←10年越しの恋に口づけを



「絶対にイヤじゃー!!」

オレンジの淡い光が射し込む夕方の遊園地に、鞘師君の声が響いた。
香音は「さっさと覚悟決めるんだろうね」と笑いながらその腕を引っ張っている。

「そもそも観覧車なんてちんたら回る機械なんかあり得ないんじゃ!」
「観覧車をつくった人に謝んなよ」
「あんな高い場所行ったら死ぬ!」
「だーいじょーぶだって。落ちるわけないし」
「とにかくイヤじゃー!!」

後方で言い争いを繰り広げる幼馴染を見ながら、生田君は肩を竦めた。

「里保って観覧車嫌いやったっけ?」
「ほら。高所恐怖症だからゆっくり回るのが嫌いなんじゃない?」

生田君の隣にいた聖は目を細めて笑い、言い合いをするふたりを眺めていた。
その表情は、子どもの喧嘩を見守る母親のようで生田君はなぜかドキッとした。
なんだか、あのふたりが子どもで、自分が父親のような、そんな気分だ。必然的に聖は奥さんということになる。おお、悪くない。
この勢いで手なんか繋げないだろうかとそっと右手を伸ばす。

「ほーら。ふたりとも行くよ」

が、聖は一瞬早くふたりの元へ行き、生田君は見事に空振りをする。
行き場を失くした手を眺めていると「生田さんダサいッスね」という声がした。
振り返ると、そこには腕組みをしなが苦笑する工藤君と、ヘラヘラ楽しそうに笑う佐藤君がいた。
生田君は不貞腐れながらポケットに両手を突っ込んでずんずんと大股で観覧車の方へと歩いた。

「コラー中等部!さっさと並ぶの!」

すると、観覧車の乗り場には、青いジーパンにピンクのワイシャツを着た道重財閥の当主が腕を組んで立っていた。
不機嫌そうに頬を膨らませ、鍵盤を引くように腕を指で叩く。

「……みちしげさん、来てたんですか?」
「当然なの。だれの招待券でこの遊園地に来れたと思ってるの?そもそもだれがキミたちの危機を救ったと思ってるの?」
「危機ってなんですか?」

生田君は知らないが、みちしげ君は彼ら中等部のデートをずっと見守っていた。
あの財閥のトップに聖が攫われそうになったときも、最後の最後はみちしげ君が飛び出して事なきを得たのだ。
もちろん、生田君はそんなことを知らない。知らないながらも彼を無下に扱うことはせず、生田君はみちしげ君の隣に並んだ。
すると後方から「勘弁してほしいんじゃー!」と泣き叫ぶ子供のような声がした。振り返ると、香音と聖に両腕を掴まれ、強引に引きずられてくる鞘師君がいる。
あれじゃまるで連行っちゃね、と生田君が苦笑していると、隣のみちしげ君は既にケータイ片手にその様子を写真に収めていた。
鼻息が若干荒くなりながら「貴重な姿なの」とひとり言を呟く姿に、生田君はため息をつく。

「これで揃った?……って、あれ。まーどぅーコンビはどうしたの?」
「あ、優樹ちゃんがトイレ行くって言って、迷子にならないようにどぅーも着いて行きました」
「あの最年少どもめ……もうすぐ閉園時間だっつーの」

みちしげ君は先ほどまでの笑顔を引っ込め、また怒りのオーラを身に纏った。
そもそもなぜ彼が此処に居て、全員を観覧車に乗せようとしているのかが生田君には分からなかった。
まあ大人数で乗るのも楽しいのだけれど、観覧車って1台当たり何人まで乗れるんだっけ?

「早く来ないとみちしげさんが怒ってますよー」
「そうなの、さゆみを待たせるなんて良い度胸なの……ってなんでアンタがいるの!?」
「フッフッフ。みちしげさんのいるところ飯窪も現れますよ。なんて言っても、あなたのハニーですから」

唐突に登場した春菜に生田君は「わお」と笑って驚いた。
彼女の行動力は目を見張るものがある。この神出鬼没さにももう慣れたものだけれど。
とにかく、いまの時点で観覧車に乗るのは全部で8人。4−4で分けるのが妥当だろうかと生田君はひとり考え始める。

「うぅ…高いのは怖いんじゃ……」

そんな生田君の服の袖を、鞘師君が震えながら掴んできた。
半ば泣きそうになっている彼を見て「お前そんなにダメやと?」と心配そうに聞き返す。

「顔も良い、頭も良い、性格も良い、足も速い、ダンスもできる。そんな僕の唯一の弱点が高いところなんじゃ…」
「……頂上到達したら思いっ切り揺らしちゃるけんね」
「マジでやめてくれ!ホントに落ちる!」
「落ちやせんて、頑丈やし」

そんなくだらないやり取りをしているうちに佐藤君が「わーーい」とびしょびしょの手を振り翳して走ってきた。
工藤君が後方から「チャックしめろぉー!」って叫んでる。ああ、もう、いつも通り、平和だ。平和すぎて、先ほどの一件が全部嘘みたいだ。
あれ。やっぱり先ほどのは夢だったのだろうか。オレの妄想?聖と付き合いたいがための妄想?嘘やろ?
生田君は急に不安になり、香音と楽しそうに話している聖を見つめた。
大きい瞳、微かに上気した頬が可愛い。潤った唇が、自分のそれと重なった瞬間を思い出す。
あれは、本当に、現実?

