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「タバコ、吸ってたっけ?」

上から聞こえてきた声に、愛佳はふっと顔を上げた。
そこにいたのは、同僚の教師であり、片手には珈琲カップを携えている。
愛佳はそれを受け取ると、「違いますよ」と返した。

「体育館裏で吸ってた生徒がいたんで、預かったんですよ」
「あー……それって、あいつら?」

彼の言葉に愛佳は頷く。
受け取った珈琲は随分熱く、舌を火傷してしまいそうだった。

「気をつけろよ、あいつら、市議会議員のバカ息子たちだろ?」
「あー……ま、ある程度は覚悟してますけど」
「ったく、見ない振りすりゃ良いのに、真面目だからねえ、光井先生は」

そうしてからかうように言う彼に愛佳は肩を竦める。
彼のように飄々とした性格の方が、社会的にも長生きできるんだろうなと思った。
彼は思いついたように「あっ」と言うと、愛佳の耳元で囁いた。

「関係ないかもしれないけど、噂になってるよ」
「…なにがです?」
「お前と、カメちゃんが付き合ってるんじゃないかって」

思わず珈琲を噴き出しそうになるのを堪えた。
噂に?僕と亀井さんが?え、なんで?

「まー、まだ小さい噂だし、放っとけば良いと思うけど……とにかくカメちゃん泣かすなよ」
「…どういう意味ですか?」
「付き合ってるんだろ?」
「なんの話ですか」

そういうと、同僚は肩を竦め、珈琲に口をつけた。
春の風に揺れる茶色の髪が、一瞬だけ絵里と重なって綺麗だなと思った。

「とりあえず、気をつけなよ」

同僚がそうして去ってからも、愛佳の心は落ち着かなかった。
彼が絵里と自分との関係に薄々感づいていることは愛佳も知っている。
彼とは付き合いはまだ短いが、愛佳は信頼を置いている。
だからこそ、感づきながらもその「噂」を教えてくれたのだろう。
だが、この「噂」がどれほどのものかを、愛佳はまだ知らない。
もし仮に、火種が大きくなればなんらかの布石を打つ必要がある。
それにしたって、なぜその「噂」が広まったのだろう?
確かに週末、絵里が愛佳の家に泊まりに来ることはよくあったが、それは毎週ではないし、学校でも仲良く話すのは控えている。
まさか、だれかに見られたのだろうか?それとも本当にただの「噂」なのだろうか…?

愛佳はぐしゃりと前髪をかきあげた。窓から春の木漏れ日が射し込んでくる。
どうしてこんなにも穏やかな日なのに、心はかき乱されるのだろうと、ぼんやりと冷めた珈琲を見つめていた。


その2日後、噂はさらに拡大し、校内中に知れ渡ることになった。
平凡な日常生活を送る高校生にとって、生徒と教師の禁断の恋という話は、格好の退屈凌ぎになる。
日常を消費する退屈凌ぎとして、自分たちの話が勝手に使われて堪ったものではなかった。
だが、下手に否定して騒ぎを大きくするよりも、興味を失って自然と話が立ち消えるのを待つ方が得策だった。
噂が立って以降、絵里とこの話をしたことはないが、彼女もなんとなく分かっているのか、表立って愛佳と必要以上に話したりすることはなかった。

―このまま、終わってくれるといいんですけど……

愛佳はそうぼんやり思いながら珈琲を注いだ。
図書室から眺める空は青く、そして高い。愛佳たちの悩みなんか知ったこっちゃないと言わんばかりに晴れ上がった空が、憎かった。
愛佳は書類を作成しながら、冷静に、今後取るべき策を考え始めた。

このまま噂が収束してくれることがベストだが、もしそうならなかった場合は問題だ。
これ以上に噂が拡大し、職員会議が開かれることにでもなった場合、どう対応するのが正しいだろう。
確かに、最初から分かっていたことだった。
いずれはやってくる、選択の瞬間。
自分の教師という職を取るか、亀井絵里を取るか。
その瞬間は、もう待ってはくれない。

愛佳はある程度、覚悟はしていた。
もし本当に、その瞬間がやってきたならば、愛佳は迷わず絵里を取るつもりだった。
教師という職を捨てる覚悟はある。絵里をシアワセにしたいという気持ちもある。
だが、ひとつだけ気にかかっていることがあった。
それは、職員会議が開かれたとき、愛佳と絵里が付き合っていることを認めた場合、“処分を受けるのは果たして愛佳だけだろうか”ということだ。


亀井絵里の立場。
彼女はまだ、17歳の高校2年生だ。
考えられ得る、ふたりに下される処分は、多分に、甘くない。
最悪、愛佳はこの学校を追われ、職を失う。それは覚悟の上だが、絵里に下される処分は?

