「あれ、良いんですか?」

翌日の沖縄も快晴だった。
キラキラに輝いた太陽に反射した海が綺麗だった。
スタッフのテントに入り、椅子に座って汗を拭っていると、れいなは愛佳にそう話しかけられた。

「なんが?」
「あのふたりですよ」

愛佳の視線の先には、今回の撮影の主役、さゆみがいる。
だが、いつもはその隣にいるはずの里保がいない。彼女は少し離れた場所に立ち、別のスタッフと話をしている。
それはどこにでもあるような光景だが、あのふたりの関係性を考えれば、実に不自然だということは分かる。
まして、さゆみも里保も何処か遠慮し、話しかけるタイミングを逸していることくらい、愛佳には手に取るように分かった。

「まあ、だいじょうぶやろ」

れいなはそう言ってカメラを弄り始めた。
結局さゆみは、昨夜は里保の部屋には寄らなかったらしい。
だが、あのふたりのことだから、今夜には決着がつくはずだ。それがどういった方向に行くかは分からないけれど。
出来ることならば、良い方向に行ってほしいものだ。だれもが笑顔になる日、なんてあまりにも都合の良い話だけれど、そう願わずにはいられない。


それは不思議な感情だった。
さゆみはれいながなんども傷つけてしまったから、できることならばもう泣いてほしくないと思うのは分かる。
だが里保は、これまで絵里とれいなのことを叔父に報告してきた、いわば向こう側の人間だ。
それなのに、れいなはもう彼女を憎みも恨みもせず、彼女自身のシアワセを願っていた。
彼女のことなどさして理解などできていないのにそう思うのは、やはりあの、カンパニュラを見たせいなのだろうか。

「田中さん」
「うん?」
「お願いが、あるんですけど」

話を変えるように発した愛佳にきょとんとするが、彼女がれいなの前に跪いたのを見てさらに目を見開くこととなった。

「亀井さんの写真、撮っていただけませんか?」

急にどうしたと?なんて聞く前に、愛佳はそう言った。れいなは瞬時に彼女の言葉を理解しようと眉を顰める。
亀井さん、つまり絵里の写真を撮る。どうしてそんなことを愛佳が言い出したのか、分からない。
なぜ、急にそんなことを?

「愛佳には、無理なんです」
「なんが…?」
「亀井さんを、ひとりの女性として輝かすことができるのは、田中さんじゃないとダメなんです」

愛佳はそうして胸ポケットから1枚の写真を取り出した。
そこに映っていたのは、あの公園で撮影した、日を浴びて柔らかく笑う絵里だった。
うすうす感づいてはいたけれど、愛佳が出逢った「彼女」とは、やはり絵里のことだったのかと自覚する。

「愛佳はもっと、勉強します」

世界を変えるような力は、私にはまだないと愛佳は思った。
自分の実力不足を埋めるには、れいなと同じ世界を見るには、もっともっと努力するしかないんだ。
たとえその相手が絵里でなかったとしても、もっと綺麗に、心に共鳴するような写真を撮りたいってそう思った。

「……良い写真やん」

れいなはそうして写真を見ながら微笑んだ。
平面の世界に入り込んだ絵里を見るのは久しぶりだった。木漏れ日や、流れる風、名もない花を携えた彼女は、やっぱり綺麗だった。
れいなは写真を愛佳に返すと「分かっとーよ」と呟いた。
自信がなくても、ムチャクチャでも、ただがむしゃらに前に進むしかないんだ。
過去もいまも、そしてつづいていく果てない未来も、ずっとずっと護っていきたかった。
絵里とふたりで、此処からちゃんと歩いていくために、同じ未来を紡ぐために、一歩踏み出そうって漸く決心がついた。

「沖縄から帰ったら、ちゃんと撮る。そんときはいちばんに、愛佳に見せちゃる」

れいなはそうして子どものように笑った。
生意気で幼くて、どこかいたずらっ子のような笑顔に愛佳も思わず笑い返した。
ああ、そっか。やっぱり私は、このふたりが笑っているのがいちばん好きなんだって、愛佳は心の底からそう思った。


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「んへへぇ〜、了解です」

ベッドに座った絵里に明日の連絡を伝えると、里沙はその髪をぐしゃぐしゃと撫でて立ち上がった。
昨日から3日間、れいなが沖縄に出張のため、絵里は盲学校に預けられていた。
久し振りのふたりの時間に少なからず胸が高鳴ったが、「あの日」よりはずいぶんと落ち着いている。