「じゃあ、あみだくじして乗る組み合わせ決めるの」
「え?全員じゃないんですか?」
「8人も乗れないの。此処は正々堂々、恨みっこなしのペア決めなの!」

生田君の疑問を突き破るようにみちしげ君は高らかと宣言した。
どこからともなく黒いスーツを身に纏った男の人たちが現れ、ガラガラとホワイトボードを引っ張り出してきた。
なにが行われるんだいまから、と周囲の客たちは眉を顰めるが、みちしげ君は意に介さずに、ホワイトボードに線を引き始めた。

「観覧車といえばデートでカップルが乗る定番なの。2人ずつ乗るのが当然なの」

またしても鼻息を荒くしながらみちしげ君は8本の線の下に1・2・3・4と番号を振っていく。
当然、彼は運任せのあみだくじでペア決めなんてするようなタイプではない。
適当に横や斜めに線を引いているように見えて、みちしげ君は、自分が狙った相手と同じ番号を引けるように画策していた。
狙いはもちろん、高所恐怖症で涙目になっている鞘師君である。
密閉空間でふたりきり、1周するのに10分もかかるため、上手くいけば、ヤりたい放題、なんでもオッケーなこのチャンスを、みちしげ君は待っていた。

―時代はシゲ鞘なの!さゆりほが案外受けているいまこそ、チャンスなの!りほりほのりほりほをしゅわしゅわぽんするの!

「さあ諸君!あみだくじをするが良いの!」

そうしてみちしげ君は今日はこの場に居ない石田亜佑美ちゃんもびっくりするほどの振り返りのキレの良さを見せつけた。
だが、中等部たちはそんな彼のことなど見向きもしない。それどころか円陣を組むようにしながら「あみだってメンドーじゃね?」などと言い出している。

「じゃんけんで良くね?」
「グーチョキパーで分かれる?」
「ちょ!ちょっと待つの中等部!」
「それじゃ3組だから、数字でやろうぜ。1・2・3・4でわかれまっしょでさ」
「その方が早そうだね」
「みちしげさん早くぅ〜」
「だから待つの!!これからあみだくじを」

「せーのっ!1・2・3・4でぇー、わっかれっまっしょー!!!」


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【工藤君と佐藤君の場合】

「わー、たっかぁい!」
「すげぇー。キラキラしてんなー」

ゆっくりとした速度で段々と高くなっていく箱の中で、ふたりは外の景色を眺めながらはしゃいでいた。
閉園間近の遊園地に人気は少なく、外もオレンジ色から薄暗くなりつつある。街の灯りが薄闇に映えて綺麗だった。

「まーの家見えるかなー?」
「んー、どうだろうなー。暗くて分かんねえや」
「ちちとははに、手振るって約束したのになー」

佐藤君は少しだけ寂しそうに唇を突き出して椅子に座った。軽く箱が揺れて工藤君も慌てて手すりに捉まり、向かい合う形で座った。
急に愁いを帯びた目をして、佐藤君は夜の街を観る。ホント、彼は急にスイッチが入るから困ると工藤君は思う。
幼馴染で、もう腐れ縁みたいな長い付き合いだから分かっているけれど、佐藤君はたまに大人っぽくなる。しかも瞬間的に。
そういうときって、だいたい彼のペースに呑まれると面倒だから放っておくのが良いことも、工藤君は分かっている。
とはいえ、大人びる瞬間の「佐藤君」は、普段のへらへらした「まーちゃん」とは程遠く、カッコ良くさえも思う。

「ねぇ、どぅー」
「なんだよ?」

ふいに、彼が話しかけてきた。声のトーンはまだ少し沈んだままで「大人モード」から脱していないようだった。
彼のペースに呑まれないように努めて普通に返すと、彼は少し言葉を探すように目を泳がせた。
虫を追うように目を彷徨わせ、また外を見る。暫くの無言のあと、「あのね」と声を出す。

「なに?」

急かすつもりはなかったけど、訊ねる。
佐藤君は真っ直ぐに、工藤君を射抜く。夜の街に匹敵するような深淵の瞳に呑まれそうになった。

「まーと、どぅーは、ともだち?」
「はぁ?いまさらなに言ってんだよ。友だちに決まってるだろ」
「うん。うん、分かってるんだけどさ……」

観覧車がゆっくりと頂上に向かって首を擡げる。佐藤君は前髪を弄り、困ったように視線を逸らす。
視線が段々と高くなっていくことを感じながら、工藤君は首の後ろを掻いた。
なにが言いたいのかよく分からない。分からないけど、やっぱり放っておけなくなる。もういちど、答えを急かそうか、悩んだ。

「このまえね、舞台、観たの」

悩みはすぐに解消された。佐藤君から言葉が放たれる。工藤君は「うん」と頷く。

「ちちとははとね、観にいったの。むずかしくて、途中、分かんなくなっちゃったとこもたくさんあったんだ」
「何の舞台、観たの?」
「ん、わすれちゃった。なんだっけ?タイトルが……えっと、ご、ご……ごともだち?だっけ?」
「なんだよそれ」

工藤君は苦笑しながら座り直した。
ずいぶんと視界が高くなる。夜は深くなり、遠くの街の灯りまで目に入る。綺麗だって、ホントに思った。
佐藤君はタイトルを思い出せないことが悔しいのか、「ごが、ごゆ、ご〜が?」と唸っている。工藤君は「で、その舞台がどうしたんだよ」とアシストした。