愛佳の頭の中に、「退学」という二文字がよぎる。

まだ先のある、未来のある彼女。
長い人生の中で、挫折や失敗はなんども繰り返される。
だが、まだこれからという彼女を、いちどレールから脱線させることが得策だとはどうしても思えない。
退学の原因がしかも、教師との恋愛沙汰なんて、彼女の人生にマイナスを及ぼす以外にあり得ない。
大学に進学するにも、企業に就職するにも、「高校中退」というレッテルは重く圧し掛かる。
愛佳の人生ならまだしも、彼女の人生を狂わせて良い理由なんて、なかった。


―――背負えへんのか?


瞬間、頭の中で声が聞こえた。
それは紛れもなく、自分自身のものだった。
そうだ、彼女とともに未来を歩もうとすることは、彼女自身も、彼女のこれから先の未来までも護ろうとすることだった。
亀井絵里のシアワセ、亀井絵里の人生、果たして僕は、背負うことが出来るのか?


「せーんせっ」

瞬間、外から声が聞こえ、愛佳はハッと顔を上げる。
図書室のカウンターの前で、絵里はニコッと微笑みながら1冊の本を携えていた。
愛佳は苦笑しながら立ち上がり、カウンターへと歩く。

「貸出ですか?」
「はい。お願いします」

絵里からその本を受け取り、バーコードで読み取っていく。
返却期限の書かれた栞を挟み、「来週の水曜までですよ」と絵里に渡した。

「うん。ありがとうございます」

絵里は本を大事そうに抱えると、くるりと踵を返し、図書室を後にした。
本当は、その背中になにか声をかけるべきだったのかもしれない。
渦中の人物であることを自覚しながらも、彼女は今日、此処へやって来た。
その意味が、愛佳にも分からないわけではない。
だが、その優しそうな背中に、愛佳はなにも言ってやれなかった。
たったのひと言、「だいじょうぶですよ」も「護りますから」も「好きですよ」も、なにも言うことが出来なかった。

意味なんてなくて良かった。
ただ少しだけ、彼女と話せれば良かった。
そんなこと、愛佳にだって分かっていたはずなのに、それでも彼は、絵里を追いかけることは、出来なかった。


「なんや…コレ……」

週末の金曜日の朝、愛佳は呆然と中央掲示板の前に立ち竦んだ。
そこには、絵里と愛佳がラブホテルから出てくる写真やそのコピーが一面に何枚も貼りつけられていた。
中央掲示板を埋め尽くす勢いで張られたその枚数は、実に100枚はくだらない。
その写真の上には、「辞めちまえ!淫乱教師!」と汚い文字が書かれている。しかも「淫」の字は間違っている。

「光井、なにしてんだよ!」

衝撃的な光景に言葉を失い、立ち尽くしていた愛佳は、同僚のその声にようやく我に返る。
慌ててその写真やコピーを剥がし始める。無数の押しピンが床に散らばり、紙は無残に破られていく。

「ほら、教室に帰れ!早く!」

生徒指導部長や教務主任の声が廊下に響く。
それでも野次馬の生徒たちは帰ろうとせずに、写真を剥がす教師たちを遠目に見ている。
その視線は真っ直ぐに、愛佳の背中に突き刺さる。愛佳は写真を剥がしながら、その視線を静かに受け止める。
覚悟はしていた。だが、言われなき中傷を受けることは、精神的に参る部分があるなと冷静に分析する。

そのとき、生徒たちの間でざわめきが起きた。
愛佳はまさかと思い振り返ると、そこには、渦中の人物である絵里が黙って立っていた。
絵里はなにも言わずに足早にその場を立ち去ると、ざわめきはひと際大きくなる。何人かの絵里の友だちがその背中を追いかけた。
愛佳は掲示板に拳を突き立てたい想いがあったが、必死にそれを堪え、写真を剥がす作業に戻る。