「じゃ、下にいるから、なんかあったら呼んでね」
「はいっ!わっかりましたぁ!」

元気よく答えた絵里に苦笑しながら、里沙は部屋をあとにした。
絵里にキスをしたあの日以降、ふたりの関係に大きく変化はなかった。絵里の心に浮かんだ人はれいなで、里沙ではないことなどずっと分かっていた。
「失恋」なんて二文字で済ませるのは容易いが、実際にそれを自覚すると随分と凹んだものだ。
それでも、その痛手も長くはつづかない。「時の薬」とは残酷で、だけど優しいものだと里沙は思う。

「にっいがっきさぁぁん!」

事務室に入ろうとすると耳をつんざくような喧しい声が飛んできた。
廊下の先にいたのは、だらしない笑顔を携えた犬、ではなく、犬のような顔をした生田衣梨奈だった。
両手を広げて「逢いたかったですぅ〜」なんて走って来る姿は、さながらご主人に逢えて尻尾を振る犬だ。
里沙は顔をこれでもかとひん曲げて、彼女の突進を華麗に避けた。

「なんで避けるんですかぁ!」
「アンタ異動になったくせになんで此処に居んのよ!?」
「えー、えーっとそれはぁ…んふふ〜」

衣梨奈は「キモい」と言われる笑顔を振りまいて曖昧に誤魔化した。
まさか「護衛のためです、私探偵ですから」なんてことはまだ言えない。タイミングとは得てして大事なものだ。

「新垣さんに逢いに来たんです!」
「いや別に来なくて良いし。私仕事あるから」

里沙はくるりと踵を返し事務室へ戻ろうとしたが、その腕を衣梨奈が引き留めた。
強引に彼女と向き合う形になる。
眩しいくらいの彼女の笑顔は、口で言うほど嫌いじゃない。

「さ、最近、どうですか?」
「はぁ?最近って別になにもないわよ」
「ホントに?なにも変わったことないですか?」
「アンタなんなの、急に来て」
「心配なんですよ衣梨奈は!」

矢継ぎ早に交わされる質問の意図が分からずに里沙は避けるが、それでも衣梨奈は食い下がる。
衣梨奈が此処に居るのは、そもそも叔父の行方が分からなくなったからだ。
彼の狙いは紛れもなく絵里であり、手に入れるためならなにをしでかすか分からない。
里沙にまでその危険が及ぶというのなら、衣梨奈はそれを止める義務がある。その原因の本質が、親友の里保にあるとしたら尚更だった。

「生田……どうしたの?」

急に語気を荒げた衣梨奈を心配そうに里沙は見やる。
里沙が、自分の唐突な行動や言動に違和感を持っていることは、衣梨奈もとうに気付いていた。ただ、言うのが怖いだけなんだ。
本当のことを話して、本当の自分を曝け出して、拒絶されるのが怖い。受け入れてくれなかったらどうしようと、衣梨奈はいつもヘラヘラ笑って誤魔化す。
それが、相手がこの人だから尚のこと、そう想う。
もしかして里保も、同じ気持ちを携えていたのだろうかといまさら気付いた。

「へへ。衣梨奈なりに心配してるんです。新垣さん、いっつもムリするから」
「あのねぇ。生田に心配されるようなことはないんだから。だいじょうぶだよ」

里沙はそうして衣梨奈の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
髪質も、長さも、色も、絵里とは全く違うのに、里沙はどこか優しい気持ちになれた。むしろ違うからこそ、里沙は心の安息を得ることができた。
絵里と衣梨奈は全く違う。テキトーなところとか、くしゃって顔を崩して笑うところとか、似ている部分もあるけれど、本質は違う。
重ねてしまうのはお互いに失礼なことだって、最近ようやく気付いた。
それもまた、「時の薬」の効力なのだろうかって時折そう思う。

「ま、生田も新しい仕事がんばんなさいよ」

里沙はそれだけ言うと、まだなにかを言いたげな衣梨奈を遮り事務室へと入った。
どうせ今夜もまたメールか電話が来るだろう。だけどいまはまだ、彼女に甘えたくなかった。
甘えてしまうにはまだ、早すぎる。私の中にある気持ちを、想いをちゃんと整理してからじゃないと前に進めない。