「あ、うん。それでね、ともだちの話だったの」
「へー。友だちが喧嘩でもすんの?」
「んー……途中にそんなこともあった。たくさんむずかしい言葉があって分かんなかったけど、でも、ホントのともだちってなんだろって、思ったよ」

佐藤君は「読解力も理解力も人より劣っている」とよくバカにされることがある。
工藤君もそんな彼に呆れることはあるけれど、それをカバーするだけの「感性」や「直感」があると思っている。
正直、彼の観た舞台の名前も内容もいまひとつ分からないけれど、なぜか工藤君は、佐藤君の言葉を遮れない。

「まーって迷惑じゃない?」
「はぁ?」
「よく迷子になるし、かてい…あ、被害妄想もするし、どぅーと喧嘩するし…どぅーに迷惑かけてないかなって…」

まあ彼の言うことは当たっている。さっきもトイレでチャックあげ忘れてたし、喧嘩して「どぅーと一生口聞かない!」って言われたことも何回あるっけ。
だけど、そんなことはどうでも良い。
そんなこと思い出して急に不安になってんだ。なんだよ、それ。まーちゃん、バカじゃないの?

「ここで問題です!チャラーン!」
「へ?」
「ハルがまーちゃんの面倒を見ているのはなぜでしょー!シンキングタイムは10秒!はい、イーチ、ニィー!」
「え。えっ、えぇ?!」

急にクイズを出してきた工藤君に佐藤君は慌てる。が、慌てても答えは出て来ない。
そもそもクイズを理解していないのかもしれない。無情にもシンキングタイムの10秒は過ぎ去り「終了〜!」というハスキーボイスが箱の中に響いた。

「正解は、ハルだからですっ」
「……はい?」
「だーかーらー、まーちゃんの面倒見るのはハルだって決めたから!ハルがしたいからそうしてんの!迷惑なんて思ってねえよ」

工藤君は頭を掻き毟りながら立ち上がる。
びくっと一瞬佐藤君は体を小さくするが、工藤君は意に介さずに彼の隣に座った。体重が片方に寄ったため、ガタンと箱が揺れる。

「まーちゃんの通訳はハルの役目だし。一生するって決めたんだよ」
「どぅー……」
「だってオレたちさ」

そうして工藤君は佐藤君の肩を引き寄せた。「わわっ!」と佐藤君はバランスを崩す。

「最強じゃん、ふたりなら」

その言葉は、夜の闇の中で綺麗に光った。街の灯りよりも眩しくて貴い言葉に、佐藤君は目を見開く。
工藤君はそんなことを言っている自分が急に恥ずかしくなったのか、「と、とにかく迷惑じゃねえし!」と肩を突き放して立ち上がった。

「なに言ってんだよまーちゃんバカじゃないの!あー、もうバカバカ!二度と言わねえし!!」

工藤君は顔から耳まで真っ赤に染め、言葉を短く切りながら窓から夜景を見つめた。
ちょうど、観覧車は頂上に達したようだ。そしてどんどん、視界は低くなる。オレたちの限界は、此処なのだろうか。此処までしか、届かないのだろうか。
そんなことを考えながら工藤君は「あ゛〜!」と声を発して向かい側に座ろうとすると、その腕を佐藤君に取られた。
彼はそのまま勢いよく引き戻され、「うわっ!」とまた隣に座る。ガタン!と大きく箱が揺れた。

「へへっ。どぅーありがと!」

佐藤君は工藤君の腕をしっかりと抱きしめて、いつもの子どものように笑いかけてきた。
そこには、大人びた憂いも、闇のような深淵もない。屈託なく笑う、夜には不似合いな太陽のような笑顔だった。
工藤君も「おう」と唇を突き出して不服そうな声を上げたが、悪い気はしなかった。

「さいきょーだね!ずっとずっとさ、ぐるぐる回って!」
「なんだよ、それ」
「えへへ、観覧車だよ。一周回って、また始まるんだよ。ずっと、ずっと」

佐藤君は「だから観覧車、好き!あ、どぅーも好きだよ!」と付け加えるように言った。
徐々に視界は下がる。箱はゆっくりと地面に向かう。一周回って、またイチから昇り始める。
ああ、なんだ。そうなんだよな、と工藤君は理解し、鼻で笑った。
到達点なんかじゃない。此処までしか行けないなんて思い込みだ。行けるんだ、何処までも。行こうと思えば、イチから始められるんだ。

「どぅーとまーはさいきょー!」

先ほどまで泣きそうに悩んでいた少年とは思えないほど、佐藤君はまたはしゃぎだした。
そんな彼に「うるせえ」と叱ろうかと思ったが、工藤君はやっぱりやめにしておいた。
ずっとずっと、通訳してやるよ。なんてったって、ハルはまーちゃんの、まーちゃんはハルの、大事な「親友」なんだからさ。



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【鞘師君と香音ちゃんの場合】

鞘師君は先ほどから「あぅ〜」だの「た、高いよぉ〜」だの「わっ、わ…あ〜」だの情けない言葉を吐いていた。
普段の強気でカッコ良いダンスマシーンは何処へやら。こんなのをクラスの女の子たちが見たら幻滅するのではないかと香音は思う。
いや、逆にギャップ萌えとか言ってまた人気を博すのかもしれない。面倒だな、もう。