「合成だよな、どう見たって」

怒りに震えながら写真を剥がしていると、同僚はポツリと呟いた。
思わず顔をそちらに向けると、同僚は目を合わせることなく作業を続けた。

「こんなもん、見りゃ一発で分かるっつーの」

そうして同僚は黙々と作業を続ける。
愛佳もなにも返すことなく作業に戻った。
そう、この写真は合成だった。愛佳も絵里も、わざわざラブホテルまで行くことは一度もしなかった。
だが、合成にせよなんにせよ、こうして写真が出回った以上、もう、職員会議は避けられないなと、愛佳は覚悟した。


愛佳は家に帰った途端、ベッドへ飛び込んだ。
ガシガシと頭を掻き毟り、なんどか寝返りを打つ。
今朝の一件以降、状況は最悪だった。
今日担当だった授業は4クラスだが、どのクラスでも好奇の視線を浴びた。
その中に絵里のクラスがなかったことは不幸中の幸いとも言えた。
だが放課後、愛佳は遂に教務主任から呼び出しを受けた。

「なぜ呼ばれたかは、もうお分かりですよね?」
「…写真の件でしたら、調べてもらえば分かります。あれは合成です」
「それで済まされるとお思いですか?」

教務主任の言葉に愛佳は片眉を上げた。
やはり、それで通してくれるほど甘くはないかと、愛佳は次の言葉を待つ。

「こういう写真が出回ること自体が、問題なんですよ」
「仰る意味が、よく分かりませんが…」
「あなたも、あの噂はご存じでしょう?」

返す言葉は、ない。
噂は沈静化するどころか、脅威をもって校内中を駆け回る。
格好の退屈凌ぎは、留まることを知らず、人から人へと感染していった。下手なウイルスよりも、たちが悪い。

「近々、教育委員会の視察も入るかもしれません。
 ですので、来週の月曜、私と生徒指導部長、教頭と、そして校長とあなたで会議を開きますので御予定を空けておいて下さい」

なるほど。教育委員会の出てくる前に決着をつけるということかと、愛佳は素直に頷く。
会議という名の吊るし上げになることは分かっていた。
だが、逃げることは許されない。その日までに対策を練る必要があった。
最初に噂を流した生徒、そして今回の合成写真騒動の犯人の目星は大方ついていた。
同僚の話や、授業を行った中で、あの市議会議員の息子たちが何らかの形でかかわっていることを愛佳は気付いた。
体育館裏でタバコを没収して以来、噂話は拡大し、捏造写真がばらまかれた。
ターゲットは絵里ではなく愛佳1人、写真に書かれた筆跡などを鑑みても、それは疑いようはなかった。

だが、それを知ったところで現状の打開策にはならない。
犯人捜しをしたところで、教務主任の言うように、問題の根本解決にはならない。
やはり、これから愛佳が絵里とどうしていくか、選択の瞬間が来たということだった。

背負いたかった。
彼女の人生も、これからの未来も、シアワセも。すべてを背負って生きていきたかった。
だが、本当に背負えるのか?ともうひとりの自分が囁く。
護ることはそう容易くはない。言われなき中傷を、彼女はいまも受け続けている。
そんな彼女を、果たして本当に、護りきれるのか?若造の、歴史教諭ごときの自分が―――


瞬間、携帯電話が鳴り響いた。
愛佳はビクッと肩を竦め、手に取ると、表示された相手は、母親だった。
滅多に電話をしない相手だが、なんの用だろうと愛佳は「通話」ボタンを押した。

「はい。………え?」

それはまさに青天の霹靂だった。
愛佳は思わずコートと財布と定期入れ、そしてカバンを手に取り、家を飛び出した。



父親の枕元に、愛佳は正座をした。

「なんだ、帰ってたのか」
「帰ってくるよ、そりゃ」

久しぶりに見た父親の姿は、随分小さくなっていた気がした。

「母さんには、心配するから黙っとけって言ったんやけどな」

父親が倒れたという震える電話口の母の声を、愛佳はなんども頭の中で反芻した。
確かに父もさほど若い歳ではないが、倒れるほどの重病を背負っていたのだろうかと夜の新幹線の中で考えた。
結局、父親が倒れた原因は、過労とストレスによる一過性のものだったが、久しぶりに会う父親に、愛佳の胸は締め付けられる。

