「あれ、聖は?」

彼のその声に、亜佑美はふと顔を上げた。
声の主である生田君は、相変わらずだらしのない格好をして、放課後の教室を見回した。
亜佑美は読みかけの小説を閉じて「さっき職員室行ったよ」と返事をする。

「えりぽん遅すぎ!ってすっごい怒ってたけど…」
「あー、入れ違いになったっちゃね。生徒指導のせんせ、メッチャ怒るっちゃもん」
「……そんな格好してたら、そりゃあね」

亜佑美は生田君の姿を上から下まで眺めた。
伸びた前髪、全体に入れたメッシュ、片耳のピアス、色つきのシャツに腰パンにノーネクタイ。これで生徒指導部長が黙って見過ごすわけがない。
放課後、いつものように職員室に呼び出された生田君を、これもまたいつものように聖は待っていた。
亜佑美も特に用事がなかったので、彼女とおしゃべりしながら時間を潰していたのだが、1時間も帰ってこないことにさすがの聖も呆れ果てた。
ちょっと見てくるね、と立ち上がり、聖は長い髪を横でひとつに結んだ。
職員室に行く前の生徒の恒例の行為に肩を竦めながら、「行ってらっしゃい」と亜佑美は声をかけた。

「えー…じゃあ、職員室迎え行こっかな」
「どうせまたすれ違いになるからやめといたら?すぐ帰ってくるんじゃない」

亜佑美が小説を鞄にしまいながら至極当然のことを言うと、生田君も素直に納得したのか、亜佑美の前の席に座った。
それは先ほどまで聖が座っていた席だ。ほんの10分で聖が生田君に変わり、なんだか不思議な気分だった。
生田君は女の子のように前髪を弄りながら「そんなに派手かいな?」とひとり言のように呟く。

亜佑美は頬杖をつき、そんな彼の姿を眺めた。
まるでホストのようにワックスで立ち上がったメッシュ入りの髪、ジャラジャラと重そうなウォレットチェーン、ワイシャツの下に紫のシャツ。
不良というよりハイセンスな彼の格好は、亜佑美が真似できるものではないし、真似しようとも思わない。
先日れいなに言われた「センスの良い人」にこの人は入っていないんだろうなとぼんやり思う。
だが、生田君はまつ毛は長いし、目鼻立ちは整っているしと、服装を除く見た目は、カッコいい。

「……黙ってればイケメンだよね」
「お?なになに?オレは喋ってもイケメンやけんね」
「ないわー」

亜佑美がわざとらしく苦笑すると、生田君は不貞腐れたように頬を膨らませた。
が、すぐにそれを忘れたように「そういえば昨日、本屋行ったと」と話を始めた。
彼は話すことが好きだ。よく休み時間に聖と話している姿を見る。しかもマシンガントークで聖を圧倒する。
そんな彼の話を、嫌な顔をせずにちゃんと聞いてあげるあたり、聖はホントに優しいなと亜佑美はいつも思っていた。

「あの書店の店員さんメッチャ可愛いとよね」
「そんなこと言って、聖ちゃん嫉妬するよ?」
「いや聖の方が可愛いっちゃけどさー。たまにコスプレしよるやん、あそこの店員さん」

ただまあ、彼の話は結構面白かったりするから、聞いていて楽しい。
亜佑美も頬杖をつくのをやめて、軽く体を前に出しながら、生田君との話に花を咲かせ始めていた。


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職員室に行かなければ良かったと、聖は半ば後悔していた。
生田君は既に教室に戻っていたうえに、担任に見つかって雑用を頼まれることとなった。
高等部の資料室から教材を運びながら、聖は廊下の窓からふっと空を仰いだ。
初夏を思わせる澄んだ青を見つめながらぐっと伸びをした。少しだけ、雨の匂いがする。ああ、もうすぐ梅雨かとぼんやり思った。

「あれ、フクちゃん」

ふいに聞こえた声に振り返る。
そこには生田君に負けず劣らずの問題児、と言われるけど本人は否定している、高等部のれいながいた。

「こんにちは田中さん」
「うん。どしたと?」
「先生にこれ取ってくるように頼まれちゃって」

聖が両手の資料を見せると、れいなは大袈裟に肩を竦め「相変わらず人遣い荒いっちゃね」と苦笑した。曖昧に笑いながら、聖は資料を持ちなおす。
そういえば、いつも田中さんの隣にいる人が、今日はいない。珍しいなと思っていると、その気配に気づいたのか「絵里は反省文書きに行っとーよ」とれいなは笑った。