「香音ちゃんは平気なんか?」
「窓の外の景色を楽しむくらいの余裕ならあるよ」
「すごいのぉ……」

鞘師君が困ったように肩を竦める姿を見ながら香音は笑った。
強気な彼も嫌いじゃないが、こうして情けなく首を垂れる彼も、嫌いじゃない。
そういえば、お化け屋敷もこの人嫌いだったっけと香音は思い出す。
大人びていて、余裕を振りまく姿が似合っているのに、こういう瞬間は意外と子どもっぽいんだよなと納得する。

「嫌いなもんは、ないんか?」
「へ?」
「苦手なもんとか、怖いなもん。香音ちゃんは強いなあっていつも思うけんのぉ」

急に前に座る鞘師君がそんなことを言ってきて、香音は少し考えた。
そういえば、小さいころからお化けが怖いとか、高いところが怖いとかを感じたことはない。
まあ率先していくタイプではなかったが、死ぬほど嫌です、ということもない。
「怖いもの」かぁ、と香音は少し考えた。視界は徐々に上がっていく。夜の闇が深まり、遠くの街の灯りが映える。だから夜は、嫌いじゃない。

「……たまに、人が、怖いよ」

香音はそう、ふいに口をついた。
なぜこんなことを言ったのか、自分でも分からなかったが、言葉は切なく、箱の中に浮かんでいった。

「人ってさ、なに考えてるか分かんないし、うん、怖いときもある、かな」

そう話す彼女の視線が一瞬だけ下がったことを、鞘師君は見逃さなかった。
そういえば、彼女はいちど、鞘師君の熱狂的なファンに囲まれて嫌な思いをしたことがある。
「なんで鞘師君といっしょにいるの?」とか「里保だって迷惑なんじゃない?」とか、相当ひどいことを言われたことがある。
鞘師君もその現場に居合わせて、すぐに香音の手を引いて逃げたけど、後悔していることがひとつある。

香音を庇ったけれど、ちゃんと言えないことがあった。
僕はそのとき、香音ちゃんへの想いを伝えられなかった―――
言えば、良かったんだ。僕が香音ちゃんを好きだから。僕が好きだからいっしょに居るんだって、ハッキリ言えば良かった。
それなのに、「お前たちより」って妙な前置詞をつけたから、話がややこしくなった。想いがちゃんと伝わらなかった。
香音は気にしてないって笑ったけど、本当にそうなんだろうか?本当はもっと、傷ついていたんじゃないのか?
僕の知らないところで、香音ちゃんはもっとツラい思いを抱えていたんじゃないのか?

「アハハ、ごめん、変なこと言っちゃった。あ、ほら、スカイツリーが見えるよ!」

思考にハマり、言葉を発せなかった鞘師君を気遣い、香音はムリに言葉を紡いだ。
闇の向こう、去年新しくできた電波塔が光り輝いて見えた。だがそれがどんなに輝いていたところで、いまの鞘師君の心は晴れない。
どうして、どうして香音がこれほど傷つく必要がある?どうしてこんなに優しい女の子が、心無い言葉を受ける必要がある。
どうして、どうして、どうして、香音の本当の良さが、皆に伝わらないんだろう?

「僕だけじゃ、ダメかの?」
「えっ…?」
「香音ちゃんがだれになにを言われても、僕だけは、香音ちゃんの良いところ、たくさん知っとーんじゃ」

鞘師君はそうして顔を上げ、香音と目を合わせた。
あの日の香音は、哀しい色は全く持たない屈託のない笑顔で鞘師君を真っ直ぐに射抜いていた。
どうしようもない強さが、なにかのきっかけで折れてしまわないかとか、その笑顔が曇ってしまわないだろうかとか、たまに怖くなる。
だから、その強さを自分も持ちたいし、香音の笑顔を曇らせたくないってそう思った。

「里保ちゃん、急にどうしたの?」

香音は困ったように笑った。
ああ、私のせいだ。私が急に変なこと言ったから、里保ちゃんが気を遣ってくれてる。この面倒くさい幼馴染が、珍しい。
いいよ、そんなことしなくても。そんなことしなくていいからさ、いつもみたいに、バカみたいに、笑ってよ。

「………僕はっ」

だが、香音の想いとは裏腹に、鞘師君は真っ直ぐに彼女を捉えた。
女の子に振りまく笑顔でも、華麗にステップを踏むときに見せる大人びた表情でもない。
優しくて、だけど何処か苦しくて切ない瞳で、鞘師君は見つめる。微かに震えた唇が、なにかを語ろうとしていた。
観覧車はゆっくりと頂上へと向かって動く。
静寂が箱を支配する。ふと、ガタンガタン!と派手に箱が揺れる音がした。直後に男の子の騒ぐ声がする。
ああ、これは間違いなく工藤君と佐藤君だと香音は気付いた。あのやんちゃ坊主め。うるさいなあ。

「僕は、香音ちゃんが―――」

そんなやんちゃ坊主たちの声を遮るように、鞘師君は言葉を発した。
遠くで電波塔の灯りが煌めく。夜の闇は静寂を広げ、微かな物音だけが響く。
香音の心音は徐々に高鳴り、脳内を支配する。この音は、本当に自分にしか聞こえていないのだろうか。
トクン・トクンと早めに脈を打つ。どうしよう。どうしよう。なに、どうしたらいいの私?

