「ゆ〜えんちいぃぃぃぃ！！」
佐藤君の声はよく響くなと工藤君は思うが、それに負けないくらい、彼も「うおぉぉ！！」と叫んだ。
長く続いた雨がようやく終わりを見せ、待ちわびた青空がひょこりと顔を出した土曜の午後、生田君はある遊園地に来ていた。
聖がみちしげ君からもらった招待券を使い、中等部のいつものメンバーで入場ゲートをくぐる。
「里保ちゃん、あのジェットコースター怖そう！」
「僕あれはちょっと……」
「鞘師さんって意外と怖がりなんですねー」
「どぅーもお化け屋敷入れないくせにぃ」
正直、ふたりきりのデートを期待していた生田君は、この余計なオマケたちにガッカリしたのだが、今日の聖の服装を見てそんな考えは吹っ飛んだ。
聖は白いワンピースに茶色のベストを羽織り、胸元には花のコサージュをつけている。
ワンピースから覗く長くて綺麗な脚に思わず生唾を呑み込んだ。
「ね、えりぽん、あれ乗ろう！」
聖は生田君の袖を引っ張った。
なんだかんだで、デートはデートだ。こんな可愛らしい女の子を目の前にして不貞腐れているのはあまりにももったいない。
ここ数日、元気のなかった聖が漸く嬉しそうに笑ってくれているのだ。それで良いじゃないかと思う。
生田君は「よっしゃ、行こう！」と聖とともにジェットコースターの列へと並んだ。
-------
遊び盛りの中等部にとって、遊園地とはなんともご褒美な場所だった。その体力に任せて全力で遊び倒そうとしている。
なんどもなんども派手なジェットコースターに乗り、地上数百メートル地点から一気に落下するフリーフォールに乗っては意識を飛ばしそうになった。
だが、いくら体力の有り余っている彼らとはいえ、さすがは人間。これほど休憩なしに遊べば疲れるというものだ。
生田君はどっしりとベンチに座り、呼吸を整えた。
「最初にジェットコースター作った人ってだれやっちゃろ……」
ぐるぐると回転する機械に酔った生田君は頭を抱えて余計なことを考えた。
彼の尊敬するにーがき君は、いわゆる「夢の国」が大好きなので、
いちどは連れて行ってもらおうと考えていたが、果たして行けるだろうかとぼんやり思った。
「えーりぽんっ」
「うぉっ、冷たッ！」
「へへ、驚いた？」
頬に冷たいものを感じ、慌てて顔を上げると、そこには笑顔の聖がいた。
彼女は手に買ったばかりのペットボトルを持っている。それは鞘師君がよく飲んでいるサイダーだった。
「疲れた？」
「あー…ちょっと。あんまり絶叫系得意やなくてさ」
聖からペットボトルを受け取って開ける。
景気の良い音と、炭酸の抜ける音が聞こえた。
鞘師君が「しゅわしゅわぽん」なんて言っているが、いまならなんとなく、言いたくなるその気持ちも分かる。
サイダーを口に含むと、炭酸特有の甘みと痛みが舌を襲ってきた。意外に、嫌いじゃない。
「あいつら元気やねぇー」
ふと見ると、大きな船が揺りかごのように振れる絶叫マシーン、通称「ポセイドン」に佐藤君と工藤君が乗っていた。
佐藤君は相変わらずケラケラ笑っているが、工藤君は半分泣きそうな顔をしている。
そろそろ休ませてやれよと苦笑しながらもう一口サイダーを飲んだ。
「聖は賑やかで楽しいよ？」
「いや、オレも楽しんでるっちゃよ？」
「ほんとにぃ〜？なんかオジサンくさいんですけど言い方が」
「失礼なっ！これでも衣梨奈は華の15歳っちゃよ？」
そうしておどけて見せると、聖は目を細めて笑った。
彼女の顔を崩したくしゃっとした笑い方が、生田君は好きだった。
なんだか、こんな彼女の笑顔は久しぶりに見たような気がして、自分も嬉しくなる。
結局、彼女の抱えていた悩みは解決されたのかなと考えながら、サイダーを口にした。
「今度はふたりで来よっか」
「……へ？」
「遊園地。ふたりでデートしようか」
聖はそう言うと優しく微笑んだ。
試されているような、からかわれているような、その奥に真剣さも潜ませているのか、判別できなかった。
しかし気分は、なんの苦労もせずにヘリコプターでエベレスト登頂に旗を立てたようなものだった。
此処で畳み掛けるのが正解か不正解か分からなかったが、気付いたときには生田君はサイダーを手放し、聖の手を握っていた。
彼女は一瞬だけきょとんとし、自分の手と彼の顔を見比べる。そのうち聖も、少しだけ顔を赤らめた。
「聖……」
真っ直ぐな瞳に、射止められた気がした。
彼のこうした表情が、聖は堪らなく好きで、そして恥ずかしくなる。そんな瞳で見つめられると、息を呑んでしまう。
思考を失い、ただ単純に、「好き」と想い、ともすればキスをしたくなる。ただしそれは、言わない約束。
「聖、オレ……オレ、聖のことが……」
瞬間、だった。
生田君の後方200メートルはあろう箇所からの風切り音のあと、猛スピードを出したコーラの缶が衝突してきた。
ものの見事に生田君の後頭部と正面衝突。ある意味でストライク、バッターアウト。
この場合のバッターは生田君なので、デッドボールの方が正しいが。
「ごめんごめん、つい遊んでたら飛んでったんじゃ」
後方から飛んできた楽しそうな声に生田君は後頭部を押さえて振り返る。
案の定、クソが付くほど生意気な笑顔を携えた鞘師君がいる。
「里保ちゃん、さすがに大人げないよ」
「15年連続Bクラスでイラついてたんじゃ。香音ちゃん許してにゃん」
「寒すぎだし意味分かんないし」
「いっつもCSに行ける竜に、鯉の気持ちなんて分からんのじゃ」
生田君を尻目に繰り広げられる会話に、わなわなと手が震えた。
コイツ、本気でぶん殴らせろと生田君はコーラの缶を手にし、バーテンダーよろしくシェイクする。
高速で振られる手に聖がきょとんとしたのも束の間、「里保ォ！」と叫んだ生田君はプルトップを開けた。
「喰らえ！必殺、コーラでしゅわしゅわぽーん！！」
「甘い！奥義、鞘師ガードッ！！」
コーラから放たれた大量の炭酸水は、勢いよく鞘師君へと噴射された。
しかし、先を読んだ鞘師君は何処から持ってきたのか、ポリバケツの蓋を手にして盾代わりにした。
結果的に炭酸水は跳ね返り、この場合生田君に向かって戻ってきた。最終的には生田君がコーラの雨に濡れることとなった。
「……さぁやぁしぃぃ！！」
「わぉ。まさかそんなに濡れるとは…」
「待てコラ、クソガキぃ！！」
生田君が駆け出した瞬間、鞘師君も脱兎の如く走り出した。
100メートル走はクラスで1・2を争うほどの俊足のふたりの追いかけっこが始まった。
「あーあ……ごめんね、聖ちゃん。邪魔して」
お詫びのしるしなのか、香音からクレープを受け取った聖はきょとんとした。
「へ？え、あ、やっぱりそういうことだったの？」
どうも、嫉妬からくる行動だとすぐには結び付かなかった聖に対し、香音は肩を竦めた。
鈍感で天然なところが、可愛いんだろうなとクレープを頬張った。クリームとチョコレート、そしてイチゴの相性が絶妙だ。
「里保ちゃん、あれで応援したいみたいなんだけどねー」
「……そうは見えないけど」
「大人になりきれない少年なんだよ。いつまでも」
「そんな少年が好きなんでしょ、香音ちゃんは」
聖がからかうように呟くと、香音は曖昧に笑って答えなかった。
自分たちが進展するより先に、このふたりの方があっさり付き合ってキスくらい済ませちゃいそうだと聖は思う。
香音くらいに冷静に、どっしりと構えていれば、もう少し変わるのだろうかとクレープを齧った。甘い甘いクリームが口内に広がった。
「で、この前の悩みは解決した？」
「へへ。やっぱ心配してた？」
「私もだけど、里保ちゃんも。あといちばんは、あのキモいKYぽんが」
香音は視線を100メートル先のメリーゴーランドに移した。
メリーゴーランドの周囲をぐるぐると走り回るあのふたりは、客の迷惑というものを考えないのだろうかと肩を竦める。
「オレはいつになったら、聖の力になれる男になるっちゃろうって悩んでたよ？」
聖はそれを聞いて困ったように笑った。
聖は生田君を信頼してないわけじゃないし、充分、彼に支えられている。
だからこそ、言えない話もある。自分で解決しなくてはいけない問題だとも思うし、これ以上巻き込んでしまいたくない。
特に今回の問題は「家」だの「財閥」だのと、厄介で、人間の汚い部分が剥き出しになっているものだから。
「男の子って、いつまでも王子でありたいんじゃないかな？」
「え？」
「ほら、引っ張っていたいし、護ってあげたいんじゃない？好きな人なら特にさ」
香音はそう言うと美味しそうにクレープを齧る。
「王子」という言葉には何処かで聞き覚えがあったのだけれど、何処だっけ？と聖は思い出せない。
だが、もし彼がそういうことを考えているのだとしたら、それだけ好かれているのだとしたら、嬉しい。
ああ、どうしよう。こんなことを想像するだけで、胸が痛い。彼の優しさに甘えてしまいそうで、怖い。
「聖、ワガママなの」
「そうなの？」
「そうなの」
聖はそう苦笑するとつづけた。
「えりぽんに相談して、楽になりたいって思う自分がいるし、でも、それじゃダメだって思う自分もいる。
家柄とか全部放り出せたら楽だって思うこともあるけど、この家柄のおかげで助けられてる部分もあるし」
手の中のクレープが溶けそうになって慌てて食べた。
チョコレートが甘くて、イチゴが酸っぱくて、複雑だ。誤魔化すように、もう一口齧ってる。やはり結果は、同じだった。
「聖ちゃんは真面目すぎなんだよ。ベタだけど、困ったときは助け合いが基本だよ」
「フフ。香音ちゃんホント優しいんだね」
「鈴木香音は正義の味方だからね」
白い歯を見せて笑いかける香音を見て、自分はとことん、親友に恵まれていると聖は思った。
自分の傍にはいつだって、だれかがいて笑顔で手を差し伸べてくれる。それが単純に嬉しかった。
「あ……あの野郎…逃げやがった……香音ちゃんバトンタッチ…」
「ハイハイ。じゃああとよろしくっ」
生田君は肩で息をしながら香音と入れ替わりでベンチに座った。どうやら追いかけっこは鞘師君に軍配が上がったようだ。
コーラで濡れたシャツを第3ボタンまで開けると、そこから胸筋が見え隠れして、思わず聖は顔を逸らした。
隠してよなんて言ったところで無駄だと知っていたので、聖は黙っている。
「……食べる？」
「お、サンキュー」
聖は誤魔化すように生田君にクレープを渡した。
彼は溶けそうなクリームをぺろりと舐め、イチゴを頬張った。運動したあとなのによく食べられるなと聖は感心する。
すると、生田君の口元にチョコレートがついていた。
「えりぽん、口についてるよ？」
「ん？あ、おー……取れた？」
彼は舌を起用に伸ばして口元を拭うと、チョコレートは綺麗に取れた。
その舌先の動きは、普段では絶対に見られない行為であり、何処か官能的で聖は再び顔を逸らした。
生田君はそんな彼女の意に介さずに、「聖、返すっちゃよ」とクレープを渡した。
黙って受け取った聖は、なんとか高鳴った鼓動を押さえようとひとつ息を吐いて、クリームを舐めた。
「って…聖も口についてるやん」