「授業中寝すぎやっちゃもん」
「フフ。かめいさんも、ですか」
「え、なんそれ。もしかして生田も?」

聖が「あの人の場合は服装ですけど」と頷くと、れいなはまた笑った。自分たちの恋人の方がよっぽど問題児だ。
振り回されるのかなー、今後も。なんて思いながら、聖の頭にふと、少し前から考えていた思考が甦った。
ちょうどかめい君もいないこのタイミングは願ってもない。聖は「あの、ちょっとだけ、良いですか?」と声を潜める。
れいなはきょとんとしながらも頷いた。

「田中さんって、嫉妬しますか?」
「へ?絵里に?」
「だって、モテる、じゃないですか。いろんな人に」

かめい君といえば、高等部きってのイケメンである。
れいなという彼女がいるから、表立ってモテるわけではないけれど、憧れている後輩は中等部にも大勢いる。
「かめい君ファンクラブ」は「たかーし君親衛隊」と双頭を成す、高等部の2大勢力である。
ちなみに、「にーがき君を応援する会」と「エリカちゃんを探す会」も発足しているが、どちらも会長・会員は1名である。

「生田ってそんなにモテるっけ?」

れいなが俄かには信じられないという目をこちらに向けてきた。
確かに生田君ほど「残念」という言葉が似合う人を聖は知らないが、その「残念」さがたまに可愛かったりする。
何事にも一生懸命で、真っ直ぐで、時折暴走するけど、カッコいい人だと、思う。
そしてなにより、優しいのである。

「だれにでも優しいんですよ、あの人」
「あー……確かにメッチャ社交的やしね」

聖の言葉にれいなはなんども頷いた。
基本的に優しい生田君は、困っている人を見つけると、すぐに手を差し伸べる。しかも「どしたと?」って眩しいくらいの笑顔で。
裏表がない純粋な感情だから、相手も素直にその手を握ることができる。それは間違いなく、彼の長所だ。

「あと、近いんですよね、距離が」
「なんの距離?」
「人との、っていうんですか。なんか、友だちとかとの、スペースが」

聖の言葉の意図を、れいなはゆっくりと噛み砕く。
それは分からないでもなかった。生田君はやたらと人との距離が近い。パーソナルスペースとか、テリトリーとかを、基本的に無視する。
その一点だけを鑑みるならば、後輩の佐藤君の方がよっぽど空気が読める。
彼の距離の取り方はとにかく独特だ。それが良い風に転がるときもあれば、悪い風に転がるときもある。
初対面の人のテリトリー内に簡単に足を踏み入れるその社交性は、諸刃の剣だとよく思う。

「だから、だれとでも仲良くなれるんですけどね」
「で。そういう姿の生田を見ると、フクちゃんはなんとなくムカつくと」

れいなが目を細めてからかうように言うと、聖は目のやり場に窮し、視線を外した。
初々しいというか、可愛らしいというか、見た目は大人っぽいけど、フクちゃんもやっぱり普通の高校生やっちゃねとれいなは思った。
れいなだって、かめい君のことで嫉妬しないことは多い。でもその場合、大抵、相手はみちしげ君なのだけど。

「でも、絵里はれなンこと、真っ直ぐに見とぉって、鬱陶しいくらい、知っとーしね」
「そうですよね…やっぱり」
「生田やって、フクちゃん一筋やろ。暑苦しいほど」
「いや…でも……」

そこで聖は少しだけ、声のトーンを落とした。
れいなが「うん?」と耳を傾けると、彼女は本当に小さな声で囁いてきた。

「なにも……しないんですよ、自分から」
「……つまり、キスとか?」
「キスも、そうなんですけど…まぁ、いろいろ……だから、魅力ないのかなって、聖」

妙に不安げになっている聖を見ながら、それはないとれいなは心の中で断言した。
さらさらの長い髪、真白い肌、優しそうな瞳、甘くて柔らかい声、それに加えてボンキュッボン。これで魅力がないわけがない。
もちろん、外見だけでなく、内面を知って生田君は彼女を好きになったのだろうけど。
そんな生田君が聖になにもしない理由なんて、ひとつしかない。

「生田もああ見えてへたれやけん、しょうがないっちゃない?」
「でも……あの人のスイッチの入り方がよく分からないんですよ」

さらにトーンを落とした聖の言葉を、れいなは丁寧に拾った。
演劇の練習をしている最中の大暴走や、ちょっとだけエッチなことをした先日のことを聞いたれいなは最初こそ目を白黒させた。
しかし、彼らも付き合い始めて数ヶ月経っているわけだし、そういう状況でもおかしくないかと考え直す。
そして聞けば聞くほど、生田君のへたれっぷりが露呈して、あいつホントにダメな奴だなと改めて思った。

