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春の桜が咲き始めていた。
愛佳は車から降りると駐車場に咲いた桜の木をぼんやりと見つめた。
今年もこの季節が来たんですねと思いながら、カバンを片手に職員用靴箱へと歩く。

靴箱を開けると、そこには1通の封筒が入っていた。
愛佳はだれかのと間違えたのかといちど閉じるが、ネームプレートは「光井」となっている。
自分宛の封筒であることは間違いないようだと確認した愛佳は封筒を手に取った。
差出人の名前はないが、どうもラブレターの類ではないような気がした。
さてどうするのが良いだろうと考えていると、廊下の奥の方からドタバタ走ってくる音がした。
これは彼女だなと思いながら、愛佳はスーツの胸ポケットに封筒を仕舞った。

「光井、先生……」

果たして相手は彼女だった。
れいなは息を切らして愛佳に対峙する。

「珍しいですね、まだ始業時間には早すぎますよ」

からかうようにそう言うが、れいなはなにも言わずに愛佳に歩み寄る。
怒っているようにも見えたが、彼女の瞳は怒りに震えてはいない。

「光井先生……辞めんよね?」

急にストレートを投げてきたピッチャーを、愛佳は思わず見送った。
ボールはドスンと音を立ててキャッチャーミットにおさまる。ストラーイクといった感じか。
そうだ、彼女は良くも悪くも飾らずに、自分の想いを伝える子だっけと愛佳は理解した。

「まー、なんとかなりますよ、たぶん」
「たぶんって……」
「人数の少ない公民教師を追い出すほど、向こうもバカじゃないってことですよ」

そう答えて見たものの、処分されないという保証はどこにもない。
確かに、公民教師はもともと人数が少なく、この学校にも愛佳を含めて3人しかいない。
別の公民教師のあてもなく、貴重な人材を追い出すことが得策だとはどうしても思えない。
かと言って、いちど嫌疑のかかった愛佳を、不仲の生徒指導部長がこのまま置いておくとも思えないが。

「田中さんが心配する話やないですよ」

そうして愛佳はれいなの肩に手を置く。
だが、れいなはその手を振り払って愛佳を睨みつけた。

「っ……なんでそんなやとよ」
「え?」
「なんで、先生はそんな余裕やとよ!」

そのときのれいなは怒っている、というよりも、困惑しているように見えた。

「分からんよ……そんなの…」

れいなは頭をガシガシとかく。
その姿は高校2年生の17歳そのもので、愛佳は無性に愛しくなった。
彼女が「大人」になるのはいつだろうかと考えるが、彼女の場合、いつまで経ってもこんな子どもで居てほしいとも思う。
無茶苦茶で、理不尽を嘆いて、自分の気持ちに素直で、我慢をしないでいる、17歳の子ども。
そんな彼女が、やっぱり羨ましかった。愛佳には出来ないことをさらりとやってのける彼女が、羨ましかった。
愛佳は困ったように笑って返した。

「余裕なんてないですよ、いつでも」

れいなと向き合って愛佳が言葉を渡すと、彼女は顔を上げた。
互いの瞳は実に対照的な輝きを放っていたが、その奥にある想いは同じだった。

「ちゃんとしっかり、護ってくださいね、亀井先生を」

そうして愛佳は笑い、再びれいなに背を向けようとした。
れいなは、彼のその姿に、なにかを返したかった。
いままで散々助けられてきた彼に、いつも見えないところで自分たちを護っていてくれた彼に。

「っ……出来ること、やるけん!」

ただひたすらに、返したかった。
自分の想いにフタをし、記憶の中にいる彼女に弱音を見せまいと、黙って背中を向け、17歳の記憶の中の「亀井絵里」を護った光井先生に。

「み、みんなに協力してもらうっちゃん!ほら、なんやっけ…」

愛佳が困ったような笑顔をれいなに向けると、彼女は必死に言葉を探していた。
先を促すことはせず、れいなの答えを聞こうと愛佳が黙っていると、れいなはその言葉を見つけた。

「住民票みたいな」

そしてその答えに愛佳は撃沈した。

「住民票って、みんなの住んでるとこ聞いてどうすんねん」

愛佳は思わず、笑った。
顔をぐしゃりと崩し、眉をひそめ、肩を震わせて笑った。
れいなは言った瞬間に自分の間違いに気付いたのか、真っ赤になった顔をおさえ、正しい答えを探す。そんな彼女もまた、笑っていた。