鞘師君は立ち上がった。
箱がまた揺れる。香音はびくっと体を震わせる。
一歩、鞘師君は香音に近づき、腕を伸ばした。丁度、頬の高さあたりだ。
まさか、まさか、まさかこの展開は―――!?と香音は一瞬でさまざまなことを考えた。
春菜から借りた漫画で見たことがある。だいたいこのあとの展開としては、男が頬に手をかけて口付けるものだ。
ま、まさか、ここで、ホントに?私と、里保ちゃんが?!き、き、くち、ちゅ……えええええええ!!?
りりりりり里保ちゃん!!私たちまだ中学2年生の14歳で、そういうことはもっと大人になってからなんだろうね!!!

「あ〜れ〜は〜……!」

目を閉じた香音の耳元で聞こえてきたのは、何処か怒気を含んだ鞘師君の声だった。
恐る恐る目を開けると、鞘師君の腕は香音の頬や顎を通り過ぎ、香音の背後にあるガラスにぴったりと貼り付いていた。
「ん?」と不思議に思った香音は、鞘師君の視線の先を追う。そこには、香音たちの隣の観覧車に乗った生田君と聖の姿があった。
ふたりの表情はよく見えないが、箱に並んで座り、その手が握られていることは分かる。
そして、ふたりの距離は初々しい「恋人」に相応しく、少しだけ、いつもより近いのだ。

「えりぽんめぇ……確かにフクちゃんは譲ってやったんじゃが、キスなんてぜってぇ許さんけぇのぉ……!」

香音の中で、さーっと波が引いていくのが分かった。ひくひくと眉間に皺が寄る。
ああ、そうですか。あれだけ期待させておいて、結局は聖ちゃんですか。私の名前呼んでおいて結局はPONPONコンビに嫉妬ですか。
え。ドキドキ?し、してないんだろうね!なに言ってるんだろうね!バカじゃない!?ていうかだれに話しかけてるんだ私は!!

「観覧車から降りたら真っ先に殴り掛かって………んんっ!?」

未だに生田君と聖を見ている鞘師君の背後に香音は回り込んだ。そして後ろから首に腕を回す。
一瞬、鞘師君は、彼女らしからぬその行為にドキッとした。
わあ、香音ちゃんとっても大胆じゃのぉ、なんてにやけそうになったのも束の間、直後に首が絞まり始めたことに気付いた。

「こらこら、嫉妬は醜いものなんだろうね」
「ちょちょちょ…ま、待って香音ちゃ……く、く、首絞まって……」
「高所恐怖症のくせによく下なんか見てられるねー。克服したんじゃない?」
「こ…く……く、び……」

ギリギリギリギリと香音は鞘師君の首をしっかりと固定して絞め上げる。
柔道家やプロレスラーもびっくりのチョークスリーパーをかけられ、鞘師君は彼女の腕をなんどか叩いてギブを訴える。
そんな彼は、自らの背中に確かに柔らかいものが当たっている感触を覚えていた。
この苦しみの前でそんなものを感じる余裕があるあたり、変態というかアホというか、女の子大好きな彼らしいと言える。

「ホントにキミはバカなんだろうねっ!」

ああ、こうやって香音ちゃんの胸を感じられるなら首を絞めらるのも悪くないかのぉ、と彼が心の底で思ったことを香音はもちろん知らない。
今日の彼の変態性やM疑惑は実は此処から始まったのである(嘘)
とはいえ、頸部を圧迫されて段々と自分の意識は遠ざかっていく。

「ま、まっ…なん……か、かのっ、……」

観覧車は頂上をゆっくりと通過し、段々と下へ降り始めた。
果たしてこのあと、鞘師君が「落ちた」のか、それとも香音が鞘師君を解放したのかは不明である。
ただし、いずれにせよ先ほどまで一瞬だけ流れていた良い雰囲気が消え去ったことは事実であった。
そして観覧車から降りたとき、香音がいつものような笑顔を取り戻したこともやはり事実なのだが、鞘師君はそんなこと、気付かない。



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【生田君と聖ちゃんの場合】

生田君の心中は、喜びと興奮と、そして戸惑いと困惑と、複雑なものだった。
つい先ほどのチーム分けで見事に聖とペアを組めたことは嬉しかった。
告白とキス以来、初めてのふたりきりのシーンだ。しかも此処は密閉空間。1周10分もかかる箱の中である。
だが、逆に言えば、10分もの間、彼女とどうやって過ごせば良いのか、分からなくもなる。
最近は「肉食系男子」とかが流行っているらしいが、聖はそんな男に興味はない。
あまりがっついて引かれてしまっては元も子もないし、とはいえなにもしないでいるのも「ヘタレ」みたいでイヤだ。
聖がなにを求めているのかも分からないのだが、そもそも聖は「そういうこと」をしたいのだろうか。

考えれば考えるほど深みにハマり、結果、せっかくのふたりきりの空間は沈黙が流れた。
沈黙が苦にならない関係性は良好だとよく言うが、いまは状況が違う。この沈黙はあまりにも痛すぎる。
生田君はなにか話さなくてはと口を開けるのだが、喉に言葉がへばり付いて届かない。いつもは聞かれてないくせにぺらぺら話すくせに、情けない。