「まあでも、だいじょうぶやと思うよ」
「そう、ですか?」
「フクちゃんたちはフクちゃんたちのペースで良いっちゃよ。あの聖一筋がブレるとも思えんし」

れいなはそう言って、少しだけ背伸びをして聖の頭を撫でてやった。
思いがけないれいなの行為に聖は思わず目を見開いた。れいな自身もまた、どうしてこんなことをしたのだろうと苦笑した。
後輩なんて鬱陶しいだけだと思っていたのに、いつからか、可愛くて仕方ないんだと思ってしまった。

「ま、フクちゃんが心配することはないってこと!オッケー?」
「あ、はい。たぶん、オッケーです」

屈託なく笑うれいなにつられるように、聖も笑った。
まるで子どものようなその笑顔は、初夏の太陽のように輝いていて、眩しすぎて目を細めた。


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事件は唐突に発生するものである。
生田君とくだらないことで笑っていた亜佑美は、その視線の端になにかを捉えた。
ん?と微かに動いたそれを真っ直ぐに見る。瞬間、亜佑美は立ち上がった。

「がっ!ちょ!ごっ、ごっ!!ごーーー!!」

立ち上がった途端に硬直し動けなくなった亜佑美に眉を顰めた生田君は、同じようにその視線を追った。

「うおおお!Gやん!」

生田君も彼女同様に立ち上がり、真っ直ぐに「G」、つまりはゴキブリを捉えた。
カサカサと動くそれを見ているだけで背筋が凍る。どうして人はあの虫に対してここまでの恐怖心を覚えるのか、不思議でならない。
とにかく退治せんと、と、生田君は片方の上履きを脱ぐ。

「え!待って、それで叩くの!?」
「だって叩かんと殺せんやん」
「ムリムリ!怖い怖い怖い!跳ねたらどうすんの!あいつ飛ぶんだよ!知ってる!?」
「亜佑美ちゃんちょっと離して……」
「やだ〜!ムリ〜……もう、うぅ〜……」

まるで子どものように泣きそうな声を上げて震える亜佑美が、妙にかわいいなと生田君は苦笑する。
とはいえ、いつまでも硬直しているわけにはいかない。幸いにも相手は弱っているのか、足はさほど速くない。
生田君はゆっくりと右手で上履きを構え、左手で背中を掴んでいる亜佑美の手を解いた。
その代わりにしっかりと彼女の手を握り返してやった。「後ろ向いちょき」と声をかけられ、亜佑美は顔を上げた。

「一発で仕留めちゃるけん。ほら、後ろ向いて」

いつもより数段優しい声に亜佑美は素直に頷いた。目尻に微かに浮かんだ涙を拭い、鼻を啜る。
亜佑美は生田君の左手を痛いくらいに握り返し、後ろを向いた。たくさんの掲示物が目に入る。「傘の忘れ物注意!」が、いちばん目立っている。
生田君は彼女の気配を感じながら、ふうとひとつ息を吐き、覚悟を決めた。
勢いよく振り上げ、叩く。ばちぃっ!という音と、微かになにかが潰れるような鈍い音に耳を塞ぎたくなった。
顔をこれでもかというほどに歪め、ゆっくりと上履きを持ち上げた。

「あ〜……亜佑美ちゃん、まだそっち向いとってね」

彼の声に状況を把握した亜佑美は、なにも言わずに何度も激しく頷いた。

「あの、もう終わったけん、手、離してくれん?」
「え。あ……うん」

亜佑美はそっと手を離し、生田君はすぐに上履きをゴミ箱まで持っていく。汗ばんだ手の平が微かに冷たくなった。
手近にあった雑巾で、天に召されたそれを捨てた。そして、上履きと雑巾を持ち、水道へ走る。
一連の行動は実にスムーズで無駄がなかった。亜佑美はただそれを呆然と見ているしかできなかった。
数分後、彼は教室に戻ってきた。「ちゃんと手洗ったよ」と両手を挙げてアピールする。
それを見て漸く安心したのか、亜佑美はへにゃへにゃと脱力しながら椅子に座った。

「亜佑美ちゃん、意外とびびりやっちゃね」

生田君がニヤニヤしながらからかうので、亜佑美はむっとして言い返した。

「べ、別にビビってないもん!」
「へ〜?あんだけギャーギャー騒いどったとに?」
「違うし!騒いでないし!」
「なんね。生田君たすけて〜。亜佑美、こわ〜いって泣きながら言ってたやん」
「言ってないし泣いてないし!」

