右ポケットに入っていたのは、護身用のナイフ。
使わなくて良かったのか、もしくは使うべきだったのか―――。
一瞬だけ聞こえた絵里の声をかき消そうと頭を振った。
逆流しそうになる胃液を必死に抑え込む。泣きそうになるが、堪えるしかない。

「……いま、帰るけんな」

れいなは、だれにかは分からないがそっと呟き、アクセルを踏み込んだ。
車はゆっくりと発進し、住宅街を抜けていく。空には灰色の雲がどっしりと居座っていた。





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