「新垣さん……」

閉じられた扉の向こう側で、衣梨奈はぼんやりと佇んだ。
どうしようもなく胸が痛んで、どうにかしたいって唐突に思って、だけど結局なにもできなくて、なにしに来たんだと頭を掻いた。
衣梨奈は踵を返し、裏口に停めてある車に乗り込んだ。
ひとつ息を吐いてバックミラーを見た。ひどく疲れた目をした自分が情けない。
いつの間に自分は、こんなにも弱くなったのだろうと肩を竦めた。


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仕事を終えた里保はすぐにシャワーを浴び、髪を乾かしてベッドに飛び込んだ。
寝てしまうにはまだ早い時間だが、なにをするにも億劫だった。

昨日の一件以来、里保はさゆみと目を合わせることすら困難だった。
自分が悪いことくらい分かっているが、これからどうすれば良いのか、分からなくなっていた。
なんて言って謝るべきか、その言葉すら見つけられないでいたのに、心の中には相変わらず、彼女が浮かんでいた。
どうしようもなく、さゆみが好きなんだって苦笑した。

そのとき、パソコンの横に置いてあった携帯電話が震えた。
この着信音はあの同期だと里保は起き上がった。

「寝とった?」
「いや、まだ。それで、そっちはどう?」

衣梨奈の声を確認したあと、本題を斬り込んだが、未だに叔父が見つからないという情報を聞き、落胆する。
衣梨奈は現状維持として、盲学校を張りこんでいるようだ。れいなのアパートには他の人員を向かわせているようだが、そちらにも変化はないらしい。
報告を聞いた里保はため息を呑み込んで電話を切った。
良からぬ事態に陥っていることは自覚していた。東京に戻ったらすぐに衣梨奈たちと合流し、叔父の捜索に全力を挙げるしかない。
頼むから、まだだれにも手は出さないでくれと祈る以外にできる術はなかった。

ひとつ息を吐くとチャイムが鳴った。自分の部屋に来る人物は限られている。
その人であってほしいような、そうであってほしくないような、微妙な気持ちが鬩ぎ合うなか、里保は覗き穴で確認した。
でも、やっぱり相手はさゆみであって、里保は下唇を噛む。分かっている。逃げることなんて許されない。
里保は髪を横で軽く束ね、ドアを開けた。

「道重さん……」

この世でたったひとりの大切な人の名を呼んだ瞬間、彼女はふわりと里保の体を抱きしめた。それはあまりに唐突な出来事で、里保は目を丸くする。
なにも言葉を出すことができなかったが、慌てて距離を取るように腕を伸ばし、さゆみの体を押し返そうとする。
しかし、彼女は里保を離そうとはしなかった。ぎゅうと抱きしめ、里保の肩に顔を押し付けて「考えてたの……」と呟いた。

「どうして、りほりほなのって…」

切なく、だけど何処か甘く呟かれたその言葉の真意が掴めなかった。
その言葉に眉を顰めたが、昨日この手から滑り落ちた温もりがあまりに愛しかった。そんな権利もないのに、彼女の髪を撫でて、頬に手を伸ばしてキスがしたかった。
さゆみはなにも言わずにゆっくりと顔を上げ、里保と目を合わせた。視線が絡み、息を呑む。
漆黒の闇のような黒い瞳にすべてを奪われる。どう足掻いても、私はこの人が好きなんだと思い知らされた。

さゆみは息を吐いたあと、里保を解放した。先ほどまであった温もりが無くなって寂しくなる。さゆみは立ち竦む里保を通り過ぎ、ベッドに座った。
里保が振り返ると、「話して」と言った。

「今度は、全部。嘘じゃなくて、ホントのこと、全部話して」

さゆみの瞳は真っ直ぐに里保を捉えていた。
里保が今回の調査をやめようと思ったのも、彼女に好きだと伝えたくなったのも、すべては同じ目線に辿り着きたかったからだ。
彼女を護りたくて、ただいっしょに居たくて、だから里保は漸く決心できた。もしそれで傷ついたとしても、すべて自分のせいだ。
これまでのことを考えれば当然の報いだ。自分でケリをつけると決めたなら、最後までその信念は貫くべきだった。
里保はひとつ覚悟を決め「はい」と頷いた。