からかわれていることが恥ずかしくなった亜佑美は思わず立ち上がって反論した。
生田君もそれに応戦するように笑いながら立ち、「メッチャ赤くなっとーしね」と頬を触った。

「赤くなってない!」
「アハハ。亜佑美ちゃん可愛いっちゃね。腰抜かしそうやったし」
「ちっ、違うもん!」
「うお!ゴキブリ!!」

言い合いをしている最中に唐突に生田君は亜佑美の背後を指差した。
生田君の口から出てきた単語に本気で恐怖した彼女は、「いやっ!」と反射的に生田君に抱き着いた。

「うっそー」

散々からかって楽しんだ生田君は、また泣きそうになっている亜佑美の頭をぽんぽんと撫でてやった。
ここまで良いように遊ばれた亜佑美は下唇を噛み、「信じらんない!」と叫ぶ。
しかし、やはり体は恐怖しているのか、その腕を背中から外せないことが、悔しかった。
生田君は自然と彼女の腰に腕を回し「ホント、可愛いっちゃよ」とまた笑う。

「ごめんごめん。もう、嘘つかんけん」

生田君の声がまた、少し柔らかくなった。子どもなのか、大人なのか、彼はよく分からない。
そのおかげで亜佑美は怒る気概を削がれ、わざとらしくため息をつくのが精一杯だった。
頭をなんどかなでられ、漸く体が落ち着いていくのが分かる。亜佑美はゆっくりと彼の背中から腕を外した。
それでも彼の手は腰にあるままで、距離はまだ近い。

「なんであんなに怖いんだろ……」
「さあ?黒いからとか、あとは、点々がふたつも付いてるからやない?」

瞬間、生田君の背筋が凍った。
なにか、圧倒的に嫌な予感がする。そしてその予感は往々にして当たる。
まさかまたゴキブリ?と思って振り返ると、そこにいたのは、ゴキブリなんてものではなく、愛しくて堪らない彼女だった。
だが、彼女の顔が笑っていないことに気付く。射抜かれるような冷たい視線に、心臓が息をするのを忘れる。

「なに、やってんの?」

その声に気付いたのか、亜佑美も教室の入り口に目を向けた。
そして聖の姿を認め、冷や汗を流す。
教室には生田君と亜佑美のふたりっきり。ついでに彼の手が腰に回っている。この状況では、誤解しか招かない。

「なにって、別になんもしとらんよ」

生田君は彼女の冷たい視線の原因がなにか、いまひとつ理解していないようだった。
こういうところが無自覚タラシなんだなーと亜佑美は冷静に理解する。
とはいえ、そんな言い訳が彼女に通用するわけもない。聖は「ふーん」と興味のない目をしたまま、こちらに歩いてくる。
どうしよう、ちゃんと説明した方が良いのだろうかと亜佑美は言葉を探すが、うまく言えそうにない。
そんなことをしている間にも聖はふたりの元へやって来た。生田君の腰に回した手は、そこで漸く離れた。

「……私、帰るから」
「は?」
「じゃあ、亜佑美ちゃん、また明日ね」

聖はカバンを手に取ると、生田君には目もくれずに教室を出て行こうとした。

「え、待ってよ聖。オレも帰るけん!」
「今日はひとりで帰るから。亜佑美ちゃんと仲良く話してたら?」
「はあ?なん言いようとや聖ぃー」

生田君の言葉を背に受けながらも、彼女は振り返らずに教室をあとにした。
残された生田君は慌ててカバンに教科書を詰め込み、肩に背負った

「じゃあ亜佑美ちゃん、また明日!」
「あ、う、うん。また、明日…さっきは、ごめ―――」
「ちょっと待って、みずきー」

亜佑美の言葉を最後まで聞かず、生田君は彼女の名を呼んで教室から飛び出した。
だれもいなくなった教室で亜佑美は困ったように肩を竦めた。
やっぱり、ちゃんと説明してあげないと生田君が可哀想だよなーと改めて思う。
とはいえ、いまから自分が追い駆けて弁明したら、それはそれで嘘っぽいだろうかと悩む。

「いや、やっぱ行くべきだよね!」

そう勝手に結論付けて亜佑美もふたりを追い駆けた。
全く、あそこまでラブラブバカップルなのに、なんでこんなに面倒なのだろうと、亜佑美は靴を2秒で履き替え、校庭へ走り出た。
生田君が必死に聖に対して言葉をかけている姿に出くわすのは、その数分後のことだった。





無自覚タラシと誤解する彼女 おわり
 

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