聖が今度はそう指摘され、自分で取ろうとしたとき、生田君はひょいと指を伸ばした。
人差し指の第二関節でクリームを掬ったかと思うと、そのまま彼は、自分の指を聖の唇へ持っていった。
聖は目を見開いて驚くが、生田君は無意識に聖が舐めた人差し指を戻し、再び自分でペロッと舐める。
「やっぱ甘いっちゃねぇクレープは」
なんて無邪気に話す生田君に、聖の心臓は爆発寸前だった。
天然な生田君の無意識下における「タラシ」は最上級だった。自分の予想を軽々と超えていく。
破壊力抜群な行為に腰が砕けそうになるが、必死に聖はクレープを食べきった。
隣に置いていたコーラで喉を潤す。ダメだ、私もう、完全にこの人にハマってると肩を落とした。
「……聖、どしたと？」
「へ？」
「やっぱ、なんか悩んどぉと？」
肩を落とした聖を、落ち込んでいると勘違いした生田君は心配そうに彼女を覗き込んだ。
真っ直ぐな瞳に見つめられ、聖は太刀打ちできなくなる。
あの夏祭りの夜に告白されてから、いたずらっ子のように、もういちど彼から告白されることを聖は待っていた。
しかし、いまはもう、待ちきれないほどに、胸の想いが弾けそうになる。自分からこの気持ちを、伝えたくなった。
「えりぽん……あのね」
-------
「あっ…んん……はぁ…えりぃ…」
「うへへぇー。れーなぁ。ボクのれーにゃぁー」
そのころみちしげ君は、道重財閥専用リムジンの中にいた。
いつものように監視カメラの映像をハァハァと荒い呼吸で見つめている。
画面の中にいるのはかめい君とれいなだが、年がら年中体を重ね合っているこのバカップルにはうんざりだった。
「告白ｸﾙｰなの！ドキドキなの」
もうひとつの画面には、生田君と聖の様子が鮮明に映し出されている。
執事兼SPたちの撮影した映像は複数の角度から録画され、このまま切り取って編集すればいくらかで売れるような代物だった。
画面の中のふたりの距離はかなり近づき、もう少しで告白、あるいはキスするのではないかとみちしげ君もハラハラする。
かめい君たちの情事も悪くはないが、こうした甘酸っぱい恋もたまには楽しいものだ。
「若、失礼いたします」
「もー。いま良いところなんだから邪魔するななの」
リムジンの窓を叩いた彼に対して、みちしげ君は嫌味ったらしく返した。
しかし、彼が当主であるみちしげ君に対してこれほど緊急に話しかけるということは、なにか良からぬことが起きているということでもあった。
ある程度の嫌な予感を携えながら、みちしげ君はイヤホンを外す。
「例の財閥の息子、やはりこの遊園地に来ています」
その言葉を聞き、ざわりと胸に黒い闇が広がった。
聖へのストーカー疑惑がもたれる例の財閥の当主に対し、道重財閥は密かに監視をしていた。
しかし、今朝になってその行方が掴めなくなり、まさかと思ったみちしげ君は、聖と生田君を実況中継しつつ、彼らを護衛することを決めた。
そして案の定、その網の中に例の当主は入り込んできていた。
「いま何処にいる？」
「お化け屋敷の南西200メートルの地点です。譜久村様と生田様の場所からはまだ距離がありますが…」
「偶然、ってことはないよね」
「恐らくは、譜久村様をつけてきたのかと…いかがいたしますか？」
先ほどまで画面を見て騒いでいた表情は消え、ひとりの当主の顔になった。
「C班、捕捉したか？」
彼がマイクに乗せてそう聞くと、みちしげ君の目の前に映像が流れる。
グレーのジャケットに紺のシャツ、濃い青のジーンズをはいた男は、一見すると普通の入場客のようだった。
しかし、何処か挙動不審であり、だれかを探しているその姿を見て、みちしげ君は下唇を噛んだ。
「周りにアイツの財閥SPはいないの？」
「半径100メートル内に3人、300メートル内に4人ほどおります。公共の場で騒ぎを起こすとは考えにくいですが…」
別のカメラが相手財閥のSPを捕捉した。
確かに数人、マイクとイヤモニをつけた怪しい男たちが画面に映る。こんな下手な護衛、道重財閥では考えられないなと苦笑する。
さて、財閥当主として次にどう行動すべきか、みちしげ君は悩んだ。
「若。ヤツが進路を変えました。譜久村様たちの方へと歩いてきます」
彼の声にみちしげ君は慌てて画面を見る。
男は確かに、一直線にベンチへと向かって歩いてきていた。まさか気付かれたかと頭をかく。
「距離は？」
「現在200メートル……180……若、此処は私が」
「待って。あいつらも動いてる。いま出て行っても、間に合わない」
男が動くと同時に、彼のSPたちも進行方向を変えて向かってきていた。
なにが狙いかは読めないが、分かることがある。現状が、最悪であることだった。
「とにかく半径300メートルを固めて。手を出したら指示を待たずに判断して動いて良い。報告だけは忘れないで」
当主の指示に頭を垂れたあと、彼は全力で走り園内へと戻った。
みちしげ君は、彼の存在に未だに気付かずに甘い空気の中にいるふたりを見つめた。
この笑顔を、曇らせてはいけない。しかし、相手がなにを考えているか分からないいま、下手に動くことはできない。
「嫉妬は醜いものなの」
映像班が捕捉した画面に釘付けになりながら、オレンジジュースのパックを飲んだ。思いのほかに酸味が強くてストローを噛んだ。
どうも今日は、当主としての勘が働く。嫌な予感しかしないことが、腹立たしかった。
-------
聖が声を出そうとした瞬間だった。感じたことのない嫌な空気が聖を包み込み、ぞわりとした。
振り返ろうにも体が固まる。どうしてこんな場所で金縛りにあうのだろうと思った。
「……聖？」
生田君が心配そうに覗き込んだのも束の間、急に太陽が陰った。
まさか雨？と感じて天を仰ぐと、そこには彼が見たこともない男が立っていた。
「お久しぶりです。聖さん」
「あなたは……」
「先日のパーティーでは失礼致しました。お見苦しいところをお見せしてしまいましたね」
グレーのジャケットに紺のシャツを着た男は、目に着けていたサングラスを外した。
隣にいる生田君には目もくれず、聖を真っ直ぐに見て、柔らかく微笑んだ。いや、微笑んでいるつもりなのだろう。
生田君は、その笑顔がまるで顔に貼りついたような冷笑であることに気付いていた。彼は全く、笑ってなどいない。
「どうして、此処に？」
「たまたまですよ。私もこの遊園地に遊びに来ていたんです」
生田君は、彼が「先日のパーティー」で聖と知り合った人物だと理解した。しかし、生田君はそのパーティーのことはなにも聞いていない。
聖がその家柄の関係で、様々なパーティーや立食会に参加していることは知っていた。
だがそれを自分が知らないことが、不満だった。まるで、自分と彼女の間の見えない壁を強調されているようで。
分かっている。ずいぶんと理不尽な怒りだということくらい。落ち着け落ち着けと、必死に言い聞かせる。
「おや、聖さん。この方は新しい恋人ですか？」
いままで目もくれなかった男が急に生田君に向き直り、そう聞いた。
その棘のある言い方にムッと顔を曇らせそうになったが、それ以上に「新しい」という言い方に生田君は反応する。
どういう意味か理解する前に、聖が先に口を開いた。
「違います。この人は幼馴染の生田衣梨奈です」
「ああ、また庶民とお付き合いなされているのですね。譜久村家の教育方針を疑いますよ。
しかし御友人でしたか。てっきり道重財閥の息子から乗り換えたのかと思いましたよ」
その声は当事者であるみちしげ君の耳にも、監視カメラの映像を通してはっきりと届いていた。
なるほど。あのときのこちらの咄嗟の機転を手玉に取ったのかとイヤモニを押さえた。
自分の知らないパーティー、知らない財閥の男の存在、そして、その男から聞かされる事実に、生田君が受けるショックは計り知れない。
「堪えてよ、えりぽん……」
呆然としながら男と聖を交互に見る生田君を画面越しに見ながら、みちしげ君はそう祈った。
なんとか切り返そうと聖が口を開く前に、男はさらに畳みかけた。
「聖さんも悪い人ですね。あんな日本有数の財閥嫡男がいながら、庶民をたぶらかすとは」
「待って下さい。私はそんなこと」
「聞けばその嫡男も、飯窪財閥の娘とデキているとか。あなたも遊ばれているんですかね」
勝手に目の前で進行していく話に生田君は眉を顰めた。
分からないなりに話を整理した結果、「みちしげ君と聖が付き合っている」ということは分かった。
そんな話、聞いていない。いったい、どういうことだ？まさか聖は、自分に黙って付き合っていた？
「聖さん。前にも言いましたが、あなたに相応しいのは私のような人間です。
私はあんな変態でも、そこにいる無様な庶民でもない。あなたをシアワセにする自信がある」
そう言うと聖の手を男は取って、無理やり立ち上がらせた。
生田君は彼女を止めることもできず、ただ呆然とベンチに座っていることしかできなかった。
思いの外に、自分の頭で考えついた結論にショックを受けていた。
聖は「離して下さい」と拒絶するが、男は半ば強引に連れて行こうとする。
「あのバカ…立って引き止めるくらいしろっつーの……クロ！なにしてるの？！」
「―――若……ご―――財閥―――申し訳―――」
一連の動きを見ていたみちしげ君は指示を出したが、返ってきたのは雑音だけだった。映像も乱れ、いつの間にか砂嵐になった。
おいおい、まさか向こうの財閥に押さえ込まれたんじゃないだろうなとイヤモニを外し、リムジンから外に出た。
親子連れで賑わう休日の園内を長髪の男が駆け抜ける。それはひとりの当主の顔であり、ひとりの友人としての顔になっていた。
「だからちょっと待って下さい。私がだれと付き合おうと、あなたには関係ないことです」
「あなたは分かっていないんです。私がどれほどの人間であり、どれほどあなたに相応しいのか」
「私の友人をバカにするようなあなたと、私がお付き合いすることは今後ないと思います」
「気の強い女性ほど、落としたくなるものですよ」
一進一退の攻防がつづいても、生田君は立ち上がらなかった。
それは何処か遠い世界の出来事のように見える。自分の大切な人が巻き込まれている出来事が、あまりにも大きすぎる。
目には見えない、古くからつづく良家としての、聖と自分との間にある壁が、あまりにも大きい―――
「えりぽんッ……」
聖はすがるように、助けを求めるように、ベンチに座り込んでいる生田君を見た。しかし、彼は微動だにせずに地面を見ていた。
絶望の足音が聞こえてくる気がした。男は聖を無理やりに引き寄せ、その胸の中に押さえ込んだ。
「行きましょう。車を用意してあります」
「ちょ……待って、ヤダ！」
こういうとき、小説やドラマの世界じゃ、必ずヒーローが助けに来てくれるものだ。
だが、恐らくそのヒーローになるべきであろう生田君は立ち上がらない。
「王子」になりたいんじゃないの？と泣きそうな瞳で見つめるが、彼は動こうとしなかった。
―えりぽんッ！！
聖が心の中でそう叫んだ瞬間だった。