「田中さん、相変わらずアホですね……」
「あ、アホやなか!」
「褒めてるんですよ、これでも」

そう言いながらも愛佳の笑いは止まらない。
こんなに笑いのツボにハマったのは久しぶりだなと思いながら、目尻から零れる涙を拭う。
そんな姿を見せながら「褒めている」と言っても、彼女は信用しないのだろうなと思うが、それでも愛佳は笑う。

「署名と住民票を間違えるって、良い神経してますよ」
「そう署名!」

愛佳から正解を聞き、れいなはポンと手を叩いた。

「惜しかった…」
「いや、全然惜しくないですよ」

そう、子どもだ、彼女は。
まるっきり子どもで、前に突き進むことを恐れない。
彼女のように、無垢で、そして理不尽な現実に抗うことを恐れなければ、未来は変わっていたのかもしれないと愛佳は思う。
でも、だからこそ愛佳は、今日、退くことなく、立ち向かうことを選んだ。
此処で、この学校で公民教諭として、まだ働いていたいと思ったから。

「ありがとうございます。期待してますよ、住民票」

愛佳はそうして笑うと、れいなに手を振り、背中を向けた。
結局、自分の「バカ」を露呈しただけな気がするが、それでも自分たちの思いは伝わっただろうかと、れいなはその背中を見つめる。
彼の背中は、いつだったか、れいなが万引きを疑われ、それを助けに来てくれたときに見た、決意を固めた男の姿そのものだった。

「無茶苦茶なことしますね、ホントに……」

愛佳はトイレの個室で、朝受け取った手紙の中身を拝読し、溜め息をつく。
こういう無茶苦茶さは「彼」のお家芸なのだろうかと苦笑し、再び手紙をしまい込む。
トイレを後にし、職員室へ向かう。恐らくこの手紙は「目的の人物」の手にも渡っているはずだった。
どういう意図で「彼」がこれを入手したのかは定かではないが、少なくとも、彼はいまでも、僕の味方なのだと理解した。
そのやり方すべてを、享受することはできないけれど。

「光井先生」

職員室に入る直前、愛佳は声を掛けられて振り向く。
そこにはまさに、「目的の人物」である生徒指導部長が立っていた。

「今日の会議の件ですが………延期になりました」

愛佳はその言葉が返ってくることを半ば想定していたが、わざと眉を顰めてみせる。
此処で尻尾を出してしまってはなんの意味もない。
左胸の内ポケットに入れた手紙を意識しつつ、愛佳は彼に向き合う。

「延期とは、なぜですか?」
「それは……いろいろな理由です。校長も、今日は急きょ予定が入りましたので」

彼は、焦っていた。
愛佳と目を合わせることはせず、自分のワイシャツの袖のボタンを弄っている。
その仕草は苛立っているようにも見えて、愛佳は正直に、同情した。
これ以上の詮索は逆に立場を危うくすると悟り、愛佳は素直に退くことを決めた。
「分かりました」と一礼すると、彼は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。

「新しい日時が決まり次第、また改めてお伝えしますので……」

それだけ伝えると彼は踵を返して歩き出した。
愛佳はふうとひと息吐き、改めて職員室へと入る。もう、その「新しい日時」は恐らく来ないのだろうなと、半ば確信をしながら。

「光井、先生……」

自分の席へと歩くと、隣の席にいた亀井先生が立ち上がった。
今日の職員会議の延期のことを聞いたのだろうか、絵里は困惑した表情のままこちらを見ている。
愛佳は困ったように笑い、声にはしないまま「だいじょうぶ」と伝え、絵里に座るように促した。
絵里はその声を理解したのか、素直に座った。

「……なんで、延期に…?」

職員会議、特に緊急の会議が延期になることは珍しい。
この時期は春休み前と云うこともあり、カリキュラムの編成、職員の異動、配置入れ替え、予算編成など、仕事は山のようにある。
そんなときに、わざわざ時間をつくった会議を直前に延期するなど異例とも言えた。

当然の疑問を口にした絵里に向き合い、愛佳はちらりと周囲を見渡す。
幸いにも周囲にはほとんど人はおらず、絵里と愛佳の会話を聞いている教員はいなかった。
愛佳は人差し指を口元に立てておどけるように話し始めた。

「面倒で、とても強かな友人のおかげですよ」
「え?」
「彼らしいやり方です。最低限の犠牲と、最大限の利益をつくろうとした、彼の方法ですよ」

そして愛佳はそっと胸ポケットにしまっていた封筒を取り出し、絵里に渡した。



放課後、愛佳は手紙に指定されていた時間に、指定されたファミリーレストランへと向かった。
「ロイヤルジョナドンキ」なんて、いろいろ混ざったような不思議な店内へ入ると、相手はすぐそこにいた。
愛佳はわざとらしく溜め息を吐くと、彼の向かいの席に座った。