「えりぽん」

そんな彼の苦悩を知ってか知らずか、聖は彼の名を呼んだ。
生田君はそれで漸く「ひゃいっ!」と言葉を出せた。裏返った声に聖は目を丸くするが、やがてクスッと笑って話し出す。

「何年振りだろうね、観覧車って」
「へ?あ、あー……そういや遊園地行っても、あんま乗らんかも」
「なんで?高いところ苦手?」
「いや…絶叫系も得意じゃないっちゃけど、こういうゆっくりしたのは、楽しみ方が分からんくて」
「フフ、なんかそういうの、えりぽんらしいね。せっかちでさ」

聖の笑顔につられるように生田君も笑った。あ、良かった。ちゃんと喋れるやん。なんか変に意識するとダメっちゃね。
でも、意識すんなって方がムリやろ。だって、だって―――

「わー。ずいぶん高くなったねー」

向かいに座る聖は窓の外を目を細めて眺めた。
夜に呑まれた街に灯りが広がる。「100万ドルの夜景」、なんてオシャレなものではないけれど、単純に綺麗だって思った。
そんな夜景を嬉しそうに眺める聖が、好きだって思った。
小さいころからずっといっしょに居て、隣で笑っていることが当たり前で、気付けばずっとふたりで歩いてて。
いつの間にか、「好き」という感情は「護りたい」って想いに変わって、姫のための王子のように気取りたかった。
結局、王子にはなれなかったけど、それでも姫は目の前にいて、嬉しそうに笑っている。

「えりぽん、疲れちゃった?」
「えっ……あ、いや、そういうことじゃなくて」

また思考の海の中に沈みこんだ生田君を、聖は心配そうに覗き込んだ。
なにやってるっちゃオレ、とため息をついた生田君に対し、「……そっち、行っても良い?」と彼女は声をかけた。
その言葉を即座に理解した生田君は「ひぇ?!」と声を上げた。

「あ、ごめん…冗談、冗談」

生田君の反応を見て迷惑だと解釈したのか、聖は少しだけ肩を落とし、座り直した。
箱は徐々に徐々に上っていく。外の夜景が奥へ奥へと広がっていく。呑まれそうな闇もまた、静かに深まっていった。

「いや、ぜんぜんっ!いい、けど。あ、つか、オレがそっち行く」
「え?」

そんな彼女を見て、今度は生田君が立ち上がった。
心配をかけているうえに誤解されているなんて、男として情けなすぎる。
落ち着け生田衣梨奈。いつも通りで良いっちゃ。「恋人」とか考えるからおかしくなると。聖は、聖っちゃ。

「と、隣、座って良か?」

彼女に確認を取ると、ゆっくりだが、しっかりと頷いた。生田君はそれを確認し、座る。
箱が重みで微かに傾く。隣同士、といっても聖と生田君との間にはバスケットボールがひとつ入りそうなほどの距離がある。
ああ、このヘタレめと情けなくなるが、脚が震えていてどうしようもなかった。
心臓も先ほどからあり得ないくらいに高鳴っていて、汗も尋常じゃないくらいかいていて、なんだか自分の体じゃないみたいだった。
なぜだろう。いったいなにが、オレは怖いんだろう?

「あのさ……」
「うん」
「今日のって、現実、やとよね?」

唐突に浮いた言葉に、聖はきょとんとした。言葉を発した生田君もまた、なにを言っているのだろうと慌てて「いや、あのっ」としどろもどろになった。
その姿を見て、聖はなんとなく、彼の気持ちを察した。
そうだね、今日はたくさんのことがありすぎたよ。ちょっと、「普通」じゃなかったもんねというように柔らかく笑うと、聖はバスケットボールひとつ分の距離を詰めた。
彼女のスカートが微かに生田君のジーパンに触れたのを感じる。直後、柔らかな温もりが右手に降りてきた。
手に重ねられた彼女の細い指先に顔を上げた。飛び込んできたのは、聖の真っ直ぐで優しい笑顔だった。

「この手は、夢?」
「えっ……?」
「聖のこの手も、目も、声も、夢なの?」

カタンと箱が揺れる。熱い視線を感じる。それが聖のもの以外にもうひとつあることに、生田君は気付かない。
いま、生田君の“世界”は聖だけだった。重なった手の温もりも、優しくて何処か切ない笑顔も、熱く突き刺さるようなその瞳も、全部、本物だった。
聖は右手を彼の頬へと滑らせた。細くて長い指先で、軽く爪痕を残すように頬を掻き、唇へと滑らせる。その仕草に、ぞくぞくする。

「私、キス、したんだよ?」

聖の細い人差し指が生田君の唇に触れると、箱は頂上へたどり着いた。
一瞬の静寂のあと、聖の体を引き寄せた。ただ純粋に、心が反応した。ただ聖を、抱きしめたかった。
その温もりを全身で確かめて、いまある“世界”を確信に変えたかった。
聖もまた、「えりぽん…」と名を呼んで背中に腕を回す。彼女の温もりが恋しい。彼女の香りが恋しい。彼女の声が恋しい。そのすべてが、愛しい。