遠くから「しゅわしゅわぽんぽ〜ん！」と元気の良い声が聞こえた。
ずいぶんと情けなくて頼りない声だったが、そのおかげで、聖も男も生田君も、一瞬気が逸れた。
「うわっ！」
男はそう叫ぶと目を押さえた。
気付くとそこには、両手にコーラのペットボトルを持った佐藤君と鞘師君がいた。
ふたりとも派手にペットボトルを振ったのか、そのコーラはすべて泡となり、炭酸のシャワーが男に降り注いでいる。
さながら野球のペナントレースで優勝した際に行われるビールかけであった。
「こういう風にビールかけしたいもんじゃのぉ！」
「まーちゃんのチームは優勝しましたよぉ〜」
そうしてふたりが笑いながらコーラをかける様子を、聖も生田君もただ呆然として見ているだけだった。
金縛りが解けたのは、「ふたりとも早く！」と香音が叫んだときだった。
香音に腕を引かれ、漸く立ち上がった生田君は、聖と香音とともに男に背を向けて走り出す。
「ま、待て！てめぇらなにしやが―――」
「うっせぇバーーーカ！！」
男が叫んだのも束の間、佐藤君と鞘師君の間から突っ込んできた工藤君は、男の腹部に飛び蹴りを見舞わせた。
体が軽いとはいえ、助走をつけた飛び蹴りは想像以上の威力だったのか、男は顔を歪ませ、膝をついた。
「どぅーカッコいい〜！」
「へへっ。どーだ！参ったか！」
「調子乗ってないでさっさと逃げるんじゃ！」
3人は踵を返すと、脱兎の如く走り出した。
「あ、みちしげさん後処理お願いしますッ！」
逃走中にすれ違ったみちしげ君にそう伝えると、3人は聖たちの後を追う。
後処理を任された当主は、深く息を吐くと、コーラのシャワーを浴び、腹部を押さえている哀れな男と対峙した。
園内の客たちは、異様な光景を遠巻きに見ていたが、傷つきながらも立ち上がり、「映画の撮影ですので」と話す道重財閥のSPたちの説明に従った。
やれやれ、やはり相手財閥と殴り合ったのかとみちしげ君は苦笑した。
「きみは学習能力がないのかな？」
その声に男は顔を上げた。
太陽を背にした彼はその長い黒髪をひとつに結び、青いジーパンにピンクのワイシャツという当主らしからぬ恰好をしていた。
しかし、そこから感じる異様なオーラに男は震えそうになった。
「聖に手を出したら全力で潰すって言ったよね？」
「ハッ…やっぱり来てやがったか。飯窪の娘も誑し込んでるくせに、彼氏面しやがって」
随分な言い草だなと思うが、此処で話をややこしくさせたくないなとみちしげ君は黙っている。
男は立ち上がってみちしげ君を睨み付けた。俺とこの男と、決定的な違いはなんだ？
「お前も分かってんだろ。俺の財閥はそう長くもたねえってことも」
「自覚はあったんだ。意外なの」
「俺に忠実に仕えるのは此処にいる連中くらいだ。人望も金も経営力もないことくらい、知ってるさ」
男は前髪をかき分けると先ほどまで生田君が座っていたベンチに腰を下ろした。
急に自分語りをするとは、慰めてほしいのだろうかと彼を見下ろす。
「欲しいものはなんでも手に入る、お前が羨ましい」
「それ、本気で言ってるのなら、軽蔑するの」
「違うって言うのか？生まれたころから日本のトップをひた走る財閥の息子に、苦労もなにもねえだろ」
みちしげ君は男の隣に腰を下ろした。その距離はずいぶんと開いているが。
「土下座したことある？」
「は？」
「さゆみはあるよ。プライドがないって思われても良い。自分の抱えるものを護るためなら、この頭、いくらでも下げてやるって決めたから」
自分のことを語るつもりなんてなかったが、売られた喧嘩は買う主義だ。
みちしげ君は脚を開き、両の手を組んだ。
「自分の手腕に何百人の人生が懸かってる。自分がこけたら何百人が路頭に迷う。
何百人が道重財閥のために頭を垂れているのなら、当主の自分がその何百人を護るのは当然の責務だと思うんだけど」
「……お前は、それをやって来たのか」
「泥臭くて、地味で、時には汚いこともやって来たよ。それが当主に課せられた使命だから」
幼いころからレールに乗せられていた人生だったかもしれない。
だが、そのレールから外れるという選択をしなかったのは、自分の責務を知っていたからだ。
自分が果たすべき使命のために、みちしげ君はこの財閥の当主の座に座った。
「欲しいもののために、苦労してない人間なんていねぇよ。当主舐めんな、クソガキ」
みちしげ君はそういうとポケットに手を突っ込んで立ち上がった。
一発ぶん殴ってやろうかとも思ったが、なぜかその気概を削がれた。今日は妙な気分だと頭をかく。
「いまさら傾いた船に大砲撃つほど非情じゃないけど、3度目はないから」
随分な温情をかけた自分に苦笑しながらもみちしげ君は歩き出した。
その背中に向かって「もうしねぇ……致しません」と声が当たる。振り返ると、男も立ち上がり、こちらを見ていた。睨んでは、いない。
次になんと言われるのか構えていると、男は深く頭を下げた。
斜め45度、日本のビジネスマナー、最も深い頭の下げ方は実に見事な謝罪の意だった。
「謝る相手、違うんじゃないの？」
「聖……譜久村さんには改めて謝罪に伺います」
その声は先ほどまでの虚勢をはったものとは違って思わず目を見開いた。
まだ頭を上げようとしない男を見て、「やればできるじゃん」と肩を竦める。
まったく、お人好しにもほどがあるなと思いながら、「フクちゃんには、伝えとくよ」とみちしげ君は歩き出した。
男はその視界からみちしげ君が消えるまで、頭を下げ続けた。
「若。宜しいのですか？」
リムジンに戻る最中に聞こえてきた声にみちしげ君は振り返らずに返した。
「きみこそだいじょうぶなの？随分、手ひどく、やられたみたいだけど？」
「申し訳ありません。今度はこのようなことのないよう、使用人一同、誠意を込めて……」
「良いよ。皆が無事なら、それで」
みちしげ君はクスッと笑った。こんなお人好しで仏の顔なんて、一生に一度、あるかないかだなと自分で思う。
「それより、フクちゃんたちはちゃんと追いかけた？」
「はい。既にB班が向かっております」
「フフ。できるSPを持つと楽しくてしょうがないの」
そう言うとみちしげ君はリムジンに乗り込み、画面の映像を見た。
座り込んでいる中等部の姿が見える。さて、今度こそきみはヒーローになれるかな？とみちしげ君は真っ直ぐに生田君を見つめた。
そんな当主を見ながら、自分が仕えている人がこの人で良かったと、改めて彼は頭を垂れた。
-------
走っているうちに、いつの間にか遊園地の端に来ていた。
3人は息を整えながらベンチに座ったが、香音が空気を察したのか「飲み物買ってくるね」と立ち上がって駆け出した。
生田君と聖は取り残され、ぼんやりとする。聖はなにか言おうとちらりと生田君を見るが、彼は空を仰いだまま、なにも言わない。
怒っているのだろうか。呆れているのだろうか。なにから説明すべきかと聖は言葉を探した。
「あ…あの、えりぽん」
「付き合っとーと？みちしげさんと、聖」
言葉を探していた聖を遮るように、生田君が言葉を出した
「ち、違うよ、あれは…」
「アイツだれやと？聖に馴れ馴れしかったけん、知り合い？」
「あの人は…前にパーティーで知り合ったって言うか…パーティーの主催者だよ。財閥の、当主」
「なんで言わんかったと？」
生田君は真っ直ぐに聖を見る。その瞳は先ほどとは全く違った色であり、哀しさを携えたものであった。
思わず言葉を失くした聖に、さらに生田君は追及する。
「オレに言えんかった？聖と違って、庶民やから？財閥の息子じゃないから？」
「ちょっと待って。えりぽん、違うよ。あのときは……いろいろあって」
「いろいろってなんよ？」
聖は言葉に窮する。
あのパーティー当日、聖は財閥当主に言い寄られ、それを切り抜けるためにみちしげ君の打った即興の芝居に乗った。
いまこの場で「みちしげ君が聖の恋人」という設定を説明したら、それこそ生田君がショックを受けるのは目に見えていた。
かと言って黙っているのも得策ではない。どう転んでも好転しない現状に、聖は焦る。
「言えんやん。結局オレは、幼馴染でしかないっちゃろ。家柄も、立場も違い過ぎるっちゃろ」
「ねぇ待ってえりぽん。聖はそんなこと思ってない…えりぽんは、聖にとって大切な」
「言えば良かやろ！みちしげさんとかあの男と付き合っとぉって！」
生田君はそう叫んで立ち上がった。
あの財閥の男が遠くから自分を見ていたことは知っていた。
まるでストーカーのようにつけ纏うその姿が怖くて、逃げたくて、だけど聖はだれにも相談できずに心にしまいこんでいた。
生田君に、これ以上心配をかけたくなくて、自分でなんとか解決しようと努力していた。
それが結果的に彼を追い込み、いま、このような勘違いが加速してしまっている。
なんとか止めなくてはと思うが、聖が声を出す前に生田君は頭を掻き毟って叫んだ。
「オレみたいな奴より、聖には、みちしげさんの方がお似合いっちゃ！」
「えりぽん待って！！」
制止する聖の声を振り払い、生田君は走り出した。
途中で香音とすれ違い、「えりぽん！」と呼ばれたが、振り返らない。
ああ、もう、どうしてこんなことになってるっちゃと頭の中が混乱してきた。
聖のことだから、なにか理由があることくらい分かっている。
財閥とのパーティーだって、別にいつも生田君に報告する義務はない。
分かっている。分かっている。分かっているのに、心の中に巣食った疑念は闇のように広がって、全体を呑み込もうとする。
信じたいのに、信じきれない自分がいる。弱い自分が嫌いで、八つ当たりする自分が嫌いで、吐き気がする。
聖のピンチの時に、立ち上がることができなかった自分が、大嫌いだった。
「しゅわぽくダブルキーーック！」
そのとき、背中を勢いよく蹴られ、生田君は無様に顔面からこけた。
あまりの勢いに驚いて振り返ると、そこにはヘラヘラと笑う佐藤君と腕を組んで仁王立ちの鞘師君がいた。
「いくたさぁん、なにしてるんですか？」
「なにって……てか急に蹴んな！鼻血出るかと思ったやろ？！」
「いまのえりぽんにはお似合いじゃ。ビビって立ち上がれん、フクちゃん置いて逃げ出す根性なしじゃけんのぅ」
「なんやとぉ！」
生田君は鞘師君の胸倉を掴むが、彼は微動だにしない。切れ長の一重瞼は真っ直ぐに生田君を睨んでいる。
その瞳がいつものように小生意気な色を携えていないことが、生田君は怖かった。
「生田さん、ここで逃げたらホントに終わりですよ？譜久村さん、泣きそうでしたよ？」
何処から出てきたのか、工藤君がそう呟いた。
言われなくても分かっている。分かっているけれど、なんて言えば良いか分からない。
「……フクちゃんが家柄とかで人を見てたら、僕らはこんなに仲良く遊んでないでしょ」
鞘師君はそう言うと、胸倉の手を掴み、ゆっくりと離した。
乱れたシャツを整えると「空気読めないえりぽんが、壁ぶち壊せなくてどうすんだよ」とつづけた。
「家とか背負ってるものはおっきくても、フクちゃんはフクちゃんだって、いちばん分かってんのがえりぽんでしょ？」
