れいなが新居に引っ越して1週間が経とうとしていた。
れいなは色々と物件を巡り、大家や不動産業の人間と話し合いを重ねた結果、ひとつの物件に決めた。
絵里とれいなのふたりで住むには充分の広さがあり、家賃も都内にしては比較的良心的であった。
最後の決め手は、大家が絵里の事情を快く受け入れてくれたことであったが、とにかくれいなは此処に引っ越すことを決めた。

「そっかぁ、引っ越ししたんだ」

助手席の絵里の言葉にれいなは「うん」と返し、ハンドルを切った。
絵里は今日、「一時帰宅」をすることになっていた。
いずれは盲学校に通わないで済むように、徐々に日常生活に慣れていくことが目的だった。
明日にはまた盲学校へ戻るのだが、1日だけでも学校から離れた生活を送るのは、絵里にとっても楽しみだった。

素人のれいなから見ても、絵里の成長は著しかった。
盲学校内は基本的に自由に行き来できるようになったし、トイレや風呂に行くにも、ぎこちないながらもひとりで出来るようになっていた。
いずれはひとり立ちするっちゃろうか、なんて感傷的になったが、れいなは首を振って考えを消し、絵里を車に乗せた。


閑静な住宅街を走らせていると、れいなの携帯電話が鳴った。
この着信音は事務所スタッフからであったため、れいなは思わず舌打ちをしそうになった。
今日は休みの予定なのにいったいなんの用だろうと思うが、とにかくゆっくりと車を路肩に寄せた。

「ごめん絵里。ちょい電話やけん」
「うん。だいじょーぶ」

助手席の絵里はニコッとした笑顔をれいなに返した。
れいなはそれを確認すると、電話に出た。

「はい、田中です」
「あーごめんな。いま、大丈夫か?」

果たして相手はいつものスタッフだった。
毎度毎度、彼からの電話で良かったことなど一度もないのだが、れいなはため息を殺して「大丈夫ですよ」と呟いた。

「来週の仕事の打ち合わせ、いまからできないか?先方が明日は厳しいそうなんだ」

れいなはその言葉を聞くや否や手帳を取り出してスケジュールを確認した。
来週、れいなはあるモデルの撮影の仕事があり、明日その打ち合わせをすることになっていた。
どうもそれを今日に回してほしいという通達のようだ。
往々にして、この業界ではモデルや女優のスケジュールが優先され、カメラマンの予定は無視される傾向にある。
そういった見えない権力構図がれいなは嫌いだったが、それこそ「大人の事情」と了解しているので、半ば無意識に「大丈夫ですよ」と返した。

「じゃあ、いまから事務所に来てくれ。先方にも伝えておくから」

そうして電話が切れて、れいなはうんざりした。
表舞台に立つ人間のスケジュールは優先されるが、裏方の人間はこういう役回りになることはこの業界の常だった。
たとえば、れいなの友人には「写譜」という仕事をしている人間がいる。
「写譜」とは、簡単に言えば、ある曲をオーケストラ用にアレンジする際に、
バイオリン用、ピアノ用、トランペット用、ホルン用、とそれぞれの楽器ごとに譜面をつくっていく仕事であった。
だが、その譜面を使うオーケストラや指揮者、ドラマのプロデューサーなどの意志が最優先され、仕事が右往左往することはざらにあった。
華やかな仕事の裏で働く人間たちの努力なんていうものは、見えないからこそ雑に扱われることが多い。
それは別にいまに始まったことではないし、仕方のないこととは理解しているが、いい加減にこのシステムはどうにかならないかとれいなは思う。

「お仕事?」

絵里の声にれいなは我に返った。
仕事のことををいまさら嘆いても仕方ない。
この仕事を選んだのは自分の意志だし、れいなはれいなの撮りたいものを撮れるのだから、文句は言えない。
れいなは微笑し「大丈夫っちゃよ」と返そうとして愕然とした。

ついいつもの癖で、スタッフに「いまから行く」なんて返したが、今日は絵里がいる。
打ち合わせはものの30分足らずで終わるだろうが、その間、絵里を新居に待たせっぱなしにするのもどうだろう。
そもそも、いまから新居に行くより、仕事場に向かわなくては打ち合わせに遅れる可能性もある。
れいなは安請け合いしてしまった自分を責めたが、悩んでいる暇もなかった。
「あー」と頭をかきながら、れいなは仕方なしにアクセルを踏み込んだ。こうなれば事務所に連れていこうとれいなは絵里に話し始めた。

予想通り、打ち合わせはスムーズに進んだ。
撮影場所とカット数、そしてギャラの交渉と特別難しいものではなく、互いに話も分かる人間だったからか、揉めることはほとんどなかった。
れいなは先方に頭を下げて事務所に戻ると、そこにはお茶を飲んでくつろいでいる絵里と、事務所の「お偉いさん」に分類されるスタッフがいた。