一人息子の自分を、両親は大切に育て、大学まで送り出し、教師という職に就けさせてくれた。
家業である寺の住職を継ぐことも一度は考えたが、そのとき父親は「お前の人生だから」と賛成も反対もしなかった。
結果、愛佳は両親を残し、単身で上京し、就職した。

「働きすぎなんやろ、父さんも歳やしムリせんといてや」
「バカにするな。まだ現役やぞ」

愛佳はそうして笑う父親に苦笑し、台所で自分の夜食を作ってくれている母親の背中を見た。
ああ、いつの間に母さんも、あんなに背中が小さくなったんやろとボンヤリと思う。
愛佳は太股の上で拳をぎゅっと握りしめて考えた。
もし、自分がこのまま、絵里と付き合っていることを認めてしまえば、間違いなく、辞職に追い込まれる。
仮に教師という職を失わず、学校を追われるだけで終わったとしても、別の高校の採用試験を受ける必要がある。
だが、国語や数学、英語などとは違い、地歴公民の資格を持った教諭の採用数は極端に少ない。
地方ほどではないが、果たして次の就職先を見つけるまで、何年かかる?その何年の間、だれが両親を支える?


「できたよー、ご飯」

母親の声で愛佳はふと我に返る。
いくつかの皿が並べられているのを認めると、愛佳は眉を下げて笑い、立ち上がった。

「なあ、愛佳」
「うん?」

台所へ向かおうとしたとき、父親に声をかけられ、愛佳は振り向く。
父親は真っ直ぐに愛佳を捉えていた。その瞳は、昔から苦手だった。
嘘を見抜くことに関しては、父親の右に出る者はいない。

「俺や母さんのことやったら気にすんなよ。父さんたちやって、お前の世話になるほど、落ちぶれとらんよ」

言葉は真っ直ぐに胸に突き刺さる。父親のその真意も、見える。
それが分かっていたからこそ、愛佳は大袈裟に肩を竦めてみせた。

「……倒れた人間がなに言うてるんや。はよ寝りぃよ」

そうして愛佳は父親の部屋を後にした。
たぶん、自分の瞳が揺れていることに、あの人はもう気付いているんだろうなと愛佳は思う。
相変わらず、あの人には嘘は通用しないなと、夜食の味噌汁を啜った。

「…ちょっと薄ない?」

塩気の少ない味噌汁に苦言を呈すと、母親は「そう?」と笑った。
近くで母を見ると、その髪には白髪も目立ち、寝不足な様子も伝わってくる。
余裕なんてないことくらい、もうずっと、分かっていた。
愛佳は黙々と箸を進めた。久しぶりに食べる手料理は、質素な割に、温かかった。

決断の時は、刻一刻と迫っていた―――



日曜日の朝、新幹線で戻った愛佳は、シャワーを浴びたあと、真っ直ぐに学校へと向かった。
仕事があるわけではないが、学校へ行く用事はあった。
職員室へ向かわずに図書室へと向かい、専用の鍵で扉を開ける。「閉館」のプレートは、かけたままにしておいた。
珈琲メーカーのスイッチを入れ、窓を開けると、春の光と風が柔らかく入り込んできた。
つんと鼻の先が痛くなり、思わずガシガシと頭を掻き毟る。
自分で決めたこと、自分で決めた道。だれも責めることは出来ない、すべては自分の責任。
なんどもなんどもそう言い聞かせ、時計を見る。

昨夜、愛佳は絵里に「話がある」とだけメールを入れた。
すぐに返信があり、日曜日の今日、午後2時に図書室に行くと連絡があり、愛佳もそれを受け入れた。
現在時刻は、午後1時45分。約束の時間まで残り15分だが、のんびり屋で優柔不断の彼女が、時間通りに来るとは思えない。
寧ろ、来てほしくないと思っているのかもしれない。
この期に及んでまで、悪あがきをするその様は、無様という以外にないなと思う。

愛佳は溜息を吐き、書庫の鍵を開けた。
すべては、此処から始まったんやっけと奥の方へと歩いていく。
古い本特融の香りが鼻を衝く。喘息持ちの人間は絶対に入ってはいけないほどの埃が舞う。
それでもやはり、愛佳は此処が好きだった。
本好きだからかだろうか、喧騒がなく静かだからだろうか、それとも、絵里との想い出が刻まれた場所だからだろうか。