「ちゃんと話せば分かりますよ。言いたいこと、お互いに言い合ったら良いんです」
「考えすぎなんですいくたさんは。もっと素直にぶつかっても、ふくむらさんは壊れません。だいじょうぶです、きっと」
後輩に諭されて、生田君は素直に頷いた。
ただ、怖かったんだ。家柄や背負うものが違い過ぎて、いつか聖が離れて行ってしまうのではないかと。
いまは仲良くしているけれど、いつか財閥の息子と結婚してしまうのではないかと。
ああ、そうだ。自分は大馬鹿者だ。弱虫で、ネガティブで、鞘師君の言うように、根性なしだ。大切な人も護れない、間抜けな奴だ。
「ほら、さっさと行くッ！」
鞘師君がどんと背中を押し、生田君はよろめいた。
振り返ると、いつものような小生意気さを携えた後輩3人が笑っていた。
「いくたさん、ファイトです！」
「だいじょうぶ！生田さんならできますっ！」
「フクちゃんこれ以上待たせちゃダメだって。なんなら僕が代わりに行こうか？」
随分と荒っぽいが、いまの生田君には心強いアドバイスにも聞こえた。
「………うっせぇ、アホ」
髪をぐしゃぐしゃと掻き毟り、生田君は元来た道を走り出した。普段は生意気だけれど、今日は素直に、後輩たちに感謝したかった。
いまはただ、聖に謝りたかった。ちゃんと、誠心誠意を込めて、ごめんと言いたかった。
そうだ。今度こそ、自分の足で立ち上がって、ちゃんとあの手を取らなきゃダメだ。
あの男を拒む聖を助けることができなかった。寂しそうな瞳をした聖を置いて逃げ出してきた。
だからいま、彼女のために走って戻ろう。今度こそ、ちゃんと自分の力で、聖と向き合おう。そう決意して、生田君は懸命に走った。
「あー、面倒くさいッスねー、あのふたり」
「さやしさんは、良かったんですか？」
聖の元へと走り出した生田君を見ながら、佐藤君は鞘師君に振り返った。
「……しょーがないじゃろ。あ、サイダー飲も。ふたりもいる？」
傾き始めた西日に目を細め、鞘師君は自動販売機へと歩いた。複雑な想いを流し込むように、サイダーを飲みたかった。
3人分のサイダーを買ったのと、向こうから香音が走ってきて「ご苦労様」と笑い合うのは、ほぼ同時だった。
-------
夕陽が園内を照らし始めていた。
生田君が走って戻ってくると、聖は先ほどと同じベンチでぽつんとひとり、座っていた。
寂しそうに俯く姿に、心が軋んだ。もう二度と、あんな哀しみは背負わせたくなかった。
なんて声をかけるか悩んだが、生田君は奇を衒わずに、ただ素直になろうと思った。足早に歩み寄り、「ごめんっ！」と頭を下げた。
突然のことに聖が顔を上げるが、もういちど「ごめん！」とつづけた。
「傷つけて、ごめん。ガキみたいなこと言ってごめん。情けなくて……頼りなくて……カッコ悪くてごめん」
あれ、なんだか後半は謝る内容と違うようなと思うが、構わずにつづける。
「聖がいろいろ悩んどったのに、すぐ、嫉妬して、困らせて…ホント、オレ…」
そのとき、聖が生田君の頬を両手で包み込んだ。
許しを請うように顔を上げると、彼女は優しく微笑んで首を振った。まるで聖母のような佇まいに生田君は息を呑む。
「聖も……ごめんなさい。えりぽんに、ちゃんと話したいことあったのに、言えなくて」
「いや…それは衣梨奈が頼りないからであって」
「違うよ、聖、怖かったの。全部話したら、えりぽんは聖のこと、嫌いになるんじゃないかって思って」
「嫌いになんか―――！」
生田君は聖の左の手首を掴んだ。「嫌いになんかなるわけない」と言いたいのに次の言葉がつづかなくて、なんどか逡巡する。
頭の中には、先ほど後輩3人から言われた言葉が次々と浮かんでは消える。だいじょうぶ、だいじょうぶと言い聞かせた。
すぅと息を吸い、深く吐いた。目を閉じたあと、ゆっくり開く。聖と視線が絡む。大きな彼女の瞳に吸い込まれそうになる。
瞬間に、想う。あの夏祭りの夜と、同じように。ただ純粋に、聖のことが好きだと―――
ごめん、聖。タイミングも何も分からんで。でも、言いたくなったっちゃん。
「……聖が、好きっちゃ」
生田君の言葉がふわりと宙に浮いた。
それは放たれたあと、すぐに意味を掴むために急いだ。
「オレは、聖が好きっちゃ。世界でいちばん、愛してるっちゃ」
前にも、何処かでこんなセリフを言ったような気がする。あれは夏祭りの夜の夢ではなかったのだろうか。
思い出せないけれど、この胸の高鳴りは尋常ではない。「好き」と伝えることは、とても苦しい。だけど、あまりにも愛しい。
聖がだれを好きでも構わない。本当にみちしげさんと付き合っているのかもしれない。それでも伝えたかった。
この胸を締め付けて離さない、どうしようもないこの想いを。どうか、どうか届いてほしかった。
「えりぽん……」
聖の瞳から大粒の涙が零れ落ちたのはそのときだった。
突然の出来事に生田君は目を見開いて驚き、慌てる。
泣くほど嫌だったかと「みみみみみ聖ごめんっ！」と手を離してハンカチを取り出そうとしたが、その手は強く握られた。
どうして良いか分からずに佇んでいるとふわりと優しい香りに包まれた。
瞬間、なにが起きたかを把握することは困難だった。それはあまりにも唐突で、あまりにも現実離れし、あまりにも予想の斜め上を超えていた。
「聖っ―――」
言葉がすべてはつづかなかった。彼の声は聖の唇に吸い込まれた。
それは甘い甘い、聖からもらったクレープよりも甘い口付けだった。
時間にして僅か1秒足らず。触れるだけの子どものようなキスは、それでも確かな感触を生田君にもたらした。
唇が離れ、聖を見る。彼女は紅潮させた表情をこちらに向け、黙っていたあと、ふわりとその胸に飛び込んできた。
「……ありがとう。2回も、ちゃんと言ってくれて」
確かな重みが、心地良くて、暫く間抜けに突っ立っていて、腕を背中に回すことも忘れてしまっていた。
彼女の言う意味も、自分の身に起きた出来事も理解できず、ただ口をパクパクさせた。
「私も、好きです」
聖はそうして柔らかく微笑んで答えた。生田君はたっぷり10秒の沈黙のあと「へ？」と返した。
実に間抜けな表情だが、それがおかしかったのか、聖もフフっと笑い、「だから」とつづけた。
「私もえりぽんが好きです。大好きです」
それは、あの夏祭りの夜と同じ光景だった。唯一違うのは、彼女がその大きな瞳から涙を零していることだった。
哀しみからくるのではなく、喜びと、驚きと、そして嬉しい感動の涙はとても綺麗だった。
間抜けに突っ立っていた生田君も、漸く状況を把握したのか、目を見開いて「ままままままマジで？！」と返す。返答もやはり、間抜けだが。
「ごめんなさい…先にキス…しちゃった」
「いいいいいやいやいや！ぜんぜんもう！ね？え、あ、あ、おおおおう！」
あまりの状況に混乱し、全く言葉が出てこないが気にする余裕もなかった。
全然スマートじゃないがもうどうでも良い。盆と正月が同時にやって来たような今日はまさに祝祭だと思う。
生田君は困ったように頭を掻き、だらしなく頬を緩ませて笑った。正直、カッコ良さなんて全くない。
「えーっと聖……」
「はい」
「王子」になれなくてごめん。颯爽と駆けつけるヒーローになれなくてごめん。
だけど、だけどさ、聖。
「こ、こ、これからも、宜しくお願いします」
そう言うと生田君は聖と少しだけ距離を取って頭を下げた。
いっしょに歩いていきたいと思った。これから先、たくさんの苦難があったとしても、ひとつひとつ超えていきたかった。
見えない壁があっても、どうしようもない理不尽があっても、もう逃げずに向き合うから。
「こちらこそ宜しくお願いします」
彼なりの精一杯を理解した聖は優しく笑い、涙を拭って頭を下げた。
なんだこれ。見合いの挨拶じゃあるまいしと生田君は照れて笑い、聖の手を改めて握り、そのまま引き寄せて抱きしめた。
「ずっと……こうしたかったと…」
「聖も……」
温かくて心地良い人肌に泣きそうになる。こんなに泣き虫じゃなかったはずなのにと鼻を啜った。
ああ、そうかと理解する。好きな人に「好き」と言う単純なことは、ちっとも普通のことじゃない。
好きな人の隣にいて、笑って、抱きしめて、キスをすることは、たぶんきっと、物凄い確率の「奇蹟」みたいなものなんだ。
ある意味で、ありふれているのだけれど、ある意味でそれは、奇蹟。
ごめん聖。また衣梨奈、キモいこと思っとーけん、今日だけは、許してほしいっちゃ。
「み、聖……」
「うん？」
先ほどは聖からされてしまったけれど、正式に恋人になったいま、怖いものはない。
今度こそ男らしく自分からキスをしようと生田君は顔を傾けた。
しかし、その顔は実に厭らしく、唇を突き出したそれはタコのようで、聖は思わず「いーやーだぁ」と笑って拒絶した。
どんと突き飛ばされた生田君はこれまた間抜けな顔で「ふぇ？」と聖を見る。
「調子に乗るなよ、ばーかっ」
「み…聖、それはひどいっちゃよぉー」
情けない声でそう呟くと、聖はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
結局のところ、その表情もまた可愛くて、好きで好きで堪らなくて、太刀打ちできないから敵わない。
同じ目線に、少しは辿りつけたのだろうか。見えない壁を、少しは壊すことができたのだろうかと肩を竦めた。
すると聖が「ね、えりぽんっ！」と声を出したので、生田君は「ん？」と聞き返す。
「聖、あれ乗りたい！」
そうして聖は大きな観覧車を指差した。そこで此処が遊園地だということを漸く思い出した。
時計を見るが、まだ閉園まで時間がある。生田君は顔を崩して笑い「じゃ行こっか」と聖と並んで歩き出した。
それはいままでとなんら変わらない光景だった。ひとつ違うのは、聖と生田君の手がしっかりと繋がれていることだった。
繋いだ手を互いに離そうとはせず、絡み合った指先が愛しくて柔らかく笑う。
1日の終わりを告げる夕陽が園内を温かいオレンジ色に染めている。10年越しに実ったひとつの恋を、優しく見守って輝いていた。
10年越しの恋に口づけを おわり
-------
オマケ
ﾉd*・ ｡.・）＜漸くあのふたりがくっついたの…とにかくおめでとうなの
（ ■_■）＜例の財閥の息子も深く反省したようですし、一件落着ですね
ﾉd*- ｡.-）＜とはいえ、えりぽんはフクちゃんを大事にするあまりキス以上に進展はなさそうなの…
（ ■_■）＜初々しい限りですね
ﾉd*- ｡.-）＜あのふたりもちょっとは見習ってほしいものなの
ﾉd*＾ｰ＾)从*´ ヮ｀)＜シゲなんの話ー？
オマケ��
ﾉd+｀ｰ´ﾘ＜今日はヤケ酒ならぬヤケサイダーじゃけんのぉ！
ﾉd；´ ｡｀ﾙ＜も、もうもう飲めません……
ﾉd* ^_〉^)＜さやしさんおもしろぉ〜いｗ
从；´◇｀）＜収拾がつかないんだろうね……
10年越しの恋に口づけをのつづき→
佐藤君の声はよく響くなと工藤君は思うが、それに負けないくらい、彼も「うおぉぉ！！」と叫んだ。