「あのやり方はないんやないですか」

開口一番にそう伝えると、彼は肩を竦めて笑った。

「なーに。久しぶりに会ったのにその言い方」
「……事実を捻じ曲げるのはどうなんですかって聞いてるんですよ。傷つくのは生徒指導部長ですよ」

愛佳が鋭くそう言い返すと、ウェイトレスが注文を聞いてきた。
畳みかける言葉を呑み込んだ愛佳は、「ドリンクバーを」と彼女に頼んだ。

「捻じ曲げた、なんてだれが書いたよ?」

ウェイトレスが去った直後に出てきた彼の軽妙な言葉に愛佳はぴくりと反応する。
まさかと思い眉を顰め、その疑問を口に出そうとすると、彼は実に楽しそうに笑った。

「たまたまだよ、たまたま」
「……偶然あんな写真が入手できます?」
「だーかーら、オレの人脈なめんなって、光井せんせ」

そうして笑う彼に愛佳は大袈裟に肩を竦めた。
約1年振りにあったというのに、彼、藤本先生は何も変わっていない。
その明るい茶髪も、少しきつめの眉も、歯に衣着せぬ物言いも、あの頃と同じだった。


「……不倫、ですよね、あれ」

愛佳が口に出すと、藤本は話を逸らすように「ドリンクバー、行かなくて良いの?」と切り返した。
彼の笑顔に翻弄されるかのように、愛佳はひとつ息を吐いて立ち上がり、珈琲を取りに行くことにした。
ファミリーレストランのドリンクバーで珈琲の味を期待してはいけない。
そんなことは分かっているが、あまりに美味しくない珈琲を飲むと、自然と愛佳の頭には、彼女の笑顔が浮かぶ。
まったく、いつになったら、彼女を解放してあげられるのだろうと苦笑して席に戻った。

「まあそんなことよりさ、今日は大事な話があって呼んだんだよ」
「……その前に答えて下さい」

席に着くなり話を始めようとした藤本を遮った愛佳に、藤本は「どうぞ」と手を出した。

「あの写真は何処で入手したんですか?」
「気になる?」
「それに、どうして僕が追い込まれていることを知ったんですか?
僕が異動するかもしれないなんて話、外部の人間であるあなたに分かるわけがないのに」

愛佳の当然の疑問に、藤本は紅茶のカップを傾けた。
話をはぐらかされるわけにはいかない愛佳は真剣な眼差しを向けると、藤本も観念したように肩を竦めた。

「来年度からそっちに異動になるんだよ」
「……は?」
「だから、4月から体育教諭として働くの、そっちで」
「あなたが、うちの学校に?」

愛佳が確認のように聞き返すと藤本はニッと笑い頷く。

「……それで、調べたんですか、うちの学校を」
「そりゃある程度は。元同僚の行った先だしねぇ。そしたらなんと、同僚がまた危ない目に遭ってるって話を耳にしたってわけ」
「どういう調べ方をしたらその結論に辿りつくんですか」

もともと、この人は捉えづらい人だったと愛佳は思う。
同僚の中でも最も飄々とし、強かに社会を生きてきたこの人は、どういう人脈を持っているかもわからない。
知り合いの知り合いに興信所に勤めている人間でもいるのだろうかと珈琲を飲んだ。

「で、あの生徒指導部長の不倫現場を写真に撮ったってわけ」
「それを彼に送りつけたんですか……」
「いや、光井先生と同じように、校長と彼の靴箱に放り込んでおいただけ。彼は不倫していますって手紙付きで」

それはもはや一種の脅迫だなと愛佳は思う。
下手をすれば、異動するのは愛佳ではなく生徒指導部長の方になりそうだ。
不倫をしたのが事実だとすれば、そのツケを払うのが「責任」というものだろうとは思うが、それでも愛佳は純粋に納得できない。
こんな幕切れで本当に良いのだろうかと、頭のなかのもうひとりが問いかけていた。

「相変わらず、真面目だねぇ、光井先生は」

そんな愛佳の思考を読み取ったのか、藤本は笑いながら紅茶を飲む。

「だいじょうぶだよ。いくら不倫だって言っても、証拠はあの写真だけだし、差出人は不明。
せいぜい校長と教頭に呼び出しくらって事実確認して、給与カットってところが関の山じゃん?」
「……それでも充分な罰則やないですか」