そのとき、扉を開ける音がした。
時計を見ると、13時55分。まさか指定の時間より早く来るとはと思いながら、愛佳は書庫をあとにした。

「こんにちは、先生」

休日とあって、いつもとは違う私服の彼女の姿に、愛佳は思わず胸が高鳴る。
此処に来てまで決心が鈍ってはいけないと必死に別のことに思考を転換させるが、鼓動は変わることなく、耳に残る。

「これ、返却で」
「読み終わったんですか」
「うん。今週は、暇だったから」

彼女の言葉に愛佳はなにも言わず、黙って頷きバーコードを読み取る。
未返却リストなしとパソコンに表示されたのを確認すると、愛佳はひとつ息を吐く。

「すみません、休みの日なのに」
「ううん。どうせ本返したかったし、だいじょうぶですよ」

絵里はそうして優しく微笑み、図書室の奥へと歩く。新しい本を選びたいのか、本棚を指先でなぞっていった。
どうしてこんなことになったのだろうと愛佳は天井を仰いだ。
過去を修正すれば、こんな想いをする必要はなかったのだろうか、僕も、彼女も。
どうすることが、正しかったのだろう。
あの告白を受け入れなければ良かったのだろうか。あの日、彼女を抱かなければ良かったのだろうか。
両親の勧めるように、見合いでもして、恋人でもつくっておけば良かったのだろうか。

だが、歴史にifなどない。
それと同じように、過去には戻ることもできないし、現実を、いまを生きるしかない。
あの日の選択が正しい選択でなかったとするならば、今日、いまこの瞬間、正しい選択をする必要がある。
だけど、それが「正しい」かどうかなんて、だれにも分からないのではないか?
もしかしたら、そう信じているのは自分だけで、結局は無意味な行動ではないのか?
いまなら、まだいまなら戻ることができる。嘘だったと、冗談だったと笑って済ませることができる。
あのシアワセだった時間に、戻ることができる。

瞬間、絵里の笑顔と両親の笑顔が浮かんだ。
振り向くなと、逃げるなと、先延ばしするなと、だれかが叫んだ。
その一瞬で、僕は天秤にかけてしまった―――


「亀井さん……」

図書室のいちばん奥の本棚で本を選ぶ彼女に歩み寄った。
絵里は「うん?」と振り返ったそのとき、風が吹いた。
柔らかい春の風は彼女の髪を撫で、ふわりと舞い、通り過ぎていく。
その姿が、もう、単純に、綺麗だと思った。
二の足を踏む自分を鼓舞するように、愛佳は下唇を噛み、拳を握り締める。
手の平に爪が食い込み、血が流れそうになるが、それでも愛佳は震える拳を握った。
もう、戻ることなど、赦されない。

「噂になってますね、亀井さんと、僕」
「……そう、みたいですね」

絵里は困ったように視線を落として笑う。
噂が立ってから、絵里とこうして話すのは久しぶりだったが、その間、彼女はどれほどの痛みを受けてきたのだろう。
あの写真が貼られたときに一瞬だけ見た彼女の背中は震えていた。
いまもまだ、言われなき中傷を受けているのだとしたら、もう、そんなこと、止めなければならない。

「明日、緊急の職員会議が開かれます。状況によれば、亀井さんも呼び出されるかもしれません」

用意してきた言葉の通りには出てこない。
だがそれでも、言わんとすべきことは伝えなくてはならない。
たとえばそれで、否定されるのが僕だけであったとしても―――

「別れましょうか、そろそろ」

愛佳の声は、震えていた。
それを悟られないように、愛佳は絵里の奥、狭い窓から見える青空へ視線を向けた。
こんなに心は揺れているというのに、空は相変わらず青く晴れ上がっている。まったく、皮肉なものだなと思う。

「火遊びはもう終わりですよ。僕も、職を追われるのは、ごめんですからね」

息が短くなり、吐きそうだった。
信じられないくらいに胃痛がし、おまけに頭痛も誘発している。
決めた道。自分で決めたこと。だから引き下がらない。たとえばそれが、心に反していたとしても。


「……そっか」

ぽつんと、絵里の声が聞こえた。

「うん。そうした方が良いかもしれませんね。なんか絵里たち、ヤバいことになってるし」

あっさりとした絵里の言葉に愛佳は拍子抜けした。
そう、これで良かったんや。亀井さんやって、そういう結末を望んでいたんや。
ふたりで一緒に歩こうとした未来なんて、最初から存在せんかったんやって。
愛佳は天井を仰ぎ、ひとつ息を吐いたあと、名を呼ぼうとして、ふと絵里を見た。