「お、田中おつかれー」

事務所のお偉いさん、寺田はニコッと笑ってれいなに手を振った。
彼は常に笑っている印象があるが、腹の中ではなにを考えているかがイマイチ掴めない。
それでも、弱小事務所であった此処を、地道にではあるが大きくしていったのは間違いなく彼の手腕であり、
いくつかの仕事をコンスタントにこなせるようになったのも、寺田の力があってこそだった。
経営力は間違いなく高い人物ではあるのだが、いかんせん、れいなにはこの寺田の本性は掴めそうになかった。

「この子可愛いなぁ。田中のとこで居候してるんやっけ?」

寺田の言葉にれいなはドキッとするが、いまさら隠す必要もないかと頷いた。
彼は決して悪い人ではないし、わざわざ絵里の経歴を問いただすような人物ではないことは分かっていた。

「どや、撮影してみたら?」

だが、その言葉にれいなは思わず「は?!」と声を出した。

「なんやお前、撮りたいって言いよったやん」

相変わらずニコニコしながら話す寺田にれいなは慌てた。
思わず足早に歩み寄って、寺田を部屋の片隅に連れていく。
絵里はきょとんとしたまま湯呑を握ってぼんやりとれいなを見つめた。

「どーゆーことですか、急に」

れいなが小声で寺田に聞くと、彼はおや?という顔で返した。

「丁度スタジオ空いてるし、撮ってもかめへんよ」
「そういう話やなくて…」
「見たら分かるって。お前、あの子メッチャ撮りたいんちゃうんか?」

寺田の言葉にれいなは押し黙る。
どうして自分の心が見透かされているのか、そんなことを口にした覚えもないのにと思うが、いまその疑問を言っても仕方がない。
この人は確かな経営者であり、人格者でもあると自覚する。
さすが3年で事務所を立て直しただけのことはあるなとれいなは今さら感心した。

「ま、仕事やないんやし、気楽にやれや」

そうして寺田はれいなの肩を叩くと、軽く笑いながら事務所を出ていった。
残されたれいなは右手で眉間を押さえながら、どうしたものかと悩み始めた。
絵里はというと、相変わらず優しい顔をしてお茶を飲んでいる。
れいなは「はぁ」とため息をつき、車に置き去りにしているカメラを撮ってくることを決意した。
果たして絵里は同意してくれるだろうかとはたはた疑問に思ったが、
そんなことよりも、目の前の絵里を撮りたいという気持ちが前面に出てしまったことを、れいなは後悔しなかった。

れいなの突然の申し出に、絵里は動揺した。
真っ直ぐな言葉は確かに絵里に届く。しかし、その言葉が「絵里を撮りたい」というものであったから、絵里は揺れていた。
自分が生きてきてモデルになるなんて思ってもみなかったし、そのカメラマンがれいなになるなんてそれこそ想像もしていなかった。
断ることも確かにできたはずだった。こんな突然の申し出、嫌だと一言返せば良かった話なのだが、絵里はれいなのその言葉に頷いてしまった。
それは、れいなの言葉があまりにも純粋であったからだった。

言葉とは不思議なものだ。
たとえば、「逢いたい」というひと言でさえ、だれがどういう意図で発するかによって、その重みはいかようにも変化する。
言葉の力は発する人の想いによって変化するということを、絵里は実体験で理解した。
「撮りたい」というれいなの言葉はあまりにも純粋で真剣であったから、絵里は断ることはできなかった。

そして絵里は、れいなの申し出を受け、いま、スタジオに入り、れいなから化粧をされていた。
光を失ってから自分でメイクする機会はなかったので、実に1年ぶりの化粧になった。
人からされることなど慣れていなかったので、絵里はくすぐったい思いをしたが、それをこらえた。

「……綺麗っちゃよ、絵里」

そのれいなの言葉に絵里はドキッとした。
化粧を終えた絵里は、確かに綺麗だった。れいなと同じ、歳相応の女性がそこに居る。
女性は化粧の仕方でいかようにも変化するとよく言ったものだが、それをれいなは実感した。
絵里はすっぴんでも確かに可愛いのだが、化粧をほんの少ししただけで、こんなにも「女性」になった。

逸る気持ちを押さえながら、れいなは絵里の髪にアイロンをかけ始めた。
茶色がかった絵里の髪を巻いていくと、余計に絵里は大人びていった。
おいおい、こんなの反則やろと思わず口をついてしまいそうだったが、必死に理性を動員して、れいなは絵里にアイロンをかける。

「終わりっちゃん…」

れいなはそう言うと、思わず震えた。
それは、さゆみの裸体を見たときと同じ、いやそれ以上の感情が浮かび上がっていた。
完璧とか、奇蹟とか、そんな言葉すらも陳腐に思わせるものが絵里にはあった。
どうしてだろう、それは、れいなが絵里のことを好きだからだろうか?