長く続いた雨がようやく終わりを見せ、待ちわびた青空がひょこりと顔を出した土曜の午後、生田君はある遊園地に来ていた。
聖がみちしげ君からもらった招待券を使い、中等部のいつものメンバーで入場ゲートをくぐる。
「里保ちゃん、あのジェットコースター怖そう！」
「僕あれはちょっと……」
「鞘師さんって意外と怖がりなんですねー」
「どぅーもお化け屋敷入れないくせにぃ」
正直、ふたりきりのデートを期待していた生田君は、この余計なオマケたちにガッカリしたのだが、今日の聖の服装を見てそんな考えは吹っ飛んだ。
聖は白いワンピースに茶色のベストを羽織り、胸元には花のコサージュをつけている。
ワンピースから覗く長くて綺麗な脚に思わず生唾を呑み込んだ。
「ね、えりぽん、あれ乗ろう！」
聖は生田君の袖を引っ張った。
なんだかんだで、デートはデートだ。こんな可愛らしい女の子を目の前にして不貞腐れているのはあまりにももったいない。
ここ数日、元気のなかった聖が漸く嬉しそうに笑ってくれているのだ。それで良いじゃないかと思う。
生田君は「よっしゃ、行こう！」と聖とともにジェットコースターの列へと並んだ。
-------
遊び盛りの中等部にとって、遊園地とはなんともご褒美な場所だった。その体力に任せて全力で遊び倒そうとしている。
なんどもなんども派手なジェットコースターに乗り、地上数百メートル地点から一気に落下するフリーフォールに乗っては意識を飛ばしそうになった。
だが、いくら体力の有り余っている彼らとはいえ、さすがは人間。これほど休憩なしに遊べば疲れるというものだ。
生田君はどっしりとベンチに座り、呼吸を整えた。
「最初にジェットコースター作った人ってだれやっちゃろ……」
ぐるぐると回転する機械に酔った生田君は頭を抱えて余計なことを考えた。
彼の尊敬するにーがき君は、いわゆる「夢の国」が大好きなので、
いちどは連れて行ってもらおうと考えていたが、果たして行けるだろうかとぼんやり思った。
「えーりぽんっ」
「うぉっ、冷たッ！」
「へへ、驚いた？」
頬に冷たいものを感じ、慌てて顔を上げると、そこには笑顔の聖がいた。
彼女は手に買ったばかりのペットボトルを持っている。それは鞘師君がよく飲んでいるサイダーだった。
「疲れた？」
「あー…ちょっと。あんまり絶叫系得意やなくてさ」
聖からペットボトルを受け取って開ける。
景気の良い音と、炭酸の抜ける音が聞こえた。
鞘師君が「しゅわしゅわぽん」なんて言っているが、いまならなんとなく、言いたくなるその気持ちも分かる。
サイダーを口に含むと、炭酸特有の甘みと痛みが舌を襲ってきた。意外に、嫌いじゃない。
「あいつら元気やねぇー」
ふと見ると、大きな船が揺りかごのように振れる絶叫マシーン、通称「ポセイドン」に佐藤君と工藤君が乗っていた。
佐藤君は相変わらずケラケラ笑っているが、工藤君は半分泣きそうな顔をしている。
そろそろ休ませてやれよと苦笑しながらもう一口サイダーを飲んだ。
「聖は賑やかで楽しいよ？」
「いや、オレも楽しんでるっちゃよ？」
「ほんとにぃ〜？なんかオジサンくさいんですけど言い方が」
「失礼なっ！これでも衣梨奈は華の15歳っちゃよ？」
そうしておどけて見せると、聖は目を細めて笑った。
彼女の顔を崩したくしゃっとした笑い方が、生田君は好きだった。
なんだか、こんな彼女の笑顔は久しぶりに見たような気がして、自分も嬉しくなる。
結局、彼女の抱えていた悩みは解決されたのかなと考えながら、サイダーを口にした。
「今度はふたりで来よっか」
「……へ？」
「遊園地。ふたりでデートしようか」
聖はそう言うと優しく微笑んだ。
試されているような、からかわれているような、その奥に真剣さも潜ませているのか、判別できなかった。
しかし気分は、なんの苦労もせずにヘリコプターでエベレスト登頂に旗を立てたようなものだった。
此処で畳み掛けるのが正解か不正解か分からなかったが、気付いたときには生田君はサイダーを手放し、聖の手を握っていた。
彼女は一瞬だけきょとんとし、自分の手と彼の顔を見比べる。そのうち聖も、少しだけ顔を赤らめた。
「聖……」
真っ直ぐな瞳に、射止められた気がした。
彼のこうした表情が、聖は堪らなく好きで、そして恥ずかしくなる。そんな瞳で見つめられると、息を呑んでしまう。
思考を失い、ただ単純に、「好き」と想い、ともすればキスをしたくなる。ただしそれは、言わない約束。
「聖、オレ……オレ、聖のことが……」
瞬間、だった。
生田君の後方200メートルはあろう箇所からの風切り音のあと、猛スピードを出したコーラの缶が衝突してきた。
ものの見事に生田君の後頭部と正面衝突。ある意味でストライク、バッターアウト。
この場合のバッターは生田君なので、デッドボールの方が正しいが。
「ごめんごめん、つい遊んでたら飛んでったんじゃ」
後方から飛んできた楽しそうな声に生田君は後頭部を押さえて振り返る。
案の定、クソが付くほど生意気な笑顔を携えた鞘師君がいる。
「里保ちゃん、さすがに大人げないよ」
「15年連続Bクラスでイラついてたんじゃ。香音ちゃん許してにゃん」
「寒すぎだし意味分かんないし」
「いっつもCSに行ける竜に、鯉の気持ちなんて分からんのじゃ」
生田君を尻目に繰り広げられる会話に、わなわなと手が震えた。
コイツ、本気でぶん殴らせろと生田君はコーラの缶を手にし、バーテンダーよろしくシェイクする。
高速で振られる手に聖がきょとんとしたのも束の間、「里保ォ！」と叫んだ生田君はプルトップを開けた。
「喰らえ！必殺、コーラでしゅわしゅわぽーん！！」
「甘い！奥義、鞘師ガードッ！！」
コーラから放たれた大量の炭酸水は、勢いよく鞘師君へと噴射された。
しかし、先を読んだ鞘師君は何処から持ってきたのか、ポリバケツの蓋を手にして盾代わりにした。
結果的に炭酸水は跳ね返り、この場合生田君に向かって戻ってきた。最終的には生田君がコーラの雨に濡れることとなった。
「……さぁやぁしぃぃ！！」
「わぉ。まさかそんなに濡れるとは…」
「待てコラ、クソガキぃ！！」
生田君が駆け出した瞬間、鞘師君も脱兎の如く走り出した。
100メートル走はクラスで1・2を争うほどの俊足のふたりの追いかけっこが始まった。
「あーあ……ごめんね、聖ちゃん。邪魔して」
お詫びのしるしなのか、香音からクレープを受け取った聖はきょとんとした。
「へ？え、あ、やっぱりそういうことだったの？」
どうも、嫉妬からくる行動だとすぐには結び付かなかった聖に対し、香音は肩を竦めた。
鈍感で天然なところが、可愛いんだろうなとクレープを頬張った。クリームとチョコレート、そしてイチゴの相性が絶妙だ。
「里保ちゃん、あれで応援したいみたいなんだけどねー」
「……そうは見えないけど」
「大人になりきれない少年なんだよ。いつまでも」
「そんな少年が好きなんでしょ、香音ちゃんは」
聖がからかうように呟くと、香音は曖昧に笑って答えなかった。
自分たちが進展するより先に、このふたりの方があっさり付き合ってキスくらい済ませちゃいそうだと聖は思う。
香音くらいに冷静に、どっしりと構えていれば、もう少し変わるのだろうかとクレープを齧った。甘い甘いクリームが口内に広がった。
「で、この前の悩みは解決した？」
「へへ。やっぱ心配してた？」
「私もだけど、里保ちゃんも。あといちばんは、あのキモいKYぽんが」
香音は視線を100メートル先のメリーゴーランドに移した。
メリーゴーランドの周囲をぐるぐると走り回るあのふたりは、客の迷惑というものを考えないのだろうかと肩を竦める。
「オレはいつになったら、聖の力になれる男になるっちゃろうって悩んでたよ？」
聖はそれを聞いて困ったように笑った。
聖は生田君を信頼してないわけじゃないし、充分、彼に支えられている。
だからこそ、言えない話もある。自分で解決しなくてはいけない問題だとも思うし、これ以上巻き込んでしまいたくない。
特に今回の問題は「家」だの「財閥」だのと、厄介で、人間の汚い部分が剥き出しになっているものだから。
「男の子って、いつまでも王子でありたいんじゃないかな？」
「え？」
「ほら、引っ張っていたいし、護ってあげたいんじゃない？好きな人なら特にさ」
香音はそう言うと美味しそうにクレープを齧る。
「王子」という言葉には何処かで聞き覚えがあったのだけれど、何処だっけ？と聖は思い出せない。
だが、もし彼がそういうことを考えているのだとしたら、それだけ好かれているのだとしたら、嬉しい。
ああ、どうしよう。こんなことを想像するだけで、胸が痛い。彼の優しさに甘えてしまいそうで、怖い。
「聖、ワガママなの」
「そうなの？」
「そうなの」
聖はそう苦笑するとつづけた。
「えりぽんに相談して、楽になりたいって思う自分がいるし、でも、それじゃダメだって思う自分もいる。
家柄とか全部放り出せたら楽だって思うこともあるけど、この家柄のおかげで助けられてる部分もあるし」
手の中のクレープが溶けそうになって慌てて食べた。
チョコレートが甘くて、イチゴが酸っぱくて、複雑だ。誤魔化すように、もう一口齧ってる。やはり結果は、同じだった。
「聖ちゃんは真面目すぎなんだよ。ベタだけど、困ったときは助け合いが基本だよ」
「フフ。香音ちゃんホント優しいんだね」
「鈴木香音は正義の味方だからね」
白い歯を見せて笑いかける香音を見て、自分はとことん、親友に恵まれていると聖は思った。
自分の傍にはいつだって、だれかがいて笑顔で手を差し伸べてくれる。それが単純に嬉しかった。
「あ……あの野郎…逃げやがった……香音ちゃんバトンタッチ…」
「ハイハイ。じゃああとよろしくっ」
生田君は肩で息をしながら香音と入れ替わりでベンチに座った。どうやら追いかけっこは鞘師君に軍配が上がったようだ。
コーラで濡れたシャツを第3ボタンまで開けると、そこから胸筋が見え隠れして、思わず聖は顔を逸らした。
隠してよなんて言ったところで無駄だと知っていたので、聖は黙っている。
「……食べる？」
「お、サンキュー」
聖は誤魔化すように生田君にクレープを渡した。
彼は溶けそうなクリームをぺろりと舐め、イチゴを頬張った。運動したあとなのによく食べられるなと聖は感心する。
すると、生田君の口元にチョコレートがついていた。
「えりぽん、口についてるよ？」
「ん？あ、おー……取れた？」
彼は舌を起用に伸ばして口元を拭うと、チョコレートは綺麗に取れた。
その舌先の動きは、普段では絶対に見られない行為であり、何処か官能的で聖は再び顔を逸らした。
生田君はそんな彼女の意に介さずに、「聖、返すっちゃよ」とクレープを渡した。
黙って受け取った聖は、なんとか高鳴った鼓動を押さえようとひとつ息を吐いて、クリームを舐めた。
「って…聖も口についてるやん」
聖が今度はそう指摘され、自分で取ろうとしたとき、生田君はひょいと指を伸ばした。
人差し指の第二関節でクリームを掬ったかと思うと、そのまま彼は、自分の指を聖の唇へ持っていった。