だが、名を呼ぶことは叶わなかった。


絵里は確かに、微笑んでいた。
真っ直ぐに愛佳を見つめ、その瞳に大粒の涙を携えていながらも、優しく微笑んでいた。
なにかを堪えるかのようにスカートを握り締めている彼女の体は、微かに震えていた。

心臓が、締め付けられた。
追い込んでいることも、どれほどの勢いをもって傷つけているかも分かっている。
だが、優しくすることは出来なかった。
そうしてしまえば、どちらも未練が残り、結局はふたりとも辞職・退学に追い込まれてしまうかもしれない。
それは避けなくてはならなかった。絵里のためにも、愛佳の両親のためにも。

愛佳は彼女に背を向け、1歩、脚を進めた。
だが、すぐに立ち止まる。背中越しに伝わる彼女の痛みや想いを、踏みにじりたくなかった。
中途半端な優しさが最も残酷なことくらい、分かっている。分かっているのに、彼女を置いていけなかった。
ああ、どうして僕はこうも、弱いんやろ。
身勝手な理由で亀井さんを傷つけて、泣かせて、それでもなお、置いていけないほど信念が弱い。
突き離す勇気もなく、抱きしめる勇気もないんやったら、最初から亀井さんを抱く資格なんてなかった。
先の見えないこの恋を、身勝手に楽しんでいただけのどうしようもなくちっぽけで無力な存在やったんかオレは!

愛佳が必死にもう1歩を踏み出そうとしたときだった。
その背中に微かな重みを感じた。絵里に抱きしめられていると気づいたのは、その直後だった。
絵里は愛佳の背中に顔を受け、彼の腹部に腕を回し、ぎゅうと抱きしめた。
背中から感じる彼女の温もりは、なにものにも代えることのできない優しさだと、思った。

「信じてるから……絵里は、先生のこと…」

途切れ途切れながらも、涙で震えながらも、絵里は愛佳に言葉を渡す。
それが彼女の、精一杯の強がりでもあり、精一杯の愛情でもあった。

「絵里のためだって……全部全部、絵里のためだって……絵里は、知ってるから……」

涙が、両の瞳にぐあっと集約された。
瞬きをひとつすれば零れ落ちてしまいそうなほど、その器に溢れかえっている。
振り返って、この腕に抱きしめて、狂おしいほどに、名を呼んで、好きだと囁いて、その髪を梳いて、キスをしたかった。
だが、それのどれかひとつでさえも、赦されはしなかった。
涙を見せることも、抱きしめることも、名を呼ぶことも、キスをすることも、愛佳には赦されなかった。
すべてを、今日のこの日までにあった出来事すべてを絵里に話せば、絵里は間違いなく愛佳を庇うだろう。
それが分かっているから、愛佳はなにも言わず、ただ淡々と別れを告げた。
そんな非道で非情な男に、あなたを、亀井さんをこの腕に抱く資格はないんです。

愛佳がなにもしないでいると、絵里もなにかを分かったのか、すっとその腕を解いた。
離れていく温もりが恋しく、思わずその腕を掴みたくなるが、愛佳は必死に最後の理性でそれを堪える。
絵里は愛佳の横をすり抜けて図書室の扉へと向かう。
彼女はすっとドアノブに手をかけ、開けようとして、躊躇する。
なにか言葉を探しているようにも、これ以上泣くのを堪えているようにも、出て行きたくないようにも、見えた。

「っ……もう、明日から、絶対、言わないからさ」

絵里の小さな言葉に愛佳は耳を欹てた。
たぶん、顔を見てしまえば泣いてしまいそうだったから、視線を合わせない程度に顔を上げる。
やはり彼女の手は震えていて、それがそのまま彼女の痛みだと分かる。

「ひとつだけ、最後に、言わせて…」

最後という言葉に愛佳は初めて視線を重ねた。
瞬間、互いの間を、優しい春の風がすり抜けていった。
流れていく、ふたりで重ね合わせた日々は、何物にも代えることのできない、シアワセの風景だった。
それをいま、この手で手放そうとしている。愚かなのは、やはり僕なんやろうか?