「れーな……」
「ん?」
「絵里、綺麗?」

絵里は恐る恐るれいなに聞いた。
その言葉は、なんだろう、何処にでもあるようで、いままで聞いたこともないような力を持っていた。
たぶんそれは、紛れもない絵里が発するからの意味だったのだろうなとれいなは理解する。

「バリ、綺麗よ…」

その言葉に意味があるとかないとか、むしろ言うことが傷つけるのではないかとか、れいなは瞬時に考えたが、それでもれいなは彼女に渡した。
心の底に確かに存在したこの想いを、れいなは迷うことなく絵里に渡すと、絵里は嬉しそうに、だけど哀しそうに笑った。

れいなはひとつ頷くと、絵里をそっと立たせてスタジオの中心へと歩かせた。

ふたりっきりのスタジオは静寂で守られ、いつそれを破るかれいなは悩んだ。
だが、悩んだ瞬間に絵里を見つめると、そんな心の痛みはまるで陳腐な存在にしかならなかった。
明るいスポットライトを浴びて遠くを見つめる絵里は、間違いなく何処にもいないただひとりの女性だった。
れいなは無意識のうちにカメラを構え、ファインダーをのぞきこんだ。
それはあの日、川の流れる森の奥で見つけた絵里そのものだった。
れいなは「撮るけん」とひと言呟くと、震える人差し指でシャッターを切った。

切り取られていく絵里は、とても、とても綺麗だった。
歳相応の女の子、そうでありながら、絵里の携えている憂いが、彼女を「女性」にさせていった。
哀しみとか切なさとか、そういった負の感情が絵里に取り巻き、絵里をひとりのモデルにしていった。

確かに絵里は綺麗だった。
だが、撮りたいのはこんな絵里じゃない。こんな表情の絵里を撮りたいわけじゃない。
れいなはシャッターを切るのをやめ、絵里に近づいた。
絵里に触れると、絵里はビクッと反応したが、れいなは構わずに絵里の手を引く。

「ちょっと、椅子に座ってくれん?」
「……ここ?」
「うん」

れいなの申し出を絵里は素直に受け、その場に在った椅子に腰かける。

「ちょっと視線……顔上げて」

れいなの言葉に絵里は頷いて顔を少し上げた。できれば「遠くを見て」と言いたかったが、それはさすがに酷だろうとれいなはやめた。
顔を上げた絵里をれいなは少しずつ切り取って行くが、それでもれいなはいまひとつ腑に落ちなかった。
れいなは絵里の手をそっと取って、別の場所へと誘導した。
絵里は怖がりながらもれいなについて行く。

「ここベッドやけん、ゆっくり腰掛けて」

れいなの説明に絵里は頷き、ゆっくりと座る。
軽くスプリングがギシッと鳴った瞬間、絵里はあのときの記憶が一気によみがえった。
樽の栓が抜けたように、記憶という名のワインが急に流れ込んでくるが、絵里はそれを止める術を知らない。
れいなは絵里の正面に回り込み、カメラを構えた。
絵里は記憶に縛られて徐々に震え出すが、れいなは彼女の変化に気づかない。

「絵里、顔、上げてくれん?」

れいなの言葉は絵里には届かなかった。
絵里は溢れた記憶の波に溺れかけていた。
自分を守るように両腕をぎゅうと握り締めるが、それでも震えが止まらない。

あのとき、叔父に与えられた痛み。
どんなに嫌だと叫んでも聞かず、自分の欲望をぶち込まれ、ただ獣のような声を上げた叔父と、それに応えてしまった自分自身。
痛みは記憶にすり替わり、絵里の心の奥底に刻まれて消えることのない烙印を押した。
たったひとつ、知らないベッドのスプリングの音が、絵里を記憶の迷路に迷い込ませた。

「…絵里?」

絵里の様子に気づいたれいなは、カメラから顔をを外し、彼女の震える肩に触れた。
その瞬間だった。


―――絵里ちゃん


―――ああ、すごくいいよ。気持ちいいよ


あの男の声が聞こえた。
厭らしく、全身を舐めまわすような汚らしい叔父の声が絵里に甦り、絵里は思わずベッドに伏せた。

「いやぁぁぁっ!!」

絵里は大声を上げ、ベッドの上で体を丸め、まるで子どものように震え出した。
彼女の突然の変化にれいなは驚愕したが、どうすることもできなかった。
れいなはカメラを床に置き、「どうしたと?」と絵里に触れようとしたが、その瞬間に、絵里はビクッと体を震わせ、自分を守るように強く抱きしめた。

「絵里……」
「やめて…お願い……いや…!」

震える絵里の声にれいなは愕然とした。
なにが、どうして、どうしてこうなったのかなど、分からない。
ただ、れいなはいま、最低のことをしたのだとようやく気づいた。


違う、こんなことをさせたかったんじゃない。
こんなに震えて泣く絵里を見たかったんじゃない。

あの森の奥で見たような、神秘的で美しい笑顔を引きだしたかったのに、どうして自分はこんな事をしているのだろう。


違う、違う、違う、違う、違う!


れなは、れなはこんなことを望んだんじゃない!!


そう思っても、過去の記憶に囚われて震える絵里を、れいなは抱きしめることすらできなかった。
れいなはカメラを置き、ただ呆然と絵里を見つめること以外、成す術はなかった。








第12話へ...
 

ノノ*^ー^) 検索

メンバーのみ編集できます