聖は目を見開いて驚くが、生田君は無意識に聖が舐めた人差し指を戻し、再び自分でペロッと舐める。
「やっぱ甘いっちゃねぇクレープは」
なんて無邪気に話す生田君に、聖の心臓は爆発寸前だった。
天然な生田君の無意識下における「タラシ」は最上級だった。自分の予想を軽々と超えていく。
破壊力抜群な行為に腰が砕けそうになるが、必死に聖はクレープを食べきった。
隣に置いていたコーラで喉を潤す。ダメだ、私もう、完全にこの人にハマってると肩を落とした。
「……聖、どしたと？」
「へ？」
「やっぱ、なんか悩んどぉと？」
肩を落とした聖を、落ち込んでいると勘違いした生田君は心配そうに彼女を覗き込んだ。
真っ直ぐな瞳に見つめられ、聖は太刀打ちできなくなる。
あの夏祭りの夜に告白されてから、いたずらっ子のように、もういちど彼から告白されることを聖は待っていた。
しかし、いまはもう、待ちきれないほどに、胸の想いが弾けそうになる。自分からこの気持ちを、伝えたくなった。
「えりぽん……あのね」
-------
「あっ…んん……はぁ…えりぃ…」
「うへへぇー。れーなぁ。ボクのれーにゃぁー」
そのころみちしげ君は、道重財閥専用リムジンの中にいた。
いつものように監視カメラの映像をハァハァと荒い呼吸で見つめている。
画面の中にいるのはかめい君とれいなだが、年がら年中体を重ね合っているこのバカップルにはうんざりだった。
「告白ｸﾙｰなの！ドキドキなの」
もうひとつの画面には、生田君と聖の様子が鮮明に映し出されている。
執事兼SPたちの撮影した映像は複数の角度から録画され、このまま切り取って編集すればいくらかで売れるような代物だった。
画面の中のふたりの距離はかなり近づき、もう少しで告白、あるいはキスするのではないかとみちしげ君もハラハラする。
かめい君たちの情事も悪くはないが、こうした甘酸っぱい恋もたまには楽しいものだ。
「若、失礼いたします」
「もー。いま良いところなんだから邪魔するななの」
リムジンの窓を叩いた彼に対して、みちしげ君は嫌味ったらしく返した。
しかし、彼が当主であるみちしげ君に対してこれほど緊急に話しかけるということは、なにか良からぬことが起きているということでもあった。
ある程度の嫌な予感を携えながら、みちしげ君はイヤホンを外す。
「例の財閥の息子、やはりこの遊園地に来ています」
その言葉を聞き、ざわりと胸に黒い闇が広がった。
聖へのストーカー疑惑がもたれる例の財閥の当主に対し、道重財閥は密かに監視をしていた。
しかし、今朝になってその行方が掴めなくなり、まさかと思ったみちしげ君は、聖と生田君を実況中継しつつ、彼らを護衛することを決めた。
そして案の定、その網の中に例の当主は入り込んできていた。
「いま何処にいる？」
「お化け屋敷の南西200メートルの地点です。譜久村様と生田様の場所からはまだ距離がありますが…」
「偶然、ってことはないよね」
「恐らくは、譜久村様をつけてきたのかと…いかがいたしますか？」
先ほどまで画面を見て騒いでいた表情は消え、ひとりの当主の顔になった。
「C班、捕捉したか？」
彼がマイクに乗せてそう聞くと、みちしげ君の目の前に映像が流れる。
グレーのジャケットに紺のシャツ、濃い青のジーンズをはいた男は、一見すると普通の入場客のようだった。
しかし、何処か挙動不審であり、だれかを探しているその姿を見て、みちしげ君は下唇を噛んだ。
「周りにアイツの財閥SPはいないの？」
「半径100メートル内に3人、300メートル内に4人ほどおります。公共の場で騒ぎを起こすとは考えにくいですが…」
別のカメラが相手財閥のSPを捕捉した。
確かに数人、マイクとイヤモニをつけた怪しい男たちが画面に映る。こんな下手な護衛、道重財閥では考えられないなと苦笑する。
さて、財閥当主として次にどう行動すべきか、みちしげ君は悩んだ。
「若。ヤツが進路を変えました。譜久村様たちの方へと歩いてきます」
彼の声にみちしげ君は慌てて画面を見る。
男は確かに、一直線にベンチへと向かって歩いてきていた。まさか気付かれたかと頭をかく。
「距離は？」
「現在200メートル……180……若、此処は私が」
「待って。あいつらも動いてる。いま出て行っても、間に合わない」
男が動くと同時に、彼のSPたちも進行方向を変えて向かってきていた。
なにが狙いかは読めないが、分かることがある。現状が、最悪であることだった。
「とにかく半径300メートルを固めて。手を出したら指示を待たずに判断して動いて良い。報告だけは忘れないで」
当主の指示に頭を垂れたあと、彼は全力で走り園内へと戻った。
みちしげ君は、彼の存在に未だに気付かずに甘い空気の中にいるふたりを見つめた。
この笑顔を、曇らせてはいけない。しかし、相手がなにを考えているか分からないいま、下手に動くことはできない。
「嫉妬は醜いものなの」
映像班が捕捉した画面に釘付けになりながら、オレンジジュースのパックを飲んだ。思いのほかに酸味が強くてストローを噛んだ。
どうも今日は、当主としての勘が働く。嫌な予感しかしないことが、腹立たしかった。
-------
聖が声を出そうとした瞬間だった。感じたことのない嫌な空気が聖を包み込み、ぞわりとした。
振り返ろうにも体が固まる。どうしてこんな場所で金縛りにあうのだろうと思った。
「……聖？」
生田君が心配そうに覗き込んだのも束の間、急に太陽が陰った。
まさか雨？と感じて天を仰ぐと、そこには彼が見たこともない男が立っていた。
「お久しぶりです。聖さん」
「あなたは……」
「先日のパーティーでは失礼致しました。お見苦しいところをお見せしてしまいましたね」
グレーのジャケットに紺のシャツを着た男は、目に着けていたサングラスを外した。
隣にいる生田君には目もくれず、聖を真っ直ぐに見て、柔らかく微笑んだ。いや、微笑んでいるつもりなのだろう。
生田君は、その笑顔がまるで顔に貼りついたような冷笑であることに気付いていた。彼は全く、笑ってなどいない。
「どうして、此処に？」
「たまたまですよ。私もこの遊園地に遊びに来ていたんです」
生田君は、彼が「先日のパーティー」で聖と知り合った人物だと理解した。しかし、生田君はそのパーティーのことはなにも聞いていない。
聖がその家柄の関係で、様々なパーティーや立食会に参加していることは知っていた。
だがそれを自分が知らないことが、不満だった。まるで、自分と彼女の間の見えない壁を強調されているようで。
分かっている。ずいぶんと理不尽な怒りだということくらい。落ち着け落ち着けと、必死に言い聞かせる。
「おや、聖さん。この方は新しい恋人ですか？」
いままで目もくれなかった男が急に生田君に向き直り、そう聞いた。
その棘のある言い方にムッと顔を曇らせそうになったが、それ以上に「新しい」という言い方に生田君は反応する。
どういう意味か理解する前に、聖が先に口を開いた。
「違います。この人は幼馴染の生田衣梨奈です」
「ああ、また庶民とお付き合いなされているのですね。譜久村家の教育方針を疑いますよ。
しかし御友人でしたか。てっきり道重財閥の息子から乗り換えたのかと思いましたよ」
その声は当事者であるみちしげ君の耳にも、監視カメラの映像を通してはっきりと届いていた。
なるほど。あのときのこちらの咄嗟の機転を手玉に取ったのかとイヤモニを押さえた。
自分の知らないパーティー、知らない財閥の男の存在、そして、その男から聞かされる事実に、生田君が受けるショックは計り知れない。
「堪えてよ、えりぽん……」
呆然としながら男と聖を交互に見る生田君を画面越しに見ながら、みちしげ君はそう祈った。
なんとか切り返そうと聖が口を開く前に、男はさらに畳みかけた。
「聖さんも悪い人ですね。あんな日本有数の財閥嫡男がいながら、庶民をたぶらかすとは」
「待って下さい。私はそんなこと」
「聞けばその嫡男も、飯窪財閥の娘とデキているとか。あなたも遊ばれているんですかね」
勝手に目の前で進行していく話に生田君は眉を顰めた。
分からないなりに話を整理した結果、「みちしげ君と聖が付き合っている」ということは分かった。
そんな話、聞いていない。いったい、どういうことだ？まさか聖は、自分に黙って付き合っていた？
「聖さん。前にも言いましたが、あなたに相応しいのは私のような人間です。
私はあんな変態でも、そこにいる無様な庶民でもない。あなたをシアワセにする自信がある」
そう言うと聖の手を男は取って、無理やり立ち上がらせた。
生田君は彼女を止めることもできず、ただ呆然とベンチに座っていることしかできなかった。
思いの外に、自分の頭で考えついた結論にショックを受けていた。
聖は「離して下さい」と拒絶するが、男は半ば強引に連れて行こうとする。
「あのバカ…立って引き止めるくらいしろっつーの……クロ！なにしてるの？！」
「―――若……ご―――財閥―――申し訳―――」
一連の動きを見ていたみちしげ君は指示を出したが、返ってきたのは雑音だけだった。映像も乱れ、いつの間にか砂嵐になった。
おいおい、まさか向こうの財閥に押さえ込まれたんじゃないだろうなとイヤモニを外し、リムジンから外に出た。
親子連れで賑わう休日の園内を長髪の男が駆け抜ける。それはひとりの当主の顔であり、ひとりの友人としての顔になっていた。
「だからちょっと待って下さい。私がだれと付き合おうと、あなたには関係ないことです」
「あなたは分かっていないんです。私がどれほどの人間であり、どれほどあなたに相応しいのか」
「私の友人をバカにするようなあなたと、私がお付き合いすることは今後ないと思います」
「気の強い女性ほど、落としたくなるものですよ」
一進一退の攻防がつづいても、生田君は立ち上がらなかった。
それは何処か遠い世界の出来事のように見える。自分の大切な人が巻き込まれている出来事が、あまりにも大きすぎる。
目には見えない、古くからつづく良家としての、聖と自分との間にある壁が、あまりにも大きい―――
「えりぽんッ……」
聖はすがるように、助けを求めるように、ベンチに座り込んでいる生田君を見た。しかし、彼は微動だにせずに地面を見ていた。
絶望の足音が聞こえてくる気がした。男は聖を無理やりに引き寄せ、その胸の中に押さえ込んだ。
「行きましょう。車を用意してあります」
「ちょ……待って、ヤダ！」
こういうとき、小説やドラマの世界じゃ、必ずヒーローが助けに来てくれるものだ。
だが、恐らくそのヒーローになるべきであろう生田君は立ち上がらない。
「王子」になりたいんじゃないの？と泣きそうな瞳で見つめるが、彼は動こうとしなかった。
―えりぽんッ！！
聖が心の中でそう叫んだ瞬間だった。
遠くから「しゅわしゅわぽんぽ〜ん！」と元気の良い声が聞こえた。
ずいぶんと情けなくて頼りない声だったが、そのおかげで、聖も男も生田君も、一瞬気が逸れた。
「うわっ！」
男はそう叫ぶと目を押さえた。