「ごめん……なんか、頭混乱しとって…なんていうとかいな……ホントにオレなんかで良いとかいなって…だから、聖は……」

ふいに想いを吐き出した生田君は、そこで漸く気付いた。
ああ、オレが怖かったのは、付き合えたことが夢だったことじゃなくて、これからどうしていけば良いのか分からないことが怖かったっちゃ。
普通の幼馴染がだったふたりが、「恋人」という関係に一歩前進したというそれだけで、こんなにもオレは憶病になった。
人は、大きなシアワセを手に入れるとき、なぜか足踏みするのだと、なにかの本で読んだことがある。
それは、シアワセの中に隠れている小さな不安ばかりが目についてしまうからなのかもしれない。

「えりぽんだから、良いんだよ」

そんな生田君の不安をすべて包み込むように、聖は彼を抱きしめ返す。背中に回った腕の力が少しだけ強くなる。
箱がまた微かに揺れ、下へと降りていく。夜景がまた狭くなっていくが、そんなこと、生田君の目には入らない。
「聖はね」と彼女はゆっくりと彼の耳元で囁く。甘い吐息が耳に触れてぞくっとした。

「えりぽんじゃないと、イヤだよ」
「聖……」
「えりぽんは、聖で、良いの?」

静寂の中で、ふたりの微かな吐息が“世界”に満ちる。
いまにも破裂しそうな心臓がうるさいくらいに音を奏でて吐息の邪魔をするが、生田君にはどうでも良かった。
すーっと息を吸うと、聖の甘い香りが肺に入ってきた。吐くのは惜しかったけど、自然と深呼吸をした。

「衣梨奈は、聖が好き。聖じゃないと、ダメやから」

生田君がしっかりとそう伝えると、彼女は嬉しそうに笑い、彼の肩に顎を乗せた。
聖の髪を梳くと、彼女はくすぐったそうに体を捩った。吐息が触れるように、彼女の柔らかい胸が自分の胸部に触れる。
とくん、と微かに聖の拍動を感じた、気がした。なんだかそれが、嬉しかった。

「えりぽん」
「うん?」
「フフ、大好きだよ、えりぽん」

カタン、カタンと箱は揺れる。ずっとこうしていたい。もう少しだけで良いから、このままでいたい。
そんなふたりのささやかな願いは叶わず、観覧車はゆっくりと下へ降りていく。
はにかむように笑いながら体を離し、見つめ合う。静寂の中、良い雰囲気ではあったものの、キスなんて到底できそうになかった。
だけど観覧車が地上に降りるそのときまで、ふたりは互いの手を離さなかった。



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【みちしげ君と飯窪さんの場合】

みちしげ君は深く深くため息をついた。なぜよりによってペアがこいつなのだろう。
自分のあみだくじがうまくいかないばかりか、この破滅的な運のなさを呪った。

「あーっ、観て下さい、凄く綺麗ですよ!」

同乗することになった春菜はまるで子どものように窓の外を指差した。
徐々に高さを増す観覧車から見える夜景は確かに綺麗だが、お世辞にも「100万ドルの夜景」なんて形容できるものではない。
みちしげ君ははぁとため息をつき「安っちくない?」と切り出した。

「飯窪財閥の娘となれば、もっと良い夜景観てるでしょ?」
「そんなことはありませんよ」
「視察の帰りに、長崎とか、あとは香港とかだったらいくらでも観れるでしょ」

実際、みちしげ君がそうだった。日本や世界各地を飛び回るなかで、多くの土地や風景を見てきた。
「夜景」もそのひとつで、此処で見ているものとは比べ物にならないほどの美しさをみちしげ君は知っていた。

「うーん、でも、好きな人といっしょに観られる夜景は特別ですよ」
「え?」
「みちしげさんと観られるのなら、どんな夜景でも私にとっては特別なんです」

彼女はまるでそれが教科書に載っているほどの世界の法則のように話した。
その思考はみちしげ君の想像の斜め上を行き、とても予測がつかないものだった。
まるでファンタジーで、まるでSFで、下手な小説の一節に乗りそうなほど陳腐でありながら、みちしげ君は思わず笑った。

「やっぱ飯窪財閥の考えることは分かんないよ。あんた、不思議っ子ってよく言われなかった?」
「そうでしょうか。私は至って普通ですよ。ちょっとだけ、ワガママですけど」
「へぇ、ワガママ、ねぇ」

みちしげ君はポケットに突っ込んでいた両手を頭の後ろに回し、座席に深く腰掛け直した。
当主の座に就く者は、往々にしてワガママであることが多い。自分の手に入れたいもののために部下を顎で使い、容赦なくその首を斬る。
だが、目の前に座る飯窪財閥の次期当主は、とてもそんな風には見えない。やっぱり飯窪春菜という人間が、みちしげ君には掴めない。

「敵対財閥の当主に恋するなんて、変わってるの」
「そうですか?好きという気持ちは抑えられません、仕方ないんですよ」
「でも、さゆみといっしょになるためには、自分の財閥なんて捨てる覚悟あるんでしょうね?」

箱が静かに中空に浮かぶ。
遠くの方でやんちゃ坊主たちの声や苦しみに悶える声が聞こえた気がしたが、ふたりの乗った箱の中には静寂が流れる。

「いえ、私は飯窪財閥を捨てることはできません」

予想外の答えが返ってきたことにみちしげ君は眉を顰めた。
春菜は真っ直ぐにみちしげ君を見つめ、「私はワガママなんです」と言葉を紡ぐ。

「ワガママで、そう、欲しいものは手に入れたいです。だから、もしみちしげさんといっしょになれることがあっても、飯窪財閥を捨てることはありません」
「それは…」
「天秤になんてかけられません。私には両方大切ですから。だから、護ります、両方を」
「……ムチャクチャなの」
「ウフフ、私ワガママですから」