愛佳の言葉に再び藤本は肩を竦めた。
今回の一件はすべて、彼の入手した1枚の写真で肩がついたことになる。
何処で入手したかは定かではないが、藤本は生徒指導部長の不倫現場の写真を校長と本人、そして愛佳に送りつけた。
生徒指導部長が若い女性とラブホテルに入る写真と、「彼は不倫しています」という手紙の効力は大きい。
愛佳の過去の出来事を再び問題視するよりも、彼の現在の不倫疑惑を問いただす方が先決だと考えるのは自明の理だった。
もちろんそこには、ふたりの教師を天秤にかけた校長の思惑もあったのだろうけど。

「そろそろ、本題に入っていい?」

まだまだ疑問は解消されていないが、藤本の言葉に愛佳は素直に頷いた。
どうせ彼を問いただしたところで、すべてが解決するわけではないことを愛佳はその経験から知っていた。

「渡したいものがあるって手紙に書いてたでしょ?」

藤本の言葉に愛佳は「ああ」と頷き、胸ポケットから封筒を取り出した。
今朝、愛佳の靴箱に入っていた封筒の中には、1通の手紙も同封されていた。
そこには、「なにかのお役に立つかもしれない不倫写真だよw」という文章のあとに
「渡したいものがあるから、今日の17時に駅前のファミレスに来てほしい」と付け足されていた。
最後まで差出人の名前はなかったが、その筆跡や文章の書き方から、愛佳はこれが藤本が書いたと推測し、今日、此処へ来た。
正直、彼の言う「渡したいもの」など、なにかは分からないが。

「これ、あの子から」

そうして藤本は胸ポケットから1枚の紙を取り出した。
綺麗に折り畳まれた小さな紙切れに、愛佳は見覚えがあるが、それが何処かは思い出せなかった。

「カメちゃん、此処で待ってるって」

彼の言葉が空に舞った瞬間、愛佳は思わず目を見開いた。

「どういう……意味ですか?」
「そのまんまの意味だよ。カメちゃんは今日、此処で待ってるんだよ」

「今日、此処で待ってる」というその言葉をどう噛み砕いても、愛佳は納得のいく結論にはたどり着かなかった。
その思考をフル回転させ、必死にロジックを組みたてようとするが、砂上の城の如くすぐに崩壊する。
眉を顰めて藤本を見つめるが、彼の瞳は真剣そのもので、嘘や偽り、からかいなどは含まれていない。
だとするならば、導き出される回答はもう、必然的に限られてくる。

「カメちゃん、辞めたんだよ、高校」
「……退学になったんですか?」
「いや、自主退学だよ、光井先生が異動してすぐ、だったね」

藤本はその小さな紙切れをそっと愛佳の方へと差し出した。
愛佳はそのまま動くこともできずに、ただその紙切れと愛佳を交互に見つめる以外に術はなかった。
その紙切れが、絵里がよく使っていたメモ用紙だと気付いたのは、そのときだった。
愛佳がどうすることもできずに佇んでいると、藤本は紅茶を一口飲んだあと、そっと話し始めた。


−−−−−−


「辞めるって、本気なの?」

藤本の言葉に、絵里は振り返った。
放課後の図書室にはふたり以外には誰もいない。
絵里は鼻歌交じりに図書室の窓から外を眺めている。春の風が絵里の髪を優しく撫でた。

「今日、校長先生には退学届出しましたから。受理されれば正式に辞めます」

藤本の言葉をさらりと受け流すように彼女は答えた。
その、さも当然と言わんばかりの態度が、藤本には理解できなかった。

「……なんのために、あいつが異動したと思ってんだよ」

藤本は絵里の横に並び、怒声を押し殺して問い詰める。
愛佳がどんな想いで、どんな気持ちで異動したのか、絵里は分かっていないのではないかと思った。
絵里を護るために、絵里がこの先の人生を歩んでいけるようにした愛佳の最善の措置を、どうして彼女は踏み躙ろうとする?

「絵里のためですよね」
「……え?」
「光井先生は、絵里のために、自分から異動願いを出したんですよね」
「だったら……!」
「好きだから!」

矢継ぎ早に交わされる言葉の中、最後に彼女はそう叫んだ。
絵里の気迫に押され、藤本は思わず言葉を呑み込んだ。絵里はぎゅうと拳を握り締め、藤本を見つめる。
その瞳には大粒の涙が溢れんばかりに溜まっていた。