気付くとそこには、両手にコーラのペットボトルを持った佐藤君と鞘師君がいた。
ふたりとも派手にペットボトルを振ったのか、そのコーラはすべて泡となり、炭酸のシャワーが男に降り注いでいる。
さながら野球のペナントレースで優勝した際に行われるビールかけであった。
「こういう風にビールかけしたいもんじゃのぉ！」
「まーちゃんのチームは優勝しましたよぉ〜」
そうしてふたりが笑いながらコーラをかける様子を、聖も生田君もただ呆然として見ているだけだった。
金縛りが解けたのは、「ふたりとも早く！」と香音が叫んだときだった。
香音に腕を引かれ、漸く立ち上がった生田君は、聖と香音とともに男に背を向けて走り出す。
「ま、待て！てめぇらなにしやが―――」
「うっせぇバーーーカ！！」
男が叫んだのも束の間、佐藤君と鞘師君の間から突っ込んできた工藤君は、男の腹部に飛び蹴りを見舞わせた。
体が軽いとはいえ、助走をつけた飛び蹴りは想像以上の威力だったのか、男は顔を歪ませ、膝をついた。
「どぅーカッコいい〜！」
「へへっ。どーだ！参ったか！」
「調子乗ってないでさっさと逃げるんじゃ！」
3人は踵を返すと、脱兎の如く走り出した。
「あ、みちしげさん後処理お願いしますッ！」
逃走中にすれ違ったみちしげ君にそう伝えると、3人は聖たちの後を追う。
後処理を任された当主は、深く息を吐くと、コーラのシャワーを浴び、腹部を押さえている哀れな男と対峙した。
園内の客たちは、異様な光景を遠巻きに見ていたが、傷つきながらも立ち上がり、「映画の撮影ですので」と話す道重財閥のSPたちの説明に従った。
やれやれ、やはり相手財閥と殴り合ったのかとみちしげ君は苦笑した。
「きみは学習能力がないのかな？」
その声に男は顔を上げた。
太陽を背にした彼はその長い黒髪をひとつに結び、青いジーパンにピンクのワイシャツという当主らしからぬ恰好をしていた。
しかし、そこから感じる異様なオーラに男は震えそうになった。
「聖に手を出したら全力で潰すって言ったよね？」
「ハッ…やっぱり来てやがったか。飯窪の娘も誑し込んでるくせに、彼氏面しやがって」
随分な言い草だなと思うが、此処で話をややこしくさせたくないなとみちしげ君は黙っている。
男は立ち上がってみちしげ君を睨み付けた。俺とこの男と、決定的な違いはなんだ？
「お前も分かってんだろ。俺の財閥はそう長くもたねえってことも」
「自覚はあったんだ。意外なの」
「俺に忠実に仕えるのは此処にいる連中くらいだ。人望も金も経営力もないことくらい、知ってるさ」
男は前髪をかき分けると先ほどまで生田君が座っていたベンチに腰を下ろした。
急に自分語りをするとは、慰めてほしいのだろうかと彼を見下ろす。
「欲しいものはなんでも手に入る、お前が羨ましい」
「それ、本気で言ってるのなら、軽蔑するの」
「違うって言うのか？生まれたころから日本のトップをひた走る財閥の息子に、苦労もなにもねえだろ」
みちしげ君は男の隣に腰を下ろした。その距離はずいぶんと開いているが。
「土下座したことある？」
「は？」
「さゆみはあるよ。プライドがないって思われても良い。自分の抱えるものを護るためなら、この頭、いくらでも下げてやるって決めたから」
自分のことを語るつもりなんてなかったが、売られた喧嘩は買う主義だ。
みちしげ君は脚を開き、両の手を組んだ。
「自分の手腕に何百人の人生が懸かってる。自分がこけたら何百人が路頭に迷う。
何百人が道重財閥のために頭を垂れているのなら、当主の自分がその何百人を護るのは当然の責務だと思うんだけど」
「……お前は、それをやって来たのか」
「泥臭くて、地味で、時には汚いこともやって来たよ。それが当主に課せられた使命だから」
幼いころからレールに乗せられていた人生だったかもしれない。
だが、そのレールから外れるという選択をしなかったのは、自分の責務を知っていたからだ。
自分が果たすべき使命のために、みちしげ君はこの財閥の当主の座に座った。
「欲しいもののために、苦労してない人間なんていねぇよ。当主舐めんな、クソガキ」
みちしげ君はそういうとポケットに手を突っ込んで立ち上がった。
一発ぶん殴ってやろうかとも思ったが、なぜかその気概を削がれた。今日は妙な気分だと頭をかく。
「いまさら傾いた船に大砲撃つほど非情じゃないけど、3度目はないから」
随分な温情をかけた自分に苦笑しながらもみちしげ君は歩き出した。
その背中に向かって「もうしねぇ……致しません」と声が当たる。振り返ると、男も立ち上がり、こちらを見ていた。睨んでは、いない。
次になんと言われるのか構えていると、男は深く頭を下げた。
斜め45度、日本のビジネスマナー、最も深い頭の下げ方は実に見事な謝罪の意だった。
「謝る相手、違うんじゃないの？」
「聖……譜久村さんには改めて謝罪に伺います」
その声は先ほどまでの虚勢をはったものとは違って思わず目を見開いた。
まだ頭を上げようとしない男を見て、「やればできるじゃん」と肩を竦める。
まったく、お人好しにもほどがあるなと思いながら、「フクちゃんには、伝えとくよ」とみちしげ君は歩き出した。
男はその視界からみちしげ君が消えるまで、頭を下げ続けた。
「若。宜しいのですか？」
リムジンに戻る最中に聞こえてきた声にみちしげ君は振り返らずに返した。
「きみこそだいじょうぶなの？随分、手ひどく、やられたみたいだけど？」
「申し訳ありません。今度はこのようなことのないよう、使用人一同、誠意を込めて……」
「良いよ。皆が無事なら、それで」
みちしげ君はクスッと笑った。こんなお人好しで仏の顔なんて、一生に一度、あるかないかだなと自分で思う。
「それより、フクちゃんたちはちゃんと追いかけた？」
「はい。既にB班が向かっております」
「フフ。できるSPを持つと楽しくてしょうがないの」
そう言うとみちしげ君はリムジンに乗り込み、画面の映像を見た。
座り込んでいる中等部の姿が見える。さて、今度こそきみはヒーローになれるかな？とみちしげ君は真っ直ぐに生田君を見つめた。
そんな当主を見ながら、自分が仕えている人がこの人で良かったと、改めて彼は頭を垂れた。
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走っているうちに、いつの間にか遊園地の端に来ていた。
3人は息を整えながらベンチに座ったが、香音が空気を察したのか「飲み物買ってくるね」と立ち上がって駆け出した。
生田君と聖は取り残され、ぼんやりとする。聖はなにか言おうとちらりと生田君を見るが、彼は空を仰いだまま、なにも言わない。
怒っているのだろうか。呆れているのだろうか。なにから説明すべきかと聖は言葉を探した。
「あ…あの、えりぽん」
「付き合っとーと？みちしげさんと、聖」
言葉を探していた聖を遮るように、生田君が言葉を出した
「ち、違うよ、あれは…」
「アイツだれやと？聖に馴れ馴れしかったけん、知り合い？」
「あの人は…前にパーティーで知り合ったって言うか…パーティーの主催者だよ。財閥の、当主」
「なんで言わんかったと？」
生田君は真っ直ぐに聖を見る。その瞳は先ほどとは全く違った色であり、哀しさを携えたものであった。
思わず言葉を失くした聖に、さらに生田君は追及する。
「オレに言えんかった？聖と違って、庶民やから？財閥の息子じゃないから？」
「ちょっと待って。えりぽん、違うよ。あのときは……いろいろあって」
「いろいろってなんよ？」
聖は言葉に窮する。
あのパーティー当日、聖は財閥当主に言い寄られ、それを切り抜けるためにみちしげ君の打った即興の芝居に乗った。
いまこの場で「みちしげ君が聖の恋人」という設定を説明したら、それこそ生田君がショックを受けるのは目に見えていた。
かと言って黙っているのも得策ではない。どう転んでも好転しない現状に、聖は焦る。
「言えんやん。結局オレは、幼馴染でしかないっちゃろ。家柄も、立場も違い過ぎるっちゃろ」
「ねぇ待ってえりぽん。聖はそんなこと思ってない…えりぽんは、聖にとって大切な」
「言えば良かやろ！みちしげさんとかあの男と付き合っとぉって！」
生田君はそう叫んで立ち上がった。
あの財閥の男が遠くから自分を見ていたことは知っていた。
まるでストーカーのようにつけ纏うその姿が怖くて、逃げたくて、だけど聖はだれにも相談できずに心にしまいこんでいた。
生田君に、これ以上心配をかけたくなくて、自分でなんとか解決しようと努力していた。
それが結果的に彼を追い込み、いま、このような勘違いが加速してしまっている。
なんとか止めなくてはと思うが、聖が声を出す前に生田君は頭を掻き毟って叫んだ。
「オレみたいな奴より、聖には、みちしげさんの方がお似合いっちゃ！」
「えりぽん待って！！」
制止する聖の声を振り払い、生田君は走り出した。
途中で香音とすれ違い、「えりぽん！」と呼ばれたが、振り返らない。
ああ、もう、どうしてこんなことになってるっちゃと頭の中が混乱してきた。
聖のことだから、なにか理由があることくらい分かっている。
財閥とのパーティーだって、別にいつも生田君に報告する義務はない。
分かっている。分かっている。分かっているのに、心の中に巣食った疑念は闇のように広がって、全体を呑み込もうとする。
信じたいのに、信じきれない自分がいる。弱い自分が嫌いで、八つ当たりする自分が嫌いで、吐き気がする。
聖のピンチの時に、立ち上がることができなかった自分が、大嫌いだった。
「しゅわぽくダブルキーーック！」
そのとき、背中を勢いよく蹴られ、生田君は無様に顔面からこけた。
あまりの勢いに驚いて振り返ると、そこにはヘラヘラと笑う佐藤君と腕を組んで仁王立ちの鞘師君がいた。
「いくたさぁん、なにしてるんですか？」
「なにって……てか急に蹴んな！鼻血出るかと思ったやろ？！」
「いまのえりぽんにはお似合いじゃ。ビビって立ち上がれん、フクちゃん置いて逃げ出す根性なしじゃけんのぅ」
「なんやとぉ！」
生田君は鞘師君の胸倉を掴むが、彼は微動だにしない。切れ長の一重瞼は真っ直ぐに生田君を睨んでいる。
その瞳がいつものように小生意気な色を携えていないことが、生田君は怖かった。
「生田さん、ここで逃げたらホントに終わりですよ？譜久村さん、泣きそうでしたよ？」
何処から出てきたのか、工藤君がそう呟いた。
言われなくても分かっている。分かっているけれど、なんて言えば良いか分からない。
「……フクちゃんが家柄とかで人を見てたら、僕らはこんなに仲良く遊んでないでしょ」
鞘師君はそう言うと、胸倉の手を掴み、ゆっくりと離した。
乱れたシャツを整えると「空気読めないえりぽんが、壁ぶち壊せなくてどうすんだよ」とつづけた。
「家とか背負ってるものはおっきくても、フクちゃんはフクちゃんだって、いちばん分かってんのがえりぽんでしょ？」
「ちゃんと話せば分かりますよ。言いたいこと、お互いに言い合ったら良いんです」