「大好きですよ、光井先生…」


その手を取れたら、どれほど良かっただろうか。
僕もですよと言えたら、どれほど良かっただろうか。
この胸に残り、最後のその一瞬まで消えることなく存在したこの想い。
その気持ちの名を互いに知っていたのに、どちらが悪いこともなく、消してしまうことになったこの感情。
それでも、それでも愛佳はもう引き下がらない。
彼女の背負う哀しみも、彼女から向けられる痛みも、全部全部、引き受けること以外に術はない。
それが自分望んだ結末のはずだったから。

愛佳は「はい」と返そうとしたが、それすら叶わなかった。
声は喉に引っ掛かり、音として外に出ることはなく、それでも分かっていると伝えようと、必死に頷いた。
ぼたりと大粒の涙が頬を伝い床に落ちたが、それを拭くことはもうしなかった。
絵里は「ありがとうございます」と精一杯に微笑み、大きく息を吐いて、扉を開けた。
無機質な音が広がると同時に、扉が閉まる。パタパタと走り去っていく音が聞こえた。それきり、扉が開くことはなかった。

愛佳は頬の涙を拭き、ひとつ息を吐いたあと、カウンター奥の部屋へと戻った。
すっかり出来あがっていた珈琲を注ぎ口をつけたが、信じられないくらいに不味かった。
そんなところまで、亀井さんに似なくても良いでしょと笑おうとしたが、カップを持つ震える手に再び涙が落ちた。

「……アホやん、ホンマに…」

最後まで気付いていなかったのだと分かった。
絵里がどれほどの想いで愛佳を抱きしめていたのか、どんな気持ちであの日々を過ごして来たのか。
どんな想いで、あの日、絵里が愛佳に告白したのか。
勢いに任せて抱いてしまった自分よりも、彼女はずっとずっと大人だった。大人だからこそ、彼女は分かっていた。
先の見えないこの恋に、必死に活路を見出そうとしていた。ふたりで歩める未来をつくろうとしていた。
真剣に、ひとりの男と向き合っていた。

愛佳は膝から崩れ落ち、額を地につけ、拳で床を叩いた。
まるで獣のように、愛佳は吠えた。

逃げ出しのは自分だった。
両親と絵里を天秤にかけたのではなかった。自分と絵里を天秤にかけたのだった。
言い訳をつくって、逃げ道をつくって、傷ついているのは自分だけだと高を括っていた。

ただ、怖かっただけだった。
先の見えない、破滅的なこの恋が。
結局は、捨てることが出来なかった。自分の職も、名誉も、プライドも、社会的信用も。
すべてを捨ててまで、彼女を護るという勇気もなかった。
捨ててしまうには、あまりにも、若すぎた。若すぎるが故に、棘のある薔薇に触れることは出来なかった。

愛佳は髪を両手で掻き毟り、知らぬうちに重ね合わせた。
それはさながら、祈りだった。
どうか、どうかこれ以上、彼女を傷つけないでくださいと、いくらでも自分自身は傷ついてやるからと。
だからどうか、絵里にこれ以上の哀しみが降らないでほしかった。もうこれ以上は赦してほしかった。


―亀井さん……亀井さん……亀井さんっ!!


愛佳の瞳から大粒の涙が溢れ出し、刻むように心の中で彼女の名前を呼んだ。
好きと叫ぶことも、抱き締めることも叶わなかった。本来ならば、名を呼ぶ資格もないのかもしれない。
だけど、この瞬間だけは、赦してほしかった。
最低の男だということは分かっている。それでもどうか、これだけは赦して下さい。
亀井さんの哀しみも痛みも、全部、全部僕が引き受けますから、どうか、いまだけは、赦して下さい―――

愛佳は声にならないままに、叫んだ。
それが、最初で最後の、神への祈りだった。



「異動するんだって?」

荷物をまとめている横で、同僚から声をかけられる。
彼の手から珈琲を受け取ると、愛佳は大袈裟に肩をすくめて見せた。

「まー、あんな噂が立ったうえに写真まで貼られちゃ仕方ないですやろ」
「……お前、自分で異動願い出したんだろ?」
「下手に渋って辞めさせられるよりマシやないですか?賢い政治判断と言うてくださいよ」

愛佳はあの日、緊急の職員会議の場で、自分と亀井絵里はなんの関係もないと断言した。
正直、そんな根も葉もない話を出されて迷惑だとし、絵里本人に話を聞いても構わないと返した。
もし教育委員会の視察を恐れているのなら、自分は異動しても構わないと、異動願いを提出した。
結果、数日後に行われた絵里への聞き取り調査の直後、愛佳の異動願いは受理され、別の高校へと転勤が決まった。