「絵里だけシアワセになんてなれないよ……絵里、そういうの、分かんないよ……」

絵里は本当に困ったように頭をかいた。
短い髪が春風に揺れる。いまにも零れ落ちそうな涙を、藤本はただ、見つめる以外に術はない。

「いまでも、好きなの、先生が」
「………」
「だから、私だって背負いたい。私の人生を、光井先生が背負ってくれたように、私も先生の痛みを背負いたいの」

17歳の彼女はそうして涙を流した。
愛佳の選んだ道。絵里を護ろうと、傷つけまいと、彼なりに必死に考えて出した最後の選択。
その意図が分かるからこそ、絵里は自らだけシアワセになる道は選択できなかった。
愛佳の真意、愛佳の想い、愛佳の気持ち、それらを振り払ってでも、絵里は自主退学と云う道を選んだ。
愛佳が必死に絵里を護ったように、絵里もまた、愛佳を護りたかった。

「………バカだろ、そんなの」
「バカで良いんです。光井先生だって、バカですから」

絵里はそうしてハンカチを取り出し涙を拭った。その顔は何処か嬉しそうで、やはり藤本には理解できなかった。
だけど、もう、頭では理解出来ていた。このふたりは、結局、互いのシアワセを願っているのだと。
自分の犠牲なんて二の次で、相手の痛みや苦しみを背負ってでも、前に進もうとしていた。
それは傍から見ればどうしようもなくバカなんだろうけど、そのバカさ加減が、どうしようもなく愛しいと、藤本は思った。

「……辞めて、あてはあるの?」
「お父さんの紹介で、働けることになりました、最初はアルバイトですけど」

絵里は明るい声でそう答える。
もう、彼女を心配する必要はないのだなと理解した藤本は、「どこで?」と聞いた。
すると絵里は、優しく微笑んで、「本屋さんです」と返した。


−−−−−−−


「本好きのお前に影響されて本屋なんて、カメちゃんらしいだろ?」

藤本の説明を聞き、愛佳はもう呆気にとられる以外になかった。
亀井さんが自主退学?しかも理由が、自分だけシアワセにはなれない?なんで、なんで、なんで……
なんで彼女はいつもそうやって、愛佳のことを考えて生きていこうとするのだろうと愛佳は頭を掻き毟った。

「カメちゃんが退学して、本屋で働き始めてもう1年になる。そして、つまり…」

藤本は机をトントンと2回叩き、それがなにかの合図かのように優しく微笑んだ。

「もうふたりは、教師と生徒じゃない」

その言葉に愛佳は思わず息を呑んだ。
そう、いまの彼の言葉を信じる限り、絵里は1年も前に退学し、現在は書店で働いている。
アルバイトであるのか、正社員の昇格したのかは定かではないが、とにかく彼女はもはや、高校生ではない。
愛佳は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ頭に浮かんだ考えを振り払うように珈琲を飲み干した。

「あの子はずっと、お前のこと、待ってるんだよ」

その瞬間、聞きたくて、聞きたくなかったその言葉が愛佳を貫く。
絵里の想いが、真っ直ぐな心が、愛佳を包み込んで捉えて離さない。
あんなにひどいことをしたのに、散々傷つかせて泣かせたのに、どうして彼女はいまもまだ、自分を待っているのだ。
どうして自分の新しい人生を歩もうとしないのだ。

「好きな子、待たせんなよ、もう」

藤本にそう言われ、愛佳は思わず泣きそうになる。
「好き」という感情は、いまもなお、絵里の心の中に存在している。
絵里の中に咲いた小さな花。恋に色づき、失意の雨に降られても、彼女はまだ、愛佳を想ってくれている。
だからこそ、彼女はいま、この瞬間さえも、あの紙切れに書かれた場所で待っている。


「………どの面下げて、僕があの子を迎えに行けって言うんですか」

愛佳は苦虫を噛み潰したような顔で、その言葉を絞り出した。
傷つけて、泣かせて、これ以上ないほどにボロボロにして。
自分の身勝手で振り回して、自分本位な考えでいた僕が、どうして亀井さんを迎えに行けるって言うんですか。
愛佳は震える拳を握り締めて、頭の中に浮かぶ彼女の笑顔を消そうとする。
絵里はいつだって、愛佳に笑顔で手を振って名前を呼んでいた。
春のように暖かい笑顔を携え、「光井せんせー!」とその舌っ足らずな甘い声で呼んでいた。

「情けない面下げて行けば良いじゃん」

愛佳はその言葉にふと顔を上げた。
目の前にいる藤本は眉間にしわを寄せ、愛佳を黙って睨みつけていた。
その姿は、いつか見た、病床に伏せる父親と重なって、思わず愛佳は胸が締め付けられた。