「考えすぎなんですいくたさんは。もっと素直にぶつかっても、ふくむらさんは壊れません。だいじょうぶです、きっと」
後輩に諭されて、生田君は素直に頷いた。
ただ、怖かったんだ。家柄や背負うものが違い過ぎて、いつか聖が離れて行ってしまうのではないかと。
いまは仲良くしているけれど、いつか財閥の息子と結婚してしまうのではないかと。
ああ、そうだ。自分は大馬鹿者だ。弱虫で、ネガティブで、鞘師君の言うように、根性なしだ。大切な人も護れない、間抜けな奴だ。
「ほら、さっさと行くッ！」
鞘師君がどんと背中を押し、生田君はよろめいた。
振り返ると、いつものような小生意気さを携えた後輩3人が笑っていた。
「いくたさん、ファイトです！」
「だいじょうぶ！生田さんならできますっ！」
「フクちゃんこれ以上待たせちゃダメだって。なんなら僕が代わりに行こうか？」
随分と荒っぽいが、いまの生田君には心強いアドバイスにも聞こえた。
「………うっせぇ、アホ」
髪をぐしゃぐしゃと掻き毟り、生田君は元来た道を走り出した。普段は生意気だけれど、今日は素直に、後輩たちに感謝したかった。
いまはただ、聖に謝りたかった。ちゃんと、誠心誠意を込めて、ごめんと言いたかった。
そうだ。今度こそ、自分の足で立ち上がって、ちゃんとあの手を取らなきゃダメだ。
あの男を拒む聖を助けることができなかった。寂しそうな瞳をした聖を置いて逃げ出してきた。
だからいま、彼女のために走って戻ろう。今度こそ、ちゃんと自分の力で、聖と向き合おう。そう決意して、生田君は懸命に走った。
「あー、面倒くさいッスねー、あのふたり」
「さやしさんは、良かったんですか？」
聖の元へと走り出した生田君を見ながら、佐藤君は鞘師君に振り返った。
「……しょーがないじゃろ。あ、サイダー飲も。ふたりもいる？」
傾き始めた西日に目を細め、鞘師君は自動販売機へと歩いた。複雑な想いを流し込むように、サイダーを飲みたかった。
3人分のサイダーを買ったのと、向こうから香音が走ってきて「ご苦労様」と笑い合うのは、ほぼ同時だった。
-------
夕陽が園内を照らし始めていた。
生田君が走って戻ってくると、聖は先ほどと同じベンチでぽつんとひとり、座っていた。
寂しそうに俯く姿に、心が軋んだ。もう二度と、あんな哀しみは背負わせたくなかった。
なんて声をかけるか悩んだが、生田君は奇を衒わずに、ただ素直になろうと思った。足早に歩み寄り、「ごめんっ！」と頭を下げた。
突然のことに聖が顔を上げるが、もういちど「ごめん！」とつづけた。
「傷つけて、ごめん。ガキみたいなこと言ってごめん。情けなくて……頼りなくて……カッコ悪くてごめん」
あれ、なんだか後半は謝る内容と違うようなと思うが、構わずにつづける。
「聖がいろいろ悩んどったのに、すぐ、嫉妬して、困らせて…ホント、オレ…」
そのとき、聖が生田君の頬を両手で包み込んだ。
許しを請うように顔を上げると、彼女は優しく微笑んで首を振った。まるで聖母のような佇まいに生田君は息を呑む。
「聖も……ごめんなさい。えりぽんに、ちゃんと話したいことあったのに、言えなくて」
「いや…それは衣梨奈が頼りないからであって」
「違うよ、聖、怖かったの。全部話したら、えりぽんは聖のこと、嫌いになるんじゃないかって思って」
「嫌いになんか―――！」
生田君は聖の左の手首を掴んだ。「嫌いになんかなるわけない」と言いたいのに次の言葉がつづかなくて、なんどか逡巡する。
頭の中には、先ほど後輩3人から言われた言葉が次々と浮かんでは消える。だいじょうぶ、だいじょうぶと言い聞かせた。
すぅと息を吸い、深く吐いた。目を閉じたあと、ゆっくり開く。聖と視線が絡む。大きな彼女の瞳に吸い込まれそうになる。
瞬間に、想う。あの夏祭りの夜と、同じように。ただ純粋に、聖のことが好きだと―――
ごめん、聖。タイミングも何も分からんで。でも、言いたくなったっちゃん。
「……聖が、好きっちゃ」
生田君の言葉がふわりと宙に浮いた。
それは放たれたあと、すぐに意味を掴むために急いだ。
「オレは、聖が好きっちゃ。世界でいちばん、愛してるっちゃ」
前にも、何処かでこんなセリフを言ったような気がする。あれは夏祭りの夜の夢ではなかったのだろうか。
思い出せないけれど、この胸の高鳴りは尋常ではない。「好き」と伝えることは、とても苦しい。だけど、あまりにも愛しい。
聖がだれを好きでも構わない。本当にみちしげさんと付き合っているのかもしれない。それでも伝えたかった。
この胸を締め付けて離さない、どうしようもないこの想いを。どうか、どうか届いてほしかった。
「えりぽん……」
聖の瞳から大粒の涙が零れ落ちたのはそのときだった。
突然の出来事に生田君は目を見開いて驚き、慌てる。
泣くほど嫌だったかと「みみみみみ聖ごめんっ！」と手を離してハンカチを取り出そうとしたが、その手は強く握られた。
どうして良いか分からずに佇んでいるとふわりと優しい香りに包まれた。
瞬間、なにが起きたかを把握することは困難だった。それはあまりにも唐突で、あまりにも現実離れし、あまりにも予想の斜め上を超えていた。
「聖っ―――」
言葉がすべてはつづかなかった。彼の声は聖の唇に吸い込まれた。
それは甘い甘い、聖からもらったクレープよりも甘い口付けだった。
時間にして僅か1秒足らず。触れるだけの子どものようなキスは、それでも確かな感触を生田君にもたらした。
唇が離れ、聖を見る。彼女は紅潮させた表情をこちらに向け、黙っていたあと、ふわりとその胸に飛び込んできた。
「……ありがとう。2回も、ちゃんと言ってくれて」
確かな重みが、心地良くて、暫く間抜けに突っ立っていて、腕を背中に回すことも忘れてしまっていた。
彼女の言う意味も、自分の身に起きた出来事も理解できず、ただ口をパクパクさせた。
「私も、好きです」
聖はそうして柔らかく微笑んで答えた。生田君はたっぷり10秒の沈黙のあと「へ？」と返した。
実に間抜けな表情だが、それがおかしかったのか、聖もフフっと笑い、「だから」とつづけた。
「私もえりぽんが好きです。大好きです」
それは、あの夏祭りの夜と同じ光景だった。唯一違うのは、彼女がその大きな瞳から涙を零していることだった。
哀しみからくるのではなく、喜びと、驚きと、そして嬉しい感動の涙はとても綺麗だった。
間抜けに突っ立っていた生田君も、漸く状況を把握したのか、目を見開いて「ままままままマジで？！」と返す。返答もやはり、間抜けだが。
「ごめんなさい…先にキス…しちゃった」
「いいいいいやいやいや！ぜんぜんもう！ね？え、あ、あ、おおおおう！」
あまりの状況に混乱し、全く言葉が出てこないが気にする余裕もなかった。
全然スマートじゃないがもうどうでも良い。盆と正月が同時にやって来たような今日はまさに祝祭だと思う。
生田君は困ったように頭を掻き、だらしなく頬を緩ませて笑った。正直、カッコ良さなんて全くない。
「えーっと聖……」
「はい」
「王子」になれなくてごめん。颯爽と駆けつけるヒーローになれなくてごめん。
だけど、だけどさ、聖。
「こ、こ、これからも、宜しくお願いします」
そう言うと生田君は聖と少しだけ距離を取って頭を下げた。
いっしょに歩いていきたいと思った。これから先、たくさんの苦難があったとしても、ひとつひとつ超えていきたかった。
見えない壁があっても、どうしようもない理不尽があっても、もう逃げずに向き合うから。
「こちらこそ宜しくお願いします」
彼なりの精一杯を理解した聖は優しく笑い、涙を拭って頭を下げた。
なんだこれ。見合いの挨拶じゃあるまいしと生田君は照れて笑い、聖の手を改めて握り、そのまま引き寄せて抱きしめた。
「ずっと……こうしたかったと…」
「聖も……」
温かくて心地良い人肌に泣きそうになる。こんなに泣き虫じゃなかったはずなのにと鼻を啜った。
ああ、そうかと理解する。好きな人に「好き」と言う単純なことは、ちっとも普通のことじゃない。
好きな人の隣にいて、笑って、抱きしめて、キスをすることは、たぶんきっと、物凄い確率の「奇蹟」みたいなものなんだ。
ある意味で、ありふれているのだけれど、ある意味でそれは、奇蹟。
ごめん聖。また衣梨奈、キモいこと思っとーけん、今日だけは、許してほしいっちゃ。
「み、聖……」
「うん？」
先ほどは聖からされてしまったけれど、正式に恋人になったいま、怖いものはない。
今度こそ男らしく自分からキスをしようと生田君は顔を傾けた。
しかし、その顔は実に厭らしく、唇を突き出したそれはタコのようで、聖は思わず「いーやーだぁ」と笑って拒絶した。
どんと突き飛ばされた生田君はこれまた間抜けな顔で「ふぇ？」と聖を見る。
「調子に乗るなよ、ばーかっ」
「み…聖、それはひどいっちゃよぉー」
情けない声でそう呟くと、聖はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
結局のところ、その表情もまた可愛くて、好きで好きで堪らなくて、太刀打ちできないから敵わない。
同じ目線に、少しは辿りつけたのだろうか。見えない壁を、少しは壊すことができたのだろうかと肩を竦めた。
すると聖が「ね、えりぽんっ！」と声を出したので、生田君は「ん？」と聞き返す。
「聖、あれ乗りたい！」
そうして聖は大きな観覧車を指差した。そこで此処が遊園地だということを漸く思い出した。
時計を見るが、まだ閉園まで時間がある。生田君は顔を崩して笑い「じゃ行こっか」と聖と並んで歩き出した。
それはいままでとなんら変わらない光景だった。ひとつ違うのは、聖と生田君の手がしっかりと繋がれていることだった。
繋いだ手を互いに離そうとはせず、絡み合った指先が愛しくて柔らかく笑う。
1日の終わりを告げる夕陽が園内を温かいオレンジ色に染めている。10年越しに実ったひとつの恋を、優しく見守って輝いていた。
10年越しの恋に口づけを おわり
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オマケ
ﾉd*・ ｡.・）＜漸くあのふたりがくっついたの…とにかくおめでとうなの
（ ■_■）＜例の財閥の息子も深く反省したようですし、一件落着ですね
ﾉd*- ｡.-）＜とはいえ、えりぽんはフクちゃんを大事にするあまりキス以上に進展はなさそうなの…
（ ■_■）＜初々しい限りですね
ﾉd*- ｡.-）＜あのふたりもちょっとは見習ってほしいものなの
ﾉd*＾ｰ＾)从*´ ヮ｀)＜シゲなんの話ー？
オマケ��
ﾉd+｀ｰ´ﾘ＜今日はヤケ酒ならぬヤケサイダーじゃけんのぉ！
ﾉd；´ ｡｀ﾙ＜も、もうもう飲めません……
ﾉd* ^_〉^)＜さやしさんおもしろぉ〜いｗ
从；´◇｀）＜収拾がつかないんだろうね……
10年越しの恋に口づけをのつづき→
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