それはずいぶんと強欲なものだとみちしげ君は肩を竦めた。
同時に、意外だと思った。恋する気持ちは抑えられないと少女漫画のように語る彼女が、自らの立ち位置をしっかりと理解し、部下を捨てないということが。
彼女の見せた笑顔は、確かに財閥当主の器を備えたものだった。
なるほど、彼女の言うワガママとは、一種の信念のようなものなのだなとみちしげ君は理解する。

「みちしげさんも、そうでしょう?」
「なにが?」
「先日のパーティーみちしげさんは家を捨てないとおっしゃいました。でも、きっと、好きな人も諦めないのでは?」

そういえば、先日行われたみちしげ君のバースデーパーティーでそんなことを言った気がする。
その後に付け足された「好きな人を諦めない」というのは、完全に春菜の憶測でしかないが。
但し、それを真っ直ぐな瞳で疑いもなく話す春菜に対し、みちしげ君は肩を竦めて笑うしかなかった。
なぜだろう。普段の彼ならば「キモいの」とでも言って一蹴すれば良いだけなのに、なぜか無下に扱えない。ある意味で、今日は彼女に白旗を掲げてしまっていた。
だが、それでも悪くないと思う。春菜が好きとか嫌いとか、そういう問題ではない。
ただ彼女の黒曜石のような瞳が、まるで観覧車から見える「100万ドルの夜景」のように見えたからだろうか。

「あんた、すっげぇムカつくの」
「キャッ、目の前でムカつくなんて言われちゃいました!大興奮です」
「ホントにド変態」
「イヤ〜。みちしげさんからそんな言葉が聞けるなんて萌えですね!」

照れたように両手を頬に当て、体をくねらせる春菜を、みちしげ君は心底キモいと思った。
観覧車は少しずつ上昇していく。
ああ、もうすぐ頂上かと知ったみちしげ君は「コンコン」と自分の座席を叩いた。春菜は体をくねらせるのをやめてきょとんとする。

「隣に座るの」
「はい………って、ええええええ!?い、い、いまなんと!?」
「だから早くするの、面倒くさい」

そう言うとみちしげ君は腕組みをして憮然とした態度で座り直す。
言われた春菜はといえば、彼の言葉を必死に噛み砕いて理解しようとするが、額面通りにしか受け入れられない。
あたふたとする彼女を見ながらみちしげ君は楽しそうに、だけど実に悪そうに笑って立ち上がった。

「じゃあさゆみがそっちに行くの」
「えっえ、ええええええ、ダメですよぉ!」
「うっさいの。さゆみがそっとに行くって言ってるんだから行くの」

目の前でブンブンと大きく手を振る春菜をよそに、みちしげ君は強引に隣に腰を下ろした。
ガクンと激しく箱が揺れ、春菜は「わわわわ!」と慌て、窓際まで逃げる。が、みちしげ君はさらにその距離を詰めてきた。
ふたりの間に隔てるものはなにもない。この距離は、ただの友だちのそれではない。

「好きなんでしょ?」
「はっ、はっ、はいぃぃ?」

春菜の高い声は先ほどから上擦ってばかりだった。想いを寄せる人物が自分のすぐ隣に座ればそうなるのもムリはない。
しかもその人物は、普段なら絶対にこんな行為をしないので尚更だ。なにが起きているのか、これが現実なのか、春菜にはうまく理解できない。
そんな彼女の動揺をよそに、みちしげ君は大股を開いて座り直し、垂れた前髪をかき上げた。

「頂上に辿り着いたら、告白しても良いよ」

彼の言葉に、春菜は目を見開いた。

「な、なんてことをおっしゃるんですか!」

クスッとみちしげ君は笑う。いつも以上に大きくなった春菜の目には、道重財閥の当主が映る。
静かに箱が上っていく。あと1分足らずで、頂上へと辿り着く。夜景が広がる。闇の海に浮かんだ光が頼りなくも美しい。
春菜はパニックを静めようとなんどか深呼吸を繰り返すが、みちしげ君の瞳から、逃れられない。逸らせないのか、逸らしたくないのか、判別できない。
喧しく鳴り響く心臓の音がみちしげ君に聞かれていないか心配だった。それがどれだけ無意味なのかも、分かっていたけれど。

みちしげ君は相変わらず笑ったままで、なにも言わない。
彼の瞳に吸い込まれそうで、なにも言えなくなる。
春菜は観念したように、リンゴのように染まった頬を抑えるようにして顔を伏せた。

「―――ムリ、ですよぉ」

そのとき、観覧車はゆっくりと、頂上を通過した。
みちしげ君はそれを確認してから立ち上がり、彼女の向かいに座り直した。
春菜は火照った顔を冷ますように手を振り、風を送る。これもまた、無意味な行動だと分かっていた。
カタカタと小さく震える彼女をみちしげ君は笑いながら見ていた。

「さゆみの勝ちなの」

そう呟いたみちしげ君は満足そうに腕を組み、夜景を眺めた。
安っぽい夜景も今日は悪くないの、と前髪をかき上げる。箱はゆっくりと地上へと降りていった。





10年越しの恋に口づけをのつづき おわり
 

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