「大事なのはさ……」

そうして藤本は右の拳で愛佳の胸を突いた。
ドンという鈍い痛みが広がり、思わず呻き声をあげそうになるが、それでもお構いなしに彼は続けた。

「先生の“心”じゃねえの?」

愛佳はそう言われて、ドクンと心臓が高鳴った。
そう、分かっていた。初めから。ずっと。
自分の中に一瞬たりとも消えることなく浮かんでいたこの感情の名前を。
彼女とともに時間を過ごすうちに大きくなり、別れてもなお、鮮やかに色をつけて輝いた、この感情の名を。
だが、愛佳はそれにフタをした。キツくフタをして、この学校に赴任し、新しい生活を送ろうとしていた。
それなのに、記憶の中の絵里と似た亀井先生と出会ったことで、そのフタはあっさりと開くことになった。
外見が似ているという入口から始まったが、亀井先生の奥に、愛佳は絵里を重ねていた。
自分は亀井先生に恋をしているのだと思い込んでいたが、それは間違いだった。
愛佳は亀井先生にキスをしたあの瞬間でさえも、記憶の中にいる17歳の絵里に恋をしていた。
いつも愛佳に笑顔をくれた、たくさんのシアワセをくれた彼女に、どうしようもなく、恋をしていた。


―――光井せんせー!


瞬間、彼女の声が聞こえた。
聞こえるはずのない、記憶の扉の向こう側にいる、絵里の声。
絵里は相変わらず楽しそうに、そして綺麗に笑っている。

屈託なく輝き、優しく笑いかける彼女が好きだった。
舌足らずで片付け下手で、だけど一生懸命な彼女が好きだった。
オレンジ色のエプロンが似合って、ちょっとしたことで嫉妬する彼女が好きだった。
短くて明るい髪を揺らし、子どものようにはしゃぐ彼女が好きだった。

好きだった。
好きだった。
好きだった。

いまでも、好きだ―――


もう、もう二度と、泣かせくなかった。


結局のところ、それ以外の答えを見つけられなかった。
ロジックが不完全であったとしても、愛佳はもう、行くしかなかった。
愛佳はテーブルに置いてあったその紙切れを掴み、立ち上がった。
藤本は驚いたような顔を一瞬見せるが、愛佳はそれに応えずに、ただ深く一礼した。

「行ってきます」

それだけ言うと愛佳はジャケットを羽織り、レストランの入口へと走った。
「ありがとうございましたー」というウェイトレスの声のあと、愛佳は外へ飛び出した。

「あーあ。ドリンクバー代、請求しなきゃね」

その姿を目で追いかけた藤本はおどけたように笑い、伝票を手にとって立ち上がった。
ファミリーレストラン内に聴こえるBGMを背に、藤本は会計を済ませようと財布を取り出した。


―――誕生日にもらった腕時計 今日も時を刻んでる 美しい思い出たちならとっくに止まっているのに


藤本はジャケットを羽織り、外へと出ると、ふわりとピンクの花びらが舞い落ちてきた。
ああ、今年もこんな季節がきたねぇと桜の花びらを握り締め、藤本は歩き出した。


ふたりの時間はあの日のまま、綺麗な思い出も止まったまま、か。
でも、それを動かしちゃいけないって誰が決めた?また新たな時間を刻んじゃいけないって誰が決めたよ?
シルバーの腕時計が動いているというのなら、またふたりでイチから始めたら良い。
止まったままで動かないでいるよりも、その方がよっぽど、楽しいだろ?


「………なんてね」

藤本は楽しそうに肩を竦めて笑った。
「がんばれ」なんて言葉はもう必要ない。あのふたりに必要なのは、「また、明日」だと、なんとなく、思った。



噴水と何本かの木とベンチしかないその公園は殺風景ではあるが、愛佳も絵里も好きな場所だった。
中心に置かれた噴水に光が乱反射して眩しい。
此処に来るのは約1年ぶりだったが、なにも変わっていないなと愛佳は苦笑する。
そうか、彼女と別れてから来るのは初めてなんだなと改めて理解する。
以前はなんどか、彼女とこの公園でのんびり時間を過ごしていたっけとひと息吐いた瞬間だった。

噴水の向こう側、水と光の織り成す空間の先に、彼女が立っていた。
5分咲きの桜をぼんやり眺めていた彼女に愛佳は視線を奪われる。
その姿は、別れたあの日と同じように凛として、ただただ美しかった。

思わず息を呑み、思考を失った。
なにもかもを忘れてしまい、自分の理性すらも失くしてしまうような破壊力。
そんなの反則だろと言ってしまうような存在。
愛佳の、ただひとりの想い人がそこに立っていた。