 -------


里保はこれまでの経緯をすべて話した。自分が義父に拾われて探偵という職に就いたこと。最初に本案件を引き受けたのは義父だったが、途中で引き継いだこと。
れいなと絵里の行動を逐一叔父に報告していたこと。叔父の要求であれば、れいなへの脅迫、そして暴力も辞さなかったこと。
だが、最後まで納得できず、正式に仕事を降りると決めたこと。そして、さゆみへの想いは、決して嘘ではないこと。

「都合の良い人間だって分かってます。信じてくれ、なんて言えません。私が、道重さんを騙してたことは、事実ですから」

一気に吐き出すその言葉が震えた。好きな人に、真実を伝えるのがこれほど困難だとは思わなかった。
持っている言葉を全て使ったとしても、なにひとつちゃんと伝えられない。もっとうまい言い方があるなら教えてほしい。
それでも里保は必死に言い切り、ベッドに座るさゆみをチラリ見た。彼女はなにも言わず、床の一点を見つめていた。
生唾を呑み込む。怒られる?頬を叩かれる?軽蔑される?ありとあらゆることを、里保は考えた。

「……こっち、座って」

さゆみは沈黙を破ると、自分の座っているベッドのすぐ横に手を置いた。里保が「いや…」と首を振ったが、彼女はもういちど、同じことを繰り返す。
拒否権なんてそもそも持っていないことに気付いた里保は頷いたあと、少し距離を置いて座る。そしてまた、さゆみは沈黙する。
刺されるかもしれないということも、覚悟していた。それ相応のことを、自分はしてきたのだから。

「信じさせてよ」

そう言うと、里保の手にさゆみは手を重ねた。温かい掌に、瞬間的に泣きそうになった。
これほどの優しい温もりを、里保は知らない。

「怖いの……」
「え?」
「裏切られるのが怖い。りほりほが遠くに行くのが怖い。……でもっ」

途切れる言葉を彼女は吐く。短い中で伝わる想いが、痛くて切ない。里保は一歩も動けずにどうすべきか逡巡する。

「あなたのこと、信じたいの―――」

さゆみが望むこと、信頼を勝ち取るためにできること、なにひとつ分からなかったけれど、里保は瞬間的に、彼女の手を握り返した。
そのまま重ねた手を額に当てる。祈るような格好のあと、ほぼ無意識のうちにその指にキスを落とした。
言葉が陳腐だなんて思わない。だけど、自分の内に在る気持ちの1割も、ちゃんと伝えることはできなかった。
だったら、行動で示した方が、最も簡単で、最も正確に、自分の気持ちが伝わるはずだと思った。

「あなたのことが、好きです」

真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐにさゆみを映す。それしかできない。それ以上はもうない。それでダメなら、諦めよう。
里保の言葉は震えていたが、それでもちゃんと、さゆみに届いた。さゆみは大きな瞳を潤ませたあと、彼女を引き寄せた。
ぽすんという音のあと、里保の体はさゆみの胸に収まる。ぎゅうと抱きしめられ、安心した。彼女の胸は、とても温かい。

「―――――」

里保にしか届かなかったその声は、まるで女神からの贈り物のように思えた。
思わず顔を上げる。とてつもなく、間抜けでだらしないだろうけど、しっかりとさゆみと目を合わせた。
彼女は、笑っていた。優しくて柔らかいその笑顔は、やっぱり女神のように思える。
そんな彼女とは対照的に、里保はその瞳に涙を滲ませた。目を伏せると、頬を涙が伝った。
それを皮切りに、里保はまるで子どものように泣きじゃくった。

「みち、しげ、さんっ……!」

それは悪夢を見たあとに母に泣きつく姿と似ていた。
里保は母の顔も名前も知らないけれど、ぎゅうと彼女の服を握り、胸に顔を埋め、その声の限り泣いた。

「ごめん、なさい……ごめっ、ごめんなさい……!」
「だいじょうぶ…だいじょうぶだからね?」
「…だいすきです。道重さんが、大好きなんです……」
「うん。分かってる。分かってるよ」

さゆみは里保が泣きやむまでその腕を離さなかった。
震える体をそっと抱きしめ、里保のさらさらの黒い髪を撫で、ただずっと「だいじょうぶ」と囁いた。
そっと右手を彼女の頬から耳へと滑らせ、彼女の長い髪を束ねたゴムに触れた。


「好きだよ、りほりほ―――」


たったひとつのその言葉に里保は顔を上げた。
さゆみの手が里保の髪をほどいた瞬間、ふたりはほぼ同時にベッドにその身を預けた。





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