「カメちゃんも、全否定したんだってな」
「そりゃそうでしょ。僕も彼女も、迷惑してたんですから」
「……あの犯人、やっぱあの市議会議員の…」
「止めましょうよ、もう、その話は」

愛佳は珈琲を机上に置き、同僚の話を遮った。
あの事件の犯人がだれであろうと、もう決定は覆らない。
すべてはもう、終わったことなのだと、段ボールに荷物を詰め込み始めた。

「…ホントにそれで良いのか?」

同僚の言葉に、愛佳は手を止めた。顔を上げると、彼は眉をひそめ、苦悶の表情でこちらを射抜く。
すべてを知っているようなその瞳は、いつだったか、ガラスを割ったのはお前だろうと問い詰められた、あの父親の瞳を思い出す。

「確かにカメちゃんはお咎めなしだったけど…ホントにお前はそれで良いのかよ?」
「なんのことですか?」

煮え切らない態度の愛佳に業を煮やしたのか、彼はぐいと愛佳の胸倉を掴んだ。
さすが体育教師、細腕であっても腕力はあるなと冷静に分析する。
彼は愛佳を無理やり立たせると、「泣かせるなって…言ったよね?」と歯を食いしばって呟く。
いくら今日が休日で人がいないからとはいえ、殴られたりしては堪らないと、愛佳はその腕を解いた。
ひとつ息を吐き、前髪をかき上げると、再び荷物を詰める作業に戻った。

「……だれがシアワセになるんだよ…」

苦々しく呟かれた言葉はふわりと宙に舞った。
まったく、この人は何処までもお人よしだなと苦笑しながら、すべての荷物を詰め終わった。
机上には1冊、最後に絵里が借りた本だけが残っている。
返却しに行かなきゃなと思ったが、愛佳はなんの気まぐれか、その本も段ボールに詰め込んだ。
なんて些細な仕返しだろうと苦笑しながら、ガムテープで梱包していく。すべてを梱包し終えると、随分とすっきりした空間が出来あがった。
短かったなあと思いながらも、愛佳は段ボールに手をかけた。
すると、隣にいた同僚も、別の段ボールを持ち上げた。

「運んでやるよ…車まで」

苦虫を噛み潰したようなその顔で言われてもなあと思ったが、素直なその優しさに、自然と笑みが零れた。
ふたりは職員室を後にし、車へと向かった。


「じゃあ、僕は行きますね」

すべての荷物を車に乗せた後、愛佳はエンジンを回した。重い車体が目覚め、低い唸り声を上げる。
同僚がこんこんと窓を叩いたので、愛佳は素直に窓を開けた。

「連絡しろよ、ちゃんと」
「アハ。マメじゃないですけど、それなりには」

そう笑って返すと、同僚も口角を上げて笑った。
やっぱりこの人は、社会的に長生きするんだろうなとシートベルトをつけると、声が降って来た。

「……護ってたと、思うよ」

愛佳はその声に顔を上げた。
同僚は視線を逸らすことなく、真っ直ぐに愛佳を見つめてもう一度、繰り返した。

「ちゃんと護ってたよ、カメちゃんのこと、結果とか、やり方はどうであれ」

その瞳は、見舞いに行ったあの日に見た、父親のそれとダブった。
ああ、そうかと愛佳は納得する。
彼とこんなに親しくなったのは、彼の持つ空気が、自分の父親と似ていたからなのかと、いまさらになって気付いた。
心が穏やかになっていくのが分かった。負け惜しみなんかじゃなく、本当に、そう思った。
愛佳は優しく笑うと、頭を下げた。

「亀井さんのこと、宜しくお願いします。藤本先生…」

愛佳の言葉に、藤本はゆっくりと頷き、車体から離れた。
それを確認した愛佳はもう一度頭を下げると、アクセルを踏み込んだ。低い音のあと、重い車体が動き出した。
学校の駐車場を抜け、校門をくぐり、大通りへと抜けた。車が少なかったため、愛佳は迷わずアクセルを踏む。
春の風が窓から吹き込んでくる。あれ、花粉症やなかったんですけどねと、愛佳は鼻を啜り、目をこすった。





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