心臓がうるさいくらいに高鳴る。生唾を呑み込む。
一歩、震える脚で進むと、彼女は振り返る。

視線が絡み合い、瞬間、呼吸を忘れる。
あの頃と同じように、短い髪を揺らした彼女。
驚いたような、だけど何処か優しい笑顔を携えた彼女。
そんな彼女が、どうしようもなく、美しい―――

「……です…」

卑怯だ。クズだ。そんなの反則だ。ゴミだ。卑劣だ。
ああそうだ。なんとでも言え。罵ってくれて構わない。だけど、だけどこれだけは言わせてほしい。
届かなくても良い。応えてくれなんて言わない。ただ、ただ叫びたかったんだ。
あなたを見た瞬間に、こんなにもこの胸から想いが溢れ出てしまったのだから―――


「亀井さん、あなたが好きです!」

ひどいやつです。
自分勝手な理由であなたを放っておいて、泣かせて、傷つけて、ひどい目に遭わせて。
どの面下げてあなたの前にまた立っているんだと、罵られることは当たり前です。
たぶん、ひどく情けない間抜けな面をしていることくらい分かっています。
赦してくれなんて言いません。二度と逢いたくないと言われたって構いません。
でも亀井さん、これだけは信じてほしいんです。

「愛しています、亀井さん!」

若すぎるが故の破滅的な恋でした。棘のある薔薇を摘むことなんて、あの頃の僕にはできませんでした。
身勝手な想いから、あなたにひどい別れを告げてまだ1年しか経っていません。
でも、それでも僕は、いまの僕なら胸を張れます。
たとえすべてを失ったとしても、あなたを、あなただけは絶対に護り抜くと―――

心の底からの純粋な想い。
ただそれは、ひとりの女性をシアワセにしたいという、祈りだった。
水のように透明で、柔らかくすべてを包み込んでしまうような想いは、絵里へのどうしようもないほどの、“愛”だった。
愛佳の言葉を胸に受けとめた彼女は目を細めて優しそうに微笑んだあと、目を伏せる。
そして顔を上げたとき、その瞳には大粒の涙を輝かせていた。

「……遅すぎですよ、光井先生」

彼女―――亀井絵里がそう微笑んだ瞬間だった。
愛佳は迷うことなく、絵里のその小さくて細い体を抱きしめた。
1年振りの彼女の温もりは、あの頃となにも変わっていない。
絵里の香り、絵里の笑顔、絵里の優しさ、そのすべて。絵里を絵里たらしめるすべてに、愛佳は支配される。
ずっと変わることなく存在した、絵里へのどうしようもないほどの愛情。

分かっている。
人生であと何回でも躓くだろうし、何回でも困難はやってくる。
だけど、たとえなんど迷ったとしても、もう二度と、あなただけは手放したくなかった。
絵里を、絵里だけを護りたかった。だれも傷つかない方法で。自己満足の自己犠牲ではなく、本当に、あなたをシアワセにしたかった。

「……遅すぎ…ばか…ばか…好きだよぉ」

絵里は涙で声を震わせながら、愛佳の肩でそう呟いた。
それを感じた彼は、抱き締めていた力を緩め、そっと彼女と向き合う。
絵里は顔を真っ赤に染め、涙でぐしゃぐしゃになりながらも、必死に伝えた。

「愛してるよ、光井先生……」

それだけで答えは充分だった。
長く支配されていた記憶の迷路に、漸く一筋の光が射した気がした。

「亀井さん……」

彼女はもう、17歳の記憶の中の絵里ではなかった。
此処にいるのは、19歳の等身大の亀井絵里その人だった。
愛佳はそっと絵里の頬に手をかける。絵里はその温もりを確かめるように、自らの手を愛佳に重ねる。

「先生……」

どちらからともなく、ふたりは口付けを交わした。
1年振りのキスは、何処までも甘く、柔らかい。
痛みも、哀しみも、切なさも、泣きだしたくなるくらいの愛情もそこには混在している。
だからこそ、ふたりはその唇を重ねた。
どうしようもないほどの想いを確かめるように、そこにある愛を呼ぶように。
逢えない時間を埋めるように、これからの日々を生きていくために、ふたりは熱く、キスを交わした。

「好き、先生…好きよ……大好きっ」

短く途切れ途切れになりながらも、絵里はキスの合間にそう伝える。
角度を変え、舌を突き出し、ただ純粋に、あなたを求めた。
それに応えるように、愛佳もまた、言葉を伝える。

「亀井さん……好きです、亀井さっ……!」

甘くて切ない口付けに翻弄されながらも、愛佳は漸く気付いた。
絵里のシアワセは、愛佳にとってのシアワセであり、互いが笑顔で居ないと意味がないことを。
身を引くということは確かに美徳かもしれないが、それでも絵里は愛佳を想っていた。だからこそ彼女はいま、此処で愛佳を待っていた。
愛佳のシアワセを純粋に祈っていた彼女に、どうしても応えたかった。その大きな瞳に愛佳だけを映していた絵里に、なにかを返したかった。

「愛してますよ、絵里……」

長いキスの終わり、愛佳はそっと絵里に呟いた。
その言葉の真意が分かった絵里は、涙を携えた瞳を向けるが、ぐしゃりと顔を崩し、笑った。

「愛してるよ……愛佳」

言葉じゃ足りない。キスじゃ足りない。溢れるほどの、この想い。
それでも、それだからこそ、ふたりは一緒にいたかった。これから先の未来、長く続いていく未知なる路を、ふたりで歩いていきたかった。
そうやって日々を重ねていく中で、互いが互いに返せることがあるのではないかと愛佳は思い、再び絵里にキスをした。



桜の木の下で破滅的な恋は終わりを告げ、新たな恋がいま、始まる―――


−−−−−−−


春の空は青くて高い。白い雲が途切れ途切れに浮かんだその空間が好きだった。
ふうと息をひとつ吐いて、ぐっと伸びをする。

「かいちょー、サボるなー」

その声とともに屋上に上がってきたのは新垣里沙だった。
生徒会長である高橋愛は「見つかったかぁ」と苦笑しながら頭をかいた。

「生徒会室の掃除、今日中にやんなきゃダメでしょーがぁ」
「だって大変なんやもん」
「だからって屋上でサボらないの」

里沙にそう言われ、愛は大袈裟に肩を竦める。
全く、彼女には敵わないなと思う。いまだって、サボって15分しか経っていないのに、里沙は愛を見つけた。
実際、その15分だって、彼女が愛に与えた休憩時間なのだろうと思う。
新垣里沙は、そういう人なのだと、愛はボンヤリ考えた。

「ねえ、ガキさん……」

そう愛が呟くと、里沙は「うん?」と振り返る。
たったそれだけの仕草が愛しくて、愛はほぼなにも考えないままに、その小さな唇にキスをした。
軽い音を立てて消えたキスに、里沙は目を丸くし、口をパクパクさせる。
それはまるで子どものようで、単純に可愛いなと思った。

「じゃ、行こっか」

愛はしてやったりの表情で笑って立ち上がると、里沙は漸く我に返り、「もー!なにすんの!」と怒った。

「ホラ、今日はいー天気やし、キスもありやろ」
「い、意味分かんないから!」

怒ったと言っても、頬を紅潮させたその表情では全く説得力はないなと思いながら、里沙と愛は並んで生徒会室へと歩き出した。



「なんでこんなに汚いっちゃよ、せんせぇの部屋…」
「いやー、絵里片付けるの苦手ですから」
「それにしたってこれはひどすぎなの……」

れいなと絵里、そしてさゆみの3人は家庭科準備室の掃除をしていた。
春休み中に片付けたいという絵里たっての願いをふたりは聞き入れたが、とかくこの部屋は汚い。
どうして此処まで汚くできるのか、逆に不思議でならなかった。
全く、この人は本当にこれでも家庭科教師なのだろうかと苦笑しながら、れいなはふと作業の手を止めた。

「どうして亀井先生が家庭科の先生になれたのか不思議なの」
「そーゆーこと言わないの!」

後ろで言い合っている声を背中に受けながら、れいなは窓を開けた。暖かい春の風がふわりと家庭科準備室へと入りこんでくる。
その風に気付いたのか、絵里とさゆみも作業の手を止め、れいなの隣へと並んだ。

「どうしたの、れーな?」
「いや……なんかさ…」

そうしてれいなは窓の外に広がった空を見上げた。

「きれーやなと思ってさ」

3人はふと空を仰いだ。
何処までも高い青空が一面を支配している。抜けるようなその空は、確かに綺麗だった。
春の太陽は淡く輝き、満開の桜はその優しいピンク色で街を染めている。
切なくて儚くて、だからこそ美しい春の季節は、人々の想いすべてを包み込んでいた。

「春ですねぇ」

絵里のその言葉に、3人は目を細めて微笑み、その輝きを見つめていた。
此処から始まる新しい日々の予感を、確かにその胸に覚えながら―――





同じ空の下で おわり
 

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